『愛情』  1  朝起きて庭に出てみると、そこには大きな鴉の死体が転がっていた。  いつもの庭にあって、それは場違いな存在だった。見慣れた絵の中に唐突に存在する 黒い染み。だが、そのわずかな染みは、絵全体の調和を決定的に破壊する。  ただの死体ではなかった。首がおかしな方向に捻じ曲がっている。空を飛んでいて 心臓発作になったなどという呑気な死ではない。猫や犬にかみ殺されたというわけでも ない。もっと大きな力で、捻り殺されたのだ。  鴉の死体は重さ十キロにも満たないはずだ。だがその黒い塊の存在は、何倍もの重量 を伴って私の心に重くのしかかった。  ――一体、誰が?  しっかりと言葉にして、心の中で呟いてみる。だが、呟いた時には犯人の顔は頭に 浮かんでいた。  ――とうとう、来てしまったのか。  庭は、高い石塀を挟んで表通りに面している。この塀を乗り越えて庭に入り、鴉の 死体を置いていこうと思えば出来る。また、塀の向こうから死体を投げ入れることも 出来るだろう。だが、そんなことをして何の意味があるのだろう?  私は、今出てきたばかりの家のほうを振り返った。頭に浮かんでいたのは、妻の やつれた表情だった。  妻の精神は、明らかに失調を来たしている。眠れない夜もあるようだ。そして、 起きれない朝もあるようだ。私が「ゴミ捨て場の周りに鴉が集まって嫌だ」という 話をした時、妻は激しくかぶりを振って同意をしていた。 「あんな汚い鳥、この世からいなくなればいい」  過激な口調で喋る妻の目には、異常とも思える憎悪が宿っていた。  私も鴉は嫌いだった。ゴミ捨て場の袋の山を、何を考えているのか判らない目で じっと見据える鴉たち。一度、頭に来たのでそいつらを強く追っ払ったことがある。 一度は逃げた鴉だが、すぐに舞い戻ってきてまたあの目でゴミの山を見つめるのだ。 思い出すだけで反吐が出そうだ。だが、そんな嫌悪が生易しく思えるほど、あの時の 妻の目は怒りに満ちていた。  ふと思考が中断し、我に帰る。その時、塀の上に何かがいることに気づいた。猫 だった。  近所でよく見る野良猫だ。卑しい猫だった。人がスーパーの袋をぶら下げて歩いて いると、物欲しそうな目で寄ってくる。そして、今その猫は、鴉の死体をハイエナの ような表情で見つめている。 「シッ!」  鋭く歯を鳴らすと、猫は慌てて逃げ去った。  私は、鴉を埋めることにした。  2  それから数日間は、特に何もなく過ぎていった。  妻の精神状態はよさそうだ。私が鴉の死体を見つけた日も、特に問題はなかった。 問題はないどころか、いつもよりむしろ快活なほどだった。あの日、家に戻ると妻は 既に起きていて、朝御飯に食べるお粥を炊いていた。鴉の墓穴を掘って土まみれに なった私の手を見て、 「どうしたの?」  などと気のない問いかけをしてきた。答えは適当にはぐらかした。  妻の精神状態がおかしくなりだしたのは、ここ一年のことだった。  原因と思われることは色々あるが、決定打になったのは子供を流産したことだろう。 それだけではなく、もう子供を産めない体になってしまった。  子宮の病気。長ったらしい病名は覚えているが、本当に合っているかどうかは自信が ない。医師から宣告をされた時、私は妻と同席していた。私は子供が欲しかったが、 妻はそれ以上に欲しかったようだ。彼女の落胆振りは見ていて痛ましいほどだった。  そしてその直後、妻の母親が車に撥ねられて他界した。飛び出した側が悪いという、 運転手を責められない事故だった。怒りをぶつける先のない不条理が二度も身の上に 起きた妻。  思えば、彼女の様子がおかしくなりだしたのはその辺りからだった。ふと気がつくと、 料理の手をとめてじっと包丁を見つめていたことがあった。かと思うと、細切れの豚肉 を前に突如吐き気を催し、流し台に向かって延々と戻し続けたこともあった。夜、眠れず に何度も何度も求めてきたかと思うと、朝布団から起き上がれず、一日そのまま眠り続け ていたことがあった。  本来、私が支えてあげなければいけないのかもしれない。だが、今の仕事量をこなし ながら二十四時間妻をケアし続けるのは不可能だった。妻のことを重荷と感じたことも 一度や二度ではない。だが、見捨てるわけにはいかない。こうなってしまった以上、 出来るだけのことはしなければならないのだ。  機嫌のよさそうな妻の顔を見る時、私はふと、庭の片隅に埋めてある鴉のことに思いを 寄せる。あんなゴミのような価値しかない生き物の命一匹で妻の調子がよくなるのなら、 それでもいいのかもしれない。死体は深く埋めた。何も問題あるまい。  やがて、そんなことも忘れかけていた、ある朝。  庭に出ると、そこには猫の死体が転がっていた。  3  いつぞや、鴉の死体を美味しそうに眺めていた猫だった。首がおかしな方向に曲がって いる。この犯人は、首を捻るのが好きな人間のようだ……呑気にそんなことを考えた。  例えば道端でこの猫が死んでいたとすれば、嫌いな猫が死んでよかった……などと思え たかもしれない。だが、ここは私の庭だった。とてもそんな感情を持てるものではない。 しかも犯人は……。  妻の顔が脳裏をよぎる。かぶりを降り、想像を振り切る。私は猫の死体をとりあえず 庭の片隅に移動し、すぐに家の中に入った。  妻とは別の寝室で眠っている。私はそのドアの前に立った。息を殺す。向こうの気配を 探る。  妻は薄いドアの向こうで何をしているのだろうか。その顔に浮かぶのは、高揚感だろう か。罪悪感だろうか。案外、何も特別な表情を浮かべていないかもしれない。どんな顔を しているにせよ、私は今妻の顔を見たら多分震え上がることになるだろう。  勇気がなかった。ドアを開ける勇気が。後から思えば、この時にドアを開けておく べきだったのだ。開けて、妻の姿を見ておくべきだった。だが、私はドアを開けるのが 怖かった。妻の顔を見るのが怖かった。  数分扉の前で逡巡し、私は踵を返した。猫の死体を埋めなければいけない。  4  それから私は、庭へ出る前に妻の寝息を確認するのを日課とすることにした。  ドアの前に立つ。ゆっくりと耳をつけると、奥からかすかな寝息が聞こえてくる。 その音を聞いてから庭に出ると、そこにはいつもの庭が広がっている。それに至り、 私はようやく胸を撫で下ろす。心の安息を得るための儀式のようなものだった。  猫が死んだ日から、妻はますます元気になったようだ。気のせいか、血色よく見える ようになった。これは完全に気のせいだろうが、作る料理も美味しくなった……気がする。  放っておいてあげるのが妻のためなのかもしれない。寝息など探らず、いつも通り庭に 出て、何かの死体を見つけたら埋めてあげる。それが夫の役割なのかもしれない。だが、 そう割り切るには、私は妻のことが恐ろしすぎた。鴉、猫と来たら次はなんだろう。 犬だろうか。その次は……。  ひょっとしたら私は、妻の寝息を探ることで、私が妻を疑っていることに気づいて もらいたかったのかも知れない。これ以上犯行をエスカレートさせないようにと、監視 しているのだぞということを悟ってもらいたかったのかもしれない。そうすれば何食わぬ 顔で生活を続けられる。そんなことを願っていたのかもしれない。  勇気。そう、私には勇気がなかったのだ。妻を問いただす勇気。妻を受け止める勇気。 勇気がないからこそ、願いというにはあまりにも薄い願望にしがみついていた。  だが、そんな薄いガラスのような願望は、来るときが来れば簡単に壊れるのだ。その朝 は、唐突にやってきた。  5  いつも通り、ドアの前に立って妻の寝息を探る。静かな呼吸の音が向こうから聞こえて くる。いつも通りの儀式。だが、その朝、ドアの向こうからは何の音も聞こえてこなかっ た。  背筋に冷たい汗が走る。数秒間迷い、もう一度耳をつける。やはりドアの向こうからは 寝息は聞こえない。  私はゆっくりとドアを開けた。廊下に溜まっている薄い日光が、電気の消えた暗い部屋 に差し込む。  ベッドはもぬけの殻だった。  慌てるなというほうが無理だが、出来るだけ音を立てずにドアを閉めた。私はとりあえ ず他の部屋を探してみることにした。私の寝室、台所、トイレ。妻はどこにもいなかった。  庭に向かうべきなのかもしれない。いや、明確に向かうべきなのだろう。だが、私の足 は重かった。何かの首を捻っている妻と鉢合わせをするのは怖い。妻が何かを殺している という事実を知るのは、別に怖くはなく、何かを殺している時の妻の表情を見るのが怖か った。  だが、どこかで歯止めをかけておかないといけないのは確かなのだ。  それは勇気というにはあまりに下賎な感情だった。打算や恐怖といった不純物の入り混 じった勇気。だが、ここで何とかしなければ、きっともっと大変なことになるという確信 があった。何にせよ、ここまで引き伸ばしてきたことの付けを、ここで払わなければいけ ない。私は始めて、妻ときちんと向かい合おうと思った。  ため息をひとつ吐く。気持ちの緒を固く縛る。私は外へ続くドアを開け、庭に出た。  6  庭に出る。私の眼前に広がっている光景は、犬の死体を前に、恍惚の表情で佇んでいる 妻――。  私が予想していたのは、そんな光景だった。犬の首は、当然あらぬ方向に捻じ曲がって いる。  だが、そこには妻はいなかった。また、犬の死体などはなかった。  私を出迎えたのは、いつもの庭だった。 「なんで……?」  思わず呟いていた。心に秘めた小さな決意は、行き場をなくして私の中で石になった。  妻が部屋にいない。外で何かをくびり殺している。そのはずだった。だが、目の前には 何もない。  しばし呆然とする。そこで私は、重大なことに気づいた。  ――妻はどこへ行ったんだ?  部屋には確かにいなかった。それは間違いない。家の中にいるのだろうか。だが、家の 中はあらかた探したはずだ。見落とすはずなどない。  私は、ひょっとすると何か思い違いをしているのかもしれない――。  私の背筋を、ひと際冷たいものが落ち下る。  今までの事件を思い出してみる。鴉の死体。猫の死体。精神が不安定な妻が、庭に入っ てきたそれらを殺し、命を奪う代わりに精神の安息を得る。私はそういう事件だとばかり 思い、疑わなかった。  だが、そうではないのだったら?  思い出す。  鴉を庭で殺したとしたら、もっと羽が飛び散っているべきではないのか? 庭は綺麗 だった。鴉の死体は場違いにぽつんと置いてあった。  猫を庭で殺したら、物凄い悲鳴が聞こえるはずではないのか? 何も聞こえなかった。 あの日は、普通に目覚め、庭に出ると死体が転がっていたのだ。  彼らが、この庭で殺されたのではないとしたら?  私は目の前の高い石塀を見上げた。誰かが彼らを殺し、塀の上から投げ込んだ。嫌がら せにしては手が込んでいる。だが、嫌がらせではないのだとしたら? 私は鴉が嫌いだ。 あの猫も嫌いだ。それを誰かが排除してくれたのだとしたら? そして、排除したことを 知って欲しかったのだとしたら? その感情は悪意ではない、それは……。  その瞬間だった。塀の向こうから、半ば転がるようにして何かが投げ込まれた。  それは首の捻じ曲がった、妻の死体だった。 ***************************** Trauermarsch http://red.ribbon.to/~kiriko/ *****************************