■滅びの国■



−prologue(1)−



 雲ひとつない、真っ青な空。
 穏やかな風に揺れる緑の木々。
 街を見下ろせば、活気溢れる賑わいを絶え間なく感じられる。
 街の外に広がる森林は瑞々しく、心地よい緑の匂いを街に運んでくる。
 特に、この日はそれが顕著だ。
 降り注ぐ太陽の光を浴びて、この世界に存在するもの全てが輝いて見える――、今日この日に相応しい光景に、国中は湧き立っていた。



(――まったく、気が重い)
 そんな周囲の陽気さとは裏腹に、今日の主役であるはずの青年は、椅子に身体を預け、深々と溜息をついていた。
 人々の浮かれた様子や喧噪が、青年の居る部屋からでも十分に窺える。
 その事自体は良い。
 ――ヴァリスタ王国、第21代国王の戴冠式。
 それが今、国中を湧かせているのは無理からぬことだと、新国王となる青年とて承知しているのだから。
 ヴァリスタの歴代の国王は、建国当時より善政をしいてきたことで諸国でも有名だ。
 数ある国の中でも、20代800年近くにも渡って災害にも見舞われず戦争もせずに存続できた国はこのヴァリスタ以外にはない。
 それだけに国民の王家に対する信頼・尊敬は並のものではなく、王が退位する時はそれを惜しみ感謝を捧げ、新国王の戴冠には国をあげての式典となる。そう、今のこの陽気のように。
 生まれた時から次期国王として育てられた青年自身、そのことに対する不満はないし、国と民を護り慈しむ善き王であれるよう務める覚悟でいる。
 青年の溜息の原因は、そのこととは別にあった。
 戴冠式の後にあるもうひとつの儀式――問題は、それだった。
「ラディス様、そろそろお時間です」
「……解っている」
 臣下のひとりが戴冠式の始まりの時間を告げたのを機に、青年――ラディスは椅子から立ち上がり、毅然と前を見据えた。
 心にわだかまる懸念を、ひとまずは振り払って。






 喜びに溢れるヴァリスタの民のざわめきが、その色を微妙に変えていく。
 無事に終わった戴冠式での、新国王の堂々たる姿をその目に焼き付けた人々は、これから行われる儀式が始まるのを今か今かと待ち侘びているのだ。
 これが、ラディスには不快でならない。
(良いことばかりとは限らないというのに――)
 期待感に湧く民に対して、酷く不安感を覚えて仕方がない。
(こんな儀式はもう止めるべきではないのか――?)
 もう何度、そう思ったか解らない。
 だからといって、建国以来続いてきたこの儀式を止めることは、国王であるラディスにもできはしなかった。
 ……いや、国王であるからこそ、止められない。
 たとえ、その儀式の在り方が、長い年月の中で変化していようとも。



 しかし、ラディスは自分の判断をすぐに後悔することになる――。





−prologue(2)−



 高い高い所から、遥か下を見下ろす人影がひとつ。
 王冠を戴く青年の姿。
 大きく開け放した窓から入り込む風が、青年の金色のかかった茶色の短い髪をなびかせる。
 窓枠に軽く手を載せ、青年は身動ぎひとつしない。

 青年の眼下に広がる景色は――果てしないほど空虚で、静かだった。

 青年の表情からは何も読みとれない。
 しかしその瞳は揺らぐことなく、まっすぐと目の前の現実を見詰め続けていた。
 その茶色の瞳に、映し続けていた。
 いつまでも。
 どこまでも。
 瞬きすら、忘れるほどに。


 ただひとり佇む青年の姿は、どことなくその景色と似通っているようで――。
 いつも、目を離すことができなかった。





「――……」
 ふ、と意識が浮上した。
 カーテンの隙間から、一条の朝の光が射し込んでいる。
 萩原矩(はぎわら・のり)は、その光から逃れるように身を起こして大きく息を吐いた。
(今日もまた、あの夢……)
 いつ頃からだったかは覚えていないが、そのくらい長い間、あの夢を見続けている。
 最初は時々見る程度だったのが、段々と夢を見る間隔が狭まり、最近ではほぼ毎日見ている。
 知らない場所、知らない人々――しかし、長年見続けてきた光景は、今では随分と見慣れたものになっていた。
 知らない国の、城の一室から見下ろせる、街並み。その先の荒野。
 荒野は見渡せる限り続いており、緑の見える部分はほんの僅かだ。
 夢を見始めた頃は、こんな風ではなかった。
 今は荒野になってしまった場所は、緑溢れる森林だったし、花が様々に色づいて綺麗だった。
 街は活気に満ちて、豊かな人々の暮らしが遠目からでも窺える――そんな光景だった。
 それなのに、今の街はどうだろう。
 かつての賑わいはなくなり、その有様は周囲を覆う荒野のよう。
 いずれ、荒野に取り込まれそうな、そんな恐怖さえ感じさせられる。
 色に譬えるなば、灰色。
 段々と薄れていく色を、ずっと夢で見続けてきた。
 ひとりの青年とともに。
 その青年は、この国の王。
 王冠を戴いた姿を見れば、簡単に想像できる。
 青年はいつもこの部屋から国を見下ろしている。
 自らの国が荒れてゆく様をどんな思いで見詰めているのか。
 その表情も、瞳も、何も語らない。
 一切の感情を表にあらわさず、空虚な国を見下ろす青年。
 表情のない顔は、青年を冷たく見せ、近寄り難い雰囲気を滲ませている。
 矩は、そんな青年の姿を見続けてきた。
 まだ国が豊かだった頃、青年が王冠を戴く前から、ずっとずっと。
 その頃の青年は、穏やかな表情をしていた。
 時に笑い、時に怒り、感情をあらわすことに躊躇いなどなく、ただ自然な姿で街を見下ろしていた。
 そこには近寄り難さなど微塵もない。
 柔らかな表情は、その端整な顔立ち以上に、青年を魅力的に見せていた。
 ――変わったのは、王冠を戴いてしばらく経った頃からだ。
 少しずつ国の様子が変わっていくにつれて、青年もまた少しずつ変わっていった。
 緑がひとつ消える度、街から活気が失われていく度、青年の顔から表情が薄れていった。
 青年はいつもひとりだった。
 周りにたくさんの臣下がいようとも、青年はひとりだった。
 傍らに立つ存在はなく、訪れる臣下に対する時にも、感情を荒らげることもない。
 黒いローブを纏った老人が何事かを懸命に訴えている場面を何度も見た。
 それでも青年は平淡な声音で、諭すような口振りで、静かにそれを退ける。
 だた、特に頻繁に姿を現す青年と同じ年頃の二人……彼らと接している時だけはその場の空気が和らぐような気がして、矩はほっとしたものだ。
 老人との会話では感じられない感情も、その二人と会話している時には時折覗かせることもある。
 彼らが話している言葉は異国のそれで、最初は何を言っているのか解らなかったが、長く聞き続けるうちに耳慣れた言葉になっていった。
 全く解らなかった会話が、夢を重ねる毎に頭の中に浸透していって、広がっていく。
 今では、完璧とはいかないまでもある程度なら解る。
 そうなってくると、彼らがどんどん身近に感じられてくるようで、不思議な感覚に陥ったりもする。
 それは矩にとって心地良いものだったが、青年の心が見えないのが酷く苦しく思えてならなかった。
 青年の言葉は解っても、その言葉の端々から見えてくるはずの心が全く解らない。
 青年の隠された感情が、気になって仕方がなかった。

 これはただの夢なのに。
 どうして、この青年のことがこんなに気にかかるのだろう。
 夢は夢でしかないはずなのに。
 しかし、それは日に日にリアルに迫ってくるかのようにも感じられ――。

 それがただの夢ではなかったことを矩が知るのは、もう間もなくのこと。





−1−



「陛下!」

 声が聞こえる。
 これは――ああ、確か、黒いローブの老人。名は、ノーヴァだっただろうか。

「陛下、今日こそはきっと現れましょう。長い間、待ち続けたあの御方が……」
「ノーヴァ」
 早口で続けようとした言葉を、冷静な声が遮った。
「何度言ったら解る? 俺は誰も何も待ってはいない。それに、今更だろう?」
「何を仰られます! 陛下がそんなことではいけません。これが、この国の光明となるかもしれないのですよ。……いいえ、必ずや光明となりましょう」
「ノーヴァ、お前がどう考えていようと、俺は考えを変える気はない」
 懸命なノーヴァの訴えを短い言葉で切り捨てた青年は、それきりノーヴァを意識することなく、窓の外を見詰める。
 ノーヴァはあからさまに落胆した様子を見せ、それでも諦めず言を継いだ。
「陛下のお気持ちが変わらなくとも、私はいつでもあの御方を迎えられるようにいたします。それが、この国のため、国民のため……陛下のためなのですから」
 しばらくの沈黙の後、ノーヴァは一礼しローブを翻して部屋を辞した。
 戸が閉まる音がして、青年は少しだけ背後に意識を向けたが、それだけだ。
「……全く。毎日毎日、同じことを。ノーヴァにも困ったものだ……」
 ただ、そう小さく呟くと、また眼下の光景を映す。
 矩には今の会話が何のことを言っていたのかはさっぱり解らなかったが、それはいつものことだ。
 だから矩は、より気になる存在である青年の姿をじっと見詰めた。
 相変わらず、見える光景の一片の変化たりとも見逃すまいとするかのような青年の行動は、矩にとって見慣れたものだ。
 窓から見える光景は、昨日見た時と変わらないように思えた。
 しかし青年は、一度目を伏せた後、すぐにある一点をじっと見据えた。
 その瞳は、いつにも増して力強い。
 何か、決意を秘めたような瞳だった。
 青年が見詰めているのは、この窓から見て右の端――街の比較的近くにある荒野の一部。
 そこには昨日、僅かばかりの緑が見え隠れしていたのを思い出す。
 それが今は、全くなくなっていた。
 あるのはただの残骸。
 胸が締め付けられる。
 また、失われたのだ。
 青年は今、どんな気持ちなのだろう。
 どんな気持ちで、いるのだろう。
 いつもの思いが、唐突に膨れ上がってくる。
 そして、今新たに見せた、決意を秘めた瞳のその意味を、知りたいと思った。
「……ラディス……」
 矩は知らず、青年の名を呟いていた。
 夢の中で矩が言葉を発したのは、これが初めてだった。
 矩はゆっくりとラディスに近付いていた。
 ある程度の距離を取って見ていたラディスに、どうしても今、近付きたくなってしまった。
 誰に見せることもないラディスの心の裡を少しでも知りたい、そう思って。
 日に日に募っていた思いが、今、矩の中で最大限にまで溢れ出していたのだ。
 そうして、どうするつもりなのかは自分でも解らなかったが、それでも近くに行きたいと強く思った。
 その時だった。
 ラディスが、こちらを見た。
 まっすぐ自分に注がれる、茶色の視線。
 目が、合った。
 ラディスは、はっきりと矩の存在をその瞳に映していた。
 こんなことは、夢を見始めて以来、初めてのことだ。
 いつだって矩は傍観者で、この国には存在しない人間だったから。
 しかし今この瞬間、矩とラディス、二つの瞳はしっかりと交わり、お互いをそこに居る者として認識していた。
(うわ、こんなことがあるなんて――)
 矩は目を見開きながらも、少しの嬉しさを感じていた。
 夢の中の存在に、自分を認識してもらえたこと。
 それを嬉しく思うなんて。
 更に嬉しいことには、目の前のラディスは、僅かに目を見張っていたのだ。
 これには驚いた。
 全くと言って良いほど感情をあらわさなかったラディスが、僅かとはいえ自分を見て表情を変えた――。
 それは何にも勝る、素晴らしいことのように思えてならなかった。
 ラディスの口が、言葉を発しようとしてか開かれた。
 そのことに途轍もない期待が湧いてきて、鼓動が早まる。
 ラディスの一言一句も聞き漏らさないようにしようと、ラディスの方に身を乗り出した瞬間――。
 ふ、と身体が浮上するような感覚が襲った。
 覚えがある。
 これは、目が覚める時の――。
(……って、ちょっと待って。もう少しだけ……!)
 誰にともなく願う。
 ラディスの言葉を聞くまでは目覚めさせないで欲しい、と。
 しかし、それは聞き届けられることはなく。
 矩は一瞬にして、夢の中から放り出された。





−2−



 眩しい。
 目が覚めて一番に思ったのはそれだった。
(カーテン、引き忘れたっけ……?)
 目を開けようとして、しかし、あまりの眩しさにすぐに瞑ってしまった。
 とても目を開けていられない。
(ベッドの位置、変えた方が良いかな)
 そんなことをつらつらと考えながら、矩は今見た夢を思い返す。
 途端に、悔しさが襲ってくる。
 どうして夢の終わりを自分でコントロールできないのだろう。
(折角ラディスと話ができそうだったのに……)
 初めてラディスと目が合って、矩に対して何か言葉を紡ごうとした。
 そんな滅多にないチャンスが次にいつ来るのか。
 もしかしたら、今回きりになるかもしれない。
 そう考えたら、さっきの夢が惜しくてたまらない。

 ふと、周囲の空気が動いた気がした。
 矩はハッとして、思考を止めた。
(……誰か、いる……?)
 ここは自分の部屋、そして、ひとり部屋のはず。
 だから自分以外には誰も居ないはずなのに。
 いつの間にか視界を覆っていた眩しさが薄れていたことに気付き、その謎の気配が何か確かめるために、矩は恐る恐る目を開けた。
 目を開けたその先にいたのは――。
(嘘……な、何で!?)
 今まで見ていた夢に出てくるヴァリスタの国王――ラディス、その人だった。
(ちょ、ちょっと待って……俺、まだ目が覚めてなかった……のか? これって、夢の続き?)
 矩は激しく混乱した。
 周囲を見渡してみれば、そこは自分の部屋とは似ても似つかない。
 自分の部屋の何倍もあるような大きさの部屋、品があり精緻で繊細なデザインの施された調度品の数々。微かに褪せたような色合いは、今のこの国の雰囲気には似つかわしく見えて、どこかもの寂しさを思わせる。
 そして何より、ラディスが背にしている大きな窓。この国を見下ろせる窓だ。
 この窓から矩は、この国をラディスとともに見続けてきた。
 ――だからここは、夢の中の世界。
 確かに目が覚めたと思ったのは単なる思い過ごしで、実はまだ夢の中にいたらしい。
 ラディスの表情は、先程と同じように――いや、先程よりも更に驚いた様子で、矩を凝視している。
 こちらが一方的に見ていただけで、ラディスの方が矩を認識したのはこれが初めてだ。
 しかし、目を覚ましたと思う前と後では、ラディスの様子はあまりにも違いすぎた。
 その瞳は、何か信じられないものを見たというように大きく見開かれていた。
(感情を覗かせてくれたのは嬉しいけど……これはちょっと驚きすぎのような……)
 矩が目を瞑っていたほんの僅かの間に、そんなに驚くようなことがあったとも思えない。
 自分は、状況は、何も変わっていないはずなのだ。

「……お前は――……」
 呆然とした声が耳に届いた。
 ラディスが、初めて矩に向けて発した言葉――というよりは、ひとりごとに近い言葉だった。
 その間もラディスの瞳は矩から逸らされることはない。
「あ――……」
 矩は気圧されたように、言葉を失った。
 ラディスと話をしてみたいと思うのに、言葉が出てこない。
 いや、そもそも何を話したら良いのかも解らなかった。
 ラディスはそれきり口を開くことはなく、しばらくの間、静かな部屋の中で二人は固まったようにお互いを見詰めたままだった。

「陛下!! 今の光は……!?」

 突然、静寂を破るように、複数の足音と声が聞こえてきた。
 同時に、大きく戸が開け放たれる。
 それにより、呪縛が解けたように、矩とラディスはお互いを見る目を緩めた。
 ラディスの表情は、もういつもの冷静なものに戻っていた。
 それに少し落胆しつつ、矩は戸の方に目を向けた。
 飛び込んできたのは、先程、ラディスと話していた黒いローブの老人・ノーヴァと、二人の男。
 二人の男にも見覚えがある。
 頻繁にラディスの部屋に姿を現していた、ラディスの周りの空気を和らがせていた、あの二人だ。
 同じ茶色の瞳と髪、全く同じ顔をしている二人。
 違うのは、服装だけだった。
 確か、騎士風の格好で腰に剣を差している方がランスロット、ゆったりとした長衣を纏っている方がセイラード。
 三人の目が、ラディスを映す。
 そして――矩を。
「これは……っ」
 真っ先に反応したのは、ノーヴァだった。
 矩の全身を上から下まで食い入るように見ると、ラディスの方へと身体を向ける。
「陛下……これは……この御方は、いつの間にこのお部屋に」
「…………」
「陛下!」
「……ノーヴァがこの部屋を出た直後」
 いかにも渋々、といった様子で、ラディスは口を開いた。
「突然、空中に現れた。最初は実体のない陽炎のような姿に見えたが、周囲が強い光に覆われ――光が消えた後には、こうして実体を伴って俺の目の前に立っていた」
 ラディスの答えを聞くなり、ノーヴァは、老人とは思えないほどの俊敏さで矩の近くまで駆け寄る。
 矩はといえば、いつにない成り行きにただ突っ立っていただけだったが、ノーヴァが目の前で膝をつき、縋り付くような視線を向けてきたことで困惑してしまった。
「貴方様は……貴方様はもしや、御名を“ノリ”様と仰るのでは……?」
「そ、そうだけど……」
(何で俺の名前を知ってるんだろう……?)
「おお、やはり!」
 戸惑いつつも妙な迫力に圧されて矩が答えると、ノーヴァは途端に目を潤ませる。
 矩は、ぎょっとして思わず後退ってしまった。
「あ、あの……」
「この日をずっと待っておりました。ノリ様がここにいらっしゃるのを、長い間ずっと」
「あの……」
 言葉が続かない。
 何やら感動しているノーヴァを前にどうしたら良いのか解らない。
 そして、もうひとつ。
 矩は、不思議な感覚に囚われていた。
(これって……夢なのに、夢じゃない――?)
 今までの傍観者としての感覚とは違う。
 自分が現実にここにいるような感覚。
 夢の中の彼らと接したことで、そう感じるようになったのかもしれない。
 しかし、それだけが理由だろうか。
 矩には、今この時がすごくリアルなものに感じられて、とても夢だとは思えなかった。
 自分と彼らを隔てていた透明な壁が一気に崩れ落ち、視界が開けたような――……。
「ようやく、この日が参ったのですな……」
 その間も、ノーヴァの言葉は続いていた。
 そして、矩が耳を疑うようなことを、平然と言ってのけたのだ。
「ノリ様。貴方様は、我が王の伴侶となる御方なのでございます。……こうしてはおられません、すぐにも婚儀の支度をせねば」
「は……、こ……。…………」
(……って、何だそれ――!?)
 矩は言葉を失い、呆然とノーヴァを見詰めることしかできなかった。





−3−



 放心していたのは、ごく短い時間だ。
 しかし矩にはそんな時間の感覚などなく、
「あっ」
 ノーヴァが慌ただしく部屋を辞そうとしたのが目の端に映った瞬間、我に返った。
 慌ててノーヴァのローブを掴んで引き止める。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
「……! どうされました?」
 突然の行動に面食らったのか、ノーヴァはつんのめりそうになりながらも、立ち止まってくれた。
「は、伴侶って……っ?」
「伴侶とは、人生をともに連れ添う相手のことでございます」
「――って言葉の意味を訊いてるんじゃなくて! ……“王の”伴侶って……まさか……」
「ヴァリスタ王国、第21代国王、ラディス・ヴィリア・ヴァリスタ様のことでございます」
「そのラディスと誰が……こ、婚儀だって?」
「勿論、貴方様とです、ノリ様。ノリ様はこの国にとって重要な意味を持つ存在なのです」
「重要な意味……?」
「はい。残念ながらどう重要な存在なのかまでは未だ私にも解りませんが……この国になくてはならない存在であることは確かなのです」
 自分がそんなとんでもない存在だなんて信じられない。
 しかも、“どう重要かは解らない”なんて、そんな曖昧な話があるのだろうか。
 話を聞けば聞くほど、混乱が増していく矩だったが、
「ヴァリスタは今、危機的状況にあります」
 そのノーヴァの言葉には、反応せずにはいられなかった。
 それは矩も感じていたことだった。
 夢でずっと、この国を見てきただのから。
 しかし、この国の状況と自分の存在、そしてラディスの伴侶となることが、どう繋がるのか見当も付かない。
「ですから、私は考えたのです。この国を背負って立つ我が王と、この国にとって重要な存在のノリ様、御二方が伴侶となって手を携えて治世に当たられればヴァリスタの未来は開けるのではないか、と」
「そ、そんな無茶苦茶な……! 俺はそんな重要な存在なんかじゃないし、ありえないけどもしも万が一そうだったとしても、別に伴侶になる必要性はないんじゃ……」
「いいえ、この国になくてはならない御方同士の結び付きを強くするためには、伴侶となるのが一番の方法と存じます」
「…………」
(何かもう……どう言い返して良いかも解らなくなってきた……)
「ご理解頂けましたか? 陛下とノリ様の両肩には、ヴァリスタとここに住む民の未来がかかっているのです」
 理解など出来るはずがない。
 そもそも、自分がこの国にとって重要な存在だということが既に決定事項として話が進められていることが、理解できない。
(そうだよ。大体、そんなこと誰が決めたんだ?)
「そういうことですので、ノリ様は今は婚儀のことだけをお考え下さい。私は急ぎ、準備に取りかかります」
 ノーヴァは至極当然のようにそう言い、足早に部屋を出て行こうとする。
 疑問だらけの矩を置いて。
 婚儀の準備なんて、とんでもない言葉を残して。
「俺は結婚なんてしない……!」
 慌ててそう叫ぶ。
 ラディスが気になる存在なのは確かだ。
 しかしそれは、夢で見続けたラディスをもっと知りたいだけのことで、ラディスと結婚だとか伴侶だとか、そんなことは当然のことながら考えたこともない。
 矩としては当然の主張だったが、ノーヴァにとってはそうではなかった。
 矩の拒絶も、二人が男同士であることすらも、さらりと流して、
「突然のことで戸惑っておいでなのはお察ししますが、我々も切羽詰まっているのです」
 あっさりとそう返されてしまった。その声音からは焦りが窺える。
(焦ってるのは俺の方だっていうのに……!)
 冗談ではなかった。
 このままでは本当に、あれよあれよという間に、ラディスの伴侶にされてしまいそうだ。
「ノリ様が陛下の伴侶になって下されば、この国はかつての姿を取り戻せるのです。ですから――」
「ノーヴァ」
 尚も言い募ろうとしたノーヴァを制したのは、凛とした厳しい声。
 ラディスだった。
「拒絶している者の意志を無理に曲げようとするのは止せ」
「何を仰います、陛下! ようやく現れた光明なのです。この機を逃すわけには参りません。すぐにでも婚儀を」
「俺は伴侶などいらないと、何度も言っているだろう」
「これまでとは状況が違います。こうして目の前にノリ様がいらっしゃるのです」
「状況がどう変わろうと考えを変える気はない。第一、ヴァリスタとこの者は何の関係もない。そんな相手に、不確かで大層なものを背負わせようとするのはお門違いというものだ」
「陛下!」
(――関係、ない……)
 ラディスの言葉は、歓迎すべきことばかりで、矩にとってはありがたいことのはずだ。
 ノーヴァの考えがどうであろうと、王であるラディスが全く違う考えでいるのだから。
 だというのに。
 矩は、ひどくショックを受けていた。
 ラディスの、“関係ない”という言葉に。
(確かに俺はこの国とは全く関係ないけど……)
 ただ、一方的にこの国の様子を見てきただけだ。
 しかしそれは、決して短い時間ではない。
 あの夢は、この国は、いつだって矩の育ってきた年月とともにあったものだ。
 この国が豊かであった時は嬉しかったし、温かい気持ちにもなった。
 緑が失われ、活気が失われていく度に、悲しい気持ちになった。
 彼らを身近に感じるようになっていた。
 その思いを否定されたようで、哀しかった。
 こちらが一方的に見ていたことを知らないラディスが“関係ない”と言ってもおかしくはない。
 それでも、湧き上がった哀しさを止められなかった。
「話は終わりだ、ノーヴァ。――それから」
「え……」
 ノーヴァに向かって厳しい言葉を続けていたラディスが、不意に矩へと視線を向けた。
 何を言われるのかと、緊張する。
「どういう経緯でこの世界に来たのかは知らない。元の世界に帰してやることも、元の世界に帰す方法を探してやることも、今の俺にはできない。だから、この国にいるというのなら止めはしない。ただ……この世界で暮らしていくためには、この国は不向きだ。この国の南にあるアリファルに行くと良い。国境の砦で、ヴァリスタから来たと言えば受け入れてくれるだろう」
 ラディスは早口にそう言うと、さっと背を向けて戸の方へと歩いて行ってしまう。
 部屋を出る直前、もう一度だけ矩を振り返ると、
「行くなら早い方が良い」
 そうひとことだけ言い残して、静かに部屋を出て行った。
「陛下!? お待ち下さい、陛下っ」
 その後を慌てたようにノーヴァが追いかける。
(――……)
 残された矩は、ラディスに言われたことを心の中で何度も反芻していた。
 感情の窺えない淡々とした言葉。
 突き放すような言葉。
 しかしその中に、矩のことを心配するような響きがあったように思えたのは……気のせい、だろうか――。





−4−



「……ずっと突っ立ったままというのも何だし、そこに座って話をしようか?」
 ぽん、と肩を軽く叩かれ、ぼんやりとしていた矩は、声の方へと意識を向けた。
 見れば、目の前には同じ顔が二つ。
 セイラードとランスロットだ。
 そういえば、この部屋に駆け込んできたのはノーヴァだけではなく、この二人も一緒だった。
 突拍子もない話が続いていたので、すっかり他の二人の存在を忘れ去ってしまっていた。
「あ、あの……」
「部屋の準備にはしばらくかかると思うから、その間、僕らと話をしよう。色々と聞きたいこともあるだろうしね」
 セイラードが穏やかな声でそう言い、椅子を指し示す。
 疑問ばかりで、聞きたいことも知りたいことも山ほどあった。
 だから、大人しくそれに従い、椅子に腰掛ける。
 矩が座ったのを確認すると、セイラードとランスロットも同じように椅子に座った。
「あの、部屋の準備、って。それから、さっきの話……と、それから、ええと……」
 何から訊くか考えは纏まらないのに、気が急いて、言葉ばかりが先走る。
 そんな矩に、セイラードは苦笑して、
「まあまあ、落ち着いて。順番に話をしよう」
 ね、と矩を落ち着かせるために、殊更ゆっくりとした口調で告げる。
「……すみません」
 セイラードの話し方は、不思議と安心感をもたらしてくれるようだ。
「まずは……そうだね。部屋の準備っていうのは、君の部屋のことだよ」
「俺の?」
「君がこれからどうするか。この国にとどまるにしても、アリファルに行くとしても、さしあたってはここに君の生活する場所が必要だからね。今頃、ラディスが部屋を準備させているはずだよ」
(ラディスが……)
「ラディスのさっきの言葉……ラディスはあまり感情を表に出さないから解りにくいだろうけど、あれで君のこと心配しているんだ」
(やっぱり、そうだったんだ……)
 ラディスの言葉の中に感じた、心配げな響き。
 あれは勘違いじゃなかった。
 ラディスの中にある感情の、一部分を垣間見られた気分だった。
 もっと。もっともっと、見たい。
 以前のラディスを知っているから――柔らかく緩むラディスの表情を知っているから、またあの表情を見たい。
 そう、思う。
 ふと顔を上げると、セイラードがにっこりと微笑んでいた。
「え? 何?」
「……君はラディスのこと、解ってくれる人みたいだね」
 そう嬉しそうに言われて、顔が熱くなる。
(な、何で……)
 慌てて顔を押さえる矩を見て、セイラードはますます嬉しそうに笑う。
 居心地が悪い。
 しかし、セイラードの表情は悪意の欠片もなく、決して嫌な気分ではなかった。
 ただ、熱くなった顔が、早く冷めるようにと願う。
 どうして、こんな反応をしてしまったのか、解らないまま。


「……そうそう、ずっと気になっていたんだけど、君は言葉が解るんだね?」
 矩がどうにか落ち着きを取り戻した頃、セイラードはふと真面目な顔に戻り、
「どうしてか、理由は解る?」
 矩にそう訊ねてきた。
「それは――」
 隠すようなことではない。
 それに、知りたいことがあるのなら、相手が知りたがっていることに答えることも必要だと思う。
 少なくともセイラードは、さっきのノーヴァのように一方的に言葉を投げかけるのではなく、矩と会話をしようとしてくれているのだから。
 矩は、セイラードに話した。
 見続けた夢のこと、国のこと、ラディスのこと、彼らのこと。
 そのなかで、言葉が解るようになってきたこと。
 そして、矩の知り得る全てのことを。

「……なるほど、ね」
 話を聞き終えたセイラードは、思案げに手を顎に持って行った。
「まずは一番大事だと思うことだけど。ここは夢の中じゃない。僕らはこの世界で現実に生活しているし、君は君の世界で現実に生活していた。君が見ていたのは、厳密には夢じゃないんじゃないかな」
 言葉を選ぶように、しかし躊躇いや迷いはなく、セイラードは話を続ける。
「つまり、君は眠っている間に意識だけ僕らの世界に来て、目が覚めると君本来の世界に帰っていく。それを君は夢と認識した、ということなんだけど……どうだろう? そして今回は、何らかの要因で、目が覚める時に意識が君の世界に帰るのではなく、身体の方がこちらに来てしまった――そう考えると、君がここに現れた時の状況とも辻褄が合うと思う」
 矩は正直、感心してしまった。
 矩に比べて事情を知っている風だとはいえ、セイラードは、得た情報を瞬く間に整理してひとつの答えを導き出したのだ。
 ただ狼狽えるだけの自分とは大違いだった。
 ラディスがノーヴァに語った、自分が現れた時の状況。
 セイラードの言は、確かにそれにも合っている。
 問題は、“何らかの要因”が何なのかということだが、これには矩にも心当たりがあった。
 ――ラディスと目が合ったこと。
 今までは矩の一方的な認識だったのが、相互の認識になった。
 解るのはそこまで。
 しかし矩は、それだけで十分だという気持ちになっていた。
 異世界に飛ばされた、という状況にも不思議と恐怖などを感じたりもしなかった。
 それは、自分が良く知る世界だということもあるだろうし、ラディスやこの国に近付きたいと思ったのは自分の意志だったというのもあるかもしれない。
 疑問だらけのことばかりではあるが、自分がこの世界にいること、それ自体には不安はなかった。
(帰れるのかどうかも解らない、この世界でどうやって生きていけば良いのかも解らないっていうのに、俺って変かも)
 それでも何故か、今すぐ元の世界に戻りたいという逼迫したような感情は湧いてこなかった。
 勿論、伴侶だとか重要な存在だとかは別の問題として、だったが。
 そして今の矩には、そちらの方が大きな問題に思えるのだった。





−5−



「……それにしても。いくら聞き慣れているとはいっても、全く知らなかったこの国の言葉をここまで話せるとはね」
 矩が何事か考え込んでいるのに気付いたのだろう、ふと、場の空気を変えるようにセイラードが軽い口調で言った。
「あ、そういえば……」
 今まで特に意識していなかったが、言葉を聞き取ることはしても、実際に自分がこの国の言葉を話すのはこれが初めてだった。
 にも関わらず、先程セイラードに夢の話をした時は、すらすらと自然に言葉が出ていたのだったと改めて思う。
「語学に強いのか、語感が鋭いのか、それとも余程この国に馴染んでいるのか――いずれにしても、言葉が通じるっていうのはありがたいね――さて」
 本題に入る前に、と前置きして、セイラードは言葉を続ける。
「君は僕らのことを知っているし、今更だけど、改めて自己紹介をしようか。僕は、セイラード・リドウェル。王――ラディスの補佐官をしているんだ。そしてこっちが……」
「セイの双子の兄で、ランスロット・リドウェルだ。ランスでいい」
 今まで黙したままひとことも話さなかったランスロットが、初めて声を出した。
 話し方は違うが、声はほぼ同じ。
 本当にそっくりな二人だった。
「ランスは、国王付き近衛騎士団長なんだ。といっても、護るのはラディスだけじゃないけどね」
「ああ、国民の安全を護るのも仕事ひとつだからな。……もっとも、職務を全うできているかどうかは……」
 きっぱりとしたランスロットの口調に、苦しさが混じる。
 それはその語尾にも現れていて、矩は首を傾げた。
「まあ、その話は追々するとして、次は君の番だよ」
「あ……俺は萩原矩、高校二年……って言っても解んないかな……ええっと……年は17で、地球にある日本って国からここに来て……」
「日本。それが君の……ノリの国なんだね」
「うん」
「日本か……この世界では聞いたことがない国だな。なあ、ノリ。ノリが俺達を知っていたのと同様、俺達もノリの名前だけは知っていたんた。ノーヴァから耳にタコができるほど聞かされていたからな」
「“ノリ様はいつかこの世界においでになる”がノーヴァの口癖でね」
「いつか……って、そのノーヴァって一体どんな人? 俺のことを重要な存在だって……ずっと待ってたって言ったり、名前を知ってたり……」
「そこからが本題だな。ノリが一番知りたいのもその辺りのことだろう」
 ランスロットの言葉に、矩は大きく頷く。
「ノーヴァっていうのは、ヴァリスタ建国当時から王家が代々重用してきた預言師の一族でね」
「よげん……って、未来に起こることがあらかじめ解るとかっていうあれ?」
「その予言じゃなくて、預言――神の意思を聞いてそれを僕らに伝える者のこと。まあ、預言の内容によっては、予言的なものもあるんだけどね」
「ノリのことに関しては予言に近いんじゃないか?」
「……まあ、そう言えるかな。ノリ、この国はね、君もずっと見てきたように滅びゆく国なんだよ。かつては豊かで活気に溢れていたこの国は……もう、いつ滅んでもおかしくない」
 セイラードは、努めて口調を変えずに話し出した。
 この国のことを。
 そして矩にも関わりのある預言のことを。



 ヴァリスタは、エルビア大陸の東に位置している。
 建国より約800年もの長きに渡って、災害にも見舞われず戦争もせずに存続できた国は、大陸の数ある国の中でもこのヴァリスタ以外にはなかった。
 豊穣な土地、豊かな自然、周りを森林に囲まれた活気に満ちた街並みと人々の生活。
 800年、天災にも戦火にも巻き込まれたことのなかった国と民は、年々豊かさを増し、当たり前のように平和な日々を過ごしてきた。
 それは、歴代の国王とそれを補佐してきた人々による善政の結果といえる。
 預言師の一族・ノーヴァもそのひとりだ。
 ノーヴァ一族は、国そのものを至上の存在と崇め、国のためにならどんなことでもするとまでいわれる存在だった。
 彼らの持つ、神の意思を聞くという稀な力を以て、国を影から支えてきたのだ。
 彼らは国王の代替わりに併せて代替わりし、ひとりの国王にひとりの預言師という形を取ってきた。
 新王の戴冠式の日、新たに預言師の名を継いだノーヴァが、託宣の儀式を行うのがこの国の慣わしだ。
 国の重大な節目に神の意思を聞き、これからの国の繁栄を願う意味で行われるその儀式は、戴冠式と同じくらい重要なものだ。
 儀式はしかし、豊かな国としての歴史が長くなる度毎に、その性質を変えていった。
 民は良い託宣が降りることを疑わず、戴冠式の日には大変な賑わいを見せる。
 本来、預言の間で厳粛に行われるべき儀式は、民への見せ物的な様相を呈してきてしまったのだ。
 そして今回――第21代国王、ラディスの戴冠式の日。
 ヴァリスタ建国以来、初めて、託宣が降りなかった。
 前代未聞の事態に、国中がどよめいた。
 しかし一番慌てたのは、儀式を行ったノーヴァ自身だ。
 預言師の名を継いで初めての大切な儀式、ノーヴァはその失敗に打ちのめされた。
 ラディスは動揺する民を宥め、失意のノーヴァに言った。
『託宣の儀式を行うのは本日、自分の代を限りに止める』、と。
 ラディスは、託宣の儀式を行うことに対して、ずっと懸念を抱いてきたのだ。
 以前の厳粛とした儀式ならいざ知らず、今の状態の儀式を存続させて良いものなのかどうか。
 結局は代々続いた儀式を止められず、今回も儀式を行いはしたが――ラディスの懸念は的中してしまった。
 そんな経緯から、もう遅いと解りつつも儀式の停止を言い渡したラディスに対し、ノーヴァは強硬に反対し、本来の形態での儀式のやり直しを願い出た。
 渋るラディスに必死に言い募り行った二度目の儀式だったが、結果は一度目と変わらず、ノーヴァは神の意思を聞くことはできなかった。
 善き日であるはずの戴冠式の一日は、国中に影を落とした。
 更に追い打ちを掛けるように、街を囲む緑溢れる森林が枯渇し始め、その枯渇は徐々に徐々に街の中にも及んでいく。
 豊饒な土地と森林の恵みを失った民の暮らしは、目に見えて悪化していった。
 無論、ラディスたちもそれを黙って見ているだけではなかった。
 しかし、立てた対策は悉く枯渇の進行に追いつけず、ついには手立てを講じるよりも早く枯渇が進んでいくに至った。
 多くの国民は託宣が降りなかったことが原因だと考え、国を捨て他国へと行く者すらあった。
 豊かで平和だった国は、少しずつ、しかし確実に滅びへの道を辿り始めたのである。
 そんな中ノーヴァは、託宣の間に籠もるようになった。
 飲まず食わずで、一睡もせず、ただ神の意思を聞くことだけを願って。
 そうして何日祈り続けただろうか。
 ノーヴァが託宣の間から出てきた時、憔悴した様子とは裏腹に、その瞳は希望の光を湛えていた。
 そう――ノーヴァは、ようやく得られたのだ。
 この国の光明となるかもしれない託宣を。





−6−



 いよいよ自分が知りたいことが聞けるのだと、気持ちを引き締める。
 神や、その意思を聞く一族のこと、託宣の儀式のことなど、矩にとっては縁遠いことばかりだったが、この国ではそれが当たり前のこととして存在しているのだから、それを矩の感覚で否定する気はない。
 託宣が降りなかったこと、そしてそれがこの国の今の姿に繋がった原因なのかどうなのかは解らないが、そのことを否定したままでは先には進めない。
 重要なのは、自分がそれにどう関わってくるのか、ということだ。
「……それで、その託宣の内容って……?」
「“黒い瞳と髪を持つ、ここではない世界からの訪問者、ノリ。彼の者はこの国と王にとって重要な存在となろう”――と。ノーヴァや僕らがノリの名前を知っていたのは、この託宣があったからだよ」
「俺が重要な存在だとか決めたのは、神ってこと? 何で俺? 重要って言うけど、どう重要なの」
「……残念だけど、それは僕らにも解らない。託宣はさっき言ったことだけ、それ以上のことは何も」
 そのセイラードの言葉に、矩は力無く肩を落とした。
 この国の背景や状況は解っても、矩自身に関しては、これまで聞いてきた以上のことは結局何ひとつ解らない。
 自分を選んだのは神らしいが、選んだ理由は解らない。どう重要な存在なのかも――。
 しかし、それは矩に限らず、ラディスもセイラードもランスロットも……他の誰も解らないことなのだ。
 託宣を受けたノーヴァ自身ですら。
「……ってことは、伴侶だとか何だとかって、全くのノーヴァ個人の意見でしかないわけ……?」
「そうなるね。ノーヴァはノリがどう重要なのかは解らないとは言っていたけど、ノリのことを国を救う存在だと信じてるよ。だからこそ、ラディスの伴侶になるようにノリに強要しようとした――国が滅びゆく危機のさなかに降りた託宣がノリのことだったからね。……まあ、伴侶にって考えたのには、さっき言っていたこと以外にも理由があると思うけどね」
「他の、理由?」
「ノリをヴァリスタに繋ぎ止めておくためには、王の伴侶にしてしまうのが一番確実ってこと」
「な……っ!」
 恐る恐る聞き返した矩は、続いたセイラードの言葉に愕然とした。
 ノーヴァがそんなことまで考えていたというのか。
「僕の推測だけど、間違ってはいないと思うよ? いつ現れるか解らないノリを待ち続ける間、考える時間だけはたっぷりあったからね。ノーヴァが国の存続のためにそう考えても不思議はないよ」
 セイラードはちらりとランスロットの方を伺った。
 ランスロットは、当然のように相槌を打つ。
「ああ。王の伴侶になってしまえば、この国からは簡単には出られない」
「…………」
 ノーヴァが、自分に対してあんな態度を取った理由は解った。
 矩にしてみれば到底信じたくないようなことを、ノーヴァが考えていることも。
 ノーヴァの考えでいくと、自分は“国を救う存在”らしい。
 しかし、矩自身は到底そんなふうには思えなかった。
 いや、思いたくなかったのかもしれない。
 大体、どうやって救えというのか。
 方法など知るはずもないというのに。
 それなのにノーヴァは、託宣を光明だと信じ、自分をラディスの伴侶にしてこの国に繋ぎ止めようとしている……と二人は断言しているのだ。
「ラディスにその気がない限り、ノーヴァに強行することはできないが、ノーヴァは簡単には諦めないと思うぞ。待っていた存在がとうとう現れたんだ、何が何でもノリをラディスの伴侶にしようとするだろうな」
「う……」
 追い打ちを掛けるランスロットに、矩は返す言葉もない。
 ノーヴァのあの様子を思い返してみれば、それは明白だったからだ。
 その気のないラディスに、毎日同じ言葉を繰り返していたということからも、ノーヴァが引かないだろうことは容易に想像できた。
(どうしたら良いんだろう……)
「……まあ、急に色々なことを聞かされて混乱しているだろうし、とりあえず今夜一晩ゆっくり考えてみたら良いんじゃないかな。アリファルに行くか、ヴァリスタにとどまるか――とどまった場合は、ここでどういうふうに過ごすのか」
「はあ……」
(考える……っていっても)
 そう選択肢があるわけではない。
 アリファルに行くか、この国にとどまるか。
 そして、この国にとどまった場合、どうするか。
 つまりは――ノーヴァの言うところの「ラディスの伴侶」としてこの国を救うのかどうか。
(……それは無理だ。絶対に無理)
 だったら、選択肢なんてあってなきが如しではないか。
(……でも俺は……この国にいたい……)
 そう思った時、ふとラディスの言葉を思い出した。
「あの……さ。ラディスはどう思ってるのかな。俺のこととか、国のこととか……これからどうするつもりなのか、とか」
 矩を国の事情に巻き込むつもりはないと明言していたし、アリファルに行くように言ったのだから、矩に関してはそれがラディスの意見なのだろう。
 しかし、矩が知りたいのはそういうことではなかった。
 もっと深い部分――ラディスが表に出さない、感情の部分を、知りたかった。
 だからセイラードとランスロットに訊ねてみたのだが、二人には同時に首を横に振られてしまった。
「それは僕らが話すことじゃない。ラディスの本当の心は、ラディス自身にしか解らないんだから」
「ああ。知りたいなら、ラディスに直接訊くと良い」
「……だったら、セイとランスの意見は? 二人はどう思ってるの」
「僕ら? ……預言自体は信じてるよ。この国の今までと預言は、切り離せるものじゃないからね。それに、本音を言うと、ノリにはヴァリスタにとどまって欲しいと思ってる。その点では、ノーヴァの意見と一致するね」
「えっ!?」
 そんな――セイラードもノーヴァと同じように、矩にラディスの伴侶になれと言うのだろうか。
 これまでの話しぶりでは、ノーヴァとは意見を異にしているように感じられたのに。
「ああ、誤解しないで。僕がノリにとどまって欲しいって言ったのは、この国を救う存在だと思ってるからじゃない。預言自体は信じるって言ったよね。それはつまり、預言にあること以外は憶測で決めたりはしないってことだよ」
 矩の動揺を感じ取ったらしいセイラードが、宥めるように矩の肩を数度叩いた。
「そ、そう……良かった」
 何とか落ち着きを取り戻した矩は、ほっと息をつく。
「でも、だったら何で、俺にとどまって欲しいって……」
「それはね、ラディスのため」
「……ラディスの?」
(余計に解らないんだけど……)
「優先順位の問題だ。ノーヴァが国を第一に考えているように、俺とセイにも一番大事なものがある」
「それが、ラディス?」
「そう。勿論、国は大事だよ? でもね、僕らにとっての第一はラディスだ。ラディス、国民、国。これが、僕らにとっての優先順位。ノリの存在が、ラディスにとって良い影響になるかもしれないと思うから――だからノリにはこの国に、ラディスの傍にいて欲しい。それが僕の……僕とランスの意見」
 ランスロットの意見を聞くこともなく、セイラードは言う。
 矩がここに来てからの僅かな時間、相談することもなかったはずなのに、これが二人の意見だと、はっきりとそう言う。
 そしてランスロットも異を唱える素振りは見せない。
 双子故だろうか。
 言葉は交わさなくても、セイラードとランスロットにはお互いの心が通じ合っているようだった。
 ――しかし。
「俺が……ラディスに良い影響になるって……?」
 何を根拠に、この二人はそう言うのだろう。
「勘だけどね。そんな気がする。何せノリは、ずっとラディスのことを見てくれていたようだから」
「……っ。それは……夢で……その……だから、自分の意志で見てたわけじゃ……!」
 矩は一瞬で真っ赤になった。
 自分で自分の反応に動揺する。
(この感覚、さっきも――……)

『……君はラディスのこと、解ってくれる人みたいだね』

 ――セイラードのあの言葉。
 あの時も、自分は似たような反応をした。
(何で……?)
 セイラードは、矩の反応を楽しそうに見遣ると、更に言葉を継いだ。
「ノリが見ていたのは夢じゃなくて現実だってさっきも言ったよね? それをずっと見ていたんだから、ノリは余程、ラディスと縁があるよね」
「そ、それは……でも、俺は……っ、だからその……」
 頭に血が上って、まともにものを考えることもできなくなってしまい、意味のなさない言葉ばかりが口をついて出てくる。
「……セイ、あまりノリをからかうな」
「ごめんごめん。でも……ノリなら本当にラディスを変えてくれるかもしれないと思うんだ。頑なに感情を表に出さなくなってしまった、大事な僕らの従兄弟をね」





−7−



「――従兄弟……?」
 意外な言葉を聞いて、矩は僅かに平静を取り戻した。
「ああ、言ってなかったか。俺とセイは、ラディスの父の姉の子――ラディスとは従兄弟同士だ。俺たちの方がラディスより2歳年上だが、生まれた時から一緒に育ってきた兄弟みたいなものだ」
「じゃあ、ラディスが一番大事っていうのも……?」
「俺たちにとってラディスは、王である前に家族だからな。あの、何でも自分ひとりで背負い込む質のラディスを放ってはおけないさ」
 生まれた時から、常に傍にいた存在。
 それが、ラディスにとっての二人。
 まだ一方的に見ていただけの頃に感じた、ラディスの孤独感は、ただの勘違いだったのだろうか。
 いつもひとりだと感じた、あれは――。
 だってラディスには、セイラードとランスロットがいるのだから。
 何故だろう。
 この二人と接している時のラディスの、和らぐ空気をほっとしながら見ていたはずなのに。
 羨ましいような、複雑な気分になってしまう。
 これではまるで、この二人に嫉妬しているようで――。
(……って、さっきから、何か変だ、俺……)
 矩が変な考えを振り払おうと必死になっていると、ぽつりとセイラードが聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「……だけど、ラディスは全てを自分ひとりで背負うつもりでいる。僕らに寄りかかってはくれないんだろうね……」
「え……それって、どういう……」
「さ、この話はもうおしまい。……随分と話し込んでしまったね。部屋の用意もとっくに出来ているだろうから、今日のところはお開きにしよう」
 矩の問いかけを強引に遮り、セイラードは立ち上がってしまった。
「セイ……?」
 引き止めようと名前を呼んでみたが、セイラードはもう何も答えない。
 困惑してランスロットの方を見ても、曖昧な表情を向けられるだけだ。
「ノリ。他にも話したいことや訊きたいことがあったら、いつでも来てくれ。……ああ、明日は俺は城を留守にしているから、セイの方に頼むな」
 そう言い残して部屋を出ていく二人の後ろ姿を、矩は不可解な気分で見送った。








(……疲れた……)
 矩は、ベッドの上に腰かけて、大きく息を吐き出した。
 ここは、ラディスが用意させてくれた矩の部屋だ。
 セイラードとランスロットが部屋を出てすぐに、部屋を用意してくれていたらしい人がここまで案内してくれ、ようやく今、一息ついたところだった。
 とはいえ、どうにも落ち着かない。
 まず、部屋が広すぎるのだ。
 ラディスの部屋ほどではないが、矩の自室とは比べるべくもない広さ。
 今座っているこのベッドも、矩のベッドの倍はありそうだ。
 そしてもうひとつ、落ち着かないのは……。
「静か、だなあ……」
 広い城内の一室は、あまりにも静かだった。
 声を出してみると、余計に静かさが強調されたようで、矩はそれきり黙り込む。
 すると、物音ひとつしなくなる。
 夜だからだろうか。
 それとも――ひとりきりだからだろうか。
 この世界に飛ばされたと解った時にも不安は感じなかったし、元の世界に対する感情も特に湧いてはこなかった。
 しかし今。
“ひとり”を意識した今は――。
(誰かと一緒にいる時は平気だったのに、ひとりきりになった途端こんな――……)
 寂しい。
 そう、寂しいのだ。
 いくら長い間見ていたとはいえ、ここは右も左も自分ひとりでは何も解らない世界なのだと、こうしてひとりになって初めて感じてしまった。
 見慣れた自分の部屋もない、家族もいない、友達も知り合いのひとりすらもいない。
 そんな、世界なのだ。
(元の世界の俺……どうなってるのかな。……意識も身体もここにあるなら当然、元の世界からは消えてるよな……。心配、してるかな……)
 力無く、ベッドに横たわる。
 思い切り身体を預けても、ベッドは柔らかく受け止めてくれるだけで軋みもしない。
 矩の家族は、両親と自分の三人だ。
 サラリーマンの父親と、専業主婦の母親、高校生の自分。
 学校に行って、休日は友達と遊んで……そして夜には家に帰っていく。
 当たり前だった日常。ごくごく平凡な毎日。
 まさか、こんな事態になるとは思ってもみなかった。
 ――もう、戻れないのだろうか。
 ――だって、どうしたら戻れるのかも解らない。
 今頃になって、ことの重大さを、深刻さを、思い知るなんて――。
 あの時、恐怖も不安も感じなかった楽観的な自分を、罵倒してやりたくなる。
 そうしてどうなるものでもないが、そう思わずにはいられなかった。
(こんなんじゃ、アリファルなんて行けるはずない)
 このヴァリスタにいてさえ、こうなのだ。
 ここ以上に未知の国になど、行こうという気も起こらない。
 この世界には、どこまで行っても矩の知る場所などないのだ。
 だったら、このままこの国にいる以外の選択肢などないではないか。
 何より、矩自身が、そう思っている。この国にいたい、と。
 とはいえ、この国にとどまったらとどまったで、問題は多い。
 ここでどう過ごしたら良いのか、どう過ごしたいのか。
 まずはそれを決めなければならない。
 ノーヴァの言うままにラディスと結婚するなんて、とても考えられないのだから。
 しかし、ただ「嫌だ」と言うだけでは、ノーヴァは諦めてはくれないだろう。
 男同士だということを主張しても、ノーヴァのあの様子ではさして頓着するようには思えない。
(そもそも、一度さらっと流されてるし……)
 どうにか諦めてもらう方法はないものだろうか。
 ノーヴァの思惑以外に、ノーヴァを納得させられる方法。
 そのためには、ラディスにその気がないからと安心して何もせずにただここにいるだけ――というわけにはいかないし、矩自身、そんなことはできそうになかった。
(まずは、ラディスと話をする、かな……)
 初めから矩は、ラディスと話してみたい、近付きたい、と思っていたはずだった。
 セイラードとランスロットにも訊ねたように、ラディスの心を知りたい、と。
 それには実際に話してみるのが一番だ。
(だけど……言葉が出てこないんだよなあ……)
 淡々とした言葉、その裏に見え隠れした矩への気遣い……それはもう解っていた。
 しかし、何故だか話しかけ辛く思えてならない。
 どうも実際にラディスの前に立つと、何を言って良いのか解らなくなってしまうようなのだ。
(かといって、いつまでもこのままってわけにもいかないし……明日は何とか話しかけてみよう)
 そう決意すると、矩はベッドに潜り込んだ。
(そうだ……この国のことももっと知りたいよな。誰かに聞くだけじゃなく、実際に自分の目で見てみたい)
 慣れないベッドの感触に眉を寄せつつ考える。
 どうするにしても、ここは矩の知らないことが多すぎる。
 もっとこの国のことを知らなければならない、そう思う。
 とにかく、こうなった以上、前向きに行こうと決めた。
 後ろ向きになればなるほど、身動きがとれなくなってしまう気がするからだ。
(うん、そうしよう――)
 矩は目を閉じて、改めてそう思った。





−8−



 目の前に、青く光るものが映っていた。
 何かは解らない。
 ただ、ふわりふわりと揺れながら浮かんでいた。

“――――――――”

(な、に……?)
 微かに耳に届く音。
 何かを、言っているような気がする。
 しかし、はっきりとは聞こえない。

“――――…………”

 次第に、音が小さくなっていく。

“        ”

 いくらも経たないうちに、何も聞こえなくなってしまった。
 完全な無音。
 もう目の前に漂っていた青い光すらも、見えなかった。


(変な夢……)

 どうせなら、元の世界の夢を見たかったのに。
 いや、夢ではなく……元の世界でこの世界の出来事を見ていたように、この世界で眠っている間くらい元の世界を見せてくれても良いのに――。
 そう、思った。







「……様」
 声が聞こえる。
「……リ様」
 今度の声は、先程と違いはっきりと聞こえた。
「ノリ様」
 それどころか、段々と大きくなってきて――。
「……んん……?」
「おはようございます、ノリ様」
「……朝?」
「いいえ、もうお昼を過ぎています。よくお眠りでした」
「もうそんな時間……昨夜、なかなか寝付けなかったから――」
 靄がかかったような頭を軽く振り、のろのろと目を開ける。
 視界に映ったのは、見慣れた自分の部屋――ではなく、見知らぬ少年の姿だった。
「……っ!?」
 慌てて飛び起きて周囲を見回すと、そこは到底自分の部屋では有り得なかった。
(な、何ここ……あ、そういやヴァリスタにいるんだっけ……)
 寝起きのぼんやりした頭が晴れてくると、段々と昨日の記憶が甦ってきた。
 やはり異世界に来てしまったのだと、改めて思う。
「ええと、君は……?」
 ベッドから出て立ち上がり、直立不動の姿勢で立っていた少年に声をかけてみる。
 少し癖のある褐色の髪に、青灰色の瞳。
 年は、10歳くらいだろうか。
「リッセンと申します。ノーヴァ様からノリ様のお世話をするように言い付かっております」
「ノ、ノーヴァから……?」
「はい」
 あどけない顔でリッセンは笑い、深く礼をした。
「ノリ様にお会いできて、こうしてお世話役まで頂いて光栄です。どうぞ何なりとお申しつけください」
「ちょ、ちょっと……俺はそんな光栄とか畏まって言われるような覚えはないんだけど……。それに、世話なんてしてもらわなくても」
 自分でできる、と言いかけて、言葉に詰まった。
(……言えない)
 先の言葉通り、本当に嬉しそうに自分を見詰めるリッセンの表情が、見る見るうちに曇ってきたからだ。
「え、えっと、その……」
「お世話役が僕のような者ではご不満でしょうか……? 僕はノリ様のお役には立てませんか?」
(う、う……あ……どうしよう……)
 普段、子供と接する機会などほとんどなかったから、泣きそうなリッセンを前に、どうしたら良いのかと右往左往する。
 異世界に来てしまったことと同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に、矩は困惑した。
(ど、どうしたら、さっきみたいに笑ってくれるんだろう……?)
 じっと潤んだ瞳で自分を見上げてくるリッセン。
 それを見ていたら――。
「ノリ様……?」
 矩は、小さなリッセンの頭に思わず載せてしまった手を軽く滑らせて、癖のある髪を撫でた。
 頭の上にある矩の手を、リッセンは不思議そうに首を軽く傾げて見遣っている。
(し、しまった、思わず……)
 矩は手を引こうとした。
 しかし、その手は、リッセンの小さな手に掴み取られる。
 リッセンは、大事そうに矩の手を抱え込みながら、ふわりと笑った。
「ありがとうございます」
 はにかみながらも嬉しそうな目を向けてくるリッセンを見て、矩は深い安堵の息をついた。
(良かった、笑ってくれた……)
「あの……ノリ様。これを」
 ベッドの端から何かを取り上げ、リッセンがそれを差し出してくる。
「急でしたので、一着しか作れなかったのですが……」
 リッセンの手の中にあるものは、若草色を基調にした布地の服だった。
「作ったって……リッセンが?」
「はい。サイズは合うと思います。どうぞお召し替えになって下さい。お手伝いいたします」
「いやあの、手伝いは……あー、じゃあ頼もうかな……」
 断ろうとした矩だったが、さっきの消沈したリッセンの様子を思い出して慌てて言い直す。
「はいっ」
 リッセンが身長差で手が届かない分を、思い切り背伸びをして補うのを見て、矩はベッドに座り直す。
 矩の着ていたパジャマを脱がし、リッセンは、若草色の上下を手早く身につけさせていく。
 最後に腰に茶色のベルトをして、着替えはすぐに終わった。
 リッセンは着替えさせた矩の姿を不躾にならない程度に見て、自分の作った服の出来映えが良かったことに安堵したのか、「良かった」と小さく呟いた。
「良くお似合いです、ノリ様。着心地はいかがですか?」
 改めて矩に向き直り、そう訊ねてくる。
「あ、うん。すごく良いよ。軽いし動きやすいし」
 その場で少し身体を動かしつつ、矩は答えた。
 実際、リッセンの作った服は、色合いといい、形といい、まるであつらえたようにしっくりと馴染む。
「ありがとう、リッセン。でも、どうしてサイズが解ったの?」
 何気なく訊ねた矩に、リッセンはぱっと顔を赤くした。
「リッセン?」
「あ……あの、申し訳ありませんっ。ノリ様が眠っていらっしゃる間に……そのぅ……採寸を……」
 最後は消え入りそうな声で、リッセンが赤い顔のまま必死で言葉を紡ぐ。
 矩は少し面食らったものの、何だか微笑ましい気分になった。
 眠っている間に採寸されたと解っても、それがリッセンなら気にはならない。
「そうなんだ。本当にありがとう」
「あ……も、勿体ないお言葉ですっ。また作らせて頂きます。いえ、作らせてください」
「え? それはさすがに大変なんじゃ……」
「そんなことはありません。僕はノリ様のために何かできることが嬉しいですから」
 顔を笑みで一杯にして話すリッセンはとても可愛い。
 しかし、同時に疑問も浮かぶ。
 どうしてリッセンは、ここまで矩を慕い敬うのだろう。
 ノーヴァの指示で矩の世話役になったということだから、ノーヴァから色々と聞いているのだろうが、そうだとしてもこれが初対面なのだ。
 いくら託宣の相手だと言っても、会ったことも話したこともなかった初対面の相手に、どうして――。
 ノーヴァの場合は、ノーヴァの目的があるから。
 しかしリッセンの場合は――ただ一点の曇りすらない、真っ直ぐな好意。
「あの……ノリ様」
「うん?」
 不意に、リッセンが真剣な声音で呼びかけてきた。
 柔らかく問い返した矩は、続いた言葉に固まる。
「ノリ様は、陛下の伴侶になられるんですよね」
「…………」
「そうしたらまた、この若草色のような緑が……本物の緑がたくさん見られるようになるんですよね。僕、ノーヴァ様にそうお聞きしてから、ノリ様にお会いできるのを楽しみにしていました。実際にお会いしたノリ様は、とてもお優しくて……僕の作った服を褒めても下さって。……この若草色は、まだお会いしたこともないノリ様に、僕がずっと抱いていたイメージなんです。そのイメージを、こうして形にすることができて本当に嬉しいです。ノリ様は、僕にとっての緑なんです。もし許して頂けるなら、今だけではなく、陛下の伴侶になられてからも僕がお世話をしたい、そう思います」
「…………」
 リッセンが真剣に一生懸命に言っていることが伝わってくる。
 だからこそ解った。リッセンが矩に向ける好意の理由が。
 リッセンにとって矩は、国にとって重要な存在だとか国を救う存在だとか、そういう問題ではないのだ。
 ただ純粋に、かつての緑を自然をもう一度見たい――ただ一途に、そう思っているだけなのだ。
 矩の存在が、緑を見せてくれると、そう信じているだけ。
 ――心が、軋むような音を立てたのを、確かに聞いた。
 矩は、ここに来て初めて、自分が何もできないことが辛いと思った。
 リッセンの一途な思いを、こうして何も言えずに聞くことしかできない自分が――。





−9−



 矩は、城の長い廊下をひとり歩いていた。
 リッセンはいない。
 ラディスの所に行くからとだけ言い残して部屋を出てきてしまった。
 ――結局、何も答えてあげられなかった。
 ずっと世話をしたいと言われたことに対しても、リッセンの緑への想いに対しても。
 何も答えず、曖昧にし、逃げてきてしまった。
 ただ国を救えと、王の伴侶になれと、そう言われたなら拒絶も反発もできる。
 しかし、リッセンに対しては――拒絶できない。したくない。
 かといって、緑を見せてあげる、とは言えない。それは嘘になる。
 リッセンに嘘をつきたくなかった。
 あの純粋な瞳に、嘘をつきたくなかった。
(本当にもう……どうしよう……)
 昨日よりも、どうにもならない状況に追い込まれた気分だった。
 ラディスの部屋に向かう足取りは重い。
 本音を言えば、行きたくなかった。
 しかし、リッセンにラディスの所に行くと言った手前、行かないわけにはいかない。
 それに、昨夜決めたはずだ、ラディスときちんと話をすると。
(悩んでいても仕方ないし……よしっ)
 矩は改めて気合いを入れ、ラディスの部屋へと向かった。





 数分後、矩はラディスの部屋の前で途方に暮れていた。
 勢い込んで来たものの、生憎、ラディスは不在だったのだ。
 気合いを入れて来た分、肩透かしを食った気分だ。
 しかし同時に、ほっとしたのも事実ではあった。
(……まあ、いないんじゃ仕方ないよな)
 あっさりと自分にそう納得させ、元来た道を辿る。
 自分の部屋の近くまで戻ってきて、足を止めた。
(リッセン、いるかな……)
 そう思うと気まずくて、また進行方向を変えてしまった。
 今度は宛てもなく、彷徨い歩く。
 城内はしんと静まり返り、ただ矩の歩く音だけが微かに響くだけだ。
 歩く先に人影は全くなく、人の気配すら希薄なのを不思議に思う。
 城にはたくさんの臣下や働いている人がいるだろうに……部屋を出てきてから一度も誰とも会わなかった。
 そうして、どのくらい歩いただろうか。
 気が付くと矩の視界の先――今矩がいる長い階段の下に、城の出入り口らしき場所が見えた。
 まだ大分距離はあるが、あそこから外に出れば――上からしか見たことのない街と荒野が広がっている。
(実際にこの国の様子を見てみたいって思ってたし、行ってみよう!)
 新たな目的を得た矩は、意気揚々とそちらの方へと足を踏み出そうとした。
「……ノリ様、どちらへ?」
「わあっ」
 無防備だった背中に、突然声を掛けられて、矩は飛び上がった。
「ノ、ノーヴァ……」
 ごく近くに黒いローブを纏ったノーヴァの姿があって、反射的に身を退く。
「ま、街の様子を見てみようかと……」
「街に……でございますか? ……」
 そこで口ごもったように言葉を途切れさせたノーヴァは、僅かに眉を寄せながら続ける。
「……それは次の機会になさって、まずは陛下とお話などなさって頂いた方が……」
「……部屋に行ったけど、いなかったから」
 そんなノーヴァを訝しく思いつつ矩が答えると、
「今の時間でしたら、陛下は執務室の方にいらっしゃると思います。執務室までご案内しますから、さあ」
 もうすっかり元の調子に戻ったようで、しかし、強引とも思えるような様子で矩を促してくる。
「え……いや、あの……仕事の邪魔しちゃ悪いし……」
「さすがはノリ様。素晴らしい配慮でございますな。では、陛下の休憩時間に改めてお部屋の方へ。それまでは、ノリ様のお部屋にてごゆっくりなさってください」
「は、はぁ……」
(つ、疲れる……)
 矩の部屋やラディスの部屋へ行く道順などをノーヴァが話すのを聞きながら、溜息をつく。
 ほんの短い会話なのに、ぐったりと疲れた気分になっている。
 どうやってこの場から逃げようかと思っていると、
「ところでノリ様。リッセンはどうですかな?」
 不意に、ノーヴァが訊ねてきた。
「え? どうって」
 リッセンという名に思わず反応して、ノーヴァと向き合ってしまう。
「リッセンはまだ子供ですが、しっかりしていて良く気の付く働き者です。ノリ様のお世話役としてお役に立つと思いましたが、いかがでございますか」
 そういえば、リッセンはノーヴァに言われて、自分の世話役になったのだと言っていた。
 だから、ノーヴァも気になっているのだろうか。
 気にしなくても、リッセンはすごく良い子で、あんな小さな手で服まで作ってくれて、それが自分のためだなんて勿体ないと本気で思う。
 その上、ずっと世話役をしたいとまで言ってくれて、そして――。
(……っ)
 リッセンが緑を見たいと言ったことまで思い出してしまい、また落ち込みが戻ってきてしまった。
「ノリ様?」
 そんな矩を訝しんだのか、ノーヴァがそう言ったので、矩は慌てて大きく何度も頷いた。
 それを見て、ノーヴァは、ほっとしたような表情を見せた。
「多少、身贔屓が入っていると自覚しておりましたが……それならば、ようございました」
「身贔屓?」
「リッセンは私の身内のようなものでございますので。……リッセンは赤ん坊の頃、森の入り口に捨てられていましてな」
「え……?」
「それを私が見つけて、今まで育ててきたのです。私には子も孫もおりませんので、リッセンのことは我が子同然、我が孫同然に思っております。そのリッセンがノリ様とお会いできるのを心待ちにしていたので、ノリ様がここにいらっしゃった折にはノリ様と近しく接せられるようにお世話役に、と――ノリ様がリッセンを気に入ってくださって本当に安堵いたしました」
 そう言ったノーヴァの表情には、はっきりとリッセンに対する親としての情が浮かんでいた。
 捨て子だったリッセンと、約10年、家族として過ごしてきた上にあるノーヴァとの繋がりが窺える。
 今までの矩のノーヴァに対する印象を覆す表情。
 矩に見せていたのは単なる一面にすぎないのだということが良く解る表情だった。
 ――そう、国を思うが故の。
 矩にしてみれば一方的に押しつけられて困惑することばかりだが、悪い人ではないのだ、この人は。
 ノーヴァにもそうせざるを得ない事情があるのだと、納得はできないが、推測することはできる。……できてしまった。
 ノーヴァは、遠くを見るような目で言葉を続ける。
 過去に思いを馳せる目。
「リッセンはそれはもう森が好きで、自分が捨てられていた所だというのに、毎日のように森に出かけては一日中でも緑の中で遊んでおりました。それが今のこの有様では――塞いでいるリッセンが可哀想で、ノリ様のことをお話したのですよ。託宣のノリ様がいらっしゃれば、また緑を見ることも感じることもできるようになる、と」
 そんな不確かなことをリッセンに言わないでくれ――とは言えなかった。
 もし自分がそんなリッセンを前にしたら、やはり同じように言ったのではないか、そう思ってしまったからだ。
 ――しかし。
「……リッセンは、俺がここに来てラディスの伴侶になれば、また緑が見られると言ったんだけど?」
 じっと疑いの目で見詰めた矩に、ノーヴァは、とんでもないというようにかぶりを振った。
「いいえ、本当にリッセンにはそれ以上のことを言ってはいないのです。恐らく、私が何度も陛下に“ノリ様を伴侶に”と言うのを耳にして話を繋げてしまったのでしょう」
 嘘ではないと、そう感じた。
 リッセンに関わりのあることで、嘘をつくとは思えなかったからだ。
「ノリ様には理不尽な話だとしか思えないでしょうが……。我が一族は何よりも国が大切だということはご存じでしょうか」
「セイとランスがそう言ってたけど」
「それは真実でございます。しかし……我が一族はヴァリスタ建国よりも以前からこの地に住み、神の意思を聞き、神からこの地を託された存在――このヴァリスタが建つ土地そのものが、我らにとって一番大切なもの。そしてヴァリスタは、長きに渡りこの土地を豊かにし繁栄させた国……この国を護ることは我らにとってこの土地を護ることと同義。ノーヴァの名にかけて、この国が滅ぶのを食い止める所存でございます。……陛下やノリ様の本意ではない手段を以てしてでも――」
 ノーヴァの口から放たれたのは、先程、矩が推測してしまったことを裏付ける内容だった。
 この国の危機は、ノーヴァ個人の問題ではない。
 矩がどう思おうと――拒絶しているのを解っていて尚、退くことのできない一族の強い意志。
 一族の間に連綿と続く、神から託された使命なのだと。
「……今しばらくは陛下の仰る通りにいたしますが、ノリ様にはこれから先のお覚悟をして頂かなければなりません。出来ればそうなる前に、ノリ様に陛下の伴侶となって頂きたいものでございますな……」
「え……?」
 矩には全くの謎の言葉を――不穏な響きのある言葉を紡ぐノーヴァを呆然と見つめる。
「……長話をいたしました。そろそろ陛下もお部屋に戻っておられることでしょう。それでは、私はこれで――」
 しかし、ひとつだけ解ったことは。
 八方塞がり。
 そう思う。
(知りたくなかった……ノーヴァの事情なんて)
 何も知らなかった時みたいに、簡単に突っぱねられなくなる――。
 去っていくノーヴァの後ろ姿を複雑な思いで見遣りながら、矩はその場に立ちつくしていた。





−10−



「…………」
 矩は今、ラディスの部屋の前に立っていた。
 ノーヴァと別れてから、随分と長い間その場にとどまったままだったから、ラディスが今も部屋にいるかどうかは解らない。
 閉ざされた扉は厚く、向こう側を窺い知ることはできないのだ。
 ノックすればいい――そう思う。
 しかし、躊躇いは変わらずある。
 二度目だから余計に、入り難いのかもしれない。
(駄目だ、前向きに行くって決めたんだから――)
 そう改めて決心して、扉を叩く。
 ――しばらく待ってみたが、返事はない。
(……もういないのかな)
 もう休憩の時間は終わってしまったのかもしれない。
 そう思い、諦めて帰ろうとした時――。
「やあ、ノリ。君だと思ったよ」
 内側から扉が開かれ、ラディスのものとは思えないほどの親しげな口調が聞こえてきた。
「……セイ」
 それもそのはず、そこに立っていたのはラディスではなく、セイラードだった。
「ラディスと話をしに来たの?」
「あ、うん……」
 昨日、別れた時の微妙な空気など微塵も感じられない、明るい声音だ。
 それに何となくほっとしながら、頷く。
「それじゃあ僕はもう行くよ。二人でゆっくり話しておいでね」
「えっ!?」
 もう帰るのかと、セイラードを見れば、
「そろそろ自分の部屋に行こうかと思っていたところだったからね」
 それだけ言うと、あっさりと部屋を出て行ってしまった。
 取り残された矩は、途端に心細くなる。
(セイラードがいるなら、話しやすかったのに)
 お互い会話するのは初めてだというのに、セイラードとランスロットとは打ち解けて話すことができたから、この場にいてくれればラディスとも緊張せずに話せるのではないかと思ったのに。
 しかし、どう思ったところで、セイラードは行ってしまった。
 まさか追いかけて呼び戻すなどできないし、やはり自分ひとりでラディスと話さなければならないらしい。
(でも……もともとそのつもりだったんだし……)
 ゆっくりと扉を閉めて、改めて部屋の中へと視線を向ける。
 矩にとっての始まりの場所だ、ここは。
 長い間、見続けてきた場所。
 昨日、自分が飛ばされてきた場所。
 ――ラディスの部屋だ。
 そのラディスは、昨日、セイラードたちと話す時に座っていた椅子に座り、こちらを見ていた。
「…………」
 目が合った途端、動けなくなる。
 喉がカラカラに渇いたようになって、声を出すこともできなくなった。
 ここまで緊張しなくても良いのに――まるで昨日の再現のように、固まったままラディスをただ見詰める。
 ラディスもまた、逸らすことなく矩を見ていた。
「……座らないのか?」
「えっ」
 一瞬、誰が喋ったのか解らなかった。
 しかし部屋には自分以外にはひとりしかいないし、何よりこの淡々とした話し方は、ラディスのものだ。
 黙っている矩を、ラディスは促すように椅子の方をちらりと見た。
 慌てて、ぎくしゃくと近くに寄って、ラディスの向かいの椅子に腰を下ろす。
 その動作に微かな音を立てて――そして、また沈黙。
 物音ひとつしない部屋の中で、二人、向かい合って座っている。
(折角、ラディスの方から話しかけてくれたのに――)
 ろくに返答もできなかった自分が情けない。
 椅子の上で縮こまるようにして、ラディスの感情の窺えない表情を見ているだけの状況に、居たたまれなさすら感じる。
 ……どのくらい沈黙が続いただろうか。
「昨夜は、よく眠れたか?」
 不意にまた、ラディスが話しかけてくれた。
 驚き半分、安堵半分で、矩は咄嗟に頷いてしまう。
 ……本当は、なかなか寝付けなかったのだが。
「無理はしなくて良い。突然こんなことになって、眠れなくても無理はない」
 しかし、ラディスにはお見通しだったらしい。
「あ、あの……確かに寝付けなかったけど、全然眠れなかったわけじゃ」
「そうか」
 やっとの思いでそう告げた矩に、ラディスは短い言葉を返す。
「…………」
「…………」
 そこで会話が途切れてしまった。
(ど、どうしよう……訊きたいことも知りたいことも色々あるのに、何からどう訊けば良いのか……)
 会話の糸口が見つからずにいると、
「セイから、大体のことは聞いている。この世界に来た時の経緯や……この国を見続けてきたことも」
 またもや、ラディスが口を開いた。
(あ……)
 ラディスなりに、矩との会話を続けようとしてくれているのだと気付く。
 嬉しくなって、何か答えようと思うのだが、言葉が出てこない。
「これからどうするのか――それを話しに来たのだろう?」
 勿論、それもある。
 しかしそれ以上に、ラディスの心の裡を聞きたい。
 その想いの方が強かった。
 それでも、いきなりそこまで踏み込むのは――そう思い、まず、この国にいるという意志を伝えようと決めた時、
「アリファルに行くと決めたなら、早いほうが良い。今日にはもう間に合わないが、明日にでもランスに送らせよう」
 矩がアリファルに行くものと決めてかかったような口振りでラディスが言った。
「昨日も言った通り、俺には元の世界に帰してやることはできないが、この世界で暮らしていくための手助けならいくらでもしようと思う。アリファルに行く際に必要なものがあれば、遠慮なく――」
「ちょ……俺はまだ何も言ってない!」
 勝手に進められていく話を、慌てて遮る。
「……アリファルには行かない。この国に――ヴァリスタにいる。俺はそれを言いに来たんだ」
 何とかそれだけは伝えなくては――そんな気分で、必死に訴えた。
「……この国にとどまると?」
 矩はきっぱりと頷いた。ラディスをしっかりと見詰めて。
 ラディスの表情には変化はなく、内心でどう思っているのかは解らない。
 しかしラディスは、矩がアリファルに行くことを勧めているのだから、きっと困惑しているのだろう。
 それでも、矩は退くつもりはなかった。
 例え、ラディスに、この国にいて欲しくないと思われていたとしても――。
「……そうか」
 軽く息をつき、意外にもラディスは静かに頷いた。
「そう言うのなら勿論、止めはしない。しかしこの国は滅びゆく国だ。いずれはいられなくなるかもしれない。それでも良いというのなら――な。さっきも言ったが、俺もできる限りの手助けはする」
(もっと強く反対するかと思った……)
 ますます本心が見えない。
(……でも、これでこの国にいられる……)
 少なくとも、それだけは確かだ。
「……ありがとう」
「……礼を言うことではない」
 矩の感謝の言葉を聞いたラディスは、微かに目を伏せ、強い口調で言った。
「言ったはずだ。この国は、この世界で暮らすのには不向きだと。それは良く解っているだろう。考えが変われば、いつでも言いに来ると良い」
(……! それって……)
 矩は、俯いて唇を噛み締める。
「……結局、ラディスは俺にアリファルに行けって言いたいんだ。それなら、はっきりそう言えば良いのに……」
 矩の意見を通すようなふりで、そんな釘を刺すようなことを言うラディスに苛立つ。
「そんなつもりはない。事実を言っただけだ。この国にいたいならいれば良いし、考えが変わればそう言えば良い。それだけのことだ。……この国に関わる人間を増やしたくないとは思っているが……」
「なっ」
 ――この国に関わる人間を増やしたくない?
 今度こそ、はっきりと頭にきた。
「俺はもう十分、この国に関わってるよっ」
 バン、とテーブルを叩いて立ち上がり、怒りのまま叫ぶ。
「セイから話を聞いたなら知ってるはずだ! 俺はずっと……!」
 その後は言葉にはならず、矩は、ラディスを見ることなく部屋から飛び出してしまった。

(俺はもうずっと何年も……長い間、この国を見てきたんだ……この国と関わってきたんだから……!)

 そんな思いが溢れて止まらなかった。





−11−



 走って走って、長い廊下を走り続けた。
 どこに向かっているのかは自分でも解らない。
 ただただ、走り続けた。
 ラディスと話をした。
 しかしそれは、ただ上辺だけの話。
 それでけでなく、ラディスの言葉にかっとなって、頭に浮かんだ言葉を投げ捨てて飛び出してきてしまった。
 もっとゆっくり、穏やかに、話をしたかったのに。
(……でも、あの言葉は聞きたくなかった)
 昨日、関係ないと言われた時にショックを受けた。
 そして今、関わってほしくないと言われて頭にきてしまった。
 セイラードから話を聞いて、矩が“関係ない”わけではないことを知っているはずなのに……それなのにラディスは、それでも関わって欲しくないとそう言うのだ。
 自分が、この国にもラディスにも“関係ない”存在だと言われたのと同じように感じられて、哀しくてたまらなかった。

「――ノリ!?」
 不意に、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
 その驚いたような声音に、思わず矩は足を止めた。
「どうしたんだ、一体」
「ランス……」
 振り返ってみれば、ランスロットの心配そうな顔が映った。
「な、何でもない……ランスこそ、今日は留守だったんじゃ……」
 自分は今、どんな顔をしているだろう。
 そう思うと、自然、顔は俯きがちになる。
「ああ、今帰ってきたところだ」
「そう……どこに行ってたの」
 それでも、ランスロットと話すことで、少し気持ちが落ち着いてきたのを感じる。
(――もう、大丈夫)
 ラディスへの感情に一時蓋をして、矩は顔を上げた。
 ランスロットは、まだ少し心配そうな様子だったが、矩の顔を見ていくらか安心したようだった。
 普段の調子に戻って、矩の質問に答えてくれる。
「アリファルの国境の砦まで。今日は、アリファルへの移住を希望する民を送っていく日だったからな」
「移住って……」
「言っただろ? 国を捨て他国へ行く者もいると。彼らを安全にアリファルまで送り届けるのが、今の俺たち近衛騎士団の仕事だ」
「……そんな」
「俺たちも悔しいさ。この国の王と民を護るのが務めだというのに、この国を出ることでしか民の安全を護れない自分たちが」
 ランスが、職務を全うできているかどうかと言葉を濁していたのを思い出す。
 あれは、こういうことだったのか。
「それでもアリファルに着くまでは……いや、どこに行こうと、彼らがヴァリスタの民であることに変わりはないからな。俺たちは今できることで務めを果たすだけだ」
 真摯で、力強い言葉。迷いのないそれは、近衛騎士団長という立場に相応しいものだ。
 この国で護るべき国民を、他国へと送り出す。
 それが、辛くないはずがない。
 滅びゆく国を護れず、他国へと行く国民を止める術がない。
 それが、苦しくないはずがない。
 そんな思いを抑え、ランスロットは――。
「ランスは……ちゃんと職務を全うしてる。そう思う。俺が、偉そうに言えたことじゃないけど……」
 気付けば矩は、そう言っていた。
 言わずにはいられなかった。
 厳しい表情をしていたランスロットは、矩の言葉にふっと優しい顔になって微笑った。
 ありがとう、と言うように。
 矩は、ほっとして、息をつく。
「……ノリがアリファルに行くと決めた時には俺が送ってやるぞ。……本音は、そんな時が来なければ良いと思ってはいるけどな」
「ランス……」
 その苦く優しい声と言葉は、いつまでも矩の耳に残った。






「ノリ様!」
 躊躇いがちに開いた扉の中、リッセンが笑顔で矩を出迎えた。
 何も答えず逃げるように部屋を出たから、リッセンのその反応は矩に安堵をもたらした。
 ラディスの部屋を飛び出して闇雲に走った矩だったが、そこから自分に宛われた部屋はそう遠くなかった。
 おかげで、自力で戻ってこられたのだった。
 広い城内、ほんの一握りの場所しか知らない矩だ。迷ってしまったら、ひとりではとても部屋まで戻れなかっただろう。
 矩は二重の意味で、安堵の溜息をつく。
「ノリ様、お腹がお空きでしょう。すぐにお食事の支度をいたしますね」
 そう言われて、急に空腹を感じた。
 思えば、この世界に来てから何も口にしていない。
 昨夜はそれどころではなかったし、朝は寝坊して、部屋にも居辛くなって歩き回っていたからだったが、さすがに限界のようだ。
「うん」
 迷うことなくそう答えると、リッセンは嬉しそうにひとつ礼をして部屋を辞した。
(いつまでもこのままってわけにはいかないだろうけど……)
 今は、リッセンのこの態度に甘えたい。
 10歳そこそこの子供に甘えるのは情けなくもあるし、心の痛みは消えずに残っている――しかし、もう少し。
 もう少しだけ……。
(俺って……こんなに弱かったんだ……)
 普通に暮らしていた今までは気付かなかった。気付けなかった。
 大きすぎて、自分の手には余る状況。自分の心には余るそれぞれの想い。
 いつか向き合わなければならないのだと、そんな予感を抱えながら。
 それでも、もう少しだけ――。




 ほどなく、リッセンが食事を運んできてくれた。
 少し早い夕食といったところだろうか。
 しかし、空腹感には勝てない。
 ふんわりと柔らかそうなパン、温かいスープ、何かの動物の肉、生野菜などがテーブルに並べられていく。
 食欲をそそる匂いが、部屋に満ちる。
「もしかして、これもリッセンが?」
「はい。僕が作りました。お口に合うと良いのですが……」
 リッセンの答えに驚きつつ、食事を口に運ぶ。
(美味しい……)
 すぐに次の料理へと、手が伸びる。
 リッセンの作った料理はどれも口当たりの良いものばかりで、とても美味しかった。
 しばらく黙々と食べて、お腹が適度に満足したところで、矩は給仕をしてくれていたリッセンを見た。
「リッセンってすごい……」
「え?」
「だって、服も作れるし、こんな美味しい料理も作れるし。まだ小さいのに何でもできるんだな、って」
 矩は、リッセンくらいの年の頃はおろか、17歳になった今でも家事の手伝いひとつ、ろくにしたことがない。
「そんな……褒められるようなことじゃありません。僕にはそれくらいしかできませんから……」
「それくらいって……十分大したことだよ」
 おろおろとしているリッセンに向かって、本気でそう言った。
「そんな……でも……ノリ様にそう仰って頂けると、嬉しい、です」
 はにかみながら笑うリッセンに、矩にも自然と笑みが浮かんでくる。
 リッセンの笑顔を見ると、心が溶けていくようで、良い気分になれる。
 食事もきっと、ひとりで食べるよりも美味しい。





−12−



「ノリ様、こちらデザートです。甘くて美味しいですよ」
 リッセンが透明な器を差し出しながら、そう言った。
 器の中には小さな青い実が入っていた。
 何の実だろう。
「ルカの花の実です。花が咲き終えた後は、こうして青い実が成ります」
 ルカの花の実。
 それを語るリッセンの表情は、愛しいものを見ているようで、どのくらいリッセンがこの花が好きなのかが良く解る。
「リッセンは、この花が好き?」
 答えは予想できたが、リッセンの言葉を聞きたくて訊ねる。
「はい、とても」
 思った通りの答えを聞いて、矩は嬉しくなった。
「僕は植物が好きで、そのなかでもルカの花は特別好きなんです」
「ふぅん。ルカってどんな花?」
「ルカの花は、ヴァリスタにしか咲かない小さな青い花です。とても綺麗ですよ」
「え? ヴァリスタにしか咲かない……?」
「はい。かつて、アリファルで種を植えてみたことがあったらしいんですが、どれだけ世話をしても芽さえ出なかったそうです。以来、ルカの花はヴァリスタの国花になったとか」
 器の中の実を優しい瞳で見ながら話していたリッセンの表情が、不意に曇った。
「リッセン?」
「ヴァリスタの周囲の森や、街の中……以前は数え切れないほどのルカの花が国中に咲いていました。ですが今は……城内の庭園にしか残っていません……」
 哀しい声で、リッセンが呟く。
 矩は、その言葉に愕然とした。
 自分がラディスとともに見ていた植物の多くはこのルカの花だったのだ。そして、日々失われていったものでもある……。
 目の前のルカの花の実を見つめる。
「そ、そんな大事なもの……俺が食べて良いの……?」
 おずおずと訊ねた矩に、リッセンはすぐに明るい表情に戻って頷いた。
「勿論です。僕、ノリ様がいらっしゃったら、絶対に食べて欲しいって思っていましたから。ルカの花も見て欲しいって思っていましたから」
「リッセン……」
「大丈夫です。僕がずっと、種を蒔いて、水をあげて……毎日、世話をしていますから。その甲斐があったのか、ルカの花は庭園にはたくさん咲いています。だから……どうか食べてみて下さい」
「…………」
 懇願するようなリッセンを前に、躊躇いながらも器に手を伸ばす。
 柔らかなその実は、微かに甘い香りを漂わせていた。
 甘ったるい香りではなく、爽やかな甘い香り。
 申し訳ないような気持ちになるのも申し訳ない気がして、思い切って口の中に入れてみた。
「甘い……」
 香りと同じ、爽やかな口当たりの、甘い果実。
 甘すぎないそれが、口の中に広がる。
「リッセンの言う通り、すごく美味しいよ」
 いくつでも食べたくなる、そんな味だった。
「お口に合って良かったです」
 ふんわりと口元を綻ばせてリッセンが喜ぶ。
「今度は……花が見たいな」
「はい! 次の機会には、庭園をご案内します」
「うん」
 穏やかな空気、楽しい会話。
 矩は、弟ができたような気分になる。
 それは、兄弟のいない矩には、異世界にひとり来てしまった矩には、くすぐったくも嬉しいことだった。





 リッセンが空になった食器を下げ、就寝の挨拶をして出て行った後、部屋には静けさが充満していた。
 さすがに入浴まで手伝ってもらうのは遠慮したが、リッセンは残念そうにしていた。
 あまりにも広い湯殿を持て余しながら、矩は溜息をつく。
 寝るにはまだ早い時間だったので、正直なところ、もう少しリッセンと話していたかった。
 昨日と同じように、こうしてひとりになると不安が押し寄せてくる。
 何もかもが違う生活。
 新しい何かに触れることは楽しくて、目に映るものへの好奇心も湧いてくる。
 しかしそれは、誰かが一緒にいる場合だ。
 ひとりになると、全く駄目になる。
 まだ、たったの二日間。
 元の世界にいれば短く感じる時間も、この世界にいても誰かと話していればそれなりに過ぎる時間も、今は途轍もなく長く感じられて――。
 湯の中にいても、温まったという気が全くしない。
 矩は早々に、湯から上がった。
 リッセンが用意してくれた寝衣を着て、ベッドに腰掛ける。
「…………」
 静かな部屋は考えごとに適しているようでいて、実のところは逆だった。
 楽しいことよりも、痛みばかりを思い出してしまう。
 リッセンのこと、ノーヴァのこと、ランスロットのこと、移住していく民のこと。
 ――ラディスと、衝突してしまったこと。
(何もかも上手くいくなんてこと……急には無理だよな……)
 そう考えて無理矢理納得させようとしてみても、出るのは溜息ばかり。
 視線を廻らせると、カーテンに覆い隠された窓が見えた。
 ふと、そこから見えるだろう景色に興味を覚え、矩は窓の方へと歩み寄る。
 目に優しいクリーム色のカーテンをそっと開けると、ラディスの部屋ほど大きくはないが、ピカピカに磨かれた綺麗な窓が現れた。
 窓越しに見た外の景色は、夜の黒。
 街の灯りは見えないだろうかと、窓を開けてみようした時――。
 小さな、ノックの音がした。
 聞き間違いかと思えるほど、小さな音だった。
 それきり何の物音もしない。
(……?)
 訝しく思って、矩は窓から離れて扉の方に近付く。
 間近まで来てみて、扉の向こうに誰かがいるような気配を感じた気がして、首を傾げる。
(いるなら声を掛けてくれれば良いのに……)
 昼間、ラディスの部屋の扉の前での自分の行動を棚に上げてそう思う。
 恐る恐るノブに手をかけて、ゆっくりと押し開いた。
 少しの隙間から見えたのは、金色がかった茶色の髪と、茶色の瞳――。
(え……)
「……ラディス!?」
 慌てて扉を大きく開け放つ。
 そこに立っていたのは、昼間、喧嘩別れした――いや、矩の方が一方的に憤りをぶつけた、ラディスだった。
(何でここに、ラディスが……?)
 想像もしていなかった相手を、呆然と見上げる。
 言葉もなく、まじまじとラディスを見つめた。
 ラディスの表情は――相変わらず読み取れない。
 ただ、張り詰めたような空気に、少しだけ圧迫感を感じた。
 ラディスは、そんな矩をまっすぐ見て、呟く。
「……入っても、良いか?」
「え……?」
 ラディスのそれは、何でもない当たり前の問いかけだったのだが――。
 矩は咄嗟に反応できなかった。
「入っても良いか?」
 何も言わない矩に、重ねてラディスはそう訊ねてくる。
(入るって……この部屋に?)
 ようやく言葉が頭の中に浸透し、
「え、ええっと……どうぞ……」
 矩は脇に寄り、ラディスを部屋の中へと促した。
 その瞬間、ふっと空気が凪いだ。
 張り詰めていたものがなくなったのを感じて、矩は部屋へ入ってくるラディスの動作を不思議な気持ちで眺める。
(……あ……)
 ラディスのほっとしたような表情が垣間見えて、矩は軽く目を瞠った。

 閉めた扉の音が、妙に大きく響いた。





−13−



 どうしてここにラディスが来たのか解らなくて戸惑いながら、扉を閉めた格好のまま部屋の中程にいるラディスを振り返る。
 ラディスはまっすぐ矩を見ていた。
 静かな夜、静かな部屋。
 先程までの静寂とは違う種類の静けさ。
 ラディスがいるだけで、部屋の空気が変わったような気がした。
「……あの」
「もう休むところだったのだろう? ……突然、すまない」
 思い切って話し掛けようとしたところを、ラディスの声が遮った。
 寝衣を着ているのを見て、もう寝るところなのだと思ったのだろう。
「……ただ着替えただけで、まだ寝ようと思ってたわけじゃないから」
「そうか」
「…………」
 相変わらず、会話が続かない。
 どうしようかと逡巡していると、
「……ノリ」
 落ち着いた、心地良い声が矩の耳に届いた。
 短い、たった二文字の言葉。
 しかし、矩にとっては唯一の言葉が。
(今、名前を呼んだ……?)
 初めて、ラディスが矩の名前を。
 瞬間、湧き上がった気持ちをどう表現したら良いだろう。
 ただ名前を呼ばれただけで、こんなに昂揚する気持ちを――。
「……昼間は、すまなかった」
「えっ……?」
(昼間って……)
 ああ、と思い当たる。
 そうだ、自分は昼間、ラディスの部屋を飛び出してきてしまったのだ。
 どうにも腹立たしくて。どうにもやるせなくなって。
 ラディスが訪れたことに驚いて、そのことが飛んでしまっていた。
「重要な存在だと、俺の伴侶にと、もう既にノリをこの国の事情に巻き込んでしまっているというのに、関わって欲しくないなどと言って……ノリが怒るのも無理はない」
 だから、すまなかった、と。
 再び言う。……矩に頭を下げてまで。
 心から言っているのが解る。
(でも……)
「違う。俺が怒ったのはそこじゃなくて……」
「ノリ?」
 言葉を切った矩に、訝しげにラディスが訊き返す。
「……ううん、いいや、もう。俺こそ、あんなふうに一方的に怒りをぶつけて、ごめん……もう、怒ってないから」
 本当に、そう思う。
 怒った理由を勘違いして、真剣に謝るラディスを見ていたら、呆気なく怒りは冷めてしまっていた。
「……それを言うために、ここに?」
「ああ……それともうひとつ、言葉が足りなかったことにも」
「え?」
「少し、焦っていた。そのせいで、ノリを傷つけるような言い方をしてしまった」
「焦るって……何を?」
「託宣のことは国中の者が知っている。今はまだ、ノリがこの世界に来たことを知っている者は限られているし、全員にそのことを伏せておくように言ってあるが……いくら箝口令をしいたところで、いつどこで漏れるか解らない。アリファルに行くのならばできるだけ早く――皆がノリの存在を知る前にと、気が急いていた」
 矩がこの世界にいることが知られれば、良くも悪くも国中が大騒ぎになり、ヴァリスタを出るのは難しくなるのだ、と。
(託宣のことを、皆が知ってる……)
 そこまで考えが至らなかった矩は、ラディスの言葉を呆然として聞いていた。
「ヴァリスタにとどまるも、とどまらないも自由だと言いながら、配慮に欠けた物言いをしてしまったな」
「……ラディス」
「……どうした?」
 矩の声が微かに震えているのに気付いたのだろうラディスが、気遣わしげな様子を見せた。
 そのことを嬉しく思う余裕もなく、矩は絞り出すように問いかける。
「……俺、この国の人にどう思われてるんだろう……」
「ノリ……」
「ノーヴァみたいに、皆、俺が国を救う存在だって思ってるのかな……? だったら……俺はどうすれば良い? 国を救える方法なんて解らないのに……」
 弱気な感情ばかりが湧き上がってきて、自分でも止められなかった。
「ノリ」
 不意に、ラディスが諫めるような強い口調で矩の名を呼んだ。
「人の思いは千差万別だ。預言だけを信じる者もいれば、預言の内容を自分で解釈している者もいる。滅びゆく国を見限って国を出る者もいる。ひとりひとりの考えていることなど、その者自身にしか解りはしない」
「…………」
「そして、この国で今も暮らしている理由も、人それぞれだ。預言どおりにノリが現れるのを信じて待っている者、国を捨てられない者、出て行きたくても行けない者……だが、皆の思いをノリが負う必要などない。皆の思いを受け止め、皆を導びかなければならないのは、王である俺ひとりだけだ」
 自分が吐いた弱音を思わず引っ込めてしまうほど、ラディスの瞳は強く前を見据えている。
(……この瞳、見たことがある)
 この世界に来る直前、新たに失われた緑を前にした時に見せた、あの決意を秘めた瞳。
 夢を介さず、間近で見るそれは、矩が今まで見たどんなラディスよりも、力に溢れていた。
「それが、国を皆から預かる者としての俺の務めだ。皆が暮らす国が滅んでゆくのを食い止められず、皆の安寧を護れずにいる俺の責任だ」
 セイラードたちが、ラディスは自分ひとりで背負い込むのだと、そう言っていた。
 今、矩はそれを目の当たりにしている。
 それぞれが抱える思い、それは勿論、ラディスにもある。
 そうして彼が抱えるものは、矩には想像することしかできないほど深く重いのだ。
 秘めた決意の意味は解らなくても、それだけは感じられた。
(でもそれって……哀しい気がする……)
 王だから。務めだから。責任だから。
 たったひとりで、全てのことを背負う。
 寄りかかって欲しいと願っているだろう、セイラードやランスロットが傍にいるのに。
 ラディスに感じたあの孤独感は、間違いではなかった。
 ラディスは、自分で自分自身を孤独にしてしまっている。
 知りたくて堪らなかったラディスの心の一端は、こんなにも――哀しくて寂しい。
 そして、それをラディスが当然のことと受け止めているのが――。
 そんなラディスが、どうにもやるせなくて堪らなかった。
 なんとかしたくて、しかし、今の矩にはどうする術もないのが、悔しい。
 常にラディスの傍にいたセイラードとランスロットの痛みが、朧気ながら察せられた。
 しかし、察することはできても、本当の痛みは本人にしか解らなくて――。
 知りたいと思うだけでは駄目なのだと、矩は思い知った。
 それでも尚、思う。
 ラディスの心を知りたい、と。
 しかし、それは言葉で、だけではない。
 言葉で聞き出した心だけでなく、自然と伝わってくるラディスの心。
 欲しいのはそれだった。
 そうすれば、自分がどうすれば良いのか……どうしたいのかも、解るような気がした。
 矩は改めて、ラディスの瞳に視線を合わせる。


 ヴァリスタに……ラディスの傍にいよう。
 この世界にいられる限り――。



 固く決心した矩には、もう先程までの弱気など微塵もなかった。





−14−



「決めたよ、ラディス。やっぱり、俺はアリファルには行かない。ラディスの気持ちは解ったけど、ヴァリスタ以外の国なんて嫌だから」
 きっぱりと、迷いなく言い切る。
 自分の立場や民の自分への思い、不安なことも悩むことも多々あるだろうが、そこにとどまって動けなくなることだけは嫌だった。
 だから、そうならないように、自分への戒めも込めて、ラディスに意志を伝えた。
 それを理解してくれたのか、ラディスは、
「……そうか」
 ただ短く、ひとことだけ返す。
「うん」
 力強く頷いた矩は、ラディスから決して目を逸らさなかった。
「……ノリは強いな」
「……そんなことないよ」
 心でそう決めただけで、矩にできることはまだ何もない。
 国を救う存在だと認められるわけもないし、リッセンにかつての自然を見せてあげることもできない。
 しかし、ラディスが矩に負う必要はないと言ってくれたように、矩もまた、ラディスに何もかもをたったひとりで背負って欲しくはないと、そう思ったから――。
 この国のこと、ラディスのこと……この世界のことを感じたい。
 今まで一番強くそう願う。
 そうして、本当に自分がしたいことを見つけるのだ。
 時間はかかっても。
(……って、本当はそんな悠長にしている時間はないんだろうけど……でも……)
 いつ滅びるか解らないこの国で、自分は今こうして生きているのだから。


「……ノリ、もうひとつ言っておかなければならないことがある」
「えっ? 何?」
 改めて決意を固めていると、ラディスが言い辛そうに話し掛けてきた。
「……悪いが、この城の中から出ないで欲しい」
「――――」
「城内でのことなら、俺もセイやランスも気を配ることができる。だが、一歩城を出れば……街中でのことはなかなか目が行き届かない。それこそ、街中でノリが託宣の主だと知られても、早急に手を打つこともできない。だから――」
「ちょ……ちょっと待って」
(託宣のことは国中の皆が知っていて、俺が今ここにいることは伏せている状況で……でも、ばれたらまずくて、だから外に出たら駄目ってことで……えーと……)
「それって……いつまで……?」
 恐る恐る訊ねてみる。
「…………」
 しかし、返ってくるのは沈黙だけで、ますます不安を煽る。
「……もしかして、ずっと、とか言わないよね?」
「……いや……できればノリの存在を皆に知られるのは避けたいから……そう、しばらくの間は……」
「しばらくって……でも、状況が変わらないなら、結局はずっと城から出られないんじゃ……」
「……いや……」
 はっきりしないラディスがじれったくて堪らない。
 それでも、昼の繰り返しにはしたくないから、それを何とか抑え込もうと必死になった。
「はっきりした期間は言えないが、そんなことはないと約束する。窮屈な思いをさせるが、解ってもらえないだろうか」
 強い語調に、矩はぐっと言葉に詰まる。
(……約束なんて……断言して良いのか……?)
 そうは思うが、ラディスの言葉には抗い難い力強さがあった。
 それに圧されて、渋々、矩は頷いた。
「……解った……」
「そうか……感謝する」
 ラディスが安堵したように、声音を緩めた。
「城内では下層フロア以外は自由にしてくれて構わない」
「下層フロア?」
「下の方は人の出入りが多いからな。上層フロア――ノリの部屋がある一画や、俺やセイやランスの私室……ああ、執務室にも自由に出入りしてくれて構わない」
 ラディスの話によれば、上層部に出入りできる人間は限られていて、たくさんいる臣下の多くは上層部には滅多なことでは出入りできないらしい。
 王であるラディスや、側近であるセイラードとランスロット、預言師のノーヴァ、幾人かの主立った臣下、そして彼らの世話をする者など、ごく僅かな人数しか上層部にはいないようだ。
 つまり、矩がこの世界に来たことを知っているのも、今のところは彼らだけということになる。
(はー……すごい徹底してる……)
 そうまでして自分の存在を隠すつもりなのだ。
 存在を知られたら困るのは自分だということも良く解るので異論はないが、それでも少し感心してしまった。
「でも、執務室に……仕事をする場所に、俺が出入りするのはまずくない? ……そりゃ、ヴァリスタにいるって決めたからには、この国のことをもっとしっかり知りたいけど……」
 政務や重要な取り決めが行われるだろう場に、昨日今日来たばかりの自分が入っていくのはどうかと思うのだ。
「そんなことは気にしなくて良い。今日からこの国がノリの国になるのだろう? 自分の国のことを知るのは当然の権利だし、現状を知るには政務の場にいるのが一番だ。俺としてもヴァリスタという国の実際を知ってもらう方がありがたい」
 しかし、ラディスはあっさりと矩の出入りを肯定する。
 そして、嬉しい言葉までくれた。
(この国が、自分の国、かあ……。でも、ありがたいって……何で?)
 最後のひとことに引っかかりを覚えるが、それを口には出さなかった。
 何となく聞いてはいけないような――聞いたらまたラディスと拗れるような気がして。
 折角、こうして普通に話せているのに、それを聞いたらまた、昼に逆戻りしてしまいそうで。
 どうしてそう思ってしまったのか、自分でも解らなかったが、矩は口を噤んで肯定の言葉だけを返すことにする。
「それじゃあ、遠慮なく。できるだけ仕事の邪魔にならないようにしてるから」
(早速、明日、行ってみようかな? あとは……そうだ、リッセンに庭園を案内してもらうんだっけ……あれ、でも庭園って……)
「下層部に行くのが駄目なら、庭園にも行けないってこと?」
 ふと気付いた疑問を、思わず口にする。
「庭園? 何かあるのか?」
「うん。リッセンが、庭園を案内するって言ってくれてたんだけど……」
「庭園か……」
「今、この国でルカの花が咲いている唯一の場所だって、リッセンが。だから、それを見たいなって」
「ルカの花か。心配しなくても、庭園は上層部にもあるから、そちらの方に見に行くと良い」
「えっ? そうなの?」
「規模は小さいが、屋上にな。――ああ、遠くからで良ければ、下の方の庭園も見られるが」
「え……どこから?」
「この部屋から」
 そう言ってラディスは窓に歩み寄って、開きかけのそれをそっと押し開いた。
 窓の遥か下を眺め降ろすラディスに倣って、矩もその後ろから窓の外を覗き込む。
 しかし、城内の僅かな灯りでは暗くてはっきりとは見えない。
「ここは庭園に面した窓だ。明るい時ならば、ルカの花も良く見えるだろう」
 訝しげにラディスを見遣ると、説明を加えてくれた。
「へえ……全然気付かなかった……」
(この窓から庭園を見下ろせたんだ……明日の朝、見てみよう)
 明日の朝、ここから見下ろせる風景がどんなふうに変わるのか、楽しみになる。
「ああ、夜に随分と長居をしてしまったな」
 そう言ってラディスが窓を閉め外の景色が隠されていくのを名残惜しく見ていると、ラディスはそのまま部屋の出入り口へと向かった。
 もう部屋に戻るのだろう。
(もっと話をしていたかったんだけどな……)
 ラディスが扉を開いて部屋から出ていくのを、少し残念に思う。
 しかし、ラディスは扉を閉める前にノリを振り返った。
「――お休み、今夜はゆっくりと眠れるように祈っている」
「あ、ありがとう……お休み」
 昨夜良く眠れなかったことを言っているのだと解って、去っていくラディスの背中に向かって慌てて言い返したが、それがラディスの耳に届いたのかどうかは矩には解らなかった。
(でも……)
 気遣いと優しさの混じった言葉は、矩を温かく包んでくれた。





−interlude(1)−



 お休み、という声が、背後で聞こえた。
 ラディスが言った言葉に対する、矩の返事だろう。
(ノリ……。ノリ……か)
 彼の名前を反芻する。
 突然現れた、異世界からの訪問者。
 ノーヴァの預言通り、黒髪と黒い瞳、ノリという名前の。
 いつ現れるかも解らなかったノリという存在が、今、確かにこの国にいる。
(不思議なものだ……)
 預言を信じないわけではない。
 この国の歴史と預言は密接に絡まり合って、離れることはなかったのだから。
 ――そう、今の自分の代になるまでは。
 以前から、その在り方の変貌を疑問視していた儀式だ。
 戴冠式の日、託宣が降りなかった時点で、ラディスは預言に頼るのをきっぱりとやめた。
 ノーヴァが預言の間に籠もって託宣を祈り待ち続けた時も傍観していた。
 だから、託宣が降りた時には、驚いたものだった。
 今回のそれは、あまりにも不確かで、どう重要な存在になり得るのかすらも解らない。
 ノーヴァのように託宣を独自解釈する気にはなれなかった。
(託宣の内容を国民に広めてしまうのを止められなかったのは失敗だった……)
 今でも、そう思う。
 枯渇を食い止める手立てを講じて実行してきたが、追いつかない。
 そうなれば、託宣に縋る者は増え、自分達の力で何とかしようという気力が薄れる。
 待って、待ち続けて、それでも尚、現れないと解ると、国を捨ててしまう者もいた。
 まだ託宣が降りていなかった時、多くの者が託宣が降りなかったのが枯渇の原因と考えてこの国を去った。
 その時にも減ったこの国の人口は、月日を重ねる毎に更に減ってしまった。
 それらを止められなかった責任は、自分にある。
 だからラディスは、預言は信じても、それを待つことはしない。期待もしない。
 伴侶など、いらない。考えることすらもしなかった。
 今はそんな場合ではないのだ。
 どうすれば民の安寧を護れるのか、どうすれば滅びゆく国に光を当てられるのか。
 自分が考えなければならないのは、しなければならないのは、それだけだ。
 それが、今になって。
 戴冠式から5年も経った今になって、ノリが現れた。
 ノーヴァは喜び、今まで以上に、ノリを伴侶に迎えるようにと進言してくる――。
「陛下」
 掛けられた声に、そちらを見遣る。
 前方からやってきたのは、今さっき考えていた、ローブを纏った老人・ノーヴァだった。
 近くまで来ると、ノーヴァは腰を折って礼をした。
 随分と、機嫌が良さそうだ。
「ノリ様のお部屋にいらっしゃったのですな」
「……ああ、そうだ」
「それはそれは……このノーヴァ、安堵いたしました」
 ノーヴァはどうやら、ラディスが矩の部屋を訪ねた理由を誤解しているらしかった。
 しかし、あえて訂正はしない。
 早くノリの存在を民に広めたいと思っているノーヴァのことだ。
 王としてしいた箝口令を今は守っていても、この先の保証はない。
 ノーヴァは王に仕える存在だが、その絶対使命は、この土地へと向けられるものだ。
 土地が滅んでいくのをいつまでも黙って見ていてくれるはずもない。
 ノーヴァが誤解して、猶予期間を得られるのならば、それでも良かった。
「こうなれば、一日も早く婚儀の日を迎えられますよう」
「……性急に過ぎるぞ、ノーヴァ。まだ箝口令は解除しない。絶対に、ノリの存在を公にするな。良いな」
 逸るノーヴァに釘を刺すのも忘れない。
 矩を伴侶にする気などないのだから。
 この国を第一に考えるノーヴァの存在はありがたいが、手放しでノーヴァの進言通りことを進めることはできないのだ。
「は……」
「もう休む」
「……お休みなさいませ、陛下」
 深く礼をするノーヴァをその場に残し、ラディスは私室へと戻った。






 ひとりになり、椅子に腰掛けたラディスは、空を見つめる。
 ずっと、考え続けてきたことがあった。
 民にとって一番良い方法を模索する中で、考えた案が。
 いや、案ではない。
 もう、それしかないと思っていた。
 しかし、あと一歩の踏ん切りがつかずにいた。
 王であるラディスとて、この国に生まれたこの国の民だ。
 国を大切に思う気持ちは、十分以上にある。
 だからこそ、決断するのに迷いが生じた。

(だが、もう――迷いは、捨てる)

 あとは、それを、いつ、どう実行するか。
 ノーヴァが反対するのは承知の上。
 民を納得させるのが至難の業なのも承知の上だ。
 それでも、迷い続けるのはいい加減に終わりにしなければならない。
 迷っている間にこの国が滅んでしまっては意味がない。

(そして、あとは――ノリをどうやって説得するか、だな……)

 矩の部屋で交わした会話は、脳裏に深く刻まれている。
 悩み戸惑いながらも出した矩の答えは固く、容易には動かせそうになかった。
 そこまで思ってくれることを嬉しく感じるし、そんな矩を尊重したいとも思った。
 しかし――。
(それでも……ノリももうこの国の民……護るべき民だ。この国とともに滅びさせるわけにはいかない)
 矩が、この国の実情を深く知ってくれるのを願う。
 漠然としてではなく、深く実感してくれるのを。
 それには、実際に街に出て矩自身の目で確かめるのが一番だが、それはできない。
 ならば、執政の場を矩に見てもらうしかない。
 そうすれば、この国には、未来の見えない国には、いられないと思ってくれるかもしれない。
 考えを変えてくれるかもしれない。
 矩の決意の強さを知りながらも、そう願ってしまう自分がいる。

『決めたよ、ラディス。やっぱり、俺はアリファルには行かない。ラディスの気持ちは解ったけど、ヴァリスタ以外の国なんて嫌だから』

 矩のあの言葉が、頭から離れなかった。
 耳に痛い言葉だった。
(この国はもうノリの国だなどと言って……結局、その国を捨てさせる羽目になるのだな)
 本来の住む世界を遠く離れて、ここに飛ばされてきた矩。
 預言に、神に、導かれたのか。
 それとも、もっと他の要素により喚ばれたのか。
 矩は今、帰る方法すらない状況に置かれ、そうして新しく得た居場所さえも奪われる。
 他ならぬ、ラディス自身によって。
(預言とは……託宣とは何なのだろうな。神とは一体――……)
 矩に何を背負わせようというのか。
 何故、矩なのだろうか。
(現れない方が良かったのだ。国にとっても、民にとっても、俺にとっても……そして、ノリ自身にとっても……)
 いくら長年見続けてきたとはいえ、この国のことで重要な責を負わせるなど、あってはならない。
 いや、背負わせはしない。
 関係ないからではない、この国の民のひとりであるからこそ。
 矩を護る。
 託宣からも、滅びからも。
 それが、矩の意志に反することになっても――。

(全ては、俺が――)







To be continued...



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