■伝える言葉■


−1−

「話があるんだけど」
 放課後。
 そう言って、俺は、今日クラスメイトになった小倉宏也(おぐら・ひろや)を学校の裏庭に連れて行った。
 小倉は、良いとも嫌とも言わず、ただ引かれるままに俺の後をついてきた。
 小倉と向かい合って俺は口を開く。
「話っていうのは……」
 大きく息を吸い込んで、はっきりと告げる。
「―――好きだ」




 今日は高校の入学式だった。
 体育館で校長の話を聞いている時、俺はふと斜め前のほうに視線を向けた。
 その席に座っている生徒。
 俯いて、校長の話を聞いているのか聞いていないのか良く解らない。
 俺は、その時、校長の話なんか耳に入っていなくて、ただその生徒を見ていた。
 顔はよく見えないのに。
 特徴のある背格好でもないのに。
 何故か、目が離せなかった。

 結局、式が終わるまで俺は、ずっとそいつを見ていた。
 退場する時にはさすがに見ているわけにはいかなかったけど。
 相手の名前も解らないけど、別に良かった。
 そいつの座ってた席のクラスは、1年3組―――俺と同じクラスだったからだ。
 少なくとも、教室でまた会える。
 だから俺は、体育館から出た後、すぐに教室へ向かった。


 俺が教室へ入った時、まだ僅かな生徒がいるだけだった。
 目的の人物は、まだ来ていなかった。

 それからしばらくして、続々と生徒たちが教室に入ってくる。
 でも、ほとんどの席が生徒で埋まり、チャイムが鳴っても、肝心の人物が来ない。
 まさか。
 まさか、同じクラスじゃなかった?
 ……そんな筈ない。
 確かに1年3組の席に座っていた。
 だから、待っていればここへ来るはず。
 絶対に。

 そんな俺の祈りにも似た想いが通じたのか。
 前のドアから入ってきた先生のすぐ後ろに、そいつはいた。
 俺の、待っていた人物が。
 先生が教壇に立つと同時に、そいつも空いている席につく。
 俺はその様子を、じっと見ていた。
 体育館では、俯いてよく見えなかった顔。
 今も俯いていて、よくは解らないけど、席に着くまでの間は立っていたせいか体育館でよりはよく見えた。
 感情を表さない表情。
 整った顔をしているけど、あまり顔色は良くない。
 笑ったらきっと、可愛いんだろうなと思う。

 先生が名前を言ったり、学校のことを話したりしているのを聞きながら、でも視線は先生ではなくそいつに向けていた。
「じゃあ、出席を取るから」
 そう言って、先生は出席番号順に名前を読み上げていく。
 返事する生徒、手だけを軽く挙げる生徒。
「小倉宏也」
 その名前が呼ばれた時、俺の視線の先で、そいつの肩が震えるのを見た。
 そして、おずおずといった感じで右手をゆっくりと挙げる。
 先生は、それを確認すると、少し笑いけて次の生徒の名前へと移る。

 ―――小倉宏也。

 それが、そいつの名前。
 小倉。
 手を下ろした後、唇を噛み締めて更に俯く小倉。
 近くで見たわけじゃない。
 だから、気のせいかもしれない。
 でも、小倉の瞳が、辛そうに揺れたような気がした。

 俺はいてもたってもいられなかった。
 この気持ちは何だろう。
 小倉のあの瞳と表情が頭にこびりついて離れない。
 目を閉じても、浮かぶのは小倉ばかりだった。
 信じられない。
 信じられないけど。
 でも、そう。
 俺は、小倉のことを……。

 一目惚れなんて、本当にするとは思わなかった。
 しかも相手は、小倉は男で。
 話をしたこともなければ、目があったこともない。
 初めて会った相手に、こんな気持ちになるなんて信じられなかった。
 でも。
 好きになったものはしょうがない。
 俺は、それを黙っていられる性分じゃない。
 ……告白しよう。
 断られると思う。
 男に告白されるなんて、気持ち悪いって思われると思う。
 でも、それでも。
 俺は、自分の気持ちを黙っていられない。
 思い立ったら即行動。
 それが、俺の持論なんだ。

 そして、放課後。
 俺は、小倉を呼びだしたのだった。




 小倉は俺の告白に、その無表情な顔を崩すことなく、そこに立っていた。
 言葉は返ってこない。
「俺、小倉が好きなんだ。……一目惚れした」
 俺はもう一度繰り返す。
 何度でも言うつもりだった。
 何かを返してくれるなら。
 何かを返してくれるまで。
「今日会ったばかりだけど、でも、お前のこと気になってしょうがないんだ」
 小倉はまだ黙っている。
「本気なんだ」
 微動だにしない。
「付き合ってほしいんだ」
 動いた。
 足が。
 小倉は黙って踵を返すと、来た道を戻っていく。
「ま、待てよ!」
 俺は咄嗟に、小倉の肩を掴んでいた。
 途端、はじかれたように顔を上げ、俺を見る。
 その表情からは何も読みとれないけど、触れた肩が、俺の手を拒絶しているのは伝わってきた。
 それでも俺は、掴んだ手を離せなくて。
「返事、聞かせてほしい」
 そう言うと、俺の手を小倉が掴んだ。
 え、と思って小倉の手を見ていると。
 その手が、俺の手を肩から退け、そのまま走り去っていった。
「ちょ……っ」
 慌てて追いかけた俺の手は、でも、何も掴むことはなく。
 聞こえるのは、遠ざかっていく小倉の足音だけで。
 俺は、反射的に、その後を追っていた。




 一瞬、俺の頭の中に“ストーカー”という文字が浮かんだ。
 それを慌てて振り払うと、再び前方を走る小倉のほうに視線を戻す。
「俺はただ……ただ……」
 周りに聞こえないように呟く。
 そう、俺はただ、無視されたのに腹が立っただけで。
 こうなったら、意地でも返事を聞かないと引き下がれないって思っただけで。
 だから、追いかけてるだけなんだからなっ。
 別にストーカーしてるつもりなんてないんだからなっ。
「……何か、言い訳みたいだ……」
 みたい、ではなく言い訳だったのだけど、気になるものはしょうがない。
 俺は、小倉の後をついていった。


 どれくらい走っただろうか、学校からも俺の家からもそんなに離れてはいないところに小倉の家はあった。
 電柱の陰に隠れて様子を見ていると、門を開けて小倉が中に入っていく。
 入った後はきちんと門を閉め、そのまま玄関の扉を開け、家の中に消えていった。
 それを確認すると、俺は家の前まで移動することにした。
 昼間だからか人通りはない。
 でも学校帰りの生徒が通りかからないのを祈りながら、門の前に立つ。
 前方の玄関の扉は固く閉じられていて、開く気配はない。
 “小倉”という表札の横にあるインターホンを見て、指をそこに近づけた。
 押しかけて―――やめた。
 指を降ろし、行き場をなくして宙に彷徨わせる。
 何て言えば良いのか解らなかった。
 勢いでここまで追いかけてきたのはみたものの、ここにきてようやく俺のなかに躊躇いというものが生まれた。
 いきなり告白されて、家にまで押し掛けてきたクラスメイト。
 それを小倉はどう思う?
 しつこいと思われるか。
 呆れられるか。
 それとも、また無視か。
 ……それともそれ全部か。
 そう思ったら、勢いもなくなってしまった。
「らしくない……」
 本当、らしくない。
 思い立ったら即行動が持論だけど。
 でも一旦、勢いをなくしたら、行動を起こすのが難しい。
「……帰るか」
 ここにいてもしょうがない。
 小倉とは、また明日学校でちゃんと話をしよう。
 聞いてくれるかは解らないけど。
 もう一度、玄関の扉を見る。
 そこはまだ固く閉ざされたまま。


「……そこで何をしている」

 突然の低い声に、俺は反射的に身を竦めた。
 冷たい汗が、背筋を伝っていく。
 俺の今の状況。
 人の家の前でうろうろし、家の様子を窺い。
 周りから見れば、思い切り不審者だ。
 俺は言葉もなく、そろそろと後ろを振り返った。
 ぎこちなく。
「うちに何か用なのか?」
 声をかけた人物は、明らかに俺を不審な目で見ていた。
 俺よりも、年上の男だった。
 うち、ってことは、小倉の家族か?
 よりにもよって……最悪だ。
 そう思っている間にも、相手の視線が俺の上から下へと滑っていく。
 でも、段々と不審な目が消えていくのが解った。
 何でだろうと思っていると、さっきよりも幾分柔らかくなった声が耳に届いた。
「その制服……もしかして宏也の友達、か?」
 制服……そうか、小倉と同じ制服を着ているんだ、俺。
 だから、不審な目が消えたんだ。
 そのことに安堵し、でも、どう答えようか迷う。
 確かに俺は、小倉と同じ学校の生徒でクラスメイトだけど、友達かって聞かれると首を横に振るしかない。
 でもこの状況で友達だってことを否定したら。
「……そう、です」
 俺は、頷いていた。
 また不審者だと思われるのは嫌だったから。
「そうか……友達、出来たんだな、宏也……」
「え?」
「……いや。何でもない。名前は?」
「え。あ……槙村聡史(まきむら・さとし)ですけど」
「槙村君か」
 何、馬鹿正直に答えてるんだよ、俺。
 そう思ったけど、どうせ嘘を言ったって小倉の口からばれるだろう。
 だったら嘘なんかつかないほうが良い。
 ……多分。

 それにしても、この人は小倉とどういう関係なんだろう。
 親子ってことはないだろうし、やっぱり兄弟か。
「ああ、俺は宏也の……」
 俺の問いかけるような目に気付いたのか、口を開いてくれる。
 でも途中で、何故か言葉を切る。

「俺は宏也の……。宏也の……兄だ」
 躊躇うように、でも何かを振り切るように、時間をかけてそう言われた。
 ……兄。
「……それより、槙村君はこんなところで何を? 宏也に用なら入れば……」
「あ、いえ! その」
 焦った。
 不審者だと思われなくても、小倉の友達なら尚更インターホンも押さずに家の前にずっと立っていたら、余計に怪しいかもしれない。
「俺、もう帰りますから!」
 それだけ言うと、小倉のお兄さんの横を擦り抜け、一目散に駆けだした。
「あっ、おい!?」
 後ろで呼び止める声がしたけど、無視して。





 いきなり逃げ出して変に思われなかっただろうか。

 そんな考えに至ったのは、自分の部屋に入ってからだった。
 あの時は焦ってあの場を去ることしか頭になかったけど、もっと他に良い言い訳とかがあったかもしれないのに。
「やっぱ、らしくないよなあ……」
 座り込み、部屋の壁にもたれながら、さっきのことを思い返してみる。
 浮かんでくるのは、小倉の顔と態度。
 それから、お兄さんのあの言葉。
『そうか……友達、出来たんだな、宏也……』
 とても安堵したように紡がれた言葉。
 小倉のことをすごく心配していたんだと思う。
 小倉のお兄さんなんだから、それは当然なんだろうけど。
 でも……何でだろう。
 お兄さんの言葉からは、それ以上の何かが感じられた。
 そんな気がする。
 何かもっと、重いものが……。
   



−2−

 改めて昨日のことを考えて、重大なことに気付いた。
 俺、小倉とは友達でも何でもないのに、友達かと聞かれて頷いた。
 あの時はそう答えるしかないと思ったけど、今思えば、完全にその場しのぎだけのための言葉だ。
 俺は友達じゃないどころか、小倉に恋愛感情を抱いているのだ。
 そのことを、もうお兄さんは知っただろう。
 嘘だということがばれただろう。
 でもそのことよりも。
 小倉に友達が出来たということに安堵していた様子を思い出すと、友達じゃないことをお兄さんが知った時にどれだけ落胆したかということが心に引っかかった。
 だからって俺は小倉と友達になりたいわけじゃないし、どうしようもないけど。




 ……遅い。
 来ない。
 もう本鈴も鳴ったし、先生もすぐに来るのに。
 俺は、ずっと教室のドアと空いた席を交互に見遣っていた。
 でも、どれだけ待っても、小倉が教室に入ってくることはなかった。


 もしかして、昨日の俺の告白のせい?
 だから、来ないのか?
 ……そんな、いくらなんでも……


 今日はまだ授業はなく、オリエンテーションだけだった。
 HRでは、自己紹介をしたが、小倉のことが気になって上の空だった。
 自分が何を話したのか、クラスメイトが何を話したのか、全く覚えていない。

 今日はきちんと小倉と話をしようと思っていたのに、結局、小倉は来なかった。
 ―――小倉の家に行ってみようか。
 昨日の今日で行きにくくはあったけれど、どうしても小倉と話をしたい。
 俺は鞄を掴むと、立ち上がった。
「槙村」
 そこへ、声をかけられた。
 振り向くと、クラスメイト2人が立っている。
 確か、酒井と山崎だったと思う。
 この2人に声をかけられたのは初めてじゃなかったから覚えていたのだ。
 休み時間にも、この2人はこうやって俺に話しかけてきた。
 もっとも俺は、小倉のことを考えていたからまともにこの2人と会話したことはなかったけど。
 そんな俺の態度にもかかわらず、また声をかけてくれるとは思わなかった。
「どこか寄って帰らない?」
 酒井が俺を誘う。
「あ――悪い。用事があって」
「……そっか、残念だな……」
「じゃ、また今度な」
 俺の拒否の言葉に、本当に残念そうな顔をしている。
 誘ってくれたのに、悪いことをした。
 そう思いつつ、足は小倉の家へと向かう。
 今度は断らないようにしようと、俺は心の中で2人に謝った。




 俺は、再び、小倉の家の前に立っていた。
 今日は、躊躇わずにインターホンを押す。
 しばらくして、ドアが開いた。
「あ」
 ドアから顔を覗かせたのは、昨日も会った小倉のお兄さんだった。
「君は……」
 お兄さんは少し目を見張ってから、黙って出てきた。
 そして、俺の傍まで歩いてくる。
「……小倉が」
 俺は小倉の友達じゃない。
 ほんの少しの罪悪感を感じて、でも、俺は続ける。
「小倉が、今日休んだから……俺のせいかと思って……」
 お兄さんは驚いたような顔になったあと、ゆっくり首を横に振った。
「槙村君のせいじゃない」
「でも」
「本当に違うんだ。元々、今日は宏也は学校へ行かない予定だった」
「え……?」
 意味が解らない。
 学校へ行かない予定だったなんて、そんなことがあるのか?
「だから槙村君のせいじゃないから、気にしなくて良い」
「…………」
「明日はちゃんと行くから」
「そうですか……小倉は……」
「今、自分の部屋で本でも読んでると思う。……槙村君、今から時間あるか?」
「へ? はあ……」
「じゃあちょっと話さないか。……いや、話があるから、聞いてくれ」
 そう言うと、さっさと歩き出した。
 俺は訳が解らないながらも、慌ててその後を追う。
 お兄さんは無言のままだった。



 河原に着くと、ようやくお兄さんが足を止めた。
 俺はその少し後ろに立ち止まると、その背中を見ながら考える。
 話っていうのは、やっぱり小倉と俺のことなんだろうな。
 友達じゃないということと、そして、俺の告白のことを……。
「あの、すみません」
 先に謝っておこう、そう思った。
 お兄さんは振り返って訝しげな顔を向ける。
 何を謝っているんだ? というように。
「俺、小倉の友達じゃなくて」
「ああ、そのことか……別に良いんだ、そのことは」
 あまりにもあっさりとした口調に、俺の方が面食らった。
 昨日の態度からは考えられないようだと思った。
「俺もひとつ嘘をついた。だからお互い様だ」
「嘘って……」
「俺は、宏也の兄じゃない」
「え……」
 小倉のお兄さんじゃ、ない……?
「じゃ、じゃあ……」
「誤解しないでくれ。兄じゃないけど、家族は家族なんだ。俺は小倉俊也(おぐら・としや)という。同じ姓だろう? 宏也とはちゃんと血だって繋がってる」
「じゃあ、一体……」
「俺は、宏也の又従兄弟なんだよ。爺さん同士が兄弟なんだ」
 又従兄弟。
 爺さん同士が兄弟。
 それって……?
「宏也は、養子なんだ。宏也の両親は、宏也が9歳の時に交通事故で亡くなった。それで、うちが引き取ったんだ」
「養子……」
「俺は宏也のこと本当の弟みたいに思ってるよ。宏也の両親が亡くなる前からずっと……もちろん、今も」
 昨日、小倉の兄だと言った時の、あの躊躇うような言い方。
 言い淀んだのは、このためだったのだ。
「宏也も俺も兄弟がいなかったから……家も近かったしな」
 でも、どうして俺にこんな話をするんだろう?
 昨日会ったばかりの俺に、身内の話をこんなにあっさりと。
「俺は……槙村君に賭けてみようと思ったんだ」
「賭けるって……」
「……君に頼みがある」
 俺の疑問を遮って、言葉を続ける。
「宏也の声を、言葉を……全てを取り戻してやって欲しい」
 顔を苦しげに歪めて、縋るように、否とは言わせないというような気迫で、俺を見る。
 挑むような視線で。
 でも俺は、どうすればよいのか解らない。
 小倉の声を、言葉を、取り戻す―――?
 何を、言っているのか解らなかった。
「……説明する、宏也のことを。でも絶対に他言しないでくれ」
 反射的に頷いていた。
 そのくらい、俊也さんの口調には有無を言わせない響きがあった。
 俺は黙って俊也さんが話し始めるのを待つ。

 その後、俊也さんが語った内容に、俺は目を見張った。



 小倉の両親は、共働きで家を留守にすることが多かった。
 そのため、近くに住んでいた俊也さんたちが面倒を見ていたそうだ。
 小倉は5歳年上の俊也さんに本当の兄のように懐いていて、俊也さんも小倉のことを本当の弟のようにかわいがっていた。
 両親と一緒にいられない寂しさを埋めてくれたのは俊也さんだったのだ。
 だから、小倉は両親に対して寂しさを感じながらも、耐えることが出来た。
 それが破られたのは小倉が9歳、小学4年生の時だった。
 その頃小倉は、言いたいことははっきり言う性格だった。
 時にはきつい言葉を投げかけることもあったらしい。
 それでも最初は良かったのだ。
 小倉にきついことを言われても、相手は何も言わなかったから。
 言いたいことをはっきり言う性格は、クラスメイトの間では長所として受け止められていた。
 それは小倉が、相手に対して無意味なきつい言葉を投げかけることがなかったからだ。
 相手に何か非があるような場合に言う程度だったのだ。
 それは正義感とかそういうものだったのかもしれない。
 でも、ある日、言われた相手が反撃してきた。
 何がきっかけだったのか、それは今になってはよく解らないが、とにかく相手はむちゃくちゃに怒った。
 そして、恐らく怒りにまかせてだろうが、小倉を傷つけるような言葉を言ったのだ。

『お前の親、いっつもお前のこと放ったらかしなんだろ! お前が嫌いだから、一緒にいてくれないんだ! お前、親に嫌われてるんだよっ』

 その時の小倉の表情は蒼白だったらしい。
 それはそうだろう。
 親に否定される、そのことは小倉自身を否定しているように思えた。
 まだ9歳だった小倉にも、そのことが朧気ながらも解ったのかもしれない。
 返す言葉もなく、小倉は学校を飛び出した。
 向かった先は、自分の家だった。
 もちろん両親がいるはずはなく、それはいつものことなのにその時の小倉にとっては、傷ついた心に更に追い打ちをかけられたのだ。
 ずるずると床に座り込み、膝に顔を埋めた。
 早く帰ってきて。
 お願いだから。
 それだけを思って。


 それからどのくらいたったのか、いつもよりは早い時間に両親が帰ってきた。
 真っ暗な部屋の様子に、訝しげな声をかける。
 うずくまっている小倉を見て、両親は心配そうに肩に手を置いた。
 小倉はそれを、反射的に振り払っていた。
 あ、と後悔したが、両親が驚いたように小倉を凝視しているのを見て、また俯く。
 そんな小倉の様子に戸惑いながら、それでも両親は話しかける。
 たまには家族で外で食事でもしようか、と。
 そのために、いつもより早く帰って来たのだ。
 でも小倉はそれを拒絶した。
 早く帰ってきて欲しいと思っていたはずだったのに、学校でクラスメイトに言われたことが、頭の中をぐるぐると回っていたのだ。
『僕のこと嫌いなくせに!』
 そして、言ってはいけないことを、言ってしまったのだ。
 途端、両親は傷ついたような目で小倉を見遣る。
 それでも宥めようとする両親を、更に小倉は責めた。
『僕が嫌いだから、仕事のほうが大事だから、僕を放って置くんだ! 嫌いならもうこのまま放っといてよ!』
 喚き散らす小倉に、最初は優しく宥めようとしていた両親も、さすがに苛立ちを隠さなくなった。
 そして、言ったのだ。
『それなら、ひとりで留守番をしてなさい。私たちだけで食事に行ってくるから』
 父親のその言葉に、小倉は凍り付いたように黙った。
 両親が他にも何か言っていたけれど、小倉の耳には、もう何も聞こえていなかった。
 ただ俯いて、両親の様子を耳と気配で感じているだけだった。
 父親は母親を促すように、玄関のドアを開ける。
 最後まで小倉を気にして何度も振り返っていたが、ついには母親も家を出ていく。
 ドアが閉まる音が、静かな部屋に響いた。
 その音に、はじかれたように顔を上げる。
 でも、その時には既に、両親の姿はなかった。


 どのくらい、そうしていただろうか。
 小倉は、うずくまって膝を抱えたまま、自分の言葉を後悔していた。
 何であんなことを言ってしまったんだろう。
 折角、食事に行こうと言ってくれたのに。
 ひとりきりの部屋が妙に寒く感じられて、孤独感が増す。
 その時に頭の中に浮かんだのは、俊也さんだった。
 俊也さんの所へ行けば、寂しくない。
 そう思った小倉は、家を出て、俊也さんの所へ向かった。
 家の電話が鳴り響いていることには、気にも止めずに。



 その日、小倉の両親から外で食事をするということを聞いていた俊也さんは、いきなり来た―――それも、常とは違う小倉の様子に驚きを隠せなかった。
 落ち着かない小倉を必死で宥め、俊也さんは何があったかを聞き出した。
 小倉は、自分の言ったことを後悔していた。
 両親が自分のことを嫌いじゃないということも、本当は解っていた。
 それは忙しい合間を縫って、食事にと言ったことからも窺える。
 あの時は、クラスメイトに言われたことを思い出してしまい拒絶してしまったけれど、本当は解っていたのだ。

 ―――謝らなければ。

 帰ってきたら、真っ先に謝ろう。
 2人で、そう決めた時だった。
 俊也さんの家の電話が、鳴った。
 それは、小倉の両親の死を告げる、電話だった。
   



−3−

「それからの宏也は、ひどい状態だった……謝ろうとしていたのに、謝る相手と2度と話すことが出来なくなったんだからな。両親と仲違いしたまま、もう2度と……」
 俊也さんが、組んだ掌を痛いだろうほどに握りしめる。
「生きている両親と最後に交わした言葉が、宏也の心を抉って潰したんだ……両親を傷つけた後悔で一杯だった。宏也は……そのショックで、話せなくなった……声を出すことが出来なくなったんだ」
「え……っ」
 声を出せない……?
 今も……?
 じゃあ、昨日のあの沈黙は、俺を無視したわけじゃなくて―――
「違う」
 俺の考えを見抜いたのか、俊也さんが即座に否定した。
「声を出せなくなったとはいっても、それは一時的なものだと医者は言っていた。……事実そうだった。でも、声を出せるのに、話せるのに、それを宏也自身が拒否したんだ」
 息を吐く。
「両親を、そして宏也自身をも傷つけたあの言葉が頭から離れなかったんだろう。言葉を極端に怖がるようになった。そして……言葉と一緒に、感情も呑み込んでしまった……」
 小倉がそんな想いをしているなんて、全く気付かなかった。
 ただ無視されたと思って、それを理不尽だと感じて。
 本当はそうじゃなかったのに。
「うちが宏也を引き取った後も、宏也は話さなかったし、感情も表に出さなかった。俺は宏也に何かしてやりたくて、元の宏也に戻って欲しくて躍起になったよ。どんなに時間がかかっても、少しでも宏也が話せるようになればと俺は必死だった」
「それで……話せるようになったんですか……?」
「やっと……やっとだ。初めて話してくれた時、それがどんなに短い言葉だったとしても、どんなに嬉しかったか……その後、徐々にではあるけど、俺には話すようになってきた」
 それを聞いて、俺はほっと息をついた。
 でもそれも、束の間だった。
「……でも、そんなに上手くはいかないな……確かに話してくれるようにはなったけど、どこか線を引くような距離をおくような……言葉を選んで、相手を傷つけないように、当たり障りのないように―――そんなのは本当に話しているとは言えない」
 一度、恐怖を抱いた言葉は、そう簡単に返っては来ない。
 自分の言葉ひとつで、相手が傷つく。
 そんな言葉を、簡単に取り戻せるわけがなかったのだ。
「それに、今でも、笑顔なんて全然見せてくれない。泣きも怒りもしない……」

 怒りでも何でも良いから、表して欲しいのに。
 哀しみも痛みも、表してくれれば俺が何とかするのに。
 6年前のあの時のように、俺にぶつけてくれれば良かったのに。
 そうすれば、俺は宏也のためにもっと何かしてあげられたんだ―――

 俊也さんのそんな想いが、俺にはすごく痛かった。
 俊也さんは視線を落とし、言葉を継ぐ。
「それでも……話してくれるだけでも、安堵したのも事実だ。俺の両親とも少しずつ話せるようになって……でも問題は、家の外でのことなんだ」
 家の外。
 学校や近所の人たち。
 俊也さん以外の、人間。
「本当に必要最低限のことしか口にしないんだ。それも初めての場所では声を出そうともしない。その場所に慣れて、宏也なりに理解して、どう接すれば良いのか、どう話せば良いのか……それを考えて初めて、話そうとする。でも……多分、俺と話す時よりもひどいだろうな」
 確かにそうだった。
 小倉は昨日、言葉どころか声すら出していない。
 俺の告白にも、何も。
 出席を取った時にも、小倉は右手を挙げただけだった。
 その時の小倉は。
「……あれ……?」
 確かあの時、小倉は唇を噛み締めていた。
 俯いて、強く噛み締めていた。
 そして、辛そうに揺れた瞳。
 見間違いかもしれないと思った。
 でも、そうじゃなかったとしたら。
 見間違いじゃなくて、本当に辛かったのだとしたら。
「小倉は、話したいんだ……」
 話したくない。
 でも、話したい。
 相反する想いに、苦しんでいるんじゃないか……?
 だから、あんなに唇を噛み締めて。
 辛そうにして。
 表情にこそ表れなかったけれど。
 気をつけて見ていなければ解らないほど、微かに瞳を揺らしていたんじゃないか?
 俺には、そう思えてならなかった。


「……ありがとう」
 不意に、俊也さんが呟いた。
「え?」
 何の御礼を言われたのか、解らない。
「……いや、何でもない」
 疑問の目を向けた俺に、ゆっくりと首を横に振る。
 でも、そう言った俊也さんの表情は、僅かだけれど和らいだように思えた。
「他人にこのことを話したのは担任の先生と君だけだ。だから……最初にも言ったけど、誰にも言わないでくれ」
「俺と担任にだけ……?」
「そうだ。宏也が今日休んだのも担任に頼んだからだ」
 俺は、眉を寄せた。
 俊也さんの言っていることが解らなかったからだ。
 小倉が休んだことと、担任と、どう関係があるのか。
「俺は、宏也に入学式にきちんと出席してもらいたかった。宏也は行きたくなさそうだったけど……でも、高校生活最初の行事なんだから出席して欲しかった」
 俺は口を挟まずに俊也さんが続きを話すのを待つ。
「だから事前に担任の先生に会って話してきた。先生は入学式の後のHRで生徒に自己紹介をさせるつもりだと言っていたから、俺はそれを入学式の次の日にしてくれるように頼んだんだ。もちろん、宏也の事情のことも話さなくてはならなかったけど」
 自己紹介が、今日、小倉が休んだ理由―――?
「話さない宏也にとって、自己紹介は辛いものだから……先生は承諾してくれて、更に出席を取る時も手を挙げるだけで良いと言ってくれた……他の生徒がそうしても何も言うつもりはないとまで言ってくれた」
 だから、俺のせいじゃないと、あんなにはっきり言ったのだ、俊也さんは。
 休んだ理由が、小倉の事情だということを知っていたから。
 ……今日休んだのが、俊也さんの計らいだったから。
 みんなが自己紹介している中で、小倉だけそれが出来ない。
 そのために。
 でも俺は、自分のせいじゃなかったことに手放しで喜べなかった。
 喜べるわけがなかった。



「それで……槙村君はどうしたい?」
「どうって……」
「宏也を、頼めるか?」
「…………」
「どうなんだ?」
 詰め寄られて、俺は混乱した。
 小倉のことは、解った。
 何を抱えているのか、少しでも解った。
 でも、やっぱり俊也さんの俺に対する態度は解らなかった。
 さっきも思ったように、昨日の今日で俺にこんな話を何故したのか。
 俺に賭けた、と、そう言っていた。
「俺に賭けたって、どういうことですか?」
「槙村君は宏也をどう思ってる?」
 間髪入れずに言われた言葉に、俺は面食らった。
 どう思うか、だって?
 そんなの、最初から解ってるだろうに。
「……好き、です。小倉のこと」
 それでも答えた。
 それが本心だから。
「そうだろう? だからだ。だから、槙村君に賭けることにした」
「は……?」
「解らないか? ……だったら、例えば槙村君が宏也のことをただのクラスメイトだと思っているとして、君は宏也の態度をどう思う?」
「それは……」
 ただのクラスメイトだとしたら。
 俺が小倉に何の感情も抱いていなかったら。
「何回か話しかけても態度が変わらなかったら、もう話しかけようと思わなくなる、かもしれない」
「そうだ。宏也のことを変な奴だと、そう思うだろう」
 みんながみんなそうじゃないとは思う。
 変な奴だと、それだけで片づけたりはしないと思う。
 でも話しかけても何も答えなければ、それ以上小倉には構わなくなるかもしれない。
「でも君はそうじゃない。俺は、今宏也に必要なものは君の想いだと思う。家族じゃ駄目なんだ、他人じゃなければ……」
「俊也さんじゃ、駄目ってことですか?」
「ああ、そうだ。6年間だ……6年間で俺が宏也に何をしてやれた? 家では話せるといっても、それじゃ宏也はずっとこのままだ。俺以外の、誰かの手が必要なんだよ」
「それが、俺……?」
「この6年間で、宏也のことを気に掛けてくれたのは君が初めてなんだ。……宏也のことを話しても、それでも好きだと言ったな? だから……やはり俺は槙村君に賭けようと思う」
 きっと俊也さんは、自分が小倉を救いたかったのだと思う。
 自分には少しでも話してくれることで、期待したかったのだ。
 でもそれには、限界があって―――
 俺に小倉のことを頼むと、どんな気持ちでその言葉を言ったんだろう……。
「俺は、小倉と友達になりたいんじゃないんです。それ、解ってますか?」
「……もちろん」
「本当に良いんですか」
「構わない。今は……宏也に、すべてを取り戻してもらいたい、それだけだ」
 俊也さんの、痛切な想いが伝わってくる。
 小倉が大事で……何よりも大事で。
 俺は、そんな俊也さんの目をまっすぐ見て言った。
「……解りました。でも、俊也さんに頼まれたからじゃない」


 小倉の声が聞きたい。
 小倉と話がしたい。
 小倉の笑った顔を見たい。

 俺自身が、そう思ったから。
 だから、俺は。


「……解ってる、それで良いんだ。俺に頼まれたからじゃなく、君の意志で、宏也の傍にいてやってくれ……」


 俊也さんの声が、哀しく痛々しく、俺の胸に響き渡った。




−4−

 気まずい沈黙。
 俺が話さなければ、ずっと続く。
 ……勿論、俺が話しかけても返事も何も返っては来ないのだけど。
 それでも、話しかけずにはいられなくて。
 例え、何の反応もなくても……。




 俊也さんと話をした翌日の朝。
 俺は、小倉を迎えに行くことにした。
 昨日のことを考えながら、小倉の家へと向かう。

 6年間で俊也さんが出来なかったことを俺に出来るだろうか。
 はっきり言って、自信はなかった。
 昨日は頷いたけど、どうすれば小倉が心を開いてくれるかなんて全然解らなかった。
 でも、あの時思ったことは嘘じゃないから。
 声が聞きたい。
 話がしたい。
 笑顔が見たい。
 そう思ったのは、本心だから。
 だから……何をすれば良いのかなんて解らないけど、出来ることはやってみよう。
 そう、決めたのだ。

 俺は小倉の家の前に立つ。
 俺に出来ること。
 まずは、傍にいること。
 傍にいて、話しかけること。
 そこから始めるしかなかった。
 インターホンを押すと、しばらくして女の人が出てくる。
「あら、宏也の……」
 俺が何かを言うよりも早く、その女の人が言った。
「槙村君、よね。その制服ですぐに解ったわ。……息子――俊也から話は聞いてます。宏也のこと、お願いします」
 女の人は、俊也さんと小倉のお母さんだった。
 お母さんの口振りから、俊也さんが全て話していたのかと思ったけど、
「宏也に友達が出来たから、宏也のこと迎えに来ると思う」
 とだけ、言っていたみたいだ。
 お母さんの口調は、小倉に初めて出来た友達に対するものだったから。
 俺に頼んだことを俊也さんは誰にも言うつもりはなかったらしい。
 だから、俺もお母さんの言うことを否定する気は起きなかった。

 5分ほど経って、お母さんに背中を押されるようにして小倉が家から出てきた。
「行ってらっしゃい」
 という声に送り出され、小倉は俺に近寄ってくる。
 小倉のお母さんは、俺に頭を下げると、ゆっくりとドアを閉じた。
 俺は小倉に視線を戻す。
 一昨日とまったく同じ様子の小倉がそこにいた。
「……おはよ」
 そう言うと、小倉はちらっと視線を向けたが、それだけだった。
 おはよう、という言葉が返ってくることもなかったし、表情も変わらなかった。
 解っていたけど、少し心が痛かった。
 小倉はそのまま俺の横を擦り抜けて、道路へと歩き出す。
 その様子が一昨日と重なって、俺は慌てて後を追った。


「待てよ、小倉! 一緒に学校へ行こうと思って俺」
 一昨日と違い、今は小倉はゆっくり歩いているだけだったから、すぐに追いついて隣に並んで歩く。
 小倉は俺に視線を向けることなく、でも、俺から逃げることもなく、ただ歩いていた。
 俺は、それに安堵する。
 小倉はそんなつもりはないのかもしれないけど、俺は小倉が一緒に学校へ行くことを許してくれたんだと思うことにしたのだ。
 少なくとも、一昨日のように拒絶はされなかったのだから。


「もう今日から午後まで授業あるんだってさ。小倉、弁当持ってきた? それとも学食?」
 答えない相手に、俺は話しかける。
 沈黙するのが耐えられなかったからだ。
 小倉が何も話さなくても、それでも俺は話しかける。
 何も反応がなくても、俺の話を聞いてくれているなら、今はそれでも良かった。
 とにかく、話し続けて。
 俺を、見て欲しかったのだ。
「俺、弁当なんだけど。昼、一緒に食べよう」
 昼になったら、強引に一緒に食べるつもりでいた。
 拒絶されたら、それはその時のこと。
 一緒にいられる時間は、少しでも多く一緒にいたかった。
「そうそう、昨日はオリエンテーションとかばっかりでさ、授業はなかったんだ。なのに今日からいきなり午後まで授業ってしんどいよな」
 自己紹介のことには、触れなかった。
 小倉にそのことを話題に出したくなかった。

 そうやって、俺が話している間も、小倉はやっぱり無言で、表情も変わらない。
 いつの間にか、学校へ着いてしまっていた。
 教室へ行くと、既に大勢の生徒が登校していた。
「おはよ、槙村」
 俺と小倉が来たことに気付いた、酒井と山崎が声をかけてくる。
 昨日、休み時間や放課後に、俺を誘ってくれた2人だ。
「……おはよ」
「えっと、……小倉、だっけ? おはよ。昨日休んでたけど、大丈夫?」
 酒井が俺の隣にいる小倉に笑顔で言う。
 小倉はそれを無言で返し、自分の席へと向かう。
「小倉……!」
 慌てて呼び止めたけど、小倉は振り返りもせずに、まっすぐ席を目指す。
 そして、席に着くと、座って鞄の教科書を机の中に入れ始めた。
「何だあ? あいつ……」
 小倉の様子を見ていた山崎が、無視されたことに腹を立てて険のある声を出す。
 酒井はどうかな、と見ると、意外にも怒った様子もなく、山崎を宥め始めた。
 不思議な光景を見ている気分になった。
 小倉の態度に腹を立てる山崎。
 怒りもしない酒井。
 自分はどうだろう。
 何も知らなければ、腹が立ったと思う。
 でも俺は小倉が好きだから。
 どんな態度を取られても、好きだから。
 腹が立っても、持続はしないだろうと思う。
 ひとりの態度に、その反応は様々だ。
 でも圧倒的に腹を立てる人の方が多いのだろう、少なくとも俊也さんはそう思ってる。
 それなら、小倉の事情を言ってみれば、と思わないでもなかった。
 でも、それはすぐに否定する。
 言って、どうなるというのか。
 小倉の態度を誤解しなくなったとしても、それで何かが変わるのか。
 余計、小倉にとっては辛くなるような気がする。
 話したいのに、話せない。
 それをみんなが理解してくれたとしても、小倉が話せるようにはならない。
 みんなが気遣ってくれても、そのことで小倉が喜ぶかどうかは解らない。
 むしろ、周りに気遣われれば気遣われるほど、辛いかもしれない。
 俊也さんが他言しないようにと言った理由は、そういうことなのだろうか。



 昼休み。
 授業が終わって先生が教室から出ていくと、俺は鞄から弁当を出し、立ち上がろうとした。
「槙村、昼一緒に食べない? 俺たちも弁当なんだ」
 声がした方を見ると、酒井と山崎だった。
「あ、それなら小倉も―――」
 言いながら小倉の席の方を見遣る。
 小倉は教科書を机の中にしまうところだった。
 それを見て、一緒に、という言葉を呑み込む。
「悪い。俺、小倉と食べるから」
 昨日、今度誘ってくれた時は断らないようにしようと思っていたのに、どうしても誘いを受けることは出来なかった。
 小倉はきっと、俺と一緒に食べるだけでも、嫌なんだと思う。
 ひとりが良いわけじゃないとは思うけど、俺と酒井と山崎と4人で一緒に食べるのは、小倉にとっては苦しいんじゃないだろうか。
 ……俺たち3人が会話しているのに、自分だけがその話に入っていけないのは、苦痛だと思う。
 俺がその立場だったら、絶対に嫌だ。
「じゃ、小倉も一緒に食べようよ。俺たち全然構わないし」
 酒井は、隣の山崎にも同意を求める。
 山崎は渋々といった感じで頷く。
「それは……悪いけど……」
 はっきり駄目だと言えない自分に苛立つ。
 でも酒井は好意で誘ってくれているのだから、きっぱりと拒絶するのは躊躇われてしまう。
「聞いてみるだけ聞いてみて? 俺たち先に食べてるから、良いようだったら来てよ」
 酒井は笑顔でそう言うと、山崎と一緒に席へと戻っていった。
 それを見遣りながら、俺は小さく溜息をつく。
 心の中で、ごめんと謝って、立ち上がった。


 小倉の席へと向かうと、小倉はちょうど弁当の袋を開けているところだった。
「小倉」
 声をかけると、小倉はふっと顔を上げる。
 俺の顔を少しだけ見た後、何事もなかったかのように、弁当の蓋を開ける。
 俺は近くにあった机と椅子を借りて、小倉の正面に座った。
「一緒に食べようって、朝言っただろ?」
 笑って、小倉に話しかける。
 小倉は黙々と、箸を動かしているだけだ。
「あの、さ。さっきの――朝、話しかけてきた奴らが一緒に食べようって言ってるんだけど、どうする? 行く?」
 2人への申し訳なさも手伝って、俺は小倉に聞いてみた。
 小倉は黙っている。
 反応はなかったけど、小倉が動かないことで、俺は拒絶したと受け取った。
 だから、すぐにその話題は止める。
 もう一度、誘ったりはしない。
 俺は頭を切り換えて、小倉に話しかける。
「授業、解った? 俺、数学苦手でさ……」
 反応のない小倉を相手に、それでも俺は話を続ける。
 俺と食べるのも嫌なんだろうけど、動く気配はなかった。
 ……だから、話し続けた。



 何も反応が返ってないことが、こんなに辛いことだとは思っていなかった。
 話して、答えて、笑って、怒って。
 そんなやりとりが当たり前だった俺の世界。
 そのなかに、飛び込んできた反応のない世界。
 ……いや、飛び込んだのは俺だ。
 解っていて飛び込んだ。
 でも、解っていても、辛かった。
 ひとり話し続けるということが、辛かった。
 俊也さんは、こうやって小倉との距離をゆっくりと少しずつ近づけていったのだ。
 自分が経験して初めて、俊也さんの辛さの一部が本当の意味で解ったような気がする。

 でも、俺は。
 負けたくない、俊也さんに。
 ずっと小倉を護ってきた俊也さんに、どうしても負けたくなかった。

 そして何より。
 小倉の声を聞くために。
 小倉と話をするために。
 小倉の笑顔を見るために。

 そのためだったら、こんな辛さなんて何ともない。
 はねのけてやる。
 そのくらい、俺は小倉が好きだ。

 だから、諦めない。
 絶対、諦めたりしない。

 まだ、始まったばかりなのだから。




−5−

「はあ……」
 狭いソファの上で、寝返りを打つ。
 背もたれに腕やら足が当たって少し痛かったけれど、気にしなかった。
 頭の中を占めている小倉のことしか、考えていなかったから。
「ちょっと、聡史。ごろごろするなら部屋でしなさい」
 緩慢な動作で声のした方を見ると、掃除機を持った母さんが、俺を見下ろしていた。
「ここ掃除するんだから。さっさと行きなさい」
「…………」
 黙って、ソファから起き上がる。
 部屋を出ていくと、すぐに掃除機の動く音が聞こえだした。



 今日は日曜日。
 さすがに学校もないのに小倉の家に行けるはずもなく。
 かと言って、何をするでもなく、ごろごろしていたのだが……。
 何かしようと思っても、小倉のことが気になって手に着かない。
 折角の日曜日だというのに……。

 俊也さんに、小倉の事情を聞いた日から随分経つけれど、小倉の様子は変わることはない。
 当然、俺との関係だって、友達とすら呼べない状態だ。
 学校のある日は毎朝、小倉を迎えに行って。
 昼も一緒に食べて。
 帰りも、小倉の家まで送って行く。
 それが、当たり前の日常になってしまっていた。
 けれどそれは全て、俺が強引にしていることで。  小倉が嫌がる態度も取らないのを良いことにして、押しつけているだけ、のような気がする。
 それでも、俺にはこうする以外に方法を思いつけないのだ。



 自分の部屋に行く気にもなれず、俺は外に出てみた。
 しばらく歩いてみる。
 そして気付く。
 ほぼ毎日行っている小倉の家への道を知らずに歩いていることに。
「…………」
 この道を歩くのが、当たり前になっているから。
 無意識に、それを辿ってしまう。
 ……日曜日にまで押し掛けられても迷惑なだけだよな……。
「……でも……」
 決心し、俺はそのまま道を変えることなく、まっすぐ小倉の家へと足を進めていた。





「槙村君、か?」
 小倉の家に着いて、インターホンを押すと、中から俊也さんが出てきた。
 俺の顔を見て、ちょっと驚いたような表情になる。
「……小倉、いますか? 遊びに来たんですけど」
 約束なんかしていなかったのに、突然行くことを決めたのだ。
 俊也さんも俺が来るとは思わなかっただろう。
「ああ、上がってくれ」
 それでも、俊也さんは頷いてくれた。
「……じゃあ……お邪魔します」
 いつもは玄関口までしか足を踏み入れない場所。
 そこと通り過ぎ、靴を脱いで家の中へと上がらせて貰う。
 俊也さんは、俺が家に入ったのを見てから、ドアを閉めた。
 その間、俺は所在なげに突っ立っていた。
「そこの……右奥に階段があるから。2階の1番端が宏也の部屋だ」
 俊也さんはそれだけ言うと、さっさと奥の方へ行こうとする。
 俺は慌ててをれを引き止めた。
「待って下さい! 俺、今日来ること小倉に言ってないんですよ。いきなり部屋に行ったら驚くんじゃないですか?」
 それに、俺がひとりで小倉の部屋に入って良いのだろうか?
 それって、すごく気まずいんだけれど……。
「勝手に行ってくれて構わない。……宏也は、驚くかもしれないが……追い返したりはしないだろうからな」
「え?」
 俊也さんの言葉に、引っかかりを覚えて聞き返した。
 けれど、俊也さんは既に行ってしまった後だった。
 驚くというのは当たり前だ。
 けれど、追い返したりはしないって……どういうことだろう?
 そりゃあ、今まで俺がどんなに話しかけても、それを嫌がる素振りなど見せなかったけれど。
 家の中にまで入ってきたら、どういう態度を取るか何て解らないじゃないか――。
 ……まあ、それを承知で来たのだと思えば、それはその通りなんだけれど。
 俺は暗鬱な気分で、階段を昇った。

 2階は、部屋が3つあった。
 ひとつは小倉の部屋で、もうひとつは俊也さんの部屋、後残っているのは……両親の部屋みたいだ。
 俺は言われたとおり、1番端の部屋の前で足を止めた。
 ドアをノックしようと、右手を上げる。
「…………」
 少し、躊躇ってしまった。
 気を取り直して、もう1度、ドアに手を近づける。
 ……ノックする。
「……俺……槙村聡史だけど……入って良いか?」
 声も一緒にかけてみる。
 けれど、当然というか何というか……返事はしてくれなかった。
 だからといって、勝手にドアを開けて中に入るわけにもいかないし――。
「やっぱり俊也さんがいないと……」
 ああもう、何で俺をひとりで行かせたんだよ。
 こうなるの、解っていたはずだろうに……。
 心の中で俊也さんを詰ってしまった。
 ひとつ溜息をついて、俺は踵を返そうとした。
 勿論、俊也さんを呼びに行くために。
 けれど、その瞬間、飛び上がりそうなほど驚いた。
「…………っ」
 目を見開いてしまった。
 何故なら、今の今まで固く閉ざされていたドアが、何の前触れもなく突然開いたからだ。
 そして、更に驚いたのは、そのドアを開いて顔を覗かせたのが、他ならぬ小倉自身だったことだ。
「お、小倉……」
 頭の中は?マークが渦巻いている。
 まさか、ドアを自分から開いてくれるとは思わなかったから。
 しかも、心持ち身体を端の方に寄せているように思える。
 俺が部屋の中に入るための場所を空けてくれたかのように……。
「あ……えっと、入って良いのか?」
 何とも間抜けな口調になってしまった。
 例によって小倉は何も言わなかったけれど、何となく良いと言っているような気がして、俺は恐る恐る小倉の部屋に入った。
 そう、何となくだけれど……嫌がっている時とそうではない時の区別が解るようになったというか……。
 本当はただの気のせいなのかもしれない。
 けれど、そう思いたかった。
 少なくとも、最初に告白した時に小倉が俺に向けたような目はしていないと、それだけは解った。
 俺は、小倉の部屋をちらちらと見回してみた。
 あんまりあからさまに辺りを見られたら、良い気はしないだろうし。
 小倉の部屋は、ひと言で言うならシンプルだった。
 ベッドとクローゼット、机、小さいテーブル。
 後は、本棚とか、そういう必要なものしか置いていなかった。
 カーテンの色も落ち着いた淡いブルーで。
 けれど、小倉は確かに、ここで生活をしているのだ。



 どうも落ち着かない。
 ずっと突っ立ったままでいるのも何だったので、テーブルの傍に座ったのは良いのだけれど、それ以外に何かできることもなく……。
 ただ、テーブルを挟んで目の前に座っている小倉を見ているしかできなくて。
 小倉は勿論、何も話してくれない。
 表情にも特に変化はないと思う。
 俺が話さなければ、俺と小倉の間には何ひとつ言葉は存在しない。
 そのことに、改めて気付かされてしまった。
 何か話はないかと探してみるが、教室では何か思い浮かぶこともここでは全く思いつかない。
 緊張しているのかもしれない。
 いや、多分そうなのだろう。
 けれど、何か話さないと、気まずいしそわそわするしで、堪らない。
「あの、さ……えーと……。…………」
 う。
 駄目だ。
 全然、話が見つからない。
 何しに来たんだよ、俺……。
 こんなんじゃ、小倉の方が困るんじゃないだろうか。
 ただ黙って、目の前にいる俺を見ている小倉は――。
「……あれ?」
 見間違いかと思った。
 小倉の目が、何だか嬉しそうだったなんて……。
 だって、声を出した次の瞬間にはもう、元通りだったから――。
「小倉――」
 けれど今見たのが見間違いじゃないなら。
 俺はちょっとは自惚れても良いんだろうか?





「――お邪魔しました」

 数時間後、俺は静かに小倉の家を後にしていた。
 本当に、何をしに来たのか解らない日だった。
 あれから以後も、話しかけることができずに、ただ黙って小倉を見ているだけだったから。
 けれど、俺は、そんなに落ち込んでもいなかった。
 それはやっぱり、小倉のあの表情を見たからだろう。
 本当に嬉しそうだったのかどうかは解らないけれど、一瞬だけ見たような気がしたあの表情を見間違いにはしたくなかったんだ――。
 たったそれだけのことが、少しだけ俺に自信をくれたから。
 今日はそれだけで、十分のような気がした。


To be continued...



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