■トライアングル■


−1−

「お前の兄貴、男と付き合ってるんだって?」

 頭から、冷水を浴びせかけられた気分だった。
 航(わたる)は、そう言った武(たけし)を見上げたまま固まってしまった。
 放課後の教室で、まだたくさんの生徒がいてざわついている中で。
 これから帰ろうと立ち上がるところに、そう、言われたのだ。
 今はもう、帰ろうとしていたことも忘れたように、武を見上げる。
 武は唖然として何も言わない航を見下ろし、再び口を開く。
「……お前は、どうなんだ?」
「は……?」
「お前もそうなのか? 兄貴と同じなのか?」
 それは、航に男が好きなのかと言う意味で。
 そう言った武の表情は、好奇心とも軽蔑とも取れた。
 その言葉を聞いて、武の表情を見て……その意味を理解した途端、カッとなって航は立ち上がっていた。
 がたんと、椅子の倒れる大きな音が響く。
「何だって!?」
 そう怒鳴って、武の胸倉を掴んだ。
「っ、何、すんだよっ」
 胸倉を掴まれて咽せた武も、航の胸倉を掴み返す。
「お前が変なこと言うからだろっ」
 航は武を睨みつけると、怒りを露わにする。
 教室中に、2人の言い争いの声が響き渡っていた。
 まだ教室に残っていた生徒たちは、またかというように遠巻きにそれを眺めている。
「んだよ、違うんならそんなにムキになるなよ」
 そんなにムキになるなら図星か? と、言外に含んでいることを感じ取る。
「……な、んで、お前はいつもいつも……!!」
 武の態度に、航は哀しいやら苛立つやらで体が震えた。
 何で、武に……大切な幼なじみだった武に、こんなことを言われなければならないのだろう。


 狭山武(さやま・たけし)は、椎名航(しいな・わたる)の幼なじみだった。
 航と武、そしてもうひとり、広田創(ひろた・はじめ)の3人は、小さい頃から一緒に遊んでいた仲の良い幼なじみで、それは小学生になっても中学生になっても、ずっと続いていた。
 けれど、いつ頃からだっただろうか。
 中2からだったのか中3からだったのか……それはよく覚えていないけれど、少なくとも高校に上がった頃には武の航に対する態度は、その時までとは一変していた。
 本当に仲が良かったのに、武が航に話しかけることは滅多になくなった。
 たまに声をかけてきても、さっきのように突っかかってくるばかりで、普通に話せることなどもうなかった。
 それは航の本意ではなかった。
 航が望んだことでも何でもない。
 ただ、武が変わったのだという事。
 幼なじみが、幼なじみでなくなったという事。
 武はもう、自分のことを幼なじみだとは思っていない。
 きっと。
 けれど、理由が解らない。
 急に変わってしまった理由が解らなかった。
 だから、このままなんて嫌だった。
 何度も理由を訊こうとしたけれど、とても訊けるような状況ではなかった。
 そんな隙など、見せてくれない。
 関係は変わらず、高1の9月になった今も2人はこんな状態のままだった。
 さすがの航も、もうあきらめていた。
 理由も解らずそんな態度を取られるならば、こちらももう気にしないようにしよう。
 そう決めた。
 突っかかってこられたら、それに応じる。
 こちらもつい、最初から喧嘩腰で応じてしまう。

 けれど、今は。
『お前もそうなのか?』
 そう言った時の武の表情に、どうしようもなく怒りと苛立ちと、そして哀しみを覚えた。
「いい加減にしろよ……っ」
 吐き捨てるように言って、胸倉を掴む手の力を強める。

「何やってるの!」

 そこへ突然割って入った声に、他の生徒たちは明らかに安堵の視線をその声の主に向ける。
 いつものこととはいえ、聞いていて気分の良いものではないのだから。
 けれど、言い争っている2人には、その声は耳に入らなかった。
 それを見て取ると、声をかけた生徒は大仰に溜息をつき、つかつかと2人に歩み寄る。
「2人とも、いい加減に止めなよ。廊下まで聞こえてるんだよ、2人の声」
 そう言って、航の胸倉にある武の手を掴む。
「創……」
 幼なじみの創だった。
 武の手を航から離し、創は武を見る。
「武、いい加減に航に突っかかるの止めなよ」
 航は、創の言葉に、そうだとばかりに頷く。
 その航の様子に、創は首を横に振る。
「――航も航だよ。航がそうやって喧嘩腰に言い返すから、毎回毎回こうなっちゃうんだから」
「……っ」
 創の言う事はもっともなことだ。
 航がつい言い返してしまうから、事態が悪化する。
 そして、いつもそれを抑えるのは創なのだ。
 そのことに感謝もしてるし、間に立ってもらって悪いとも思う。
 けれど今回は……今回だけは。
「ごめん、創。でも、今回だけは許せない! だって――」
「航!」
 未だ武の胸倉を掴んだままだった手に、力を込める。
「駄目っ」
 それを慌てて創が押さえ込んだ。
「離せよ、創! 俺は――」
「駄目だったら! 武ももう部活行って!」
 尚も航は力を込めようとしたが、創の渾身の力には勝てなかった。
 仕方なく武から手を離すと、創はほっとしたように航の手を離した。
 その様子を見ていた武は、小さく舌打ちして鞄を引っ掴むと大きな足音を立てて教室を出て行った。
「ちょっ……待てよ! まだ話は――!」
「航っ」
 後を追おうとした航を、創が制する。
「止めなって。余計に拗れるだけだよ。……で、今度は何を言われたの?」
「…………」
 航は渋々、椅子に座ると、武に言われた事を話した。



「……そりゃ、航が怒るのも解るけど……」
 話し終えた後、創は哀しそうな目で航を見た。
「そうだろ? 怒るよな、普通。ったく、何で武はいつも俺に突っかかってくるんだよ……」
「武だって悪いと思うけど……」
 創はそう言って、航の顔を覗き込む。
「お願いだから、もう喧嘩しないでよ。僕、2人にこんな事言いたくないんだから」
「そう言われてもさ……武が突っかかるのをやめてくれないとどうしようもないよ」
「…………」
 更に哀しそうにする創を見て、悪いなとは思う。
 元々は3人とも仲良く過ごしていたのだ。
 そのうちの2人が険悪になって、間に挟まれたような形の創の心中は複雑極まりないだろう。
 けれど、こればかりはどうしようもない。
 航だって、別に武と喧嘩したいわけじゃないのに――。
 武が態度を変えてくれなければ、どうしようもないのだ。

 航は黙ってしまった創を見ながら、ふと気付いて呟いた。
「そういや創、俺の兄貴が男と付き合ってるって聞いても驚いてないみたいだけど」
「うん、だって知ってたから」
「知ってた!?」
 創の言葉に驚いて航は声を荒らげた。
 そんなに……有名な事なのか?
 みんなに知れ渡っている事なのか?
 航は不安に駆られる。
「兄弟だから航はもう知ってると思って黙ってたんだけど……言った方が良かったね」
 申し訳なさそうに言う創。
 けれど、創を責める気はなかった。
 武の口から聞くよりも創の口から聞いた方がましだったとは思うけれど、創を責めるなんてお門違いだ。
 そもそも兄が航に黙っていたのが悪いんだから。
 兄が――。
 ……兄?
 兄って……。
「なあ、創。兄ってどの兄?」
「え?」
「俺、2人兄貴がいるだろ? どっちの兄貴なんだ?」
「あ、そうか、それは知らなかったんだ? 新(あらた)先輩だよ」
「新? 間違いないんだな?」
「うん。だって本人の口から聞いたから」
「本人からって……」
「朝練の時にそう言ってた。相手は同じバスケ部の人で……」
 航と創、武、そして兄の新はバスケ部に所属している。
 そのバスケ部の今日の朝練で、新本人がそう言ったらしい。
 航がそのことを知らなかったのは朝練に出なかったためだ。
 というより、航は完全に幽霊部員だった。
 新に無理矢理入れられただけなのだ。
 だから航は部活に出た事はなかった。
 それが、こんなことになるなんて。
 朝練に出るべきだっただろうか。
 ……いや、むしろ、その場にいなくて良かったのかもしれない。
 新がバスケ部の部員たちの前でとんでもない告白をしたその場に弟の航がいたら――?
「…………」
 考えるのも嫌になる。
 とにかく、新に事の次第を問いたださねば。
 そう決めると、航は勢いよく立ち上がった。
「創、俺帰るから! また明日な!」
「え? ちょっと航! 部活は……っ?」
 慌ただしく教室を出て行こうとする航に、創は声をかけたが航の耳にはその声は入っておらず、航は教室を飛び出して行った。
 残された創は、深く椅子に腰を掛けて、溜息をついたのだった。




−2−

「新っ!」
 家のドアを開けるのももどかしい思いで、叫ぶ。
「新!!」
 何度呼んでも姿を現さない新に、航は苛立つ。
 靴を脱ぎ捨てて、慌ただしく家の中に入った。
 新は、リビングか、それとも部屋にいるのか。
 ここから近いリビングに行ってみようと思った時、目の前のドアが開いた。
「新っ、どういうことか説明し……っ」
 新だと思い、いきなり怒鳴りつけた航だったが、顔を出した人物を認めると、それは新ではなかった。
「……母さん」
 夕食の準備をしていたのだろう、エプロン姿の母がそこに立っていた。
「こーちゃん、お帰り。どうしたの? 騒いでいたような気がするけど」
“騒いでいたような”ではなく、騒いでいたのだ。
 この母を前にすると、憤っていたことも一瞬忘れてしまう。
 母の持つ雰囲気というのか、どうも怒りが持続しなくなる。
 だから、次に出た航の言葉は、先程までの勢いの欠片もなかった。
「……母さん、新は?」
「あっちゃん? あっちゃんなら、まだ部活じゃない?」
 自分が行かないから忘れていたが、そうだ、放課後はいつも部活がある。
 バスケ部も、当然ある。
 あまりに憤っていたため、そのことに頭が回らなかった。
「はあ……」
 勢い込んできた分、力が抜ける思いがした。
 新が帰ってくるのは、恐らく夕食時だろう。
 それまで、待つしかない。

「そうだ、ちょうど良かったわ。こーちゃんが帰ってきたのなら、もう行こうかな」
 嬉しそうに、目を細める。
「行くって……父さんのところ? 早すぎるんじゃない?」
「そんなことないわよ。早く行けばそれだけ長い間航一郎(こういちろう)さんと一緒にいられるもの」
 航たちの父……航一郎は、今単身赴任中で家にはいない。
 結婚して20年近く経つというのに、まだ新婚気分な母は、初め単身赴任を反対していた。
 けれど、断れるものではない。
 それが解ると、家族で引っ越すと言い出したのだ。
 その意見には航たち兄弟が反対したので、結局は、両親が週末ごとに交互で行き来することに決まった。
 先週は父が家に帰ってきたので、今週は母が父のところへ行くことになっている。
 交通費で給料が飛んでしまうんじゃないかと航は思うのだが、そのことに反対するとまた家族で引っ越すなどと言い出しそうなので何も言わなかった。
「もう準備も出来てるし、行くわね。夕食は出来てるから」
 母はそう言って、エプロンを脱ぐ。
 嬉しくてたまらないというように。
 兄2人は部活で帰りが遅く、航は学校が終わってもまっすぐ家に帰ることは珍しい。
 いつもは兄弟たちの誰かが帰ってくるまでは行かないので、航が早く帰ってきたのが余程嬉しいらしい。

 気がつけば、母はもう荷物を持って玄関に来ていた。
 父のこととなると、いつものんびりしている母は別人のようにてきぱきと行動する。
「じゃあ、こーちゃん、行って来るわね。あっちゃんとたっちゃんにもよろしく言っておいてね」
 そう言って、あっという間に家を出ていく。
 その姿は母というよりも少女という方が正しいような気がする。
 航は母を見送りながら、溜息をついた。


 リビングで何をするでもなく、航はぼうっと天井を見上げる。
 新が部活を終えて帰ってくるのは7時近くになるだろう。
「早く帰ってこいよな……」
 もう1度溜息をつく。
 母のことで、大分気が削がれてしまっていた。
 まあ、新の顔を見れば、また怒りが戻ってくるだろうから、それはそれで良かったのだけれど。
 ぼんやりと、航は母のことを考える。
 母は、航のことを“こーちゃん”と呼ぶ。
“こう”ではなく“わたる”という名前なのだが、母が“わたる”と呼んだことは1度もない。
 それは、もともと母が“航”と書いて“こう”と読ませるつもりで名前をつけたからだった。
 けれど父が、それでは自分と同じ読み方になるからと言って“わたる”にしたのだ。
 だからといって、母の呼び方が変わるわけではなかったのだが。
 航にとっては、別にどちらの読み方でも構わないので、気にはしていない。
 そんなことを思っていると、
「ただいまー」
 元気な声が聞こえ、続いてリビングのドアが開いた。
 そちらに目を向けると、同じ顔がふたつあった。
 双子の兄、新と巽(たつみ)が帰ってきたのだ。
「新っ」
「あ、こーちゃん、ただいまー。途中で巽と会ったから一緒に帰ってきたー。……こーちゃん、また部活来なかった」
「こーちゃんって言うな!」
 部活のことは無視した。
「それって差別。母さんが言っても文句言わないのに」
「母さんは新と巽のことも“あっちゃん”“たっちゃん”って呼んでるから良いんだよっ」
 新の場合は、からかうためにそう言っているだけだ。
 現に新は、巽のことは“たっちゃん”とは呼ばない。
 ……と、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「新、どういうことかちゃんと説明しろよ」
「どういうこと……って?」
「とぼけるなよ。朝練の時に、言ったことだよ」
「朝練の時? ……ああ、あれ?」
 思い出した、というように頷く。
 本当に忘れていたのか、忘れた振りをしているだけなのか、どちらか解らなかったが航はその態度に苛々する。
「説明って言われても、本当のことを言っただけだけど?」
 やっぱり、本当なんだ……。
 創を疑っていたわけではないが、どうしても信じたくなかったのに。
「何? 凌(しのぐ)のこと?」
 それまで黙っていた巽が、口を挟む。
「巽、凌って誰?」
「新の恋人」
「……それって、男、だよな……?」
「勿論」
 頭を抱えたくなる。
 朝練の時に言ったということは、バスケ部員の口からそのことが学校中に伝わっていくのではないだろうか。
 今日はまだみたいだったけれど、明日にはもう……。
 そう考えて、頭を振る。
 考えを振り払うように。
「何で、そんなこと言ったんだよ……」
 航がそう呟くと、新は何でもないことのようにあっさりと答える。
「みんなに知ってもらいたかったから。恋人宣言っていうのもなかなか面白いよね」
 笑顔で。
 楽しそうに、言うのだ。
 面白そう。
 それだけで、部員たちに言ったというのだ。
 それで航がどんな思いをしたのかも知らずに。
「新の馬鹿! 新のせいで、俺が武に何て言われたと思ってるんだよっ」
「何、怒ってんの、航」
「怒るだろ、普通。俺まで新と同じなのかとか言われたら!」
 武に言われたことをそのまま新に伝え、同時に航の怒りをもぶつける。
「武、そんなこと言ったの?」
 新は、きょとんとした顔でそう言った。
 1歳しか違わないこともあって、新も巽も航の幼なじみのことを良く知っている。
 一緒に遊んだこともあった。
 今は、新にとって同じ部活で頑張っている仲間でもある。
 だから、武の航に対する態度が変わったことも知っていた。
 そして、新や巽に対する態度をも変わってしまったことも。
 創とは今も親しくしているが、武とは部活の先輩後輩という枠から出ることはない。
 武は、新のことを幼なじみの兄ではなく、部活の先輩だという態度を崩さないのだ。
「そうだよっ」
 航は、新の言葉に頷く。
 そして、ふと巽の方を見ると、平然としているのが目に入った。
 巽は物事に少々のことでは動じないタイプで、それを航は良く知っている。
 けれど、それも時と場合によるだろうという気持ちで巽に必死で訴えようと口を開いた。
「巽はどうなんだよ。何とも思わない?」
 間髪入れず、巽は落ち着いた態度のまま……頷いた。
「恋愛は個人の……新の自由だから」
「で、でもっ。巽と新は双子なんだから、余計に周りからいろいろと言われると思うんだけど」
「そんなことないよ。大丈夫、今日だって何も言われなかったし」
「これから言われるかもしれないだろ?」
 あまりにも平然としている巽を訝しむ。
 人事ならともかく、巽自身にも影響があるかもしれない事なのに。
「言われないって。だって俺、彼女いるから」
「え」
 巽に彼女?
 そんなこと、知らなかった。
 兄弟だからって、何もかも報告し合わなければならないことはないけれど。
 何故だか、少し寂しくなった。
 一瞬、暗い気持ちになってしまい、慌ててその思いを否定する。
 今はそれどころじゃないのだ。
「航もさ、彼女作れば? そしたら何も言われなくなるんじゃないかな」
「そんなの……簡単に出来るわけないだろ……」
 巽の言葉に航が脱力しつつそう言うと、今度は新が身を乗り出すようにして言う。
「じゃあさ、武の言葉を本当にしちゃうってのはどう?」
「は?」
 一瞬、意味が理解できずに訊き返す。
「だから、男と付き合っちゃえば?」
「な……っ」
 あまりの言葉に、航は絶句してしまった。
 一体どういう理屈だ、という航の思いは、新の言葉への衝撃で声にならなかった。
「どう? 結構良い案だと思うけど?」
 新は同意を求めるように、巽に視線を向ける。
「良いんじゃない? 俺は別に航が誰と付き合おうが構わないよ」
 この兄たちは……っ。
 性格は正反対のくせに、顔も声も喋り方も……言うことや考えまで、何でそんなに似ているんだ?
 我が兄たちながら、信じられない。
「ふざけんな、何で俺が男と付き合わないといけないんだよ! 新と一緒にすんなっ」
「航……」
 あ。
 しまった、言い過ぎた……。
 航がそう言った瞬間の新の傷ついたような表情を見て、そう思った。
 けれど、自分が悪いんじゃない。
 新と巽が、ふざけたことを言うから悪いのだ。
「まあまあ、そう言うなって。絶対付き合えとか言ってないし。航が好きなようにすれば良いんだから」
 ほら、現にもう、いつもの新に戻っている。
 航は、無性に悔しくなって新を睨みつけた。
 そんな航を軽くあしらって、新はリビングを出ていこうとする。
「あーっ、新! 謝っていけよっ」
 散々に喚き散らす航を意に介すことなく、新は自分の部屋へと行ってしまった。
 航の胸には、武にあの言葉を言われた時と同じ――いや、それ以上の憤りが残った。




−3−

「……機嫌、悪い?」

 学校に着くなり、机に突っ伏した航は、その声に顔を上げた。
「……最悪」
 心配げに見ている創に、不機嫌も露わにそう答える。
 ……創が悪いわけではなかったのだが。
 昨日のことに加えて、新のことをクラス中のほとんどが既に知っていたこと。
 それが、航の不機嫌を増大させていた。
「……新先輩と、話したんだ?」
 躊躇いがちに聞いてくる創に、航は頷く。
「聞いたよ……本当だった」
「そう……」
「まともな反応は返ってこなかったけどな。2人して、彼女を作れだの、男と付き合えだの……!」
「わ、航……」
「何だよっ」
「声、大きい……」
「あ」
 つい興奮して、声を荒らげてしまった。
 クラスのみんながこちらを見ている。
 そして、その中に。
「武……」
 武も、いた。
 感情の窺えない、けれど鋭い目がじっとこちらを見ていた。
 また、突っかかってこられるような材料を、今度は自ら作ってしまった。
 何でこう、上手くいかないんだと溜息をつく。
 そうしているうちに、武が航の前に立った。
「……お前は」
 武の静かな声が耳を打つ。
「お前は……どうなんだよ……?」
「は? 何をだよ」
 突っかかられる前にと、こちらから喧嘩腰に応じる。
 けれど、言った瞬間に後悔した。
 昨日も創に言われたばかりだったのに。
 性格なのか、ついこういう態度を取ってしまうのだ。
 特に、武相手だと。
「彼女を作るとか……男と付き合うとか、そんな気があるのか?」
「そんなもん、あるわけないだろっ!? 大体、彼女はともかく、何で男となんか付き合わなきゃいけないんだよっ」
 周囲も気にせず、怒鳴りつけてしまう。
 昨日から、何故、こんなことばかり言われるのか。
 憤慨していた航は、武の表情が曇ったことに気付かなかった。

「そうか……悪かったな」

 しばしの後、溜息と共に吐き出された言葉。
 意外な言葉だった。
 それで初めて、航は武の顔を凝視した。
“悪かったな”──?
「な、何だよ、それ……今までそんなこと1度も……」
 どんなに突っかかってきても、謝罪の言葉など、どちらの口からも出たことはない。
 それに、気のせいかもしれないけれど、口調がいつもよりも柔らかかったような気がした。
 それから、どことなく寂しげな声だったような気もする。
 突然の武の態度の変化に、航は戸惑った。
「航……俺は……」
 小さな声で、なにごとかを呟く武に、首を傾げる。
 そして、もっと良く聞こえるようにと耳を近づけた。
 その時。

「こーちゃーん!!」

 武の声をかき消す大声が教室に飛び込んできた。
「な……っ」
 この声、この呼び方は……。
「こーちゃん、ちょっと」
 ドアのところで、中を覗き込みながら手招きしていたのは、良く知った兄だ。
 それも今、1番会いたくなかった兄だった。
「新先輩……」
「……っ、新の馬鹿っ!」
 よりによって学校で、“こーちゃん”などと呼ぶなんて。
 今、話題にのぼっている本人が、平然とここに来るなんて。
 今まで、新が航のクラスに来たことなどなかったのに、どうしてこんな時に来るのか……。
 からかって困らせて楽しんでいるとしか思えない。
 航は、武から離れると、足早に教室を出た。
 航のいなくなった教室内でどんなことを言われているのか……考えたくもない。


「何なんだよ、一体……あれ?」
 新の傍まで来て、その隣に見知らぬ男子生徒が立っているのに気付いた。
 誰だろうと考える。
 新と一緒に来るということは……まさか……?
「そ。これ、俺の恋人。航に会いたいって言うから連れてきた」
「はあっ!?」
 何で、会いに来るんだ?
 嫌がらせかと思いながら、新の恋人だという男子生徒を見る。
 背は新よりも頭半分くらい高い。
 体格も良い。
 けれど、黙ってこちらを見ている表情からは、大人しそうな印象を受けた。
「航君……だよね? 俺、大塚凌(おおつか・しのぐ)っていって……君のお兄さんの恋人なんだけど。その……謝りたくて」
 凌の口調は随分のんびりしたものだった。
 さらりと“恋人”という単語が飛び出したので、一瞬聞き逃しそうになったくらいだった。
「謝る、って……?」
「俺たちが昨日の朝言ったことで、航君に迷惑かけたから」
 どうやら新が話したらしい。
「だから……ごめん」
 そして、新からの謝罪は全くないのに、凌はさも自分が悪いかのように謝っているのだ。
 わざわざ、航の教室にまで足を運んで来てくれたというわけなんだろう。
 出来れば人目のないところにして欲しかったけれど、それでも航は、肩の力を抜いた。
「何だ……新と付き合ってるって言うから、どんな変な奴かと思ったけど、結構まとも……」
 そこまで言って、慌てて口を押さえた。
 いくら何でも失礼だ。
 自分の失言に気付き、頭を下げる。
「……すみません」
「良いんだ」
 そう言って、笑って航を許す凌。
 真面目で優しい人なんだろうなと思う。
 ……何で、新なんかと付き合ってるんだろう……?
 そんな疑問が頭に浮かぶ。
 新と言えば、面白いことが大好きで、飄々としていて、こっちは調子を崩されてばかりで──目の前の凌とは随分印象が違う。
 それとも、違うタイプだからこそ、なのだろうか?
「本当に気にしないで。俺が悪いんだから」
「そんなこと……」
 まだ申し訳なさそうにしている凌に、却ってこちらが恐縮してしまう。
 新への憤りも忘れてしまっていた。
 が。
「ううん、やっぱり俺が悪いんだよ。俺が新に、俺の恋人だって言って欲しいって頼んだから……」
「は……?」
 その言葉に、そんな思いは、あっさりと吹き飛んでしまった。
「告白したの俺だから、俺のことちゃんと恋人だと思ってくれてるか心配で……だから、新は悪くないんだ。責めないでやってくれないかな」
「…………」
 航は絶句して、硬直していた。
 凌が、新に恋人宣言するように頼んだ……?
 ──前言撤回。
 こっちが謝る必要なんか全くない。
 謝った言葉と、申し訳なく思った気持ちを返してくれという気分になる。
 それに、新も新だ。
 凌に頼まれたからといって、あっさり承諾して実行するとは……。
 我が兄ながら、何を考えているのかさっぱり解らない。
 どうして自分ばかりがこんな思いをしなければならないのだろう。
 新も凌も、巽も平然としているのに、何で自分だけ。
 もうこれ以上、掻き乱して欲しくない。
 けれど……それは、無理のような気がする。
 凌の隣でにこにこと話を聞いている新の姿を横目に、航は頭を抱えてしまった。




−4−

 新と凌が帰り、航は不機嫌も露わに教室に戻ってきた。
 新と凌への苛立ちを抱えたままだったからだ。
 けれど、それよりも確かめたいことがあった。
 だからひとまず新たちのことは置いておいて、航はまっすぐ武のいる方へと歩いていった。
「武」
 航が呼びかけると、武が振り返る。
「……何?」
「さっき、新が来た時。何を言いかけたんだよ?」
 そう、新が来る直前に武が言っていたことが気になっていた。

『航……俺は……』

 あの後、武は何を言おうとした?
 どんな言葉を続けようとしたのだろう?
 それを知りたくて、武に対して怒っていたことを抑えて訊きに来たのだ。
 ……それなのに。
「ああ、あれ……何でもないから」
 あまりにもあっさりとした言葉に、
「嘘つくなよ! 何だったんだよ。あの時お前、ちょっと様子が違ってただろ」
 また声を荒らげてしまう。
「……別に……。……ただ、航が男と付き合う気がないって解って……残念だと思っただけだ」
「なっ! どういう意味だよ、それ!?」
 そんなに男と付き合ってほしいと思っていたのだろうか?
 そう考えたら、航は頭に血が上って怒鳴りつけていた。
「そのままの意味」
 武の冷静な口調に、更に腹が立つ。
 人が真面目に聞いているのに、その答えは何なんだ?
 冗談にも程があると思う。
 それに、まさかとは思うけれど……本気で言っているとしたら、尚更、悪い。
 航が睨みつけると、武は話はもう終わりだというように睨み返してくる。
 そのまま、武は不機嫌そうに教室を出て行ってしまった。
「ちょ、武っ!」
 航の声にも振り返らずに。
「何なんだよ、あいつ……」
 ぼそっと呟いて、出ていったドアを見つめる。
 武が何を考えているのか、解らない。
 解らない……。




 航は家に帰ると、すぐに自分の部屋のベッドに身体を投げ出した。
 今日もまっすぐ帰ってきたので、新と巽はまだ帰っていない。
 母は父の所に行っていていないし、しばらくはひとりでいられる。
 ゆっくり、考えることが出来るのだ。
 土曜日の昼に家にいることなどほとんどなかったのにな、と思いながら、航は学校での事を思い出していた。

 結局、武は授業をさぼった。
 言いたいことは山ほどあったし、何を考えているのかも気になっているのに。
 けれど顔を見たら、また同じ事の繰り返しになってしまいそうなので、却って良かったのかもしれない。
「何が悪かったんだろ……」
 呟いて、再びベッドに寝転ぶ。
 何で、武とこうなってしまったのだろう?
 もう、以前には戻れないのだろうか。
 武と創と、3人でいた頃には。
 時には新と巽も加わって、みんなで楽しい日々を送っていた頃には。
 もう、戻れないのだろうか……?
 最近は、戻れないのだと諦めようと努めていた。
 何度も自分にそう言い聞かせた。
 本心は全く逆だというのに。
 本当は……出来ることなら、昔のように、普通に、楽しく……武と創と3人で過ごしたい。
「俺は戻りたいのに……」
 武は、そう思ってはくれないのだろうか……。
 不意に、目の奥が熱くなったような気がして、航は目を両腕で覆った。



「航?」
 どのくらいそうしていただろうか、声がかけられ、ドアが開いた。
「……巽?」
 ドアの所に立っている巽を認めると、訝しげに呼ぶ。
「まっすぐ帰ってくるなんて、珍しいね」
「巽こそ、帰ってくるの早いじゃん。部活は?」
 巽は、知る限りでは部活を休んだことがなかったから、航も同じ言葉を返す。
「今日は休み」
「ふーん、珍しい……」
 巽が所属する演劇部は、滅多に休みの日がない。
 まして、長時間練習できる土曜日に部活が休みになることは、本当に珍しかった。
 それに今は9月。
 11月には文化祭があるというのに。
「まだ、台本が出来てないんだってさ」
「……大丈夫なのか?」
 文化部は夏休み前から準備しているところがほとんどなのだ。
 演劇部もうそうだと思っていた分、ちょっと心配になってしまった。
「大丈夫なんじゃない? ま、何とかなるよ」
 いつものように冷静な物言いだった。
 本人が冷静なのに、何故、自分が心配しなくてはならないのかと疑問に思って溜息をつく。
「……巽は良いよな。いつも冷静で」
 つい、愚痴を零してしまっていた。
「航、冷静になりたいの?」
 巽の言葉に、深く頷く。
 いつもそう。激昂した後で後悔してばかりだ。
 そんなだから、武とも上手くいかないのかもしれない。
「なりたいよ、なれるものなら。何で俺、こんな性格してるんだろ。冷静にできたら……変わってたかもしれないのにさ」
「無理だよ、航には」
 即答され、航はむっとする。
「……そんな、はっきり言うことないだろっ」
「ほら、やっぱり」
「う……」
 確かに、巽みたいにいつでも冷静でいるのは無理かもしれない。
 けれど、それを自分ではない誰かに――巽に言われると、さすがにこたえた。
「た、巽は冷静すぎるんだよ」
 苦し紛れにそう言う。
 ……まあ実際、巽は冷静すぎると本気で思ってはいたのだけれど。
「性格だから、これは。航と一緒で、どうすることもできないよ。でも俺は、結構この性格気に入ってるけど?」
 正直、羨ましかった。
 巽みたいに自分も自分を気に入っていると言えたら良かったのに。
「……俺は航の性格、好きだよ。別に良いんじゃない、そのままで」
 一瞬、耳を疑ってしまった。
 聞き間違いかと思ったのだ。
 巽が、そんなことを言うなんて信じられなかった。
「巽……俺のこと、そんなふうに思ってたんだ?」
「まあね。……そんなに意外? 俺がこんなこと言うの」
 信じられないと思っているのが解ったのだろう、巽が微かに笑った。
 航は黙ったままで、巽を見ていた。
 怒りっぽくて、すぐに感情を露わにするところの、どこが良いのだろう。
 そう思いながら。
 それでも巽の言葉は嬉しかった。
 本当に、嬉しかったのだ。




 あの日以来、武は何も言って来ず、新のことを聞かされる前の状況に戻っていた。
 航には、この状況を喜んで良いものかどうか、解らない。
 嫌な気分にさせられることはないけれど、武との関係が良くなったわけではないし、良くなる見込みもないように思う。
 このまま何も変わることなく、今までと同じ日々が戻ってきただけなのだ。
 たまに突っかかってくるだけの存在に戻っただけなのだ。
 そう、それだけのこと。
 そのはずなのに……何故か、寂しく思えてならなかった。




「え……?」

 そんなある日のこと、唐突に武に話しかけられた。
 静かな口調に、かけられた言葉に、驚きを隠せなかった。
 口を「え」の字に開けたまま、航は呆気にとられて武を見つめてしまった。
 ……だって、もしかしたら、自分の願望が武の言葉をそう聞こえさせたのかもしれないと思ってしまったから。
 自分の都合の良いように置き換えてしまったのかもしれない。
 そんなはずはないと解っているのに、そう思ってしまうほど武の言葉は航に衝撃を与えた。
 けれど武は、もう一度、はっきりと言ったのだ。
「今まで……ごめん。もう、お前に突っかかるの、やめるよ」
「……本当に?」
 航が思わず呟くと、武は頷いた。
 信じられない、と頭の中が混乱した。
 今の今まで、武のことが全く解らなかったのに、まさか、武がそう言ってくれるなんて。
 それでも、湧き上がってくる嬉しさは抑えられない。
 その嬉しい気持ちのままに武に言葉を返そうとして――けれど、気付く。
 突っかかるのをやめるとは言っているけれど、昔のような関係に戻るとは言っていないのだ。
 航は慌てて口を噤んだ。
 ぬか喜びはごめんだと思ったから。

 けれど、そのすぐ後。
 武の口から出た言葉は。


「元に……幼なじみに、戻ろう」


 航の想い、そのままだった。


To be continued...



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