■闇に惑う心を抱いて■


−1−

 何で、こんな思いをしなければいけないんだろう。
 こんなふうに生きるために、俺は生まれてきたんだろうか。

 それなら、生まれてきたくなんてなかったのに―――





 最も忌むべき日。
 自分の出生を、思い知らされる日。
 それが、今日。


「……はあ……はあっ……」
 路地裏に辿り着き、地面に座り込む。
 息が上がっていた。
 周りを見ないよう、人間が目に映らないよう、ここまで全力疾走してきたから。
 それでも、まだ動ける。
 息が上がっていても、それ自体は全然苦痛じゃない。
 体力は落ちてきてはいるものの、まだまだ普通の人間には劣らない。
 そう、肉体的には。
 この苦しい息は、肉体的な疲れではなく、精神的に参ってのものだった。
 気をしっかり持たなければ。
 油断すれば、俺は―――


「具合、悪いのか?」
「―――っ!」
 突然、かけられた声に、俺は思わず顔を上げてしまった。
 目の前に立っていたのは、グレイのスーツを着た長身の男。
 ―――まずい。
 見てしまった。
 今まで、人間を見ないようにしてきたのに。
 こんな人気のない路地裏に人間など来ないと思っていたのに。
 油断した。
 どうしよう……どうしよう!
 ここから逃げる?
 ……無理だ。
 後ろは行き止まり。
 そして何より、目の前に人間がいるのに。
 欲してやまない―――があるのに……。
 それを振り切って、逃げる事なんて出来ない……!

 俺の意志とは関係なく、本能が湧き上がる。
 ……駄目だ。
 絶対、駄目だ。
 負けてはいけない。
 懸命に自分の意志を保とうとする。
 本能と自分の意志が、闘う。
「……っ……ううっ……」
 そうやって、何とか本能を抑え込む。
 必死の思いだった。
 けれど、それがまずかった。
 苦しそうに息をしながら呻く俺に、男が更に近寄ってきたのだ。
 恐らく、相当具合が悪いように見えているのだろう。
 普通の状態だったなら、親切な人だと思ったかもしれない。
 けれど今は、迷惑なだけだった。
 ……大体、被害を受けるのは、そっちのほうなんだ。
 そうならないように、こうやって身を潜めているのに……。

 男の動きは止まらない。
「く、来るなっ」
 男を見ないように視線をそらしながら、言い放つ。
 にも関わらず、足を止める気配はなかった。
 それどころか、段々2人の距離が縮まっていく。
「こっちに来るなよ……っ」
 俺に近づくな……!
 いくらそう言っても、男は聞き入れない。
 それも当然で、俺は立つことも出来なかったのだ。
 怖くて。
 動いたら、どうにかなりそうで。
 それを、具合が悪いために動けないと勘違いされても仕方がなかった。
「……掴まれ」
 手を差し伸べてくれるが、俺はその手を取らなかった。
 取れるわけがない。
 触れてしまったら、もう止められない。
「やめろ……近づくなって言ってるだろっ」
「黙ってろ。具合悪いんだろ」
 これだけ言ってるのに、こっちの気も知らないで……っ。
 ……もう、どうなっても知らないからな……。
 ふと、そういう考えが浮かぶ。
 そう、本能のまま行動すれば。
 そうすれば、楽になれるだろうから。
 だから俺は。
 目の前にいる男を―――
 ……って、何を考えてるんだ、俺はっ。
 今まで考えていたことを慌てて振り払う。
 そんなことをしたら、今までのこの苦労が水の泡になる。
 それだけは、嫌だ。絶対に。
 ぐっと拳を握りしめた瞬間、身体が宙に浮かんだ。
「な……っ」
 勿論、本当に浮かんでいるわけではなくて、俺は男に抱き上げられていたのだった。
 同時に、男が持っていた鞄を押しつけられる。
 持っていろということらしい。
「は、離せ……」
 俺の頭の中は真っ白になる。
 どうしようどうしよう、どうしよう……!
 パニック寸前だった。
 けれど、とにかく離れなくちゃいけないということは解っていて、俺は無茶苦茶に暴れた。
 どう暴れたのか自分でも解らないほど、暴れまくった。
 人間に触れている。
 それを意識しないために。
 意識する暇がないくらい、暴れた。
 これだけ暴れれば男も諦めるだろうと、そういう気持ちもあった。
 というより、さっさと俺を降ろして欲しかったのだ。
 別に降ろすなんて丁寧な動作でなくても良い、落とされても構わないから、解放して欲しかった。
 それが俺のためで、何よりこいつのためなんだから。
 けれど、そんな思いが男に伝わるはずもない。
 押さえつけられて、身動きできないように抱き込まれた。
 もう、駄目だ。
 限界だ。
 これ以上、自分を抑えられない―――!
 俺がその気になれば、この程度の拘束なんて何でもない。
 決心して、男の顔を見上げた。
 男の表情からは、感情が読めなかった。
 男は俺の顔をまっすぐ見下ろしている。
 目が合う。
「……何だ?」
「…………」
 男の目を見ていた俺に、男が訝しげに訊ねてくる。
 俺は、答えられなかった。
 男の黒い瞳に吸い込まれそうな感覚を覚える。
 その瞳から、目が離せなかった。
 この黒が、どこまでも深く続いているようで。
 ―――もしかしたら、見とれていたのかもしれない。
 少なくとも、俺の本能は抑えられていた。
 不思議なことに、あれだけ欲していたものを欲しいと思わなくなっている。
 こいつ、一体……?

「行くか」
 男は俺から視線を外し、俺を抱えたまま歩き出した。
「ちょっと、どこ行くんだよっ」
 視線が外されたことによって男の瞳から解放された俺は、今の状況を思い出し慌てて叫んだ。
 男はそれには答えず、さっさと路地裏を出ようとする。
「なあ、離せって! 何考えてるんだよ、あんた」
 このままだと往来へ出てしまう。
 こんな恥ずかしい状態で。
「なあってば!」
「……俺の家だ」
「はあ!? 何で俺があんたの家に行かなきゃなんねえんだよ」
「…………」
「何、黙ってんだよ。答えろよなっ」
 何なんだよ、こいつは。
 さっきから何か訊ねても、まともに答えない。
 返ってくるのは短い言葉だけ。
 無口なだけなのか?
 ……って、いつの間にか往来に出てるし!
 周りの人がこっちを見ている。
 男が男に抱き上げられて往来を歩いているんだ、注目も浴びるというものだ。
「おい、聞いてんのかよ!」
 耐えきれなくて、男に再び言う。
 せめて、人のいないところへ。
 そう思って。
 けれど男は、相変わらず感情の読めない表情と口調で、言い放った。
「……俺は、ここでお前を放って行っても構わない」
「…………っ!」
 それだけは勘弁してくれ!
 そう心の中で叫ぶ。
 こんな往来で、こんなに目立って。
 それでその中に俺ひとりだけ置いて行く?
 冗談じゃない。
 それに、こんな人通りの多いところに取り残されたら、俺は……。
 思わず、男にしがみつくようにしてしまう。
 あまり身動きはできないので、微かに身体を捩った程度でしかなかったが、男にはそれが解ったらしい。
 小さく笑われたような気がした。
 途端に俺は、むっとして、
「な、何が可笑しいんだよ!」
 そう怒鳴ってやった。
 けれど、男は表情を崩さない。
 俺を抱えたまま、周りを気にすることなく、歩き続ける。


 どのくらい歩いただろうか。
 様々な建物が並ぶなかでも、一際高く立っているマンションの前で、男は立ち止まった。
 そして、そのマンションへと入って行く。
 当然、俺も一緒に。
   



−2−

 マンションの中に入って、エレベーターに乗り込む。
 身動きが取れないせいで、何階に行こうとしているのかは解らなかった。
 エレベーターから降り、男は無言で歩みを進める。
 しばらく歩くと、男は俺が持っていた鞄から鍵を取り出した。
 どうやら、男の部屋に着いたらしい。
 俺を抱えたまま鍵を開け、中に入る。
 俺は、中の様子を見る余裕もなく、じっとしていた。


 リビングに着き、俺をソファに座らせると、男はスーツの上着を脱ぎ始めた。
 ネクタイも外す。
「……なあ、着替えるんだったら、部屋で着替えれば? 何で、こんなとこで……」
 言いかけて、口を噤んだ。
 ワイシャツのボタンを3個外し終えた男は、覗き込むようにして俺を見ていた。
 心なし……すごく距離が近いような気がする。
 ふと湧き上がるのは、さっき抑えた本能。
 けれど、さっきとまるで同じものではなくて。
 本能は本能でもさっきのとは違うように感じる。
 感じるけれど……。
 それでも結局、本能は本能で。
 俺は今、相当やばいことになっていた。
 顔を近づけるな、顔を!
 そう怒鳴ってやりたいが、言葉にならない。
 俺は焦って、何もできなかった。
 そうこうしているうちに、男は俺の肩に頭を乗せた。
 目の端に見えるのは、男の首筋で―――
 そこに目が釘付けになってしまう。
 慌てて目をそらそうとするけれど、どうしてもそこに目がいってしまう。
 俺は、出来るだけ見ないようにして、
「……っ、な、何だよ!?」
 辛うじてそれだけ口にする。
 そして。
 俺は、次の男の言葉に、耳を疑った。

「―――欲しいんだろ?」

 ―――何が?
 何が欲しい?
 俺がその言葉で解るのは、ただひとつ。
 けれど。
 この男は、それを知っているのか?
 それとも、別の意味なのか……?
 俺は硬直してしまった。
 肩に乗った頭が、微かに揺れる。
 含み笑いをしたようだった。
 けれど、俺にはそれを咎める余裕もなかった。
 動揺していた。
「どうした? いらないのか?」
 そんな俺を嘲るように、男は低い声で囁く。
 俺は、身震いした。
「な、何、を―――?」
「とぼけなくても、解ってるさ」
 解ってる?
 解ってるって?
 もしかしてこいつ……。
 こいつ、知ってる?
 俺のこと、解ってる!?
「あ、あんた……知って……?」
 俺が恐る恐るそう言うと、男は顔を上げた。
 至近距離で俺を、射すくめる。
「……ああ、知ってる。だから、あげるって言ってるんだ」
「何で、知ってるんだよ!? 解ってて声かけたのか!?」
 俺の声は完全に上擦っていた。
 どうしようもなく、震える。
「最初は解らなかったよ。まあ、様子を見ていて見当はついたけどな」
「な……じゃあ、解ってて俺をここに連れてきたっていうのか!? あんた、怖くないのかよ!!」
「怖い? 何故? そんなことあるはずないだろ。あげるって言ってるんだから、大人しくもらっておいたら?」
 ぐい、と唇に首筋を押しつけるようにされて俺はきれた。
「ふざけんな! そんなもんいらねえよ!」
 そう言わなければ、自分を抑えられないと思った。
「そんなもん……か。でも、必要だろ?」
「……っ」
 必要?
 ああ、そうだよ。
 確かに必要だよ。
 ……そうかもしれないけれど、俺は絶対に嫌だ!
 俺は乱暴に男の肩をひっつかんで、俺から引きはがさせた。
「いらねえもんはいらねえんだよ! 俺は……俺はっ、人間の血は絶対に吸わない! そう決めてるんだ!」
 これ以上ないってくらい、鋭く男を睨みつける。
「人間の血、か……」
 男は、馬鹿にしたように薄く笑う。
「そんなに血を吸うのが嫌なら、家にでも閉じこもっていれば良かっただろ? 満月の夜に出歩いて血は吸いたくないって?」
「うるさいなあっ。俺だっていつもは家から出たりしねえよ! 今日は、兄貴が家使うから仕方なく……!」
 そうだ、兄貴さえ。
 勇士兄さえ家を使わなければ、こんなことにはならなかったのに。
 本当だったら今頃、家でいられたのに。
 俺がそうやって言い返すと、男は考え込むようにして、こちらを見る。
 驚いたように見えたけれど、相変わらず表情が変わらないので実際どうなのかは解らなかった。
 やがて、男が口を開いた。
「……まさか、本気で人間の血を吸いたくないなんて言う吸血鬼がいるなんてな……」
「なっ、あんた、何言って……っ……んん……っ」
 抗議の声が呑み込まれる。
 男の、唇で。
「ん……っ」
 抵抗するけれど、強い力で押しつけられていて、離れられない。
 何やってんだよ、こいつ……っ。
 何されてんだよ、俺……!
「……っ!?」
 違和感を感じて、俺は目を見開いた。
 思わず、口を開いてしまう。
「ちょ……おいっ……あっ……」
 それがまずかった。
 口を開いた隙に、男の舌が口の中に入ってきたのだ。
「ん、ん―――っ」
 俺は必死で逃れようとする。
 けれど、逃げれば逃げるだけ追いかけてきて、どんな抵抗も無意味だった。
 散々、好きなようにされる。
「……っは……っ」
 ようやく、唇が解放されて、息を吐く。
 初めてのことに、俺のなかの何もかもがわけの解らない感覚に翻弄されていた。
 それでも、男を睨みつける。
「何すんだよっ……」
 手の甲で唇を拭いながら、絞り出すようにして声を出す。
「俺のことうるさいうるさいって言うけど。お前のほうがよっぽどうるさい。ちょっとくらい黙れ」
「はあ!?」
 それだけ?
 それだけで、キスなんかしたのか、こいつ……っ。
 ていうか、黙らせるためなら舌まで入れる必要なんかないだろうが!
 ……違う、そもそもキス以外に方法はあるだろう……。
「……もう1回、する?」
「……っ、ふざけんな! ……帰るっ」
 男の言葉に、かっとなって怒鳴る。
 ……けれどそれは、動揺してしまった自分を隠すためだった。
 さっきの感覚を思い出してしまったのだ。
 くそっ。
 俺はそんな思いを振り切るように、リビングから出ようとする。
「おい」
 今にも出ていくという時に、不意に呼び止められた。
 立ち止まる理由はなかったけれど、俺は男を振り返ってしまう。
「途中で人間に会ったらどうするんだ?」
「人通りのないところ選んで通るから良いよっ」
 どういうつもりで引きとめようとしているのか、そんなことはどうでも良い。
 とにかく、今すぐここから出ていきたかった。
 この男から離れたかったのだ。
 俺の言葉と様子に、男はひとつ溜息をついて言った。
「……気つけて帰れよ」
「言われなくてもっ」
 吐き捨てるように言って、俺は玄関へと向かう。
 後ろを振り返ってみるけれど、男が追ってくる気配はない。
 それはそれで良い。
 けれど、男が『気つけて帰れよ』と言った時に、何かを含んだような言い方だったように思ったのは気のせいだろうか。
 それが、気になっていた。
 靴を履きながらも中の様子を窺う。
 やはり、男がこちらに来ることはない。
 ……気のせいだよな、やっぱ……。
 そう思い直すと、ドアを勢いよく開ける。
 俺は、わざと大きな音をたててドアを閉め、男の部屋を後にした。
   



−3−

「…………」
 部屋のドアを開けると、男が玄関に立っていた。
「戻ってきたか」
 見透かしたように、俺を見る。
 いや、実際、俺が戻ってくるのを知ってたんだ。
 含んだような物言いは気のせいじゃなかった。
「……ここ、どこだよ」
 男を睨みつける。
「住所が解るようなもんはねえし、人通りは多いしっ」
 エレベーターで1階まで降りて、マンションを出た途端、人にでくわした。
 慌てて避けたは良いけれど、辺りを見回してみても看板とかは何もない。
 裏路地からマンションまでの道をきちんと見ておけば良かった。
 身動きが取れなくても、どうにかして見ておけば。
 マンションの前を通る人は多かったが、俺に道を訊けるはずもなかった。
 とにかく、他の人間に訊けない以上、目の前の男に訊くしかない。
 が、男は何も言わない。
「なあ、ここどこだよ?」
 男は無言で、俺に近づく。
 何だか、圧迫感を感じる。
 俺の隣に来ると、男は俺の背中を押した。
 部屋の中に押し込められる。
 後ろでドアが閉まり鍵がかかる音がした。
「……おい?」
 俺は振り返って訝しげな声を投げかけた。
「……泊まっていけ」
「はあ……?」
 男の突拍子もない言葉に、唖然とする。
「ここがどこだか解ったところで、どのみち帰れないだろ」
 確かに、ここがどこだか解らない以上に、人通りが多いことで戻ってきたんだけれど……。
「じょ、冗談じゃねえよ! 何で、こんなとこに泊まらなきゃいけねえんだよっ。ここがどこか教えてくれれば、どうにかして帰れる!」
 俺はそう怒鳴る。
 こんな見ず知らずの男の家に、何で泊まらなければならないのか。
 大体、さっきみたいなことをされたらどうするんだよ。
「別に、何もしない」
「……っ」
 俺の考えを読んだかのような言葉に、俺はつまった。
 言い当てられて、動揺する。
 だから、咄嗟に口を開いてしまった。
「そ、そんなこと考えてない! 泊まれば良いんだろ、泊まればっ」
「そうか。じゃ、来いよ」
 男がリビングに戻っていくのを、忌々しげに追う。
 俺は、自分の言ったことを既に後悔していたけれど、今更取り消せない。
「もう遅いからな、風呂入れよ。着替え、俺のだけど出しておく」
「…………」
 俺は黙って、男に示された浴室に向かう。
 服を脱ぎながら、溜息をつく。
 ……何で、こんなことになったんだろう……。

 今日は、満月。
 自分が吸血鬼であることを、もっとも思い知らされる日だ。
 忌むべき日だと、そう思っている。
 両親や勇士兄、そして柏原家のみんな。
 一族全て。
 彼らは、それぞれ吸血鬼であることを受け入れて生活している。
 満月の夜に人間の血を吸うことも、身体の強靱さも全て。
 けれど、俺には理解できないことだった。
 どうして、血を吸わなければいけない?
 血を吸わなければ、死ぬのか?
 そんなことはない。
 現に、俺は生きてる。
 血を吸わなくても、生きてる。
 吸血鬼と人間の、一体どこが違うというのか。
 ただ、人間よりも少し強いだけのことだ。
 その代償に、人間の血を必要とする、ただそれだけのこと。
 俺は、強さはいらない。
 他を必要とする強さなどいらない。
 そのための人間の血など、欲しくない。
 だから俺は、吸血鬼でありながら人間に近い。
 両親や勇士兄のような強さはない。
 長時間運動すれば息が上がるし、体力も劣る。
 けれど、人間と比べれば、まだ遙かに強いのだ。
 17年間、一滴も人間の血を吸っていない身体でも。
 その俺よりも強い彼らは、それでも満月の度に血を欲する。
 それはどうしようもない、吸血鬼にある本能だということは解ってる。
 要は、その本能を受け入れられるかどうか。
 俺は、受け入れられなかった。
 だからといって、彼らにもそれを求めはしない。
 これはただの俺ひとりの気持ちだから。
 それでもやっぱり、彼らに嫌悪を感じてしまう。
 一緒に暮らす家族にさえ。
 それが、嫌だった。
 だから思ってしまう。
 俺が普通の人間だったら。
 両親も勇士兄も人間だったら。
 そうすれば俺は、大切な家族を嫌悪しなくてもすんだのに。
 俺が、人間だったら……。
 満月の夜に、怯えて苦しむ必要もない。
 俺の中にある吸血鬼の本能が疼くこともない。
 ……ただの、空想。願望。叶えられることは決してない。
 それでも、願わずにはいられない。
 人間に、生まれたかった。
 今からでも人間になりたいと。
 だから、せめて。
 せめて、自分から吸血鬼になるようなことだけは、したくなかったのだ。

 満月の日は否応なしにやってくる。
 例え月が雲に隠れていようとも、血を欲することには変わりはない。
 満月の夜は、いつも家にいた。
 人間と接触しないように。
 目の前に人間がいなければ、本能も大分抑えられる。
 皆無ではないけれど、俺にはそうすることしかできない。
 家で、ひとりで苦しむのだ。
 その時俺は、孤独だった。
 家族は、満月の夜には家にいないから。
 両親も勇士兄も、自分の本能を満たすために家を空ける。
 両親は、片方が人間であれば、相手の血を吸ったかもしれない。
 けれど、父と母は従兄弟同士で血のつながりがある。
 どちらとも吸血鬼だった。
 柏原家は、近親婚を好む。
 吸血鬼の一族に、人間を入れたくないのだろう。
 勿論、親兄妹では結婚できないから、それはしないけれど。
 両親のように従兄弟同士というのが多いんだと思う。
 俺は、それも嫌だった。
 どこまでも途切れることなく、吸血鬼のままなのだから。

 ……けれど、実は従兄弟の基には、ちょっとだけ心を許しているところがある。
 基は、ただひとり幼なじみの彼方だけを想っていた。
 俺と同じ理由で基が他の人間の血を吸わなかったわけではなかったけれど、基の彼方に対する想いだけは認めていた。
 認められた。
 基にだけは、嫌悪を覚えることもなくなった。
 基はこれからも彼方だけを想っていくのだろう。
 未来がどうであれ、一族がどうであれ。
 彼らに何を言われようとも。
 そんな基が、時々羨ましくなる。
 みんなが基のような想いを持っていれば、これほど吸血鬼や家族、一族に嫌悪することもなかったのに。
 家族に対して、こんな想いを抱えることもなかったのに。
 ……そういえば、基の想いが成就するきっかけを作ったのは、勇士兄だと基が言っていた。
 少し、意外だった。
 勇士兄が、そんなことをするとは思わなかった。
 人の恋愛に口を挟むような兄貴ではなかったから。
 けれど、本当のことなんだろう。
 ちょっと、見直したかもしれない。
 かもしれないけれど……。
 俺が今、こうして見ず知らずの男の家で風呂に入ってる原因は勇士兄だった。
 勇士兄が家に恋人を連れてくるから。
 正確には恋人じゃないけれど、俺には関係ない。
 とにかくそういう相手を連れてくるということは、することは決まっている。
 今まで一度も家に連れてきたことがなかったので不思議だったけれど、もしかしたら、本気の相手なんじゃないかと思う。
 勇士兄は何も言わないけれど、そんな気がする。
 そういうことなら構わないとは思った。
 一夜くらい、どうにかなるだろうとも。
 ……けれど、甘かった。
 甘すぎた。
 無事に、家に帰れるんだろうか?
 そんな考えまで浮かんで、ぞっとする。
 ここがどこだか解らなくて、わけの解らない男の家に泊まることになって。
 心許なかった。

 そんなことを考えながら浴室に入る。
 迷ったが、シャワーだけ浴びることにした。




−4−

「……でかい」

 用意してあった着替えのパジャマを着て嘆息する。
 ぶかぶかだった。
 とりあえず、袖と裾だけは折っておいた。
 深々と溜息をつく。
 男はひとり暮らしのようだし、それならこれは男の服というわけで……。
 なんか、悔しい。


 リビングに戻って時計を見ると、既に日付が変わっていた。
 俺はどこで寝れば良いんだろう?
 やっぱり、ソファか?
「なあ、俺、どこで寝れば良いんだよ?」
 ソファに座って何かの書類を熱心に見ている男に、声をかける。
「あ? ああ……寝室で寝ろよ」
 恐らく仕事に関する書類だろう。
 書類から目を離すと、それだけ言ってリビングを出ようとする。
「おい、どこ行くんだよ」
 俺は慌てて呼び止めた。
 寝室で寝ろと言われても、困る。
 そりゃ、こいつが勝手に連れてきたんだから寝室で寝たって良いかもしれない。
 けれど。
 俺はそこまで図々しくない。
 今の状況は全くもって不本意だけれど、一応ここはこいつの部屋なんだし。
「……風呂。別に気にすることないぞ。俺も寝室で寝るし」
 男は振り返りもせずにそう答えると、さっさと浴室へ行ってしまった。
 そっか、風呂か。
 じゃ、こいつが風呂から出て来てからソファで寝ると言おう。
 と、納得しかけた俺は、その後に続いた言葉を思い出す。
 さっき、何て言った?
 寝室で寝るとか言わなかったか?
 俺も寝室で寝るんだよな?
 い、一緒に寝るって事か!?
 それとも、ベッドが2つあるとか……。
 いや、ひとり暮らしなのにベッドが2つあるわけないか……。
 ……じゃあ、やっぱり一緒に……?
「冗談じゃねえ……」
 苛立ったように呟く。
 俺はソファで寝る。
 そう決めた。
 誰が、あんな奴と一緒に寝るもんか!
 落ち着かない気分で、男が風呂から出てくるのを待った。



「俺はソファで寝るからな!」
 男がリビングに入ってくるのを認めると、俺は大声で怒鳴った。
「掛け布団はひとつしかないぞ」
「えっ」
「俺の分しかない」
「……だったら、泊まれなんて言うなよっ」
「ないものは仕方ないだろ。ほら、さっさと行くぞ」
「だから! 俺はソファで寝るって! 掛け布団ぐらいなくても……」
「今、11月だぞ。風邪引くだろ」
「風邪くらい俺はっ」
「…………」
 男は、俺にも聞こえるくらい盛大な溜息をついた。
 そして。
「何すんだよっ。降ろせっ」
 またも俺は、男に抱え上げられてしまった。
「うるさい。お前がさっさとしないから悪い」
「だから俺はソファで!」
「もう着いた」
 男の言うとおり、もう俺たちは寝室に着いてしまっていた。



 そこには当然ながら、ベッドはひとつしかなかった。
 ということは、やっぱり、そこに寝るしかないというわけで……。
 俺はベッドに降ろされた途端に、ここから出ようとした。
 けれど、男がそれを阻む。
 俺は仕方なく、ベッドの半分部分に潜り込んだ。
 男には背を向けて、寝転ぶ。
 はっきり言って狭かった。
 少しでも動けば、男に当たる。
 何で、俺はこんなところで窮屈な思いをして寝てるんだろう……。
 俺、今日1日で何回、「何で」って思ったんだろう……。
 ……はあ。
 全然、眠たくない。
 目を閉じてても、眠りは訪れない。
 後ろで寝ている男を気にしているからなのか、何なのか……とにかく、一瞬たりとも眠気は襲ってこなかった。
 それに、寝返りも打てない。
 さっき言ったとおり、男が俺に何もしてこないことが唯一の救いかもしれない。



「……なあ」
 とうとう俺は、眠ることを諦めた。
 返事はないだろうなと思いつつ、声をかける。
「……何だ?」
 ……起きてたのか。
 こいつも眠れないのかな?
 俺は、起きてるならと疑問を投げかけた。
「何で俺が吸血鬼だって解ったんだ? 他にも吸血鬼の知り合いがいるとか?」
「知り合い、か……まあ、そんなもんだ」
 正直、驚いた。
 柏原家以外に吸血鬼の家系があるなんて聞いたこともなかったし。
 ……あ、もしかして、柏原家の者なのかもしれない。
 ちょっと好奇心が生まれた。
「あの、さ。その知り合いって、柏原って名字?」
「……いや。衣笠(きぬがさ)だ」
 ……知らない。
 衣笠なんて。
 ……柏原じゃないのか。
 けれど。
 柏原でないのなら。
 もしかしたら、俺と同じ考えを持っているもしれないと、期待して男に訊ねてみる。
「……そいつは人間の血を吸う?」
 訊いてみてから、ふと思い出した。
 俺が人間の血を吸わないと言った時のことだ。
『……まさか、本気で人間の血を吸いたくないなんて言う吸血鬼がいるなんてな……』
 ということは、その知り合いは、俺とは違うって事だ。
 他の奴らと同じだって事だ。
 俺はがっかりする。
 ……そうだよな、そんな奴、俺以外にいるわけな―――
「いや、吸わない」
「はっ?」
 考えを途中で遮った男の言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 男を凝視する。
「お前と同じ。生まれてから1度も人間の血を吸ったことはない」
 まさか。
 そんな奴が、俺以外にも本当にいるなんて……。
 けれど、だったらあの時の言葉は何なんだ?
「……あれは、他にもそんな奴がいるとは思わなかったから、驚いただけだ」
 と言うわりには抑揚のない声音だったけれど。
 驚いたのは俺も同じだ。
 会いたい。
 そいつに会ってみたい。
 会って話がしたい。
 俺と同じ考えの奴。
 そんなのがいるなんて思わなかったから。
「……吸血鬼が、吸血鬼の血を吸ったら……どうなると思う?」
 意気込んでそいつに会いたいと言おうと思ったら、男が脈絡のないことを訊いてきた。
 俺は訝しげにしながらも、首を横に振った。
 実際、解らないから。
 吸血鬼同士で……なんて、そんなことする奴がいるのか……?
「ど、どうなるんだ……?」
「……さあな」
 かちんときた。
 自分も知らないなら、謎掛けみたいに問うなよな。
 腹が立った俺は、もう寝ようとした。
 さっきから眠ろうとしても眠れなかったけれど、こいつと話してるよりもましだと思って。
 ……けれど、思っただけで、眠れなかった。
 男が、俺に覆い被さるように、俺の上に乗り上がってきたからだ。
「ちょ、何してんだよ。どけよ、どけってば!」
 押し退けようとした俺の手は、簡単に押さえつけられた。
 さっきのキスが蘇ってくる。
 焦って藻掻くけれど、びくともしない。
「おい……っ」
 俺の顔のすぐ近くに、男の顔がある。
 一瞬、硬直する。
 ……けれど、それ以上は近づいて来なかった。
「……どうなるか……知らないから……」
 囁くような声音。
「お前と」
 真剣な瞳。
「俺で」
 あの吸い込まれそうな黒い瞳。
「試して、みようか―――?」
 一瞬、こいつが何を言っているのか解らなくなった。
 慌てて、男の瞳から視線をそらす。
「な、何、言ってるんだよ……?」
 じわじわと、男の言葉の意味が、頭の中に浸透してくる。
「吸血鬼が吸血鬼の血を吸ったらどうなるか……」
 男が、さっき言った言葉を再び繰り返し始める。
「お前と、俺で、試してみようか……」


 ―――ようやく、意味が解った。
 だとしたら。
 だとしたら、こいつは……。

 ゆっくりと男の唇が俺の首筋に降りてくるのを、俺はただ見ていることしかできなかった。




−5−

 ……嘘だろ?
 今、自分の身に起ころうとしていることが、とても信じられなかった。
 こいつは、俺と同じ吸血鬼で。
 そして、その俺の血を、吸おうとしている――?


「や、めろ……っ」
 男の所作を見ているだけだった俺は、首筋に固いものが当たった瞬間、ようやく声を上げた。
 それが、歯――牙だと解ったから。
 動いたら噛みつかれそうで、身を捩ることも出来なかった。
 けれど。
 結局は、動こうが動くまいが、結果は同じだった。
「痛……っ」
 牙が食い込む痛みが、首筋に走る。
 噛まれたのだと、悟った。
 きっとこのまま、血を吸われるのだろう。
 血を吸われるのって、どんな感じなのかな……。
 血を吸うのって、どんなだろう……。
 吸ったことも、当然吸われたこともない俺には、見当もつかないことだった。
 力とか、抜けるんだろうか?
 貧血とか……。
 まあ、大丈夫じゃないかとは思うんだけれど……吸血鬼同士でっていうのは、どうなんだろう……。
 血を吸われようとしているというのに、逃げることも考えずにそんなことを思う。
 どのみち、この状態で逃げられるのかどうかは怪しいけれど。
 今できることなんて、ほとんどない。
 頭のなかで何か考えてることしか、できない。


「……?」
 どのくらいたったのかは解らない。
 痛みとかが襲って来ると思っていたのに、いつまで経っても何も起こらないことを訝しむ。
「……おい?」
 呼びかけても返事はない。
 男と自分の首筋に意識を向けると、噛みついていた牙は抜けていた。
 とはいえ、確かに噛まれたことは噛まれたようで、ひりひりとした痛みは少しだけある。
 けれど、それだけだった。
 とても血を吸われたとは思えないのだ。
「おい……」
 覆い被さっている男の肩に手を掛けて力を入れると、意外にも簡単に押し退けることができた。
 男は、相変わらず、感情の読めない顔で俺に視線を向けてくる。
「……冗談だ」
「は!?」
 冗談?
 男の呟くような声をはっきり聞き取った俺は、驚く。
 つまり……こいつは、吸血鬼じゃないってこと?
 それらしいことを仄めかしておいて……おまけに、あんな演技までして――?
 怒りを隠すことなく、睨みつける。
 すると男は、まだ俺の上に乗っかったままで口を開いた。
「冗談ってのは血を吸おうとしたことだ。……俺が、吸血鬼だということは……冗談じゃない」
 目を伏せ、小さい声で。
「……いや、やっぱり冗談なのか……」
 ようやく男が俺から離れる。
 元のように、ベッドの半分に寝転がった。
 男が天井を見上げるのを、横目で見る。
 俺には、何を言いたいのか全然伝わってこない。
 血を吸おうとしたのが冗談で。
 吸血鬼というのは本当で。
 けれど。やっぱり、冗談――?
 疑問の目を向けると、男と目が合った。
 男は俺を見ながら、息をひとつ吐いて話し始めた。
「俺は、お前とは違う。お前は自分が吸血鬼だということをきちんと解っているだろうが……俺は、そうじゃない」
 淡々と、話は続く。
「俺には、物心ついた時から両親も親戚もいなかった。だから、誰も俺が何者なのか、教えてくれる人はいなかったんだ」
 施設で育ったんだと、何でもないことのように言う。
 両親が生きていれば、自分が何者か悩まずにすんだのにと。
 苦笑混じりに。
 何故、こんな簡単な口調で、言えるのだろう。
「解るのは……満月の夜になるとお前と同じようになることだけだ」
 けれど。
 次に続いた言葉は、どこか辛そうで。
 寂しそうで。
 少し、投げやりになったような態度で――。

 急に、この気にくわない、訳の解らない男が、自分のすぐ近くにいるように感じた。
 身近に感じたのだ。
 心の距離が。
「……もう、寝るぞ」
 何も言わずにいた俺に、男はそう言ってベッドから起きあがった。
 訝しげに目を遣る。
「お前はそこで寝ろ」
「……あんたは?」
 一緒に寝るのではなかったのか。
「俺は、ソファででも寝る」
「あ、」
 ベッドから降りようとしている男を、俺はとっさに引き留めてしまった。
 今度は、男の方が訝しげな目で俺を見る。
 俺は慌てた。
 思わず掴んでしまった腕を、どうすることも出来ず、どうして引き留めたのかと考え込む。
「……その、ここはあんたの部屋なんだから、あんたがベッドで寝ろよ」
 その結果、言った言葉がこんなことだとは、自分でも思わなかった。
 俺が狼狽えていると、男はどうやらベッドの中に戻ってきたようだ。
 1回引き留めただけで、あっさり戻ってこなくても良いのに……。
 そう思わないでもなかったけれど、諦めて今度こそ眠ろうと目を閉じる。
 目を閉じたまま、俺は疑問を口にした。
「あんたさ……何で、俺をここに連れてきたんだよ。それに……あんたが血を吸わない理由って何?」
 男が微かに、身じろいだのが解った。
 俺の問いに答えようとしてるんだろう。
「……お前が、俺と同じような様子だったからだ。吸血鬼かどうか、確かめたかった」
「え? じゃあ、俺が吸血鬼って解ってて連れてきた訳じゃなかったのかよ」
「まあな。多分、そうだろうとは思っていたが。結果は……吸血鬼だった。だから俺も、そうなんだろうと、以前より確信が持てた」
「でも……あんた、満月の夜のわりに普通だっただろ? 平然と人通りのあるところ歩いてたし」
「お前と同じように、一応抑えることは出来るからな。それに、お前よりも俺の方が人間に近いんじゃないか? 歳の差の分」
「そっか……」
 普通に、会話してる。
 出会った時からは考えられないほど。
「それと、もうひとつの質問。俺が血を吸わないのは、自分が人間だと信じていたかったからだ。今でも、出来ることなら信じていたかったんだ……」
 じゃあ、俺を連れてこなければ良かったんじゃないか。
 そんな考えが浮かぶ。
 それを悟ったのか、男は首を横に振った。
 その瞬間。
 珍しいものを見た。
 そんなことはないというように、微か表情を緩める男を。
 けれど、驚いてまじまじと見返すうと、すぐに元の無表情に戻ってしまった。
「本当は解っていた……普通じゃないってことは。だから、良いんだ」
「じゃあ、これからはどうするんだ? 吸うか吸わないか、どっちだよ?」
「吸わないよ。此処まで来たらな。今更、今までのことをなかったかのように人間の血を吸うなんてことは出来ないからな」
「そう……」
 ほっとした。
 自分以外の、人間の血を吸わない吸血鬼がいなくなってしまうのが嫌だったのもあるけれど。
 それ以上に、こいつに血なんて吸って欲しくなかった。


 ふと、男が自分の首筋を見ているのに気付く。
「何だよ?」
 俺の言葉は無視して、手を触れさせる。
「……っ」
 今まで忘れていたけれど、そこは噛まれたところで。
 一瞬、痛みが走った。
「……痛いか」
「……ったり前だろ! あんたのせいだ!」
 男の手を退けさせようとする。
「冗談で、本当に噛みつく奴があるかよ……」
 首筋から手を外させて、そう言うと、
「……途中までは、本気だった」
 あっさりとそんな返事が返ってきた。
「えっ……」
「あんまり痛そうだったんで、やめたけどな」
 今度は、首筋に唇を寄せてきた。
 軽く触れる。
「な、何すんだよっ」
 まさか、また噛みつかれるのかと身体を強張らせた。
 けれど、男は噛みつきはしなかった。
 代わりに、噛みついた牙の痕を唇でなぞっていった。
「やめろ……っ」
 触れられると痛む。
 ……けれど、それだけじゃなくて――。
「……っ」
 何か、熱い。
 触れられたところが、異様に……。
「やめろって……!!」
 慌てて渾身の力で押し退けると、ようやく離れていった。
 とにかく、もうそこに触れられたくない。
「……何もしないんじゃなかったのかよ!?」
 泊まる時に言われた言葉。
 実は、今の今まですっかり忘れていた。
 こいつにキス、されたことも。
 あの話のせいで、警戒心まで吹っ飛んでいた。
「……別に何もしてないだろ?」
「ど、こが……っ」
「痕、大丈夫か見ただけだ」
 これが?
 見るだけなら、こんなことしなくても良いだろうに。
 けれど、怒っている俺を余所に、男はさっさと目を閉じてしまった。
「……もう、寝ろ」
 と、それだけを言って。

 俺は、しばらく警戒していたけれど、男が寝入っているのが解ってから、ようやく目を閉じた。
 今夜は何だかいろんなことがありすぎて。
 すぐに俺も、眠ってしまったようだった。





「……おい、起きろ」
「……ん……?」
 聞こえてきた声に、身を捩る。
 まだ、目を開けたくない気分だ。
 それにしても。
 いつもは誰も起こしになんてこないのに、何で今日は……?
「もう昼前だぞ、起きろ」
 ……ああ、そういえば。
 こいつの家に泊まったんだっけ……。
 ……で、今、昼前……?
「あ……」
「起きたか」
 目を開いたのを見て、男がそう言った。
 まだ、頭はぼんやりしている。
「さっさと飯食ってくれ。これから仕事なんだ」
「仕事? 今日、日曜……」
「休日出勤なんだ、今日」
「休日出勤……」
「そうだ。だから早く起きろ。もうじき出かけるぞ」
 そういう男は、既にスーツ姿だった。
 ……もしかして、ぎりぎりまで寝かせてくれた……?
 そんなことを思いながら、段々、目が覚めていった。
 ぼんやりしていた頭も。
「ほら、さっさとしろ」
 慌てて服を着替えて用意されていた御飯を食べた。
 それから、慌ただしくマンションを出る。
 道が解るところまで、俺を連れて行ってくれることになっている。
「なあ。あんた、料理出来るんだ?」
 そう言ったのは、用意されていた料理が思いがけず手の込んだ――母親が家族のために作るようなものだったからだ。
「……施設にいた頃から料理はしてたからな。味はともかく、料理が出来るようになるのは自然だろ」
 ……意外なことに、男の作った料理は美味しかった。
 けれど。
 それを言うのは、何となく癪だったので口を噤んだ。


「この辺で良いだろ。帰れるな?」
 見覚えのある――昨夜、男と会った路地裏へと続く通りまで来ると、そう言って男は足を止めた。
「じゃあな」
 俺が頷いたのを見て、男は踵を返した。
 どうやら職場はここから正反対の場所だったようだ。
 御礼を、言うべきだろうか?
 自分の意志で男のマンションに行ったわけではないけれど、一応助けてもらったんだし。
 言うべき、だよな。

「……がとう」
 男の背中に向かって、小さな声で、呟いた。
 声が届いたかどうかは解らない。
「……でも、一応言ったからな……」

 男が見えなくなるまで、俺はそのままそこに突っ立っていた。




−6−

 あいつと別れて歩くこと数十分。
 俺の家の前に、着いた。
 俺は、深呼吸をして、ドアノブに手を掛ける。
 躊躇いがちに。

 家の中に入り、リビングのドアを開けると、ソファに勇士兄が座っているのが見えた。
「……勇士兄」
 声を掛けると、勇士兄が振り返った。
「……ただいま……」
 自分から話しかけたくせに、俺は既にここから逃げたい気分になっていた。
 いつも、そう。
 満月の次の日は、顔を合わせ辛い。
 俺は自分の決めたことを後ろめたくなんて思っていないし、勇士兄に何を言われても人間の血を吸う気はない。
 だから、逃げる必要なんてないのだけれど。
 どうしても、顔を合わせるのが苦痛だ。
「……どうだった」
 しばらくの沈黙の後、案の定、勇士兄が訊いてきた。
 いつも訊くことだ。
 特に昨夜は、外に出ていたわけだし。
「……別に何も」
 そして、俺の返答もいつも同じ。
 実際、何もないのだ。
 ただ、満月の夜が過ぎるのを待っているだけなのだから。
 俺は、勇士兄や他の吸血鬼みたいなことはしないのだから。
 ……ただ、今回は何もなかったというわけではなかったけれど。
 あの男のことを言う必要はないと思ったので黙っていた。
「瑞希、いつまでそうやってるつもりだ?」
 不意に、勇士兄がいくらか怒ったように言った。
「血を吸いたくないならないで仕方ねえとは思ってたけど、いつまでもこんなんじゃ駄目だろ。そろそろ、考えを改めたほうが良い」
 あれ、と思う。
 普段はこんなこと言わないのに。
 今までだって、あれこれ言われたことはあったけれど、こんなにはっきりと俺の意志を否定されたことはなかった。
 ここまできついことを言われたことすらなかったのに。
「解ったな」
 俺は何も答えていなかったのに、念を押すような物言いと明らかな命令の言葉に、沸々と怒りがこみ上げてきた。
「……だろ」
「瑞希?」
「俺がどうしようと俺の勝手だろ! 勇士兄にそんなこと言われる筋合いはねえよっ」
「瑞希!」
 ぱん、と音が鳴った。
 頬が熱を持って、じんじんと痛む。
 ――叩かれた……。
 そう解った途端、俺は勇士兄を叩き返していた。
 だって理不尽だ。
 何で、俺が叩かれるんだよ?
 かつてないほど、勇士兄を睨み据える。
「……お前は解ってない」
 静かな、けれど威圧感のある勇士兄の声がすぐ傍で聞こえる。
 俺の睨みなど、意に介していないというように。
「吸血鬼が血を吸わないとどうなるかなんて、全く考えてねえんだろ?」
「……どうなるって言うんだよ! 俺は、平気だろっ」
 勇士兄たちとは違うだろうけれど、今の俺に何の問題があるのだろう。
「勇士兄たちよりも、ちょっと人間に近くなってるってだけだろ!?」
「……それが問題なんじゃねえか……」
 激昂する俺に、勇士兄は溜息混じりにそう呟いた。
 そして、俺を見据えて、一言一言を確かめるようにしながら、ゆっくりと言ったのだ。
「今はそれで良いかもしれない。だが、その先は? ずっとお前がそのままでいられる保証がどこにあるんだ?」
 衝撃が走る。
「俺が知っている限り、人間の血を吸わない吸血鬼なんてお前だけだ。誰も、血を吸わなければどうなるかなんて解らねえんだよ! お前は……この先、人間よりも衰えていって……最悪、死んだりしたらどうするつもりなんだ」
 死ぬ……?
 血を吸わなければ……?
 考えたこと、なかった。
 俺は、このままいけば、人間になれるかもしれないなんて、そんなことばかり考えていて。
 もしかしたら、死ぬかもしれないなんて、考えたこともなかった……。
「俺だってこんなこと言いたくねえけど。でも……はっきり言う。俺は、お前の意志よりも、お前の命の方が大事だ。俺だけじゃねえ、親父たちだってそうだ。他の一族はどうか知らない……だが、俺たちはそう思ってる。お前の意志を曲げてでも、な」
「ゆ、勇士兄……」
「この先、血を吸わなくても普通に生きていけるという保証がない限り、俺は今言ったことを取り消さないからな」
 ……なんてことだろう。
 全然知らなかった。
 気付かなかった。
 勇士兄が、こんなことを思っていたなんて。
 俺を、案じていてくれていた、なんて。
 俺は、家族に嫌悪すら感じていたというのに。
 それなのに……。
 俺は、自分のことしか考えてなかった……。

 項垂れる。
 頭が、痛い。
 胸が、苦しい。

 俺は、どうすべきだろう?
 これまで通り、自分の意志を貫くのか。
 ……けれど、そうすると、命の心配があるかもしれないのだ。
 それならば、自分の意志を曲げてでも生き延びることを選ぶのか……。

 唇を痛いほど噛み締めた時――。

「俺の言うこと、解ったよな? だから、次の満月には血を――」
 勇士兄のこの言葉に、はっと我に返ったように、顔を上げた。
 次の満月には、血を――。
 血を、吸えと。
 そう、言ったのだ。
「俺、は……俺は、それでも、嫌、だ――」
 言われた瞬間、俺は何も考えずに……何も考えられずに、反射的にそう言っていた。
 だって、突然そんなことを言われても、自分の意志を簡単に変えることなどやっぱりできない。
 けれど、このままだと、俺はどうなるんだろう?
 今まで通り、過ごせるのだろうか?
 俺は、何を選ぶべきなのだろう?
 自分の意志? 命?
 けれど、命なんて――そんなの、確実に死ぬと決まったわけでもないのに。
 確実にそうなると、決まったわけでもないのに……。
 ――だけど、もしも。
 本当に、死ぬなんてことになったら……。
 どうしたら……どうしたら、良いんだろう?
 解らない……。
 解らない……っ。
 頭のなかが、ぐちゃぐちゃで。
 考えても考えても、渦のなかに消えていくような感じで。
 立っていられるのが不思議なほどだった。
「瑞希……」
 近くにいるはずの勇士兄の声が、遙か遠くから聞こえたように思える。
 そうやって、勇士兄の声だけが聞こえる最中、俺はふと、あの男のことを思いだした。
 あいつは、自分のことを吸血鬼かどうか解らないと言っていた。
 けれど、俺に会ったことで吸血鬼だと確信してしまった。
 そして、俺も。
 あいつのことを、吸血鬼だと思っている。
 牙もあったのだから。
 それならば――。
「あいつと同じ歳になるまでは、大丈夫ってことじゃ――」
「あいつ?」
「あ……」
 思わず、口に出してしまっていた。
 勇士兄が怪訝そうにこっちを見ている。
「あいつって……瑞希、何かあったのか」
「な、何でもない! 俺、ちょっと出てくるから」
 勇士兄を振りきって、慌てて家を飛び出す。
 あの男のことを言えば、更に話がややこしくなりそうだったから、追及されたくなかった。
 それに、混乱しすぎていて、これ以上勇士兄と会話することが嫌になっていた。

 俺は、宛もなく走り続け――。

 どこをどう走ったかも覚えていなかった。
 それなのに、気がつけば、さっきまでいた所に戻っていた。
 あいつのマンションの部屋の前に。
 本当に無意識だった。
 ここにくるつもりはなかったのに。
 大体、あいつは今いない。
 仕事中なのだから……。
 それでもここに来てしまったのは、何故なんだろう。
 俺のことを知っている数少ないひとりだからか。
 あいつの話を聞いてしまったからか。
 あいつの意見を聞きたいのか……。
 解らなかったけれど。
 俺は、ドアの横にある『衣笠』という表札を黙って見上げ続けていた。




 当たり前だけれど、あの男は帰ってこない。
 解っていながら、小1時間ほども待っていた自分が不思議で仕方なかった。
 いつまでもここにいても仕方ないし、どこかに行こう。
 といっても、行く宛はないのだけれど……。




 しばらくマンションの辺りをうろうろとした後、公園を見つけたのでそこに行ってみた。
 ベンチに座る。
 ひとり、ぼうっとしながら。
 甦るのは、勇士兄の言葉だけだった。
 頭のなかのすべてを占めている、あの言葉だけ。
「はあ……」
 自然、溜息が零れる。
 言い様のない、不安が押し寄せてくる。
 そんな、どうしようもない思いを抱えていると。

「瑞希……?」

 突然、聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。
 驚いて、顔を上げた。
 その声の主を認めて、目を見開いた。
「……基……」
 掠れた声が、喉を突いて出た。
 いくらか安堵の声音を滲ませて。
 何故ならそこにいたのが従兄弟の基、だったから。
「やっぱり瑞希? 何してるの、こんなとこで……どうか、した?」
 それまで穏やかだった表情が、俺の顔を見た途端、曇った。
 余程、酷い顔をしていたのだろう。
「大丈夫?」
 心配そうに訊ねてくれる基に、何の返事も返せないまま、俺の意識はそこで途切れた。


To be continued...



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