■滅びの国■


−9−




 矩は、城の長い廊下をひとり歩いていた。
 リッセンはいない。
 ラディスの所に行くからとだけ言い残して部屋を出てきてしまった。
 ――結局、何も答えてあげられなかった。
 ずっと世話をしたいと言われたことに対しても、リッセンの緑への想いに対しても。
 何も答えず、曖昧にし、逃げてきてしまった。
 ただ国を救えと、王の伴侶になれと、そう言われたなら拒絶も反発もできる。
 しかし、リッセンに対しては――拒絶できない。したくない。
 かといって、緑を見せてあげる、とは言えない。それは嘘になる。
 リッセンに嘘をつきたくなかった。
 あの純粋な瞳に、嘘をつきたくなかった。
(本当にもう……どうしよう……)
 昨日よりも、どうにもならない状況に追い込まれた気分だった。
 ラディスの部屋に向かう足取りは重い。
 本音を言えば、行きたくなかった。
 しかし、リッセンにラディスの所に行くと言った手前、行かないわけにはいかない。
 それに、昨夜決めたはずだ、ラディスときちんと話をすると。
(悩んでいても仕方ないし……よしっ)
 矩は改めて気合いを入れ、ラディスの部屋へと向かった。





 数分後、矩はラディスの部屋の前で途方に暮れていた。
 勢い込んで来たものの、生憎、ラディスは不在だったのだ。
 気合いを入れて来た分、肩透かしを食った気分だ。
 しかし同時に、ほっとしたのも事実ではあった。
(……まあ、いないんじゃ仕方ないよな)
 あっさりと自分にそう納得させ、元来た道を辿る。
 自分の部屋の近くまで戻ってきて、足を止めた。
(リッセン、いるかな……)
 そう思うと気まずくて、また進行方向を変えてしまった。
 今度は宛てもなく、彷徨い歩く。
 城内はしんと静まり返り、ただ矩の歩く音だけが微かに響くだけだ。
 歩く先に人影は全くなく、人の気配すら希薄なのを不思議に思う。
 城にはたくさんの臣下や働いている人がいるだろうに……部屋を出てきてから一度も誰とも会わなかった。
 そうして、どのくらい歩いただろうか。
 気が付くと矩の視界の先――今矩がいる長い階段の下に、城の出入り口らしき場所が見えた。
 まだ大分距離はあるが、あそこから外に出れば――上からしか見たことのない街と荒野が広がっている。
(実際にこの国の様子を見てみたいって思ってたし、行ってみよう!)
 新たな目的を得た矩は、意気揚々とそちらの方へと足を踏み出そうとした。
「……ノリ様、どちらへ?」
「わあっ」
 無防備だった背中に、突然声を掛けられて、矩は飛び上がった。
「ノ、ノーヴァ……」
 ごく近くに黒いローブを纏ったノーヴァの姿があって、反射的に身を退く。
「ま、街の様子を見てみようかと……」
「街に……でございますか? ……」
 そこで口ごもったように言葉を途切れさせたノーヴァは、僅かに眉を寄せながら続ける。
「……それは次の機会になさって、まずは陛下とお話などなさって頂いた方が……」
「……部屋に行ったけど、いなかったから」
 そんなノーヴァを訝しく思いつつ矩が答えると、
「今の時間でしたら、陛下は執務室の方にいらっしゃると思います。執務室までご案内しますから、さあ」
 もうすっかり元の調子に戻ったようで、しかし、強引とも思えるような様子で矩を促してくる。
「え……いや、あの……仕事の邪魔しちゃ悪いし……」
「さすがはノリ様。素晴らしい配慮でございますな。では、陛下の休憩時間に改めてお部屋の方へ。それまでは、ノリ様のお部屋にてごゆっくりなさってください」
「は、はぁ……」
(つ、疲れる……)
 矩の部屋やラディスの部屋へ行く道順などをノーヴァが話すのを聞きながら、溜息をつく。
 ほんの短い会話なのに、ぐったりと疲れた気分になっている。
 どうやってこの場から逃げようかと思っていると、
「ところでノリ様。リッセンはどうですかな?」
 不意に、ノーヴァが訊ねてきた。
「え? どうって」
 リッセンという名に思わず反応して、ノーヴァと向き合ってしまう。
「リッセンはまだ子供ですが、しっかりしていて良く気の付く働き者です。ノリ様のお世話役としてお役に立つと思いましたが、いかがでございますか」
 そういえば、リッセンはノーヴァに言われて、自分の世話役になったのだと言っていた。
 だから、ノーヴァも気になっているのだろうか。
 気にしなくても、リッセンはすごく良い子で、あんな小さな手で服まで作ってくれて、それが自分のためだなんて勿体ないと本気で思う。
 その上、ずっと世話役をしたいとまで言ってくれて、そして――。
(……っ)
 リッセンが緑を見たいと言ったことまで思い出してしまい、また落ち込みが戻ってきてしまった。
「ノリ様?」
 そんな矩を訝しんだのか、ノーヴァがそう言ったので、矩は慌てて大きく何度も頷いた。
 それを見て、ノーヴァは、ほっとしたような表情を見せた。
「多少、身贔屓が入っていると自覚しておりましたが……それならば、ようございました」
「身贔屓?」
「リッセンは私の身内のようなものでございますので。……リッセンは赤ん坊の頃、森の入り口に捨てられていましてな」
「え……?」
「それを私が見つけて、今まで育ててきたのです。私には子も孫もおりませんので、リッセンのことは我が子同然、我が孫同然に思っております。そのリッセンがノリ様とお会いできるのを心待ちにしていたので、ノリ様がここにいらっしゃった折にはノリ様と近しく接せられるようにお世話役に、と――ノリ様がリッセンを気に入ってくださって本当に安堵いたしました」
 そう言ったノーヴァの表情には、はっきりとリッセンに対する親としての情が浮かんでいた。
 捨て子だったリッセンと、約10年、家族として過ごしてきた上にあるノーヴァとの繋がりが窺える。
 今までの矩のノーヴァに対する印象を覆す表情。
 矩に見せていたのは単なる一面にすぎないのだということが良く解る表情だった。
 ――そう、国を思うが故の。
 矩にしてみれば一方的に押しつけられて困惑することばかりだが、悪い人ではないのだ、この人は。
 ノーヴァにもそうせざるを得ない事情があるのだと、納得はできないが、推測することはできる。……できてしまった。
 ノーヴァは、遠くを見るような目で言葉を続ける。
 過去に思いを馳せる目。
「リッセンはそれはもう森が好きで、自分が捨てられていた所だというのに、毎日のように森に出かけては一日中でも緑の中で遊んでおりました。それが今のこの有様では――塞いでいるリッセンが可哀想で、ノリ様のことをお話したのですよ。託宣のノリ様がいらっしゃれば、また緑を見ることも感じることもできるようになる、と」
 そんな不確かなことをリッセンに言わないでくれ――とは言えなかった。
 もし自分がそんなリッセンを前にしたら、やはり同じように言ったのではないか、そう思ってしまったからだ。
 ――しかし。
「……リッセンは、俺がここに来てラディスの伴侶になれば、また緑が見られると言ったんだけど?」
 じっと疑いの目で見詰めた矩に、ノーヴァは、とんでもないというようにかぶりを振った。
「いいえ、本当にリッセンにはそれ以上のことを言ってはいないのです。恐らく、私が何度も陛下に“ノリ様を伴侶に”と言うのを耳にして話を繋げてしまったのでしょう」
 嘘ではないと、そう感じた。
 リッセンに関わりのあることで、嘘をつくとは思えなかったからだ。
「ノリ様には理不尽な話だとしか思えないでしょうが……。我が一族は何よりも国が大切だということはご存じでしょうか」
「セイとランスがそう言ってたけど」
「それは真実でございます。しかし……我が一族はヴァリスタ建国よりも以前からこの地に住み、神の意思を聞き、神からこの地を託された存在――このヴァリスタが建つ土地そのものが、我らにとって一番大切なもの。そしてヴァリスタは、長きに渡りこの土地を豊かにし繁栄させた国……この国を護ることは我らにとってこの土地を護ることと同義。ノーヴァの名にかけて、この国が滅ぶのを食い止める所存でございます。……陛下やノリ様の本意ではない手段を以てしてでも――」
 ノーヴァの口から放たれたのは、先程、矩が推測してしまったことを裏付ける内容だった。
 この国の危機は、ノーヴァ個人の問題ではない。
 矩がどう思おうと――拒絶しているのを解っていて尚、退くことのできない一族の強い意志。
 一族の間に連綿と続く、神から託された使命なのだと。
「……今しばらくは陛下の仰る通りにいたしますが、ノリ様にはこれから先のお覚悟をして頂かなければなりません。出来ればそうなる前に、ノリ様に陛下の伴侶となって頂きたいものでございますな……」
「え……?」
 矩には全くの謎の言葉を――不穏な響きのある言葉を紡ぐノーヴァを呆然と見つめる。
「……長話をいたしました。そろそろ陛下もお部屋に戻っておられることでしょう。それでは、私はこれで――」
 しかし、ひとつだけ解ったことは。
 八方塞がり。
 そう思う。
(知りたくなかった……ノーヴァの事情なんて)
 何も知らなかった時みたいに、簡単に突っぱねられなくなる――。
 去っていくノーヴァの後ろ姿を複雑な思いで見遣りながら、矩はその場に立ちつくしていた。



2006/02/27



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