■トライアングル■


−1−


「お前の兄貴、男と付き合ってるんだって?」

 頭から、冷水を浴びせかけられた気分だった。
 航(わたる)は、そう言った武(たけし)を見上げたまま固まってしまった。
 放課後の教室で、まだたくさんの生徒がいてざわついている中で。
 これから帰ろうと立ち上がるところに、そう、言われたのだ。
 今はもう、帰ろうとしていたことも忘れたように、武を見上げる。
 武は唖然として何も言わない航を見下ろし、再び口を開く。
「……お前は、どうなんだ?」
「は……?」
「お前もそうなのか? 兄貴と同じなのか?」
 それは、航に男が好きなのかと言う意味で。
 そう言った武の表情は、好奇心とも軽蔑とも取れた。
 その言葉を聞いて、武の表情を見て……その意味を理解した途端、カッとなって航は立ち上がっていた。
 がたんと、椅子の倒れる大きな音が響く。
「何だって!?」
 そう怒鳴って、武の胸倉を掴んだ。
「っ、何、すんだよっ」
 胸倉を掴まれて咽せた武も、航の胸倉を掴み返す。
「お前が変なこと言うからだろっ」
 航は武を睨みつけると、怒りを露わにする。
 教室中に、2人の言い争いの声が響き渡っていた。
 まだ教室に残っていた生徒たちは、またかというように遠巻きにそれを眺めている。
「んだよ、違うんならそんなにムキになるなよ」
 そんなにムキになるなら図星か? と、言外に含んでいることを感じ取る。
「……な、んで、お前はいつもいつも……!!」
 武の態度に、航は哀しいやら苛立つやらで体が震えた。
 何で、武に……大切な幼なじみだった武に、こんなことを言われなければならないのだろう。


 狭山武(さやま・たけし)は、椎名航(しいな・わたる)の幼なじみだった。
 航と武、そしてもうひとり、広田創(ひろた・はじめ)の3人は、小さい頃から一緒に遊んでいた仲の良い幼なじみで、それは小学生になっても中学生になっても、ずっと続いていた。
 けれど、いつ頃からだっただろうか。
 中2からだったのか中3からだったのか……それはよく覚えていないけれど、少なくとも高校に上がった頃には武の航に対する態度は、その時までとは一変していた。
 本当に仲が良かったのに、武が航に話しかけることは滅多になくなった。
 たまに声をかけてきても、さっきのように突っかかってくるばかりで、普通に話せることなどもうなかった。
 それは航の本意ではなかった。
 航が望んだことでも何でもない。
 ただ、武が変わったのだという事。
 幼なじみが、幼なじみでなくなったという事。
 武はもう、自分のことを幼なじみだとは思っていない。
 きっと。
 けれど、理由が解らない。
 急に変わってしまった理由が解らなかった。
 だから、このままなんて嫌だった。
 何度も理由を訊こうとしたけれど、とても訊けるような状況ではなかった。
 そんな隙など、見せてくれない。
 関係は変わらず、高1の9月になった今も2人はこんな状態のままだった。
 さすがの航も、もうあきらめていた。
 理由も解らずそんな態度を取られるならば、こちらももう気にしないようにしよう。
 そう決めた。
 突っかかってこられたら、それに応じる。
 こちらもつい、最初から喧嘩腰で応じてしまう。

 けれど、今は。
『お前もそうなのか?』
 そう言った時の武の表情に、どうしようもなく怒りと苛立ちと、そして哀しみを覚えた。
「いい加減にしろよ……っ」
 吐き捨てるように言って、胸倉を掴む手の力を強める。

「何やってるの!」

 そこへ突然割って入った声に、他の生徒たちは明らかに安堵の視線をその声の主に向ける。
 いつものこととはいえ、聞いていて気分の良いものではないのだから。
 けれど、言い争っている2人には、その声は耳に入らなかった。
 それを見て取ると、声をかけた生徒は大仰に溜息をつき、つかつかと2人に歩み寄る。
「2人とも、いい加減に止めなよ。廊下まで聞こえてるんだよ、2人の声」
 そう言って、航の胸倉にある武の手を掴む。
「創……」
 幼なじみの創だった。
 武の手を航から離し、創は武を見る。
「武、いい加減に航に突っかかるの止めなよ」
 航は、創の言葉に、そうだとばかりに頷く。
 その航の様子に、創は首を横に振る。
「――航も航だよ。航がそうやって喧嘩腰に言い返すから、毎回毎回こうなっちゃうんだから」
「……っ」
 創の言う事はもっともなことだ。
 航がつい言い返してしまうから、事態が悪化する。
 そして、いつもそれを抑えるのは創なのだ。
 そのことに感謝もしてるし、間に立ってもらって悪いとも思う。
 けれど今回は……今回だけは。
「ごめん、創。でも、今回だけは許せない! だって――」
「航!」
 未だ武の胸倉を掴んだままだった手に、力を込める。
「駄目っ」
 それを慌てて創が押さえ込んだ。
「離せよ、創! 俺は――」
「駄目だったら! 武ももう部活行って!」
 尚も航は力を込めようとしたが、創の渾身の力には勝てなかった。
 仕方なく武から手を離すと、創はほっとしたように航の手を離した。
 その様子を見ていた武は、小さく舌打ちして鞄を引っ掴むと大きな足音を立てて教室を出て行った。
「ちょっ……待てよ! まだ話は――!」
「航っ」
 後を追おうとした航を、創が制する。
「止めなって。余計に拗れるだけだよ。……で、今度は何を言われたの?」
「…………」
 航は渋々、椅子に座ると、武に言われた事を話した。



「……そりゃ、航が怒るのも解るけど……」
 話し終えた後、創は哀しそうな目で航を見た。
「そうだろ? 怒るよな、普通。ったく、何で武はいつも俺に突っかかってくるんだよ……」
「武だって悪いと思うけど……」
 創はそう言って、航の顔を覗き込む。
「お願いだから、もう喧嘩しないでよ。僕、2人にこんな事言いたくないんだから」
「そう言われてもさ……武が突っかかるのをやめてくれないとどうしようもないよ」
「…………」
 更に哀しそうにする創を見て、悪いなとは思う。
 元々は3人とも仲良く過ごしていたのだ。
 そのうちの2人が険悪になって、間に挟まれたような形の創の心中は複雑極まりないだろう。
 けれど、こればかりはどうしようもない。
 航だって、別に武と喧嘩したいわけじゃないのに――。
 武が態度を変えてくれなければ、どうしようもないのだ。

 航は黙ってしまった創を見ながら、ふと気付いて呟いた。
「そういや創、俺の兄貴が男と付き合ってるって聞いても驚いてないみたいだけど」
「うん、だって知ってたから」
「知ってた!?」
 創の言葉に驚いて航は声を荒らげた。
 そんなに……有名な事なのか?
 みんなに知れ渡っている事なのか?
 航は不安に駆られる。
「兄弟だから航はもう知ってると思って黙ってたんだけど……言った方が良かったね」
 申し訳なさそうに言う創。
 けれど、創を責める気はなかった。
 武の口から聞くよりも創の口から聞いた方がましだったとは思うけれど、創を責めるなんてお門違いだ。
 そもそも兄が航に黙っていたのが悪いんだから。
 兄が――。
 ……兄?
 兄って……。
「なあ、創。兄ってどの兄?」
「え?」
「俺、2人兄貴がいるだろ? どっちの兄貴なんだ?」
「あ、そうか、それは知らなかったんだ? 新(あらた)先輩だよ」
「新? 間違いないんだな?」
「うん。だって本人の口から聞いたから」
「本人からって……」
「朝練の時にそう言ってた。相手は同じバスケ部の人で……」
 航と創、武、そして兄の新はバスケ部に所属している。
 そのバスケ部の今日の朝練で、新本人がそう言ったらしい。
 航がそのことを知らなかったのは朝練に出なかったためだ。
 というより、航は完全に幽霊部員だった。
 新に無理矢理入れられただけなのだ。
 だから航は部活に出た事はなかった。
 それが、こんなことになるなんて。
 朝練に出るべきだっただろうか。
 ……いや、むしろ、その場にいなくて良かったのかもしれない。
 新がバスケ部の部員たちの前でとんでもない告白をしたその場に弟の航がいたら――?
「…………」
 考えるのも嫌になる。
 とにかく、新に事の次第を問いたださねば。
 そう決めると、航は勢いよく立ち上がった。
「創、俺帰るから! また明日な!」
「え? ちょっと航! 部活は……っ?」
 慌ただしく教室を出て行こうとする航に、創は声をかけたが航の耳にはその声は入っておらず、航は教室を飛び出して行った。
 残された創は、深く椅子に腰を掛けて、溜息をついたのだった。



初掲載(メルマガ):2003/02/02
再掲載(加筆&修正):2005/02/12



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