■遠い、約束の時へ。■


□第1章 記憶


−2−


 美作君は、巾着袋を大事そうに机の上に置くと、再び僕を抱きしめた。

 離さないというような力強さに、僕は為す術もなかった。
 ただ、黙ってそれを受け入れるだけだった。

「篤紀……篤紀……」
 耳元で、美作君が僕の名を呼ぶ声だけが、聞こえている。
「何だか信じられないよ、篤紀がこうして俺の腕の中にいるなんて……またこうして抱きしめられるなんて……」
 その声はどこまでも優しく、そして感情を隠すこともない。
 けれど、それが却って僕を混乱させる。
「……美作君」
「うん?」
「あの、何を言っているのか、説明して欲しいんだけど……」
「え?」
 瞬間、美作君の身体が強張った。
「何を言っているのか解らないよ……」
「な、何だって……?」
「だから、僕、この1ヶ月間のこと全然覚えてないから……美作君が何を言っているのか解らない……」
 そう言うと、美作君は、僕から身体を離した。
 呆然と、僕を凝視する。
「嘘だろ……? 覚えてないなんて……」
 微かに震えた声。
「美作君……?」
「俺はっ、……俺は、ずっと長い間、篤紀を探してたのに。……ようやく見つけたのに……だけど、まだ俺のこと知らないんだって解ったから、今まで我慢してきたのに……っ」
 僕の両肩に手を載せる。
 痛いくらいに掴まれて、僕は顔をしかめた。
 さっきまでと違う美作君の様子に、ただ圧倒されるばかりだった。
「やっと前みたいに一緒にいられる……話ができる……抱きしめられると思ったのに……それなのに、覚えてないなんてそんなことっ」
「美作く……!」
 段々と力が込められて、僕は声を喉に詰まらせてしまう。
 離して。
 その一言が、どうしても言えなかった。
 どうして?
 どうして、美作君は、こんなに怒っているんだろう。
『前みたいに話一緒にいられる……話ができる……抱きしめられる』?
『前』って、一体いつのことなんだろう。
 少なくとも、行方不明になるまでは、まともに話したこともなかった。
 じゃあ、僕が忘れている間のこと?
 その間に、美作君と話すようになった?
 美作君と一緒にいた?
 けれど僕は、行方不明だったはずで。
 美作君も行方不明だったというなら話は別だけれど、今日の様子じゃそういうわけでもなさそうだったし。
 何もかも、矛盾だらけだ。
 僕の記憶も、美作君の言っていることも。
 真実は、どこにあるんだろう。

「なあ、思い出してくれよ、頼むから……」
 苦しそうな声が、耳元で聞こえる。
 絞り出したような声でそう言われて、僕はようやく声を出すことができた。
「そ、そんなこと言われても……」
「思い出して……思い出してくれよ!」
 僕の言葉に、美作君は焦れたように声を荒げる。
「何で……何でっ」
 何で?
 それを訊きたいのは、知りたいのは僕の方なのに。
 美作君が苦しんでいるのは痛いほど伝わってくるけれど、僕だって……僕だって、わけが解らなくてどうしたら良いのか解らないのに!
 忘れたくて、忘れたんじゃない。
 僕は、思い出したいと思ってるのに……。
 だったら……だったら、美作君が教えてくれれば、解る!
「だったら……教えてよ、美作君が知っていること。僕の1ヶ月間のこと。そうしたら……」
「駄目だ!」
 やっとの思いで、そう言った僕の言葉は、簡単に否定された。
「篤紀が篤紀自身で思い出さないと、意味ないんだよっ」
「で、でも……」
「俺が教えてどうするんだ……教えられて知ったことなんて、思い出したことにはならないだろ!? そんなの、無意味だ……嫌だ、俺は」
 そんなこと、解らない訳ではない。
 人に聞いて得たものは、自分で体験して得たものではない。
 同じ時間を共有していたとしても、人の記憶に残るものと自分の記憶は違う。
 表面的には同じかもしれないけれど、心は全然違う。
 誰かの記憶は、自分の記憶にはならない。
 本当に記憶を取り戻したいと思うなら、自力で思い出すしかないんだ。
 そう、頭では解っている。
 けれど……だったら僕は、どうやってこの1ヶ月間の事を知ったら良いんだろう?
 思い出す方法も解らないのに。
 巾着袋や中の砂を見て感じることがあっても、それは僕の記憶を思い出させてくれない。
 だから、訊こうと思ったのに。
 目の前に知っている人がいて、その人に訊こうと思うのはそんなに悪いこと?
「……っ、ごめん……きつく言い過ぎた。俺……本当にごめん!」
「あ……」
 僕は今、どんな顔をしているんだろう。
 美作君が慌てるほど、ひどい顔をしていたんだろうか……。
「ごめんな……でも、どうしても、思い出して欲しかったんだ……」
 掴まれていた肩が解放された。
「もう、無理に思い出させようなんてしないから。……でも、もし思い出したら……」
 僕から離れて、背を向ける。
「美作君……」
 そう呼びかけると、辛そうな顔が振り向く。
 けれど、それでも美作君は、微かにだけど笑ったんだ。
「じゃあ、俺、授業に行くから」
 そして、それだけ言うと、足早に教室を出て行ってしまった。
「美作君……っ」
 僕は呆然として、追いかけることも出来なかった。
 美作君は、この一ヶ月間の何を知っているんだろう?
 僕は、何を忘れているの――?



「篤紀? 授業はどうしたんだ?」
「隆ちゃん……」
 ぼんやりしている間に、いつの間にか隆ちゃんがすぐ近くに立っていた。
 一瞬、ここって保健室だったっけ、と勘違いしそうになった。
 ……ここは、保健室じゃなくて僕の教室だと、すぐに気付いて首を傾げた。
「隆ちゃんこそ、何でこんなとこにいるの?」
「お前が心配だったからな。様子見に」
「……過保護だよ」
「保健室出て行く時、まだ納得してないみたいだったぞ」
「それは……そうだけど」
 隆ちゃんが言ってくれたことは、良く解ってる。
 そうした方が、良いことも。
 けれど、やっぱり心のどこかでは納得できていなくて。
 それに美作君が言っていたことで、僕は余計に記憶のことが気になっている。
 思い出したいと、そう思っている。
 だって、嫌なんだ。
 自分のことなのに、何も解らないのは。
 どうやってでも、知りたいんだ。
 自分のことだから。

「……篤紀。お前、美作に何か言われたか」
「えっ?」
 隆ちゃんの口から美作君の名前が出るなんで思いもしなかった。
 隆ちゃんは、ほとんどの生徒の顔と名前を覚えているから、美作君のことを知っているのは不思議でも何でもないけれど。
 今、その名前が出たことに、どきっとしてしまった。
「さっき、美作と擦れ違ったんだ。ちょっと様子がおかしかったから」
「あ……」
 この教室から出て行った時に、擦れ違ったんだ。
「で、ここに来たら篤紀がひとりでいたから、何かあったのかと思ったんだ」
「それは……」
 僕は、途中まで言いかけて口を噤んだ。
 隆ちゃんに、さっきの会話の内容を言っても良いんだろうか?
 隆ちゃんは――勿論僕のことを考えてだけれど――無理に思い出すことはないと言っている。
 けれど僕は、思い出したい。
 そう言ったら、反対されるかもしれない。
 だから僕は、誤魔化してしまった。
「……たいしたことじゃ、ないよ」
 少し、胸が痛んだけれど。
 ごめんね、隆ちゃん……。
「そう、か。……ところで篤紀」
「え、何?」
「お前、授業はどうした?」
「あ、あの……体育なんだけど、ちょっと……見学しようかな、なんて……」
「こら。保健室でちゃんと授業には出るって言っただろう」
 頭を軽く小突かれる。
「……ごめん」
「まあ、いいさ。次からはちゃんと出ろよ」
「……隆ちゃんって、なんだかんだ言っても僕に甘いよね」
 可笑しくなって笑うと、
「うるさいな。でも久しぶりに見た気がするな、篤紀の笑った顔」
 隆ちゃんも、笑ってくれた。
 うん……僕も、久しぶりに笑った気がするよ……。
 忘れている1ヶ月間、僕は笑えていたのかな?
 僕は、どんなふうに過ごしていたのかな……。




 無理にでも思い出すか。
 自然に思い出すのを待つか。

 美作君の言葉と、隆ちゃんの言葉。

 けれど僕は、思い出したい。
 思い出す方を、選びたい。

 どうやったら思い出せるだろう。
 考えられる場所は、ひとつしかなかった。




「駄目だ……思い出せないよ……」
 通学路の海岸沿い。
 そこから、海の方へと近づいていく。
 覚えているのはここまでだったから、とりあえず海面ぎりぎりまで行ってみた。
 この先、どうなったのかは解らない。
 だから、ここまで来たというだけで、その後はどうすることも出来なかった。
 しばらくここにいよう。
 そう思って、海を見ているけれど、何も思い出せない。
「そう簡単に思い出せないのかな、やっぱり……」
 寄せては返す波を目で見遣りながら呟く。
「どうしよう……」
 何か他に、手がかりになりそうなものはないだろうか。
 そう思って、辺りを見回す。
 けれど、何を見ても、記憶に繋がりそうだと思えるものは見つからない。
 僕は本当に、記憶を取り戻せるのだろうか……。



2003/3/6



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