■遠い、約束の時へ。■


□第1章 記憶


−4−


 寝不足で半分寝ながらの登校は、いつもの倍近くの時間を要した。
 頭のなかはぼうっとしているのに、考えることが多すぎて仕方ない。
 自分の記憶のこと。
 美作君のこと。
 麻那のこと。
 そして、隆ちゃんのあの言葉。

“何かが足りないのかもしれないな”

「足りないものって、何? 隆ちゃん……」
 声に出してみても答えが得られるはずもなく。
 とぼとぼと学校への道を進む。
 美作君は何か知っているだろうか?
「訊いてみようかな……」
 正直に言うと、美作君とは話し辛い。
 記憶を取り戻していないから、申し訳なさが先に立ってしまう。
 けれど。
 隆ちゃんの言っていた“足りないもの”が解って、それで思い出せることがあるのなら。
「……よし」
 訊いてみよう。
 そう、決めたのだった。




「おはよう、篤紀」
 教室に入ると、美作君はもう来ていた。
 記憶のことに関しては何も言わない彼だけれど、呼び方は“篤紀”のままだ。
「……おはよう。あの、ちょっと話があるんだけど良いかな」
 一気に言った。
 今言わないと、ずるずると先延ばしにしてしまいそうな気がしたから。
「話?」
「うん……あのね……僕、最近ずっと海を見てるんだ」
「それって……」
「そう。何か思い出せないかと思って……」
「それで……?」
 期待と不安が入り交じったような彼の表情と声音に、少し躊躇いながらも先を続ける。
「で……あの、結局何も思い出せないんだけど……」
「そっか……」
 美作君が目に見えて沈んでしまったのを見て慌てて首を振った。
「そ、そうじゃなくて。それだけ言いたかった訳じゃないんだ。えっと……何て言うか、そう、あの巾着袋! あれを見てたら美作君を思い出しちゃって……それで何か思い出しかけてるんじゃないかって」
「俺のことを……?」
 美作君が、何か考え込むような仕種をした。
 僕はそれをじっと見つめる。
「あのさ」
 しばらくして美作君が口を開いた。
「他には何かない? 俺以外のこととか……俺に似てる人でも良いけど」
「え?」
 言われたことが解らなくて首を傾げる。
「何もない……と思うけど」
 そう答えてから、ふと思い出した。
 昨日、隆ちゃんが海に迎えに来てくれた時のことを。
 名前を呼ばれて振り返って。
 懐かしく思って、名前を呼ぼうとして。
 けれど、名前を覚えていなくて。
 我に返った時、そこにいたのは懐かしい人ではなく。
 隆ちゃんが、いたのだった。
 そのことを美作君に話すと、一瞬顔を顰めて、また考え込んでしまった。
「美作君……?」
 僕が声を掛けると、顔を上げた。
「確かに……何かを思い出しかけているような気はする。他には? 他に何かない?」
 そう言われて、今度はこっちが考え込む。
 けれど、特に何も思い出せなかった。
 それを美作君に伝えて、僕は1番訊きたかったことを口にすることにした。
「足りないものって、何だと思う?」
「足りないもの?」
「うん。昨日、隆ちゃんが言ったことなんだけど気になってしょうがなくて」
「早見先生が?」
 美作君の声が、強張ったのには気付かず、僕は話し続けた。
「隆ちゃんに少しでも思い出したかって訊かれて、思い出してないって言ったんだ。そしたら、“何か足りないのかもしれないな”って」
「あいつ……っ」
「み、美作君?」
 急に声を荒らげた彼に驚いて、数歩後ずさってしまう。
「どういうつもりだよ、あいつ……」
 美作君は険しい顔で呟く。
 あいつって……。
 今の話の流れからすると、隆ちゃんのこと……?
「話が違う……俺には思い出させるなとか言っておいて……!」
「え……」
「なのに何であいつが、篤紀にそんなことを……」
「み、美作君? 何それ、どういうこと? 隆ちゃんが……」
「……あ……いや、何でもないんだ……」
 口走ってしまったことを後悔するように、美作君は口を噤んでしまった。
 何でもないなんてことはないだろうに。
 美作君の動揺し、険しい表情を見ているとそう思わずにはいられなかった。
 もしかしたら、美作君が僕に思い出してくれと言ったことを隆ちゃんが知ったのかもしれない。
 それで、僕の負担にならないようにそう言ってくれただけなのかも。
 けれど、それならそう言えば良いことじゃないだろうか?
 だったら、僕はこう答えるのに。
 隆ちゃんは昨日、記憶を取り戻そうとすることを反対しなかった。
 何故なら僕の気持ちを理解してくれたから。
 だから隆ちゃんも協力してくれたんだと。
 それだけのことなのだ。
 なのに美作君が口を噤んでしまったのは、どうして?
 隆ちゃんと美作君の間には僕の知らない何かがあって、隆ちゃんが思い出させるなと言ったことも心配してくれたからだけじゃないってこと?
 だけど、隆ちゃんが僕に関係することで、隠しごとをするなんて――。


 口を閉ざしてしまった彼に、何とかして隆ちゃんのことを訊ねようとした時だった。
「そ、それより。その足りないものってやつだけど。俺、解るかもしれない」
 不意に、驚くようなことを僕に告げた。
 今まで考えていたことを忘れるほどのことを。
「えっ!?」
「俺も海へ行く。一緒に連れて行ってくれ」
「う、うん。それは良いけど……解るって本当?」
「ああ。間違いないと思う。あいつの助言だってことには腹が立つけど」
 そう言って、美作君は僕の腕を掴む。
「じゃ、早速行こう!」
「え? え? ちょっ、ちょっと待って、授業は?」
 そのまま引っ張られて行きかけたので、慌てて引き留めた。
「サボリ! 篤紀が思い出すかもしれないってのに、授業なんて受けてられない」
「で、でも……」
「良いから良いから」
 良くない。
 行方不明だった間は仕方ないとして、それ以外に授業をサボったことなんて一度もない。
 それは保健室を避難場所にする代わりに授業にはちゃんと出席するという、隆ちゃんとの約束でもあって。
 そう思っていたのだけれど。
 あっという間に、僕は校外に連れ出されてしまっていたのだった。




「この辺だよな」
 海岸。
 海の間近くまで来て、美作君は足を止めた。
 そこは、いつも僕がいる場所。
 記憶の欠片を探して、佇む場所。
「ここで合ってるだろ?」
 自信たっぷりといった様子で美作君が言う。
「う、うん。良く知ってるね」
「そりゃ、知ってるよ。篤紀と初めて会った場所なんだから……」
「え……?」
 どくん、と心が跳ねた。
 初めて会った場所……それは、学校のはずじゃ……?
 学校で同じクラスになって、教室で会ったのが最初だと思っていたのに。
 それ以前に、ここで会ったことが……?
 答えを求めて彼を見ると、
「篤紀が思い出したら、解るよ」
 少し寂しそうな顔で、微笑んだ。
 それを聞いてますます疑問が膨らむ。
 だって……美作君と初めて会った時のことと、僕の行方不明。
 どんな関係があるのだろう……?



「じゃあ、篤紀。巾着袋出して」
「え。あ、うん」
 言われて、いつも持ち歩いているあの巾着袋を取り出す。
 淡い青色の綺麗な袋。
 気がつけば、美作君も感慨深そうにそれに見入っている。
「海とこの場所、巾着袋。そして、足りないものは……」
 手に持った巾着袋を、僕の手ごと美作君の手が包む。
 僕は、美作君の言葉を緊張しながら待った。
 思い出せるかもしれないという期待を持って。
「俺、だよ」
 美作君が顔を上げて、僕の目をまっすぐ見る。
 僕は言葉が出なかった。
 けれど、頭では理解していた。
 ああ、そうか……。
 思い出すための手がかりはこの場所と巾着袋。
 けれど、美作君が僕の知らない1ヶ月を知っているということは。
 もうひとつ足りない手がかりは、美作君自身だということ――。

「思い出した?」
 首を横に振る。
 まだ、思い出さない。
「篤紀、約束」
「約束……?」
「約束、思い出して」

“約束”

 その言葉に、心が揺れる。

“約束するから”

 それは確かに、僕が言った言葉。

 誰に……誰に約束した?
 約束って……どんな約束?

 あと少し、あと少しで、何かが解りそうな気がする。


「篤紀との約束を破って、俺はここに来てしまったけど……もう一度会えたから、それは約束通り、だよな……?」

「…………っ……」
 今美作君が、言った言葉。
 それが、頭のなかに浸透して。
 かちりと。
 音を立てる。

 それは、パズルの最後の一片を見つけた瞬間のよう。
 欠けていたものが元の場所に嵌った感触。

 そして。
 それが、怒濤のように押し寄せる。
 こじ開ける。
 全てを。
 忘れていたもの全てを。

 記憶の波が、自身全てを覆い尽くす。
 覆い尽くす……。



「…………か…………」

 彼の名を、呼ぼうとした。
 けれど。
 上手く言えずに、僕はその場に崩れ落ちる

「篤紀!」
 咄嗟に、誰かが僕を支えてくれたようだった。


 そのまま、意識が薄れていく。
 遠い遠い彼方へと。

 僕は、1ヶ月間のことを夢に見る。
 短くて、とてもとても永い時間だった、あの時のことを。
 彼と約束を交わした、あの時のことを。

 切なくて苦しくて……涙を流して。
 それでもどうにもならないと悟った、あの痛み。
 愛しい人と別れなければならない瞬間の、哀しい約束。


 あれは、信じられないような出来事……けれど、現実の出来事、なのだ……。
 


2003/05/27



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