- 211 :旦那×姐御:2007/08/21(火) 09:11:09 ID:11vI6uO0
車は真っ直ぐには帰路に着かなかった。
恒例の連絡会の後、バラライカが「張ともう少し話がある」と言ったからだ。
車はロアナプラ郊外、と言うよりほとんど隣町の、リゾートホテルの駐車場へと潜った。
ここはロアナプラから最も近い位置にある「マトモな」ホテルで、張の気に入りだ。
部屋をひとつ借り上げて、本国からの要人が訪れた際のもてなしに使ったり、
今日のようなごく内密な話し合いに使ったりしている。
双方の人払いがされて、部屋の中には張とバラライカの二人きりだ。
どちらからともなく、煙草を取り出して火を点ける。
紫煙と一緒に言葉を吐き出したのは、張の方が先だった。
「また病気が出たか、バラライカ」
「病気とは失礼ね」
バラライカは肩を竦めた。
「それに、手近なところで済ませたいのはお互い様でしょう?」
「手近がいいなら、お前なら選取り見取りだろうが。
お前の部隊の誰一人、拒むような者はいないと思うが?」
「それでは示しがつかないわ。誰か一人が「特別」では、他に示しがつかないもの。
全員にとっての聖女になるか、娼婦になるか、その2択しかない」
「後者は御免、というわけか。やれやれ、とんだオルレアンの聖女様もいたもんだ」
張も肩を竦め、それからバラライカに歩み寄って、醜い傷痕を灼かれた頬に手を伸ばした。
バラライカもそれを拒まず顔を上げ――
二人の唇の間を、煙草の匂いがする唾液が繋ぐまで、少し掛かった。長い口付けだった。
「煙草を消そうか」
「そうね」
煙草を灰皿に押し付けた手が、互いのスーツのボタンに伸びる。
- 212 :旦那×姐御:2007/08/21(火) 09:12:34 ID:11vI6uO0
- こんな関係が始まったのはいつのことだったか、もう遠い昔のことでわからない。
だがそれはきっと、指折り数えたらほんの数年前のことなのだろう。
ロアナプラでの人の生は短く、流れる時間は早い。
誘ったのはバラライカの方だった。
それに乗る気になったのは、張もまだ若かったからだろう。
ロシアから来たばかりの小娘の挑発に、
「乗ってやるぐらいの余裕を見せてやろう」と思ったのだ。
本当に余裕があるなら、そんな挑発には乗らないものだと
張が気付くまでにはもう少し時間が必要だった。
怖け気づいたと思われるのが癪だったというのもある。
バラライカは美しい女だが、その半身は火傷に覆われている。
女がとっさに庇うはずの顔があれなら、体もひどいものだろう。
それに怖じ気づいたと思われるのは嫌だった。
最初の夜も、このホテルでだったはずだ。
ホテルのドアも壁も厚く、二人の荒い息を外に漏らすことはない。
色素の薄い髪をシーツの上に広げ、バラライカはしなやかな長い腕を張の背に回している。
一度こうなってしまえば、都合のいい関係だった。
張も三合会も相対する敵は多い。
張も人並にはそういう欲を持ってはいたが、
特定の相手を作れば、それは弱味になりかねない。
敵に捕らえられてどうこう、という話は日常茶飯事だ。
あるいはその相手が裏切って、不都合をしでかすことも考えられる。
その点、バラライカなら問題ない。
自分の身は張以上に守れる女だし、口の堅さも間違いない。
何しろ、秘密はお互い様だ。
- 213 :旦那×姐御:2007/08/21(火) 09:14:02 ID:11vI6uO0
- バラライカにとってはもっと都合が良かった。
バラライカは、張以上に相手を選ぶのが難しい。
世の中には、女は全て色恋沙汰を中心に動くものだと思っている馬鹿が少なくない。
そういう隙を見せるのは、どう考えても得策ではなかった。
ゆきずりの相手を探すにも、火傷顔が目立ちすぎる。
並みの男では、その火傷痕だけで怖じ気づいて勃たないかもしれないし、
お忍びで一夜の相手を探そうにも
「ホテルモスクワのバラライカでござい」と看板を掲げているようなものだ。
適材適所。いや、破れ鍋に綴じ蓋か。
胸の下で小さく声を上げるバラライカを見ながら、張はふとそんなことを思う。
普段の低く暗い声とはまるで違う、甘やかな声と喘ぎが張の耳をくすぐる。
眉根を寄せて何かを堪えるような顔。
張の男の部分で貫いたその場所が、どんどん熱く、きつく狭まっていく。
間違いなく絶頂が近い。それでいて、そこへ飛んでしまわぬよう堪えている顔だ。
「どうした、なぜ堪える」
ただ快楽を求めてこんなことをしているというのに、それを堪えて何になる。
それがわからずに、張はバラライカの耳元で訊いた。
バラライカはその問いに首を横に振って、唇の端を上げてみせる。
「一人は嫌でしょう?」
「なんだって?」
「覚えてない? 『ベイブ』」
出会った頃、こんな関係が始まったばかりの頃のあだ名で、彼女は張を呼んだ。
「その名で呼ぶ名と言っただろう。嫌いなんだ」
「昔の貴方はね、私が一人でいくと、
置いてけぼりを食った子供みたいに寂しそうな顔をしていたのよ。
自分じゃ気付かなかった?」
「――――ッ!」
予想外の答えに、張はとっさに声も出せない。もしかしたら赤面していたかもしれない。
だがそれを隠すサングラスは、ベッドサイドのテーブルの上だ。
- 214 :旦那×姐御:2007/08/21(火) 09:15:01 ID:11vI6uO0
- 「だからね、一緒に」
その言葉が終わらぬうちに、腰の動きを激しくしてしまったのはたぶん――
照れ隠しというやつだろう。
とてもじゃないが、そんなことを言われても黙ってバラライカの顔を見ていられるほど
張は若くもなかったし、老いて枯れてもいなかった。
頭の奥に熱いものが溢れて、それが「望みどおりにしてやるさ」と唸っている。
バラライカも、もうまともな言葉は口にできない。
うわごとのような言葉を繰り返し、繰り返しながら、
長い手も脚も使って張を抱き締めている。
おいこら、お前の馬鹿力でそんな風に抱きついてきたら――なんて軽口を叩く余裕もない。
これ以上熱くなることはないだろうと思っていたバラライカの最奥が、火のように熱くなる。
たぶん彼女の身を灼いた炎さえ、きっとこれほどには熱くない。
それが張自身を痛いぐらいに締め付ける。全身で張を抱き締めている。
直後、バラライカが一際高い声を上げたのと、張が己の中の熱を彼女の中に放ったのは、
望んだとおりの「一緒」だった。
- 215 :旦那×姐御:2007/08/21(火) 09:16:15 ID:11vI6uO0
- 「なあバラライカ」
「なんだ」
「お前いつまでこんなこと続ける気だ」
「さあ」
バラライカはシャワーを浴びるより先に新しい煙草に火を点け、
肺まで深く落とし込んだ紫煙を天井に向けて吐き出した。
吐き出された煙は大きく広がって一瞬天井の輪郭を歪ませたが、
空調の冷たい風にかき回され、すぐに散々になって消える。
「この町では人の命なんて、この煙より軽くて脆いわ。
この部屋を出た途端に私が死んでも、貴方が殺されても何もおかしくない。
「いつまで」なんて無意味な質問よ」
「……そうだったな」
それはつまり、どちらかが死ぬまでずっと、ということか。
張はそう思ったが、口には出さずにおいた。
バラライカは煙草の匂いで情事の名残を消そうとしているかのように、
紫煙を吸い込んでは天井に吐き出している。
それを少し寂しいと思う自分に気が付いて、張は首を振った。
「いつまで」と訊いておきながら、
女の中から自分の存在が紫煙と一緒に抜け落ちていくのは寂しい。
「死ぬまで」という答えに辟易しながら、どこかほっとしている。
まだまだこういうところが自分は「ベイヴ」のままだ、と張はひそかな溜息をついた。
バラライカの吐く紫煙とは逆に、張の溜息は床に落ちた。
END