158 :名無しさん@ピンキー:2009/04/17(金) 16:49:20 ID:AIT6XXQP

「動くな」

 カチャリ、と軽い音とともに真横から聞こえたのはやけに高い声だった。
 胸の前に両手を上げたまま視線を下にずらす。
 ぞっとしない光沢を放つ黒いブツと、それを構えるには小さすぎる手。

「現金、金目のもの―――時計とかカメラとかも全部だ」

 ごつい銃を手に、明快でシンプルな要求を突きつけてきたのは、俺の腰ほどしか身の丈の無い女の子だった。
 たぶんまだ10歳かそこらだろう。顔立ちや肌の色から見る限りは、華人系だ。ぶかぶかしたねずみ色のパーカーにカーキのズボンを穿いている。
 サイズの合わない服を捲り上げた腕は年齢の問題以前に細く、傷だらけだった。顔にもいくつも痣や切り傷が刻まれている。
 半眼でこちらを睨む表情は恐ろしいほど冷めている。この世の最低のものをすべて見尽くして、あらゆることをあきらめきったようなそんな顔だ。

「おい―――英語わからねえのか、日本人」

 言葉にできない凄みを備えた佇まいと、あどけない顔立ちとのギャップに言葉を失っていた俺はいぶかしげな視線に、慌てて英語で答えた。

「カメラはないよ。金なら、全部カバンの中だ…」
「ひっくり返して中身出しな」

 眼下のニューヨークの大地を一瞥する。
 ネズミの這い回るスラム直結の、”実に清潔な”裏路地だ。12月の容赦ない寒波の中ではいくらか鼻が鈍るものの、特有の据えた臭いに息が詰まる。
 数メートル先には吐瀉物らしきものまでぶちまけられている―――

「早くしろ」

 心の中でため息をついて、俺は薄汚れた街路に鞄の中身をばらまいた。



「ちっ…しけてやがんな」

 昔の映画に出てくる三下の悪役のように毒づいた小さなギャングは、俺に銃を向けたまま持ち物を物色していた―――足で。
 書類や手帳、サラリーマンにとっての無二の商売道具が土ぼこりと足跡で無惨に汚れるが、憤慨するだけの気力は既にない。
 というか、あまりに奇異な―――少なくとも俺からすれば―――状況に思考が追いついていなかった。
 ”子供に銃を突き付けられて追いはぎされている。”
 これが見るからに腕白そうな溌剌とした少年の仕業なら、笑って大げさに撃たれるふりをしてやるところだが、現実には生命の危機が迫っているらしかった。

 逆らえば撃たれる。

 荒事なんてまったく経験のない俺にもすぐ分かった。
 恐らく、この死んだ魚のような眼をした女の子は、人を殺すのがどういうことかを知っている。
 道徳論とかいうあってないようなものを頭に描いているかはともかくとして、現実にどうやれば人が死ぬのかを。

168 :158 ◆none8OLSAQ :2009/04/18(土) 22:16:05 ID:qGKaKr4d

「お」

 にやり、と。
 少女はネコ科の笑みを浮かべて、すり減った財布を拾い上げた。
 中にフランクリンが何人いたかを考えて、軽く涙目になりかけた―――ただでさえクリスマスの出費で懐が痛いのに、ああ。
 片手で器用に開いて、素早く金額を検算する。勿論その間も俺への警戒は緩めない。
 慣れた手際だ。場数を踏んでいるのか。信じられない。こんな子供が、こんな小さななりで。
 何がまずかったんだろう。アパートまで近道しようと裏路地に入りこんだことか。いやそもそも日付変わるまで飲んで無防備にフラフラしてたのが悪かったか。
 とりとめのない後悔を連ねた後に、しかしクリスマスプレゼントを買った後だったのが不幸中の幸いだったと思いなおす。
 そうだ。他に貴重品なんて持ってないんだし、財布さえ取れば満足してくれるはずだ。

「ほー…そこそこ入ってんじゃん」

 上機嫌で財布をパーカーのポケットに突っ込んだ女の子は辺りを見回して退路を取ろうとしている。
 銃口が下げられるのを見届けたときは、一気に体が軽くなった心地だった。
 よし。大丈夫だ。これでとりあえず命の危機と、ガールフレンドとの修羅場は回避される。そのはず。

「へへっ。邪魔したな、カンパどーも!」

 捨て台詞を吐いて立ち去ろうとする、小さな犯罪者。
 助かった……
 安堵した俺の視界の隅、ひらひらした紙切れが風に飛ばされ、灰色の地面を離陸した―――

「あん?」

 紙切れは銃を構えたまま後ろに一歩下がった少女の腕に舞い降りる。何だろう、と思った矢先にそれに印字された小洒落たサインが見えて、俺は青くなった。

「”マクレーン・ホーセキテン”?……”リョーシューショ”?」
「!」

 ―――2か月分の給料を貯めて買ったジュエリーは、一年ほどの付き合いになる恋人への、約束の品だった。
 クリスマスだからと、彼女の希望に沿って、かなり奮発したのだ。
 宝石店に入ること自体初めてだったから落ち着かなくてしょうがなかった。
 尋ねられるまま頷いて、何となく領収書をもらって―――そして、それが今人生最大の墓穴に繋がった。
 最初異国の言葉を耳にしたような顔をしていた少女も、書かれた金額を見てすぐにぴんときたらしい。
 紙切れがくしゃりと握り潰された。

「てめえ……金目のもの全部っつったろ」

 三白眼がぎりぎりまで細まり、殺気を湛えてこちらを睨んでくる。
 ずかずかと再度歩み寄ってくる相手の顔を見るためには、こっちはえらく首を下げなきゃならない。
 なのにぴりぴり肌を打つ、異様な威圧感は何だろう。
 もう一度向けられる銃口に俺は今度こそ泣きそうになった。

「……出せ。三秒以内だ」
「っくしょー…」


169 :158 ◆none8OLSAQ :2009/04/18(土) 22:16:51 ID:qGKaKr4d

 悪態を吐いて、半ばやけくそでコートのポケットに手を突っ込み、小さなネックレスを引きずり出す。

「ほら!!」

 羽のモチーフにダイヤを埋め込んだそれを、乱暴に顔の前に突きだしてやる。

「もってけよ!これでいいだろ!!」
「……」

 とっととひっつかんで走り去って行くのだろうと思っていた。というか欲しいところだった。
 だががめつい強盗は、黙ったまま動かない。
 銃を構えたままじっとこちらを見つめている。
 えいくそ。子供に命令される屈辱にも、聖夜に控える惨劇への絶望感にも耐えて、大人しく要求に従ってるって言うのに、これ以上どこに不満があるっていうんだ、畜生。

「なんだよ!?いっとくけどこれは本物だぞ―――嘘じゃ…」
「……なんだ、これ」
「……は…?」

 惚けたような按配で、少女は呟いた。

 ゆらゆら揺れる天使の羽が、表通りから漏れてきた街灯の光を受けて光る。
 小振りながらしっかり存在を主張するダイヤモンドに注がれるのは、見とれるような視線。
 意外と子供らしく大きな瞳がまんまるくなる。

「なあ、何なんだこれ?きらきらしてる」

 拍子抜けする。
 確かついさっきまでは、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされてたはずなんだが……というか、どういうものかもわからないまま出せって言ったのか?
 脱力の余りへたり込みそうだ。
 さっきまでのドスの利かせようはどこへやら、単純に好奇心を滲ませた声で尋ねられるものだから、すっかり毒気を抜かれてしまった。

「……宝石…知らないの?」
「ホーセキ?さっきも言ってたな。こんな小さいのに、あんなに高ぇのか?」
「あー…一応ブランド品だから」
「あたしこんなに高価なもの見たことないぞ。なあ、これ何に使うんだ?なんかすげー便利なのか?」
「いや、違うよ……これは…」

 身も蓋もない問いかけに、本気で説明に窮した。
 どうやら彼女はアクセサリーと呼ばれる類のものについてよく知らないらしかった。
 普通このぐらいの年になれば憧れて、一つ二つ子供向けの指輪だのなんだのを欲しがるものだと思っていたが……
 と、考えてはたと気づく。
 目の前で好奇心に眼を輝かせている子供の服装、そして何よりその手に握られた凶器―――

「?なんだよ、何に使うんだ?」

 アクセサリーが欲しいだとか可愛いものが欲しいだとか、そういう他愛もない要求が叶えられる―――
そんな家庭環境なら、こんな夜中に、スラムの近くで、酔っ払いに銃を突きつけて金を巻き上げる必要なんて、これっぽっちもないはずだ。

 こんな荒んだ街で、銃を手に入れて盗みや脅しを覚えた、そうせざるを得なかったこの子は、きっと何も知らない。
 おしゃれすることも、うまい食い物も、普通なら当たり前に叶えられるわがままも、何も……



170 :158 ◆none8OLSAQ :2009/04/18(土) 22:17:46 ID:qGKaKr4d



「……ちょっとじっとしてて」
「?―――っ、わ、な、何すんだよ…!」
「いいから」

 なぜそうしようと思ったのかはわからない。単純に同情というか、俗っぽい人情みたいなものに衝き動かされていたのかもしれない。
 その時の俺は、相手が銃を持ってることも忘れていた。
 ネックレスのチェーンを外し、細っこい首にかけてやる。
 ちょっと苦戦してから留め具を繋げ、後ろに回す。
 ペンダントトップを前に持ってくる。体が小さいから、みぞおちの辺りに羽が揺れる形になった。
 素っ気ないパーカは、まがりなりにもダイヤを散らしたそれとは恐ろしくミスマッチだ。
 だがまあ、似合わないわけではない―――少なくとも感心したようにそれを見つめる少女の顔に、悪い気分はしない。
 年相応の表情をしている辺り、なんだか妙な安心感を覚えた。

「どう?こうやって使うんだよ」
「あ……これ…」
「ちょっと早いけど……メリークリスマスだ」

 我ながらちょっとカッコつけすぎたかもしれない。
 そんな事を考えてやや気恥ずかしい気持ちになっていると、こっちに近づいてくる足音が聞こえてきた。


「おい!!そこで何してる!!!」


 表通りに連なる道から来たのだろう。警官が三人、走り寄ってくる。
 惚けていたはずの少女はあっという間にスラムの奥に駈け出して行き。
 後にはぐちゃぐちゃになった鞄と持ち物と―――文無しになった俺が残されただけだった。



***




 その後、俺は事情聴取を適当にはぐらかして、夜中の二時になってやっと自分のアパートに辿り着いた。
 明らかに物盗りに遭ったとわかる状況だったから、下手な言い逃れはしなかったが、犯人の外見の特徴についてはかなりいい加減に答えていたと思う。
 庇うような事をするのが正しいことだと思わないが、何となくあの子供を追い詰めたくないような気がしたのだ。
 疲れきっていてまともに応える気力がもう残されていなかったこともあった。


 ああ、明日―――もう今日か―――のイブのディナーの席で恋人に何と弁明すればいいだろう。
 アルコールと疲労と、自分の知らない世界を垣間見たショックでぐちゃぐちゃになった頭で、必死に目下の懸案事項を考えていた俺は、結局その夜寝付けなかった。




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