222 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:07:29 ID:ArMRWb5n

ぼくは、うす暗い路地裏でうずくまっていた。
じめじめしたゴミのあいだに体を押しこんで、じっとしていた。
もう何日も前からなにも食べていなかったし、
体中の傷が痛んで、動きまわる元気なんてどこにもなかった。
それに、人が沢山いるところでふらふらしていると、またいじめられるかもしれない。
うす汚れたぼくを見ると、みんな「汚ねェな、とっとと失せろ」と言って蹴りとばす。
ぼくはそんなに長いあいだ生きてるわけではないけれど、路上生活は長かった。
路上でうまく生きていくには、だれにも見つからないようにすることが大切。
すみっこの方でおとなしくして、石ころみたいに息をひそめているのが一番いい。
ぼくは路上でくらすようになってから、臆病すぎるほど慎重になったし、逃げ足もはやくなった。
小さくて弱いものは、そうしないと生きていけない。

なのに、空腹にたえきれず、繁盛している食べ物屋のゴミ箱をあさったのがまずかった。
近くにひとの気配を感じて、逃げようと思ったときはもう遅かった。
力まかせに蹴りあげられた足が、おなかのやわらかいところに入って、
ぼくはよろよろとその場にたおれこんだ。
はやく逃げなくちゃ。
それはわかっていたけれど、おなかが空きすぎて、
そして蹴られたところが痛すぎて、体に力が入らなかった。
そこからどうやって逃げてきたのかはよく覚えていないけれど、
途中でかたい石が背中にあたったような気がする。
重い衝撃が骨にまでひびいて、ひざがくずれた。
でも、ぼくは必死に起きあがって逃げた。
気がつくと、手足も切れて血がでていた。
逃げている途中でどこかにぶつかったのかもしれない。
やっと静かな路地裏を見つけてほっとしたのは、きのうのことだったか、おとといのことだったか。
もう、時間の感覚もよくわからなかった。

なま温かい風が、うずくまったぼくの頬をなでた。
食べ物のにおいが風にのって流れてきて、くぅ、とおなかが鳴った。
おもての市場から、にぎやかなざわめきが聞こえてきていた。
そのざわめきを遠くに聞きながら、かたい地面に頭をくっつけて目をつむり、
ぼくは、ああ、もうすぐ死ぬのかな、なんてことを思った。

そのとき、ぼくはなにかの気配を感じた。
頭をあげると、細い路地をのぞきこむように見ているひとと目があった。
黒いタンクトップからのびた腕で茶いろの紙袋をかかえ、
大きな目をさらに大きくさせてこちらを見ている女のひと。

「お前、怪我してんのか……?」
彼女はぼくのことを知らなかったけれど、もちろんぼくの方は知っていた。
この街に住んでいれば、だれだって知ってる。
彼女は有名人。
“トゥーハンド”と呼ばれている女のひと。


223 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:08:20 ID:ArMRWb5n

彼女を怖がっているひとは多かったけれど、なぜかそのときのぼくは平気だった。
ぜんぜん“やさしそう”な顔なんかしてなかったのに。
ぼくは痛む足をひきずって、彼女に近寄っていた。
彼女はすこし眉をひそめた。

路上ぐらしのコツは、ひとに近づかないこと。
すみっこの方でおとなしく小さくなっていること。
ちゃんと警戒すること。
見つかったらすぐに逃げること。

なのに、ぼくはその学習したことをすっかり忘れて、ふらふらと彼女に歩み寄っていった。

ぼくはなぜ、突然そんなことをしてしまったんだろう。
頭がぼんやりしていたからか、
昔ぼくを育ててくれたひとに似ていたからか、
それとも単純に、一目で彼女のことがすきになってしまっていたからか。
それは自分でもよくわからない。

ぼくが下から見あげると、彼女は
「ついて来んな」
と迷惑そうに言った。
けど、ぼくを蹴とばしたりすることはなかった。


彼女は舌うちをして、歩き出した。
ぼくは、ひょこひょこと必死で彼女の後を追った。
短いデニムのパンツからのびた筋肉質の脚で大またに歩く彼女についていくのは、
怪我した体ではつらかった。
だんだんと彼女の後ろすがたが遠くなる。
ぼくは、息も絶え絶えに言った。

――待って。

すると、彼女はくるりと振り返った。
「だから、ついて来んなって」
心底、迷惑そうな顔。
追いはらわれるかと思ったけれど、
ぼくが彼女にようやく追いついても、彼女は不機嫌にため息をつくだけだった。
ぼくを見下ろした彼女の眉間に、しわがよった。
「つ、い、て、来、ん、な」
あらためて一言ずつ念を押すように言って、彼女はきびすを返した。

――でも、あそこにいたって良いことなんかないもの。

ぼくはまた、一生懸命彼女を追った。


224 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:09:03 ID:ArMRWb5n

街はちょうど夕食どきのようだった。
屋台に沢山のひとが集まって、テーブルをかこんでいた。

「いよぅ、トゥーハンド。ケツにフンついてるぜ」
麺をすすっていた男から、声がかかった。
「あ? っせーな、食いながら喋んじゃねェよ。カスを飛ばすのはケツ穴からだけにしとけ」
ドスのきいた声で言い返してから、彼女はちらりとぼくの方を見た。
「あのな。ついて来てもなんも良いことねェぞ。腹減ってんのか?」
――うん、おなかも減ってるけど……。
彼女は声をかけてきた男に向きなおった。
「おい、てめェちょっとこいつになんかやれよ。あたしだって連れて歩きたいわけじゃねェんだ」
予想外の方向に話がとんだのだろう、男は慌てたように言った。
「……は? なんで俺が! 
こちとらメシだけを楽しみにクソ面白くもねェ一日やり過ごしたっつーのに、そりゃ無いぜ!」
「ケチくせえな、このブタ野郎。てめェが食ったってラードになるだけだろ。
それとも、てめェの脂身削いでこいつに食わせてやろうか?」
彼女は、とても良い思いつきだというように、高く笑った。
「ふざけんなこのアマ! 俺の金で買ったもんにケチつけられる筋合いねえよ!」
男は声を荒くして食ってかかった。
すると、彼女の目が、きゅうっとすぼまった。
「なんか文句あるってェのか? ……気に食わねェ目だぜ」
だんだんと剣呑な雰囲気になっていくふたりに、まわりの目も集まってきていた。

にわかに、ぼくは今、沢山のひとの前にいるのだということを思い出した。
――ねぇ、やめて、やめて。ぼくは別になにもいらないから。
ぼくは、男以上にぶっそうな目をしてる彼女の脚にすがりついた。
彼女は思い出したようにぼくを見た。
たぶん、ほんとうにぼくの存在を半分忘れていたんだと思う。
眼力だけでひとを殺せそうな光をはなっていた目が、ちょっとだけやわらかくなった。
「おい、お前、こいつの汚ねェクズ肉食っちゃ駄目だぞ。腹こわすからな」
――うん。
ぼくはちょっとだけ安心して返事をした。

「んだとォ!」
顔を赤くした男が腰をうかせた。
けれど、男が立ちあがる前に、彼女はコンバット・ブーツをはいた足で、男の座っていたイスを蹴りとばした。
「――っと!」
バランスをくずした男がたおれそうになり、テーブルのはしっこに手をついた。
男が手をついた四つ足のテーブルも、ぐらりと傾く。
一緒のテーブルについていたひとが押さえようとしたけれど、間にあわなかった。
地面にたおれこんだ男の上に、熱いスープと麺の入ったどんぶりやら、炒めた総菜の皿やら、
缶ビールやらがつぎつぎと降りそそいだ。
「……ってえ…………」
ひっくり返ったどんぶりに入っていたスープや、油っぽい野菜の切れはしをあびた男が体をさするのを見て、
彼女は腹の底から大笑いした。
「いい眺めだなァ! てめェはそうやって地面に這いつくばってんのがお似合いだぜ」
男は、いまいましそうに彼女をにらんだけれど、
肩と腰を打ったようで、すぐには起きあがれないようだった。
とばっちりを受けた同じテーブルのひとたちも、うらめしそうな顔で彼女を見ていた。
でも、はっきりと彼女に文句を言うひとはだれもいなかった。
「ブタは残飯処理でもやってろ、クソが」
みんなの非難がましい目をものともせず、彼女は捨てぜりふを残して歩き出した。


225 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:09:46 ID:ArMRWb5n

――ぼくもいく。

ついていこうとしたぼくに、別の方から声がとんだ。
「おいおい、やめとけやめとけ。見ただろ。あいつは猛獣だ。お前食われちまうぜ、お嬢ちゃん」
――“お嬢ちゃん”じゃないっ!
ぼくは噛みついた。
体は小さいかもしれないけれど、ぼくは男だっ!
「イキんなよ。あいつを止められる奴なんて――あー、一人、いるかな……。けど、奴は規格外だ。
――とにかく、お前みたいな子猫ちゃんが太刀打ちできる相手じゃねえよ」
――“子猫ちゃん”でもないっ!
ぼくは、ぼくは……!
そのとき視界のはしに遠ざかる彼女の背中がうつって、ぼくは慌てて後を追った。
「おぅおぅ、ヘンなのに気に入られたなァ!」
後ろからなにか言ってくる声が聞こえてきたけれど、ぼくは無視した。
ばかにされっぱなしはイヤだけど、彼女に置いていかれるのはもっとイヤ。
彼女にくっついて歩くぼくを、道ゆくひとは変な目で見てきたけれど、
「失せろ」と言うひとも、蹴とばしてくるひともいなかった。
どうして彼女についていっちゃいけないのか、ぜんぜんわからない。
彼女のそばにいた方が、ずっと安全なのに。


226 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:10:43 ID:ArMRWb5n

しばらく歩いて、彼女は建物の中に入った。
入り口から奥の方に、ほこりっぽい廊下がのびていた。
うす暗くて、床はひんやりと冷たい。
彼女は古びた階段をのぼると、廊下に並んだひとつのドアの前で立ち止まった。
同じところで、ぼくも止まる。
「ったく……。結局、ここまでついて来ちまったのかよ……」
どうやらここが、彼女の部屋らしかった。
彼女はがりがりと頭をかいて、ため息をついた。
「お前、家は?」
――家なんか、ない。
「……みなしごか」
――うん。
彼女は「あー」と小さくうなって、舌うちをしてからドアを開けた。
――入って、いいの?
ぼくが見あげると、
「あたしの目の前で死なれたんじゃ、後味悪ィんだよ」
怒ったように言って、はやく入れ、と手でうながした。

ぼくは彼女の気が変わらないうちに、いそいで部屋の中へすべりこんだ。
床の上には、読みかけの雑誌や空き缶などが散らばっていた。
ぼくは、おそるおそるそのすきまを歩いた。
外はまだ太陽が沈みきっていなかった。
オレンジいろと金いろを混ぜたような光が、窓からあふれていた。
暑かった昼間の熱気がこもって、部屋の中の空気はむわっとしている。
「ぅあっちィーなー!」
彼女はドアを閉めると、手に持っていた袋をどさりと木製の小さなテーブルに置き、
床の上に散乱したものを足で蹴散らして窓に近寄った。
ベッドにひざをついて身を乗り出し、両開きの窓を勢いよく開けると、すぅっと風が通った。

彼女の部屋は狭かったけれど、ぎっしりといろんな銃がならんでいた。
鈍く光るごつごつした銃が、いくつも壁に立てかけてある。
とっても、重そう。
ぼくは、ちょん、と指先で銃にさわってみた。
「――おい! コラ、それに触んな!」
すかさず彼女の大きな声がとんできて、ぼくは身をすくめた。
彼女はそばにやってくると、ぼくを銃の前から引きはがした。
「危ねェから触んな。お前、コレ倒れてきたらつぶされんぞ」
そして、床の上で半開きになっている箱に目をとめているぼくに気づくと、
「あれは弾丸。食いもんじゃねェぞ」
絶対口ん中に入れんなよ、そう言って、部屋の奥にあるドアの向こうに消えていった。

227 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:11:22 ID:ArMRWb5n

積みかさなった雑誌やオイルの臭いがしみこんだ布をつついていると、
ドアの向こうから戻ってきた彼女に、首ねっこをぐいとつかまえられた。
「ほら、ウロウロすんな。腹減ってんのは分かるが、まずはシャワーだ」
――しゃわー?
何それ?
ぼくは彼女を見あげたけれど、彼女はぼくの疑問に答えてはくれなかった。
裸足になった彼女に連れこまれたのは、タイル敷きの狭い部屋だった。
――ねえ、何するの?

彼女は、長い管のついた、銀いろのまるっこい金属を手にとった。
そして壁についた蛇口をまわす。
すると突然、そのまるい金属に開いたぽつぽつした穴から、ざあっと音をたてて水が噴き出した。

――水っ!!

ぼくはびっくりして、とびのいた。

――水っ! 水はキライ!

だってみんな、ぼくがいるのを見ると、水をかけて追いはらうんだもの。
汚いからって、ホースの先をつぶした痛い水を噴射されたこともあるし、
冷たい川や貯水槽の中に放りこまれたこともある。
寝ていたところに熱湯をかけられたことだって。

ぼくは慌ててドアに体当たりして逃げだそうとしたけれど、ドアは開かなかった。
「こーら、逃げんな! ドアはカギかかってんだよ。残念だったな」
彼女の手が、がっしりとぼくをつかむ。
――イヤ! 水はイヤ!
ぼくは必死で身をよじらせたけど、彼女の手はびくともしなかった。
「お前、自分の汚れっぷり分かってるか? 部屋汚されちゃかなわねェんだよ」
――わかってる! わかってるけど! 部屋だって汚いんだからいいじゃな――
問答無用でぼくの頭にシャワーの水がかけられた。

――やめて!

「ちょ……っ! おいコラ、おとなしくしろって……!」
必死でもがくぼくを押さえていた彼女の手もとがくるって、
シャワーの水が盛大に彼女の胸もとにかかった。
その隙に首を振ったぼくの毛先からとんだ水が、彼女の目に入ったらしい。

「――てンめぇ…………! ふざけんなよ! あたしから逃げられると思うな!」
彼女は鬼の形相でぼくを見下ろしていた。

ぼくはそのとき、すべてをあきらめた。


228 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:12:30 ID:ArMRWb5n

すみずみまで洗いあげられて、ようやくもとの部屋に戻ることを許されたときには、
ぼくだけでなく彼女の方もぐったりしていた。
「……あー、お前のせいであたしまで濡れネズミだ……」
クソ、あたしもヤキがまわったな、とぶつくさ言いながらも、
彼女はタオルでぼくの体をふいてくれた。
さっきぼくを押さえつけた手はちょっと乱暴だったけれど、水気をふきとってくれる手はやさしかった。

「……ま、こんなもんだろ。うちにはドライヤーなんかねェからな。あとは自然乾燥だ」
ちょっとそこ座ってろ、と立ちあがった彼女は、四角い箱を持って戻ってきた。

――……今度は、なにするの?

彼女は箱のふたを開けて、中からなにかをとり出した。
「傷の手当てだよ。まず消毒だ。お前それ、結構ひでェぞ。……しみるだろうが、暴れんなよ」
彼女はまだ水滴のいっぱいついている腕で、ぼくの足をとった。
「あー、やっぱ深いな……」
ぼくの傷を見ながらそうつぶやいて、彼女は消毒液をたらした。
――!!
ぼくは痛くてとびあがりそうになったけれど、彼女はつぎつぎと他の傷口も消毒していった。
「我慢しろ。ほっとくと化膿するぞ。ぐちゃぐちゃに腐ってもげるぞ。それよかマシだろ?」
――うん……。もげるのはイヤ……。
ぼくは涙目でこらえた。


消毒した後で薬をぬって、包帯をまき終わると、彼女は立ちあがった。
「さて! んじゃ、次はメシだな!」

――ごはん!?

ぼくはゲンキンにも、目が輝きだすのを止められなかった。
――ねぇねぇ、ごはん!? ごはんなの!?
「んだよ、いきなり元気になりやがったな。そうだよ、メシだよ」

――ごはん! ごはん!

ぼくの頭の中はもう、ごはん一色だった。
ころっと、シャワーのことも怪我のことも忘れていた。
だって、とてもおなかが空いていた。

……ばかにするひとは一度、三日ほど断食してみるといい。
そうすれば、ぼくの気持ちがわかるはず。

「あー、まとわりつくな。……けど、期待すんなよ。うちにはロクなもんねェからな」
彼女はまず、ペットボトルから水をついでくれた。
「ほら、とりあえずそれ飲んどけ」
ぼくは喉を鳴らして水を飲んだ。
まる一日か二日、なにも飲んでいなかった。
勢いよく飲みすぎて咳きこんでいると、彼女は
「ゆっくり飲め、ゆっくり」
そう言って、背中をさすってくれた。

229 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:13:13 ID:ArMRWb5n

キッチンの方でがさがさ音をたてながら、彼女は、くそ、ほんとになんもねェな、とつぶやいていた。
すこし経ってからぼくの前に出されたのは、クラッカーの乗った皿だった。
「ほらよ。……期待すんなって言ったろ?」
――ううん、ありがとう。うれしい。
ぼくはお礼を言うのもそこそこに、クラッカーを頬ばった。
何日かぶりのまともな食事だった。
「――おいおい、そんなにがっつくなよ。喉つまらせんぞ」
彼女はぼくの食べっぷりをあきれたように見ていた。
ぼくはクラッカーに集中しすぎていて、
彼女が途中でキッチンの方に立って、また戻ってきたのにも気づかないくらいだった。
「これも食うか? ソーセージだけどよ」
出された皿には、ちょっとあぶって輪切りにされたソーセージがのっていた。
はしっこに焦げ目がついて、なめらかな断面はうす茶いろをしている。
――うん、食べる!

彼女は夢中で食べているぼくのとなりに座って、缶ビールを開けた。
喉を鳴らして飲んだ後、っはー、と息をつく。
「うまいかー?」
――うん、おいしい。
ぼくは脇目もふらず、クラッカーを噛みくだいていた。
「そうかそうか。これ、結構うまいんだよなァ」
彼女の指がのびてきて、ぼくの皿からクラッカーを一枚さらっていった。

――あっ。

「……なンだよ。お前のとったわけじゃねェよ。ほら、こっちにまだ沢山あんだろ?
もっと欲しかったらやるから。こっち見てないでとっとと好きなだけ食え」
彼女はクラッカーを口にくわえると、ざらざらとぼくの皿にクラッカーを足してくれた。
――ありがとう……。
ぼくはちょっと恥ずかしくなって、うつむいた。
けれど、やっぱり食欲には勝てなくて、もそもそとソーセージを噛んだ。

「あー、あたしも腹減ってきた……」
クラッカーの箱を胸にかかえながら、彼女はぽりぽりとクラッカーをかじっていた。
「でも、これから買いに行くのもめんどくせェな……」
お前のせいだぞ、と言われて気づいてみれば、外はもう真っ暗だった。
「なんか残ってねぇかなー……」
彼女は冷蔵庫を開けて中をのぞきこんだ。
何かをとり出して、コレ痛んでねェだろうな……とつぶやきながら、彼女はキッチンの奥にいった。
なんとなく良いにおいがしてきたな、と思っていると、皿を持った彼女がとなりに戻ってきた。
――それ、なぁに?
「これか? これはピザ。お前んじゃねェよ。お前のメシはそっち。まだ残ってんだろ」
思わず皿の方に身を乗り出したぼくを、彼女は押しもどした。
おなかはそろそろ満腹になっていたけれど、あらたに出現した食べ物がぼくの興味をそそった。
――ピザ? それ、ピザ?
「食いたいか? ――でも、今はやめとけ。
余りもんだし、何日も食ってないとこにいきなりこんな脂っこいもん食ったら、腹こわすぞ」
彼女はぼくから皿を遠ざける。
ぼくは納得して――おなかもいっぱいだったし――座りなおした。


230 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:13:55 ID:ArMRWb5n

おなかが満たされて、ぼくは急にねむくなってきた。
ここ数日、傷の痛みで何度も目がさめてロクにねむれていなかったのと、
ふらふらの状態で必死に彼女についていったのとで、ずいぶん疲れていた。

……ねむい。

そう思い出すと、もうだめだった。
ぼくはよろよろと壁ぎわに寄って、ごろんと寝ころがった。
「――おい、寝るのか? 寝るんだったら寝床作ってやるからちょっと待っとけ」
彼女はピザを片手にそう言ってくれたけど、ぼくは待っていられなかった。
――寝床なんかいらないよ。ぼくは床でじゅうぶんです……。
彼女はまだなにか言っていたけど、その声はすぐに遠ざかった。
ぼくは久し振りに、熟睡した。


目をさましたとき、ぼくは急ごしらえの小さなベッドに寝かされていた。
あれから彼女が作ってくれたんだろう。
部屋の電気は消されている。
彼女は自分のベッドで寝ていた。
なんとなく肌寒く感じて、ぼくは起きあがった。
この部屋へ入ったときに開けられた窓は閉められていて、
天井近くについた機械から冷たい風がながれてきていた。
……ちょっと、寒い。

ぼくは、寝ている彼女に近づいた。
彼女は横向きになって両手をそろえ、すぅすぅ寝息をたてている。

――寝てるの?

返事はない。
しばらく待ってもやっぱり返事がないので、ぼくはそっと彼女のとなりにもぐりこんだ。
――こっちの方がいいや。
寝ている彼女は「……ぅん…………」と身じろぎをしたけれど、
目はさめなかったようで、すぐにまた寝息が戻った。
さっきまで後ろでひとつに結んでいた長い髪はほどかれて、しっとり湿っていた。
ぼくがさっき、もしゃもしゃ洗われたときと同じにおい。
胸もとにすり寄ると、ふんわり暖かかった。
ぼくはちょっと、育ててくれたひとのことを思い出した。
そのひとの顔はもうよく覚えていない。
でも、彼女のにおいは、そのひとのにおいとすこしだけ似ていた。
彼女からは、おしろいのにおいも香水のにおいもしないけれど、
胸もとからなんとなく甘くてやわらかいにおいがした。
女のひとのにおい。

――あったかい。

ぼくはまた、とろとろとねむった。


231 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:14:40 ID:ArMRWb5n

 * * *

「うおっ!」
心地良く寝ていたぼくを起こしたのは、彼女の驚いた声だった。
はじかれたように起きあがった彼女に、ぼくの方もびっくりしてとび起きた。
「お前、なんでこんなとこで寝てんだよ! お前の寝床はあっちだろ? せっかく作ってやったっつーのに……」
起きぬけの顔で、彼女はぼくの小さなベッドを指さした。
――でも、こっちの方があったかかったんだもん……。
ぼくは顔をそらした。

「もうちょっとでつぶすとこだったぞ、おい……」
彼女はまだねむそうにあくびをすると、ぼくを乗りこえてベッドを降りた。
ぼくも目がさめてしまったので、彼女に続いてベッドから降りた。
「……よく眠れたかァ?」
――うん!
まだ怪我はなおっていなかったけれど、
昨日までとはくらべものにならないほどぼくの気分は良かった。
「そうかそうか。朝から元気だなァ、お前は……」
彼女は、んーっとひとつ大きくのびをすると、冷蔵庫を開けて水をとり出し、
ペットボトルにそのまま口をつけて飲んだ。
そして、ぼくにも水をついでくれる。
「ほれ、お前も飲め」
――ありがとう。


彼女はタバコをくわえながら、きのうと同じようにクラッカーをよそってくれた。
そして、身支度をととのえて、ぼくに言った。
「あたしはこれから仕事だかんな。お前はここにいろよ」
てっきり朝になったら追い出されるかと思っていたので、
ぼくの心は一瞬にしてぱあっと明るくなった。
――いてもいいの!?
「イタズラすんなよ。余計なとこ触んじゃねェぞ」
いいな、分かったな。そう念押しして、彼女は出かけていった。

彼女が出かけてしまうと、ぼくはまたねむくなって、今度は彼女のベッドをひとりじめした。
シーツには彼女のにおいが残っていて、なんだか安心した。
いくらねむってもねむっても、面白いぐらいによくねむれた。
じゅうぶんに寝足りると、ぼくは手持ちぶさたで暗いテレビの画面やベッドの下をのぞきこんだ。
すみの方で積みかさなっている雑誌も見てみる。
彼女は「イタズラすんな」「余計なとこ触るな」とは言ったけれど、「見るな」とは言ってなかったもの。
小腹が空いたらクラッカーの残りを食べて、またうつらうつら昼寝をして。
そんなふうにしていたら、あっというまに一日が経った。


232 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:15:19 ID:ArMRWb5n

ドアノブのまわる音がしてぼくが顔を向けると、
ちょうどドアが開いて、彼女が帰ってきたところだった。
――お帰りなさい!
「おう、元気にしてたかー?」
――うん!
ぼくはひとりでも平気だったけれど、でも彼女が帰ってきてくれるとうれしい。
そばに寄ると、彼女がさげていた袋から良いにおいがした。
「お、気づいたか? 土産だ、土産。肉だぞー」

――肉っ!?

そう、この油のとけ混ざったこうばしいにおいは、まさしく肉のにおいだった。
「好きだろ? 肉。お前ちっこいからな。もっと食って太れ」
袋の中をのぞきこもうとするぼくを、彼女は制した。
「待て待て。慌てんなって」
彼女はキッチンに行って大きめの皿を持ってくると、袋から肉をとり出した。
かさなった紙をはいだ先にあらわれたのは、まだ温かく湯気のたっている鶏のもも肉だった。
外側の皮がかりっときつねいろに輝いて、中からしみ出した油でてらてらと光っている。

――肉……!

肉なんて、残飯じゃないこんな完璧な肉なんて、はじめてかもしれなかった。
ぼくは、すい寄せられるように手をのばした。
「待てって。今とり分けてやるから」
彼女はぼくの手をぱしっと叩いて、ナイフを手にした。
「こいつはあたしの夕食でもあるんだからな。半分こ、な」
肉にナイフがつき立てられると、じゅわっと透明な肉汁があふれた。
切りすすめると、中からまた新たな湯気がほわほわと立ちのぼる。
彼女は骨をさけるように肉を切りとった。
「ほれ、お前はこっちの柔らかいとこ食え」
あたしはこっちな、と彼女は肉のこびりついている骨の方をとった。
ようやく食べて良いとのお許しがでたので、ぼくは目の前のチキンにかぶりついた。
肉はまだ熱くて舌をやけどしそうになったけれど、
やわらかく焼きあがった肉は夢のようにおいしかった。

「うまいかー?」
――うん、おいしい!
彼女は骨の先についた軟骨を前歯でそいで、かりこり音を立てた。
「確かに、結構イケるな」
そして、いつのまにか片手に持っていた缶ビールをあおった。
いつ開けたんだろう?
ぼくは不思議に思ったけれど、そんなことはこのごちそうの前ではささいなことだった。

おなかがいっぱいになったぼくは、前の晩と同じように彼女にくっついてねむった。
入れて、と彼女のベッドのとなりをねだったとき、彼女はまだ起きていたけれど、
「……しょうがねェなぁ」と言って許してくれた。


233 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:16:59 ID:ArMRWb5n

ぼくは、朝仕事に出かける彼女を見おくり、
日中はひとりでゴロゴロし、帰ってきた彼女と夕飯を食べる。
傷の手当てをしてもらって、夜は彼女のとなりでねむる。
そんな毎日をすごしていた。

彼女は特にぼくと遊んでくれるようなことはなかったけれど、
座っている彼女のとなりにすり寄ると、
「お前、あんまくっつくな。暑っちィだろ」
と言いながらも、頭をなでてくれた。

ぼくは彼女がすきだった。
彼女に構ってほしくてたまらなかった。
ベッドに寝ころがって雑誌を読んでいる彼女に声をかけても知らんぷりするので、
わざと雑誌の上に頭を乗せて、彼女を見あげてみることもあった。
「お前、邪魔」
彼女は、ぐい、と手でぼくを押しのけたけれど、ぼくがめげずにからむと
最後には笑って、あおむけになったおなかの上に乗せてくれた。
「なんだー? お前、さみしがりか? そんなんじゃひとりで生きてけねェぞー」
そうして、ぼくの首すじをくすぐった。

ただ、怒ったときはものすごく怖かった。
だいぶ怪我の良くなったぼくは、
床から彼女のベッドの上にとび乗り、またベッドから床にとび降りる、
そんなことも余裕でできるようになっていた。
ぼくはすっかり調子に乗って、ちょっと遠くからベッドにとび乗ろうとした。
着地成功!
……と思った瞬間、足もとがずるっとくずれた。
ぼくはバランスを失って、ベッドのはしから落っこちそうになった。
慌ててのばした手はかろうじてシーツに引っかかったけれど、
シーツは頼りなく引っぱられただけで、ぼくは背中から床に落ちた。
どたっ、と鈍い音がした。
あまりにも恥ずかしかったので、何もなかったことにしようと
そ知らぬ顔で立ちさろうとしたとき、首ねっこをがしっとつかまれた。
「コラ! てめェ、暴れるんじゃねえって言ってんだろ!? 
なにしれっと何事も無かったかのような顔してんだよ! こっちはしっかり見てたんだからな!」
これを見ろ! と目を怒らせた彼女の指さす方を見ると、
一か所を強く引っぱられてベッドからはがれたシーツが、だらりと床にたれさがっていた。
「シーツ破ったら承知しねェからな! 次やったらピザの具にして食っちまうぞ!」
――ごめんなさい……。
ぼくは彼女の迫力にたじたじとなった。
ったく、シーツの替えあんまねェんだからな……。
ぶつぶつ言いながらベッドをなおす彼女に、ぼくはしゅんとうなだれた。


たびたび怒られることはあったけど、それでもぼくはピザの具にされることはなかった。
なんだか急に気分が悪くなって部屋のすみで吐いてしまったとき、
ぼくはぜったいに怒られると思ったのに、
彼女は「おい! 大丈夫か!?」と血相を変えてやってきて、ぜんぜん叱らなかった。
「なんか悪いもんでも食ったか?」
聞かれてもよくわからなくてぼくがおろおろしていると、
彼女は「寝てろ」と言って、汚した床をだまってきれいにしてくれた。

やっぱりぼくは彼女のことがすきだった。


そんな共同生活が続いたある日。
闖入者があらわれた。


234 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:17:46 ID:ArMRWb5n

 * * *

その朝も、ぼくは彼女のとなりでねむっていた。
そこに突然、ドアをノックする音がひびいた。
ぼくは、びくっと頭をあげた。
彼女も気づいて目をさましたようだった。
「レヴィー、いるー?」
ドアの向こうからは、聞きなれない男のひとの声がした。
――だれ?
彼女は喉の奥から短いうめき声をもらして、ぼく以上にびくりとした。
ぼくにはぜんぜん見当がつかなかったけれど、彼女には心当たりがあるらしかった。
「レヴィー、入るぞー」
外からカギの開けられる音がする。
「やべっ!」
彼女はあたふたと起きあがって、ぼくの肩をつかんだ。
「ちょっ、お前、どっか――」
彼女がなぜそんなに慌てているのか理解できず、
ぼくは肩に腕をまわされながら、寝ぼけた頭でただ彼女を見あげた。
彼女がぼくを片腕に抱いてシーツをまくりあげたとき、ドアが開いた。

「おはよう、レヴィ」
にっこり笑って部屋に入ってきてドアを閉めたそのひとは、
ぱりっとした白いワイシャツにネクタイをしめていた。
彼女はバツの悪そうな顔でむくれている。
男のひとは、手に持っていた袋をテーブルの上に置くと、うっすら笑みをうかべながら近寄ってきた。
「浮気現場発見」
ぼくと、ぼくを腕の中にかこって座りこんでいる彼女を見下ろす。
彼女はぼくをかかえたまま、不機嫌にあぐらをかいた。
「……女が寝てるとこに勝手に入ってくんじゃねェよ」
「――え? この子、女の子なんだ?」
「ふざけんな、ロック!」

――そうだよ、ぼくは男だ!

「あたしのどこが男に見えんだよ!」
――え?
「ん? 見えないよ。見えないけど、寝てるとこに俺が勝手に入ってってもいい女だと思ってる」
――え、ぼくは? ぼくは?
「……ふざけんじゃねェぞ」
「今更だろ? なに? そんなに見られて困るところだったの?」
彼女は苦い顔をしてうつむいている。
「おかしいと思ったんだ。ここのとこ、ずっと帰りが早いからさ」

ぼくはひとりで置きざりにされたようで、ちょっとさみしくなった。


235 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:18:36 ID:ArMRWb5n

「俺はこの子に負けたのかー。悔しいけど可愛いな」
ロック、と呼ばれた男のひとがぼくに手をのばしてきたので、ぼくは急いでベッドからとび降りた。

――さわらないで!

部屋のすみまで走って逃げる。
「あれ、嫌われたな」
彼が眉をさげた。
彼女はむくれ顔で、ベッドのわきに置いてあったタバコの箱に手をのばした。
「どこで拾ったの? あんな可愛い子」
ベッドのはしに腰かけて、彼は彼女の顔をうかがう。
「拾ったんじゃねェよ。あいつが勝手についてきたんだよ」
彼女はタバコを一本振り出してくわえ、ライターで火をつけた。
「へぇ、ずいぶん好かれてるじゃないか」
「……知らねえよ」
「一緒に寝てたくせに?」
「あいつがくっついてくんだよ」
うるせェな、と彼女はタバコをくわえたまま低い声でうなったけれど、
彼はぜんぜん気にしていない様子でぼくの方をちらっと見た。
「怪我してたのか? あの子。いいとこあるじゃないか、レヴィ」
「……とんだ厄介者だ。あたしゃ慈善団体の職員でもマザー・テレサでもねェんだ。
あいつの怪我がなおるまで、仕方なく置いてやってるだけだ」
彼女は人さし指と中指でタバコをはさんで、ふぅっ、とけむりを吐き出した。

……厄介者? ぼくはやっぱり邪魔だったのかな。
そう思うと、ぼくのさみしさは増していった。


236 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:19:39 ID:ArMRWb5n

「やめろよ、レヴィ。あの子に聞こえてるよ。本気にしちゃうじゃないか」
「――んだよ、じゃ、あたしが嘘ついてるってェのかよ」
「そうじゃないって。……別にからかってるわけじゃないんだから、機嫌直せよ」
彼女はむっすりと押しだまった。
「…………他の奴等に言ったら承知しねェからな」
「分かったよ。勝手に入ったのも悪かった。
――ほら、そこで朝食買ってきたんだ。一緒に食べよう」
彼が持ってきた袋を指さすと、
彼女はふてくされた顔をしながらも、袋の乗ったテーブルをベッドの方に引き寄せた。

「なに買ってきた?」
「カーオ・トムとヤム・ウンセン」
彼女は鼻からけむりを吹き出して、タバコを灰皿に押しつけた。
「じゃ、なんか取り分けるもん持ってくる」
「ああ、頼むよ」
キッチンから戻ってきた彼女は、器を彼に手わたした。
「適当に使え」
「どうも」
「カーオ・トムの具はなんだ?」
「えーと、魚の肉だんごかな」
「肉だんごか。だったらあいつも食えるだろ」
「あの子、痩せてるね。ちゃんと食べてる? 好き嫌いは?」
「さぁ。ここんとこそんなに食わねェが、最初はすごかったな。腹減ってりゃなんでも食うだろ」
「まぁそうだな」
「あー、でもチキンは好きだったみてェだな。すっげー喜んでた」
「へぇ。どこの店で買ったの?」
「ん、あそこの、市場入って右手側んとこ」
「いつも混んでるとこ?」
「ああ」
「うまかった?」
「ま、支払い分の仕事くれェはしてるんじゃねえの」
「俺も食べたかったな」
「じゃ、次はあんた持ちな」
「――え? まぁそれでもいいけど……」


ふたりはぼくそっちのけで話している。
あの男のひとにさわられたり話しかけられたりするのはイヤだけど、
ぼく抜きで、彼女とぼくの話をされるのもイヤだった。
そして、彼女がぼくを見てくれないのはもっとイヤだった。

ぼくはがまんできなくなって、ベッドに並んで腰かけているふたりのところへ戻った。
ベッドをよじのぼり、彼女のそばにくっつく。
「お、どうしたー? メシにつられたか?」
やっと彼女がぼくの方を見てくれて、ぼくはすこしだけうれしくなった。
彼女のひざの上に頭を乗せて、ごろんと横になる。
「コラコラ、もうメシ食うんだから、起きてろ」
彼女のふとももに顔をうずめると、彼が向こう側からのぞきこんできた。
「膝まくらか……。羨ましい……。……ああ、可愛いのは卑怯だ」
「あんたは可愛くねェもんなぁ、ロック」
だれがするか、と鼻で笑って、彼女はぼくの頭をなでてくれた。


237 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:21:06 ID:ArMRWb5n

「はい」
「ん」
彼がよそってくれた皿を彼女は受けとって、ぼくの前に置いた。
――なに? これ。
「魚の肉だんご入りの粥。ほれ、お前、魚も好きだろ?」
器の中には、白くとろりとしたお粥が入っていた。
とけかけた米が、つぶつぶになって混ざっている。
その中に、食べやすく一口サイズに割られた肉だんごが沈んでいた。
鼻を寄せると、魚からでた出汁のいいにおいがした。
「あー、ちょっと冷ましてから食え」
彼女は、お粥の中にスプーンを入れてぐるぐるまわし、ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましてくれた。
「ほれ」
そっと口をつけてみるとまだちょっと熱くてびっくりしたけれど、
すりつぶされた魚で作られた肉だんごはおいしかった。
「――気に入ったか?」
――……うん。まぁ……。
「……合格点のようだぜ」
「良かった」
彼はほっとした様子で息をついた。
彼の持ってきたものをよろこんで食べて彼を満足させるのはしゃくだったけど、
仲間はずれはさみしいので、ぼくは気にしないことにした。

「レヴィ、こっちのヤム・ウンセンもちゃんと食べろよ」
「……食ってるよ」
「食ってないだろ」
「食ったって」
「一口だけ?」
「うっせーな、野菜キライなんだよ」
「野菜キライって、どっちが子どもだか分かんないな……」
ぼくだったら、もう子どもじゃないですよ……。
そう思ったけれど、彼には話しかけたくないので、ぼくはだまっていた。
「レヴィは野菜足りてないよ。それにほら、これは野菜だけじゃなくて春雨も入ってるだろ?」
「……春雨なんかに騙されるか」
「いや、騙すとか騙されるとかそういう問題じゃないだろ。ほら、これはレヴィの分」
皿を押しつけられた彼女は、くるりとぼくの方を振り返った。
ぶきみなまでに満面の笑顔。
「お前も野菜足りてねぇよなー? ほれ、遠慮せずに食え食え」
のぞきこんだ皿の中では、細切りにされたニンジンやキュウリ、半透明の春雨が渦をまいていた。
――えー……。ぼく生野菜キライ……。
「なんだよ、好き嫌いしてるとデカくなれねェぞー」
「……レヴィ、自分を棚に上げてその子に無理強いするなよ」
あきれたように彼がため息をついた。

彼がいると、なんだか彼女がいつもと違う気がして、ぼくは落ちつかなかった。


食事をすませると、彼女は彼と一緒に出かけていった。
その後も、彼は一日おきか二日おきくらいにちょこちょこ顔を見せたけれど、
ぼくは正直、彼女とふたりっきりが良かった。
ふたりだけのときは、ちょっとしつこいぐらいにまとわりついても
「んー、どうしたー? そんなに甘ったれだと外に出た時ひとりで生きてけねェぞ」
と言いつつぼくの顔を見て笑ってくれるけど、
あの男のひとがいるとき、彼女の目はぼくをあんまり見ていない。
そばに寄っても邪険にされることはないけれど、
ふたりの会話に入っていけなくて、ぼくはちょっとさみしい。


238 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:22:14 ID:ArMRWb5n

だから、ある夕方に彼女が帰ってきたとき、彼も一緒だと気づいたぼくは、がっかりした。
「やあ、元気だったかい?」
なれなれしく声をかけてくる彼を、ぼくは無視した。
「――嫌われてるみたいだ、俺」
彼ががっかりしても、ぜんぜん平気。
ぼくは彼女のそばに走り寄った。
「お、感心感心。お前、なかなか人を見る目があるじゃねェか」
なんだよそれ、と不満そうな彼を無視して、彼女は
「感心な奴にはごほうびだな。さ、メシにするか」
と言って、テーブルにごはんを広げはじめた。

ごはん中も、ぼくはずっと気が散っていた。
「これ、食べるかい?」
彼が猫なで声で機嫌をとってくるのも腹が立つし、
ぼくがそっけなくしても余裕の態度なのがまた、面白くない。
彼女と彼が一緒にいるところに、ぼくが入れてもらってる。そんなかんじ。
彼女をとられたみたいな気がして、ぼくはつまらなかった。
こんなの、ぼくひとりがコドモみたいだ……。
彼女はぼくにごはんをとりわけて、「もっと食えよ」と話かけてはくれたけど、
そうじゃないときはずっと、彼と話していた。

……つまんない!
ぼくはむりやり彼女のひざの上に乗っかった。
「――っと」
彼女はびっくりした様子だったけれど、ぼくがずり落ちないように両手をまわして支えてくれた。
ぼくは満足した。
「……ほんとにその子、レヴィのことが好きなんだな。俺には指一本触れされてくれないのに……」
「あったりめェだろ。なー? お前はあたしが大好きなんだよなー?」
彼女はぼくのわきの下に手を入れて、くるっと向かいあわせてくれた。
――うん、だいすき!
ぼくは彼女とひたいをあわせて即答した。
「くそ……妬けるなぁ……。なんだよその相思相愛っぷりは……」
彼女は面白がって、さらにぼくをぎゅうぎゅう抱きしめた。
両手で羽交い締めにされた割にはくるしくなくて、
ぼくは彼女のやわらかい体温にうれしくなり、彼女の首すじに顔をすり寄せた。


239 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:23:24 ID:ArMRWb5n

「なんかさ、その子とレヴィって似てるよね」

――ほんと?

「どこがだよ」
ぼくは嬉しかったのに、彼女がイヤそうな顔をしていて、ちょっと傷ついた。
「ん、目が大きいとことか、瞳の色とか、こう……仕草っていうか、行動とか」
「はァ? 行動!? こんな鈍くさい奴とか? こいつ、ベッドに飛び乗ろうとして床に落ちたんだぜ」
――うわー! やめて! そんなことバラさないでよ!
ぼくは恥ずかしくてうろたえた。
彼はおかしそうに声をあげて笑った。
――ひどい!
「なー? んで、知らん顔しようとしたんだよなァ?」
彼女はにやにやしながらぼくの顔を見る。

……そうだけど。
そうだけど、そんなこと彼の前で言わなくたっていいのに。
彼はようやく笑いをおさめると、言った。
「でも、やっぱり似てるって。
何も無いときはゴロゴロしてよく寝てるところとか、
警戒心強い割に一度信頼した人には気を許すところとか」
「……うるせえな。知ったような口きくんじゃねェよ、ロック。あんたはソーシャル・ワーカーかよ」
お前もなんか言ってやれよ、とくすぐられて、ぼくは彼女の手の中で身をよじった。

ぼくは、しあわせだった。


けれど、気がつくとやっぱり、彼女は彼の方を向いているのだった。

あれ、どうなったっけ? 
昨日のやつか? 
そう。 
あれは片づいた。 
そうなんだ。
ちょろかったぜ。こいつでもできる。 
そんな。でも、お疲れ様。 
ああ、後であんたにまわしとく。
分かった。 
明日は? 
特になにも。 
ふーん。 
どうする? 
どうでも。 
そうだなぁ……。  

ぼくにはふたりがなにを話しているのか、ぜんぜんわからなかった。

ぼくは、部屋のすみに彼女が作ってくれた小さなベッドでまるくなった。
ふたりが話している声を聞いているうちにねむくなってきて、そのうちぼくは寝てしまっていた。


240 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:24:14 ID:ArMRWb5n

 * * *

ぼくはぐっすりねむっていたけれど、なにか物音が聞こえた気がして目がさめた。
目を開けてみると、部屋の中は暗かった。
……まだ夜みたい。
そう思って寝なおそうとまぶたを下ろしたとき、また音がした。

「…………ぁ……………………っ」

今度は確かに聞こえた。
空耳なんかじゃない。
彼女の声のように聞こえた。
押し殺した、とても小さな声だったけれど、それは確かに、彼女の声だった。
ギシ、とベッドがきしむ音もした。

ベッドの方に頭をめぐらせてみると、くらやみの中で、
あおむけになって横たわる彼女に、彼がのしかかっているのが見えた。

「――――――ん……っ!」

彼女がくるしそうに息をつめる。
彼女の両手を押さえこんだ彼が、彼女の上で体をゆらすたびに、
彼女は眉をゆがませて小さくもがいた。

――いじめないで……!

ぼくは彼が彼女に乱暴しているのかと思って、止めに入ろうとした。
……でも、なんとなく思いとどまった。
彼女の声はとてもくるしそうだったけれど、なんだかそれだけじゃない、
背中がざわつくような、どこか甘いのに似たなにかを感じたから。

「……ん、――――ぁ…………ッ」

彼女の喉がふるえて、大きな吐息があふれた。
息が乱れている。
肩に力が入って、彼女の上半身がちょっと反った。
彼に押さえつけられた彼女は、いやがるように体をよじる。
そむけた顔が枕にうずめられた。
彼女がぎゅっと目をつぶって顔をゆがませても、彼は動きを止めなかった。
みっしりと彼女を押しつぶす。
彼女の喉が、短く鳴った。

――やめて!

ぼくが立ちあがろうとしたそのとき、押さえつけられていた彼女の手が、彼の背中にのびた。
そして、彼の体に両腕をまわして、ぎゅっと抱きしめる。
彼女のひたいが、彼の首すじに寄せられた。

――いやがってるんじゃ、ない……。


241 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:25:18 ID:ArMRWb5n

ぼくはようやく、自分の勘違いに気がついた。
彼女がいやがっているわけでも、彼がいじめているわけでもなかった。
彼が押さえつけてるように見えた手は、そうではなくて、重ねられていたのだった。

彼女は、彼の動きにあわせて体を波うたせた。
のびやかな腕が、彼の背中にからみつく。
腕の筋がうきあがるくらいに強く抱きしめても、彼の体はびくともしなかった。
ぼくを抱いてくれたときには、決してしてくれなかった強さ。
ぼくがされたら、きっとくるしくてつぶれてしまう強さだった。

彼は、彼女のうかせた頭の後ろに手をやって、すくいあげるように彼女を抱いた。
ふわり、と彼女のやわらかな胸が彼の平らな胸と、かさなった。
つつみこむように、彼は彼女の体を抱き寄せる。
彼女がぼくにしてくれたよりも、ずっとずっと、やさしい抱き方だった。


ああ、彼は彼女のことが、とてもすきなんだ――。
ぼくは思った。
だって、わかる。
ぼくも彼女のことがすきだもの。

そして、彼女も彼のことが、とてもすきなんだ……。
彼女はぼくにやさしくしてくれた。
でも、ぼくはわかってしまった。
彼に対する気持ちとぼくに対する気持ちは、まったく別のものなんだということが。


頭を枕の上に戻した彼女は、彼を見あげた。
ふたりは目をあわせる。
なにかを確かめあうように。
彼の指が、彼女のひたいにふれた。
ゆっくりとこめかみの方にすべらせ、てのひらで彼女の頬をつつむ。
そして、どちらからともなく、ひっそりとほほえみあった。

彼女のその顔は、ぼくが見たことのないものだった。
彼女はぼくによく笑いかけてくれたけど、
こんなふうに、目もとと口もとがゆっくりとほどけるような笑い方をしてくれたことはなかった。

ふたりは、唇と唇をかさねた。
おたがいの唇をあじわうようにかさねあって、ちょっと離したかと思ったらまたすぐにかさねた。
彼はやさしい手つきで彼女の頭をなでた。
彼女も、彼のうなじに手をのばしてまさぐった。
彼女の喉の奥から、声がもれる。
今度は、くるしさよりも甘さの方がまさっていた。
……ぼくが聞いたことのない、彼女の声。
そうやって長いこと唇をかさねた後、ふたりは視線をからませて、またちょっと笑った。


242 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:26:10 ID:ArMRWb5n

彼は上半身を起こすと、腰と背中を支えて彼女のことも起き上がらせ、自分のひざの上に乗せた。
彼の上にまたがるように座った彼女は、じっと彼を見おろす。
彼女が彼に顔を寄せると、わきから長い髪がさらりと落ちてきて、ふたりの顔をかくした。

彼の手が、そっと彼女の腰を自分の方へと引き寄せた。
それにこたえるように、彼女の体はすこしずつゆらめき出す。
彼女は寄せていた顔をあげて、両腕を彼の首にまわした。
彼の作り出す波にあわせるかのように、彼女は微妙に上下しながら体をくねらせる。
平面的でしっかりとかたそうな彼の背中にくらべ、彼女の背中はやわらかく、しなやかだった。
背骨が、くにゃりとたわむ、やわらかいなにかでできているんじゃないか――。
そう思うくらい、彼女の背中はなめらかにしなった。
窓からさしこむ弱々しい月あかりの中に、ふたりのシルエットが黒くうかびあがっていた。

彼女と彼の体は、同じリズムでゆらめいていた。
まるで、ひとつの小舟に乗ってただよっているみたいに。


ぼくはなんとなく気づいていた。
これが“ヒト”の交尾なんだろう、ってことに。

それは、ぼくが本能で知っているものとはずいぶん違った。
交尾は子孫を残すためのもの。
だから、オスがメスに挿入して、すみやかに射精すれば終わり。


なのに、彼女と彼は、波間をただようようにゆるゆるとつながり続けている。
射精することより、抱きあったり、唇をかさねたり、なであったりすることの方が大事だというように。

彼は、ひざの上に乗った彼女の首すじに唇を寄せて、静かに押しあてた。
彼女の頭が、かくんと、すこし落ちる。
彼のてのひらは、彼女の胸をやわらかくつつみこんだ。
そして逆のてのひらは、彼女の腰から背中へと這いのぼっていく。
彼は唇を首すじから離すと、
彼女の背中を自分の方へと引き寄せて、てのひらでつつみこんでいた胸の先を口にふくんだ。
彼女の体が、うねるように反り返った。
長い髪がふわりと宙にゆれる。
うすやみの中で、彼女のとがった顎から喉もとのラインが、くっきりとした線をえがいた。


243 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:27:42 ID:ArMRWb5n

彼女が自分で動いているというより、
下から彼につき動かされているといった方がよいほどに動きがはげしくなると、
彼は、おさえきれないというように彼女をかき抱いて、そのまま押したおした。
彼の腰が、彼女に強く押しつけられる。

「――――――――ッ!」

彼女が、声にならないかすかな音をもらした。
ベッドが大きくきしむ。
彼女のふとももが、ぎゅうっと締まった。
おおいかぶさった彼は、彼女に体をぶつけるように大きく上下した。
最初とはくらべものにならない勢いで。

「――――ぁ、あ…………っ」

吐息でふくらんだ、彼女の甘くるしい声がもれた。
湿った呼吸が、不規則にみだれる。
ふとももにはきゅっと筋がうき、ひざやふくらはぎにも力が入って、細かくふるえていた。
彼女はぎゅっと目をつぶって、きつく眉を寄せた。
彼は動きを止めない。

……でも、ぼくはもう、彼が彼女をいじめてるんじゃないことを知っている。
彼は彼女におおいかぶさっていても、彼女に体重がかからないように、腕で自分の体を支えていた。
…………最初から、ずっと。

ベッドのきしむ音が、絶え間なくひびいた。
彼女は喉をさらして、噛みしめた歯の奥で小さく鳴いた。
喉の中で小動物が一匹つぶれたような、高くふるえた音だった。

はじめにふたりがかさなっていたときには上掛けがかかっていたけれど、
向かいあって座ったときにすべり落ちてしまって、
今、ふたりの体をおおいかくしているものはなにもなかった。
彼女と彼はぴったりとくっついて、くるおしく相手の体をゆらしていた。
求めあっているのか、それとも、与えあっているのか。
ぼくには、そこまでわかるはずもなかった。

彼の体は何度もはげしく彼女の体に沈み、
彼女もそんな彼をむかえ入れるように受けとめた。
つめていた息を吐く呼吸音と、ふたりの喉が小さく鳴る音が、ぼくの耳をうった。
ふたりの呼吸は、空気をしっとりと湿らせていた。
ベッドのまわりには、透明なもやがかかっているように見えた。
どこかで、とろみのある液体をかき混ぜるような音もする。
ぼくは、甘い潮のかおりをかいだ気がした。


244 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:28:43 ID:ArMRWb5n

と、突然、今まではげしく体をゆらしあっていたふたりが、ぴたりと動きを止めた。
先に動きを止めたのは、彼女。
全身をこわばらせてから、彼にすがりつくように何度か小さく体を波うたせた。
そんな彼女に追いうちをかけるように強くゆさぶったかと思うと、すぐに彼の動きも止まった。
でも、腰だけはまだ終わっていないというように、彼女に向かってぐっと沈んだ。

ふたりの筋肉は数回、淡いふるえをくり返したけれど、
それはだんだんと間遠に、弱々しくなっていって、ついには完全に力がぬけた。
後には、ふたりの荒い呼吸だけが残った。

こわばっていた体をゆるませたふたりは、最後にまた唇をあわせた。
おさまりきっていない呼吸に、胸を上下させながら。
唇を離して、おたがいの目の奥をのぞきこむように見つめあった後、
ようやく、からみあった体をほどいた。


……ぼくの見たものは、ほんとうに“交尾”だったのだろうか。
ぼくは混乱していた。
彼が彼女の首すじを噛んで押さえつけることもなかったし、
性器を引きぬくとき、彼女が悲鳴をあげることもなかった。
彼女が最後に、彼をはねのけて逃げることだって。
ぼくたちがするような交尾とは、ぜんぜん違った。

ふたりが体を引き離したとき、彼女は一瞬まぶたを閉じて息をゆらしたけれど、
それはただ、体の中にたまっていた熱があふれ出しただけのように見えた。

ふたりは足もとの方でくしゃくしゃになっていた上掛けをかけなおした。
彼女は、もぞもぞと寝場所をさがすように、彼の胸もとで身じろぎをした。
彼はそんな彼女の首すじをなぞり、髪を指にからませていた。
「おやすみ、レヴィ」
彼がささやいた。
くぐもった音を、彼女は短く返した。
やがて衣ずれの音も静まり、ふたりはやみの中に沈んだ。


ぼくはそっとベッドサイドに歩み寄った。
ふたり寝るといっぱいになってしまう狭いベッドで、
彼女と彼は、寄りそうようにしてねむっていた。
彼女は、彼の腕と胸とが作り出す狭いすきまにうずまっていた。
くるんと肩をまるめ、両手を折りたたんだ姿勢で、コンパクトにまとまって。

そこに、ぼくの入れるすきまは、どこにもなかった。


ぼくは窓わくにとび乗った。

お別れのときが、きたのだ。



245 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:29:35 ID:ArMRWb5n

できることならもっと一緒にいたかったけれど、もう限界みたい。
ぼくは、わかっていた。
これ以上ここにいると、彼女が見たくないものを見せてしまう。

『あたしの目の前で死なれたんじゃ、後味悪ィんだよ』

そう言った彼女に。


彼女のせいじゃない。
彼女はぼくの怪我を手当てしてくれた。
彼女のおかげで、外側の傷は、ずいぶん良くなっていた。

……でも、体の中の方が、もうだめそうなんだ。
最近はなんだか体がだるくて、食欲もあんまりわかなかった。
でも、あとちょっとでも長く一緒にいたくて、ぼくは知らないふりをしていた。

おいしいものを食べさせてくれて、暖かい寝床をくれて、やさしくなでてくれた彼女。
ぼくは彼女がすきだった。
でも、ぼくはいつも彼女になにかしてもらうばかりで、
ぼくが彼女にしてあげられることはなにもなかった。

ぼくは彼がうらやましかった。
彼女に一番すかれているから。
それもある。
けれど、彼女をほんとうによろこばせることができるのは、たぶん彼だけだったから。

ぼくは、彼女をやわらかくつつみこむ彼の腕がほしかった。
そして、彼の声がほしかった。
「ありがとう」
って彼女に言うための声が。

ぼくは彼女に言いたかった。

「部屋に入れてくれてありがとう」
「ごはんを食べさせてくれてありがとう」
「怪我の手当てをしてくれてありがとう」
「一緒にねむってくれてありがとう」
「そばにいさせてくれてありがとう」
「やさしくしてくれて、ありがとう」

でもきっと、ぼくの声じゃ、通じない。


そんなぼくにできる恩返しは、もうこれしか残っていない。
せめて、彼女に後味の悪い思いをさせたくなかった。

ぼくは、ほんのすこし開いた窓のすきまに手をさし入れて、広げた。
ゆらっと窓が外側に開く。
ちょっとだけ大きくなったすきまに頭を通そうとして、
ぼくはもう一度、窓わくの高さからふたりを見下ろした。

――ありがとう。

そしてぼくは、夜の中にとび降りた。


246 :ロック×レヴィ 居候  ◆JU6DOSMJRE :2010/04/10(土) 22:30:21 ID:ArMRWb5n

ぼくは音もなく路上に着地すると、彼女の部屋の窓を見あげた。

さよならは、言いたくなかった。
さみしくなって、お別れできなくなりそうだったから。
彼女は、ぼくがいなくなって、ちょっとはさみしいって思ってくれるかな。
ぼくだけがさみしいのは、すこし悔しい。

……ああ、でもやっぱり、そうじゃない。

彼女には、さみしがってほしくなんかない。
短いあいだだったけど、ぼくと一緒にすごした日々が楽しかった、って思っていてほしい。
……ぼくが思ってる半分でも、――ううん、十分の一でもいいから。
ちょっとでも、楽しかった、って思ってくれるといいな。

ヒトは、ぼくたちが九つの命を持っていると言うけれど、それってほんとかな?
ぼくにはよくわからないし、ヒトは嘘つきだから、でたらめかも。
でも、彼女も“ヒト”なんだったら、ちょっとは信じてみてもいいかもしれない。

どうか、今のぼくが九回目の生まれ変わりじゃありませんように。
もし九回目じゃなかったら、来世で恩返しにいくよ。


だから、さよならじゃなくて、

――またね。








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