532 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:28:23 ID:qIW/fqg5


庇を貸して母屋を取られる。

昔の人は本当に上手い事を言った。
朝起きて自分の部屋を出たシェンホアは、リビングの惨状を前に立ちすくみつつ、そう思った。

以前、シェンホアはこの街で一番たちの悪い女二人組を敵にまわした結果、見事返り討ちに遭い、
死にかけていたところを、胡散臭いミュージシャンのような風体をした優男に助けられた。
人助けなど、私利私欲の渦巻くこの街に最も似合わぬ行為。
よくもまあ一文の得にもならない事をやるものだと呆れたが、
それでもシェンホアとて死ぬよりは生きている方が有り難い。
病院まで連れて行ってくれた胡散臭い優男ことロットンには、素直に感謝した。

それ以来、ロットンと、同じく性悪女二人にやられるも運良く生きていた掃除屋ソーヤーは、
何かとシェンホアの家に入り浸っている。

その事自体は構わない。
部屋の中でもサングラスを外すことなく、ロックミュージジャン風の格好で全身びっしりキメた男と、
がりがりに痩せた体をゴスロリファッションで包んだ顔色の悪い女が、
部屋の片隅で一心不乱にテレビゲームに興じる様は一種異様だが、
基本的に二人とも大人しくゲームをやっているだけなので、邪魔にはならない。
それに、もともとシェンホアは大家族の中で育ったのだ。
幼い時分は、実の弟妹だけではなく血の繋がらない近所の子どもたちとも、
兄弟同然にひしめき合っていた。
長女で、かつ一番年長だったシェンホアは、あれこれと年少者の世話を焼いたものだ。
だからシェンホアは、一人陰気に過ごすよりは、大勢でわいわい暮らす方が好きだった。
なので、この一風変わった二人も、何かの縁、快く迎え入れてやっていたのだ。


……しかし、しかし、ここまでの行いを許したつもりは無い!

シェンホアは、あんまりな様子のリビングを目の前に、
今起きたばかりだというのに早くも疲労が全身に巡るのを感じた。


533 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:29:41 ID:qIW/fqg5

朝からシェンホア宅のリビングを占拠しているのは、お馴染みソーヤーとロットン。
ソーヤーは土葬された人よろしく部屋の隅に小さく丸まって、ロットンは壁に寄りかかって眠っている。
二人とも夜通しここにいたのかとか、それについてはどうでも良い。
許せないのは、つけっぱなしのテレビ、
エンドレスで電子音楽を垂れ流しながらブラウン管の上に固まっているゲームの画面、
放り出されたままのゲーム機とコントローラー、
夜中に腹でも減ったのだろう、散らばったスナック菓子の空き袋やカス、
そして何より、ここは冷凍庫かアラスカかと思う程ガンガンにきいたエアコン!
部屋のドアを開けた途端流れ込んできた冷気に、あいや、気持ち良いね、と思わず涼みかけたのはほんの一瞬だ。

――ふざけるないね! 一体いくら電気代かかる思うてますか!

一晩中この温度でエアコンを入れっぱなしだなんて、今月の電気代はどんなことになるのだろう。
想像するだけで恐ろしい。
家主であるシェンホアが寝苦しいのを我慢してエアコンなしで眠っているというのに、厚かましいにも程がある。
シェンホアはエアコンを止めるべく、足音荒くリモコンの探索に取りかかった。

自分がいつも置いている所定の場所には見当たらない。
とりあえずゲーム機の電源を切り、テレビを消す。
大人三人はゆうに腰掛けられるカウチの上――無い。
刺繍の入ったクッションの下――無い。
小さなチェストの隙間――無い。
カーテンの下――無い。
立ったりしゃがんだりする度に、
先の仕事で、泣く子も黙るロシアン・マフィアの女ボスに頂戴した脚の傷が疼いて辛い。
ようやく杖無しで歩けるようになったばかりなのだ。
立ち上がると、血が脚の方にざぁっと下がってきて、脈打つようにずきずきと痛んだ。
シェンホアの苛立ちは更に増す。

――このゴミ溜め、どういうことね! 私、一等きれい好きよ!

衣食住足りて礼節を知る。
昔の偉い人の教えの通り、
シェンホアは、常に服も髪も化粧もぬかりなく整え、朝昼晩きっちり栄養のある食事をとり、
掃除も洗濯も万全、部屋はきれいに片づけ、居心地の良いようにしつらえている。
ただ一点、マンハントという物騒な仕事を生業としている以上、
「礼節を知る」と言えるかどうかについては異論を差し挟む余地のあるところだが、
――とにかく。
チャイナドレスの下の太腿に装備したクナイや、
壁に掛かってはいるが決して飾りなどではない刃物にさえ目を瞑れば、
シェンホアの暮らしはとてもまっとうだ。
……少なくとも、シェンホア自信はそう自負している。

それがなぜ、自分の部屋の床にいかにも健康に悪そうなスナック菓子の空き袋などが散乱しているのだろう。
悲しくなりながら、シェンホアはガサガサとゴミを回収する。
床の上には使い終わったコップまで鎮座している。
白っぽく濁ったグラス、これはミルクを飲んだのだろう。
ミルク。大いに結構。
良質なタンパク質やカルシウムが摂れる。
大変健康によろしい。
けれど。

――使うましたらちゃんと洗うね!

ミルクを飲みっぱなしでグラスを放置されると、ミルクの飲み残りが乾燥してこびりつき、
洗ってもすぐにはきれいにならない。
せめて水につけておいてくれれば良いのに……。
しかし、そんな気遣いはこの二人には毛ほども無いらしい。


534 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:30:36 ID:qIW/fqg5

ゴミとグラスでシェンホアの両手が一杯になった時、
ようやくそのゴミの下からエアコンのリモコンが発掘された。

シェンホアは一度台所へ行ってゴミを捨て、洗い桶に水をためてグラスをひたしてから
すぐにリビングへ戻り、エアコンのリモコンを手に取った。
何気なく表示された設定温度を見て、シェンホアの両目は飛び出しそうになった。

――18度!?

思わず二度も見てしまったリモコンの表示画面には、確かに18という数字がくっきりと浮き上がっていた。
18度とは、冷房の設定温度として有り得る数字だったか?

――えと、私、いつも設定温度、何度にしてるましたか……?

冷房として常識的な数値が分からなくなって、シェンホアは一瞬混乱したが、すぐに思い出した。

――28度ね!

冷やしすぎはお財布にもお肌にも良くない。
シェンホアは猛然と設定温度を上げるボタンを連打して、親の敵とばかりに怒りを込めてスイッチを切った。
その勢いのまま窓を開けると、外はまだそれほど暑くない。
これくらいなら風を通していれば充分快適に過ごせる。
それに、部屋の隅でダンゴ虫になっているソーヤー、彼女のあの様子を見ると寒いのだろう。
いつも青白い顔が、更に血色が悪くなっている。
だったらこんなに寒くするんじゃないと怒鳴りつけたいが、仕方ない。
起こして温かいものでも食べさせよう。
そう考え、シェンホアはソーヤーの薄い肩を揺さぶった。

「ソーヤー、ほれ、起きるね。もう朝ですだよ」
彼女はもぞもぞと身じろぎをしてから、眠そうに瞼を上げた。
「シェ…んホア…? ……まダ…眠イ…」
「夜更かしするからですだよ。眠い思うてもお天道様の光浴びれば、これ、オーケーね」
さぁ起きた起きた、とシェンホアはソーヤーの細い腕を取って起き上がらせる。
「お宅もささと起きるよ!」
今度は壁に寄りかかって寝ているロットンに声をかける。
「……む、……良い朝だ」
おはようの挨拶ぐらいもっと自然に言えないのか。
シェンホアは、壁によりかかったまま斜め下を向き、
黒いレンズの入ったサングラスの真ん中、ブリッジの部分を勿体つけて中指で押さえるロットンを、
うんざりした思いで見た。
が、今はそれよりも、この二人に言い渡しておかねばならない事がある。

「あんたら、私の部屋でテレビとエアコン一晩中つけたままおねんね、とても良い度胸ね。
18度、これ冷房の温度違うますよ? ここ、ノーあんたらの部屋、私の部屋ね!
ゴミ出るましたら捨てる! 食器使うましたら片づける! 
次しましたら窓から放り出してやるですだよ。良いか?」
床に座った寝ぼけ眼の二人を目の前に、シェンホアは仁王立ちで宣告した。
「分かるましたか? 返事は?」
「……はイ」
「……心得た」
態度だけはしおらしい二人を前にシェンホアは、ふぅ、と小さく息をついた。


535 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:31:31 ID:qIW/fqg5

「反省するましたら良いですだよ」
しゅんと項垂れる二人を見ていると、なんだかこっちが悪者のような気分になってきて、
シェンホアは早々に説教を切り上げた。

「さてソーヤー、ロットン、朝ご飯はどうするますか?」
片づけと説教で時間を取られたが、軽く何か作って食べようと、シェンホアは台所へ向かった。
冷蔵庫には何が残っていたっけ、そんな事を考えていると、
ソーヤーの機械を通したかすれ声が雑音混じりに聞こえてきた。
「いらな…イ」
「はぁ? 何言うね。朝ご飯抜く、ノーよ。力出るないね」
「食べたク…ナい」
「昨日の夜、そんなに食べるましたか? 夕ご飯、何でしたね?」
まったく、この鶏ガラ娘は胃まで小さいのだろう。
夕飯を食べた上に夜食にあれだけ菓子を食べれば、まだお腹がいっぱいなのかもしれない。
シェンホアはそう思ったのだが。

「ラッ…ふルズ…」
「それ、おやつね」
「…スなイ…ダーズ」
「それもおやつね」
「……」
それもこれも、空き袋がさっき片づけたゴミの中にあった。
「私聞いてるますは菓子じゃない、夕ご飯ですだよ」
「……」
「夕ご飯は何食べるましたか?」
妙に口の重い娘を、シェンホアは問い詰める。

「……食べて…なイ…」
「えええ!?」
ソーヤーの答えに、思わず、シェンホアの声は裏返った。
この娘、夕飯も食べないで夜中に菓子ばかり食っていたのか。
「じゃ、昼は? 昼は何食べるましたか?」
ずい、とソーヤーに詰め寄ると、彼女は崩れかけたマスカラの乗った睫を気まずそうに伏せた。

「……バ…スキン・ロビんス…の…オれンジ・シャー…ベット…。…こレ、とても…おイしい…」
「アイスはご飯に入るません!」
嫌な予感がしたが、やっぱりだ。
アイス・シャーベットだけで昼を済ませるなんて、何を考えているのだ。
しかも、本人も微妙に気がとがめていそうではあるのに、やたらと具体的だ。
フレーバーも、ましてやそれが美味いかどうかも、誰も聞いていない。

――決めるました!

「ソーヤー、あんた全然栄養足りるないね。今、美味いものこしらえるますから、ちょっと待つね」
この枯れた小枝のような娘に、まともな人間らしい食事をさせてやろう。
シェンホアはそう決意して、憤然と台所へ向かった。
「いイ…。食欲、ナ…い」
「いい、じゃないですだよ! おりこうに待っとれ!」
「……」
不健康娘を黙らせて、シェンホアは颯爽とエプロンをつけた。
腰の後ろで、きゅっと紐を結ぶ。

――私、料理得意ですだよ。私の料理まずい言う人、これ、味覚音痴ね。

食欲が無かろうが何だろうが、絶対に食べる気にさせてやる。
使命感に燃えたシェンホアは、勇んで冷蔵庫を開けた。
「――――」
しかし、冷蔵庫の中の光景を見て、シェンホアは唖然とした。


536 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:32:36 ID:qIW/fqg5

――ミルクが……増えとるます……?

冷蔵庫には、シェンホア宅に入り浸るロットンの為にミルクを常備している。
そのミルクの本数が、昨日シェンホアが見た時よりも明らかに増えている。
昨日だって一リットル入りのミルクが五本も入っていたというのに、
今、目の前に八本のミルクがずらりと立ち並んでいるのはどういうわけか。
ミルクとは、人が見ていないところで増殖するものだったか。
シェンホアの頭は痛くなる。
ここタイのミルクは、溶けたシェイクかと思うほど甘くしてあるものが多い。
なので、無糖のお気に入りを買い込みたい気持ちはシェンホアにも分かる。
分かるが、一本一リットルもある上に消費期限だって短いミルクをこんなに買い込んでどうしようと言うのだ。
手近の一本を取ってみると、消費期限は今日だ。
こんなに飲みきれるわけがない。

……決まった。
今朝のメニューはミルク粥だ。
粥ならば、食の細いソーヤーも食べられるだろう。
本当はもっと身になる肉でも食べて欲しいが、そんな重いものを出しても手をつけてくれないだろう。
それでは意味が無い。
そう判断して、シェンホアは手早く米をといだ。
水と一緒に米を強火で煮立て、チキンコンソメを入れる。
その間に青ネギを細かく小口切りに切る。
米の鍋が沸騰したら火を弱火にして、ふつふつと煮つめる。

煮詰まるまでの時間で何か果物でも切ろうと、シェンホアは冷蔵庫を開けた。
確かマンゴーを入れておいたはずだ。
シェンホアは野菜室からマンゴーを取り出し、種のところを避けて切り分けた。
ナイフはするりと果肉に入っていく。
果肉を切り取った後の平べったい種に残った果実を吸ってみると、とろりと甘い。
ちょうど良く熟れて、まさに食べ頃。
濃い黄色をしたマンゴーを食べやすく切り分け、二人分の皿によそってやった。

「ほーれ、あんたら、ご飯できるますまで、これ食べるよろしいね」
とん、と皿を背の低いリビングテーブルに置いてやると、二人は興味深げにじりじりとにじり寄ってきた。
「マンゴーですだよ」
皿の前に行儀良く正座してフォークを取った二人は、粛々とつつき出す。
「――美味いか?」
こくりと、無言で頷くのはソーヤー。
「…………美味いな」
無駄な美声で感想を述べるのはロットン。
それにしてもこの男、いちいち開いた手を顔の周辺に持ってこないと気が済まないのだろうか。
いくつもの指輪をはめた手を口元にかざしてポーズを取る様は、
斜めにした首の角度だの伏せた目線だの手の角度だの、絵にならない事は無いが、
マンゴーが美味かったぐらいの事で、正直少しうざったい。
これがスポットライトに照らされた舞台の上ならば、女子の黄色い声のひとつやふたつ飛ぶだろうが、
ここは、さして広くもないただのリビングだ。
そして、目の前にはマンゴー。
その整った容姿も、美声も、無駄遣い以外の何者でもない。
場違いなこと甚だしいが、これしきの事を気にしていたら精神が保たない。

「それは良いでした。もうそこしで粥もできるますよ」
シェンホアは気にしないことにして、台所へ戻った。


537 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:33:58 ID:qIW/fqg5

鍋の中では良い具合に米が煮詰まり、とろりとした半透明の液体からぷつぷつと小さな泡が出ていた。
普通の粥より少し粘度が高いぐらい。
これで良い。
シェンホアはミルクを取り出すと、粥の鍋にとぽとぽと注ぎ込んだ。
鍋の中の粥が不透明な白みを増す。
お玉でぐるりと大きくかき混ぜ、塩こしょうで味を整え、味見をしてみると、ちょうど良い。
ミルクがまろやかに溶けた米つぶに絡みつき、コンソメの塩みも良い具合にきいている。
少し深めの器を三つ出してよそい、粉チーズをふりかけ、
さっき切った青ネギを上からぱらりと散らせば出来上がりだ。

「お待たせするました」
きれいにマンゴーを食べ終わっている二人の前に、シェンホアはトレイに乗せた器を運んだ。
「ミルク粥ね。これならお腹もたれるないよ」
粥の熱で、粉チーズが程良く溶けてきている。
ちゃんと米から作ったので、どろどろと嫌な感じにはなっていないはずだ。
木の匙を添えてやると、さっきまでいらないと言っていたソーヤーも匙を手に取って、
つんつんと粥をつついている。
そして、先の方でちょっとだけ掬い、小さな口でふぅふぅと息を吹きかけた。
ロットンは神妙な顔で匙を口に運んでいる。
その二人を横目で見ながら、シェンホアも改めて粥を口に運んだ。
ミルクのやわらかい甘さにチーズがこくを加えていて、とろみも理想的。
我ながら美味く出来ている、と思う。
「お…イしい」
「……とてもナイスだ」
シェンホアは、二人のその誉め言葉に満足する。
「おう、お代わりあるですだよ。沢山食べるね」
二人はもくもくと匙を口に運んでいる。
自分が作ったものを美味しいと喜んで貰えるのはとても嬉しい。

ほくほくと気分よく食べ終え、きれいに空になった二人の容器も一緒に下げ、
洗い物をする段になって、シェンホアはハッと我に返った。

――私、なに餌付けしてるね!

自分はついさっきまで、どんどん図々しくなっていく客人に苛ついていたのではなかったか。
それが、何を間違って料理まで作って食べさせてやっているのだろう。
つい長女の世話焼き気質が顔を出してしまった。
飯など与えたら、更に居着くに決まっている。
野良犬や野良猫と同じ原理だ。
奴等は餌をくれる人のところに居着くのだ。
つい情け心を出して、何度同じ失敗を繰り返したことか。
台湾にいた頃はただでさえ貧乏だったのに、
気付いたら小さな弟妹に加え、犬猫の食い扶持までをも確保するのにあくせく働く羽目となった。
この二人に料理をご馳走してやるぐらい、何という事はない。
今回は自分がご馳走してやりたいと思って作ったのだし、
シェンホアは大勢で賑やかに過ごすのが好きだ。
……しかし、これ以上好き放題されるのは困る。
食器を洗いながら、シェンホアはため息をついた。
思い出したように、脚の傷がずきずきと痛み出す。


538 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:34:47 ID:qIW/fqg5
――私、これ、まだ怪我人よ……。

一言ぐらい、片づけを手伝おうとか、そういう心遣いは無いのだろうか。
シェンホアは、リビングで思い思いにくつろぐ二人を肩越しにちらりと窺った。
実際に洗い物をして欲しいわけではない。
こんなもの、大した手間ではない。
しかし一言、手伝おうかと言ってくれれば、その気持ちだけで充分なのに。
掃除だって、あの二人が来ようと来なかろうとするものはするが、
二人が散らかしたものを片づけているのは誰か、分かっているのだろうか。
シェンホアはもう一度、ため息をついた。
別に礼を強要するわけではない。
自らやっている事だ。
だが、時にはちょっとばかり感謝の言葉が欲しいと思っても、罰は当たらないのではないか。

――やめるね。愚痴、みっともないですだよ。

シェンホアは、キュッと水道の蛇口をひねって洗い物を終わらせた。
リビングへ戻ってみると、二人はやけに静かだ。
ソーヤーは部屋の隅にうずくまり、
ロットンはカウチに座って長い脚を組み、小さな手帳に何やら書き留めている。

行儀良くしていてくれるなら、それで良い。
シェンホアはリビングテーブルに家計簿を広げた。
何せ、今月は大変なのだ。
この二人のおかげで電気代や食費が高くつくというのもあるが、
大怪我からようやく復帰したと思った矢先に、また脚に銃弾を頂いた。
病院代がかさんで仕方ない。

それに、仕事道具の柳葉刀。
地球外生命体としか思えぬメイドのせいで、愛用の柳葉刀が壊れた。
修理するのにまた金がかかる。

……確か記憶によると、刃の部分を歯で噛み割られた気がするが……。
冗談のような光景が、シェンホアの眼裏に蘇った。
虎だろうが狼だろうが尻まくって逃げ出したくなるようなメイドが、
シェンホアの放った柳葉刀を歯で受け止めたかと思うと、その一瞬後、柳葉刀の刃が砕け散った。

……いや、気のせいだろう。
きっと気のせいだろう。
鋼で出来た刃を噛み砕くなんて、メイドの歯は超合金か。
何かの見間違いだ。
そうに違いない。
悪夢のようなメイド襲来の記憶を、シェンホアは懸命に振り払おうとした。


539 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:35:52 ID:qIW/fqg5

「……シェンホア、聞きたい事があるのだが」
「――どうするましたか?」
急にロットンが話しかけてきて、シェンホアは慌てて意識を戻した。

「この偽りの世界、因果に縛られしそなたを解き放つは我が宿命。断罪の瞬間は来た。
そらより舞い降りし堕天使、我が命賭けて――」
「何ですねそれ」
思わずシェンホアは遮った。
何の前触れもなく寒気のするフレーズを朗々と詠じられて、シェンホアの背筋はぞわぞわと泡立った。
「……次に使う決め科白」
「…………」
シェンホアは、がっくりと全身の力が抜けるのを感じた。

そんな事ではないかという気がしたが、やっぱりだ。
毎回毎回、よくもまあ鉄火場でそんな口上を述べる暇があるものだと呆れ返っていたが、
日頃からこうしてせっせと考えていたのか。
あの切羽詰まった状況でアドリブだったなら大したものだが、
こうしてちまちまと手帳に書き留めているというのも、ある意味大したものだ。
シェンホアはため息をついた。
大体、敵を目前に滔々と決め口上を繰り出す隙丸出しのアホの子ロットンが無傷で、
敵と見れば瞬時に柳葉刀を閃かせる自分が大怪我とはどういうわけだろう。
シェンホアは全く腑に落ちない。

――真面目にお仕事してるますは私の方よ!

この男、あのメイドとのご対面の際、何か役に立っていただろうか。
思い出そうとするが、とんと覚えがない。
そういえば一度だけ、プロテクターを犠牲に盾らしきものになっていた気がするが、それだけだ。
これで報酬が同額だなんて、どうも納得がいかない。

――私、いつも貧乏籤ね……。


540 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:37:04 ID:qIW/fqg5

「…………ンホア。……シェンホア」
気が遠くなりかけていたが、ロットンの話はまだ続いていたらしい。

「まだあるか、ロットン」
「……この『そら』は、『宇宙』と『天空』、どちらの字がクールだろうか……」
「はぁ!?」
どうやら先程の眩暈がするような口上の事を言っているらしい。
「『宇宙』と書いて『そら』、『天空』と書いて『そら』、どちらが――」
「あー、そんなのどちらでも変わるないね」
「……いや、変わると思うのだが……。ちなみに、『宿命』は『さだめ』、『瞬間』は『とき』と読む」
「どっちも『そら』、同じね! クール、どっちもクールよ!」
どちらも寒いことこの上ない。
ちなみにもへったくれも無い。
なにが『宿命』と書いて『さだめ』、だ。
アホすぎる。

「……しかし、字が」
「字!? 心配するないね! お前の科白、活字になんかなるないから、安心するですだよ!」
「……ならないだろうか」
「ないない! なるわけないね! それよりロットン、あんたまた高いとこから登場する気か?」
「……駄目か?」
「駄目に決まってるます! お前の頭、豆腐ですか? 
この前アバズレも、『拳銃向きの場所じゃない』言うてましただろ?」
「……そうか」
ロットンはさも残念そうなポーズを取ってみせるが、信用できたものではない。
さくさくと一言で――もしくは一発で――この男を黙らせる、あのアバズレが羨ましくなる。
シェンホアは、アバズレこと“トゥーハンド”と呼ばれる、
悪口大会があったら地球代表にだってなれそうな二挺の拳銃使いの女の顔を思い浮かべ、
それから急いでかき消した。

――あのアバズレここに欲しい思う、世も末ですだよ。


541 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:39:06 ID:qIW/fqg5

それよりも今月の出納だ。
「……シェん…ホア」
ペンを握り直した時、すぐ耳元からソーヤーの機械を通した声がして、シェンホアは飛び上がりそうになった。
「ソーヤー! 近いね!」
いつの間にかソーヤーが、シェンホアの斜め後ろにぴたりと体を寄せていた。
半分死んでいるかのような顔色の痩せっぽちな娘は、体温も低いのだろうか。
およそ人間らしい気配がしない。

「……何か用ね?」
「肉が…欲シい…の」
「肉?」
思いもよらぬリクエストに、シェンホアは思わず問い返したが、ソーヤーはこくりと頷く。
彼女もようやく血となり肉となる物を食べる気になったのだろうか。
これは良い徴候、とシェンホアは嬉しくなる。
先程した餌付けの後悔も忘れて、シェンホアは機嫌良く請け合った。
「お安い御用ですだよ。何肉が良いね?」
「…なまニ…く」
「……生肉?」
これまた変わった好みだ。
しかし、元よりこの娘にまともな趣味など期待していない。
「……なかなかツウね、ソーヤー。ユッケか?」
問うと、今度はふるふると首を横に振る。
「ユッケないなら何か?」
首をひねるソーヤーに、シェンホアは不思議に思う。
なぜ自分からリクエストしておいて首をひねるのだろう。
「ほれ、肉言うても色々あるね。牛肉、豚肉、鶏肉……。それとも、魚肉か?」
日本人は生の魚肉、サシミというやつが好きだという事をどこかで聞いた事があるが、
もしかしてそれだろうか?
シェンホアが色々と頭をひねって並べ立てても、ソーヤーはまだ首をかしげている。
「それ違うなら何か? 言うないと分かるませんよ。……どんな料理食べるしたいね?」
シェンホアはさすがにテレパシーの能力までは持っていない。
想像するにも限界がある。
この娘は、一体何をご所望なのだろう?
シェンホアが訝しく思っていると、とんでもない答えが返ってきた。
「食べるノ…は、…ワタシじゃなイ…わ」
「え?」
シェンホアの思考は停止する。
「……じゃあ一体なに――」
すっと目の前に差し出されたソーヤーの細い指につままれてぶら下がっているものを見て、
シェンホアは今度こそ本当に後ずさった。
「――ひっ!」
親指と人差し指でしっぽをつままれ、じたばたしながらぶら下がっている生き物。
「ヤモリ!」
別に爬虫類ぐらいできゃあきゃあ言うような柄ではないが、あまりにも不意打ちだった。
さっきからやけに静かだと思っていたのは、これだったのか。
ヤモリを喜々として捕まえ、飼育したいと言っている、そういう事か。
「生肉、ヤモリにやるますのか……?」
「そウ…よ」
ソーヤーは嬉しそうに頷く。
「ふざけるないね、このアホちん! うち、ヤモリにやる餌のお金、無いですだよ!」
ただでさえ厳しい家計を如何せん、と今まさに頭を悩ませているのが分からないのか、
とシェンホアの堪忍袋の緒は今にも切れそうだ。
「ダ…め……?」
「駄目ね! うち動物園違うますよ!」
絶対に許すものか、とシェンホアは眦を上げた。
「……分かっ…タわ」
しょんぼりと肩を落とし、すごすごと引き下がるソーヤーを見ると
仏心が沸き上がりそうになるが、ぐっと抑える。


542 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/01(木) 21:40:16 ID:qIW/fqg5

そもそも、ヤモリは生肉など食べるのだろうか。
生きた昆虫とか、そういうものを食べるのではなかったか。
シェンホアは思ったが、そんな事を言ったら今度は家中が虫で溢れ――――

「ソーヤー!!」

つい大きくなったシェンホアの声に、ソーヤーはびくっと振り返った。
「あんた、仕事場から生肉調達して来るないよ!」
彼女は“掃除屋”。
その気になれば、喫茶店から角砂糖を失敬してくるたやすさで、新鮮な生肉がいくらでも手に入る。
それに気付いて、シェンホアは青くなった。
ソーヤーの目に残念そうな色が浮かんだところを見ると、釘を刺しておいて大正解だったらしい。
そんなもの持ち込まれたら、ヤモリの大好きそうな蛆までわいてしまうではないか。
ソーヤーとヤモリはご機嫌だろうが、シェンホアはたまったものではない。

「ソーヤー、ヤモリ、ちゃんと逃がすですだよ。
ヤモリ、狭いとこ閉じ込めるされますより、広い外、よりハッピーね。オーケー?」
「……オー…ケー」
口約束だけでは心許ない。
しっかり外に逃がすところまで監視して、シェンホアはやっと一息ついた。

――疲れるました……。

まだ太陽は燦々と空高く輝いているというのに、この疲れようは何だろう。
シェンホアは脚の傷が癒えるまでは仕事の依頼を受けるペースを落とすつもりでいるが、
この二人は碌に怪我もしていないくせに、出かける気配が全くない。
そっと様子を窺っていると、ソーヤーはゲーム機ににじり寄っていって、電源を入れた。
それを見て、ロットンもいそいそと参加する。
……この調子では、また一日中居座る気だ。
それが悪いとは言わないが、ゲームから流れてくるのっぺりした電子音楽が、
シェンホアのささくれかけた神経に障った。

「……ちょと買い物に出かけるます」

気分転換が必要だ。
そう思い、シェンホアは身支度をして部屋を後にした。
二人はゲームに熱中していて、振り返りもしない。
上げられた二人分の片手だけが、ひらひらと「いってらっしゃい」と言っていた。


553 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:44:29 ID:D/UfmGvZ


 * * *

部屋の主である自分が、どうして追い出されないといけないのか、
いや、追い出されたわけではないが、なぜこんな事に……。
表の通りをとぼとぼと歩くシェンホアは情けなくなったが、
せっかく出て来たのだから用事を済ませよう、と頭を切り換える。
傷薬、包帯、それからシャンプーの予備も無くなっていたはずだ。
冷蔵庫は林立するミルクに占拠されるばかりで、肝心の食材はほとんど使い切っている。
まず市場に行って、足りないものは雑貨屋と薬局で調達すれば良い。
頭の中でそうプランを組み立て、シェンホアはまず市場へと足を向けた。


市場は込み合っていた。
軽く食べられるものを出す屋台や、野菜や果物、肉といった食材を売る店、
こまごまとした日用品を売る雑貨屋、安っぽい洋服屋、胡散臭い宝飾品を売りつける店、
どこから拾って来たのか分からないがらくたを並べる店、そんな小さな店が立ち並び、大勢の人で賑わっている。
当然のように、銃だの弾丸だのナイフだのを売る店があるのが、この街らしいといえばこの街らしい。
そんな店を覗きながら、さて何を買おう、と物色するのは楽しい。
シェンホアが、色とりどりの野菜や果物が並ぶ青果店の屋台の前に差し掛かった時、
前方に見覚えのある二人組が見えた。

――おや、アバズレとボンクラね。

海賊まがいの運び屋をやっているラグーン商会の二人組。
触るな危険、とばかりに街中の人間が警戒している二挺拳銃の女、レヴィと、
鈍くさいくせになぜかこの街に馴染んでいる日本人の男、ロック。
この二人と組んだ初めての仕事の際は、
書類を持っていながらまんまと拉致されたボンクラことロックを仕方なく助けに行ってみれば、
実は全てあのアバズレの狂言だったと後から分かった。
シェンホアはすっかり良いように踊らされて、腹立たしいことこの上ない。

その二人、そもそもは身代金目的でレヴィがロックを拉致したのだと聞いた時は、大層驚いたものだ。
今では生まれた時から一緒にいますという雰囲気で、当たり前のような顔をして並んで歩いている。
同僚だろうがなんだろうが、オフの時まで一緒にいる必要はなかろうに、
街の中でどちらかを見つければ、大抵もう片方が側にいる。
まさに、縁は異なもの味なもの、だ。


554 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:45:48 ID:D/UfmGvZ

二人は何か買い物をし、店員から茶色の大きな紙袋を手渡された。
レヴィが受け取り、左腕で抱えるように紙袋を持った。
すると、隣にいたロックが何か彼女に話しかけた。
レヴィは、いい、というように首を横に振る。
彼が荷物を持つ、と言っているのだろう。
そういえば、先の荒ぶるメイドの件では、レヴィも腕を負傷していたはずだ。
見ると、彼女の右腕にはまだ包帯が巻いてある。
少しの間押し問答をしていたようだが、結局、レヴィは紙袋をロックへ渡すことにしたらしい。
半身を彼の方に寄せるようにして差し出した。
ロックは、紙袋とレヴィの体の間に手を滑り込ませて紙袋を受け取る。

――ボンクラにしては、なかなか気利くますね。

彼がレヴィの右側を歩いているのは、意図的なことなのかそうではないのか、
それはよく分からないが、二人は人混みの中でもはぐれることなく、言葉を交わしている。
猛獣か爆弾かと恐れられていても、ああやって笑っているとレヴィも普通の女に見える。

……ただし、M字開脚で露天商の前に座り込み、嬉しそうに中古の銃を吟味していなければ。

せっかく二人で買い物に来たのなら、洒落たワンピースの一枚でもねだってみれば良いものを、
とシェンホアは呆れる。
レヴィは休日であろうとなんだろうと、いつ見てもボロ雑巾みたいな黒いタンクトップと、
裾がかぎざきになったデニムのホットパンツを着用している。
無駄な脂肪が一切ついていない引き締まった体は一級品であるし、
目つきと口が絶望的に悪いだけで、顔面の造作は充分すぎるほどに整っているのだ。
女らしいワンピースだって、似合うだろう。
彼女が欲しいと言えば、ひらひらした服の一枚や二枚、彼は喜んで買ってくれるに違いない。
男の気を引くために洒落た格好をするのは馬鹿らしいとは思うが、
それ以前に、女ならば、ちょっとは小綺麗な格好をしてみたいとかいう欲求は無いのだろうか。

だが、彼女の興味は相変わらず無骨な鉄の塊にしか無いようで、
彼の方も後ろから覗き込んでは肩越しに何か話している。

本人達がそれで良いのならば良い、が。
それにしても、あの二人は一体どういう事になっているのだろう、とシェンホアは途方に暮れる。
こうして見ていると、ただの――ではないが、ちょっと変わった――仲良しカップルにしか見えないのだが、
本人達はあくまでも同僚です、という姿勢を崩さない。
もう面倒くさいから、さっさとくっつけば良いのに。
シェンホアはいささか投げやりな気分になってくる。

シェンホアとて、恋だの愛だのにうつつをぬかす十代の女子ではない。
誰と誰がくっついたのくっつかないの、そんな事に興味は無い。
しかし、あの二人は本当に面倒くさいのだ。


555 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:46:29 ID:D/UfmGvZ

いつだったか、朝っぱらからレヴィが眠たそうにしていたので、
「おう、昨夜はボンクラとお楽しみか?」
と声をかけたら、さぁっ、と彼女の目元が赤く染まった。
その一瞬後、
「下らねェ事ぬかしてると、突っ込まれる穴、ひとつ増やしてやるぞ」
ぐいと襟元を掴まれ、悪魔のような目で凄まれた。
「――な……、ジョーク、ただのジョークですだよ」
「笑えねェジョークだな、“ですだよ”。てめェのセンスは絶望的だ」
「……私、本省人よ。アメリカン・ジョーク上手いないね」
にゃはははは、と笑って誤魔化したが、あの目は怖かった。
ちょっと本気で怖かった。

大体、「昨日はお楽しみか」なんて、「ご機嫌よう」の挨拶みたいなものではないか。
あの女も一応は大人なのだったら、「ああ、張り切りすぎて腰が痛いぜ、HAHAHA!」ぐらい返してみればどうか。
少なくとも、「誰があいつと楽しむってんだ、バーカ」くらいの反応を予想していた。
……それが、目元を赤く染めた上に、あのキレよう。
ただならぬ関係である事を自ら暴露しているようなものだ。
迂闊にからかえもしない。
非常に、面倒くさい。


露天商の前にしゃがみ込んでいたレヴィが立ち上がった。
また、二人並んで歩いていく。
二人の間の距離は、肩先が触れ合うかどうか、といったところだ。
「同僚」と言い張っても充分通用する距離。

しかし、あの二人の場合、彼らを包む空気が独特なのだ。
肌で、お互いの存在を感じているかのような。
直接見ていなくとも、相手がどう動くか、自然に呼吸するように感じ取っている。
そんな空気。
一緒にいると、二人の間の空気が同じ色になる。

あの二人は、皆の前では決して、手を繋ぎも、腕を組みも、腰に手をまわしたりもしない。
けれど、あの手はきっと互いの肌の温度を知っている。
そんな空気が、二人の間に挟まっているのだ。

まいった、とシェンホアは嘆息する。
バカップルよろしくいちゃついていれば、こちらも存分に馬鹿にしてやれるのに。


556 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:47:17 ID:D/UfmGvZ

それにしても、あのボンクラといいアバズレといい、けったいな趣味をしている。
シェンホアからしてみれば、信じられない。
銃もナイフも使えない、鉄火場はからっきし、敵に出会えばさらわれる、ちっとも使えなさそうな男のどこが良いのだろう。
彼女の趣味は最悪だ。
しかし、あのボンクラの趣味はもっと分からない。
口は悪い、態度も悪い、目つきも悪い、ちょっとばかり見た目は良いかもしれないが、
感心するところは銃の腕だけ、柄の悪さは折り紙つきの女と、よくもまあ四六時中一緒にいられるものだ。
あんな女と同衾なんて、とんでもない話だ。
いくら見事な体を持っていたって、猛獣と同じベッドに入るなんて、死んでも御免だ。
虎の穴にのこのこと裸で入っていくようなもの。
あのボンクラ、よく生きて出て来られる、とシェンホアは心の底から感心する。

……それとも、あれだろうか。
まさかとは思うが、普段は黒豹、ベッドの中では黒猫、なーんて…………。

………………………………………………。

――いやいやいやいやっ! 私いま、なに想像するましたか!

シェンホアは、頭の中に思い浮かべてしまった映像を、ぶんぶんと振り払った。

……恐ろしいものを想像してしまった。
ほんわりとエフェクトのかかった、花か星でも飛んでいそうな薄桃色のロマンス映画的な、何か。

――そんなアホな事、あるわけないね!

絶対に無い、と言い切れないところがあの女の空恐ろしいところだが、
いやしかし、それが本当だったらショック死する。
そう、あのアバズレもボンクラも変な趣味をしているだけだ。
割れ鍋に綴じ蓋。
両方、変態。
ただそれだけだ。
そうに違いない。


と、ロックが斜め後ろを振り返り、何かレヴィに声をかけた。
彼女も振り返り、二人揃って方向転換をしてこちらの方に向かって来たので、
シェンホアは慌てて踵を返した。

これ以上面倒な事には関わり合いになりたくない。

あの女に関わると、本当に碌な事がないのだ。
一度目は無駄働き。
二度目は死にかける。
三度目は脚を負傷した上に柳葉刀まで粉々に。
他にも何かあったような気がするが、いずれにせよ。

――触らぬ神に祟り無し、ですだよ。

ただし、“神”は“神”でも彼女は“疫病神”だ。


557 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:50:18 ID:D/UfmGvZ

つい市場を出てきてしまったシェンホアは、さて、これからどうしようと思案する。
別の用事を先に済ませても良いが、と思いかけて、そうだ、張大兄のところへ行こう、と思いつく。
一応シェンホアはフリーランサーということになってはいるが、
香港系のチャイニーズ・マフィア『三合会』から仕事をまわしてもらう事が多い。
その『三合会』タイ支部のボス、張とは長い付き合いだ。
今は脚を負傷した事で融通をきかせてもらっているが、
いつから本格的に仕事を受けられそうか、一度報告に行かなければ。

そうと決まれば話は早い。
シェンホアは足取りも軽く、『三合会』のビルへと向かった。

 * * *

「やー、ご免なされ。久し振りですだよ」
顔見知りの警備員と受付嬢に挨拶をして、シェンホアは『三合会』の小綺麗なロビーを横切った。
彼らも目礼だけで通してくれる。
「張大兄、おいでなさるか?」
エレベーターホールにいた黒服の男に問うと、
「ああ、いらっしゃる。客人が見えているようだが、お前なら構わんだろう。一番上だ」
顎で最上階を示す。


エレベーターで最上階まで昇って降りると、その階には社長室と重役会議室しか無い。
社長室をノックしようとして、そういえば客人が来ていると言っていた事を思い出し、
シェンホアは重役会議室の方のドアを開けた。
今の時間は使われていないらしいこの部屋で、客人との会談が済むまで待とう。

誰もいない会議室――と思ったが、予想に反して、絨毯敷きの床の上には子どもが座り込んでいた。

――この子、誰ですね?

年の頃は三歳か四歳といったところだろうか、黒い髪をした東洋人らしき少年が床に尻をつき、
ぺったりと座って本を広げていた。
シェンホアにはとんと見覚えのない子どもだ。

「あー、はじめました。どこから来るましたか?」
とりあえず笑いかけてみたが、子どもはきょとんとした顔でシェンホアを見上げるばかりだ。

「?好。从?里来?」
こんにちは。どこから来たの?
と、今度は中国語で訊いてみた。
すると、子どもは嬉しそうににっこりと笑った。

「とおく!」

……言葉が通じても、これではどうしようもない。
シェンホアはそれ以上詳しく訊くのは諦め、手近の椅子を引いて腰掛けた。


558 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:52:33 ID:D/UfmGvZ

それにしても不可解なのは、こんな小さい子どもがこんなところにひとりでいる事だ。
悪党の巣窟のようなこの街で、小さな子どもの姿を見る事は滅多に無い。

――まさか、張大兄の隠し子……?

ふっと頭をよぎったが、いやいや、そんなはずはあるまい、とシェンホアは即座に打ち消す。

多分、張大兄を訪っているという客人の子どもだろう。
誰だか知らないが、こんな物騒な街に子どもを連れてきて、
しかもひとりで放置しておくなんてもってのほかだ。
何を考えているのだろう、とシェンホアが幼い子どもを見ていると、こちらを見上げた彼と目が合った。
すると、彼はおもむろに読んでいた本を手に持って、ほてほてと近寄ってきた。

「よんで」

舌足らずの中国語で懐っこく本を差し出されたシェンホアに、断るという選択肢は無い。
子どもは好きだ。
――いや、好きか嫌いかという前に、本能で長女モードになる。
シェンホアのDNAには『長女』という塩基が組み込まれているに違いない。

「我? 好的」
私が読むの? いいわ。
と、シェンホアは小さな体を抱き上げて、膝の上に座らせてやった。
子ども特有の体温の高さと体のやわらかさが、故郷に残してきた弟妹を思い出させた。
もっとも、彼らも今では青年と言って良いぐらいに成長しているだろう。
……それをこの目で見る事は適わないだろうが。

膝の上の子どもが振り返って、曇りのない目で見上げている事に気付き、
シェンホアは慌てて彼の要望に応えるべく本を取った。

……いや、“本”というより、これは“小冊子”だ。
どれだけ読み込んだのか、黒ずんでよれよれになっている。
その紙の束の表紙を見て、シェンホアは眉をひそめた。
なにやら筋骨たくましい男が、ロットンとはまた違う意味で妙なポーズをとっている。
中国語なら任せろと思ったが、書いてある文字はアルファベットだ。
「……コウガ、デス、シャドー……?」

――英語?

「デス・シャドー」は"DEATH SHADOW"で良い。
……いや、あまり良くない気もするが、まぁ良いことにする。
しかし、その前の「コウガ」とは何だろう?
これだから英語は嫌だ。
その後に続く「ニンジュツ」も「シナン・ショ」も何の事だかさっぱり分からない。
シェンホアは、知らない単語ばかりが踊る本を前に、早くもため息をつきたくなった。

しかし、膝の上の彼はわくわくして待っている。
シェンホアが持つ冊子をじっと見つめる彼の後頭部から、期待の波動が満ちあふれている。
たとえ分からずとも、やるしかない。
大切なのは、子どもの期待に応える事。
自分が理解しているかどうかなど関係ない。


559 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:53:27 ID:D/UfmGvZ

シェンホアは意を決して表紙をめくったが、その先はまさに胡散臭いとしか言えない、イッツ・ア・ミステリアス・ワールドだった。

分身の術、変わり身の術、空蝉の術、隠れ身の術、影縫い、口寄せ……。

――何ですね、これ!

この上なく怪しげな術を英語で解説してあるその冊子は、“ニンジャ”についての本であった。
ニンジャとは何かという解説本でも、ニンジャを扱った物語でもない。
ジャンプ力と走力を鍛える為に、長く垂らした布が地面に付かないように走れ、だの、
胸に当てた笠が落ちないように走れ、だの、
成長する麻の上を毎日飛び越えろ、だの。
どう見ても、「これを読んでニンジャになろう!」の本だ。

――この子、何者ね……。

シェンホアの頭はくらくらしてきた。
彼は目を輝かせて、シェンホアが冊子に書いてある英文を適当に訳した中国語を聞きながらかぶりついているが、
これがこの子の趣味なのだろうか?
だとしたら本気でこの子の将来が心配だが、そんなわけはないだろう。

――こんな本この子に与えるましたの、誰ね!

大方、誰か周辺の大人が与えたに決まっている。
こんなもの、子どもが読む本ではない。
こんなの読んで育ったら、十年後には愉快なロアナプラの仲間達に加わっていそうで怖い。
この純真そうな子どもに、人の道を外させるのは忍びない。

時刻が分からない時に猫の瞳孔の大きさを見て何時かを知る「猫時計の術」であるとか、
潜入先の番犬に吠えられない為に自らも異性の犬を連れていってその番犬にあてがう「合犬の術」であるとか、
あいや、結構面白いね、などとついうっかり興味津々と読んでしまっているのに気付き、
こんなことではいけない、とシェンホアは気を引き締める。
しかし、この本を気に入っているらしい彼は大変に楽しそうだ。
英語はまだ読めないのだろう、適当な訳でも中国語で読んでもらうと嬉しいらしい。
前のめりになって冊子にへばりついている。
彼が楽しんでいるならば、それで良いのか……。

どうしたものか、と思った時、社長室に繋がるドアが開いた。


560 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:54:26 ID:D/UfmGvZ

「おお、シェンホア。来てたのか」
「張大兄、お邪魔しています」
ドアの向こうから現れたのは、『三合会』タイ支部のボス、張維新だ。
今日も仕立ての良いブラックスーツを着こなし、
黒いレンズの入ったティアドロップのサングラスをかけている。
黒髪をポマードで整えたのも、嫌味がなく決まっている。
いつ見ても隙の無い姿――その姿の後ろに、妙な黒っぽい巨体が影のように張り付いているのが見え、
シェンホアは眉間に皺を寄せた。

張に続いて現れたのは、怪しげな黒装束――そう、たった今この子どもと一緒に読んでいた冊子に
載っていたような格好――の男。
黒い覆面のせいで顔の造作までは分からないが、その隙間からは青い目が覗いている。

瞬時に、シェンホアの警戒心は最高値まで跳ね上がった。
あの黒装束といい、覆面といい、背中に背負った刀といい、忘れもしない。

「お前は……!」

ザルツマン号襲撃事件の落とし前をつける為、乗り込んだ廃工場で相まみえた男。
睨み合いの末、何一つ手を出す事が出来ずに、逃げられた。
――いや、それだけではない。
武の道を極め、手練れ揃いの『三合会』の中でも一目置かれる程になったシェンホアが、気圧された。
あの髪一筋も動かせぬ対峙の間、シェンホアは、自分が異様な黒装束の男に圧倒されていた事を認めざるを得なかった。
何たる恥辱。
張大兄からの信用に傷がついたばかりでなく、手も足も出なかったとあっては、己の矜持が黙っていられない。

その男が、目の前にいる。
シェンホアの双眸は、研ぎ澄まされた刃のように鋭くなった。
そろりと、手が太腿に隠したクナイへと伸びる。

しかし、張はシェンホアの殺気をきれいに受け流し、飄々と黒装束の男の肩を叩いた。
「いやーあ、シェンホア、丁度良いから紹介するぞ。こいつはシャドーファルコン。
今は香港の総主の元、日々重大なる任務に当たっているグレーターNINJAだ」
「……………………はぁ?」
なんだかもの凄くやる気を削がれる単語を聞いた。
「……………………シャドーファルコン……? グレーターNINJA……?」
シェンホアの顔は、うすら苦いものを噛んだかのように渋くなった。
「そしてシャドーファルコン! この女性はシェンホア、またの名をシャドークレイン!
お前にだけ特別に明かすが、彼女もマスターNINJA、俺の一番弟子だ。くれぐれも内密にな」
「Oh,このお方もマスターNINJAでいらっしゃるのですか?」
「おう、そうだ。お前の先輩になるんだからな、敬えよ」
「御意! そうとは知らず、拙者、先日は大変なご無礼を……。どうかご容赦下され」
シャドーファルコンなる彼は、突然跪いたかと思うと、屈強な体を丸めて手をつき、地面に額をこすりつけた。
シェンホアの口は、あんぐり開いたまま塞がらない。


561 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:55:21 ID:D/UfmGvZ

――シャドークレイン、誰の事ね……? 私、いつから“マスターNINJA”なるましたか……?

土下座した黒い物体を前に唖然として立ちすくむシェンホアに、
張は顎を小さく動かして「合わせろ」と合図をしている。

「あ、あー。気にするないね。これからは仲良くやるですだよ」
シェンホアが上ずった声で言うと、シャドーファルコンはがばっと顔を上げた。
「お許し頂けるので!?」
「ん、ああ、もちろんですだよ……」
「なんとご寛容な! 拙者、痛み入ります……」
演技でも何でもなく声を詰まらせる巨漢の男から、シェンホアは目を逸らしたくてたまらない。
「……良いから早く立つね」
「まこと、お優しいお言葉……! かたじけない事に御座います」
……ああ、鬱陶しい。
なんて鬱陶しいのだろう、この男は。
どうでも良いから早く帰ってくれないか、シェンホアがそんな事を思っていると、
先程まで一緒に冊子を読んでいた子どもが、おぼつかない足取りでとことこと寄ってきた。

それに気付いたシャドーファルコンは、熊のような手で、よしよしと子どもの頭を撫でた。
「そなた、粗相は無かったか?」
この子はシャドーファルコンの英語など理解していないのだろうが、にこにこと笑いながら、
手に持った冊子とシェンホアを交互に指さした。
「もしや、このお方に忍の極意を手ほどきして頂いていたのか?」
子どもは笑顔のまま、うんうん、と頷く。
分かっていない。
この子は絶対に分かっていない。
「なんと有り難き幸せ! 拙者、この感謝、如何に表明して良いか……!」
「……もう良いね。この子、とてもおりこうですだよ」
「勿体ないお言葉に御座います……!」

「あー、シャドーファルコン、ご足労だったな。もう帰っていいぞ。
道々、弱き子どもを狙う悪党どもに充分警戒しろよ。
小さき者を守ってこそのグレーターNINJA。分かるな?」
「ははーっ!」
話を畳もうとしてくれたらしい。張が横から入った。
「では、日が暮れる前に行け。達者でな」
「Oh,マスターのお二方も、どうかお達者で……」
ようやく立ち上がったシャドーファルコンが、子どもの手を引いてエレベーターホールに出ていった。
到着したエレベーターに手を引かれて乗り込んだ子どもが、ばいばい、と小さく手を振る。
思わず顔がゆるんで、シェンホアは手を振り返した。
あの子だけだったら、また会っても良いかもしれない。

だが。


562 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:56:27 ID:D/UfmGvZ

「張大兄、なんです、あの“シャドークレイン”とは!」
シェンホアは、自由に操れる中国語で張に詰め寄った。
「ああ、鶴だ、鶴。お前にぴったりだろう?」
「そうじゃありませんっ! 一体どういう事になっているのか、私に分かるように説明して下さい!」
「……分からなかったか?」
「分かりません!」
せっかく浮き立つ気持ちでここを訪れたというのに、今はぐったりだ。
シェンホアは、通された社長室のソファーに深々ともたれかかった。

「あの男、ちょっと面白かったんで、うちがもらったんだよ。腕は立つしな。今は香港にいる。」
「……でも、グレーターNINJAだの何だのというのは……」
「ああ、それか。あいつは忍者だ」
「はぁ?」
「いやー、うちのNY支部が出してる忍者グッズ通販のお得意様だったようなんだな。
どうやら奴さん、そこで買った指南書を真に受けて生真面目に修業したら、本当に忍者になれちまったらしい」
ははは、と楽しそうに笑う張は全く大物だ、とシェンホアは思う。

「で、あの子はどうしたんです……? まさかファルコンの子ども……?」
青い目をした親から生粋の東洋人の子どもが生まれるとも思えないが、もうここまできたら何も驚くまい。
すると、張は「違う、違う」と扇ぐように手を振った。

「あの子はファルコンの弟子だ」
「弟子ぃ!?」

まさかどこからか拉致して来たのか?
それとも、インチキ通販の顧客を増やす為?
あんないたいけな子を汚い商売の毒牙に……!

「おいおい、そんな目で見るな、シェンホア。
何を想像したのかは知らんが、あの子はあいつに懐いてるんだぞ。
香港のガキだが、どうやら両親を亡くしたらしくてな。
それをファルコンが拾ってきちまったんだと。なかなか仁の心の厚い奴じゃないか。ん?」
「……なら良いのですが」
「いやぁ、お前があの子を見ていてくれて助かったぞ。さすがお前は子どもの扱いが上手いな」

張は気軽に、ぽんぽん、とシェンホアの頭に軽く触れていく。
そんな張こそ全く子ども扱いだ、とシェンホアは苦々しさを飲み下した。
張にとってシェンホアは、今でもずっと、あの貧民街であくせく働いていた貧相な小娘にすぎないのだろう。

「そう思われるなら子どもをひとりにさせないで下さいよ」
「それはそうだが、血生臭い話をしているところに子どもを置いておくわけにもいかんだろう。
……どうした、今日は機嫌が良くないな」
「いいえ、別に」
シェンホアは朝からの顛末を思い出し、ふぅっと長く息をついて天井を見上げた。


563 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/03(土) 20:57:59 ID:D/UfmGvZ

張はそんなシェンホアを眉を下げて見ていたが、
おもむろにスーツの上着を脱ぐと、部屋の隅に立っていたコートハンガーに掛けた。

「それはそうと、怪我の具合はどうだ? 良くなってきたか?」
張がシェンホアの隣に腰掛けたので、シェンホアはソファーの背もたれに預けていた首を起こした。
「はい、まだ痛みは残りますが、もう杖なしで歩けます。
前のように仕事を受けるまでにはもう少しかかると思いますが……」
「ああ、良い良い。そんな事は気にしないで、まずはしっかり治せ」
「はい、ありがとうございます」

張は人心を掴むのが上手い、とシェンホアは思う。
黒いサングラスの奥の目はいつも冷徹に大局を見ており、
情に流される事なく計算を働かせているはずであるのに、
時折、人の心の隙間にすっと入り込むような気遣いをしてみせる。
所詮、それもまた、駒を駒として最大限の力を発揮させて動かす為の手段に過ぎないのだろう。
分かってはいるが、もしかしたら、そこに少しばかりの張の本心からの心遣いが混ざっていはしないか。
シェンホアは、馬鹿馬鹿しい事だと思いながらも、その期待を完全に抑えきることが出来ない。

「最近どうしている?」
張がジタンを一本取り出し、慣れた様子でくわえてから、「吸っても?」と聞いた。
シェンホアは煙草を吸わない。
「どうぞ」
返すと、済まない、というように軽く顎を引いて、マッチを擦って火を付けた。
煙草の先端に火を寄せ、それから、手首で振り消す。
この人はまだマッチを使って火をつけているのか。
そうぼんやりと思いながら見ていると、張が続けた。
「で? 最近どうだ? 聞くところによると、男と一緒に住んでいるそうじゃないか」
「え……?」
男と一緒に住む?
一体なんの事だろう、とシェンホアが思っていると、張はふぅっと煙草の煙を吐き出した。
「大層良い男だそうじゃないか。良い仲か?」
「――違います!」
多分ロットンの事だ。
シェンホアはそう理解し、理解した瞬間、思い切り否定した。
「……どうした」
煙草を指の間に挟んだ張が、怪訝な顔でシェンホアを見ていた。

――強く否定しすぎた。

「……良い仲なんかじゃありません」
「そうなのか?」
「そうです。あの男は私が怪我をしたところを助けてくれただけで――、ソーヤーも一緒です。
その時の縁で、何となく二人が私の部屋に入り浸っているだけです。
別に男と二人で住んでいるわけではありません。
気付くと泊まっている事もありますが、大抵ソーヤーとゲームをしているだけですし。
そう、彼はいつもソーヤーとゲームばかりしていて、ソーヤーとの方が気が合うみたいですよ?
私はいつも雑用係です。今朝だって……」

張には誤解されたくない。
それがシェンホアを饒舌にさせたが、最後には愚痴にスライドしていた。

「……すみません。下らない事を喋りすぎました……」
シェンホアは少しの自己嫌悪に襲われたが、張は「いや、いいさ」と小さく笑った。
「時にはガス抜きしないとやってられんだろう。……それにしてもお前は昔っから苦労性だな」
隣に座った張のサングラスの隙間から覗く目が、わずかに懐かしそうに細まった気がした。


572 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 20:59:59 ID:CIp8cqrP


 * * *

張と出会ったのは、まだ彼が警察官をしていた時の事だった。
幼い弟妹を養うため、シェンホアは毎日身を粉にして働いていた。
稼ぐに追いつく貧乏なし、そう言ったのは誰だろう。
働いても働いても一向に借金は減らず、働けば働くほど貧しくなるように思えた。
シェンホア自身もまだ充分に幼いと言えたが、子ども扱いしてくれる者は誰もいなかった。
シェンホアは、日々の暮らしに疲れ果てていた。

家に帰り着く気力も失せて、シェンホアが道ばたに座り込んでいると、頭上で声がした。
「おい、どうした。具合でも悪いのか」
顔を上げると、まだ年若い、どこか人の良さそうな顔をした青年が見下ろしていた。
それが張だった。

実入りの良い仕事は、リスクを伴う。
警察にしょっぴかれたら事だ。
冷や飯を食らうぐらい何でもないが、自分がいなくなると弟や妹たちが困る。
そう思って慌てて逃げようとしたシェンホアを、張は引き留めた。
「逃げるな逃げるな。俺は怪しいもんじゃないよ。ただのチンピラさ」
そして、包子を買ってくれた。
「俺は腹が減ってるんだが、付き合ってくれるか」
そう言って。

子どもがこんなところにいてはいけないとか、こんな事をしてはいけないとか、
そういった説教は何ひとつしなかった。
ただ、たわいもない話をして、笑った。
声を上げて笑うなんて、いつぐらい振りだろうとシェンホアは思った。
彼は懐から出したよれよれの箱から煙草を一本引き抜いて、マッチで火をつけた。
その煙草をふかしながら、シェンホアの話を聞いては屈託なく相槌を打った。
何を話したのかはもう覚えていないが、武道をやっていると言ったら感心してくれた事だけは記憶にある。
そうして、一言、
「お前、苦労してるな」
と、そう言って、ぽん、とシェンホアの薄汚れた頭に手を乗せた。

途端、手に持った食べかけの包子の輪郭が滲み、口の中の塩気が増した。
働くのも、誰かの面倒を見るのも、自分が汚れ仕事をするのも、当たり前の事だった。
誰も、それをねぎらってくれる者などいなかった。
一番年長であるシェンホアがそうするのは当然であったし、
また、シェンホアもそれが当然であると思っていた。

けれど本当は、誰かに一言だけでも良いから言って欲しかったのだと気付かされた。
よくやっているな、と。

張の手は、うつむいて肩を震わせるシェンホアの頭が再び上がるまでずっと、撫でるのを止めなかった。


573 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:00:40 ID:CIp8cqrP

彼が警察官だという事は、後に知った。
それでも、まるで兄のように接してくれる彼に対する思慕は変わらなかった。
――その更に後、彼が警察官を辞め、マフィアの世界に足を踏み入れたと知った時も。

シェンホアは既に、後戻り出来ない世界に足を踏み入れていた。
精神の鍛錬の為に始めたはずの武道は、仕事を完遂する為の手段となっていた。
表の世界で生きる事を許されない女の進む道は、ふたつにひとつ。
殺るか犯られるか。
どこの世界だって同じ。
ここロアナプラに吹き溜まってきた女たちだって、皆そうだ。
シェンホアは、殺る方を選んだ。

マフィアとなった彼を追ってここまで来たのは、自然な流れだった。

「お前も来るか?」
そう訊いた張の手を、シェンホアは取った。
代償は、家族との別離。
可愛い弟妹の顔が浮かんだが、それでも、シェンホアは張の手を取った。


574 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:01:21 ID:CIp8cqrP

 * * *

「そうか、良い仲の男じゃないのか」
過去が蘇ったのは、ほんの一瞬だった。
「違いますよ」
シェンホアは、ため息混じりに否定した。
「お前はそういうところはお堅いからなぁ。お前みたいな良い女、男は放っておかないと思ったんだがな」
「全然ですよ。やめて下さい」
張は、もしかしたら、付き合いの長い妹分のように思ってくれているのかもしれない。
ただの手駒ではなく。
シェンホアは、それならば嬉しい、と思う。
「嘘つけ」
もしそうだとしたら、それはとても嬉しく、
「思ってもいない事、言わないで下さい」
少し、かなしい。
「思ってるさ。お前は良い女だよ」
張の口から、一般論など聞きたくない。
彼の中では相変わらず、自分は小汚く貧相な小娘のままなのだろう、とシェンホアは思う。

「……なら、張大兄はどう思ってらっしゃるんですか?」
シェンホアは身を翻して、隣に座る張の正面に向き合い、片膝をソファーについて見下ろした。

「――試して、みます?」
張のワイシャツの肩に手を置く。
シャツの下に、しっかりとした筋肉の手応えを感じた。

「……よせ」
張の顔から笑みが消えた。
真顔の裏に、酷く困ったような気配が滲んだ。

「満足させますよ?」
シェンホアは、肩の手をすべらせ、ネクタイの結び目に指をかけた。
赤いマニキュアを塗った爪を結び目の奥へと差し込み、そのまま下に引く。
そして、ゆっくりと張の首筋に唇を寄せた。

と、突然、シェンホアの手首が強い力で掴まれた。
肩も掴まれたかと思うと、そのまま勢い良くソファーの座面に押し倒された。
背中が柔らかいソファーに押しつけられ、沈む。
手首も、仰向けになった頭の上で拘束された。
見上げた先には、張の顔があった。

一瞬の事だった。

575 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:02:08 ID:CIp8cqrP

「――男をあまり、舐めるなよ」

見下ろす張が、低い声で言った。
肩も手首も、痛いくらいの力で押さえ付けられている。

しかし、その力はすぐに緩んだ。
手を離し、そして起き上がらせようとする。
その張のネクタイを、シェンホアは掴んだ。

「――女を舐めているのは、貴方の方です」

体の上に覆い被さっている張に、シェンホアはゆっくりと片脚を絡めた。
ふくらはぎの横を通り過ぎ、太腿をこすりあげる。
つま先を張の脚の内側にすべりこませ、片脚を絡めとる。
脇にスリットの入ったチャイナドレスがはだけ、素脚が露出した。

張は呆気に取られたように固まっていたが、ふっとその表情が緩んだ。
「……大人になったな、シェンホア」
ネクタイを掴んでいたシェンホアの手に張の手が重なり、ほどかれた。
「もうとっくに、大人です」
シェンホアは負けずに、視線を返した。
その視線を受けて、張はサングラスを外した。

「……じゃあ、大人の付き合いをするか」

張の手にチャイナドレスのスリットから露出した脚を撫で上げられて、シェンホアの背筋はぞくりと疼いた。
クナイを収めて太腿に仕込んでいたベルトが外される。
手は、腿の裏側から腰のあたりまで這いのぼる。
シェンホアの脇につかれた手にぐっと体重がかかり、
心持ちそちらへ体が沈んだかと思うと、首筋に顔を寄せられ、唇を押しあてられた。
ジタンの香りが漂う。
首筋に感じる、熱い感触。
シェンホアが小さく息を吸うと、張は起き上がった。

「ここは人が来る。……続きをするなら、向こうへ」
言って、社長室の隅にある小さなドアに向かった。
「仮眠室だよ。俺以外の奴は来ない」
シェンホアをソファーの上に残して、張の姿はドアの向こうへ消えた。

シェンホアがドアの中に踏み込むと、そこは張の言った通り、
狭い空間にベッドとサイドテーブルがあるだけの、簡素な部屋だった。
枕元の読書灯のみがついた薄暗い室内で、張はベッドに腰掛け、入り口のところに佇むシェンホアを見上げていた。
本当に来てしまったのか。
そんな顔をして。
シェンホアがほとんど睨むような顔で張を見ていると、
張は立ち上がり、シェンホアの背後のドアを閉めた。
社長室の明るさが遮断され、空気が静まる。

576 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:03:07 ID:CIp8cqrP

ベッドの方へ。
シェンホアは一歩踏み出そうとしたが、それよりも前に、張の両腕に後ろからがっしりと抱きすくめられていた。
首筋に熱い息がかかる。
彼の手が腰にまわり、もう片方の手が胸元を這う。
骨っぽく大きな、男の手。
刺繍がほどこされたなめらかな生地の上から乳房を包み込まれて、シェンホアの鼓動は高鳴った。

張の手はゆっくりと乳房を揺らす。
布の上から先端をかすめるように撫でられると、反射的に肩が内側に入った。
腰にまわされた手は、腹部周辺を温めていく。
ゆっくりと腹を撫で、じわりじわりと旋回する。
下腹を通り過ぎ、服の上から縦になぞられると、全身が緊張した。
呼吸を乱したシェンホアを、張は逃がさない。
チャイナドレスのスリットから、彼の手が差し入れられた。
なめらかな内腿を撫であげ、今度は下着の上から揺らす。
思わず身をよじったシェンホアの上半身をしっかり拘束しながら、
張は執拗に、焦らすような強さでこねた。
彼の指によってじわじわと熱があふれていくのを、シェンホアは感じた。

細い下着の脇から、指がはいってくる。
うるみを纏わりつかせてから、なかへ。
下着を押しのけるようにして奥まで進み、少し引き抜いてから、更にまた奥まで沈められた。
指の根本まで、深く。
「――あ…………っ」
きゅっと締まったシェンホアの体を、指はなめらかに探った。

張の指が、シェンホアの腰の脇で結ばれていた細い紐を引いた。
はらり、と半分だけ下着がほどける。
落ちそうで落ちない下着をそのままに、また深々と指が沈められた。
ぬるりと引き抜かれ、襞の間をさまよったかと思うと、今度は指が二本に増やされた。
「ん………………っ」
下着がとかれて自由になった脚の間を、張の指は容赦なく上下に動いた。
思わず脚を閉じようとしたが、張の手に阻止される。
太腿のところでがっしりと捉えられ、閉じる事は許されない。
そして、指が深く、押し進められた。
視線を下にやると、チャイナドレスの赤い布の下で、張の手がうごめく様子が見えた。
シェンホアの膝は砕けそうになったが、腕はしっかりと体を抱きとめる。

このまま高みに登りつめてしまいそうになるのを何とかこらえて、シェンホアは張の手を押しとどめた。
そして、彼の腕の中でくるりと体を反転させる。
ひとりで放り出されるのは嫌だった。

張のしっかりと厚みのある胸に手を這わせ、今度こそ、ネクタイを抜き去る。
ひとつずつワイシャツのボタンを外し、露わになった胸板に小さく口づけると、つけていた紅が張の肌に移った。
すべてボタンを外したワイシャツに、両手を差し込む。
胸板を撫でるようにして開くと、シェンホアは長く整えた赤い爪の先で小さな乳首をつまんだ。
そして、唇を寄せて包み込む。

手をスラックスに這わせると、張りのある固さが押し返した。
煽るようにさすると、張の体がぴくりと震える。
シェンホアは、彼の腰に腕をまわし、逃さず指を絡めた。
何度も下から撫であげてから包み込んだ後、ベルトのバックルを外す。
窮屈そうなスラックスの中にするりと手を差し入れ、今度は直に触れる。
暖かな体温が生々しかった。

手の中でますますかさを増していくのを感じながら、
シェンホアは胸元に寄せていた唇を、徐々に下の方へ移動させていった。
みぞおち、腹、腰を撫で下ろしながら、臍……。

577 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:03:59 ID:CIp8cqrP

スラックスと下着を一緒に下げようと指をかけた時、突然、シェンホアは張の手に頭を捉えられた。
これからしようとしている事を阻止される格好になって、シェンホアは不可解な顔で張を見上げた。
「それはしなくて良い」
「でも……」
満足させる、と言ったのは自分だ。
シェンホアは食い下がろうとしたが、
「脚、痛いだろう?」
怪我の治らない脚でしゃがむのはつらいだろう、と指摘され、手が止まった。
「大丈夫で――――うわっ!?」
シェンホアは続行しようとしたが、動きの止まった隙に、
同じ高さにしゃがみこんだ張に膝の裏を掬われ、一気に抱き上げられていた。

膝の裏と背中を支えられて横抱きにされるという
今まで遭遇した事の無い体勢になって、シェンホアは動揺した。
「ちょ……っ! ちょっと、降ろして下さい!」
シェンホアがもがくと、張は楽しげに笑った。
「はは、お前、大人になったかと思いきや、そういうところはまだまだ子どもだな。
良い女ってのはな、男に横抱きにされたら、にっこり笑ってしなだれかかるもんだぞ」
ほら、腕は首に。
そう促されて、シェンホアは恐る恐る腕を張の首にまわした。

別に抱き上げて運ばれるまでもない短い距離を移動して、シェンホアはベッドの上に降ろされた。
靴を脱がされ、チャイナドレスの背中を開かれる。
服も、下着も、全て取り去られてシーツに背中を押しつけられ、シェンホアは思った。
この人にはかなわない、と。
全部、全部、張の思うがまま。
胸元に口づけられると吐息があふれ、乳房の先端を熱い舌でねぶられると声が漏れ出る。
脇腹を撫で下ろされると体の奥がざわめき、指でなかを往復されるとぬるい体液が彼の指を濡らす。
「満足させる」など、思い上がりも甚だしい。
全てが張のペースに飲み込まれていく。
この人の前では、赤子も同然。

彼を体のなかに受け入れたシェンホアが出来る事は、ただ振り落とされないようについて行く事だけだった。
「あ、ぁ…………っ!」
最初の内は緩慢だった動きが段々と激しくなり、なめらかに奥を突き立てる。
シェンホアは、縋り付くように体を寄せた。
張の、そう大柄というわけではないが強靱な体が、シェンホアを責め立てる。
もう、虚飾などどこにも残っていない。
汗ばんだ体を、ただぶつけ合った。
思うさま貫かれ、根本まで埋めて強く揺らされると、快楽が弾け、全身が強ばった。
脳がとろける感覚を味わいながら、シェンホアはぎゅっと目をつぶった。
張はシェンホアの痙攣した体をなおも行き来してから、喉の奥でうめいた。
体の内側で、彼も痙攣したのが分かった。

脚の痛みなど、きれいに忘れていた。


578 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:05:15 ID:CIp8cqrP

吹き出た汗が収まって、そそくさとチャイナドレスを身につけるシェンホアの背に、張の声が届いた。
「……すまなかったな」
束の間、シェンホアの手が止まった。
「……いえ」
しかし、即座にまた手を動かした。
今、彼に背中を向けていて良かった、と思いながら。
自分が苦い顔をしている事は、鏡を見なくても明らかだった。

そこで謝らないで欲しい、とシェンホア思う。
結局、張にはすべて手に取るように分かっていたのだろう。
シェンホアが誘いをかけたのは大人のお遊びなどでは無かった事、
しかし、それを装わずにはいられなかった事、
彼への思慕には、妹が兄に対して抱くものとは違った感情が混ざっている事――。

「今度、食事にでも行くか。――何か欲しい物は無いのか」
飄々とした声で、張は言った。
シェンホアが振り返ると、そこにはいつもと変わらぬ張の余裕たっぷりの顔があった。
「お前は働き者だからな。つい、その有り難みを忘れる」
だからボーナスだ、と続ける。
「お気遣いは無用です。欲しい物も特に……」
シェンホアが首を横に振ると、張は大袈裟に眉を下げてみせた。
「それも不合格だな、シェンホア。男が物を買ってやろうって言ってる時には、素直にねだってみせるものだ。
そんな事じゃ、良い女への道は遠いなぁ」
そうして、床に転がっている踵の高い細身の靴をひょいと取り上げた。
「靴にするか? お前、怪我してる時ぐらいもっと楽な靴を履け。心配でならん」
シェンホアは、曖昧に頷いた。
誰かに何かしてもらうのは慣れていない。
ひどく居心地が悪かった。
「……なんだ、俺の見立てた靴は嫌か?」
「いえ! ……そういうわけではありませんが、そこまでして頂くのは申し訳ないので――」
「なら、決まりだ」
張は勝手に話をまとめ、約束だぞ、とシェンホアの頭に軽く触れた。
シェンホアは、ぎこちなく頷いた。


579 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:06:19 ID:CIp8cqrP

 * * *

『三合会』のエントランスを抜け、高くそびえ立つビルを見上げながら、
シェンホアは、本当に張大兄にはかなわない、と小さく息をついた。
つい先程までの神経がささくれるような苛立ちは、きれいさっぱりどこかへ吹き飛んでいた。

もう日暮れが近い。
わずかにオレンジ色がかった街の中、シェンホアは今度こそ市場で買い物をしようと歩を進めた。


夕暮れ時の市場も込み合っていた。
足りないものを揃え、食材を買い込む。
まだソーヤーとロットンがいたら、今晩は何を作ってやろう。
エビチリなどはどうだろうか。
そうだ、いつか、三人で餃子を作ってみるのも良いかもしれない。
餃子はシェンホアの得意料理だ。
具を作ってやって、皮で包むだけだったらあの二人にも出来るはずだ。
自然とそんな事を考えているのに気付いて、シェンホアは苦笑した。

そう、シェンホアは、誰かとわいわい過ごすのも、頼りにされるのも、世話を焼くのも好きなのだ。
あの二人の来訪だって、本当は歓迎している。
ただ、時にはほんの少しねぎらって欲しかっただけ。

シェンホアは小さな雑貨屋で売っていた黒いレースに目をとめ、それを買い求めた。
このレース、ソーヤーのチョーカーにしてやったら喜ぶだろう。
彼女の拡声マイクをチョーカー仕立てにしてやったのはつい先日の事。

――おう、私、良い事思いつくましたね。

そして、ではロットンが欲しそうな物は何か無いだろうか、と思案する。
ソーヤーだけにお土産があるというのは良くない。
不公平だ。
拗ねられるかもしれない。
しかし、彼が欲しそうな物といっても一向に思いつかない。
服飾品には大層なこだわりがありそうなので、下手なものを贈る事も出来ない。
かといってミルクはもう結構だ。
欲しそうな物でなければ、何か必要な物、足りない物でも……。
シェンホアは考えを巡らせる。

――そうね! あのメイドにやられてお釈迦になるましたプロテクター……。

超合金メイドの蹴りを受けて見事にべっこりとへこんだプロテクターの無惨な姿が蘇り、
一瞬、とても良い考えが浮かんだように思えたが、シェンホアは即座に正気に戻った。

――あいや、私、なに考えるか!

さすがに土産でプロテクターは無いだろう。
実用的なら良いというものではない。
慌てて却下して、シェンホアは家路を急いだ。


580 :張×シェンホア 苦労性  ◆JU6DOSMJRE :2010/07/04(日) 21:08:00 ID:CIp8cqrP

「ただいま帰るましたよ!」
部屋に戻ってみれば、果たして、そこには当然のような顔をしてソーヤーとロットンが待っていた。
「オ帰…り、…シェンホア」
帰ってきた時に出迎えてもらえるのは、やはり嬉しい。
「良い子にしてるましたか? お腹、空いたか?」
「……うン。…少し」
「……かなり」
壁にもたれかかってポーズをつけるロットンがシェンホアの目の端に映るが、
もう好きなようにさせておこう、と思う。

「おう、それ、良い事ね。何か食べたいものあるなら言うよろしいよ。作ってやるですだよ」
「じゃ…ア、フカヒレ…」
「…………燕の巣」
「はあぁぁぁぁぁぁぁ!?」
せっかく太っ腹にリクエストを聞いてやったというのに、この二人の図々しさはどうだろう。
厚かましいにも程がある。
シェンホアの声は裏返った。
「調子乗るないね、このアホちんども! それ食べるご希望なら、自分で取って来るよろしいね!」


ああ、前途は多難。
先程、この共同生活も悪くないなどと思ったのは気が早かっただろうか?
シェンホアの頭はまたしても軽く痛み出したが、
しかし、そんな事もどこかで楽しんでいる事もまた、事実なのだった。

一樹の陰一河の流れも他生の縁。
こうしてけったいな者たちが集まったのも、何かの縁だろう。

シェンホアは軽やかに、ひらりとエプロンを取り上げた。








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