184 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:39:01 ID:X9EqbPeE


「レヴィ、これ、きっとあの子だよ」

ロックがそう言った時、あたしは耳を疑った。

――ありえない。

ロックが「部屋のドアの前に置いてあった」と言って差し出したハンカチの中には、
カマドウマの死体が転がっていた。
ぴくりとも動かないまだらの茶色をした虫を、あたしはただ凝視した。

少し前、どういう風の吹きまわしか、小さなねこがあたしの部屋までついてきて、そのまま居座った。
怪我の手当てをしてやって、食事と寝る場所をくれてやったそいつは、ついこの間、勝手にいなくなった。

「ほら、レヴィ、褒めてやっただろ? 獲ってきた時、よくやった、って。
だから、お礼のつもりじゃないか?」
ロックの言葉が脳味噌を通過していく。
あいつは、ぽやぽやしたベビーフェイスに似合わず、
自分の口からはみ出るほどデカい虫を捕まえて、あたしのところへ見せにきた。
小さな口から長い虫の脚を飛び出させて、得意げに。
どうやらロックは、一言の挨拶もなしにいなくなったあいつが、このカマドウマを持ってきたのだと、
そう言いたいらしい。

――ありえない。

あたしは言葉を失っていた。
表の通りを、ジョン・F・ケネディがマリリン・モンローと腕を組んで、
フランク・シナトラを歌いながら歩いていたと聞いたって、こんなに驚かなかっただろう。


ロックの言うことが「信じられなかった」からじゃない。
それは本当に、「ありえない」ことだったからだ。



185 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:40:07 ID:X9EqbPeE

 * * *

ふらりとやってきたあいつは、閉め忘れた窓の隙間から出て行った。
「さよなら」も言わずに。
ロックは「早く探さなきゃ」と言ったが、あたしには予感がしたのだ。
もう、会えない、と。

バーのカウンターに並んで酒をかっくらい、「じゃあまたな」と挨拶した奴が、
次の日の朝にはどぶ川に背中を見せて浮かんでいる。
ここは、そんな世界だ。
澱んだ濁流が渦巻くこの街では、一度手を離してしまえば二度目は保障されない。
あいつとあたしの手は離れた。
だから、もう、会えない。
――少なくとも、生きては。

それでも、「まだそのあたりで迷っているかもしれない」と言うロックに背中を押されるようにして、
あいつを探しに外へ出た。
あいつが万が一、部屋に戻ってきた時のためにロックを部屋に残し、あたしはひとりであいつを探した。
太陽の光が段々と強さを増し、肌をじりじりと焼いた。
こんな暑い日の真っ昼間からふらふらと街中を歩きまわるなんてのは、阿呆のやることだ。
我が物顔の太陽が照りつけている間はおとなしく室内ですごし、
その暴君がはしゃぎ疲れて沈んだ頃になって、人間はようやく行動開始。
賢いやつなら、そうする。

けど、あたしは阿呆だから、首筋を汗が伝うのもそのままに、
路地裏という路地裏に入りこみ、ゴミ捨て場をひっかきまわし、地面にはいつくばっては、停車している車の下をのぞいた。
薄暗い路地裏に積み重なったプラスチックの残骸を蹴り崩し、腐った水を吸って重くなった段ボールをめくりあげる。
ゴミの山からつき出ている金属片を掴んで、腐臭を放ちはじめている生ゴミがはみ出した袋を転がす。
通りがかりの奴等の不審そうな視線を感じたが、
あたしがそちらに目を向けると慌てたように目を逸らし、足早に去って行った。
こんなことをしていても、ねこなんか見つかるわけがない。
警戒心の強いあいつらは、簡単に人間の目に届くようなところでのうのうとはしていない。
しなやかな体で、するりと街の隙間にまぎれこむ。
分かってはいたが、あたしは聞き分けの悪いガキのように、ひたすら街をさまよい歩いては、
塀の上を見あげ、小さな隙間に目をこらした。

そうして、喉の渇きを覚えはじめた頃にのぞきこんだ路地裏で、
あたしは自分の予感が的中していたことを知らされた。


186 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:41:03 ID:X9EqbPeE

――もう、会えない。

すぅっと、暑さが遠のく。
頭から冷水を浴びせかけられたかのように、血の気がひいた。
血管が凍りつく。

――見ろ、あたしの勘は冴えてるぜ。絶好調だ。

喉は鉛をしこたま飲みこんだように重く、足は地下に根を張りめぐらせた木のように動かなかった。

――もう、会えない。少なくとも、生きてるあいつとは。

ほそい路地裏の行き止まり、ジュートの残骸が吹き溜まったその間から、見慣れた毛並みがのぞいていた。
だらりと投げ出された四肢。
茶色い縞模様。
足の先と腹が白い。
顔の周辺はジュートの下になっていて見えないが、忘れるわけがない。

――あいつだ。

近寄らなくたって分かる。
あの小さな足も、長いしっぽも、茶色い縞の入り方も。

――あいつだ。

それは、一瞬見ただけで、もう生きてはいないと知れた。
とろける毛並みは薄汚れた毛のかたまりとなり、
触るとやわらかく手に馴染んだ体はただの肉と化しているのが分かった。
物体。
もうそれは、ただの物体だった。
元、ねこだったもの。
息づかいも、体温も、なにも感じられない。
有無を言わせぬ、死の気配。
お馴染みの匂い。


あたしは、根の生えていた足を、どうにか地面からひきはがした。
一歩ずつ、近寄る。
記憶違いであって欲しい、人違い――いや、ねこ違いであって欲しい、
そんな期待を裏切って、一本の脚に巻きついた包帯が見えた。

――あたしが巻いてやった。

頼りない足取りでひょろひょろと部屋までついてきたあいつは、
使い古しの雑巾でもこれよりはましというほどにボロボロだった。
長い間、路上で暮らしていたのだろう、汚れで固まった毛はたばになっており、
ろくに食べていないらしい体は、骨が透けて見えるほどに痩せほそっていた。
怪我をした傷痕は生々しく赤い口を開けており、このまま放っておけば化膿することは必至に思われた。
ついてくるなと思ったが、まん丸な目で見あげられて、つい、ほだされた。
嫌がるあいつを無理矢理洗って、傷口を消毒してやり、包帯を巻いた。
しばらくの間はよろよろしていたが、洗ってやったせいで毛づやだけは良くなった。
よく、器用に体を曲げては小さな舌を出し、ぺろぺろと体中を舐めていた。
段々と怪我が治ってきて、包帯も一箇所、また一箇所と取れていった。
もう少しだ。
もう少しで、治る。
そう思っていた、最後の一箇所だった。


187 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:42:05 ID:X9EqbPeE

あたしは、薄汚れたジュートの隙間から伸びた四本の脚の前に立った。
そして、しゃがみこんで、上半身にかぶさっていた布の残骸を取り払った。

――ああ。

顔を見る前から、あいつだということは分かっていた。
それでも、埃まみれのジュートの下に、小さな頭と、白い鼻先、ほそい喉元を見た瞬間、
あいつだ、という現実が、洪水のように迫ってきた。
喉の奥から、重いかたまりがせりあがる。
どうにも動かしようがない「死」という現実に飲みこまれそうになって、
あたしは思わず、片手で口を覆っていた。
眠っている間にも時折小さくふるえたほそいひげは、今はぴくりとも動かず、
光にあたるとピンク色に透けた耳の内側は、澱んでいる。
撫でてやると心地よさそうに目をほそめ、ごろごろ鳴った喉は、もう二度と鳴らない。
グラスについだラム酒のような色をした目は、力なく落ちた瞼に遮られ、もう二度と見られない。
小さな体に相応しい「にゃーん」というやわらかい鳴き声も、もう二度と聞けない。

――遅かった。

あたしは自分の間抜けぶりを呪った。
思えば、符号はいくつもあった。
最初のガリガリに痩せほそった状態からは抜け出したものの、その後も不思議なほどに太らなかった。
食事を出してやっても、食べ方が少なかった。
なんとなくだるそうにしていて、吐いたこともあった。
エアコンの冷たい風を嫌がり、暖かいところを探して丸くなったり、あたしで暖を取るようにくっついてきたりした。
おかしいなとは思ったが、部屋に帰ると小走りに近寄ってきたり、
「メシだぞ」と言うと目を輝かせて、くにゃくにゃと脚にからみついてきたりしたので、
そんなに深刻になることはないのかと、高をくくっていた。
暖かいところを探し歩くのも、
エアコンを止めてやると、あたしの腹のところに落ち着いて眠り出したので、
少し体調が悪いだけなのかと、油断した。

でも、そんなはずはなかったのだ。
このクソ暑い中、いくらねこだからといって、エアコンを止めてちょうど良いなんてのは明らかに異常だった。
本当なら、とっくに病院へ連れて行っていなければならなかったのだ。

――気づいて、いたのに。

中途半端に情けをかけてやるくらいなら、いっそ全くかけない方が良い。
だれかを助ける、他の命をひき受けるということは、自分が滅びる覚悟をするということだ。
そうでなければ、だれかを救済することなどできない。
その場限りの優しさなんて、クソほどの役にも立たない。
善いことをしてやったという、自分可愛さの自己満足でしかない。
善人である自分に酔っているだけ。
安全なところから見下して、自分は豊かなまま、余った分だけを恩着せがましくほどこすのだ。
――偽善者め。
あたしはそういう人間を忌み嫌っていた。
なのに、気づけばあたしも同じ穴の狢だ。


188 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:42:54 ID:X9EqbPeE

――お前、なんであたしなんかについてきた?

あたしの専門は、殺しだ。
他のだれかの命をひき受け、助けてやることなど、まったくの門外漢。
慣れないことをするから、こうなった。

――馬鹿な奴……。

もっと別のだれかについて行っていれば、もう少しは長く生きられたかもしれないのに。
あたしは、おそるおそる、小さな頭に手を伸ばした。
茶色い毛に覆われた額に触れた瞬間、かくん、と軽い頭が動いた。
ちょうど触れた手の強さの分だけ、正確に動いた。
胡桃の殻のような軽さだった。
耳の後ろへ滑らせても、ただあたしの手が物体を動かしているだけ。
それは明らかに“モノ”の手触りだった。
耳の後ろを掻いてやると、「もっと」というように頭をすり寄せてきたあの体温は、もうどこにもない。

あたしは埃だらけの地面に腰を落とし、乾いたポリバケツの間に体を押しこめた。
やっぱり、ひとりで探しに出て正解だった。
膝を抱えて、顔をうずめる。
だって、こんな顔は誰にも見せられない。

部屋ではロックが待っている。
行って、告げなければ。
ことの顛末を。
分かってはいたが、あたしはそこから動けなかった。

――言えるか?

あたしは自問した。
部屋で待っているロックに、
「あいつなら、路地裏でくたばってたぜ」
そう、言えるか?
乾いた声で、平然と、いつものように。
答えは簡単に出た。

――ノー、だ。

乾いた声、どころじゃない。
今のあたしときたら、一言だってまともに言葉を発せそうにない。
あたしは奥歯を強く噛みしめた。
頭蓋骨までもが強ばって、頭が痛くなってくる。

自分の湿った呼吸に窒息しそうになって、あたしは腕の中にうずめていた顔をあげた。
路地裏から見あげた細長い空は、馬鹿みたいに晴れていた。
クレヨンのスカイブルーを力まかせに塗りたくったように、雲ひとつない快晴だった。
こんなちっぽけなねこが一匹死んだことなど、痛くも痒くもない。
そうやってせせら笑うかのように、暴力的な光の束を投げつけてきていた。

そう、こんなのは、まったく見慣れた光景だ。
珍しくもなんともない。
この街では、コカ・コーラ・カンパニーの自動販売機よりも死体の数の方が多いくらいだ。
人間の死体なんて、飲み終わったコークの缶と同じ。
ましてや、ねこの死体など。
あたしはそんなものを見てもなんとも思わない。
そのままにしておくと、腐って腐臭が漂い出す。誰か片づけてくれねぇかな。
そんな程度だ。

なのに、今は駄目だった。

189 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:44:17 ID:X9EqbPeE

――お前、そんなにあたしのところが嫌だったのか?

あたしは茶色い背中を撫でた。
肉の薄い背中。
こんなに痩せているのに、ふわふわした毛皮の下からはちゃんと、強ばった肉の硬さが伝わってきた。
死の手触り。
横にすべらせると、背骨を掌に感じた。
あの夜、今にも死にそうな体で、そんな体であっても出て行きたかったのだろうか。

――あたしのところよりも、こんな薄汚い路上の方が、良かったのか?

外の空気が吸いたかったのだろうか。
高い空を見たかったのだろうか。
こいつは、あの狭い部屋も悪くないと思ってるんじゃないかと、そんな風にあたしは感じていた。
でも、それは大変な勘違いで、あたしはただ、こいつを狭苦しい部屋に閉じこめておいただけだったのではないか。
こいつのためだと言いながら、あたし自身のために――。
こいつがあたしを必要としてたんじゃない。
逆だ。
本当は、あたしの方が――。

あたしは、こみあげてくる嗚咽を噛み殺した。
もう、ただの物体となり果てたあいつを見る。
生気を失った毛は少々ぱさついているが、小さな体はまだ綺麗だ。
――けれど、じきに、その皮膚の下には白い蛆虫がはいまわり、腐肉を食らい、
小さな体を民主的な蝿どもが黒く覆い尽くすだろう。
死んでしまえばただの物体。
みんな同じ。
こうやってみすぼらしく路地裏に転がろうが、白い花に囲まれて盛大に賛美歌を歌われようが、
死ねばみな同じだ。
弔いなんて、残された者の気休めだ。

それでもあたしは、こいつをここに残して立ち去ることはできそうになかった。
このまま腐敗するにまかせ、蛆虫や野良犬どもに食らわせてやるなんてことは。

あたしは、あたりに折り重なっているジュートの中から適当な大きさのものを掴み出して広げ、
小さなねこの体をすくいあげて、そのジュートで包んだ。
ロックも、最後に会っておきたいだろうか。
部屋でやきもきしているに違いない男のことが頭をかすめた。
こいつはロックにはちっとも懐かなかったが、どんなに素っ気なくされても、
ロックはめげずにあたしの部屋へやってきて、目をほそめてこいつを見ていた。
あの男もあの男なりに、こいつに愛惜の念を覚えていたに違いない。
ロックにも会わせてやるべきだ。

しかし、あたしは部屋に戻ることはできなかった。
体に芯を入れ直して、なんとか往来を歩けるくらいには回復した。
――けど、ロックにはバレる。
このままロックと顔を合わせれば、部屋に戻る前のあたしがどんなだったか、確実に、バレる。

――許せ、ロック。

あたしは心の中でロックに謝り、ジュートでくるんだ小さな体を持ちあげた。
生きていた時に抱きあげると、くにゃりとした体が、腕にやわらかくからみついた。
なのに、今の体はよそよそしく、あたしの腕を拒絶するように固まっていた。
持ちあげた体は、哀しくなるほど軽かった。



190 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:45:46 ID:X9EqbPeE

あたしは雑貨屋でスコップを一本買って、海とは逆の方向に歩いた。
太陽が容赦なく照りつける街並みを、機械的に、脚を交互にただ動かした。
街はずれまで行くと、建物がまばらになってくる。
じきに、植物の方が多くなって、草木の匂いが濃くなった。
道はゆるい上り坂となっていた。
道ばたに生えた木が海からの風を受け、葉をざわつかせた。
街外れには、なだらかな丘があった。
あたしは雑草を踏みしだいて、人気のない丘を登った。
木の陰に入ると少し暑さがやわらぐ。
伸び放題の下草が、ふくらはぎに擦れた。
雑草をかき分けながら、あたしは上を目指した。

木立の間を抜けると、開けた頂上に出た。
さほど高い丘ではないが街と海が一望できる。
あたしは手頃な背の低い木を見つけ、ジュートの包みをその根元に置いた。
そして、ちょぼちょぼと草の生えている土にスコップをつき立てた。
土を掘りおこして、捨てる。そしてまた、つき立てる。
土をすくって、捨てる。何度も、繰り返す。

あたしは穴を掘った。
小さなねこにはいささか深すぎる、カラスや野良犬に掘り返されたりしないくらいの穴を。
そうして、その底に、ジュートの布ごと小さな体を置いてやった。
あとは、この穴のまわりで山となっている土をかぶせるだけ。

その時、急激にあいつの顔が見たくなった。

――もう一度。

この土をかぶせてしまえば、もう、二度と見られない。
あの、つんと上向いた鼻筋の曲線も、とがった耳も。
写真なんか一枚もない。
もう、これが最後だ。

あたしは地面に膝をついて、ジュートの布を取り払った。
中には、相変わらず小さな顔が、ことんと垂れていた。

――忘れない。

また喉が狭くなるのを感じながら、あたしはやはり部屋に戻らなくて良かった、と思った。
ロックの前でも、きっと抑えることができなかった。

あたしは塩からい唾を飲みこんで、近くの灌木に走った。
そして、その灌木にからみつくように咲いていたブーゲンビリアを、ひきちぎった。
つる状の部分がずるずるとついてくるのを、力まかせにたぐり寄せる。
あたしの腕の中は、たちまち、濃いピンク色をした花であふれた。
その薄く乾燥した、キャンディーの包み紙を寄り集めて広げたような花の群れを、あいつが横たわる穴の中に落とした。
殺風景だった穴の中は、少しだけ陽気になった気がした。

――じゃあな。

こんなのは気休めだ。
あたしの、身勝手な気休めだ。
でも、こうでもしなければ、あたしはあいつの上に土をかぶせることができなかったのだ。
まったく情けない話だ。
もう数えるのもアホらしくなるくらいに人を殺した女が。
そんな女が、花に囲まれたあいつを何度見てもなお、なかなかスコップを手に取ることすらできなかっただなんて。

笑いたければ笑うがいい――。


191 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:46:48 ID:X9EqbPeE

すっかり穴を埋め戻したあたしは、木の根本に腰を下ろし、幹に頭をもたせかけた。
空は相変わらず、どこまでも青い。
この世の中に憂うことなんかなにもない、とでもいうかのように。
あたしは指一本動かす気になれずに、ぐったりと座りこんでいた。
しばらく経って、ひどく喉が渇いていることに気がつき、あたしはのろのろと立ちあがった。
丘を下りてペットボトルの水を買い、また丘を登る。
ペットボトルの栓を開け、まず、埋め戻したばかりの土の上に水をかける。
乾燥した土に、水はじゅうじゅうと音を立ててしみこんでいった。
そして、今度はペットボトルに直接口をつけて、あおった。
重たい水が一気に喉に流れこんできて、むせる。
咳き込んで、今度は慎重に流しこんだ。
喉の渇きはおさまったが、空っぽだった胃にものが入ってくると急に気分が悪くなって、
あたしはまた木の根本にへたりこんだ。

空の青が黄色っぽくなって、オレンジ色に変わっても、あたしは同じところに座っていた。
ラッキーストライクの箱を取り出して、最後の一本をひき抜き、火をつける。
慣れた匂いの煙が、今日はやけに目の奥にしみた。
――あいつが部屋までついてきた日も、こんな空の色だった。
つい、ぼんやりとそんなことを考えていて、あたしは頭を振った。

――早く立て直せ。

早くしっかりと立って、いつものあたしに戻らなければ。
部屋に帰って、ロックに告げる仕事が残っている。


けれどあたしは結局、とっぷりと日が暮れて海風が陸風に変わるまで、
そこから腰をあげることはできなかった。



192 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:48:07 ID:X9EqbPeE

重い足をひきずって自分の下宿へと歩きながら、あたしはロックが帰ってしまっているといい、と思った。
正確な時間は分からないが、あたしが部屋を出てから半日くらいは経っているだろう。
これだけ時間をおいてもまだ、ロックにあいつのことを告げるのは気が重かった。

果たして、下宿の前にたどりついてみればあたしの部屋の明かりはついていて、
ドアを開けるとロックは律儀に待っていた。
「……お帰り」
「……ああ」
ロックは、あたしと、あたしの周囲を小さく目で探った。
「……どう?」
あたしはただ首を横に振って答えた。

――あいつなら、路地裏でくたばってたぜ。

その一言を口に出すことが、どうしてもできなかった。
口に出したら最後、必死で押しこめている感情があふれてしまいそうだったからだ。

そして、ドアを開けた時、無意識に、駆け寄ってくるあいつの姿を探していた自分に気づいて、
あたしは愕然とした。
この手で埋めてきたばかりだというのに。
完全に、無意識だった。
頭とは別のところで、感覚が自然にあいつを探していた。

あたしはイスをひいて腰かけた。
「はい」
ロックが缶ビールを差し出してきたので、なんとなく受け取ったが、
今なにか胃の中に入れたら確実に胸が悪くなるような気がして、
あたしはそれを開けずにテーブルの上へそのまま置いた。
代わりに、帰る道すがら買ってきたラッキーストライクの箱から一本取り出して、くわえた。

ロックはなにも言わずに、ただ差し向かいに座っていた。
煙草は便利だ。
なにも喋らなくて済む。
この男だって、訊きたいことは山ほどあるだろう。
あいつがどこで最期を迎えたのか、どんな様子だったのか、そして、あたしがどうしたのか……。
けれど、この時のあたしは、自分のことだけで精一杯だったのだ。

自分の部屋を見れば見るほど、居心地の良さとは対極にある部屋だ、と思う。
家主そのままを表すかのように、古ぼけて薄汚い部屋だ。
ねこが喜びそうなものなんか、ひとつもない。
あたしはいい気になって寝床を提供してやったつもりになっていたが、
こんなところ、長居をしたい部屋では断じてない。


193 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:51:01 ID:X9EqbPeE

また間違えた、と思う。
もしかしたら、あいつもここが気に入ったんじゃないかと、そんなことを考えていた。
夜になるとベッドにもぐりこんできて、やわらかい体を寄せて眠るあいつを見ていると、
貧相なガキだった頃の自分を思い出した。
ニューヨークの路上をねぐらとしていた頃のあたしも、こうだった。
あの街は寒い。
下手すると命取りとなる寒さをしのぐため、あたしたちストリート・チルドレンは身を寄せ合って眠った。
集団でいれば、謂われのない暴行を受けることも少しは減る。
おかげで、あたしは今でも狭いところが落ちつくし、腹を見せて眠ることができない。
――お前も、そうか?
弱い者どうしが身を寄せ合うように、眠っていたのだろうか。
ここは安全だ。
ここにいたければ、いてもいい。
あたしの腹のあたりでくるんと丸まるあいつを見て、そんな馬鹿なことを考えていた。

けれど、あいつは出て行った。

あたしは何度間違えば気が済むのだろう。
生まれた時から疎まれ続け、ずっとはみ出し者だった。
あたしの手を取ってくれる者はだれもいなかった。
だから、つい気になる。
あの頃のあたしに似た奴を見ると、つい――。
もしかして、こいつも、あたしのように……、と。

でも、違う。
その後待っているのは、手酷い拒絶だ。
お前とは違う。
そうやって、手を振り払われる。

分かっていたことだ。
何度も繰り返した。
その度に、学んだ。
あいつとあたしとは違ったんだ。
思い違いをしたあたしが馬鹿だったんだ。
そうやって学んで、――そしてまた、どこかであたしと同じ、別の誰かを探していた。

もう期待はしない。
期待しなければ失望もしない。
今はマスターしている。完璧に。
そう思っていたのに。

「ここが嫌だったんなら、最初っからついてくんな……」

おかげであたしは、いい笑い者だ。
相手もいないのに、たったひとりでタンゴを踊った。

「レヴィ……」
ロックのつぶやく声が遠くに聞こえる。
「…………手間、取らせやがって」
あたしは本来、ねこの死体なんか見ても、顔色ひとつ変えずに通りすぎることができる女なのだ。
死体を見たその足で酒場に繰り出し、酒を呑み、場合によってはそれを肴にして呑んでやったっていい。
そんなあたしが、あんなご丁寧に丘の上に埋めてやっただなんて。
葬儀屋の真似事なんて、まったくの予定外だ。

――あたしは、あいつの墓を作ってやるために部屋に入れたわけじゃねぇ。


194 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:52:15 ID:X9EqbPeE

「レヴィ!」
突然、ロックの鋭い声が鼓膜につき刺さった。
「あの子が自分から出て行ったって、どうして分かるんだ! ここが嫌で出て行ったわけないだろ!」
ロックはテーブルを挟んだ向かい側から、眉をひそめてあたしを見ていた。
そして、むきになったように言いつのった。
「ちょっと夜の散歩に出ただけさ。そして道に迷ったんだ、きっと。
ここが嫌だったなんて、そんなことはありえない」
ロックの、あたしに都合の良い言葉が、うすら寒く響く。
夜の散歩? 道に迷った?
「――やめろ、ロック。相変わらず甘ちゃんだな。ベビー・ルースのチョコ・バー並に甘いぜ。
そんな譫言は聞きたくねえ」
そう、譫言。
まったく筋道の通らない、根拠のない言葉だ。
そんな言葉を聞かされたって、虚しいだけ。

――じゃあ、どうして出て行った。

ここが嫌で出て行ったわけじゃないなら、どうして出て行ったっていうんだ。
あたしが問い返すより先に、ロックは言い切った。
「譫言でも慰めでもない。事実だ」
あまりにも厳然と言い放たれて、あたしは一瞬言葉に詰まった。
「あの子がレヴィのことをどんなに好きだったかなんて、レヴィが一番よく知ってるはずだろ」

――違う。

「どんなに好きだったか」、じゃない。
「好きだったらいいと思っていたか」、だ。
あいつが、あたしのことを。
まったく滑稽だ。
そんな期待は、とうの昔に捨てた。
そう嘯きながら、性懲りもなく、また期待した。

「……レヴィ、他人の好意を否定するのは、無礼だ」

ロックの声が低く響く。
“好意”?
あたしは唇を醜く歪めて笑ってやりたかった。
“好意”なんて、あたしが知ると思うか?
誰からも好かれたことのない女、誰からも思いを寄せられたことのない女が、“好意”のなにを知る?
そんなものは知らない。

あたしは誰かを殺したり傷つけたりすることしかできず、
そんなあたしのそばからは、みんな去っていく。
今ここで、もっともらしい御託を並べている男だって、いずれ――。


195 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:52:48 ID:X9EqbPeE

――手を離せ。

この男も、いずれはあたしの元から去って行く。
分かりきっていることだ。
間違いはもう二度と繰り返さない。
いつかは去って行くのだったら、今ここで、手を離してしまえばいい。
あたしの方から。
手を振り払われるよりも、自分から離した方が、痛くない。

――言え。

ロック、あんたも出て行ったっていいんだぜ、と。
そうしたら、この男はほっとしたように出て行くだろう。
こんな扱いにくい女のご機嫌伺いはおしまい。
お役御免。
ほっとした。
せいせいと、軽やかな顔で。

――さあ、言うんだ。

「……ロック」
あたしは口を開いた。
「ん?」
「……あんたは、言って行けよ」
「え?」

しかし、口からこぼれ出た言葉は、
言わなければいけなかった言葉とは随分とかけ離れたものだった。
「あんたは、ここから出てく時、ちゃんと言って行けよ」
結局あたしは、未練がましい臆病者だった。
「出てくって、俺は出てったりなんか――」
「ロック!」
あたしは無意味な上っ面だけの言葉を遮った。
そんな薄っぺらい言葉なんか聞きたくなかった。
「そんなことは訊いちゃいねぇ。あたしの訊いたことにだけ答えろ。
出てく時、ちゃんと言えるのか言えねぇのか。イエスかノーかだ。赤ん坊でも答えられる」
本当は、「お前も早く出て行け」と言わなければならなかった。
けれど、言えなかった。


196 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:54:01 ID:X9EqbPeE

部屋に戻る途中、この男が帰っていてくれればいいと思った。
でも、今はいてくれて良かったと思っている。
人間がふたりいても不在者の穴ばかりが際立つこの部屋に、
もしもひとりっきりだったなら、多分あたしは駄目だった。
暗い部屋のドアを開け、電気をつけたと同時にあいつの影を探し、それに一瞬遅れて、
ああ、あいつはもういなかったのだと気づく。
あたしはその不在の重みにひとりで耐えられただろうか。
甚だ、自信がなかった。

だから、もう少しだけ、この男にはそばにいて欲しかった。
もう少しだけでいい。
一度にふたつの喪失を味わうのは、いささか気が重い。
もうひとつの喪失は、先延ばしだ。
できることなら前もって告げてくれれば、なお良い。
そうすれば、ちゃんと「さよなら」が言える。
「じゃあな、暇つぶし程度には楽しかったぜ」
なんだったら、それぐらいの言葉はサービスしてやったっていい。

だから、それくらい、「イエス」と言って欲しい。

「………………イエス」
沈黙の後、望んでいた答えがやってきて、あたしは頷いた。
「……それで良い」
ほっと小さく息を逃がしたが、「いいな、約束したぞ」と口に出してすぐ、自己嫌悪に襲われた。

――女々しい。

約束など、やぶるためにあるのだ。 
こんな口約束を取りつけたって、その時がくれば、この男は何事もなかったかのように去って行くだろう。
あたしが気づくのは、すべてが終わってしまった後。
ロックはこんな約束をしたことすら、忘れているだろう。
あたしひとりが、下らない約束にすがって――。

そんな女々しい自分に、吐き気がした。


197 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:54:54 ID:X9EqbPeE


次の日、あたしは業務が終わると逃げるように部屋へ帰った。
もう用済みとなったタオルやカゴ、砂を片づける。
あいつを思い出させるものは、処分してしまおう。
あたしは手早く粗大ゴミとなったものをまとめて、部屋の隅に積みあげた。

――喜べ。

あたしは思った。
もう、このクソ暑い中、あいつのためにエアコンを我慢することも、
ただでさえ狭いベッドを空けてやって、小さなあいつをつぶさないように気をつけながら寝ることも、
決して多いとはいえない賃金からあいつの食費をさくことも、
面倒なトイレの処分も、傷の手当も、なにもしなくていい。

けれど、それは逆効果だった。
ふわふわとやわらかい手触りや、大きな丸い目が輝くところ、
長いしっぽの先だけがぱたぱたと小さく動く様子が、鮮明に思い出されただけだった。
あたしはすっかり慣れてしまっていたのだ。
あいつのいる生活に。
楽しかった、と思う。
でも、嬉しそうにすり寄ってきて額をこすりつけたあいつも、
あたしの腹の上で安心したように眠りこけるあいつも、
今となってはすべて、あたしの虫のいい脳味噌が見せた幻影なのではないかという気がしてきた。

――ほんとは、どうだったんだよ。

あたしはぼんやりと空中を見あげた。

答えは、なかった。
当たり前のことながら。



198 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:56:19 ID:X9EqbPeE


 * * *

あたしはロックの差し出したカマドウマを受け取ったまま、固まっていた。
脳裏をあの日の出来事が、すさまじい勢いでよぎっていった。

――ありえない。

あいつはあたしがこの手で埋めた。
だから、このカマドウマをあいつが持ってきただなんて、そんなことはありえないのだ。
絶対に。
これがメイン州ラドロウだったなら、あるいはそんなことも起こるかもしれないが、
あいにくここはタイの魔都、ロアナプラだ。

そして、あたしはロックが大変な思い違いをしていることに、この時はじめて気がついた。

――まだ、あいつが死んだと知らないのか――。

あたしはすっかり、ロックがあいつが死んだことを知っているのだとばかり思っていた。
はっきり「死んだ」とは言わなかった気がしたが、当然伝わっているつもりになっていた。
けれど、いざ思い返してみると、あたしはあの時、ただ首を振っただけで、他にはなにも言わなかった。
その後の会話に齟齬がなかったから、思い違いをしていたのだ。

――ロック、違う。

「どうして出て言ったのかは分からないけど、あの子はレヴィといる時、幸せそうだったよ。とても。
幸せそうだった。……それだけは、確かだ」
ベッドに腰かけていたあたしの頭の上から、ロックの言葉が降ってくる。

――やめてくれ。

あたしは耳を塞ぎたかった。
あいつはもう死んでしまっている。
ちゃんと言わなかったのはあたしが悪い。
でも、やめてくれ。
その虫は無関係だ。
甘い幻想にひたるのはやめろ。
――怪我をしたねこは元気になって、その後ずっと、末永く幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし、――と?
そんなのは、ウォルト・ディズニー・カンパニーが吐き出す夢物語だ。
その虫には、なんの意味もない。

「――あの子はとても、幸せだったんだよ、レヴィ」
あいつは幸せだったと、ロックは何度も繰り返した。

――やめろ、ロック。あいつはもういない。

声をあげそうになったその瞬間、あたしは唐突に気づいた。

199 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:57:21 ID:X9EqbPeE

――あたしの、ためか……?

あいつがこれを持ってきたのは、あたしと一緒に暮らして楽しかったからだと、
ロックはそう言いたいのだろうか?

「今もきっと、どこかでたくましく生きてるさ。
大丈夫、レヴィにしか懐いてなかったんだ。
ちゃんと警戒しながら生きてくよ。俺にしたみたいに、ね」
そのうち、またどこかで会うかも。
ロックは続けた。
自分がそう信じたいというよりも、あたしに言い聞かせるように。

――馬鹿な……。

あたしは声が上擦りそうになるのを必死で抑えて、なんとかしぼり出した。
「……だからあんたは甘ちゃんだ、ってんだ。呆れた楽天家だぜ、ポリアンナ。
世の中そんな、クリスマスのボンボンみたいに甘くねえ。
もう終わったのさ、ロック。幕は下りた。そろそろお家に帰る時間だぜ」

『諸君、喝采を。喜劇は終わった』
あいつはとっくにくたばってるんだぜ、ロック!
柄にもないことをした滑稽な女の喜劇は、これにて終幕。
さあ、笑え! 笑えよ!

そうやって両手を広げて笑いとばしてやっても良かった。
ロックの言っていることは、まるで巨大なウェディング・ケーキだ。
外側はパステルカラーの甘いクリームに彩られているが、内側は空洞。
けれど、あたしはそれがただの張りぼてだと、指を差して嘲笑してやることができなかった。
ロックの、言っている内容とは裏腹の、切迫感を伴った真剣さのために。

「……でも、まだルーレットの球がハウスナンバーのダブルゼロに入ったと決まったわけじゃない。
ストレートアップが的中するかもしれないだろ?」
ロックはめげずに続ける。
――ダブルゼロなんて話じゃない、本当は。
有り金全部巻きあげられて、とっくにゲームオーバー、だ。
ストレートアップは、永遠にこない。

あたしは、ロックから受け取ったハンカチの中のカマドウマをじっと見た。
ロックは、一体どんな顔をしてこのカマドウマを捕まえたのだろう?
あいつがカマドウマをくわえてきた時、ロックは心底この虫を嫌がっていた。
見ただけで目玉が腐り落ちるという勢いで。
情けなく叫び声をあげて、腰は完全にひけていた。
そんなこの男が、ただあたしのためだけに、
あいつがあたしと楽しくすごしたのだと、ただそれだけのことを言いたいがために、これを、
こんな一文の得にもならない嘘をついてまで……?

「…………馬鹿な奴……」


200 :ロック、レヴィ 居候・レヴィ視点  ◆JU6DOSMJRE :2010/09/04(土) 22:58:34 ID:X9EqbPeE

反射的に顔が歪んで、あたしは急いで立ちあがった。
ふるえそうになる唇をきつくひき結んで、キッチンへと向かう。
ゴミ箱へカマドウマを投げこんで、あたしは思った。

――いいだろう、騙されてやる。

ロックがそこまでするのなら、騙されてやってもいい。
理由は分からないが、あの小さな生き物はここを気に入っていた。
あたしが帰ると駆け寄ってきて、嬉しそうにやわらかい体をこすりつけていたのは、
あたしの幻影なんかじゃなかった。
少なくともロックの目には本当にそう見えていたのだということが、あたしを少し心強くさせた。


あたしは、この世にはもういないあいつの顔を思い浮かべた。

お前は、こんな街に生まれついてしまって、面白くもなんともない一生を送っただろう。
だから、今度生まれてきたら、優しい人に飼われるといい。
あたしみたいなうつけ者なんかじゃなく、ちゃんと気のつく、優しい人に。
あたしは来世なんか信じちゃいないが、お前は仏教国タイの生まれだから、
もしかしたら輪廻の渦に巻きこまれるかもしれない。
もし、もう一度戻ってくることがあったなら、次は一生苦労することなく、
優しい飼い主にたらふく好きなものを食わさせてもらって、死ぬほど可愛がられて、幸せにすごすといい。
お前はこのロアナプラで、きっと来世の分まで苦労しただろうから、多分それは叶う。
世の中、トータルで見れば、それなりにバランスが取れてるものだ。
次こそは、幸せになれよ。





――けど。

けれどもし、また捨てられたり、路頭に迷ったりして、どうしようもなくなったら。
その時はまた、この街までたどりついてみせろ。
ここは吹き溜まりの街。
すべてのものの終着点。
このしょうもない街に、なんとしてでもたどりつけ。
山があったら越えてこい。
海があったら渡ってこい。
お前は可愛い顔に似合わず、意外と根性のある奴だったから、それくらいはできるだろう?
そうして、たどりついたら。

その時は、また、あたしが拾ってやる。

――もちろん、お前が望むなら、の話だが。








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