父親は硬派な古めかしい人間だった。
だからかは知らないが、入江は父親の写った写真をほとんど持っていない。
結婚する前から写真が好きでなかったそうだが、自分が生まれてからはカメラを撮る方に回ったらしい。
古びた、白黒の写真の中で自分と母は今でも笑っている。
笑っていた父の顔はもう何処にも残っていないのだと気付いたとき、入江は小さく天を仰いだ。
記憶としては、鮮明に覚えてはいるのだけれど。

++HOLGA++

「前原さん」

急に声をかけられた。
声とともに変な音が響いて、圭一は不審に思いながら振り返る。
医師が、ピンク色をした箱のようなものを目に当てて構えていた。

「…何やってんだよ、監督」

というか、それ何?
音が止んで、気が済んだらしい入江はそっと謎のプラスチックを圭一の掌に載せた。
やっぱり軽い。レンズのようなものが前面に8個取り付けられているが、意図が分からない。
入江は悪戯っぽくふふ、と笑って右手の人差し指を振った。

「カメラですよ、おもしろいでしょう?」
「カメラ?」

にしてはレンズが8個ほどあるんですが?
作りが非常に安っぽいと思うんですが?
喉の奥までせり上がった質問を何とか飲み込む。
この悪い大人は説明をわざと省いて、圭一が焦れるのを楽しむ悪い癖がある。
喜ばせてたまるか、と半ば意地になって敢えて気のないふりをして「ふぅん」とだけ呟いた。

「トイカメラなので安っぽいですが、かわいいでしょう?」

これは8連写のカメラですが、他にも色々あるんですよ?
子供のような笑顔で、入江は自分の掌からカメラを取ってファインダー越しに顔を覗き込んでくる。

「うっわ、カメラが趣味とか変態くさ…」
「なんとでもお言いなさい、若造が」

ふふ、と入江が楽しげに笑い声をこぼした。
親愛と攻撃性が微妙に入り混じった笑顔。
彼はいつからこんな笑顔を見せるようになったのだろう。
出会った時にはもう見ていたような気もするし、こんな関係になってからのような気もする。
ただ唯一わかるのは、入江がこんな笑い方をするのは考えに煮詰まって、逆に開き直った思考回路の時だということ。
だから、圭一も負けじと思いつく限りの罵り言葉を投げてやる。

「へんたーい、へんたーい、メイド狂」
「その変態メイド狂が大好きなのは前原さんですけどね?」
「うっさい、この自意識過剰!」

右手を振りあげるふりをすれば、怖い怖いと入江が肩を竦める。
そのまま優しく抱きしめられて唇をふさがれる。
何も言えなくなった口は、文句ごと息を奪われて苦しそうに歪んだ。



「ていうか、なんで急に写真なんだよ?」

わけがわからない、といった表情で圭一がアルバムをめくる。
最近撮った写真が収められているそれは、トイカメラらしく独特の可愛らしい雰囲気を醸し出している。

「ポラロイドもありますよ、撮りましょうか?」
「だから、なんで」

重ねて問われれば、答えざるを得なくて。
入江は端的に、一言だけ―結果だけを話した。

「一瞬を大切にしたい、そう思ったからですよ」

亡くなった父。あの笑顔を見ることは永遠にない。
あのダム工事の監督、古手夫妻、北条悟史。入江機関の犠牲者、失われてしまった人。
……せめて、証だけでも残してやればよかった。
そう思うのは恐らく自分のエゴで自慰行為に過ぎないのだと自覚している。

「前原さんと過ごす一瞬を、永遠の中にとどめておきたいんです」

いつか必ず失われてしまうから。
永遠を信じていられないのは、大人の悪い癖なのだろう。
子供の世界が広がる。自分の社会はもう膨張をやめている。
伸ばした腕から、いつか飛び立つときが来る。
自分が追っていけないほど、遠くに、行くのだろう。
その時は笑って見送ってやりたかった。
…そんなこと、出来るわけがないと知っていた。
惨めな大人を、一番大切な子供に見せるのだけは避けたかったから写真に残そうと思った。
心が通じている、今一瞬を。
いつか離れた日に、それを見て自分を慰められるように。

「監督の写真ってないのか?」
「おや、定期入れにでもいれてくれるんですか?」

最後まで見終わったのかパタンとアルバムを閉じて首を傾げる圭一を揶揄するように入江は笑いかけた。
すぐさま白い頬を真っ赤に染めて、調子に乗るな。と毒づく子供の頭をぽふんと叩いて、入江は先程のとは違う黒い小さなカメラを手に取る。

「こっちはポラロイドです。一緒に撮りましょうか?」
「うん、タイマーとか付いてんの?」
「ええ、任せて下さい」

小さく笑って、入江は圭一の手を取った。
フィルムには写らない皮膚の感触を心に刻みつけるように、力いっぱい握りしめた。






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