なりたいものは、あなたの特別。 たったひとりの最愛に、僕がなれたらいいのに、といつも思う。 be(それは流れる星のように) 晩秋、冬の早い雛見沢にはひと足早く雪が降り始める頃。 空は灰色の雲が覆っていて、昼間だというのに薄暗い。 夜には雪になるかもしれないな、と思いながら机に両肘をついて窓の外を眺めた。 ざあ、と風に木々が揺れる。 外は寒そうだ。 室内は打って変わって暖かかった。ストーブが熱されて、時折カンカンと小さな音を立てている。上に乗せられたやかんの蓋は常にかたかたと震えていた。 立ち上る湯気はやわらかく白い。 もう十分に中の水はお湯へ変わっているみたいだった。 静かだなあ、と思う。 部屋の主……というより、この建物の主は、ついさっき「紅茶を煎れてきますね」と席を立ったばかりだった。 本当に静かだ。 小さく響く部屋の音が、より一層しんとした静けさを際立たせている。 誰か診察室に人が来たら教えてくださいね、と言われているけれど、誰も来る気配はない。 それはそうだろう。 こんな寒い中、外なんて歩きたくはない。 それでも僕がここへ来るのは、妹が風邪をこじらせたわけでも、ましてや僕が体調を悪くしたわけでもなかった。 ただ監督に会いたかったから。 だから来た。 そう言ったら監督は微笑んで、それから少し困ったように笑って「ありがとうございます」と言った。 「……ありがとうって、言われたいわけじゃないのにな」 監督は認めない。 僕の気持ちを恋とは呼ばない。 難しい、遠い昔に死んだどこかの誰かが名前を付けた感情に、僕の気持ちをすげ替える。 あなたのそれは恋ではないと、僕は何度も突き付けられる。 神経質なほどに。 まるでそうではなければ困るとでも言うように。 「……僕はあなたが好きです」 だから僕はその度に、監督へ好きだと繰り返した。 僕がそれを認めなければ、誰がそれを恋と認めるだろう。 僕の想いは、僕だけのものだ。 どこかの誰かが付けた名前に、重なるかどうかなんて監督にさえ分からない。 というより、たぶんあの人は分かりたくないんだと思う。 指を折って歳の差を数えた。 親子に近いその歳の差は、確かに僕でさえ容易に認めることは難い。 「歳なんて関係ない」 好きになる、そのことに歳も性別もないだろう。結婚は男女しか出来ない。けれどそれがそのまま同性が同性を好きになってはいけない理由にはなりえない。 結婚することがすべてのゴールだとは思えない。それが幸せの形に即座になりえるとは、僕は思わない。書面の関係は、法的に保護されるだけだ。それ以上もそれ以下もない。つまりそれは、愛なんか書面で誓えない、ということになる。 いつのことだったか、こう言った僕に、監督はただ微笑むだけだった。哀れむように、痛ましいものを見るように。ただただその微笑みに悲しみと痛みを滲ませて、そうして一言だけ言葉を落とした。 「あなたは間違っていない」と。 きっとそれは本心からではないのだと思う。きっと僕が言わせただけなのだと思う。 僕の家庭環境に、監督は同情したのだと、思う。 それでもよかった。 間違いではないと言ってくれただけで、僕の今までは報われた気がした。あの環境の中で、僕が思ったこと、そして考えることを止めたことはたくさんある。 けれどそれでもずっと考え続けていた、母を批判するようなこの考えに、監督が頷いてくれたことは僕に大きな安心を与えた。 だから、僕はあの人が好きなのかもしれない。あの人が僕にくれた安心、僕に与えてくれた優しさがうれしくて、僕はあの人を好きだと言うのかもしれない。 それなら監督が言うことも分かる。 「家族愛」とあの人は言った。 あなたの私に対する愛着は、家族愛と同じです。 優しく、けれど一線を引く冷静さで、監督は僕にそう言った。 「家族愛?」 「得にくかった愛情を、あなたは私に求めた。あなたは私にお父さんを見ているんですよ」 そう言われて、不思議と怒りは感じなかった。監督が父ならいい、と思ったこともあるからだ。 「なら監督は、父親に性愛を抱くことが当たり前だと言うんですか」 それを監督は、情動の混乱と言った。よく分からなくて瞬く僕に、監督は微笑んだ。 「あなたは少し混乱しているだけですよ。落ち着けば、それも消えます。私があなたから離れないと知れば、あなたの欲求はなくなるでしょう」 「…………、本当に?」 監督は笑った。 貼り付けたようにいつもと同じ笑顔だった。感情を窺わせない、仮面のような笑み。 嘘だ、と思った。 その笑みを僕は知っていたからだ。 奇しくもそれは、たくさんいた父が浮かべるそれだった。 それはたいてい書面の関係に終わりが来る頃。また会いに来るから、というときと同じ笑み。 嘘だ。ただ聞こえのいい言葉で僕を宥めすかせたいだけだ。 僕はもうそれを知っている。 それでも僕は監督を嫌いにはならなかった。認めない監督をずるいと思いこそすれ、嫌いだと思うことはなかった。 監督はずるい。 関係に名前を付けてばかりで僕を見ようとは決してしないからだ。 逃げ回っている。 もうずっと、僕が好きと言ったときから。 しゅんしゅんという音の中、僕は机に伏せて目を閉じた。やかんが湯気を吐き、かたかたと蓋を鳴らす。時折風が木々の葉を揺らして、外の寒さを窺わせた。 不意に遠くから、小さな足音が聞こえた。廊下をまっすぐにこちらに向かって歩く足音は、監督のものだろう。足音がぱたぱたというのは監督の。ぺたぺたというのが底の薄い来院用のスリッパだ。 戸の開く音がして、「お待たせしました」というやわらかな声を聞いて、僕はその聞き分けが間違いでなかったことを知る。 目を開けて体を起こすか悩んで、結局僕は寝たふりを続けてみることにした。 「あれ、悟史くん?」 監督は僕が机に伏しているのを見て少し間の抜けた声をあげた。 思わず吹き出しそうになるのを堪えて、そっと気配を窺う。 「……寝てしまいましたか」 そう呟く声は、ほんの少しいつもより優しいものだった。 「悟史くーん、お茶が冷めてしまいますよ」 囁く声は歌うようで、言葉の割に起こす意図は感じられない。 「今日はおいしく煎れましたよ、自信作です」 かちゃかちゃと陶器の触れ合う音がひっそりと響く。 「悟史くんも気に入るといいですね」 これは紅茶に話し掛けているのかな、そう思ったら心がほんのり温かくなった。 「私は大好きなんです。悟史くんも好きになってくれたらうれしいですね」 少しの沈黙。 それから、紅茶を注ぐ静かな音。 ふわりと優しい紅茶の香りが広がった。今日はたぶんダージリン。 何も入れないで飲むそれは、淡い味のする紅茶だ。 「いつまでこうしていられるでしょうね」 ぴたりと水音が止まった。 それからまた静かにカップに紅茶を注ぐ音。 「……ずっと続いたらいいと思います。ずっと、ずっと……あなたが離れていかなければいいのに」 思いもよらない言葉に、思わず目が開いた。期待と不安で強く打つ心臓の音がうるさい。 「……いつかは離れていってしまうでしょう。あなたが恋愛とそれを呼ぶなら特に。始めれば終わりが来る。終わってしまえばもう元には戻れない」 静かな静かな監督の、声。 優しくて悲しい、監督の声だけが診察室に響く。 「臆病なんです。大人は。始めるのには理由がいる。あなたは子どもだから、その未来まで考えると、怖くなってしまう」 ポットをテーブルに置く小さな音、それから同じくらいささやかな監督の足音。 「……あなたを傷付けたくないんです。いつかあなたが私から離れていくとき、その枷にはなりたくありません」 ソーサーに乗せたカップが、隣に置かれてかしゃんと音を立てた。 背後に、監督が立っているのが分かる。 「あなたを私だけのものにしたい。そう思うことは禁忌です。あなたはまだ未成年で、私は立場のある大人です」 だから、と監督は言葉を繋げた。 冷えた指先が、目元を隠していた僕の髪を避けた。 「あなたを好きだとは言えない」 その言葉とともに、そっとくちびるが頬に触れた。 初めて受けた口づけは、言葉とは裏腹に優しかった。 「あなたを愛してるとは言えない」 すみません、と聞こえたとき、堪えきれない涙が落ちた。 好きとも、愛していると言えなくても、触れる指先もくちびるも、こんなにも優しい。 優しくて優しくて、どれぐらいこの人が僕を好きでいてくれるのか、分かってしまう。 こぼれるように、愛が、触れたところから伝わってくる。 「ずるいです」 ため息のようにそっと、言葉は自然に落ちた。 「すみません」 返る言葉も同じくらい、静かで悲しいものだった。 「ずるいです」 僕が詰るたび、監督は謝る。 優しくて痛くなるくらい悲しい声で、監督は謝る。 「ずるいです……」 僕の詰る言葉さえ、吸い取ってしまうような悲しい声で。 あなたのたったひとりになれたらいいのに、僕はあなたのたったひとりにはなれない。 欠けていたのはたったひとつ。 僕がもう少し早く生まれていればよかったのに。 叶わない、恋なんかしたくなかった。 けれどきっとこれが、最初で最後の恋。 |