「いや、だから」

「思ったんですけど、」

俺は監督の言葉を遮って口を開いた。
場所は診療所、診察室、デスクに向かっていた監督の、膝の上。


be(それは雨にも似て)


外はやわらかな雨が降っていた。
俺が診察室のドアを開けたとき、ブラインド越しも分かるその憂鬱な空の色を眺めながら、監督は物思いにふけるようにデスクに片肘をついていた。
めずらしく仕事の鬼はやる気がなさそうだと分かって、俺はにまりとひとりほくそ笑む。
いつだって監督は仕事が大切な人だ。
それはたぶん大人として間違っていない。
俺の親父は自由業だけど、やっぱり仕事のときにはそれなりに引き締まった顔をする。
仕事に優劣をつけるつもりはないけど、他人の命を預かる医者という仕事は、たぶん相当肩にかかる責任というものが重いのだと思う。
時には徹夜明けという顔で「前原さーん」なんて声をかけられたこともある。
「お元気ですか」と言われたから「自分の顔を見て聞いてください」と言ってそのまま診療所に引きずり戻したくらいだ。
往診の帰りなんですよ、近くだったから徒歩にしたんですけど前原さんに会えるなんてラッキーでした、なんて言いながら、監督は寝不足の疲弊した顔で笑う。子どもの俺はそれにちょっと不機嫌になる。
この大人は休みを知らないからだ。
自分の限度というものを分かっていないのか、それとも根を詰めると限度というものを忘れてしまうのか、監督はよくそうやって仕事に打ち込む。
正直雛見沢という小さな村の診療所で、そこまで精を出す仕事というものはないと思うのだけれど、それを聞いたら監督は曖昧に笑って「勉強があるんですよ」とだけ言った。
医者ってやつは、マゾなのかもしれない。
とにもかくにも、俺は子どもなのでそう言った大人の事情というものがまったく読めない。
監督に至っては読むつもりがない。
だから。

「……あれ、まえばらさ、ん!!」

診察室に誰か入ってきたのを気配で察知した監督の言葉は、語尾だけが乱れたように短く跳ね上がった。
それは俺が、右手で監督のネクタイを引いて、口をふさいだからだ。
押し付けるだけのキスは、くちびるを甘くかむだけですんなり深いものに変わった。
いすに座った監督は俺を見上げるような形で、今のところなすがままにキスを受け入れていてくれる。
直前に冷たいものでも口にしたのか、監督の舌は少しだけひやりとしていた。
熱を渡すように、そのやわらかな舌と粘膜を舐めると、監督が小さく喉を鳴らす。
よかった、とりあえず、ここまでは成功。
そう思いながらネクタイをベストから引き抜いた。
この人は何でこんなに着こんでるんだ、といつも思う。
今だって暑いだろうにいつものようにシャツのボタンを一番上まで止めて、ネクタイをしてベストを着て、白衣を上から羽織っている。もしかしたら暑いという概念がないのかも、と思いながら、いや、それはないか、と思った。
夏の盛りに野球の親善試合をした時には、さすがに監督も暑そうな顔をして汗を拭いていた。

「……、あの……前原さん?」

はあ、と監督は息をついた。
少し息苦しそうにしているのが分かる。
俺は監督の言葉を無視して、白衣の肩をずらした。
ベストから出したネクタイに指を入れてほどく。
そのまま襟からも引き抜いた。

「ま、前原さん」

突然の俺の蛮行に、監督は完全に戸惑っているようだった。
まあそれはそうだろう。
いかに恋人とはいえ、いきなり職場にやってきて、いきなり服を脱がせ始められたら誰だって戸惑うか怒るかしそうだ。
それでも優しい監督は俺を怒るに怒れず、戸惑ったまま。
そのことに満足しながら、床にネクタイを落とす。
あまりのことについていけない、というような表情で監督はそのネクタイの行方を見つめている。
くりんと回転いすをまわして、監督の膝の上をまたいで座った。

「よし。」

ここまでも、成功。
思ったよりも監督が呆けてくれているのがありがたい。
その隙をさらに狙うように俺は笑顔で口を開いた。

「しましょうか、監督」

にっこり、と笑ってみせる。
悟史ほど人畜無害なそれではないだろうが、それでも優等生スマイルはできているはずだ。
親父の開くホームパーティで鍛えてきたこの笑顔、ここで使わずしていつ使う。
案の定監督はその主語を見失っていた。
俺の行動からしてするといったら目的語は一つだ。
なのにこの(自分で言うのもなんだが)優等生の笑顔がそういう不埒なものを一切予感させないから戸惑っている。

「な、なにを」

さすがに中学生にそういう直接的なことは言わすな、と思って、俺は笑顔を微笑みに変えた。
自分の開襟シャツに手を掛ける。
前原さん、とやけに切羽詰まった声で監督が俺を呼んだ。
はい、と返事を返す。

「あの、本気ですか」

もちろん、と頷いてシャツの上からボタンを外していく。
ひとつふたつみっつ、外したところで監督が俺の手に手を重ねてそっと静止した。
まっすぐに監督が俺の目を見る。

「前原さん、今、お昼です」

「じゃあ夜ならいいんですね」

即座に返した俺の言葉に、監督はうっと詰まって口を閉じた。
それから気を取り直したようにまた口を開く。

「そうじゃなくて、ここは職場です。診療室です」

「じゃあ、場所変えましょう。車とかでいいです、とにかくここ以外ならいいんですよね」

じゃあ行きますか、と立ち上がりかけた俺の手に監督は力を込めてまた止めた。

「ち、違います!そう言う意味じゃなくて」

「そう言う意味でしょう、とにかく俺はしたいんです、今、監督と」

分かってねえな、とため息をつきながらも、俺はまた監督の膝に座りなおした。
監督は完全に困惑した顔で俺を見つめている。

「したくないんですか、監督は」

「いや、だから」

そうだ、ここで冒頭とつながる。
俺は口を開いた。
思ったんですけど、そう言って続く言葉はもうずっと、俺が思っていたことだった。

「監督は俺が子どもだから手を出さないんですよね」

14という年端もいかない子どもに、手を出すわけにはいかないと監督は考えている。
要するに俺の将来の話だ。
将来的に俺が普通に女を好きになって結婚したいと思った時に、監督との関係が負い目にならないように。
そのために、キスはしても監督が俺の体に触れたことはない。
もちろん、男の体に興味がないから触ってこないのかもしれないけれど、好きだって思うなら、触ってみたいと思うのも普通だと思う。

「前原さん、」

「監督が大人だから、俺としないんですよね」

目の前にある、監督の瞳が迷うように揺れた。
俺の手を握る監督の手が、少しだけ力をなくす。

「それとも、俺のことは遊びですか」

「前原さん!」

そんな言葉、使わないでください、と、俺から視線を外した監督が弱く言う。
それから、少し見上げるように監督は俺を見た。

「私は、あなたのことがとても大切なんですよ。するとかしないとか、そういった問題じゃないところで、あなたのことが愛おしいと思ってます」

緑色の瞳が甘く微笑んで俺を写す。
やさしい、愛しむような手が俺の頬に触れた。
指先が耳に触れた。髪を梳くような仕草で俺の耳に髪をかけて、もう片方の手が俺の背に回ったのが分かる。
その手は少し引き寄せるようにして、監督との距離を縮めた。

「大切に思ってますよ、とても。誰にも渡したくないと思っています。幸運なことに、あなたも私も、お互いを好きでいる。その事実だけで、私が満たされているのもまた事実です」

促されるままに、体を寄せる。
肩に頬を付けて、そっと監督を見上げた。監督は俺の背に両手を回して、そっとあやすように叩いた。

「抱きたい気持ちも、本音を言えばありますよ」

あなたの全部が欲しくなる時もあります。
そう告げる小さな声は、外から入る雨音にまぎれるようだった。
葉を打つそれに負けないくらいやさしく、穏やかな声。

「けれど性急にならなくてもいいかなとも思うんです」

「…………、」

「叶うならばあなたの一生の時間を欲しいと思っています」

身勝手ですね、と監督は笑った。
そのまま笑みを含んだやわらかな声で監督は続ける。

「出来るならその一生を、傍で見ていられたらと思います。……そんな相手ですから、取りこぼしのないように、丁寧に、慈しみたいと思うんです」

ゆっくりと体を起こした。
監督の優しい目と、目が合う。
そう思いませんか、とその緑の瞳が訊くのが分かった。

「……ずるいですよ、監督は」

そう言われたら、何も言えない。
こんなに想われているのに、安直に体を求めた自分が恥ずかしいじゃないか。
監督はいつものように穏やかに微笑んだ。
けれどその瞳は、今まで見たどれよりやさしかった。
この人は俺を慈しんでくれる人なのだということが、今改めて分かった気がした。
たとえ何があっても傍で支えてくれる、稀有な人。

「大好きです、前原さん」

囁く声まで甘い。
自然に重なるくちびるは、まるで初めて交わした時のようにしあわせだと思った。

「俺も、……大好きです」

交わした告白が、出来るならばずっと続けばいいと思った。








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