「魔弾の射手」 余編
リップは途切れ途切れに歌詞を口ずさみながら、ずっと月を見ていた。
秋の冷たいコンクリートの上で、体がどんどん冷えてくる。
起きあがらなければと思うけれど、まだその勇気が出ない。
その時、視界に黒い影が入った。
「ひっ」
反射的に体を横に丸める。今の彼女は半裸に近い。
その上にカーキ色のコートが落ちてきた。
「大尉、先生?」
見上げると、いつもの無表情な瞳がこちらを見ていた。
リップは反射的に大きなコートで懸命に身を包みながら、先生から背を背けた。
でも視線は大尉先生のほうを向いたままだ。
ちゃんと見なければ。この人がどういう人なのか。そう思っていた。
大尉先生は屋上入り口の屋根の上を鋭い目つきで見ている。
くいっと顎を動かした。
「あー、ばれちゃいましたー」
にこにこ笑いながら出てきたのはシュレ生徒会長だ。
その手には高性能そうなビデオカメラがおさまっている。
…全部撮られていたの!? リップは戦慄した。また体が震え出す。
大尉先生は黙ったまま手をシュレ生徒会長に向かって差し出した。
「え、でも、これは少佐先生の命令で…」
キロリ。大尉先生の目が光る。
「え、と、あの…」
シュレ生徒会長は急に落ち着きをなくし、首をすくめ上目遣いになりながら
素直にカメラを差し出した。
大尉先生はそれを受け取って中のテープを取り出し、無造作に足で踏み割った。
それから足元に転がっていたリップの矢を拾い上げ、それをシュレ生徒会長にかざしてみせる。
くいっと首を非常階段の方に振った。
「つまり僕に拾ってこいってことですかぁ」
不承不承、しかし抵抗の余地はないといった様子で
シュレ生徒会長は身軽に非常階段の方へと姿を消した。
トントントン、猫のように軽い足音が非常階段から聞こえてくる。
*
そして屋上にはリップと大尉先生だけが残された。
「あ、あの、私…」
なにか言わなければと思うのだが、言葉が出ない。
大尉先生は屋上に転がっている残り二本の矢と、リップの弓、
それに破れた服を残らず拾い集め、持っていた袋に詰めた。
屋上にはアーカードとリップの血の痕跡だけが残される。
大尉先生はつかつかとリップに向かって近づいてきた。
あの冷たい目がしっかりとこちらを見ている。
リップは全身全霊を振り絞って言った。
「私は間違っていました。大尉先生、教頭先生はどうしてあんなことするんですか!?」
答えはない、ただ大尉先生はいつかのようにリップの頭をぽんと叩いた。
あの時、バレンタインデーの日、
リップはそれが自分の気持ちが受け止められた合図だと思ったものだった。
でも今、それは拒絶だったのだと分かった。
リップには分からない世界が、大人の世界がそこにはあるのだ。
彼女は生徒で大尉先生は先生。その間には大きな溝がある。
私には、まだまだわからない、知ることができないことだらけだ。私はなんて弱くて幼いんだろう。
荷物をまとめると、その弱くて幼いリップの体をコートに包んで、大尉先生は持ち上げた。
屋上入り口の鍵を開け、ゆっくりと階下に向かって歩いていく。
その足取りは静かでコツコツと一定のテンポを保ったままだった。
まるでゆりかごにゆられるように、リップはいつしか先生の腕に抱かれて気を失っていた。
*
次に目覚めたのは病院だった。
点滴の針を刺され、なにかぼんやりした状態のままいろんな処置をほどこされた。
そしてまた気を失って、次に目が覚めたときは個室の病室にいた。
枕元にはメモがあった。
「全て話は通っている。好きなだけここに居ていい」
大尉先生の字なのかはよくわからない。違うような気もする。
リップはおそるおそる鏡で自分の顔を見てみた。
アーカードに殴られた頬が無惨に青黒く腫れ上がっている。
こんな顔ではクラスに帰れないなと思った。でも、いずれは帰らないといけないなとも。
まずインテグラ先生に謝らないといけない。それから、たぶん、アーカードさんにも。
再び弓を持つことができるかはわからない。
私はアーチェリー競技者として、人を射るという最大のタブーを犯してしまった。
けれど私はアーチェリーが好きだ。もしも許されるのならば続けたい。
でもそれは、もう二度と、ザミエルには、狂気には捕らわれない強さを持ってからだ。
ああ、することがたくさんあるな。リップは思った。
それからまたベットの上に倒れ込んだ。まだ体中が痛くてだるい。
今はもう少しだけこの安息の中に居よう。
この安息だって誰が与えてくれたのか分からない、私はそんなにも幼いけれど。
成長したい。インテグラ先生みたいになりたい。
大尉先生に話しかけてもらえる人間になりたい。
そう思いながら、また眠りについた。その寝顔はおだやかだった。
*
「そういうわけで、テープは大尉先生が踏みつぶしちゃいました」
シュレは怒られることを覚悟した気弱な顔で、少佐教頭にそう報告した。
「まあいい。彼女は任務を果たした。完全に。完全に、だ」
教頭は意外にも満足げだった。
「アーカードにもかなりの傷を負わせ、インテグラには自分の生徒が
自分に向かって矢を撃ち傷を負わせたというショック、それに自分の子飼いのアーカードが
その大切な生徒を叩きのめし陵辱したという最大のショックを与えたのだ」
少佐教頭は両手を広げ、心底満足そうに笑って見せた。
「今頃彼女がどんな気持ちでいるか、想像すると私は楽しくてしかたないよ」
その教頭の笑顔を見て、シュレもパッと嬉しそうに笑う。
少佐はどこか遠くを見つめてつぶやいた。
「さようなら、リップヴァーン君」
もう君には用はない。
シュレも合わせるようにつぶやいた。
「じゃね、リップヴァーン」
あの夜の君は本当に美しかったよ。
おわりのおわり
ときヘルindex
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