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甘い光
闇の中を漂う孤独と寂寥感を、もうずいぶん長い間忘れていた気がする。 眩しく輝くアンジェリークと出会い、彼女が私の腕の中に飛び込んで来た日から、闇には優しい光が点り続けている。 ふと、そんな事を、まどろみながら思った。 愛しいアンジェリーク、私の大切な天使……。 手を伸ばしても、ベッドの中にアンジェリークはいない。先に起きて朝食の支度をしているのだろう。 寝返りを打って窓の方を見ると、カーテンの隙間から朝陽が差し込み、部屋の中をほんのりと照らしている。 この光景は私の心そのものだ。 アンジェリークに起こされるまで、もう一眠りするとしよう。 私は目を瞑り、再び眠りの繭に包まれていく。穏やかに過ぎる時を与えてくれたアンジェリークに感謝せずにはいられない。 アンジェリークとの暮らしはすべてを一変させた。 屋敷の中には光と風が溢れ、アンジェリークの明るい笑い声が重なる。彼女を抱きしめ、時には不意に彼女に抱きしめられる喜びは幸福以外の何物でもない。 そんな私たちの幸福に引き寄せられるがごとく、日ごとに訪問者も増す有り様だ。 使者をよこすのではなく、自らがこの屋敷に出向いて用事を告げる守護聖も増えたが、皆一様に何かに驚いたり口々に勝手な感想を述べたりするので、私は少々辟易している。 たとえば、朝早く屋敷に訪れたジュリアスなどは、玄関先で「そなた…」と言ったきり絶句した事がある。体調不良のアンジェリークや寝ぼけ眼の召使いに代わって、まさか私が出迎えるとは思わなかったのであろう。ぽかんと口を開けたままだった。その後ろに控えていたオスカーは目をむいて硬直していた。 私に用事があったのであろうと促すと、ジュリアスはガウンの下に着ていた私のパジャマを指差した。どうやら驚きの原因はパジャマらしい。アンジェリークとお揃いのパジャマを着ていて何が悪いというのだ。せっかく彼女が選んでくれたチェックのクマ柄だというのに。 また、屋敷に入るなりマルセルやランディは、 「えーっ、なにこれ? あっかる〜い! 改装したみたーい!」 「うっわー、以前は幽霊屋敷みたいだったのに…」 と、あからさまに驚愕し、チュピまで興奮したのかグルグル飛び回る始末であった。 リュミエールやルヴァなどは、 「これはまた…随分とインテリアが変わったのですね…」 「あー、私はこの雰囲気も好きですよ」 と、言葉を選ぶのに苦労している様子だった。 屋敷の窓辺には、アンジェリークが好んで活ける野原に咲く瑞々しい花がガラスの花瓶と共に光を弾いて咲いており、窓を縁取っていた厚く重たいカーテンは季節ごとに彼女が見立てた綿の花柄プリントに変えられる。 訪問者たちは気持ちよさそうに周りを見回すが、大抵、リヴィングのソファの上に一列に並べられたイチゴやハートのクッションを見て口元を硬く結ぶ。 彼女のお気に入りのクッションの何が可笑しいというのか、なぜ噴き出すのを堪えなければならないのか。そのような態度を取られるのは不愉快であるし、何よりもアンジェリークが傷つくので、私は一瞥して訪問者を黙らせる。 セイランなどは、しばらくクッションを凝視したあとアンジェリークを振り返り、「君は…」と言いかけたが、沈黙は金とばかりに意味ありげな笑みをただ浮かべるだけだった。ティムカもセイランに倣ったようにニコニコと笑うだけで何も言わない。ヴィクトールは、「この屋敷も随分と印象が変わりましたね」と無難な感想を述べてトラブルをそつなく回避したが、後ろを向いて苦笑していたことを私は知っている。 赤いイチゴや赤いハートのクッションは、どんな物よりもリヴィングで可愛らしく目立っている。私は彼女のお気に入りの物がリヴィングに飾られているのを見るのが好きだ。気持ちが和らぐし、それらに囲まれてソファに座るのはとても気分が良い。何よりイチゴのクッションは、丁度良い柔らかさと大きさで私の昼寝の時に役立つのだ。(アンジェリークの膝の心地よさにはかなわないが、のろけ話と取られても困るので、これ以上語るのは控えよう。) ある日、帰宅するとこれらのクッションがリヴィングから消えていたことがあった。アンジェリークに訳を訊くと、皆がクッションを見て困ったように笑うから、と答えた。 「もうここには飾りません」と小声で言い、自分のセンスが悪かったと勝手に思い込んで涙目で謝る彼女を、私はそっと抱きしめて「構わぬ」と囁き、またクッションを並べるように言った。天使は濡れた宝石のような目で私を見上げて微笑んだ。これを幸福といわずして何というのだろう。 オリヴィエは、アンジェリークのクッションを見て笑わなかった唯一の人物だ。そして「あんたの印象も随分変わったじゃない」と帰り際に言葉を残して帰っていった。それで私は、自然と微笑みながらアンジェリークを目で追っていた事に気づかされたのだった。 「ここだけは変わらねぇな」と、一緒に屋敷の裏庭に出たゼフェルがぽつりと漏らしたことがある。薄暗く静かな庭は彼のお気に入りの場所だ。しかし数日後、ゼフェルのその言葉は撤回された。散歩の途中、偶然にも彼は、アンジェリークが私の頬にキスしている場面に出くわしてしまったのだ。そう、私とアンジェリークも庭を散策していたのである。ゼフェルはアンジェリークよりも顔を赤くして視線を地面に彷徨わせ、「ったく、落ち着かねぇ場所になっちまったぜ。おちおち散歩もしてらんねぇ」と呟き、どこかに走り去ってしまった。その背中に向かって、私はあらためてアンジェリークを幸せにすると誓った。 ノックの音がしてドアが開き、続いて「クラヴィス様」と柔らかなアンジェリークの声がした。 「起きてください」 そう言って彼女は毎日の日課のように、広げた私の腕の中に飛び込んで来る。シャンプーの甘い香りが鼻をくすぐり、私は天使を抱きしめた。 「カーテンを開けましょう」と私から離れかけたアンジェリークを腕の中に抱き直し、しばらくこうしていたいと告げると、彼女はくすくすと笑いながら私の胸に頭をのせた。 「もう朝ですよ、クラヴィス様。ほら、カーテンの隙間からお日様の光が見えているでしょう」 アンジェリークは顔を上げて窓の方を見た。 「綺麗……、光と闇が織り上がっていくみたい」 薄暗い部屋に差し込む光の帯を掴むように、アンジェリークが手を伸ばす。その指先を追って、私は自分の指を絡める。 「アンジェリーク…」 天使の名を呼び、頭を少し上げてそっと口づける。彼女の震える唇から甘い痺れが伝わった。 「クラヴィス様……」掠れた声で天使が呟き、呼吸を整えるような溜め息を漏らした。何を言うつもりなのかわからないが、私はアンジェリークの言葉を待った。 「今夜は…満月ですね」 「そうだな。久しぶりに夜の庭園を散歩するか」 胸の上で、小さく天使が頷く。 「大好き…」 答える代わりに、私は天使の髪を撫でる。 水面に広がる波紋のように、幸福感が広がっていく。 私の闇は今、安らぎに満ちている。
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