『龍隆、どうせ居るんでしょう?お客様がお帰りよ』
そう隣の部屋へと向かって云えば。
当然のような顔して現れた彼。
何時もの余裕めいた笑みを浮かべてはいたが、彼が本当にそうなのかは分からない。
でも今のアタシにはそんな事等どうでも良い事で。
重要なのは、一刻も早く此処から悟空を帰らせる事。
それだけだった……
流れ流れて…12
気を動転させていた悟空の隙を付いて、なんて汚いやり方なのは百も承知なれど。
そのチャンスを棒に振る事無く利用させてもらって、アタシは部屋を出て行った。
それに気付いた悟空が慌ててアタシを追おうとするが。
アタシが『お客様がお帰りよ』と、云ったのだ。
龍隆はその意味を分かっているだろう。
当然のようにして懐から銃を引き抜いた。
「『悟空』……君、でしたよね?」
背後から聞こえてくる彼の声。
一見、優しい笑みを浮かべている龍隆だが。
彼がその笑みを浮かべたまま、人を殺せる事は誰よりも知っていたけれど。
彼が悟空を殺す事は有り得ない、と頭の何処かで確信していて。
アタシはさっさと自分の部屋へと足を進めていた。
主要人物が、話の要の人物が欠けたこの場で向かい合う二人の男が睨み合い、牽制し合う。
一方は未だに目の笑わぬ笑みを張り付かせ、一方は憎くて仕方がないとでも云いたそうな目で。
それでも悟空の目には何処か悲しみが混ざっていて。
だってが呼んだこの男は。
俺が来た時に対応してくれたこの男は、自分が良く知る男と似たような金髪をもっていて。
浮かべられる優しい笑みこそ違うけれど。
銃を持っている事、そして恐らくこの笑みを浮かべた儘で戸惑いも躊躇もせずに引き金を引けるであろうその性格。
それ等の所為で……
どうしてだか分かってしまったのだ。
何でがあの時、自分達から離れる事が出来たのか。
あんなに好きだった三蔵の傍を、ああもあっさりと離れていけた訳が今目の前に居て。
きっと……
きっと三蔵と別れた所為で傷心の心に、この容姿を持った男が近付いてくれば。
そんなの確認しなくても話の流れなんて理解出来てしまう。
だって
この男は……
『三蔵』に………似ている、から…
なぁ………
お前、……こんなに三蔵が好きだったんだな…
こんな、こんなにも…
何処まで突き詰めていってもこの男は別人なのに
『三蔵』にはなれないのにっ…
面影が似ているってだけでお前ってばこんな所にまで付いてきたんだよな…?
そうだよな?
その程度の事でこの男の傍を離れられない位に『三蔵』が好きだったんだろう…?
でも……だったら何でその気持ちを三蔵にぶつけようとしないんだよっ!!
が好きなのはっ……、惚れてるのは『三蔵』だろう?!
こんなっ…こんな身代わりの男じゃないはずだろう?!
好きな男の為にその身体を差し出せる程に、他の男に抱かれる事が出来る位、この男の傍に居たかったんだろう?!
コイツはっ………コイツは『三蔵』の代わりじゃないか!!
三蔵の面影を持つコイツの傍に居たかっただけなんだろう?
そんなにしてまでも三蔵が忘れられなかったんだろう?!
だったら……だったら何で俺と一緒に三蔵のトコに帰ろうとしないんだよ!!
の帰るトコなんて三蔵の傍にしかないのにっ!
三蔵だってをずっとずっとずーっと探してたんだぞ?!
なのに何でお互いに歩み寄ろうとしないんだよ!!
そんなの絶対に変だよっ……
お互いに思いあってんのに………変だよ……
何でなんだよっ…
酷く辛そうな感情を、その金色の眼に目一杯に浮かべて睨み合って。
その感情の流れを龍隆程の人間が見逃す筈もなく。
彼は何故悟空がこの感情の籠められた眼を自分へと向けるのかを考えていた。
悟空にとって大切なのは『』であって。
その彼女をこんな所へ連れて来た自分に何故、哀の眼差しを向けるのか。
本来ならば、罵倒され、先程蹴散らかされた若い衆のように殴り飛ばされてもおかしくはないのに。
なのに彼は動こうともせずに自分を見ているだけで。
その眼差しですら自分を擦り抜けているようで……
………擦り抜ける…?
何か……、この子の知っている人物に似ているとでも云うのだろうか。
此処まで感情を露わにするのだから、きっと身近な……大切な…
身近……?
そこまで考えた途端、龍隆の頭の中でバラバラだったパズルのピースが音を立ててはまり始める。
偶然、店の前を通りかかった『悟浄』と云う男。
その男は昔のを知っていて。
ソイツが来るようになってからは明け方に自分の元へと訪れる事が無くなって。
『悟浄』と云う男の代わりに来た『八戒』と云う男もどうやらの知り合いのようで。
次にはこの子供とすら呼べそうな『悟空』が来て。
まるで芋蔓式のような図でやって来る男達。
そして旅の途中のような格好で出会った。
そこから導かれるのは、彼等は共に旅をしていた仲間だったのだろう。
けれどあの時、陵辱されていた彼女。
心を閉ざしたように、己の身に起こっている事なのにまるで他人事のような仕草で男達に玩ばれていて。
そんなような女は何度か見た事があるので、おおよその想像は補えた。
きっとは彼等の仲間の誰かに捨てられたのだとう、と。
そうすれば今迄来ていた男の中には彼女の思い人は居ない筈。
あの時の己の誘いに乗らない筈。
もう一人居る。
己とが出会う前に共に旅をしていたのはあの男達だけではない。
彼女に愛されながらも捨てた男が居る筈。
きっとその男はこの子に最も近い人物。
でなければ、ああもがこの子を拒絶する筈がない。
例え誰かの代わりであろうとも。
あの笑みを向けられる、と云う事実の前では全てが許せてしまい。
誰にも靡かない、どんなに条件の良い身請けの話が舞い込んで来ようとも決して自分の傍を離れようとしない。
世辞の言葉も愛の言葉も歯の浮くような科白を囁かれても、一向に受け入れない。
頑なな迄のあのが。
自分にだけは素顔を覗かせて。
まるで猫のように擦り寄って来ては甘えていって。
優しい手付きで己の髪を何度も撫でて、膝枕をして寝かし付けて。
自分が居なければ生きていけないかのような弱々しい彼女の存在がどんどん心の中へと入り込んでいって。
この腕の中に抱かれなければ壊れてしまいそうな彼女が儚くて。
店に来ていた客が感じる比ではない、彼女のその儚さに。
惹かれる心は加速度を増して。
それに伴って気付いたのは、は決して自分にお願い事の類をしない、と云う事。
今迄自分の傍に居た女達は金目の物や己の容姿に惚れていて。
がめつく強欲な女を見慣れていた所為もあって、彼女のソレは酷く新鮮で。
そんな彼女が愛しくて、愛しくて。
感じた事の無い『何かしてやりたい』と云う感情を教えてくれて。
どんなにに何かをしてやろうとしても。
何かを買ってやっても、決して彼女は受け入れてくれなくて。
自分にはそんな物は必要ないから、と断わられて。
どうやったら彼女を繋ぎ止めておけるのか、と思案しても何も浮かばなくて。
結局は彼女が甘えて来る時に、精一杯甘えさせてやる事しか出来なくて。
けれどそれすらもが誰かの代わりにしかならなくて。
正直、彼女の思う男を知りたいと思ったし。
その男の座を奪い取りたい、とも思った。
そしてやって来たこの『悟空』と云う子供。
引き出せる情報は引き出しておこう、何て。
そこから彼女を手に入れられる手段が見付かるかもしれないと彼女等の話を聞いてみれば。
『三蔵』と云う名の男……
この桃源郷の世で、『三蔵』を名乗れるのは『三蔵法師』だけだろう。
即ち、彼女の恋は元々叶わぬ物だったのではないか。
三蔵法師は厳しい戒律の世界に生きる最高僧。
当然、女と交わるなんてご法度だ。
その坊主がとどんな関係をしていたのかなんてこの際、関係ない。
もう彼女は此処での世界で生きる娼婦なのだ。
只でさえ禁止されている『女』の存在。
それがのような『娼婦』ならば、彼の周りは決して彼女の存在を認めはしないだろう。
こうなれば話は簡単だ。
「………帰って、…もらえますよね?」
にっこり、と笑みを浮かべ。
手には銃を持って、脅しをかけて。
効くか効かないは定かではないが、それでもはこの子を帰せと云ったのだ。
自分に出来る事と云ったらこの子を帰す事のみだろう。
「泊まりの客が帰ったばかりでね。、紫厭は休まなければならない。……意味、…分かって頂けますね?」
言外に昨日尋ねて来た『八戒』と云う男との濃い情事を匂わせてやれば。
悟空は酷く嫌そうに、悲しそうに顔を歪め、下を向いた。
自分の立場が有利になった事を覚ると、龍隆は微妙に口調を変える。
「さ、帰りなさい。此処は君のような子が来る所じゃないんだよ。
お寺に出入りしているような子がこんな所に居ると知れたら拙いでしょう?」
長安なんて巨大な寺に住む『三蔵法師』に近い者ならば。
自分が此処に居る事で彼に迷惑がかかると云う事が理解出来るよね。
だから……
「今日の所は見逃して黙っててあげるから、早く帰りなさい」
優しい男を装って。
実の所は脅しをかけるだなんてお手の物だ。
目の前の子は悔しそうに唇を噛み締めている。
どうやら彼も『三蔵法師』に迷惑がかかるのが嫌なようだ。
自分の読みが当たっている事に内心でほくそ笑み、悟空へと退場を促す。
けれど、彼は一向にその場を動こうとせず。
「そんなに紫厭が娼婦だというのが気に喰わないのかい?」
「当たり前だろう!!」
当たり前のような事を聞けば、咬み付かんばかりの勢いで返してきて。
「だったら彼女は私の妾、と云う事にしておくよ」
「はぁ?」
「だから紫厭を私の女と云う事にしておくと云ってるんだよ。そうすれば彼女は身体を売らずに此処に居れる」
「っでも!」
それではダメなんだと云いたそうに声を張り上げる悟空を遮るようにして。
「彼女はね、きっと此処からは出たがらない。だって紫厭は名も顔も売れた一級の娼婦なんだよ?
どうやったら外の世界でまともな生活が出来ると云うんだい?」
正当な事を云っているかのように堂々とそう云えば。
悟空は一度、娼婦として生きた女がどんな扱いを受けるのかなんて知る筈もなく。
次に出掛かっていた罵声の科白が喉まで出掛かって塞き止められた。
そして龍隆はそんな悟空の表情を見て再度、心内で苦い笑みを浮かべる。
「名のある商人の妾になるか、脂ぎった薄汚いお偉方の慰み者になるか
運良く普通の男に身請けされたってこの近辺には住めないよ。
そしてどんなに遠くの町に移動しようともそこに紫厭を知る者が一人でも居れば男に迷惑が掛かる。
最悪、その町には居られないだろうね。そうして転々と町を流れ続けて行く。
それがこの世界に身を落とした女の末路だよ」
簡単に説明してやれば、悟空はとてもショックを受けたようで。
「一度でもね、こういう仕事をした女は世の男達にそういう対象で見続けられる。
そこに彼女の意志は必要とされていないんだ。延々とそういう風に見られ、蔑まされ、隙を見せれば襲われる」
何を夢見ていたのかは知らないが。
もし仮にが此処を出て行こうとしたって彼女に行く場所なんて用意されている訳が無い。
これが、現実なんだよ………坊や。
「もう分かっただろう?これが紫厭の居る世界なんだ。悪いけど、君達の世界に戻れないんだよ、彼女は」
リアルな事実を口にされて、茫然自失な、泣きそうな顔をした悟空を促して。
今度こそ、と彼の背を軽く押してやれば。
悟空はふらり、とよろけて。
そうしてその儘ふらり、ふらりと歩き続け、部屋を出て行った。
残った龍隆は深い溜息を一つ付いた。
何も知らない子供に現実を教えた後の苦々しい感情が胸の中に渦巻いて。
散々悪行を繰り返したこの身なれど、流石にあんな純真そうな子に本当の事を教えてやると云う事は。
どうしても無くしたと思っていた感情、罪悪感と云う名のソレが首を擡げてしまって。
部屋の端まで歩いて行き、窓から店の外を覗いてみた。
そこには出入り口からふらふらした足取りで離れていく悟空の姿があって。
罪悪感が半分、帰ってくれた事に安堵したのがもう半分。
そしてその内からもう来ないでくれ、と云った類の感情が顔を覗かせる。
そうして龍隆はふらりふらりと遠ざかる悟空の後姿を。
人込みに紛れて見えなくなるまで見続けて、いた……