信じられなかった
何故、彼女がこんな所で
こんな娼婦の格好をして
悟浄が来るの待っていて
あんなに心配したのに
あんなに探していたのに
こんな近くに居たのに何故
今の今迄、何の音沙汰も無く
連絡の一つも寄越さないで
どうしてなんですか
何故なんですか、っ…
流れ流れて…8
云い様の無い怒りに似た何かが八戒の身体中を走り抜け、支配していって。
その感情が彼の纏う空気を一変させ。
滲み出るオーラはどす黒いモノへと変化していき。
笑みが消え、空気が変わり、何時も優しげに細められていた瞳は剣呑な光を帯びていて。
そんな八戒に、は彼の怒りの感情を感じ取ったようで。
薄い着物を纏った身体を強張らせ。
そして無意識に後退りした。
何故?
何故こんな所に
何故こんな格好をして
何故こんな所で身体を売って
どうして自分達の元へ帰って来なかったんですか
どうして三蔵の、自分達の前から姿を消したんですか
相談の一つも無く
全てを一人で決めて、一人で行動して
昔、知っていた彼女はこんな眼をする人じゃなかった筈だ
自分の雰囲気に呑まれ、怯え、何かに引け目を感じているのか。
がする目は酷く竦んでいて。
それに加えてとても疲れた様子を引き摺るモノで。
『何故』と云う数多くの疑問詞が脳内を占拠して。
そして彼女を怯えさせている原因が自分にある事に、やっと気付いた八戒は。
何時もの自分へと戻るのに相応の時間と気力を要して。
感じたショックと怒りをどうにか収める為に目を閉じて、キツク拳を握り締めた。
だって悟浄が云っていたんだ
彼女に囚われたのだ、と
自分一人ではもういっぱいいっぱいだから
己を巻き込むのに罪悪感を感じながらも
それでも僕を送り出し、そして背を向けた悟浄
姉を愛し、愛されたのを後悔した事など破片程も無い。
彼女は自分の全てで、彼女に取っても自分が全てで。
お互いと過ごす時はこの上無い甘美な、至福の時で。
そんな一時を悟浄にも過ごして欲しいと。
柄にも無く、そんな事を思っていたのだけれど。
彼の様子のおかしさにのせられて。
ノコノコとこんな所へ来てみれば……
一緒に旅をしていた頃から何と無くの事を気にして、気に入っていた事は知っていた。
けれど彼女は三蔵へと恋心を募らせていって。
そして三蔵もその思いを受け入れて、二人は共に居る事を選んだんだ。
しかしその時あの人が現れて……
彼女は……は姿を眩まして。
彼等を、……三蔵と、三蔵が選んだあの人を恨むのは何かが違うような気がしたが。
それでもの今のこの状態を目にしてしまった今では。
恨むなと云われても、何故あの時三蔵はを選ばなかったのか、と。
ゆっくりと目を開いた八戒。
その彼の瞳が語る感情は、先程と違って。
やけに悲しみを帯びているモノで。
キツク目を瞑り、キツク拳を握り締めた八戒を。
驚きと、悲しみと、申し訳無さで一旦視線を外していただったが。
ふと、彼の纏う空気が変わっていったのに気が付いて。
彼の方へと視線を向けると。
とても、とても苦しそうに目を瞑り。
唇を噛み締め、拳を握り締めた八戒が居て。
そんな八戒を見たは。
その表情をさせているのが、原因が自分である事が分かり過ぎる程に分かっていて。
彼女も、酷く苦しそうな顔をして八戒を見続けていた。
そして八戒がゆっくりと瞼を上げて。
視界に飛び込んできたのは。
悟浄に儚くて消えてしまいそうだ、とまで云わせただった……
あの頃ですら痩せている部類に入っていたのに。
その頃よりもほっそりと見える、娼婦の着物を纏った身体。
驚いて怖がって後退りした所為か。
の着ている着物の裾が少しだけ乱れていて。
その重ね目から覗き見える白くて細い足。
自分を見上げてくる瞳は罪悪感の染まりきっていて。
悲し気に眉を寄せ、唇を軽く噛んだその様に。
もう、誰も愛せない
もう誰とも肌を重ねる事さえ出来ない、と
そう思っていたにも係わらず。
本気でずっと、あの時からそう思っていたのに。
なのにその様に、『男』としての劣情をそそられてしまって。
出掛ける前に悟浄に云われた科白を思い出す。
『大丈夫だよ。アイツを見ればそんな気ィ、失せるだろうしな』
『でも、もしかしたら逆に……』
悟浄……
貴方って人は
僕が『そうなる』可能性を持っていたのを知りながら
知りながらも此処へ来る事を勧めたんですか…?
我に返る事が出来たのはきっと。
八戒が一瞬だけ見せた、男が女へと向ける、意味を伴った瞳の所為だろう。
それまで潰されてしまいそうな罪悪感が身体中を支配していたのだけれど。
冷静になって考えてみれば。
此処へ八戒が来たと云う事は、悟浄が教えたのに違いなくて。
だって彼はこんな所へと訪れる筈が無い人だから。
ホンの少しだけしか居られなかったけれど。
彼の中には別の女性の影が何時でも見え隠れしていたのだから。
彼のその人へと向ける『情』は、羨ましいとさえ思ってしまえる程の深いモノで。
でも一緒に過ごした僅かな時間に、その人と一緒に居ない事と。
雨の日は三蔵と同様に酷く辛そうにしていた様子から察するに。
彼女とは終わってしまったのか、それとも捨てられたか、綺麗に終わる事無く死に別れたのか。
決してハッピー・エンドを迎えてはいないであろう彼が。
それでも彼女を思い続けていた彼が。
その彼が、自分へと、向けた、『視線』……
向けられてはいけない類の『視線』を
女である、此処では否になる位『女』であるアタシへと向けたその類の『視線』を
あぁ……
ごめんなさい
ごめんなさい…
悟浄も
八戒も
ごめんなさい……
アタシの存在が
貴方達二人を苦しめてごめんなさい
でも、どうか
お願いだから
そんな苦しそうにしないで
我が儘なのは分かっているけれど
どうか苦しまないで
アタシなんかの為に苦しまないで
だからは口を開く。
彼へと向かって口を開く。
悟浄と会ってしまった時に云った言葉を。
あの時と同じ言葉を。
今度は八戒へと向けて、敢えて云おう。
「本日は悟浄様の代わりでいらっしゃったのですか?八戒様」
まるで客と娼婦の関係そのもののような喋り方。
「私で良ければ精一杯のご奉仕をさせて頂きますが、如何致しましょう」
優雅な迄の仕草でもって乱れた裾を直しながら。
綺麗に座り直し、両の手を畳へと付いて。
先程まで浮かべていた表情を見事な迄に消し去って。
一級品の身体を売り物とする『娼婦』へと、スイッチを切り替えるように簡単に。
儚げな様子だけをその儘に、はソレへと変わりきって。
余りの変わり様に、八戒は目を見開いて。
そして慣れてしまっているその口調、その仕草、持てる雰囲気に酷く苦痛を感じたような顔をして。
「私ではご満足頂けないようですね。では代わりの者を連れて参りますので少々お待ち下さいませ」
自身も、表情、態度には出さないが。
内にある、見えない心では。
出来てしまった深い深い傷の痛みに泣き叫びそうになっていて。
正直、此処で引いて欲しかった。
悟浄はアタシを抱いてしまった。
抱いたが故に苦しんで、今のアタシの現状を知ってしまって傷付いて。
八戒はまだ知っただけだから。
彼はまだそういう劣情を少しだけ抱いただけなのだから。
まだ彼は引き返せるのだから。
泥沼のようなこんな現状に。
優しかった八戒を巻き込むのだけは嫌だったから。
これ以上後悔させないで……
お願いだから引いて。
貴方ならアタシの心の内を察する事なんて造作も無いでしょう?
お願いよ。
お願いだから、……八戒…
ゆっくりと立ち上がり。
感じた苦痛に動けなくなった八戒の横を通り過ぎようと。
足を踏み出して。
彼と視線を合わせないようにして。
何も感じていないかのようにして。
横を通り抜け。
一瞬だけ気が抜けたのかもしれない…
彼の横を通り抜ける事が出来て
彼はアタシの気持ちを理解してくれたのだ、と
彼はアタシに係わるのを止めてくれたのだ、と
きっと悟浄のようにはならない筈だから
何て、そんな思いが心の何処かにあって
敷居を跨いで、廊下へと出て行こうとした途端に……
掴まれた腕
その自分の腕を掴んだ手が、思いも寄らない力が入っていたのに
驚いたのと、引き止められたのが悲しくて
彼の方を振り向けずに顔を下へと傾けた…
「……そう云って………、悟浄にもそう云って抱かれたんですか?」
八戒が尋ねてきた事は、本当の事で。
どうやって答えて良いのやら考えつかなくて。
先程まで被っていた『娼婦』としての仮面がズレはじめていて。
頷く事を返事として。
「悟浄はあれでいて優しい男ですからね……。彼を断わった後に貴方が他の男に抱かれるのが耐えられなかったでしょう」
ほんの少ししか話していないのに自分の事情を察する事が出来るのに。
「だから連日賭場へと繰り出して行って、大金を稼いで、貴方を他の男に抱かれないようにしていたんですね」
悟浄の事情も、こんなにも的確に察する事が出来るのに。
「でも彼は僕にその役目を代わる事を勧めた」
なのに何で…
「貴方は……僕が断われば他の男の人へと身体を開くのでしょう?」
何でアタシの心を察しては…
「これ以上汚してどうするんです」
……くれないの…
「アタシを抱くの?! 抱かないの!! どっちなのよ、早く決めてよ!」
悟浄は何も云わずに優しく抱いてくれたわ
「第一、これはアタシの仕事よ!身体を売って何が悪いの?!」
アタシの心に付いた傷を包み込むように抱いてくれたわ
「もうアタシは誰とも付き合ってないの!そのアタシが何処で何してようが貴方に関係ないじゃない!!」
アタシの心が未だに三蔵を忘れられなくて苦しんでる事に同情してくれて
「客じゃないなら帰ってよ!! 此処は男が女を買いに来る所なの!貴方みたいな人が来て良い所じゃないのよ!!」
これ以上貴方達を苦しませる事をさせないで、云わせないで
「お願いだから早く帰ってよ!! ………これ以上貴方達を巻き込みたくないのよっ……」
貴方を傷付ける言葉を吐く前に、早くっ
「帰って!! 帰ってったら!!」
これ以上、八戒と同じ場所に居たくなくて。
彼にこんな所に居て欲しくなくて。
これ以上、昔、知った仲間を。
優しかった彼等を巻き込みたくなくて……
感情が抑え切れなくて、涙目になりながら八戒の身体を押しやって。
部屋から遠ざけたくて。
これ以上、汚れた自分を知ってほしくなくて
こんな惨めな自分を見られたくなくて……
なのに彼は
喚くアタシを部屋へと引き摺るようにして連れてって
悟浄を待っていた部屋を通り越し
続き間の襖を大きく開けて
大きめの布団の敷かれた部屋へと強引に歩んで行って
アタシをソコへと押し倒した……
「……もう、…遅いんですよ……」
部屋の中は極力明かりを落としていて。
「知ってしまった今では知る前には戻れないんですよ」
その所為で押し殺したような声で喋る八戒の表情を陰らせて。
「僕だって、貴方を他の男に抱かせる位なら自分で抱きますよ」
少ない光を反射した片方だけのモノクルがヤケに目立っていて。
「巻き込みたくないと貴方が思っていても、……もう、…遅いんですよ……」
それを乱暴な手付きで外して、少し離れた場所へ置いて。
その儘、覆い被さってきて
口付けた……
『もう、遅いんですよ』
その言葉がやけに胸に残って
その言葉の持つ刃に傷付けられて
云った八戒も傷付いて
お互いに傷付け合って
何も生まない行為なのに
後悔しか生まない行為なのに
なのに彼はその手を止める事なく動かして
アタシは八戒までもを巻き込んだのを
涙ながらに受け入れるしかなかった……