日常の生活の忙しさに忙殺されて
限られた範囲しか持たない船の中で、同じ顔を毎日見続けて
同じ声を聞いて、日々同じ事を繰り返す事に寄って
『海賊』なんて生業をしていた事が信じられない位に
アタシはGM号に乗る以前の生活を思い出していて
その分、GM号の中で生活していた日常は頭の片隅へと追いやられて
普通の女に、なれたような気がしていた…
破片 11
スモーカーから言い渡されていた命令は。
彼の部屋の掃除から始まって、段々と船の中を行き来する事を許され始めて。
今では海兵の皆の食事を作る係りも任されていた。
すると当然、彼等と話す機会も増えていって。
その中に、あの時、アタシを見かけた海兵が居たとしてもまったくおかしくもない状態だったのに。
日々、繰り返される安定した生活に何処か油断していたのかもしれない…
任された仕事をこなし、次のスモーカーの部屋の掃除と云う名ばかりの束縛された時間までは。
少しだけ猶予があったから。
だから久し振りに流れる景色を見たい、だなんて。
青い青い海に、全てに繋がる海に何を思いたいのか自分でも分からぬ儘に。
アタシは船尾へと足を運んで、末端の手摺りへと身を任せて格子のようになったソレを片手で掴んで座り込んでいた。
ゆったりと流れるように進む海軍船。
柔らかい日差しに頬を撫でていく優しい風。
そして進む船の側面から発せられる波の音。
まるで子守唄のようなソレと、どうぞ寝てくれと云わんばかりの気候に無意識に苦い笑みが込み上げてくる。
こんな日は決まって皆で騒いで釣りをして、馬鹿話をして笑いあってたね。
ナミちゃんはパラソルの下で難しい本を読んでいて。
ウソップは新しい研究に余念が無くて。
船長と船医は動いてる船なのに釣りをしてるし。
ロビン姉さんは静かに歴史書を読んでいて。
サンジ君は彼女達を優先的にお茶の給仕をして。
ゾロは……
ゾロは、何時もの指定席で昼寝をしていたね…
鋭い眼差しが隠れるだけで、まるっきり印象が変わってしまう貴方の傍に居るその時だけが。
アタシの唯一の幸せの時だったみたいだね。
寝ている貴方の世界までは他の女は入って来れないし。
貴方が他所の女を見る事もないし、抱く事もなかったから。
どんなに関係に疲れていようが、その一時だけは至福の時だったわ。
優しい緩やかな風に頬を撫でられて。
一瞬、その思い出から脱出しかけるも。
ゆっくりと進む船の船尾には誰の人影も見えず。
再度、思い出の中へと引き返される。
ねぇ、ゾロ……
そろそろアタシは貴方から解放されても良いですか?
貴方の腕の感触も
貴方に教えられた快感も
貴方の唇の熱さも
貴方の胸の中に居られた安心感も
裏切られた胸の痛みも
放たれた棘だらけの言葉も
まるで嫌われているかのように、嫌がられるように睨まれたあの眼差しも
同じ船に乗る仲間と口付けを交わしていたのを見てしまったあの瞬間も
全部、……全部、忘れて良いですか?
アタシは貴方に選ばれなかった人間だと
諦めて、負け犬のように尻尾を巻いて逃げても良いですか?
自分の心から逃げるのは容易ではないけれど
そろそろこの思いを抱えているのにも疲れてしまいました
この船に居る、アタシを拾ってくれた海軍大佐は良い顔をしないと思うけれど
それでも、もう、貴方に、貴方の思いに縛られて生きていくのに
疲れてしまったんです…
幸い、今、アタシの居る所には
奇特にもアタシを思ってくれる人が居るんです
とても、……とても良い人なんです
優しい人なんです
アタシなんかを大事にしてくれる大きな人なんです…
暴走するアタシを優しく宥めてくれて
惚れたと云いながらもアタシを抱こうとはしなかったんです
貴方とはまるっきり正反対のような人なんです
アタシは、あの人の胸へと飛び込んでいっても、良い……ですか?
ねぇ……ゾロ…
「あれ?…さんですか?」
突然、掛けられた声に。
急激に現実へと引き戻されて。
それまで浮かべていたであろう表情を無理に笑みへと強制的に変えて振り向いて。
視界に入った人物が、最近良く喋るようになった海兵のジャックである事を認識する。
「お仕事ですか?ジャックさん」
「えぇ、一応ここら辺一帯の床磨きなんですよ」
「ふふ、それは大変ですね」
「でしょう。何だかんだ云って結構この船って大きいですからねぇ」
本当に厄介そうに顔を歪めるジャックに、は声を上げて笑って。
そして近付いて来る彼に何の不信も抱かなかった。
「ずっと聞きたかったんですけど、良いですか?」
「はい?何をでしょう」
「さんは……あの時、あの島で泣いていた人…ですよね?」
発された言葉は不意なだけ驚きを大きくさせるモノで。
笑みが引き攣って、驚愕の表情へと次第に変わり、動けなくなって、声を発せなくて。
その驚き方と、答えられない彼女の動向を見て覚ったのか。
ジャックは少しだけ安心出来るようにと配慮された笑みを浮かべて。
「大丈夫です。誰にも云いませんから」
落ち着ける、見掛けと合わない低い声とその内容に。
は少しだけ顔を傾けて、良く見ないと分からない位に頷いた。
「やっぱりそうでしたか」
その『やっぱり』と云う言葉が含む意味合いを計りかねて。
彼が何を云いたいのか分からなくて。
ジャックの方を見やれば。
彼は矢張り優しい笑みを浮かべた儘で。
「少し、立ち入った事を聞いてもいいでしょうか」
恐らく、彼が聞きたい内容は大佐にしか云ってない内容で。
それを簡単に彼に話しても良いのか、と一瞬迷うが。
「誰にも云わないって約束しますよ。ホンの少しだけ僕を信じてみませんか?」
そう、優しく云われてしまって。
それまで溜まっていた鬱憤と、スモーカーには云えなかった事が胸に溜まって溜まって溜まり続けていて。
ソレを晴らすチャンスだと思うと、無碍に彼の申し出を断わる事も出来なくて。
どうして良いのか分からなくて。
心底、困ったような表情をすれば。
彼も困ったような顔をして。
「貴方が……貴方がそんな顔をしないように、と思って云い出したんですけど…。逆になっちゃってますね、すいませんでした」
律儀に頭を下げるジャックに。
自分の事を心配してくれてこう云ってくれている彼をこれ以上拒む事が出来なくて。
「……話せる範囲でしたらお答えしますから。どうぞ気にしないで下さい」
思わず、気付けばそんな答えを返していた。
それにジャックは一つ頷いて、酷く柔らかい表情を浮かべて。
海軍の海兵とは思えぬ程の彼の持つ雰囲気に絡め取られるように、その会話は始まった。
「では、何故貴方はあんな所で泣いていたのでしょう、とお聞きしても宜しいでしょうか」
全ての原因がソコに詰まっているの。
全てソコから始まっているの。
何故、アタシが泣かなければならなかったのか。
何故、アタシはあそこに居たのか。
居なければならなかったのか……
「……とても、………とても好きだった人と…お別れを、…したからです」
そう、とてもとても愛してた男との別離に耐え切れなくて泣いていたの。
「お別れ、…ですか」
「はい」
「とても、好きだったと仰いましたが。何故お別れをしなければならなかったんですか?」
そうね。
何で別れなければならなかったんだろう…
「彼は……彼に裏切り続けられるのが、…辛くて………耐え切れなくて…」
「……裏切り、ですか」
「えぇ……、よく他の女性と関係してアタシの所に帰ってきてましたから」
寄る街、寄る街で他の女の人を抱いて帰ってきて
何度も何度もソレを繰り返されて…
「止めて、と何度も頼みました。……でも彼は一向に止めてくれなくて…」
「……そう、だったんですか…」
「挙句に『他の女を抱いて帰ってきた時のお前の顔が好きなんだ』なんて云われてしまって……。
彼が何を考えてそんな言葉を口にしたのか全然分からなくて…」
今でもゾロが何を考えていたのかが分からない…
何で他の女を抱くのにアタシを彼女と云う立場に置いておくのか
他の女を抱きたければアタシと別れてから好きなだけ抱けば良かったのに
「それでも……何度も他の女を抱いて来ようとアタシは彼が好きでした。
何度も裏切られようが、どんな酷い扱いを受けようが。……彼が好きだったんです」
「………そんなに思っていたんですか」
「えぇ……、こんなに人を好きになったのは初めてです。それ位に彼の事が好きだったんです」
あぁ……
今でも彼の事を思うと胸が痛くなる…
「随分と女癖の悪い人だったんですね」
「そう、…ですね。そう云われてしまうと何て人を好きになっちゃったんだろうって思いますけど」
「それまで何度となく他の女性とそうなったのを知りながら耐えてたんですよね」
「えぇ」
「ではお別れの直接の原因は何ですか?」
直接の……原因…
それは……
「………アタシの…、友人と……」
それまで、それなりに暗いが表情を現していたが。
その言葉を口にした途端、一切の表情を忘れてしまったかのように一変して。
耐えて、耐えて、耐え続けていた彼女が。
どうしても許せなかった理由が。
他の女性であれば許せていたであろう現状が。
相手に選ばれた女性が、彼女の知己で、尚且つ友人である事で一線を越えてしまい。
耐え切れずに別れを選んだ、と。
そして同時にその彼が云っていた『他の女を抱いて帰ってきた時のお前の顔が好きなんだ』の言葉の意味を。
男の立場から理解できる。
別れたと云う男の話をしている時の彼女の表情は。
暗くありながらも、とても艶を帯びていて。
こんな表情を見せられては、男はたまらなくなってしまうだろう、なんて。
そこまで己を欲される事に。
嫉妬に狂いながらも、それでも己を思う気持ちに逆らえない彼女が。
一途に、純粋でそれしか方法を、道を知らぬ子供のように己を思い。
ぎりぎりでソレを耐える彼女の美しさに魅せられたのか。
それにしても何て愚かな事を……としか云い様がないな。
その男も、彼女を裏切った友人も。
何故にそんなにもこの人を苦しめるのか。
「…もう……、耐え切れないと思いました」
不意に発されたの声に、沈む意識を戻されて其方を向けば。
無表情な彼女の頬に流れる、一筋の涙。
その美しさに一瞬、意識の全てを奪われそうになり。
「好きだけど、……もう…ダメでした…」
そう云って苦く、苦く笑う彼女に視線を釘付けにされて。
「……そろそろ、…その思いも捨てなければ、と思ってるんです」
それ程までに思った相手を思い切る。
あれ程の事をされていながらも別れなかった彼女が今、その言葉を口にする意味は。
連日、共に過ごしている相手の所為なのは一目瞭然で。
我が上司である大佐の気持ちを知っているだろうという一面を見せる彼女が何故彼の思いの応えないのか、と。
自分が尊敬するあの男ならば、彼女は確実に幸せになれる筈なのに。
どうしてなんだろう、と云う疑問からこの話を始めたのに。
気付けば、尊敬する大佐の事よりも、目の前で涙を流す彼女の幸せの方を優先してやりたくて。
この人には今度こそ幸せを掴んでほしい、と。
後悔するような選択をしてほしくないから。
だからこそ尋ねてみた。
気付いてしまった、その男が本来持っていたであろう
彼女が見えなかった彼の気持ちと共に
もしかしたら、選べたかもしれない選択を……
「もし、…もしもですよ。お別れした彼が、……別れた後に貴方への思いを自覚してたらどうします?」
僅かな可能性だが、選べたかもしれない幸せへの道を…
もし……もしも…
ゾロが
別れた後に
アタシの事が好きだと気付いたら……?
そうしたら、……アタシは勿論………
勿論、どうするの?
何事も無かったかのようにしてあの船に帰るの?
ナミちゃんはどうしてるの?どうなるの?
彼女の思いは何処へいくの?
第一、…彼がそんな事を思ってくれる筈がないでしょう……
何を勘違いしているの
あの人はそんな感情を認めるような人ではなかったじゃない
アタシは飽きられた玩具なんだから……
アタシを思ってくれているなんて
有り得ないんだから…
「………無理、…でしょう?……彼がそんな事を思ってくれる筈もないし、第一、どんな顔してあの人の所に帰れと?
…そうですね、未だに思い切れてませんが。それでも彼を全く恨まなかったと云えば嘘になるんですから……」
複雑に絡まった心は、唐突に途切れさせられた傷を引き摺った儘で。
恨みと痛みと思いと友情とが行き来して。
出された結論は『帰れない』。
「……そう、…ですか」
「…えぇ」
「では、…貴方はそれで後悔しませんか?」
「え……?」
『後悔』
後悔、……か。
ゾロと共に過ごした時間はこれ以上も無く甘美で濃厚で妖艶で。
男である彼に抱かれる事で、女である自分は幸せを感じていて。
間違い無く、その時は幸せを感じていて。
例え自分と同じ気持ちを持ってくれなくても、アタシは彼の傍に居る事を許されていて。
それだけでアタシは幸せだったから。
その時間を後悔する事は有り得ない。
けれど、もし、『後悔』するとしたら。
あの時、何も云わずに彼等から逃げた事……
それだけで。
好きなクセに。
どうしようもなく彼が好きだったクセに逃げ出して。
そして今、自分を受け入れてくれるスモーカーに甘えているだけで。
何を『後悔』しているのか、と聞かれれば。
全てを後悔している、としか云い様が無くて。
は答えられずに、ただ、曖昧な笑みを浮かべる事しか出来なかった。
そうやって有耶無耶にしたって何にもならないのに。
それでも余りにも後悔する気持ちと申し訳ない気持ちで雁字搦めにされていたから。
恩と情と後悔と。
思いと恨みと激情と。
どれもが自分の持つ正直な感情で。
どちらにも行けない現状はそれが原因。
「まだ……どの道を選んで良いのか……分からないんです」
思いを貫き通すのが最良か。
それとも早々に残る未練を断ち切って、新たな人を選んで違う人生を始めるのが最良か。
どちらがより後悔が少ないのか。
「彼を思い切って新しい人の所へ行くのは簡単だけど、……本当にソレを自分で望んでいるのか自信が持てないんです」
これが今の正直な自分の気持ちだと云わんばかりの彼女のその様に。
ジャックはその胸中を察してやって。
「そうですか」とだけ、遠慮がちに口にした。
そしてその数分後。
何も口にしないお互いが、痛いようなそうでないような不思議な沈黙を守り、感じていると。
不意に物陰から現れたスモーカー。
彼は酷く不機嫌な顔をしながら、何時もの葉巻を銜えて此方へと歩んで来た。
「テメエは部屋の掃除の時間だろう。何、こんなトコでサボってやがんだ」
開口一番そんな科白を口にしたスモーカーは。
本当はどうしてこんなにも機嫌が悪かったのか。
もしかしたら、彼女達の話を聞いていた所為か。
それとも只、単純に彼女が他の男と一緒に居た所為か。
彼の言葉に自分のすべき事を思い出したは。
其方へと意識を持っていかれて慌てて彼の部屋へ行くべく大佐へと走りよっていって、追い抜かし、気付けなかった。
スモーカーが彼を、ジャックを睨んでいた事を。
そこに含まれるのは嫉妬や他の男を寄せ付けないでおこうとする牽制ではなく。
余計な口出しは無用だ、と云う意味合いで。
彼女が抱える傷は先刻承知だと。
ソレを知りながらも自分は待っているのだ、と。
彼女が、が自然に自分を求めて来るまで好きで待っているのだから、と。
「スモーカー、どうしたの?先に行っちゃうよー?」
そこに飛び込んできたの声に、スモーカーは漸く視線を外して。
「今行く」と短く返して、その場を去って行った。
残るジャックは己を睨んでいた大佐に、自分がしたお節介を心の中で悔いていた。
良かれと思って話をした自分のお節介が。
もしかしたら彼に良からぬ結果を齎してしまうかもしれないパーセンテージを上げてしまった結果に。
気付かなければ良かったであろう、彼女の心の中に未だ住み続ける男への恋情を煽ってしまった事実に。
恐らく当たっているだろう、別れた男の本心を気付かせてしまった事に。
出来るなら彼女がその事に、見えなかった男の気持ちに気付かぬように願いながら。
ジャックはが見詰めていた海へと視線を走らせた。
酷く思い詰めたような顔で、とても悲しそうな顔をしながら海を見詰める彼女が見ていた海を。
見詰め続けて、いた…