全国でも有名な温泉地に立つ、ひときわ高級と呼び名の高いその温泉旅館は、とある日の午後、風変わりな客を二名迎えることになった。

どこがどう変わっているかというと、説明には少々の言葉を必要とする。

彼らは別段風体が悪いわけでもない、街中を歩いていて特別目を引く外見をしているわけでもない。

ごくごく普通の格好をしている2人が何故に風変わりという印象を与えるのか、原因はただ一つ、この場にそぐわないからだ。

1泊5万円が最低ラインという高級ぶりを誇るこの旅館には、通常金持ちの客しかやってこない。

見るからにブルジョワな匂いを漂わせた、一流ブランドに身を包んだ婦人や紳士がここの常連客なのである。

そもそも駐車場に乗り入れた車からして彼らの異様さは際立っていた。運転手つきの外車が当たり前の世界にあって、小ぢんまりとしたスバルである。

普通に街中を走っていれば周囲に埋没しそうな車だが、それが却ってこの場では悪目立ちしていた。

金持ちといっても正統な上流階級の者もいれば、取り柄は金だけという成金もいるが、醸し出す裕福なオーラは隠しようがない。

そんな人種の中にあって、その2人の客は思い切り不似合いであった。





その日、何人もの客を通過させた自動ドアは、午後ちょうど3時に上品な老夫婦を迎え入れた後、一度閉じて今度は若い客を2人招きいれた。

「御予約されていたお客様でございますね」

この道3年目になるフロント係の青年が、初めに思わず注視してしまったのは、白い布で肩から吊られている右腕だった。

「ただ今確認いたしますので、少々お待ちください」

つい吸い付いてしまった視線をごく自然に外す。

右腕に怪我をしているのだろうということは容易に予想がついた。じろじろと凝視したのでは、お客様に失礼だろう。

顧客台帳を片手に、目の前に立つ黒髪の若い男に営業用スマイルを向けながら、フロント係は内心首を傾げた。どう見てもこの旅館向けの客ではない。

まず若い男2人連れである。

若い客というだけなら、そう珍しいわけではないが、大抵は家族連れがいいところだ。そしてそうした客達は間違いなくブルジョアの香りを全身から放っているものである。

だが、今回の客はどうであろう。

2人とも年相応に若者らしい格好をしているが、金銭的なことよりも活動的であることを重視したかのようなファッションは、こんな温泉旅館の豪奢なロビーに立つより、渋谷あたりでたむろっている方がよりそれらしい。

「えー、美堂…様でございますね」

平静を装ったつもりでも、どことなく確認する声に力がこもる。

それに呼応するように、客は指の先でサングラスを僅かにずらし、こちらの顔をじっと見つめてきた。

鋭い視線は凝視するというより睨み付けるかのような迫力がある。

相手の気分を害してしまったかと、笑顔の下で己の失態に焦るフロント係は、客の瞳の色が意外にも鮮やかなマリンブルーであることにさえ気が付かない。

一瞬の膠着の後、互いが次の行動を起こす前に、楽しげな声が気まずい雰囲気を打ち崩した。

「すっごいね、蛮ちゃん。俺こんなとこ来たの初めてだよっ」

語尾に隠し切れない興奮が滲んでいる。先ほどからこちらに背を向けたまま、ロビーの豪華な設備や調度品を見回していたもう一人の客が、大きな目を更に見開いてこちらを振り返った。

「んなことで、はしゃいでんじゃねーよ、銀次」

「太っ腹なおばちゃんだね、蛮ちゃん。こんなゴージャスな旅館に泊まれるなんて大ラッキー♪」

薄い茶色の瞳には、玩具を与えられた子供のような煌きが満ちている。







「…いいから落ち着け」

対象的にこちらの客は慣れた様子で別段周囲を気にしたりはしない。

2人をちらり見比べ、フロント係は自分なりの解釈をして自身を納得させた。会話から察するに、黒髪のお客様の“縁者”が裕福であるのだろう、と。

実際の彼らは金持ちどころか貧乏底なし状態なのであるが、もちろんフロント係がそんな真実を知るはずもなかった。

「では、こちらにサインをお願い致します」

習慣的にボールペンに右手を伸ばそうとして、蛮は手が使えないことに気が付いた。左手でも書けないことはないが、時間がかかる上に激しく字が歪む。

「代筆で構わねーよな。おい、銀…」

「絨毯の踏み心地が違うよねっ♪シャンデリアもピッカピカだし…あ、あそこに掛かってる絵も高そうだなー」

「銀次…」

蛮が少し目を離した隙に、銀次は周囲の目も憚らず自らの好奇心の赴くままにうろうろしていた。

「蛮ちゃん、この絵描いた人って有名な人だよね。売れば一体幾らになるんだろ。あっ、こっちの窓から中庭見えるよ。本格的な日本庭園って感じだね、池もある。錦鯉って高価なんだってね〜」

「おい、銀次…」

「んん〜〜〜、このソファ寝心地最高♪」

ロビーで寛いでいた他の客の視線が集中する。客達の、初め唖然としていた表情は、次第に笑いの形に変化していた。

「…あのヤロー」

手触りの良いソファに頬擦りしながら寝転んでいたと思えば、すぐに立ち上がって全く別の場所へ駆けて行く。

銀次の探究心には終わりがないらしい。

しかし、一度興味が別の物に移ってしまえば、それまで心を占めていた物には全く振り返らない。デパートの玩具売り場の行動パターンがそっくりだ。

「恥ずかしい奴…」

「んあ?…蛮ちゃん、何か言った?」

特大の柱時計を面白そうに見上げていた銀次が顔を向けた。

無垢なその瞳は、蛮のささやかな苦悩になど全く気がついていないことを物語っている。文句を言いたい気持ちをなだめ、軽く頭を押さえて神妙な表情を作ってから、蛮はカウンター上に置かれている紙を指差した。

「代わりに書け」

「あ、そっか。蛮ちゃん右手使えないんだっけ」

すぐに理解したらしい銀次は、ぽんと手を打ち合わせて小走りにやってきた。

「俺様の素晴らしい名前を間違ったら承知しねーからな」

「俺が蛮ちゃんの名前間違えるわけないじゃん。…ここでいいの?」

書く場所を確認した後はサラサラと書き綴る。横から覗き見ていた蛮が呟いた。

「違ってんじゃねーか」

「えっ!? 嘘っ!」

「嘘」

ケラケラと笑う蛮に、銀次が恨めしそうな顔を向ける。

「蛮ちゃんのそういう所、悪い癖だよね。ねー、そう思うでしょ?」

突然話を振られたフロント係が、当り障りのない笑顔を作った。

「ではお部屋にご案内致しますので、少々お待ちください」





通された部屋は、極貧生活が当然の2人にとってあまりにも立派なものであった。

まず部屋の広さが半端ではない。軽く8人分の布団が敷けそうなくらいだ。

各部屋に設えてあるバスは総檜造りで、日本人が愛してやまない独特の芳香と檜の見事な木目が、宿泊客の満足感を刺激する。この他にも、片手の指では足りないくらいの大浴場や露天風呂があるらしい。

床の間に掛けられた掛け軸は、墨一色で描かれた風鳥画で、派手さはないが見る者を引き込む画力が感じられた。落款の文字は読めなくとも、高名な画家の手によるものであろうことは容易に想像できる。

よくよく部屋を観察してみれば、旅館側の心配りが隅々まで行き届いているのがよく分かった。これなら一泊5万という値段にも納得がいく。

しかもこの旅館、蛮達の宿泊する部屋はごく一般のレベルで、上階の方にいくと更に豪勢な部屋がしつらえられているという。

「うっわ、眺めも最高!」

蛮と2人きりになると、銀次は更に遠慮なくはしゃぎ始めた。窓からの景色を楽しみ、トイレ・バス・押入れなどを覗き込む。

落ち着かない銀次に溜息をつきながらも、蛮は銀次をたしなめようとはしない。こんな機会はめったにないのだ、楽しんだ方が良いに決まっている。

蛮は部屋の入り口近くに置かれた荷物を持ち、窓際へと移動した。

窓はいざという時の非難経路の一つだ。荷物は常にまとめておき、取りやすい場所に置いておくのが最適であろう。そうでなくとも、つづらのようなリュックはどうにも部屋の風景の中には溶け込みづらく、困ったことに誰が見ても違和感を覚える。

旅館側の人間は、このリュックに関して勝手に都合の良い方へ解釈してくれたらしく、「裏にある山はトレッキングに調度良いですよ」と親切にも教えてくれた。

平和な世界で平和な日常を送っている人間から見れば、そのくらいの発想しかできないであろう。

荷物を人目につかないような場所に置き、蛮は窓を開けて煙草を1本銜えた。

心地良い風が吹き込んでくる。饐えたゴミの臭いが纏わりつく新宿では、いくら望んでも手にすることの出来ない空気だ。

傍らに寄ってきた銀次が空気を胸一杯に吸い込んで笑い掛ける。

「いい匂いだよね、蛮ちゃん」

「あ?どっかから食い物の匂いでもすんのか?」

「そーじゃなくって、何ていうのかな、空気が違うっていうかさ」

いくら消臭剤を撒き散らしても、大都会ではこの空気は造れない。

「そういう時は、空気が美味しいってゆーんだよ」

「あ、そうそう、そんな感じ。…いつかゆっくり来たいよね、こんなとこ」

「いつの話になるんだか…」

自嘲ぎみに蛮が呟く。

今の自分と銀次の収入ではどう考えてもこんな豪遊は望むべくもない。何せ住所不定なばかりか、日々の食事にありつくのも一苦労の生活だ。

前に比べれば仕事は頻繁に入ってくるようになったが、まだまだ安定には程遠い。

それに金銭的な問題を抜きにしても、自分達に安寧の毎日は遠いもののような気がした。特に、自分には。

亡き祖母の残した言葉がちらいた。

『多くの不運を背負って生きていかねばならないー』

蛮の意思には関係なく、己の内に流れる血の宿業からは逃れることはできないのだろう。いつかその日は必ずやってくる。まだ伺い知ることもできないそれが、ひっそりとだが確実に近づいてきているに違いない。圧迫間さえ覚えるその重い足音が、はっきりと耳に届くのはいつのことだろうか。その時、自分はどうなるのか。いや、それを超えた時、自分はこんなふうに静かに相棒と向かい合っていられるのだろうか。

薄く笑って蛮は煙を吐き出した。灰色の煙の向こう側に、澄み渡った空気と景色と、そして相棒の無邪気な横顔が見える。

「…っ」

視界を掠めるその頼りない煙の膜が、一瞬自分と銀次のいる世界とを確たる壁で隔てたような感覚に襲われて、蛮は僅かに顔を顰めた。

つまらない妄想だ。

「ねえ蛮ちゃん」

景色に見とれていた銀次がおもむろにこちらを向いた。まっすぐに見つめてくる視線が、煙に霞んだ視界と蛮の思考を急速に現実に引き戻す。

「これからどうするの?」

「そうだな…」

銀次の問い掛けに、蛮は少し考えた後、銀次を窓辺に残して部屋の奥へ戻った。しばし何かごそごそとやっていたが、戻ってきた蛮の手にはこの旅館の案内用冊子があった。

「まずは下調べからだ」

そう言って、銀次の前で冊子を広げる。支配人の挨拶に始まり、この旅館の目玉である温泉の紹介や料理の説明などあらかたの情報が載っている。

豪華懐石料理の写真に、指でも咥えそうな顔でうっとり見入っている銀次に苦笑しつつ、蛮はこの旅館の全体図を示した。

依頼人は露天風呂でダイヤの指輪を盗まれたのだという。

「依頼人のババアの話じゃ露天風呂ってことだったからな」

「露天風呂も3つくらいあるね、蛮ちゃん。どれなんだろ」

「俺が思うに…こいつだ!」

露天風呂の中で本館から一番離れた所にある“楊貴妃の湯”を指差して、蛮が自信ありげに胸を反らす。

この露天風呂は旅館からは少々離れているが、山沿いにあるため春・夏は木々の緑を、秋は紅葉を冬は雪景色をと、四季折々の素晴らしい光景を楽しむことができるのだそうだ。

「本当にここぉ?」

銀次が疑わしげな声を出す。依頼人は『この旅館の露天風呂』としか言っていなかったような気がする。

蛮は楊貴妃の湯と断定しているようだが、同じく露天風呂の“延命の湯”や“亀の湯”かもしれないではないか。

「俺様の推理が間違ってるとでも言いてーのか?“楊貴妃の湯”に決まってるって。いいか、楊貴妃ってのは世界3大美人の一人でだな。中国は唐の末期、全盛を誇った高名な皇帝をたらしこんで国一つ滅亡に導いた程の傾国の美女なんだぞ。寝起きの姿があまりにも色っぺーから『海棠の眠りいまだ足らず』って表現されたくらいのとんでもねー美女だ。女なら絶対この湯に浸かるって。延命だの亀だの、ババアが行く所だ」

美女のことを語る蛮は本当に楽しそうである。

依頼人の婦人は蛮が言うところの“ババア”だったのではなかろうかと銀次は思ったが、蛮の勢いは銀次の突っ込みを許さない。

銀次は畳みかけるように説明する蛮を前に、ただ曖昧に肯くだけだった。

蛮の言うカイドウというのが何であるかもよく分からない。ただ、何となく何かが違うような気もするが、蛮にこんなふうに知識の裏付けのある話をされると、そんな気がしてきてしまう。

「う、うん。分かったよ、蛮ちゃん」

とりあえず銀が次肯定しておくと、蛮は己の推理の完璧さを誇るかのように重々しく肯いた。

突如生き生きし始めた蛮に、銀次はまだ釈然としない表情をして首を傾げている。

『温泉っつったら覗かねーでどうすんだよ』心の中で悪魔の羽を生やした蛮が呟いた。

楊貴妃の湯を進める蛮の目的はまさにそれだったりするのだが、銀次がそれに気づく前にとにかく行動に移すべし。銀次は変な所で良識的な部分がある。

「よし、さっそく作戦行動開始だ!」

女の入浴姿が、温泉で覗かれるのを待っている。

「行くぜっ!!」

嬉々として今にも飛び出そうとする蛮の服を、恐るべきスピードで銀次が掴んだ。

「だめだよ、蛮ちゃん」

そう言って蛮を止める銀次の顔はいつになく真剣だ。

まさか蛮の裏のたくらみに気がついたのだろうか。

「な…何だよ。何で止めるんだよ、銀次」

「だって…だめだよ、蛮ちゃん」

「別に俺は“楊貴妃の湯”に直接乗り込もうってんじゃないぜ。まずは隣の“玄宗の湯”に行って女湯の位置確認やら仕切りの隙間の確認をしてから…」

「蛮ちゃん」

しまった、口を滑らせたかと蛮が一瞬口をつぐむ。

頭の回転が速い上に口も巧いと自負する蛮は、大概のことでは銀次を言いくるめることなど楽勝だ。

だが、銀次はたまに意地でも言うことをきかない頑固なところもある。こういう状況でもし怒らせると喧嘩にもなりかねない。2人の間で喧嘩は珍しくはないが、万一銀次が雷帝モードにでもなったら、負けるのは怪我でハンデを背負っている蛮の方だ。

ひるむ蛮の予想に反し、銀次はそれまでの厳しい表情を崩して哀願するように蛮にしがみついた。

「銀次…?」

取り残される犬が必死で飼い主を引きとめようとするかのように、銀次は蛮のシャツをしっかと掴み、肩口に顔を埋めてくる。心なしか握られた手は小刻みに震えているようにも思えた。

引きつった蛮の表情が、困惑に変わる。いきなりの銀次の変化にどう対応していいものかと、幾つもの対応策が一瞬で頭の中を駆け巡る。

「蛮ちゃ…ん」

「どうしたんだよ」

「蛮ちゃ…」

「ちゃんと言わなきゃ分かんないぜ?銀次」

我ながら甘い声だと蛮は思った。銀次にこう出られると蛮としては折れるしかない。銀次が何を訴えてくるのかは分からないが、ことによっては覗きくらいは諦めるかーーー。

伏せられた銀次の顔に左手を伸ばし、顎をとらえて上向かせる。大きな茶色の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

「ん?」

子供をあやすように頭を撫でてやりながら、銀次の言葉の先を促す。薄く開かれた唇からか細い吐息が漏れた。

「蛮ちゃん」

「ほら、言ってみろよ」

「うん…」

銀次が声に力を込めた。

「ご飯食べてからにしよぉよぉ〜」


ぐきゅるるるるるるぅ〜…。


そういえば、さっき食い物の写真に見入っていた…。





10秒後、銀次が鉄拳を食らったのは言うまでもない。

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