夢はいつも血の色をしていた。 真っ赤に染まった視界は、それが他者のものであるのか、或いは自身のものであるのかさえも分からない。 どちらでも構わなかった。 例え自分が血を流しているのだとしても、その紅の色は最高のエクスタシーを与えてくれる。俗に、赤は興奮を誘う色と言われるが、鮮やかな血の色はただそれだけに留まらない。刺激的を通り越して、愛しささえ感じさせる。 痛覚を感じないからには、おそらくその血は他者のものであるのだろうが、視覚から飛び込んでくる強烈な朱の情報量に比べて、別の感覚はどんよりと濁ったままだ。だが、自分の持つ力量と経験から、その血が決して自らのものではないという確信があった。 自負からくる余裕か、何も思い煩うことなくただ血の朱に酔う。 自身の奥底からじわりと這い上がってくる薄汚い感情に、一片の抵抗感さえも覚えない。普通の人間なら目を背け、必死で存在を否定しようともがくであろうそれに、自ら望んでゆっくりと自身を委ね、あろうことか口元に官能の微笑すら浮かんでくる。 これまでの人生、流した血の量は圧倒的に他者のものが多かった。 他者の命をもぎ取り、相手がそれまで積み上げてきたもの全てを瓦解させ、無限に存在したであろう可能性を容赦なくゼロに戻す行為、その瞬間のえもいわれぬ高揚感は、一度知ってしまえばもう後戻りはできない。 命のやりとりそのものを楽しむ輩もいるのだろうが、自分はそんな七面倒くさいことよりも、ただ単純に他人を殺すことに目的があった。他人を征服し、地べたに這いつくばらせ、恐怖に引きつった顔に冷笑を浴びせながら殺意の篭もった手を伸ばす。相手を殺すということは、征服欲と殺戮欲を一気に満足させる手っ取り早い方法だ。 視界に写る血の赤は、人間が生命そのものを垂れ流していく過程を短的に表しており、死のイメージが直結するからこそ、自分はそれを眺めるのが好きなのかもしれない。 殺した。 何人もの人間を。 通って来た道は、数え切れない程の死体と怨嗟の声で満ちていた。 手にこびりついたどす黒い血を落とすために、新しい血を必要とする。血で血を洗うとはよく言ったものだ。 ずっとこんなことを繰り返してきた。 そして今、夢の中でさえも同じことを繰り返している。 自分が今、夢の中にいるのだとしっかり認識できる中、また新しい鮮血が舞った。 誰のものとも分からない悲痛な声を遠く聞きながら、時間の流れは加速を始め、新鮮な血が空気に触れて徐々に酸化し、色を変えては古い血溜りの中に埋もれていくのを、歪んだ快感と共に見つめている。永劫に続くことだ。おそらく自分は死の瞬間まで他者の血を流し続けるのであり、死しても尚この血染めの夢を見続けるに違いない。 ―――突如、変化が生じた。 狂気を煽る一面の赤の中に、それとは対極を為すような二つの冷たく冴えた青い光点が灯る。鮮やかな青を湛えているくせに深海の底を思わせるような、暗く闇を抱いた瞳。 それが何であるかを悟った時、不動は視界を染めていた血の赤が他者のものではないことを知った。驚愕と、事実を否定しようとする感情とが混じりあって、混乱を極めた頭が思考を停止させる。 声すら上げられない程の激痛と背筋が凍るような喪失感、左腕から命の血流が止めどなく流れていく。急速に体が冷えて、重くなっていく。 他者の死を幾度となく目の当たりにしてきたはずの自分が、誰よりも死という存在を常に身近に感じてきたはずの自分が、その時初めて死というものを実感した。 血の色が闇色へと変わっていく――― 眠りからの覚醒は突然訪れた。 夢特有の浮遊感が一瞬で遠ざかり、地獄へ引きずり落とされるような感覚と共に意識がはっきりとしてくる。 現実の世界とは、この男にとって必ずしも地獄と同等ではない。周囲から“欲望の塊”と酷評される、この不動琢磨という人間にとって、欲を感じない状況こそが地獄なのであり、何らかの欲求さえ覚えればそれが満たされようと満たされまいと、地獄以上の世界と認識できる。それが全ての価値基準であり、条件さえ揃えば夢も現実も関係ない。 それなのに目覚めの際に落下する感覚を味わってしまうのは、ただ単に肉体の重みを知覚するという、それだけの理由なのだろう。 目を見開けば、写し出される光景は僅かに立体感に欠けていて、しかも視野が狭い。 塞がれた右の視界が、ここが現実であるということを再認識させた。 僅かに窓辺へと視線をずらす。 既に明るくなっている上、差し込む日光の角度は高い。確かな時間は分からないが、おそらく昼も近いような時刻なのだろう。好きな時に寝て、好きな時に起きるというまさに自分勝手な生活を慣習としているだけに、この部屋には時計というものがない。 鈍い動作で起き上がりかけて、長身はまたベッドに沈んだ。 物騒な仕事を生業としている者の常として、頭は既にはっきりしているが、どうも起き上がる気にならずそのままベッドの中で無為な時間を過ごす。 ふいに陽が翳った。 世界が浅い闇に変化する。 ほんの少しの日差しの変化で、世界はがらりと雰囲気を変え、それを認識した脳はまた浅い眠りへ不動を引き込もうと信号を送ってくる。猫でもあやすように軽く誘惑を追い払いつつ、ふと先ほどの夢を思い出した。 結論から言えば心地よい夢ではない。心地よい夢であったなら、今こうして起きてはいないだろう。下卑た言葉を吐き捨てたくなる夢であったからこそ、覚醒を余儀なくされたのだ。 「…っ」 左手に違和感を覚えた。違和感は苦痛へと変わり、絶叫したくなる程の激痛へと移行していく。夢での光景が頭を過ぎった。真っ赤に染まった視界と溢れ出す血。感じる苦痛は、その血が他者のものではなく、自身のものであることを如実に物語っていた。 朱の世界を割って入り込んできた、青い色彩。 その目の持ち主が、この不快感の原因だった 「ち…っ」 噴出しそうになる激情を押し殺すように舌打ちする。乱暴に毛布を撥ね飛ばし半身を起こすと、不動は痛む左腕を摩ろうとして―――しかし右手は空を掴んだ。 精密な部品を幾つかぶらさげただけで、不動の二の腕から先は完全に失われていた。より強い不快感が、不動の顔に濃い影を落とす。 幻痛というものだ。失われた腕は、摩って痛みを和らげてやることもできず、拭い去ることの適わない痛みだけが、いつまでも亡霊のように纏わりつく。 伸ばした右手を戻して、不動は溜息をついた。ねっとりと気持ちの悪い汗が伝い落ちる。左腕が失われたのは何年も前のことだというのに、どうすることもできない苦痛は時折こうして不動を苛むことがある。義手をつけてからはこんな思いをする回数も格段に減ってきていたのだが、かつて不動の左腕を引きちぎった男との再戦と、それによって義手をも失ったことが、幻痛という厄介な病を再発させるに到ったのだろう。 義手を無くしてからは、左腕は放ったらかしのままだ。 腕が戻ればこんな幻痛に悩まされることも少なくなるのだろうが、直すには技術者と元手がいる。元手の方はその気になればどうとでもなるが、信頼のおける技術者を探すのに少々てこずっている状況だ。 新たな腕が出来上がるまで適当な義手の使用も考えたが、不動は却って面倒だと、そのまま肘から先のない左腕を無造作にぶらさげている。 妥協して安易に楽になってしまうよりも、敢えて苛立ちを溜め込んでいた方が後になって都合が良いこともあるだろう。この時期に感じるあらゆる負の感情がいずれ不動の力に変換される可能性もなくはない。 あの小生意気で憎らしい、青い瞳の蛇を血肉の塊に変えるために。 「くそ…っ」 ようやく引いてきた苦痛に、ぎりりと奥歯を噛み締める。 「…う〜ん」 傍らから寝ぼけたような呑気な声が応じた。 見下ろすと、女が安らかな寝息を立てている。長い黒髪と白い肌が印象的な女だ。 不動は、ようやく自分が一人ではなかったことを思い出した。 体の相性以外、名前さえも知らない。 昨夜、酒場で顔を合わせてそのまま何となく連れて来た女だ。 無限城のロウアー・タウンがジャンク・キッズグループ『VOLTS』の支配下にあるのは周知の事実だ。かつての支配者・雷帝が去った今も、それを引き継いだ新制VOLTSがMAKUBEXの卓越した頭脳の元に徹底的な支配を敷いている。 だがそれでもVOLTSの支配の及ばない場所、目の届かない場所はあるものだ。VOLTSは基本的に若い少年達の集団であり、彼らが目を向けない所謂大人達が集う場所も存在する。 今、不動が当座の居場所としているのもそんなエリアの一つだった。 昨夜、不動が酒場に足を運んだのは女を調達するためではなかったが、その時たまたま絡んできた連中を5人ばかり、まとめて片付けた途端その女が寄って来た。騒動の渦中にいる不動自身は知るはずもなかったが、ものの30秒程度で叩き出した男どもは、どうやら最近この付近で幅を利かせていた者達らしい。 そんな連中を隻眼隻腕の不動がいとも簡単に絞めあげた事実は、店に居合わせた男達に苦々しい畏怖を孕んだどよめきと、女達に欲望混じりの溜息とを運んできた。 女達は連れの男などそっちのけで不動に熱い視線を送り始め、どのタイミングで声をかけるか、他の女達と目に見えない駆け引きを演じていたが、場の雰囲気を読めないのか或いは知っていながら無視したのか、先んじて不動の前に立ったのがその女だった。 艶やかに笑って近寄ってきた女に、不動が与えたのは空虚な一瞥であった。 確かそれまで、店の片隅でそれなりにガタイの良い凶悪な顔をした男と乳繰り合っていたはずだが、女はもうその男には目もくれない。捨てられた当の男は、情けないことに去った女に未練たらしい視線を送りながらも不動と目線を合わせないようにするばかりだ。 うっとりと不動を見上げる女の瞳には、より強い男に媚びて生きる女の計算高さが見え隠れしている。 力を持たず、常に搾取されるか誰かに頼るしかない立場の女として、不動の持つ強力すぎる力への恐怖はゼロではないだろう。だが、それでも男を自分の意のままに操作できるだろうという自負が、ためらいもなく彼女を行動させるに到った。 擦り寄る女を、不動は振り払いはしなかった。 あからさまな企みを見抜けないわけはなく、女の思い上がった態度に多少の苛立ちも感じたが、見てみぬ振りをするのがこんな夜には常識だ。 言葉を交わすわけでもなく、不動がそのまま店を出ると女がついてきた。 それだけだ。 「…ん」 豊満な肉体がシーツに波を描きながら寝返りを打つ。普通の男なら思わずむしゃぶりつきたくなるような色香だった。情事の後を物語る気怠げな寝息と、布から僅かにはみ出した白い太股は、どんな強い理性を誇る男でさえもあっけなく陥落させてしまうだろう。 それらが彼女の最大の武器であり、これまで敗北を喫したことのない最高の作戦でもあった。自慢の体が男どもにとってどれだけの効力を発揮するか、彼女の考えは決して奢りではなかったであろう。 女を見下ろす不動の口元に笑みが浮かんだ。性的に見て極上の獲物を前に、欲にまみれた笑いを隠しもせず舌舐めずりをする。 「もう一度楽しませてもらうぜ…?」 低く呟く声は彼女に届いたのだろうか。 耳元をくすぐる囁きに、僅かに女の表情が動く。端から見れば、男が完全に女の手に落ちたかのように見えたかもしれない。おそらく彼女は心の中で自分の勝利と今後の安寧を確信しただろう。 不動は深い眠りに落ちているかに見える女の上に覆い被さり、迫り上がって来る欲望を更に高めるかのように殊更ゆっくりと手を伸ばした。 「…ワン・セコンド」 脳裏に真っ赤に染まった女が見える。 不動の笑みがより深まった。 今、不動が女に求めているものは、性欲ではない。 夢の中での一面朱の世界が、現実と繋がろうとする。 狂気と歓喜を込めた右腕が、女の腹に向かった。 耳を塞ぎたくなる程の絶叫が迸った。 既に人の形をしていない赤い物体を楽しげに見下ろし、不動は血まみれのベッドから降りた。かつて人間の女だったモノは、不動の欲を満足させるという最後の仕事を果たし、ただの肉塊となって転がっている。 「こうして見るとお前、いい女だな」 徐々に冷たくなっていく物体に向けて不動が漏らした言葉はそれだけだった。 部屋中に満ちた血臭に酔いながら、服もまとわず窓辺に寄る。 不動の首から下は、女の生命の源であった液体を浴びて濡れていた。これを洗い落とさない限り服を着るわけにはいかず、そして今はまだ洗い落とす気にもなれない。1歩踏み出すごとに、不動の鍛え上げた肉体の上を鮮血が伝い落ち、剥き出しのアスファルトの床に小さな染みを作る。歩き回ればその分だけ床は汚れるのだが、いくら部屋を汚くしようと、どうせ片付けるのは当人ではない。 煙草を1本銜え、世界を隔てていた窓に手をかけた。 こちらの廃頽的な世界と違って、あちらの世界はまだしも正常な空気が満ちているはずだった。無法地帯の無限城の中といえども、昼間のしかも人の行き来する往来は、そう異常事態が起こることもない。 地上3階からの眺めは、何の感慨も湧かないつまらないものであるはずだった。 窓を開ける。 微かな風が、だらしなく伸ばした髪を揺らす。 視界は赤に染められた。 「…な…っ」 思わず銜えていた煙草を落とす。まだ火をつけていなかった煙草は、風に煽られながら舞い落ちて、地上に触れる瞬間、恐るべき速さで飛来した銀色の光がそれをアスファルトに縫いつけた。 「貴方もお楽しみの最中ですか?」 血よりも赤い瞳が、笑っていた。 血溜まりの中に立つ黒い影。降り注ぐ陽光さえも闇に変えてしまうかのような、圧倒的な存在感。赤い瞳と死人のように白い肌、右手に光る鋭いメスが煙草を仕留めたエモノだろう。 黒衣の死神の足元に転がる、生きながら解体された人数はざっと10人くらいだろうか。 相手の正体も知らずに戦いを挑んだ気の毒な犠牲者か、無謀にも故意に狙った愚か者か。 「…気が合いそうですね」 不動の胸に散った血飛沫に目をやり、黒い人影は軽く帽子の鍔を押さえた。 すぐ階下でこれだけの惨劇が行われていたというのに、全く気付けなかったのは、赤屍を襲った連中の悲鳴と、不動が手に掛けた女の絶叫が重なったからだろうか。いや、彼らは声を上げる暇も許されず切り刻まれたに違いない。死体はいずれも恐怖の形相を残しており、虚しく見開かれたままの目は、死そのものと化した赤屍の姿を見た瞬間の光景を宿したまま時を止めている。 影のように立つ優美な体を、乾いた風が凪いだ。 漆黒の髪とコートが翻る。 凄惨な光景がまるで絵画のように荘厳な色合いを帯びたように見えるのは、悪戯に赤屍の髪とコートを弄る風の企みだろうか。 赤屍は笑っている。 足下に血の海を踏みつけながら、何の疑いも歪みも見えない。怜悧な容貌には邪気の欠片もなく、その微笑は冷たく澄んだ泉さえ連想させる。だが澄み渡った泉は、覗き込めば底まで見通せそうでいて、水面に写るのは自らの姿ばかりだ。 「では―――失礼…」 拍子抜けする程あっさりと、黒い死神は踵を返した。 ビルの3階から自分を見下ろす男が誰であるのか知っているだろうに、何の警戒心も持たぬかのように平然と背中を晒す。 それきり一切の興味を失ったとでも言いたげに、人影は通りの向こうに遠ざかっていった。 「たまんねぇ…な」 不動が喉の奥から搾り出すような呟きを吐いた。 一見腹立たしいとさえ思わせる程に、赤屍は目の前を悠々と歩き去ったが、不思議と苛立ちは感じない。赤屍の発する気配には、不動を軽んじる様子も挑発する兆しも見えなかった。神経質そうな容姿をしているが、かなりの気紛れなのだろう。 「赤屍蔵人…」 裏社会で赤屍の名を知らぬ者はいない。不動も、MAKUBEXの元にいた時、モニターごしには見たことがある。噂に違わぬ凄腕と、簡潔にそれだけの評価を下して、その後は記憶の隅に追いやった。 何の興味も涌かなかったのだ。 今も昔も自分の標的は別のところにある。 邪を秘めた青い瞳と、見えざる蛇を纏った忌まわしい腕。あの男以上に不動の欲を刺激する者はいない。不動の欲を掻き立てるのも、またその欲の疼きを止めるのも、あの男の他にはいないのだ。 しかし今、面白いモノを見つけたと本能が告げていた。 どこかあの男と同じ匂いがする。どこをどう見ても似ている箇所など見当たらないのに、同属の空気を感じた。それが不動を惹きつける。 「面白ぇ…」 誰に語りかけるでもなく呟く。 殺人を趣味とする最悪の運び屋と噂される赤屍を、その目で直に目撃しておきながら、こう答えを出す者はそういない。 不動もまた、掛け離れた生き物なのだ。 通りの奥から人の悲鳴が上がった。若い男が惨状を指差し、何か大声で叫んでいる。ひとしきり大騒ぎした後、人影は走り去っていった。人を呼びにいったのだろう。連れてくるのは、まともな連中か、それとも内臓を回収して高く売りさばく売人か。 面倒ごとに巻き込まれるのは避けたいものだ。不動は窓を閉めようとして、一瞬何かを考え込むような表情を作った。おもむろにベッドに転がる赤い人形の足を掴み、窓の外に放り投げる。 赤屍が拵えた血の池に、それが落ちたことも確認せず不動は窓を閉めた。 死体の始末の手間が省けたことを、死神に感謝すべきだろうか。 時間が経つにつれ、窓の外ではどんどん騒ぎが大きくなってくる。それを遠く聞き、不動は椅子に座ったまま目を閉じていた。自分の欲が張りつめてくるのが分かる。 何かの始まりを告げる警鐘が聞こえた気がした。 |