時計の針が交差し、暦の上では日付がまた一つ歩を進めた。

誰も見てくれる者がいなくとも、時は確実に流れ、時計は容赦なく時間という見えないものを規則的に刻んでいく。

目の前で昏々と眠る男を見下ろし、3人は無言だった。

壁に掛けられた時計がひっそりと0時を告げたのにも気付かない。

会話が途切れて、もうどれくらいになるだろう。

女は話好きだとよく言われるが、同一の場所に視線を集中させている三対の瞳の持ち主達は、いずれも女性であるにもかかわらず、波の立たぬ水面を覗き込んでいるかのように言葉もない。

部屋は、いかにも少女のものらしい、明るい色彩に満ちた可愛らしいものであったが、部屋の外観が持つ温かい印象さえも今は暗く淀んでいる。

雰囲気からすると、一番後ろに控えた長い黒髪の少女の部屋らしいが、日頃の少女の生活感を滲ませる独特の空気も、どこかへ消え去ってしまったかのようだ。

閉め切ったカーテンは外界との遮断を思わせ、全てを照らす唯一の光源である蛍光灯はどこか非現実的な光景を浮かび上がらせながら、健康的であるはずの女性たちを血の通わないマネキンのようにも見せている。

世界が薄っぺらい架空のものとすら錯覚させてしまう―――その原因は、闇の支配を感じ取る体内時計のせいでも、夜の侵略を拒むように晧々とつけられている冴えた照明のせいでもない。

彼女達の張り詰めた思いが空気を変えている、原因はそれに他ならなかった。

軽々しい会話などできる余裕もない、彼女達の目は一様に同じ意思を物語っている。

衣擦れの微かな音ですら禁忌とされるような静寂。

この重い沈黙の発端は、ベッドで深い眠りに落ちている男の存在であった。

時折男が漏らす微かな呻き声だけが、いやに大きく聞こえてくる。

ただ単に男がいるというだけなら、こんな空気は生まれない。

可愛らしい部屋に3人の若い女性、お互いに向かい合うのではなく同じ一点を凝視していることから、何かしらの軋轢があるようでもない。

誰が見ても剣呑な雰囲気など微塵も感じさせない光景の中、唯1人その男がいるというそれだけのことですべての調和は乱れ、彼女達の表情にも暗い陰を落としているのだった。

「…ぐ…っ」

短い呻き声とともに、意識のないはずの男が苦悶の表情を見せる。

「蛮…っ」

「蛮くん」

「蛮さん」

弾かれたように、3人がそれぞれに名前を呼んだ。

傷の痛みか、精神的なストレスか、激しい苦しみは周期的に襲ってきて蛮を苛む。

ここに運び込まれてから症状が落ち着くまでは、陸に打ち上げられた魚のようにもがき苦しむ状態が続いた。

それから数時間、苦痛に喘ぐ間隔も徐々に長くなり、これでも苦しみ方の度合いは引いてきた方だ。だが、それでもまだ時折発作でも起こしたように蛮の体は苦痛を訴え、伸ばされた手が奇妙な形に曲げられて空を掴む。

意識がはっきりと戻るまでは、まだまだ安心できない。

「蛮…」

ベッド際に屈み込んだ卑弥呼が、冷やしたタオルを手に蛮の肌に浮いた汗を拭き取る。

蛮の体のあちこちに巻かれた包帯と、それらに滲む血を視界に認めて、卑弥呼の表情がますます陰を帯びた。

医者に診せることができない以上、自分達に出来ることには限界がある。応急処置の心得はあるものの、それらを施しただけで十分といえるかどうか。

病院に連れて行ければ事は簡単だし、安心できるのも確かだが、こんな状態の蛮をまともな病院に委ねればどうなるか簡単に予想がつく。

これだけの重症だ、病院側が疑問を持つのは間違いない。事故、あるいは何らかの事件でもなければこんな状態にはなりようがない、そう考えるのが普通だ。

その結果、もし病院側の判断で警察にでも通報されれば事態は面倒なことになる。

裏社会に生きる身には、一番避けたい状況だった。

故に今、彼女達には見守る他、出来ることは何もなかった。

苦しむ蛮を前にして、これ以上何も出来ない歯がゆさが、皆の心と表情に悔しさと焦燥を貼りつかせる。

「何もできないなんて…っ」

ふいに小さな呟きが漏れた。

無力感を一番感じていたのは卑弥呼なのかもしれない。

「レディ・ポイズン…」

小刻みに肩を揺らす卑弥呼に優しい手が触れた。

振り向いて見上げれば、必死に看病する卑弥呼を労わるようなヘヴンの瞳がある。

いつも周囲の注目を集める華やかな貌は、今は所々に痛々しい治療の痕があり、銀次が庇いつつ行動していたとはいえ被害は免れえなかったことを如実に伺わせた。

卑弥呼と同じく裏社会に生きる女だが、戦闘を専門にしているわけではない。その分、味わった恐怖は余程のものだっただろう。

それでも今、ヘヴンが一番落ち着いて見えるのは、生来の気丈な性格と、年上としての無意識の責任感からであった。

「自分を責めちゃ駄目よ…」

「そうですよ、蛮さんはきっと大丈夫。最強無敗の男だし」

元気づけるように、夏実もわざと大きな声で卑弥呼に語りかける。

“最強無敗”その言葉に、卑弥呼は拒むように夏実からもヘヴンからも顔を背けた。

「負けちゃったわよ…」

その声に、また沈黙が降りる。

卑弥呼は目の前で見ていたのだ、蛮とルシファーの戦いを。

相手の訳のわからない強大な力、それに敗北を喫した蛮。ここまでショックを受けるのは、卑弥呼自身、蛮は軽口で言うだけではなく、本当に最強で誰にも敗れることはないのだと、心のどこかで信じきっていたからかもしれない。

上には上がいる、蛮の戦いを通してそのことを思い知らされた気分だった。

「ダメですよ、信じなきゃ」

再び重い沈黙に沈みそうになる空気を、夏実の一生懸命な声が押し留めた。

「私、詳しいことはよく分かんないけど、蛮さんならきっとリベンジかましてくれますっ。銀ちゃんだってこのままじゃ終わりません。説明できないけど、絶対大丈夫なんです」

拳を振り上げて力説する夏実に、卑弥呼はようやく顔を上げた。

「そうよ、銀ちゃんはあの通りだし、こいつだってこんなことぐらいでくたばるような奴じゃないわよ。アンタの方がそういうとこよく分かってんじゃない?」

ヘヴンが傍らに屈み込んで目線を合わせてくる。度重なる緊張と看病の疲労とで強張ったままの卑弥呼の手を取り、ヘヴンは両手で包み込んだ。

「きっと大丈夫」

夏実も輪の中に入り、ヘヴンの手の上に自分の手を重ねた。

「大丈夫ですよ」

こんな時だからこそ、人の温もりはそのまま心の中に沁みてくる。逆境に立った時、力を発揮するのは個々の肉体的な力ではない。周囲を思いやり支え合おうという感情が何よりも強い結束を形成する。

目に見えない力だからこそ、それに気がついた時、人は深い思いを抱くのであろう。

卑弥呼が小さく頷いたのを見て、ヘヴンと夏実は安心したように微笑んだ。




全員で蛮の傍に付き添っていても、出来ることは限られている。体力も消耗することだし、交代で様子を見ることにしよう、そう提案したのはヘヴンだった。

依頼は遂行されたわけではなく、今回の撤退も一時的なものだ。プロとしては、次を見据えて体力を回復させるべしというのが定石であろう。

今、最も蛮の傍にいなければいけないであろう相棒は、戦闘時に負った傷と40階から落下した際の傷とで重症だった。蛮は夏実の部屋に、銀次はホンキートンクで治療にあたっていたわけだが、銀次は独自の回復方法を編み出し恐るべき速さで復活を図っている。

蛮の治療に際して自分の出番がないと悟った時、銀次は自身の治療とエネルギーの補填を最優先の項目として選択したのだ。

とにかく食べて体力回復に万全の策を講じている銀次は前向きと言える。

おそらく今こうしている間にも、銀次は蛮の身を案じながら、栄養と電気エネルギーとを摂取することで、『雷帝』の名を冠するに相応しい強力な力を蓄えているのだ。蛮が意識を回復して、今一度奪還に向かう、その時のために。

本音を言えば蛮のことが心配でたまらないはずの銀次が、敢えて今後のことを視野に入れた対処を己に課しているというのに、卑弥呼達が感情に流されて看病疲れをしていてはいけない。

ヘヴンの提案に卑弥呼は一瞬渋い表情をしたが、何かしら起こった場合はすぐに知らせること、蛮の意識が戻ったらすぐに知らせること、という2つの条件をつけて承諾した。




一番消耗しているであろう卑弥呼に休息を進め、部屋にはヘヴンと夏実の2人が残った。

「それにしても、こいつが負けるなんてねー」

溜息混じりの声が、困惑ぎみの台詞を綴る。一度緊張が解けたせいか、先ほどまでの痛いくらいの空気はなりを潜め、会話をする余裕も出てきたようだった。

「正直、私びっくりしました」

新しいタオルを探して、箪笥の中をひっくり返しながら夏実も同意する。

「私もよ、その場にいなかったから余計信じらんない。…目が覚めたらからかってやろうかしら」

人の悪い笑顔を浮かべながら、ヘヴンは蛮の顔を覗き込んだ。

苦痛の表情は今のところ見えない。快方へ向かったということだろうか。

「ねぇ、夏実ちゃん」

「はい?」

「こうやってよくよく見るとさ―――」

膝を屈めて、ヘヴンは眠ったままの蛮の顔を至近距離からじっくりと眺め回した。

「何ですか?」

目的の物を求めて忙しなく手と目を働かせながら、夏実が答える。日頃使わないタオルは箪笥の奥の隅っこに鎮座し、発掘されるのを待っていた。

「蛮君て整った顔してんのね〜」

「蛮さんはカッコイイですよ?」

ちょっと小首を傾げて夏実が怪訝な表情を見せた。例えば“雨は空から降ってくる”などと当たり前のことを改めて言われた時、人間はこんな表情をするのだろう。

「そこそこの顔かなって思ってはいたんだけど、よっく見るとかなり…結構なもんじゃない。髪型のせいで分かんなかったのかしらね」

嘆息するように言いながら、ヘヴンはよく手入れのされた細い指で、蛮の額に落ちかかる前髪を軽く払った。普段こんなことをしようものなら、振り払われるか、触れる前にあの鋭い青い瞳で睨み付けられるかのどちらかだ。数々の修羅場を潜り抜けてきただけあって、馬鹿なことをやっているように見せていても、蛮の周囲には隙がない。逆に銀次は、戦闘時はさておき、いつもは過去の経緯を疑わせるほど隙だらけだ。

「どうしてこの髪型にこだわってるのかしら?」

男の割には意外と艶やかな黒髪に、ヘヴンが指を絡めて軽く梳いてみる。

昏睡状態とはいえ、蛮がこうやって無防備に触れさせるということは、鋭敏な感覚も少なからず麻痺している。自己治癒力に邪魔となる身体機能を低下させ、体力の回復に全ての力を総動員しているのだろう。無意識的にそういうことができるように訓練されているのかもしれない。

「でも、その髪型は蛮さんのトレードマークですから…て、何やってるんですか?」

見つけ出したタオルを手に振り返った夏実の視線の先には、とても楽しそうに、自分のバッグの中を、何かを探してごそごそとやっているヘヴンの姿があった。

「このシチュエーションでやることといったら一つよね♪」

何を企んでいるのか、何となく予想がつく。

「悪戯するんですかぁ」

「もっちろんよ…じゃ―――ん♪」

ヘヴンの手には、高級ブランドバックに収められるに相応しい、これも高級ブランド化粧品が山のように盛られていた。

あの小さなバッグの中によくもこれだけ詰め込んでいたものだと思うが、女性のバッグの中身というのは魔法のように色々な物が出てくるのが常である。

「夏実ちゃんも乗らない?」

「怒られますよ〜」

「意識が戻る前にメイク落とせばいいじゃない。証拠写真だけは撮ってね」

「でも…」

「こいつ、いっつも私にセクハラするんだもん。たまには仕返ししたいのよ」

「んー…」

少し悩んで夏実はにっこりと笑った。

目の前には、からかったりオモチャにしたりできないタイプの蛮が、身動きできずに眠っている。しかも真夜中、睡眠不足で緊張感も解けてきていて………脳がおかしな方向に走り出すには十分な条件が揃っていた。

「バレなきゃいいんですもんねっ」

「そうそう」

こうして女性ならではの悪戯が始まった。

部屋に残っていたのが、蛮に対して数々のセクハラの恨みを持つヘヴンと、天真爛漫な夏実という2人だけだったのが最大の要因であろう。

卑弥呼がいたら間違いなく止められたはずなのだが、蛮にとっては気の毒なことに、卑弥呼は別室で休息をとっている。

「まずは下地〜♪」

ただ単に、口紅を塗るぐらいで留めておくのではなく、本格的にばっちりメイクするつもりらしい。

「そしてファンデーション〜♪」

ヘヴンは鼻歌まで歌いだしかねない状態だ。蛮の肌を覆うガーゼや包帯、小さな擦過傷が化粧の邪魔なことこの上ないが、気にしないことにしたらしい。

「色、合いますか?」

「腹立つことに、こいつ色白いから平気よ。強いて言えばもう一段階暗めのカラーの方がしっくりくるかもね」

顔に触れられる刺激で蛮が目を覚ましたりしないよう、作業は慎重に行われた。こんなことがばれたら、後でどうなるか分かったものではない。銀次なら女には甘いが蛮はそうはいかないであろう。

化粧品はすぐに隠せるよう、ベッドの下の隅に置いたまま作業する。例え途中で目を覚ましたとしても、化粧していることがばれなければ取り繕うことはできるわけで、そのため部屋中の鏡は取り外され、窓にはカーテンが引かれた。

「目元はどうしようかしらね」

「瞳の色に合わせてブルー系でどうですか?」

「アイシャドウはブルーね〜♪」

「それとビューラーとマスカラいきまーす」

2人ともすっかり楽しんでいる。蛮は何も知らずに深い眠りの中だ。

「口紅は…」

「オレンジとかピンクとかより赤だと思いますっ」

夏実の強い主張に、ヘヴンは化粧品の中から自慢げに口紅を掲げて見せた。

「この色なんかどう?」

「綺麗な色ですね〜」

真紅の口紅は、存在感を発揮する鮮やかなローズだが、下層の水商売の女達が使うようなどぎついものではない。

「シャネルの新作よ♪」

仕上げとばかりにルージュを引く。

「メイクは完璧ね…ふふ、綺麗よ、蛮君」

「眠れる森の何とやら、ですね」

「予想以上に良いデキだわぁ」

「蛮さん、ステキです」

「こんなにステキな蛮君は見たことがないわね」

ヘヴンの声は爆笑するのを堪えている。

「真面目に綺麗ですよね〜」

夏実の声は、素直な感激が見え隠れしていた。

「難を言えば、髪型が」

「あ、ウィッグ使いますか」

何故そんなものを持っているのか、夏実はしばらくクローゼットの中を引っ掻き回していたが、奥の奥から目的のものを探し出してきた。

髪型が変わると、一気に印象が変わる。

「すごい…すごいわ、蛮君」

「こんなに楽しくていいんでしょうか?」

「ちょっと悪ノリしすぎたかしら?ねぇ夏実ちゃん、使い捨てカメラなんかある?さっさと写真撮って元に戻しておかないと」

「あ、あるはずです」

遠足前の子供のように輝いた目をして、夏実はヘヴンにカメラを差し出した。24枚撮りの使い捨てカメラは、まだ封も切られていない状態だったが、2人の間には全ての枚数を使い切ってしまおうという暗黙の了解ができていた。

2、3度距離と角度を確かめて、いよいよヘヴンの指がシャッターにかかる。

自分達の悪戯の締めを飾る儀式に夢中な2人は、背後のことなど気にもとめない。

「じゃ…いくわよ」


「何やってんのよ―――っ!!」

一体いつの間に開いていたのか、ドアの向こうから怒声が飛び込んできた。

「綺麗でしょ?」

悪びれるふうもなく、ヘヴンが卑弥呼に自信作を指し示す。

「うわ…っ、マジ…綺麗…かも……じゃなくてっ、あんたなんかを信じた私が馬鹿だったわよ!!蛮は怪我して昏睡状態だってのにこんな真似するなんてっ!!」

「些細な悪戯じゃない。服脱がして、放送禁止用語的な悪戯したわけじゃなし。それに女は皆、割とこーゆーの好きでしょ?」

「…」

「違う?」

ヘヴンの指摘に、卑弥呼が言葉に詰まった。

そう言われてみれば、否定できない部分もある。確かに言いようのない魅力的な悪戯だと、心の中で囁く声があった。

しかし、ここで肯定するわけにはいかない。悪戯心は刺激されるがそれ以上に、卑弥呼にとって蛮はあくまでも、強くて男らしい男であってほしいのだ。

とても綺麗に仕上がった蛮の寝顔と、ヘヴンの笑顔と、困惑気味の夏実とを見比べて、卑弥呼は心を落ち着けるように一度大きく息を吸い込んだ。

「…とりあえず、出てって」




追い出されて、再び部屋に入った時には、もう蛮は元の状態に戻っていた。



卑弥呼の態度が意外にもそれ程刺々しくなかったのは、まだ使っていないはずの、使い捨てカメラが無くなっていたことから推測できる。

シャッターは何回切られたのか―――?

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