手術台に乗った残骸を面倒くさそうに眺め、壮年といった印象の男は一度メスを置いた。数時間前までは人間の若い男として活動していたはずのものは、今や内臓や眼球、血液や頭髪までも奪われ、無残な姿を晒している。 思わず目を背けたくなるような凄惨な光景だった。 例え肉食獣に襲われてもこれほどの惨状ではあるまい。 彼は生きながらにして体を切り開かれ、あらゆるものを奪い取られたのだ。 そう、命までも。 四方、天井、床までも病的なくらいに白で覆い尽くされた部屋は、人間の夥しい血痕に濡れ、古いものはどす黒く酸化してこびりついている。部屋の主は几帳面な性格ではないのか、肉片や使用済みのガーゼも床に落としっぱなしだ。手術用のライトが無慈悲にそれらを照らし出し、人間を解体するための道具のみが清冽な輝きを放つ。 「さて、次だ…」 人間として、何か重要なものを欠いた声がそう呟いた。 手術台の上に乗った憐れな死体に対する感情は微塵も見当たらない。男にとってそれは“生きていた時”から既に人間ではなく、ただの商品なのだ。 臓器を抜き取られすっかり軽くなってしまった物体を、男は床に乱暴に落とした。耳を塞ぎたくなるような鈍い音を立てて死体が転がる。 様々なルートから持ち込まれるこれらの商品を、売りさばけるような状態に仕上げるのが男の生業としている仕事だった。 外部で行えばもちろん取り締まりの対象となる仕事だが、男の住む地帯ではごく当たり前に行われている行為である。 国家権力ですらその効力を発揮できない無法地帯。 いつの頃からか、人々は恐怖と畏怖を込めてこう呼んだ。 無限城と。 男が店を構えているのは、その無限城の中の一角であった。 肩書きは一応医者ということになる。 ごくまっとうに医の道を進み、人の命を助ける仕事をしていたのは、もう遥かに昔のことだ。 命を救うという仕事に感動を覚えなくなったのは、そして人の命を奪うことに快感を覚えるようになったのはいつの頃だったろうか。 そんな男にとって、行く先は無限城しかなく、この場所はこれ以上ないほどの好地でもあった。 無限城の中では、他者は物を奪うための対象でしかない。持ち物は全て、内臓でさえも。 そしてまた、臓器が高く売れるというのは、無限城の中では子供でも知っている常識であった。 男の元には毎日のように商品が持ち込まれる。 人間を狩ることは容易でも、肉体を解体するにはやはり専門家の知識と腕が必要なのだ。 男は仕入れた商品を客の求めに応じて、売り物としての状態に仕上げ、その手数料を取ることで生きている。 その様は、宝石の原石を持ち込む者と、それを研磨する技術者との関係に似ていなくもない。扱う物体が違うだけだ。 既に死体となって持ち込まれる場合も多いが、半死の状態の場合もある。 男にとって一番好ましく思えるのは、やはり傷のついていない若くて元気な肉体だ。 子供よりは女がいい。 女よりは屈強な男がいい。 力で全てを意のままにできると思い込んでいる男どもが、為すすべもなく解体されていく様を見るのは最高の快感だ。暗い欲望が最も満たされるのを感じる。 そんな生活を何年も続けてきた。 これから先もずっとこの生活が続くだろう。 技術を必要とされているからには、自分自身に危害が及ぶ心配は無きに等しい。 無限城にも最低限のルールがある。 利害が一致してさえいれば、彼らは自分を切り捨てたりはできないはずなのだ。 無限城での経験が、男に揺るぎない確信を与えていた。 体を切り刻まれ、ゴミのように打ち捨てられる商品達の姿は、自分の身に降りかかることのない無関係の世界だ。 そして、その日も男は飽きることなく仕事に没頭していた。 どこかでグループ同士の抗争でもあったのだろうか、本日は商品の入りが多い。 抜け殻と化した死体は適当に床に蹴落とし、新しい商品に手をつける。 染み一つなかった手術着を深紅に染めて、男は作業を続けていた。 常用している麻薬のせいもあって、朱の興奮は男を享楽の世界へと連れていく。 迫りくる恐怖に気づくことができなかったのは、そのせいかもしれない。 運び込まれた商品はいよいよ最後となった。 床に散らばった商品達は、何らかの強化剤を使用している者や、怪しげな強化手術を受けた者ばかりで、この男にとっては今一つ魅力に欠けていた。 最後の楽しみに残しておいた商品は、何の手も入れられず素のままで、男にとってはまさに好ましい商品であった。 年齢は20代初めといった所か。 打撲や骨折、擦過傷などそれなりに傷んではいるが、この際大した問題ではない。 だらしなく開かれた目にはまだ意識の欠片がある。これから自分の身に起こることを、おそらくは理解できているのだろう。 為す術もない絶望感をその瞳に見出して、男の興奮がより高まってくる。 舌舐めずりをして、男はメスを入れた。 血が勢い良く噴出し、腹の中身が露になっていく。 蔓延する血臭も、手に感じる肉を裂く感触もたまらない。 忘我の興奮状態にある男は、部屋の扉が荒々しく開かれたことにすら気がつかなかった。 「楽しそうじゃねぇか」 耳に届いた言葉と、己に降りかかった状況を理解するのには、数秒を要した。 低い声は、男の頭の上から降ってきたかのようであった。 緩慢な動作で振り返り、ぼんやりと見上げると、隻眼の長身の男が高圧的に笑っていた。 「――――――…っ」 あまりの驚愕に声も出ない。 悦楽に火照った体が一気に体温を下げる。 ぼやけた脳は一瞬で理解した。 この男は危険な人種だと。 鍛えあげられた長身のせいだけではない。 その身にまとう野獣のような空気が、本能に恐怖を刻みつけるのだ。 それは小動物が、大型の肉食獣に遭遇してしまった時の恐れに他ならない。 立ち向かう術もなければ、逃げることも叶わない。 追い詰められた鼠は猫を噛むというが、そんな考えさえも及ばないほどの圧倒的な力の差。 これまで無限城に生きるからには荒事には無縁ではなく、危険人物も幾度となく直接目にしてきたが、今、目の前に幽鬼の如く立つ人影はその比ではない。 喉がからからに渇く。 生き物が等しく持つ、本能的な恐怖だ。 助けを呼ぼうにも、体は硬直し、指一本動かすこともできない。 「治療代だ」 その一言とともに、失神寸前になっている男の目の前に、ぐちゃりと音を立てて投げつけられたものがある。 派手な服装の人間が転がった。仕事上取引のある組織の男だ。 無限城でも一際凶悪な組織に所属しているが、そんな組織の中であっても、気の荒い暴れ者として持て余されているような奴だったはずである。 「十分な額になるはずだぜ?…活きのいいのを選んだからな」 呆然としている男を見て、その人物は喉の奥で低く笑うと、信じられないことを口にした。 「足りねぇってんなら、向こうの黒いビルん中にいくらでも転がってるぜ。この俺に喧嘩をふっかけてきやがった阿呆どものなれの果てが」 今度こそ、男は気を失いかけた。 この近辺で黒いビルといえば一つしかない。 まさか、たった一人であの組織を壊滅させてきたとでもいうのだろうか。 恐怖に震える男の頭の中で、できるわけがないと否定する声と、この人物ならやりかねないと慄く声が鳴り響く。 「…ち…治療…っ…を?」 やっとの思いで声を出した。白目を向いて口の端から泡を吹いた“治療代”の惨状が、男の恐怖を増幅させる。 誰を治療するというのか、そんな間抜けな質問を吐く前に、男は目の前の人物が満身創痍であることにようやく気がついた。 黒衣の下の肉体は血がこびりつき、胸には鋭い刃物で切りつけられたかのような傷がいくつも残っている。 黒衣の左袖に目をやると、左腕は本来あるべき長さには大きく足りず、二の腕から先が失われているらしいことが読み取れた。 「たまには怪我人を治してみな。腐っても医者だろうが?」 怪我人とは思えぬ迫力で言い放つ。この人物はこの状態でありながら、“治療代”を狩りだしてきたというのだろうか。そして、組織を潰してきたのだと―――。 断れば命がないだろうことは、容易に想像がついた。 承諾したとしても、身の安全は保証の限りではなかったが、今この時点では少しの可能性にすがるしかない。 「3秒で腹を決めろ。それ以上は待たねぇ…」 指定された時間を消費するまでもない。 男の首は恐るべき勢いで縦に振られ、承諾の意を露にした。 それから幾日経ったのか、彼の悪夢は未だ終息のめども立たない。 例の組織が謎の崩壊を遂げたという話はすぐに聞こえてきた。 組織所有のビルは血の海と化し、そこに倒れ伏す者たちは、ある者は頭を潰され、ある者は胸の穴から心臓を引きずり出され、いずれもまともな死に様ではなかったという。 あの男の言っていたことは紛れもない事実であったわけだ。 絡んできたのは数人だけだったろうに、組織全員まとめて虐殺するとは。 あの男にとって、殺戮に確たる理由など必要ないのだろう。 ただ自分の欲求の赴くまま人を殺す。 だからこそ、心底恐ろしい。 名前も名乗ろうとしないその男は、そのまま居着いてしまい、3階の居住用のスペースを我が物顔で使用している。 突きつけられる要求も、日に日に多くなってきた。まるで使用人や奴隷の扱いと代わらぬ日々。どれだけ不快に思っても、それを表面に出すことはできなかった。 不穏分子を排除する機会がまったくなかったわけではない。 医者であることを利用して、暴力に頼ることなく相手を消し去ることはできたはずだった。 しかし、幾度となく機会を窺いながらも、ついにそれを為し得なかったのは、その都度脳裏に浮かんでくるあの一言のせいだった。 災厄が襲ってきたあの日、怯えつつも治療に当たろうとした彼の手元に目を止めて、“災い”という名の患者はこう言った。 「麻酔はいらねぇ。下手な企みは無駄だと思え…」 一つの計画が水泡に帰した時、全ての希望が断たれたような気にさせられた。 全てを見透かしているかのようなあの左眼が常に頭の中にちらついて離れない。 あの男の言葉通りに事が運ぶと決まったわけではないが、実際に麻酔抜きでの手術にも呻き声一つあげず、動じる様子も見せなかった相手だ。恐怖に耐えかねて、無駄な抵抗をしていたなら、自分はおそらく死んでいたに違いない。 だが、自身の賢明な判断によって今を生きていることを、神に感謝する気には到底なれなかった。 素性も名前も不明なその男に関して、本人に悟られぬよう独自の情報網をほんの少し駆使すると、あっけないほど簡単に答えは出た。 明らかになった名前に、納得すると同時に戦慄を覚える。神に怨嗟の言葉を投げつけたいと願わずにはいられなかった。 不動琢磨―――。 これを災厄と言わずして何と言おうか。 その名に付随してくる噂や情報は最悪だった。 現在、この無限城ロウアータウンを仕切るVOLTS四天王の1人。その大きな肩書きを抜きにしても、聞こえてくる話はどれもこれも無限城の住人ですら眉を顰めるようなものばかりだ。 無法地帯で生きる者にすら最悪と評される男、そんな人間と関わってしまった彼の絶望は深まるばかりだった。 一説には、何事か騒動があり、そのせいで不動がVOLTSを抜けたらしいとも聞こえてきたが、そんな情報は彼にとって何の足しにもならなかった。肩書きがなくなっても、不動の持つ力には変わりがなく、それに威圧される者の恐怖もまた変わりがないのだ。 彼はかつての仕事部屋に引きこもることが多くなった。 太陽に背を向ける生き物のように、部屋の隅に蹲り、従順な奴隷のように毎日を過ごす。 足音が近づいてきた。 あれほど好きだった仕事すらも手につかなくなってから、ここに出入りする者は極端に限られる。足音の主は、あの男、不動以外にはありえない。 毎日ふらふらと出歩いているようだが、今日はどこへ行くつもりだろうか。 足音は部屋の前まで規則的に響き、そこを通過した途端まるで消えたかのように静まり返った。まだすぐそこを歩いているであろうに、まったく気配が読めない。 帰ってきた時には、逆の現象が起こる。遠くから徐々に近づいてくる足音は、部屋の前までははっきりと聞こえるが、それ以上中に入ると一気に音がしなくなるのだ。 その気になれば完全に気配を断ってしまえるはずなのに、敢えてそんな真似をしているのは、外出と帰宅とを知らせるなどという親切心では決してない。 そうすることで、彼を脅制しているのだろう。 事実、その足音が耳に届く都度、彼は身を強張らせ物影に隠れるように蹲った。 絶対的な暴君の影に怯えながらの生活は、彼から気力を奪い取り、次に体力をも蝕み始める。 虚ろな表情のままの顔を少しだけ上げて、彼は安堵するように溜息をついた。 またあの足音が聞こえてくるまでの短い時間が、彼にとって許された安息の時だった。 一歩外に足を踏み出すと、清々しい太陽光と貧民街特有の異臭が不動を迎えた。 埃っぽい空気も、倒壊寸前といったような町並みもそれほど嫌いではない。 一見近代的に見えるビルと、古ぼけて今にも崩れそうな建物が混在している、ちぐはぐで非常にアンバランスだが、不思議と馴染んでしまっているところが面白い。見るたびに違った印象を与えるこの不可解な光景も、楽しいと捉えられる人間にとっては、変化に富んでいて飽きることがないというものだ。 気に入らないことがあるとすれば、こんな特殊な地帯であるというのに、普遍的に降り注ぐ陽光だった。こんな饐えた場所でありながら、生きていることが罪悪と思えるような最低な人間にさえも、平等に手を差し伸べてくるのが鬱陶しい。 地面に濃く刻み付けられた影を引きずるようにして通りを行く。 僅かに視線をずらせば、路地の隙間には、日差しを避けるように蹲る浮浪者や、何事かを企む犯罪者の目つきをした若者がたむろしている。 あんな連中が大半を占める地帯には、それに相応しい光が降り注いでも良いように思う。 じわりと侵蝕する毒のように、浴びただけで体の内側から腐ってくる歪んだ日光が。 ちらちらと向けられる視線を無視して不動は歩を進めた。 通りの傍らに群がる連中は、何も知らずにここらを通りかかった通行人を食い物にして生活している者達だが、不動のことは遠巻きに眺めるだけで何も仕掛けてこようとはしない。連中から見れば、ジャンクキッズどもとは明らかに値段が違う服を着て、丸腰な上に隻眼・隻腕の人物など、願ってもない獲物のはずだ。 しかし、向けられる視線には、怯えの色がある。 不動の素性を知っているのか、或いは本能でその危険性を察知しているのだろう。しかし、怖れながらも逃げようという意思が感じられないのは、無限城に生きる者達の逞しさといった所だろうか、怖れの裏にうっすらと期待感が見え隠れしている。 不動が何か揉め事でも起こしてくれれば、漁夫の利を得られると踏んでいるのかもしれない。不動の注意を引かないよう気をつけながら、舌舐めずりする者もいる。 不動にとってそいつらは、ハイエナどころかゴミに集る蝿以下の存在でしかない。 絡みつく視線になど一切構わず、ポケットに手を突っ込んだまま、無防備ともいえる足取りで悠然と通りを歩み去る。 数日前、黒いコートを翻した死神が、氷の微笑を残して消えていった方向へ。 気紛れな不動にしては、珍しく目的地は決まっていた。 夜を中心に動き始める不動だが、こんな昼間から行動を開始している理由がそれだ。 別に約束があるわけではない。 ただ、その時間帯、その場所でなければ意味がないのだ。 獲物を狩るために狩場へ移動する、そう表現するのが似つかわしいだろうか。 先日仕入れた情報からすると、無限城を根城にしているわけでもないその標的は、とある場所を訪れる数少ない機会を逃せば捕らえられない。 不動がこの無限城から出ない限りは、その少ない機会をものにするしかなく、そのためには自分から動かざるをえなかった。 奇妙なことに、肩透かしを食らう感じはしない。能力の向上は欲の高まりと比例するが、“サトリ”とも結びつく第六感が余計鋭くなっている。 意識している以上に、あの存在は不動の欲を刺激しているということだ。 何を期待しているのか、自分でもはっきりとしないまま、あの姿を求めた。 無理に目的を固定させる必要はない、会えば自然にあるべき方向へ動き出す。 退屈な時間の終焉を感じ取って、不動は喉の奥で笑った。 その店は、最近になってよく風変わりな客が訪れるようになっていた。 店というには、蝶番の扉はしっかりと閉められ看板も何も出ていない。さして大きくはない建物だが、古びた雰囲気は商売っけが全くなく、他者を排斥するかのような印象すら与えている。 存在を知っている僅かな者のみが訪れるような店だ。そしてまた、店の主人もそんな商いを望んでいるのだろう。 数少ない小窓からは微かに中の様子が窺えるが、一体何に使うものか見当もつかない不思議な物体が所狭しと並べられ、まるで魔女でも棲んでいるかのような異様な世界を作り出している。 部屋の半分を占める大きな物体は、何かしらを作り出す機械らしかったが、それらが数分に一度低い唸りをあげるたび、店の外にまで振動は及び、部屋の中にごろごろしている小さな物体は迷惑そうに転げまわるのだった。 部屋中に独特の光線が瞬いているのは、床に散らばる物体の多くが金属や鉱物だからであろう。窓から差し込む僅かな光源や、奥から漏れてくる強い光を受けて乱反射を起こしている物もある。 その光景から読み取れる人物像は、狂信的な発明を続ける現代の錬金術士か。 店主が変わり者であることがすぐに窺い知れるような、こんな店を訪れる者など、やはり変わり者でしかありえない。 事実、これまでここを訪れた者は、世間一般で言う変わり者や、普通の道を踏み外した者達ばかりであった。筋肉強化手術を受けた者、己の肉体の半分を機械化した者、怪しげな呪術者、数を上げればきりがない。 しかし、そんな連中の中にあっても、その客は異彩を放っていた。 別段目立つ姿をしているわけでも言動が不穏なわけでもなく、この無限城の中においては周囲に埋没してもおかしくないような人物である。 ただ一つ、その身に纏う冷たい狂気のオーラを除いては。 彼がここを訪れるようになったのはごく最近のことだ。 せいぜい車が1台やっと通れるくらいの細い道を、影のように音もなくやってくる。 時間は決まってはいなかったが、店主の生活スタイルに合わせてのことか、陽光が照りつける午前中が主だ。 しかし、彼ならば燦々と降り注ぐ太陽よりも、魔を内包する夜と魅惑的な月こそがよく似合うであろう。 扉を叩く音が聞こえて、禿頭の店主は眉を顰めた。皺だらけの顔が剣呑な色を帯びる。 きっちり3回、礼儀を弁えたノックは確かに耳に届いたというのに、入口付近に仕掛けられたセンサーは何も伝えてはこない。不遜で乱暴な客のための、技術の粋を尽くした迎撃用システムも沈黙したままである。 機器に不備はないはずだ。戸を叩くあの不気味な音を初めに耳にした時から、何度も点検し直して、その点には絶対の自信があった。 しかし、得体の知れない客人は、店主のささやかな自信を打ち砕くかのように、静謐の中を訪れる。 一つ大きな溜息をついて、店主は机に向かったまま無視を決め込んだ。 理解の範囲を超える人間というのは、何もこれが初めてではない。先日も1人、とんでもない客がやってきたが、果たしてどちらがより高い次元にいるだろう。 考えても意味のないことだ。 一時的に止まった手を元の作業に戻し、未だ入口に立っているであろう客人の存在を脳裏から消し去るために仕事に没頭しようとする。 机の上に並べられた数々の物品も、手にした部品も緻密を極めたもので、それらを扱うには集中力が勝負だ。 規則的なノックが繰り返されても、禿げ上がった頭はそちらを向くことはなかった。 心の底では諦め気分だったのかもしれない。どんな態度を取ろうとも、結果は決まっているような気がしていた。 ふいに手元が翳った。 「お邪魔しますよ」 「下がってくれんか、暗い」 顔を上げもせずに、それだけを言い放つ。 入口の鍵は閉まっていたはずだし、扉が開く音も吹き込んでくるはずの風も感じられなかった。 どうやって入ってきたのかと、もう今更驚きはしない。扉を叩く音と、センサーが作動しなかったという時点で、次に生じる現象は容易に予想できていた。 「礼を尽くした客に対して、居留守を使った挙句、いきなり文句ですか…」 手元に落ちる影よりも、ずっと深い色に塗り込められた人影が、穏やかに人の言葉を紡いだ。言葉では店主の態度を咎めているが、上品で淡々とした口調には、何の感情も含まれていない。 「気に入らんなら他所へ行ってくれ」 取り付く島もないといった口調で応えると、微かな笑い声と共に影が引いた。 遮られていた天井からの光が、店主の手元に届く。客人はどうやら背後に立って店主の作業を覗き込んでいたらしい。 「個人の性格には興味ありません。ですが、貴方の扱っている商品は気に入ったのですよ」 優美な人影が隣に立った。 店主の視界の端に、黒いコートと手袋に包まれた手が滑り込んでくる。不覚にも一瞬そちらに気を取られ、慌てて脳に焼き付いたそれを追い出そうとしていると、男にしては繊細なラインを描く手が、ゆっくりと上げられて一点を指差した。 「譲っていただけませんか?」 指差す先には物々しいジュラルミンの箱がある。大きさは縦横50センチくらいだろうか。厚みはせいぜい10センチを超すくらいだ。 「断る」 「前に申し上げた通り、値段はいくら吊り上げていただいても構いませんが」 「断る」 口を挟む余地もない店主の言いように、軽い溜息が漏れた。 「何か気に入らないことでも?」 「…あんた、それを自分のものにしたら、何に使うと言ったかの?」 「人を殺します」 「…」 店主が無言で傍らの人影を見上げると、赤い瞳が笑っていた。 薄い笑みをたたえた唇は、今しがた送り出した言葉に何の罪悪も感じていないことを物語っている。この酷薄な死神は、人を切り刻むその瞬間にもこんな微笑を浮かべているのだろう。 自分を見上げる店主の視線に、非難の意思を汲み取ったのか、死神は右手で帽子の鍔に手を掛け僅かに下げた。非礼を詫びたつもりだろうか。 「…ああ。私のこの答えが気に入らないというわけですか」 「Drジャッカルの言うことじゃ。別に不思議はないわい。…『三顧の礼』を実践するような輩とは思わんかったがの」 そう答えると、赤い瞳が細められて喉から微かな笑い声を漏らす。 あからさまな殺気を放っているわけでも、他者を威圧する迫力があるわけでもない、それなのに捉えどころのない雰囲気は、相手の心の根底にじんわりと恐怖を根付かせていく。 聞こえてくる情報からは、情け容赦のない殺人狂とのことだが、そんな単純な表現ではこの存在を説明しえないであろう。 ただの殺人狂なら、ここで店主を殺して目的の物を奪い去れば済むことなのだ。 敢えてそれを行わないのは何故なのか。再三に渡って交渉に訪れるなど、こんな回りくどい方法をわざわざ取っているのは、何か狙いがあってのことか、それともただの気紛れか。 行動に謎がついて回るが故に、理解の範囲を超える不安からか赤屍に対する恐怖の度合いは増していく。 「あんた自身がどうのというわけじゃあない。ただ、そいつは既に行き先が決まっとるんでな」 「先約を断っていただきたい。より好条件で引き取りますよ」 赤屍の言葉は魅力的な申し出には違いなかった。 人を殺すためにこのジュラルミンの箱の中身が欲しいという。 正確には、『雷帝を殺すため』か。 かつて無限城のロウアータウンに君臨した『雷帝・天野銀次』。特殊な能力を持つ彼と対峙するため、広範な選択肢を用意したいという。赤屍は特に語らなかったが、雷帝の相棒である邪眼の男もまた、その視界には入っている。 鉄・チタン・セラミック…色々試してはいるらしいが、飽くなき探究心はそれでも満足できないらしい。 この無限城には外の世界では手に入らないような不可思議な物質を研究・開発している者達が多く住まう。多種多様なそれらの者達の中から、赤屍が見出したのがこの店だったというわけだ。 「必然と偶然の産物…。精製できた量も非常に少ない。誰かの手に渡ってしまったら、二度とお目にかかれないかもしれませんしね」 「こんな場所でも店の信用というものがあるんじゃ。運がなかったと思ってくれ」 「では、交渉相手を替えましょう。その顧客の御名前を教えていただけますか?」 「教えられんよ」 「そうでしょうね」 あっさりと肯定し、傍らに立つ人影は空気さえ揺らさずに後ろへと下がった。 拍子抜けするほどの淡白さに、店主は内心首を傾げた。何度もここに訪れ、その都度交渉を続けてきたというのに、こんなことくらいで引き下がるだろうか。確かに執着心は強くなさそうに見えるが、あまりに引き際が良すぎるのが気味が悪い。 しかし、赤屍の次の言葉は、店主の疑問を解消するとともに、いずれ訪れるかもしれない血の惨劇をも連想させた。 「自力で探させていただきますよ。必ず見つけ出します…失礼」 それきり言葉は絶えた。出て行ったのだろう。 来た時と同じようにセンサーは全く反応せず、扉の軋みも聞こえてこない。 しばらく店主は動けなかった。とんでもない相手と語らっていたことの負担が一気に押し寄せてくる。 部屋の空気が元に戻ったことを確かめてから、ようやく店主は腰を上げた。 先程、赤屍が指し示した箱をしばし見つめ、引出しの奥から磁気カードを取り出す。 「いずれ劣らぬ化け物ども…か」 呟きながら箱を引き寄せ、取っ手の脇にひっそりと開いた挿入口にカードを押し入れる。 小さな音を立ててロックが外れた。 外へ出るとまだ陽は高い。 帽子の鍔に手を掛け、軽く上向かせて太陽を仰ぎ見る。 責め立てるかのような陽光は、赤屍の姿を更に黒く浮かび上がらせ、闇が凝結したとでもいうべきしなやかな肢体を照らし出していた。衣服の色の深さに比べて、足元から伸びる影が極端に薄く見えるのは気のせいだろうか。 何の感慨も見せず、赤屍は帽子を深く被り直し踵を返した。 ここにはもう何の用もない。 細い通りを渡るぬるい風が、赤屍の黒髪を吹き散らしてゆく。 突然その背に揶揄するような声が飛んだ。 「その様子じゃ断られたようだな」 声音の中に微かな殺気を感じ取ったのか、台詞を聞き終える前に、赤屍の手から銀光が三筋、恐ろしいほどの速さで閃いた。 声のした方向に正確に飛来したはずの刃は、何者をも捕らえずコンクリートの壁に突き刺さる。 相手の姿はまだ視界には入らない。 だが、敵の位置から急所への最短距離までを一瞬で割り出し、次の動きに移行する。 間髪入れずに翻った黒衣の狭間から再びメスが繰り出され、標的に届く前に弾き返された。 目的を見失った鉄の塊が空中に踊る中、赤屍の右手が一閃される。 人間を切り刻むためにのみ作られた刃が、赤屍の手の先で絶対の殺意を込めて煌いた。 赤屍の瞳が、より艶やかに鮮血の色を帯びる―――。 硬い金属がぶつかり合う鈍い音が響いた。 一瞬の静寂。 時間が止まった。 細く鋭い軌跡を描いて襲い掛かった刃は、倍以上の大きさを持つ刃によって受け止められていた。 質量こそ違うが、研ぎ澄まされた切っ先の鋭さは同列のレベルだろう。爪を思わせる武器は、人工的に造られた左手の甲に吸い込まれ、それを持つ右手から逞しい腕へと続いていた。表面積のわりには薄く、ほぼ透明に近い切っ先を備える武器は、かつてその男の左腕として機能していたものだろうか。 いや、光の具合によって毒々しい紅の色に染まる爪は、以前のそれとは比較にならないほど禍々しい。 「…やりますね」 帽子の切れ目から相手の顔を見上げつつ、赤屍が笑ってみせる。 それを素直な感嘆と受け止めたかどうか、隻眼が僅かに細められた。 「イイぜお前、予想以上だ…」 互いの殺気と刃を拮抗させたままの会話だ。息苦しいほどの緊張感が大きくうねりを描いている。 「光栄ですね。貴方もなかなかのものですよ…しかし」 右手のメスは不動の持つギミックと突き合わせたまま、赤屍の左腕が目の高さまで上げられる。その手にも、太陽の光を冷たく跳ね返すメスが握られていた。 右腕が塞がっている不動には、赤屍の左の攻撃を防ぐ術がない。 退いてやり過ごすわけにもいかないであろう。 絶妙な力加減で拮抗しているこの状態では、少しでも引けばそれはそのまま自らの死に繋がる。 「隻腕というのは不便ですね」 「そうでもねぇさ」 小康状態は突如破られた。 不動は退くことはせず、何か手段を講じるでもなくただ力を加えた。 体格差から見ても、腕力は不動が勝る。 赤屍の瞳が僅かに見開かれた。 一気に増幅した圧力に、押されるように後ずさる。互いの刃が力の具合で滑り合い、耳を劈くような音を立てた。 狭い通路だったことが災いしたのかもしれない。 ほんの少し後退しただけで背に硬い壁の感触が触れた。 「…」 壁に追い詰めても、不動の圧迫は止まらず、伸ばされていた赤屍の腕は耐え切れないように徐々に曲がっていく。 「どっちが速いと思う?」 赤屍を見下ろして不動が笑う。 不動の持つ巨大な爪は、赤屍のメスとぶつかり合ったままじわりと進行を続け、既に喉元にまで及んでいる。 赤屍とて決して非力ではない。 しかし不動の余裕のある表情からすると、不動はこれでもまだ全ての力を出し切ってはいないようだ。 更に力を加えて押し切れば、その爪は赤屍の喉を貫くだろう。 「私の方が速いですよ」 「力が足りなくて押し切られてるってのに、左を使ってる余裕があるのか?」 端から見れば不動の方が優勢に見える。赤屍は退路を壁に阻まれ、不動の爪の切っ先は首筋に達しようとして、ほんの少し気を抜いただけでも勝敗は決まってしまうだろう。 それなのに、赤屍の表情に憔悴感はない。 「ご自分で確認してみますか?」 それどころか、降ってわいたこの戦いを楽しむように微笑を浮かべる。 『…笑ってやがる』 理解し難い生き物だ。 だが、こうでなくては面白くない。不動の欲が満足しない。 ふと脳裏に違う影が浮かんだ。 腕に最強の蛇を飼い慣らす邪眼の男。不動の欲を最も煽る存在。 改めて不動は目の前の赤屍を凝視した。どこも似ていないはずなのにどこか同じ匂いがする。 1人の人間を形作っているその根底の部分で、あの蛇とこの死神は何かが共通しているのだ。 それが不動の欲を疼かせる。 見透かしたように赤屍が婉然と笑った。笑みの形を残したまま、何かを伝えようと薄い唇が緩く開かれる。 「私に何を見て―――…」 言い終わらぬうちに、赤屍の白い貌の上に影が落ちた。 言いかけた言葉ごと呑み込むように、唇が塞がれる。 暫しの沈黙が降りた。 不動が距離を詰めたせいか、それとも僅かに赤屍の力が抜けたせいだろうか、爪が赤屍の肌に喰い込んで微かに血を滲ませる。 赤屍の体は抵抗を見せない。 ただ黙って不動の為すがままになっている。 触れた唇は冷たかった。 軽い触れるだけの口付けから解放してやると、至近距離で見る赤屍の瞳には、驚きも嫌悪もなく、ただただ事態を楽しむような純粋な期待感のみがある。 「…何のつもりです」 「誘ってるように見えたんでな」 不動が少しだけ腕に力を込め直した。密着して圧し掛かるように力を加えていた不動の右腕に、反発の力が感じられる。赤屍のメスが僅かに押し戻してきているのだ。 「どこをどうすれば、そう見えるのやら…」 「笑ってやがるからさ」 「理由としてこじつけるには無理がありますよ」 小さく声を立てて笑う。 あの美堂蛮と少しでも似通っているなどと、そう感じたことが間違いだったと言いたくなるような、違う声、違う姿、違う振る舞い。 それなのに不動の欲を微妙に掠めるのはどうしたことか。 薄絹が目の前で艶かしく揺れるような幽かな刺激は、殺したいほどの渇望ではなく別の感覚を呼び覚ます。 「…理由なんざどうでもいいのさ」 「我儘な人ですねぇ」 思わせぶりな台詞を吐くその高飛車な唇を、もう一度塞ごうとして、不動は視線を転じた。 刺すような冷たい殺気は和らいでいるものの、互いの手に握られた刃はそのままの位置にある。ほんの少しだけ赤屍の血を吸った爪と、それとぶつかり合うメスを交互に見つめ、赤屍に囁きかけた。 「邪魔でしょうがねぇ…。そいつ捨てろ」 「この状態で捨てろと?」 「犯りやすくなる」 自分勝手なことこの上ないといった注文に、赤屍は少し考える素振りを見せた。 「貴方がそれを捨てるというなら応じますよ。物事はフェアに…ね」 一瞬、互いのタイミングを見計らい、硬い音が立て続けに響いた。 アスファルトの上にギミックが転がり、赤屍の両手から落ちたメスは神秘的に輝きながら乱れ落ちる。 不動が更に距離を詰め、これも邪魔だと言わんばかりに赤屍の帽子を剥ぎ取った。文句が出ないのいいことに、きっちり締まったネクタイもゆるめてやる。 日頃、禁欲的なまでに整った格好をしているからか、服装を僅かに乱しただけでも妙に色を帯びるような気さえした。 切れ長の目がゆっくりと閉じられて、不動が誘われるように口付ける。 冷たい唇を舌で割り口内に侵入した。 何の躊躇いもなく赤屍は不動を迎える。 不動は右手を赤屍の後ろに回し、半端に長い黒髪に指を絡めるようにして頭を固定した。 そしてより深くを求める。 唇の冷たさに比べて、口腔内は意外なほど温かい。 それが通常なのだが、この死神ならば体内の内臓や血さえも、死人と同じ冷たさだったとして不思議とは感じられない。 舌を捕らえて絡め、不動は自分の欲求のままに蹂躙する。 僅かに腰を屈め、唇から細い顎へ、首筋へと唇を滑らせていく。 肌の感触は悪くはない。 「慣れてますね」 「黙ってろ」 そう言うと、人形のように動かなかった赤屍が、腕を上げて不動の肩に触れてくる。 促されるように体を起こすと赤屍の方から口付けてきた。 軽く触れて、挑発するように言葉を紡ぐ。 「見下ろされるというのも新鮮ですね…」 赤屍は長身だ。こうして誰かに見下ろされるということはあまりない。 だが、身長も、肩幅も、筋肉の厚さも明らかに不動の体格が勝る。細身の赤屍の体など、片腕でどうとでもできてしまいそうだ。 赤屍は、しなやかに両腕を不動の首に絡め、体を預けるように密着させた。深く口付け、自分から舌を使ってくる。 |
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濡れた音が響いた。 角度を変えて何度も口付ける。 舌が絡み合う音は、次第に淫猥な熱を帯びていく。 互いに互いの全てを貪り尽くすような濃厚な口付け。 吸われて僅かに朱に染まった赤屍の唇はしっとりと潤んで、不動の雄を煽る。 ゆっくりと閉じられてゆく赤い瞳が、一瞬だけ不動を写した。いつものあの冷たい血の色で。 酔わされたように、より強く、噛み付くような口付けを赤屍に重ねて、不動は赤屍の腰に手を回した。 その掌に、袖から1本のメスが滑り落ちる。 かつて、偶然遭遇した際、赤屍の手から放たれ不動の煙草を貫いていったものだ。 赤屍の甘い毒のような誘惑に冒されているかに見えて、その実、不動の脳裏には一秒後の光景がしっかりと浮かんでいた。 “サトリ”の能力に死角はない。 閉じられていた赤屍の目がうっすらと開き、不動の首に回していた腕が悟られぬよう離される。開かれた掌には、肉を割って3本のメスがせり出してきていた。 一つに溶け合っていた二つの影は、澄んだ金属音と共に突然離れた。 「…チッ」 「…避けるとは」 初めて赤屍の表情から笑みが消えた。 「なるほど…傍で見ているのと、実際に戦ってみるのとでは大違いですね。美堂君をあそこまで追い詰めたのも納得がいく」 「賛辞でも何でもねぇ感想だな」 赤屍の口から出た名前に、不動の顔に嫌悪の表情が広がる。 再度、戦闘開始となるかのように思われた空気は、赤屍の一言で払拭された。 「左腕を直すご予定は?」 答えない不動の目の前で、赤屍は道路に落ちた帽子を拾い上げ、埃を払ってから被り直した。 こんな性的な感覚に訴えてくる趣向も悪くはないが、戦いの最中に味わう興奮に比べれば退屈といえるだろう。それとも、もう一線超えていれば、体感したことのない悦楽を得られたのだろうか。 それこそ、命のやり取り以上の興奮を得られる何かが。 戦いにおいてもそれ以外でも、自分をその気にさせたことには敬意を表してもいい。 だが、この先を委ねるには今のままでは少々物足りない。どうせなら相手が最高の状態の時に、最高の気分を味わいたいものだ。 首筋に残った、甘く痺れる感覚を消し去るように、赤屍は乱れたネクタイをきっちりと締め直した。 「いずれ…改めて私の相手をしてください」 踵を返そうとする赤屍に飛来したものがある。 不動の手に残っていたメスだ。 それを簡単に受け止めて、視線を送った先に、不適に笑う不動の姿があった。 「今、殺っとかねぇと、後で地獄を見るのはお前かもしれないぜ」 ありえない話ではあるまい。 事実、不動は万全とはとてもいえない条件でありながら、赤屍と互角に渡り合っている。 横柄な言葉を真正面から受けて、赤屍は身を翻した。 不動も追いはしない。 一瞬垣間見えた赤屍の瞳には、紛れもない期待感が滲んでいた。 「待っていますよ…」 赤屍の姿が完全に見えなくなってから、耳障りな音とともに蝶番の扉が開いた。 不動が視線を向けると、禿頭の店主が入口に立っている。その手にはあのジュラルミンの箱があった。 「店の前で騒動は止めてほしいもんじゃの」 それには応えず、不動は壁際へ歩み寄り転がったままのギミックを拾い上げた。 刃の部分をしばし凝視した後、無造作に放り投げる。 「試作品のわりには巧くできてるじゃねぇか」 狙いもつけず、ただ投げただけに見えたそれは、放物線を描いて店主の足先数ミリの地点に正確に突き刺さった。不動は店主の方を見てもいない。 足元のそれをしげしげと見つめる店主の顔には、感動とも畏怖ともつかない表情が滲んでいた。 吸い込まれるような鋭さを見せる爪は、刃こぼれ一つしていない。 試作品として造られたそれは、硬度も性能もかなり質が落ちるものだったはずだ。それなのに、あれだけ激しい戦闘を行いながら全くの無傷とはどういうことか。 付け焼刃で造った品とはいえ、製作者の予想以上の代物に出来上がっていたのだろうか。 いや、そうではない。 使った者の技量の為せる技だ。 言わば愚作ともいうべき武器を携えて、これだけの力を発揮するというのなら、完成品を手にした時、この男はどれだけの強大な化け物となるのだろうか。 まさに鬼神。 しかし、あの死神は―――。 「とんでもない奴…。うちの店自慢の迎撃システムを全部ぶち壊して入ってこれたのはお前さんだけじゃ。しかし…センサーにすら引っかからん奴は…」 「売る相手を変えたくなったか?」 迷うことなく店主は首を振った。どんな状況にせよ、一度決めたことを曲げるつもりはない。その意思を示した上で、くどいようだが釘を刺しておく。 「お前さんは運が良かったんじゃ。あの男よりも先にこの店を訪れた。わしがDrジャッカルではなく、お前さんにこれを売るのはただそれだけの理由じゃよ」 「能書きはいい」 言って聞くような男ではない。 軽く溜息をついて、店主はジュラルミンの箱を開いて見せた。 不動の視線がそこへ集中する。 「中へ入るがいい。接合手術を行うからの」 赤屍が欲した物。それを元に、不動のためだけに造られた完成品がそこにある。 店主の言葉に不動はにやりと笑った。 左の目に炎獄のような凄まじい光が宿る。 自分に向けられている鬼気ではないだろうに、店主はその場から逃げ出したい衝動に駆られた。赤屍に対して抱いた恐怖とはまた違う、だがこの男の放つ空気もまた、傑物である店主でさえ心胆寒からしめる。 人知を超える連中というのはこういうことか。 ゆっくりと近づく不動に、表面上は平静を取り繕う。 「お前さんのもんになったら、わしは一切関知せんが…」 そう前置きをして、店の中へ入る不動に語りかけた。 「それの持ち主を探し出すと言うておったぞ」 不動の肩に、僅かな緊張が走ったのが見て取れた。 「結構なことじゃねぇか、また殺りあえる…」 その言葉を合図に扉は閉められた。 |