その車のフロントガラスの内部には、2つの靴がよく見えた。

正確には靴の裏だ。

更に目を凝らすと、小さな車体の運転席側で、ハンドルの上に行儀悪く足を投げ出している若者の姿がある。頭の後ろに手を組んで、座席にゆったりと体を委ねている様は、仮眠でもとっているかのようだ。サングラスで隠されている目は、開いているのかどうかも分からない。

道路脇に駐車した車はしばらく前から動く気配がなく、道行く人々もほとんどは気にもかけない。たまに礼儀に煩そうな老人が、若い男の粗雑な態度を見咎めて溜息をつくばかりだった。

日が傾き、僅かに赤く染まった日光が車の中まで侵食を始めると、運転席で惰眠を貪っているかに見えた人物がようやく動いた。

「…おっせぇな、銀次の奴」

同じ姿勢を長時間とり続けたため、身じろぎすると関節が軋んでいるような気がする。

礼儀知らずな足はそのまま、蛮は腕を伸ばして軽く伸びをした。

伸ばした腕はすぐに天井につっかえる。

ごく一般的な青年の体格からすると、この車はどう考えても狭いのだ。車の中で寝ることにはすっかり慣れてしまっているが、やはり窮屈な感は否めない。

そもそも車というものは、移動手段に用いるために存在するのであって、生活をするためには造られていないのだから当然だ。簡易な生活までをも視野に入れた大きなキャンピングカーならともかく、ただでさえ小ぶりなこの車に、ベッドと同じ快適さを求めるのは無理というものである。

この状況を打破するには、道は2つしかない。

車を変えるか、生活の場を他に移すかだ。

第一の選択肢は、迷うまでもなく却下である。

見た目はともかく、特殊な改造を幾つも施してあるスバルは、“Get Backers”の名前と共に先代から引き継いだもので、これを変えるわけにはいかない。もし乗り換える時がくるとすれば、それはこの車が完全に壊れて廃車にするしかないという局面か、或いは、蛮たちが奪還屋を廃業した時だろう。

となれば道は一つだ。

つまるところ、車の中で生活しているという今のこの状況こそが異常なのである。

裏稼業を営んでいるとはいっても、落ち着ける場があって然るべきだ。同じく裏稼業を生業にしている知人たちは、皆どこかに生活の場を確保している。雑居ビルの中であったり、高級マンションの一室であったり、中には居候という立場の者もいるが、こうして車の中で生活している蛮たちはおそらく最低ランクの生活水準に違いない。

むろん裏社会で生きるからには、それら生活の場を敵や周囲に悟られないよう細心の注意を払わねばならないわけで、帰る場所を持っている者たちは一様にそれに苦心している。

普通の生活を営んでいる周辺住民に、仕事の内容を知られてしまって、立ち退かざるをえなくなるといったトラブルもあるそうだ。

そのような心配はまったくいらないことだけが、蛮たちにとって唯一の利点といえるだろう。

だが、そんなささやかな利点など、この際大した慰めにもならない。

噂によると、ホテルの一室を一ヶ月単位で借り切り、仕事の都合によってあちこちの高級ホテルを渡り歩くというゴージャスな生活を送っている者もいるという。自分たちとは比べものにならない余裕ぶりに、何だか泣きたくなってくる。

“運び屋”というのはそこまで儲かるのだろうか。

いや、それだけではあるまい、運び屋業界でもそれだけの生活を送れる者はごく一部に限られている。個人の持つ名前の威力だ。

裏社会であのくらい知られた名前になれば、黙っていても依頼が舞いこむに違いない。しかも、他を大きく引き離す圧倒的な実力に加えて、気に入った仕事しか引き受けないという高慢な態度が、より高値を呼ぶのだ。

低く舌打ちをして、足を下ろす。

他人と比べてみたところで、何が変わるわけでもない。

「いてっ…」

車のどうしようもない狭さは、足の上げ下げ一つにも気を配る。注意して下ろしたつもりでも、あちこちに足をぶつけてしまった。

これはやはり早いうちにこの状況を変えなくてはならない。

現時点では、必要以上に裕福な生活を望んだりしないが、必要最低限の生活スタイルくらいは手に入れなければ。

そのためには金だ。

仕事をばりばりこなして、まとまった金を手に入れなければ。

金と仕事に対する意欲を新たにした所で、水を差すように腹の虫が元気よく鳴った。

「…チッ」

現状の厳しさを突きつけるような響きに、蛮の表情が険しくなる。

車の中には何一つ食べ物がなく、買い物に出た相棒はまだ戻ってこない。

「何してやがんだ、あいつ」

食糧調達のために銀次が出ていったのは、日が傾き始める前だった。今はもう西日が赤く染まりかけている。ほぼ熟睡していたためにそんなことは気にならなかったが、いくらなんでも遅すぎるというものだ。

時間を確認しようとして、蛮はポケットの中から時計を取り出した。

装飾の少ない銀細工の懐中時計は、西日を弾いて僅かに赤く色づいている。鏡のように磨かれた蓋を開けて文字盤を覗きこみ、蛮は溜息をついた。

サングラスを僅かにずらして時計を凝視する。

深い青い瞳は、そこに何の動きも見出さなかった。

2:32。

時計の針は中途半端な時間を指したまま、止まっていた。

時計が止まっていることに気がついたのは、何日も前のことだ。役に立たないと分かっていたはずなのに、時間を知りたい時にはつい習慣的にその懐中時計を取り出してしまう。

修理に出せばすぐ元に戻るだろうが、無用の出費ができない状態である上に何となく直しそびれているまま、今に到ってしまった。

時間を確認しようと思えば車の中にも時計はあるし、携帯電話を使ってもいい。それに、今の世の中、自分で時計など持ち歩かなくても街中どこでも時計を見かける。いざとなれば銀次の体内時計に頼ればいい。どういう理屈か分からないが、銀次の体内時計は秒単位で正確な時間を割り出せる。特に食事時にはその特殊能力が強力に働くのが、銀次らしい。

「仕方ねぇな」

時計をポケットにしまい、車内の時計を確認する。

時刻はもう5時を回ろうとしている所だ。銀次は2時間以上もかけて買い物をしている計算になるわけだが、もともと寄り道が多い奴とはいえ、ここまで遅くなるとは何かトラブルにでも巻き込まれたのだろうか。

携帯電話を確認しても、着信はない。何か起これば連絡の一つもあるだろうし、銀次が非常事態に陥れば蛮にはそれと分かるはずである。

少しの逡巡の後、蛮は再び座席に深くもたれかけた。

微かな不安を覚えつつも、もう少しだけ銀次を待ってみる。

ほんの僅かな異変も漏らさぬよう、感覚だけは鋭く研ぎ澄ませながら。





客足が途絶えたところで、しばし憩いの時間を過ごしていた波児は、来客を示す鈴の音に読んでいた新聞から顔を上げた。

「いらっしゃいませー!!」

ピカピカに磨かれたコーヒーカップを棚へ戻していた夏実が、元気よく振り向いて来客に笑顔を向ける。

「こんにちは」

ガサガサという紙袋特有の音と共に、腕に抱えた買い物袋の向こうから、聞き慣れた声がした。顔が見えなくても、声と足元で誰なのかすぐ分かる。

「あ。銀ちゃん、いらっしゃ〜い♪」

夏実の笑顔が営業用のものから、親愛を示すものに変わった。

買い物袋で前がよく見えないため、覚束ない足取りで中まで入ってきた銀次は、袋をカウンターに置くとようやくいつもの笑顔を見せた。

袋の中身は食料や日用品で占められ、適当に詰め込んできたことがありありと分かるように、袋全体がいびつな形を為している。もう少し整理して入れればもっとコンパクトになるのだろうが、細かいことには気を使わないらしい。

しかし、えてして、女の子はそういうところに目をつけるものである。

「銀ちゃん、これもっと綺麗に入れようよ。せっかくの食べ物潰れちゃうよ〜」

「あ…うん」

夏実が自主的に協力を申し出る。一旦袋の中身を全部出し尽くすと、てきぱきと順序よくそれらを詰め直していった。重い物、形の変わらない物から先に、冷たい物はなるべく寄せて、迷いのない手さばきはすっかり計算し尽くされている。

どんどん吸い込まれていく物品を、半ば感動の目で銀次が眺めていると、氷が触れ合う涼しげな音をたててグラスが置かれた。

「珍しいな、一人か?」

カウンターの向こうから身を乗り出して、波児が声を掛けてくる。

銀次と蛮は、仕事も日常も、この店でコーヒーを飲む時も、この店で借金のカタに労働させられている時も常に一緒だ。2人で1セットというイメージが強いせいか、たまに単独で現われると少々びっくりする。

銀次は、差し出された水を一気に飲み干し、一息ついてから頷いた。

「うん、俺だけ買出し。蛮ちゃんはレッカー移動されないように車の中で待ってるんだ」

レッカー移動という単語は、奪還屋の2人にとって既に天敵に近いものがある。何度も痛い目を見て、いつまでも懲りないものだと周囲は思っていたのだが、最近ようやく用心深くなったらしい。

「寄り道してていいのか?」

氷だけになったグラスにまた冷水が注がれる。店内の冷房が作動しっぱなしであることが、外の暑さを窺わせた。

「ちょっと…ね。聞きたいこととかあって」

「聞きたいこと?」

波児が聞き返すと、銀次は妙に真面目な表情をして顔を近づけてきた。秘密を打ち明けるかのように声を潜める。

「時計って直すのに幾らくらいかかるのかな?」

神妙な顔つきの割には、質問の内容は大したことがないように思える。一瞬、波児も夏実も怪訝な表情をしたのを見て、銀次が慌てて説明を追加した。

「あ、あのね。蛮ちゃんのさぁ…」

銀次にとっても些細な質問だったのだが、お金のことがかかるとつい深刻そうな顔をしてしまう。極貧生活を続けてきたための条件反射といっていい。

「あー、あの懐中時計な。壊れたのか?」

「うん、多分」

何日か前から、蛮は時間を確認するのに携帯や車内の時計を使うことが多くなった。

初めは銀次も気にもとめなかったが、一度気づいてしまうと意識は自然にそれを追いかける。

銀次がおかしいと思い始めた頃から、ずっとあの時計の姿を見ていない。

それに加えて、時間を確認する時、蛮の手が習慣的にポケットの中を探り、そのまま戻されるのを何度か見たことがある。

努めて銀次に見せまいとしているわけではないのだろうが、心のどこかにそんな意識が働いているのかもしれない。

「蛮ちゃんってば、何も言わないんだけどさ」

立ったまま腰を屈め、カウンターの上で頬杖をついた。

透明なグラスの表面の、ゆっくりと流れ落ちる水滴を眺めて、しばし物思いに耽る。

蛮は基本的に、金以外はあまり物事に執着を示さない。使い物にならなくなればすぐ廃棄するし、無理をしてまで物を欲しがることもない。

その姿勢は人間関係にも少なからず表れている。

蛮にとって銀次が特別なのは言うまでもない。銀次を通して知り合った者たちに対しても、淡白な態度ばかりではなくなっている。しかし、それ以外となると途端に冷淡だ。

そんな蛮が、あの時計に限っては、壊れても捨てられずにいる。

それだけ大事にしているということは、誰かから譲り受けたものだろうか。

「壊れ具合にもよるがな…あれ、実は舶来モンだろ?」

「そうなの?」

銀次は上目遣いに波児を見上げ、次いで溜息をついた。

蛮が日本とドイツの混血であることを考えれば、あの時計が西欧で作られたものという話もありえないことではない。じっくりと見たことはないが、あの時計は華美な装飾こそ施されていないものの、素材が既に高そうだった。そうなれば部品の取り寄せやら何やらで、普通の時計よりも余計に金と手間がかかるかもしれない。

予想よりも値が張りそうな予感に、銀次の表情が曇る。その目の前に、買い物袋が置かれた。

「銀ちゃん、少しならカンパしよっか?」

夏実が詰め直した袋は、まるで魔法でもかかったかのようにすっきりと形が整って、大きさが先ほどの7割程度になっている。

「貧乏なのは今に始まったことじゃないだろ。癖になるからやめときな、夏実ちゃん」

夏実のありがたい台詞に対して、厳しい御言葉が横槍を入れてくる。尚も銀次に協力的な瞳を向ける夏実に、銀次はできるだけ柔らかく微笑んだ。

「ありがとう、夏実ちゃん。でも波児さんの言うとおりだから。それに…」

言いかけて銀次の言葉が止まった。

僅かに俯いて、何事か思案する表情を浮かべる。

金銭的に恵まれていないのは確かだが、金の当てが全くないわけではない。仕事を幾つかこなせば、時計の修理代くらいは工面できるはずなのである。先日も、大きな仕事ではないが1件の奪還依頼を無事終らせて、まとまった金額が入ったばかりだ。

それなのに、どうしたことか、金があっても蛮は時計を修理に出そうとはしない。そうこうしているうちに、お金は日常生活の中に消えていく。時計はいつまでも止まったままだ。

単に金の問題だけではないということだろうか。

思い切って聞いてみようかと何度も思ったが、これまでの銀次の経験からいって、仮に蛮を問い詰めてもきっと答えは得られないだろう。

「波児さん。手っ取り早く稼げる手段ってないのかな」

幾つもの考えを巡らせながら、揺れる瞳で銀次が見上げる。

蛮が何にこだわっているにせよ、時計を直したくないというはずはないのだ。心に引っかかっているのは、本人にしか理解できないとても微妙なことで、おそらく頑なな態度を取るほど強い意思ではない。

それなら、銀次が直すきっかけと、理由と、そして手段とを用意してやれば断りはしないだろう。

「あるにはあるが、ヤバい橋を渡るのは仕事絡みだけにしときな」

波児の言葉はいつでもシビアだ。

「じゃ、バイトとか」

「高額なのは、“何かを洗う”とか“何かを投薬”とかだな。あとは水商売」

「水商売ってホストとか?」

銀次の目が僅かに輝く。気味の悪いものを洗ったり、物騒な薬の実験台などに比べれば、ホストという単語は男として興味のないものではない。綺麗なお姉さんたちの傍に侍って、会話をして食事をして、しかもお金までもらえるとなれば、良い商売に思えてくる。

尤も、それは非常に甘い幻想であり、現実には美味い汁を吸っている男など一握りだ。

カウンターに頬杖をついた銀次に視線を合わせて、夏実が真面目に語りかける。

「それは蛮さんに怒られるよ、銀ちゃん」

現実の厳しさはさておき、一見すると楽しそうな仕事だ。バイトとはいえ、銀次が一人でそんな美味しい仕事をすると言ったなら、蛮に恨まれるかもしれない。

「そうだね。怒るかも」

しかし、夏実は別のことを心配していたようだ。

「ホストクラブなんて周り男の人ばっかりなんだから、銀ちゃん狙われるよ。蛮さん絶対怒るってば」

「へ?」

夏実の言葉の意味を図りかねた銀次が疑問を口にする。

親しい者は誰しも認識していることなのだが、当の本人は、自分が同性にばかりもてるという自覚はあまりないらしい。

「ま、普通にコンビニとかファーストフードとかにしておきな。紹介してやる」

銀次は尚も釈然としない表情を浮かべていたが、それについては敢えて問い詰めたりしないことに決めたのか、波児の言葉に素直に頷いた。

「うん。よろしくお願いします」

礼儀正しく頭を下げ、しかし銀次は一言だけ付け加えた。

「あ、なるべく裏方で〜」





見知った人影が通りの向こうから駆け寄ってくるのを認めたのは、蛮が起きてから20分ほど経った頃だった。

「蛮ちゃん、俺、バイトする」

帰ってきた銀次は、開口一番そう言った。

空腹を抱えたまま待たされたことへの文句として、蛮が用意していた言葉は、その一言ですっかり頭の中から消え去った。

「何だよ、いきなり」

「俺が個人的に使えるお金が欲しいんだ」

「それなら…」

奪還の仕事料を使えばいい、と言いかけた蛮に、銀次の指が突きつけられた。

「仕事でもらったお金は2人のものだから。でも、今回は俺が個人で使いたいんだ」

もうすっかり意思を決めてしまっているのか、銀次にしては珍しく蛮に反論の余地を与えない。

それ以上の説明を何もしようとしない銀次に、蛮は心の中で首を傾げた。

2人で一連託生の人生を送っているため、銀次は何かをやり始める時などには、一応蛮の意向を伺ってくることが多い。隠し事が多く裏表の激しい性格の蛮と違って、銀次はもともと包み隠さず何でも話してくれるタイプだ。

その銀次が今回は一方的に判断し行動を起こしている。

何があったのだろうか。

買い物袋から弁当等を取り出している銀次は、特に変わった様子もなく、とても機嫌が良さそうだ。心配をしなければならない類の変化ではないだろうが、気にするなというのも無理である。普段隠し事を一切しない相手が、たまにこんな態度を取ると何となく苛つくのも確かだ。

「何に使うんだよ」

「へへ…秘密♪」

楽しそうな笑顔を浮かべて、銀次が弁当を差し出した。

蛮の問い掛けを曖昧にはぐらかしたものの、本当は考えていることを喋りたくて仕方がないという感じを受ける。

この2人にとっては豪華極まりない和牛弁当を受け取り、銀次の抱えている秘密とやらをどう攻略したものかと、あれこれ思考を巡らせていた蛮に、ふいに銀次が声を掛けた。

「蛮ちゃん、今、何時?」

「……」

無意識に手をポケットにやりかけて、ああ、そうか、と思った。

それがキーワードなのだろう。

銀次がいきなりバイトを始めるなどと言い出したのも、きっとそこに起因している。

変な所で勘の鋭い相棒は、蛮が思っていたよりもずっとちゃんと見ていたのだ。

蛮のほんの些細な変化も見逃さずに。

常に傍らにいるから気づいたのか、それとも銀次だから気づいたのか。

銀次の瞳は、蛮の出す答えを待つように真っ直ぐ向けられている。

蛮の口元に、薄く笑みが浮かんだ。

「蛮ちゃん?」

「自分で見ろ」

ポケットの中から時計を取り出して銀次に放る。

「うん」

「しばらく貸してやる」

「うん!」

銀次の掌の上に落ちた懐中時計は、銀色の表面に嬉しそうな表情で時計を覗きこむ銀次を映し出していた。





そして、銀次のバイト生活が始まった。

人手が足りていない所に、波児の紹介ということで、特に問題もなく採用が決まり、晴れて銀次はファーストフード店で働くことになったのである。

尤も、奪還の依頼が入ればそちらが優先だ。

幸か不幸か、現時点では奪還依頼は入ってきそうもない。

もし、仕事の話が舞い込んだなら即刻連絡してくれるよう蛮には頼み、銀次はバイトに精を出すことにした。

裏方ということで、直接お客様と対面することもなく、残りものはこっそり持って帰れるときて、なかなか条件は良い。

「近々様子見に行ってやるからよ」

「俺が慣れた頃にしてよ。…といっても裏方だから会えないけどね」





そんな気楽な会話を交わしたのが、つい1週間ほど前のことになる。





「…で。お前、裏方じゃなかったっけ?」

バイト先となったファーストフード店で、蛮は銀次と対面していた。仕事に慣れてきたであろう頃を見計らって、約束通り来てやったのだが、銀次が今立っている場所はどう考えても裏方ではない。

「裏方だったはずなんだけど…」

営業用スマイルを微妙に引きつらせて銀次が答える。どうせ生来のお人好しのせいで、店長の頼みを断りきれなかったのだろう。

「仕方ねぇな、引き受けちまったんじゃ。ま、せいぜい頑張れ」

蛮の背後には客が列を為しており、長々と会話をするわけにもいかない。とりあえず、激励の言葉だけを伝え、一番安いセットを頼んでその場を離れた。

銀次の働く姿が見えるような席を選んでトレイを置き、ぎこちないなりに客に愛想をふりまく銀次を眺めながら、蛮はこの店の立地条件を思い浮かべた。

確か最近、近くに別のチェーン店が出来たばかりで、客の争奪戦になっていたような気がする。

客層はもちろん若い客がほとんどで、ここで見る限り女子高生が主体だ。

客の様子を注意深く観察してみると、注文を確認する銀次の笑顔攻撃に、ついつい追加で注文を重ねてしまう女の子たちの姿が見える。

何となく店長の思惑が読めた。

他店との客足獲得の戦いのため、若い男を表に出したいのだろう。

客と直接対面するには笑顔が一番重要で、それを考えると、これほど良い人材を裏方に隠しておくのは宝の持ち腐れというものだ。

仕事中の銀次をまじまじと凝視してみる。

どこか幼さを残した、誰からも好かれそうな容貌。

蛮が店長の立場だったとしても、これは表に出すだろう。

「…ん?」

しかし、よくよく見ると、客の大半を占めているのは確かに女子高生で、銀次の前の列にも短いスカートの娘たちが並んでいるが、他の列に比べると男が多い。カウンターについている店員は男女合わせて7人もいるのに、何故かそこだけ男の割合が極端に増えているような気がする。

裏新宿の界隈で見かけたことのある顔もちらほら窺えるということは、どうやらかつての究極のカリスマ“雷帝”が、ファーストフード店でバイトをしているという情報が、本人たちの知らない所で瞬く間に広まっているのかもしれない。

情報を流したのは、地獄耳を誇る“絃の花月”あたりだろうか。

優秀な頭脳を素早く回転させて、導き出した答えに不安が襲ってくるのを感じる。

そんな蛮の耳に、聞いたことのある嘘くさい関西弁が飛び込んできた。

「銀次は〜んっ、また来ましたで〜っ!!」

「わ、今日も来てくれたんだ、笑師っ♪」

ポニーテール男が、まるでお笑い芸人のようなオーバーアクションをしつつ、カウンターに引っ付いている。

「俺はすっごく嬉しいけどさ、毎日来てて大丈夫?」

「わいだけやのうて、MAKUBEXはんにも頼まれて来とるさかい♪」

「カヅっちゃんも、士度も、毎日来てくれるんだよ♪」

短い会話を交わす2人に、蛮は不安が的中していることを知った。

「あのヤロー…」

蛮は周りに聞こえないよう低く呟いた。

毎日来ているわけだ。あの元・親衛隊たちは。

恐るべし雷帝、というべきだろうか。

“VOLTS”のリーダーを退いて尚、銀次を慕う者は多い。幹部クラスの連中にとっては、無条件で神にも勝る崇拝の対象だ。

蛮がそこにいることを知ってか知らずか、笑師は一頻り騒いだ後、銀次から手渡された大きい袋を抱えて出て行った。一人で食べる分には多すぎるそれらは、MAKUBEXをはじめ無限城の雷帝信奉者たちに配られるに違いない。冷めたバーガーはかなり味が落ちるはずだが、そんなことはちっとも気にしないだろう。

銀次に対する連中の並々ならぬ思いは蛮も知っているが、こうして目の当たりにするとその行き過ぎともとれる傾倒ぶりは、気味が悪い…というよりも、何となく苛ついてくる。

テーブルの上の食べ物はどんどん冷めていったが、手をつける気にならない。

「…っ」

ふいに、違和感を覚えた。

蛇を宿した右手が緊張を帯びる。

蛮にこんな感覚を抱かせる相手は1人しかいない。

「あんな服装も新鮮ですねぇ…」

聞きたくもない声がした。

頭の中で情報源の“絃の花月”を罵る。余計なとこまで情報は流れていたようだ。

声の方向へ全神経を集中させる。

殺気は感じない。

殺人が趣味と言われる人物とはいえ、こんな一般人の多い公の場で、極端な行動に出ることはないだろう。

隙は見せず、ゆっくりと声のした方に視線を向けると、親衛隊どもより数倍タチの悪い生き物が影のように佇んでいた。笑いを含んだ冷たい瞳が、蛮を一撫でする。

「てめぇ…」

「何やら機嫌が悪そうですね」

変わらぬ笑顔のまま、指先が帽子の鍔に掛けられ軽く角度を変える。

「…滅茶苦茶この場にそぐわねーな」

「そうですか?」

「結婚披露宴に、葬式帰りが現れたみてーだ」

「縁起の悪い構図ですねぇ」

「てめーのことだっ!!」

「それは気がつきませんでした」

「―――…。何しに来たんだよ」

蛮の声には既に剣呑な色はなく、どちらかといえば、呆れているかのような脱力感がある。あまりにも場の空気に馴染まない姿に、一気に毒気を抜かれたのだ。

赤屍とファーストフード―――疎遠なはずの二つの単語が揃った光景は、怪しすぎて何だか眩暈がしそうである。

赤屍は面白がっているように目を細めただけで、蛮の言葉には応えない。自分が異端者であることを分かっているのかいないのか、悠然と蛮の脇を通り過ぎる。

意外なのは、一般客の反応だった。

冬でもないのに黒いコートに身を包んでいるその姿は、明らかに店内の人々の視線を集めていたが、一般客は一様に不思議な顔つきをして眺めるものの、取り立てて騒ぎ立てるでもない。

白い貌は常に穏やかな微笑みを浮かべており、それが恐怖という感覚を麻痺させてしまうのだろうか、客たちは怯えるでもなくごく普通の視線で長身の影を追っている。

だが、自分たちとは生きている世界が違うということだけは敏感に察知するのか、黒衣の姿が進む方向からは波が引くように客が散っていった。

清流の如き無駄のない動きで歩いていたしなやかな人影が足を止める。

カウンターの前に立つと、とっくの昔に硬直状態になっていた銀次が、怯えきった声でその人を迎えた。

「あー…っ。…あか…っ、あか…っっ」

「奇遇ですね、銀次君…v」

赤屍がますます嬉しそうに笑う。

偶然などではない。間違いなく計画的だ。何の理由もなしに、赤屍がこんな場所に現れるなど、天地が引っくり返ってもありえない。情報を聞きつけて、わざわざやってきたに決まっている。

タレ銀化してしまいたいのをどうにか押さえて、銀次は赤屍と対峙した。

どうしてここまで怖れを抱いてしまうのか、銀次は蛇に睨まれたカエルの如く、まともに動くこともできない。理屈はさておき、とにかく怖いのだ。

「その制服も似合ってますよ…v」

蛮に話し掛けた時とは、口調が全く違うところが、更に不気味で銀次の恐怖を煽る。

「ごごっ…ご注文は」

銀次はそれだけ言うのがやっとだった。いや、この状況でも仕事をこなそうとする姿勢は立派なものであろう。目に見える場所に蛮がいてくれることが、かろうじて心の支えになっているのかもしれない。

大声で助けを呼びたい気持ちを必死で打ち消しながら、銀次が営業用の笑顔を作ると、赤屍の笑みが深くなった。

ますます怖い。

銀次を写す切れ長の瞳は非常に楽しそうなのだが、赤屍は銀次を殺そうとした時でさえもこんな楽しそうな瞳をしていたので、逆に安心できないのだ。

「ではテイクアウトで」

男にしては細くて長い赤屍の指が、ゆっくりと上がって躊躇いもなく銀次を指差した。

「この美味しそうな…」

「―――@%d$&★っっっ!!」

「銀次は売りもんじゃねぇ―――っ!!」

銀次は青くなって後退り、蛮は血管が切れそうな勢いで立ち上がった。

「それは残念ですね。美味しくいただこうと思っていたのですが」

赤屍の口調は淡白で、本気かどうかも分からない。しかし、あわよくば本当に銀次を“お持ち帰り”にしようとしたに違いないだろう。

持ち帰られてしまったらどういう運命が待ち受けているか、想像しただけで銀次は寿命が縮まるのを感じた。

そんな銀次の前に、折り目もついていない一万円札が差し出される。

「買える分だけお願いしますよ。選択は任せますから…ね」

恐る恐る銀次が受け取ると、赤屍はコートの裾を翻してあっけなくカウンターから離れた。

壁際にでも寄って銀次を眺めつつ待つのかと思いきや、予想外の場所へと移動する。

「…何でここに座んだよ」

「他に空いている席がないからですよ」

蛮の不機嫌極まりない声に対して、赤屍は気にしたふうもない。何の警戒も見せず、ゆったりと足を組む。

蛮の向かいに座ったものの、まるで作り物のような顔は蛮の方を向いていない。あくせくと働く銀次を眺める視線は、玩具を目で追いかける猫のようだ。

銀次の前には、赤屍が離れるのを待ちかねていたかのように、再び列ができつつある。

「見ていて飽きませんね。持ち帰れないのが非常に残念ですよ」

「持ち帰ってどうする気だよ」

「お楽しみは色々ありますよ…」

日ごろ、貼り付けたような笑顔ばかりで感情をほとんど表に出さない赤屍が、今は心の底から楽しそうだ。

「たとえ雷帝降臨とはならずとも、素のままで楽しませてくれそうです。非常に…面白い方ですからね」

裏を含んだ赤屍の言葉に、蛮の表情がますます険しくなる。

蛮は周囲に気取られないよう、テーブルの下に隠した右手を握り締めた。

一発殴ってやりたい。

ここが公の場でさえなかったなら、問答無用で戦闘に持ち込んで蛇咬を食らわせてやるというのに。

こうなると、もう銀次を赤屍の視線に晒しておくのすら我慢ができない。

そもそも、元・親衛隊の連中が日参しているということすら気に入らないのだ。

そんな中、最も嫌悪する赤屍までが現われて、しかもこんな台詞を吐いたとなれば、元からキレやすい蛮の忍耐は早々と限界である。

蛮の方が、銀次を即刻“お持ち帰り”にしたいくらいだ。

「お待ちのお客様ぁ〜」

極度の緊張に裏返った声がした。

上品な仕草で立ち上がった赤屍は、蛮の方には一度も視線をよこさずに銀次の方へと向かう。はっきりとした態度の違いは、相手に対する認識の違いの表れだ。赤屍が蛮に対して強い執着を示すのは、戦闘時だけだろう。

用意された持ち帰り用の袋には、20人くらいでようやく食べられそうな量が詰まっている。あれを赤屍が持つのかと思うと、あまりの不似合いさに失神しそうだ。

それ以前に、赤屍本人があれを食べるというのだろうか。

そもそも、赤屍はものを食べたりするのか。

「また来ます…銀次君vvv」

語尾についている親愛の記しが恐ろしい。

多くの謎を残したまま、黒衣の人影は入ってきた時と同じようにひっそりと出て行った。





結局、閉店間際まで蛮はその場に居座り、それとなく銀次の周辺に探りを入れた。

そのため一緒に帰ることが可能となったわけだが、銀次は通常より割増で疲れており、蛮は通常より割増で機嫌が悪かった、

銀次は助手席で半分タレ銀と化しており、蛮はいつにも増して運転が荒い。カーブを曲がる時の甲高いタイヤの音が、蛮の感情を率直に表していた。

横からかかる重力で、タレ銀化している銀次がシートの上でころころと転がっている。

「銀次…お前、まだあのバイト続けるつもりなのか?」

暗に“もう辞めちまえ”と言っている。蛮の機嫌が悪いのも、銀次が疲労しているのも、全てそれが元凶なのだ。

座席に収まりの悪いタレ化を止めて、きちんと座り直した銀次が素直に頷く。

「続けるよ、まだ目標額に達してないし。紹介してくれた波児さんの手前もあるしさ」

「明日も来るかもしれねーぞ」

「う…っ」

銀次が言葉に詰まる。

赤屍は、また来ますと言って帰っていった。明日もその次の日も来るかもしれない。悪くすると、笑師のように日参してくる可能性だって捨てきれないのだ。

蛮が横目で様子を窺うと、銀次の意思が揺らいでいるのが一目瞭然で認識できる。

おそらく、銀次の頭の中では色々な考えが巡り巡って葛藤しているのだろう。

「でも…」

「そんなにこだわることねーだろ。安っぽい時計なんぞ、買い替えれば済む」

「それは却下」

銀次の否定は早かった。助手席から身を乗り出して、真面目な瞳で顔を寄せてくる。

「ちゃんと直さなきゃダメだって、蛮ちゃん」

「……」

当の持ち主以上のこだわりように、蛮が訝しげな表情を見せる。

銀次は車が赤信号で停まるのを待って、蛮から預かった懐中時計をポケットから取り出した。持ち慣れていない時計は、蛮のようにスムーズに扱うことが難しい。蛮の立ち居振舞いが、どことなく洗練されたものであることを改めて認識させる。

「俺の知らない蛮ちゃんの時間も、この時計は知ってるんだよね」

蓋を開けると、白い陶製の文字盤の上で針が止まっている。

いつ頃作られ、いつから蛮の手にあるものか知らないが、この時計は常に蛮のそばにあって、文字盤の上に持ち主の時を規則正しく刻んできた。

楽しい時も、苦しい時も同じように針を動かす。何も語らない寡黙な連れ合いだ。

「この時計は、今までいろんな時間を刻んできたんだろうけど…」

銀次は蓋を閉めて、小さな時計を大切に手の中に包み込んだ。そうすることで、蛮の経てきた時間全てを慈しむことができるような気がする。

「どうせなら、俺と蛮ちゃんが一緒にいる時間っていうのが、この時計にとって一番長い時間になればいいな…なんて、思っちゃったりして」

銀次が少しだけ照れたような、無邪気な笑顔を浮かべる。

くさい台詞だと自覚しているが、それが銀次の本心だ。

どこまでも蛮と一緒に行ければいい。

それをこの時計が見届けてくれるなら―――…、何となく嬉しいかもしれない。

蛮は無言でサングラスを掛け直した。

青信号になると同時に、アクセルを踏み込む。

「わっ!!」

急発進で、背凭れに頭をぶつけた銀次が非難の声をあげた。

「ちょっと…蛮ちゃん〜っ」

「もう何も言わねぇ…」

無愛想にそれだけを言い、片手でハンドルを操りながら、片方の手で器用に煙草を取り出す。

口に咥えたところで、視界の端からオレンジ色の光点が飛び込んできた。

銀次が屈託のない笑顔でライターを差し出している。

「ささやかだけど、余分なお金出たらさ、また和牛焼肉弁当でも食べようよ」

揺らめく炎が煙草の先に触れ、蛮は煙を吐き出した。その口元に微かな笑みが刻まれる。

「セコイこと言ってんじゃねーよ。焼肉食い放題くらい言え」

「そこまでは無理だって…」

「ほれ」

銀次の目の前で、茶封筒が振られた。

それなりの厚さをもった封筒をしばし見つめて、銀次は声を張り上げた。

「あっっっ。蛮ちゃん、奪還依頼一人で片付けたでしょ〜っ。それ反則!!」

「うっせーな、暇だったんだよっ。今回だけだ、今回だけ!!」





来月には、時計は蛮の手に戻るだろう。

時計は再び2人の時間を見つめていく。

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