季節は秋から冬へと急速に移り行く。 気紛れな天候が続く季節でもあるが、晴れ渡った空の色が一番見事な季節でもある。 それだけに、今この時が昼日中でないことが惜しまれた。 手入れの行き届いた和風庭園は、紅葉も終わりに差し掛かり、風情を醸し出しつつも寂しさを感じさせる。 運び屋の白い手が、何の変哲もないスーツケースを差し出すと、依頼人は安堵するかのように肩の力を抜いた。 依頼人の傍らにいた体格の良い男が、慎重にそのスーツケースを受け取る。 渡し終わった白い手がスーツケースから離れると、周囲を固めていた男たちの輪が、微かに狭まった。 居並ぶ男たちは皆一様に黒い服に見を固めている。 懐の僅かな曲線をからすると、それぞれに銃でも隠し持っているのだろう。 つまり、依頼人はそうした連中を配下に持つような人物だった。 和服に身を包んだ老人は、一見品の良い普通の老人であったが、荒っぽい男たちに傅かれて、さもそれが当然のように構えている様は、明らかに外見との隔たりを感じさせている。 スーツケースを手にして凝視してくる部下に、依頼人は開けるよう無言で指示を出した。 留め金に男の手が掛かると、2人の男がぴったりと寄り添い、左右を固めた。 依頼人はその場を動かなかったが、その目はスーツケースに貼りついている。 余程、大切な物が入っているのだろう。 地位の向上は、他者からの妬みや恨みの件数と比例する。 この依頼人も、その地位に見合った敵を抱えているに違いない。 このスーツケースを狙ってきた輩も、そうした連中であったのだろう。 「…よし」 スーツケースの中身を確認していた男が、小さく呟いた。 「間違いありません」 依頼人が、その言葉にゆっくりと頷いた。 「ご苦労じゃったの」 運ばれてきた物が確かに本物であり、一つも欠けていないことを確認してから、ようやく依頼人は労いの声を掛けた。 言葉の意味に反して、その口調には相手に対する慰労など全く篭もってはいない。 上流の人間が下層の人間を蔑視するように、運び屋などという仕事を生業とする者など、この依頼人にとっては、裏社会というゴミ溜めに棲む異端者でしかないのだろう。 その差別思想をありありと示すかのように、受け渡しの場所も室内ではなく、邸宅の裏庭だ。 運び屋が招き入れられたのも、正面玄関ではなく、この裏庭の片隅にひっそりと設けられた入り口である。 明らかに相手を蔑む視線と態度。 しかし、それと知っても、言われた側は特に何の反応も返すことはなかった。 裏社会に知らぬ者のない、凄腕の運び屋―――赤屍蔵人。 相手の態度の裏に見えるものが何であるか、気付かないはずもないだろうが、赤屍は返礼のつもりか軽く帽子の鍔に手を掛けて角度を変えただけだった。 帽子の影に隠れきれなかった口元が穏やかに笑う。 「ご満足いただけたようで…」 静かな声に、周囲を固めた男たちが僅かに後じさった。 赤屍の様子からは、依頼人の態度に気分を害したふうもなく、周りを威圧する空気も発してはいない。 それでもこの、死神の異名を持つ運び屋は、人の心に無意識の恐怖を植えつけるのだ。 部下の男たちと違って、荒事の現場に縁のない依頼人ですら、異質な存在を目にしたかのように、一瞬言葉を失った。 「なかなか楽しい仕事でした」 赤屍が言い終えるのを見計らったかのように、一陣の風が吹いた。 半端に伸びた赤屍の髪がしなやかに揺れ、黒いコートが闇の扉を開くかのようにはためく。 依頼人も、周囲の男たちも眉を顰めた。 風に乗って流れてきた生々しい香りは、紛れもなく血の臭いだ。 そんなものを嗅ぎ慣れているはずの男たちでさえ、あからさまに嫌悪の表情を浮かべる。 見たところ赤屍が負傷している気配はまったくない。 となれば、赤屍が纏っている血は全て他者のものだ。 これだけの血臭をさせているということは、奪った命はどれだけの数にのぼったのだろう。 口をつぐんだ者たちを、嘲るように赤屍が笑みを浮かべる。 本人がどういうつもりかは分からないが、その笑みはまるで一つの言葉を突きつけているかのようだった。 『お前たちが望んだことだ―――』と。 帽子の鍔が上げられ、底知れぬ瞳が立ち尽くした者たちを軽く一瞥する。 見下しているようにすら受け取れる視線だ。 仕事が終わってしまえば、彼らは赤屍にとって何の価値もない存在になり下がるのだろう。 果たして、どちらがどちらを、より蔑んでいるだろうか。 「では、私はこれで」 赤屍はあっさりと踵を返した。 鉄の意志でその場を固めていた男たちも、思わず脇に退いて道を空ける。 一刻も早く、この死神との関わりを消し去りたかったのかもしれない。何の感慨も見せずに立ち去ろうとする後ろ姿に、一堂はそのまま見送ってしまいそうになった。 「…っ、待て」 喉の奥から搾り出すような声が、黒衣の背を追った。 既にその場への興味を失っている赤屍が、その声に足を止めたのは奇跡に近い現象であったのかもしれない。 細身の体がゆっくりと動いて、体半分だけ振り返る。 「何か?」 「報酬のことじゃが」 「指定の口座に振り込んでいただければ結構ですが」 そっけない返答は、依頼人の予想の範囲内だったのだろう。 依頼人は傍らの男に目配せすると、果敢にも一歩進み出て赤屍と向かい合った。 何かの指示を依頼人から受けたらしい男は、手にしていたスーツケースを別の者に命じて邸宅の方へ持って行かせている。 その代わりに何かを受け取ったようだった。 「無論、規定の報酬は指定通りに処理する。…じゃが、聞けば今日は誕生日だとか言うではないか」 聞き慣れない単語だったのか、赤屍は僅かに首を傾げて考え込む表情を見せた。 「そういえば、生年月日のデータを尋ねられたのは11月23日でしたねぇ」 そのデータを聞いてきたのが誰だったのかも忘れたが、答えるのが面倒で、聞かれたその日をそのまま答えてしまったような気がする。 生まれた日がいつかなど、どうでもいいことのように思えるが、その日に何かしら意味を持たせたがる人間が世の中では多数を占める。 赤屍の台詞に、言葉の意味を図りかねたのか依頼人は奇妙な顔つきをしていたが、早くこの不気味な運び屋を帰してしまいたいのか早口に言った。 「これも何かの縁じゃ。仕事も無難にこなしてくれたことだし、儂からのプレゼントと思ってくれ」 その依頼人の横には、いつ準備したのだろう、手に箱を持って男が立っていた。 丁寧にリボンまでついている、そのプレゼントと思しき物は、いかつい男の手には余りにも不釣り合いだ。 大きさからすれば、スーツが一着入っていて丁度といったくらいだろうか。 しかし、中身が何にせよ、貰って嬉しいという状況ではない。 「貰ってくれんかの?」 「過分な心遣いですね」 「年を取ると、こんなことが楽しみになるもんじゃ。この気持ちを無碍にするほど礼儀知らずではあるまい?」 依頼人の言葉に、男が恭しく両手で捧げるようにそれを差し出した。 トラックの運転席でエンジンをかけたまま、馬車は助手席に乗るべき人物が戻ってくるのを待っていた。 軽いノックを聞いて、運転席から身を乗り出し助手席側のドアを開けてやる。 「戻りましたよ」 「渡せたか」 運び屋の仕事は、仕事の最中だけでなく、運び終えた時に命を落とす場合が多い。 依頼人であったはずの人物が、物を手に入れた途端に豹変することが多いのだ。 裏稼業の人間に仕事を頼む者は、外部に話が漏れるのを嫌うような連中ばかりだ。 あわよくば関わった者全てを抹殺してしまおうと考えても無理はない。 まんまとその策にはまって、あっさりと消された同業者も数多く存在する。 「無事に渡せましたよ。いたく感激してらっしゃいました」 「そうか」 赤屍は運び屋業界でも最高ランクに君臨している。その恐ろしさが知れ渡っているだけに、依頼人側が思い切った行動を取ることはまずない。 いかに腕自慢の者たちを揃えていようと、返り討ちにされることが分かりきっているからだ。 故に、馬車も本気で赤屍の心配などしていない。 しかし、今回は気になることが一つだけ発生していた。 ほんの数分前に、ガス爆発でも起きたかのような音が響いてきたのである。 それと連動するように、今はサイレンの耳触りな音が彼方から聞こえてきている。 馬車がトラックを停めて待っていた場所からはかなり離れているが、騒ぎはどんどん大きくなってきているようだ。 嫌な予感がする。 狭い道ばかりでトラックでは通れないからと、ここにトラックを停めて赤屍だけを依頼人の元に行かせたのだが、まずかっただろうか。 助手席に乗り込む赤屍の雰囲気には変わったところはない。 ふと馬車の目が、この死神には不似合いなものを捕らえた。 「何じゃ、そりゃあ…」 「ああ、これですか?」 赤屍の手に巻きつくように握られていたものは、深紅のリボンだった。 色だけを見れば、これ以上赤屍に似合う色もない。 ただ、リボンという形を取っているのが、似合わぬ原因なのだ。 「誕生日プレゼントをいただいたんですよ」 赤屍はリボンを手にした右手を顔の前に上げて、それを揺らしてみせる。 じゃれつく猫をあしらっているかのような手つきだ。 「で…中身は」 聞かなくても答えは分かっていた。 ここを出ていった時の赤屍からは血臭が漂っていたが、今はそれに混じって僅かに焦げ臭さが感じられる。 「綺麗な花火でしたよ」 花火は多くの人を等しく楽しませることができるが、赤屍の言う『花火』とは、きっと赤屍以外の誰も楽しめないものに違いない。 珍しいことに赤屍は機嫌を損ねてはいないようだ。 それだけ凄惨な眺めだったのだろう。 赤屍がメスで切り刻む以上に、細切れに吹き飛ばされた人間の残骸。 口元に薄笑いを刻みながら、赤屍はそれを見下ろしていたことだろう。 その光景は、悪夢としか言い様がなかったに違いない。 「なかなか素晴らしいプレゼントでした」 「それで終いか。気の毒な奴らじゃき」 どれだけの被害が出たのかは分からないが、赤屍の様子だと依頼人は確実にただの肉塊だ。 詳しいことは明日のテレビや新聞にでも載ることだろう。 赤屍が自らの痕跡を残してくるはずもなく、確かめるべきことは報道されるであろう情報で十分だ。 トラックを発車させると、赤屍はまだあのリボンを手慰みにいじっている。 依頼人の意図は違うところにあったにせよ、プレゼントはちゃんと赤屍を喜ばせることができたわけだ。普段感情を露にすることのない赤屍を、ここまで機嫌良くさせたのだから、あの世にいる依頼人には、心の中で拍手の一つも送ってやっていいかもしれない。 馬車の視線に気付いたのか、赤屍が手を下ろして運転席側を向いた。 「そういえば…貴方はプレゼントをくれないんですか?」 ぬけぬけとそんなことを言う。 長い付き合いだが、お互いに誕生日だからといって何かをしたことなどない。 幼い子供でもなければ、そんなことを祝うような仲でもないのだから当たり前だ。 「そんなもんは…」 「分かっていますよ。冗談です」 変わらぬ表情からは、その台詞が本心なのかどうかも分からない。 しかし、せっかくの誕生日だというのに、唯一貰ったものが物騒な『花火』だけとは、余りにも赤屍らしいだけに心に引っかかるものを感じる。 本人が納得しているなら、それで済ませてしまっても良いのだが、馬車の人間としての部分が、それでは気に入らないと訴えてきているのだ。 裏社会に足を突っ込んでおきながら、そんなことを考えるのもおかしいとは思う。 だが理屈はさておき、気に障ったことを悶々と考えるのは性に合わなかった。 かといって、現実的に見て今からプレゼントなど用意のしようもない。 「プレゼントの代わりに、今回の仕事料はチャラにしてやるきに」 赤屍が依頼人を吹き飛ばしてしまったせいで、おそらく仕事料を回収することは不可能だ。 他にいくらでもやりようがあっただろうに、金銭的な執着に欠けたこの死神は、あっさりと切り捨てる。 ある程度の実力に達する運び屋ならば、こんな局面に接しても、要領よく貰えるものは貰ってから相手を処分するのが常だ。赤屍ほどの腕を持っているなら、そんなことは造作もないことのはずなのだが、困ったことに価値観が違いすぎる。 しかし、本人はそれで構わないとしても、組んでいる馬車としては迷惑この上ない。 赤屍のせいで仕事料が回収できないのだから、掛かった経費分くらいは、赤屍が責任を持って然るべきだろう。 せめて燃料代だ。 それを大目に見てやる、と言っているのだが、赤屍は異を唱えた。 「今回のことは私の責任ではありませんよ。それに、それはプレゼントの代わりとしてはどうかと…」 「なら何が良いんじゃ」 助手席から微かな笑い声が聞こえる。 初めからこういう話の流れに持っていこうとしていたのかもしない。そんなことを疑いたくなるような声だった。 「そうですね。物はともかく…とりあえず祝福していただければ結構です」 「めでたいのう」 ぶっきらぼうにそう言ってのけると、また笑う。 あまりに馬車らしい直線的な応えが、笑いを誘うのだろう。 「祝福の仕方といえば、相場が決まっているのでは?」 「……」 暫しの沈黙が降りた。 ちらりと横目で窺うと、焦れたふうもなく赤屍は馬車の横顔を見つめている。 いつもの穏やかな笑みを浮かべた顔からは、相手の行動を期待しているというよりも、馬車が僅かでも翻弄されている姿を見て、楽しんでいるだけのようだ。 気紛れな死神は、いつ何に興味を示すか分からない。 視線を前方に戻すと、手前の信号が黄色に変わっていた。 仕事中なら問答無用で突っ切るところだが、既に仕事は終わっている。 スピードを緩めて止まると、隣で赤屍が挑発的に笑う。 無頓着故の余裕が、癪に障った。 いきなり無骨な左手を伸ばして、男のくせに細い首を捕らえる。 そのまま乱暴に引き寄せ、もう片方の手で帽子を払い落とした。 薄く色づいた赤屍の唇が軽く開かれる。 黒衣に包まれた肢体からは、何の抵抗も感じられなかった。 信号が青に変わると、トラックはスムーズに走り出した。 道路には他に車も見えず、交差点でぐずぐずしていても煽る車はいなかったが、信号が切り替わる瞬間のアクセルの踏み込みは、短気なドライバーが多いラッシュ時のタイミングと変わらなかった。 帽子を被り直した赤屍は、涼しい顔で寛いでいる。 「ああ…お返しが必要ですね」 「いらん」 素っ気無い答えに、赤屍が小首を傾げた。 困っても惑ってもいないくせに、表面だけはそんな素振りを見せる。 真の目的以外、この世の全てのことは、赤屍にとってただの戯れ以下に違いない。こうして時折、何かにこだわってみせるのも、本心では何の意味もないことだと位置付けているはずだ。 「一方的というのも、失礼かと思うのですが」 それでいて、こんなことを言うのだ。 こんな死神と付き合っていくのは容易なことではない。 だが、付き合いの長さからか、こんな時にどう答えれば黙るかは予想がつく。 何でもいいから、適当に答えておけばいい。 どんな答えを言ったとて、どうせ実現するわけもないのだ。 「そうじゃの…」 前方に見える信号が青から黄色に変わりかけたのを、トラックはスピードを上げて突っ切った。 道路の左右に見える様々な店の、色とりどりのネオンが、花火のような華やかさを見せている。 「いつか花火―――にでも付き合え」 「手榴弾でも手に入れるんですか?」 「阿呆。まともなやつじゃ」 約束を忘れないように、と赤屍は深紅のリボンを車内に置いていったが、おそらくそんなものを残しておいても赤屍は忘れてしまうだろう。 苦笑しつつ、馬車はそれを始末することになる。 |