入院中の身は退屈だ。 起き上がれないほどの衰弱や苦痛ならともかく、体に本来備わっている回復力に任せるだけという状態になると、途端に暇を持て余すようになる。 暇なら眠っていれば良いようなものだが、体を動かしていないため、眠気が襲ってこない。もし眠れたとしても、熟睡とまでいかないのが辛いところだ。 入院する前までは、色々な出来事が目まぐるしく駆け抜けていったためか、余計に今の状態がつまらなく感じられる。 初めのうちは我慢できていたが、もうそろそろ限界だ。 何でもいいから時間を費やせるものが欲しい。 それが叶わないならば、強引にでも退院してしまおうか、とそこまで思いつめた時だった。 「暇だろうから使ってよ、俊樹」 どこから手に入れてきたのか、ノート型パソコンを手に花月が訪ねてきた。 花月も入院中の身のはずだ。 暇を持て余しているのは同じはずだが、それを問うと、花月は言葉を濁した。 後で知ったことだが、この病院には花月や十兵衛の他、雷帝も入院しており、かなりの賑わいを見せていたらしい。 特に、あの雷帝が入院中なため、その人徳を示すかのように、様々な見舞い客もやってきていたようなのだ。 無論、見舞い客は一癖も二癖もある連中ばかりに決まっている。 そんなわけで、今でも雷帝を信望する花月としては、意外と暇ではなかったのだ。 退屈で死にそうになりながらも、俊樹が静かな入院生活を送れたのは、ある意味ラッキーだったといえよう。 花月の思いやりある差し入れに、俊樹はありがたく思いながらパソコンを受け取った。 しかし、パソコンを提供してもらった後、ある程度はネットサーフィンなどで時間を潰していたが、だんだんとそれだけでは物足りなくなってきた。 もう少し、集中してできることはないものか。 パソコンをいじるにしても、何か目的づけや達成感があった方が長続きする。 それを模索しつつ、数日が過ぎた。 予定されていた検査を全て終え、十兵衛は花月を見舞った後、俊樹の病室へと足を運んだ。 ここ数日、精密検査なるもので全身くまなく調べられていた十兵衛は、俊樹の様子を見に行く暇さえも与えられなかったのだ。 俊樹を無限城に誘った時以来、顔も見ていない。 正確には、暇はあったものの自由に歩き回れなかったというのが正しい。 十兵衛の周囲には、数人の医師や看護士が常に付きまとい、まるで監視されているかのような状態であったのだ。 病院側が特別に十兵衛を優遇してくれたわけではない。 それは付き添った者たちの、尋常ならざる気配でそれと分かる。 鋭い目で十兵衛の行動を見つめ続ける彼らは、刑務所で囚人を見張る看守のような雰囲気を持っていた。 勿論、こんな処遇を受けていたのは十兵衛だけだ。 十兵衛としては、こんな扱いを受ける理由はないと思うのだが、花月が彼らに対して『彼のことを、よろしくお願いします』と、にこやかに応えていては、異を唱えるわけにもいかなかった。 自分は納得いかないが、花月が納得している。花月を中心に世界が回っている十兵衛は、黙るしかない。 花月の言うことは、絶対なのだ。 そんなわけで、十兵衛は厳しい監視のもと、検査三昧の日々を送っていた。 そして、今日ようやく予定していた検査が終了したのである。 終了すると同時に監視の目は柔らかくなった。 やれやれといった具合に胸を撫で下ろす病院関係者たちは、それまでの徹底ぶりが嘘であるかのようにあっさりと散っていく。 非常に腑に落ちないものを感じたが、花月のことを思って敢えて口には出さず、十兵衛はようやく自由になった身で俊樹の所へと顔を出した。 「入るぞ、雨流」 室内に俊樹しかいないことは気配で分かるが、一応ノックすると、数秒の間があって返答があった。声の張りに回復ぶりを認めて、安堵しながら扉を開ける。 「筧か…」 「具合はどうだ?」 「俺はもう大丈夫だ」 型どおりのやりとりをしながら、十兵衛は俊樹のベッドの傍らに歩み寄った。 「ん…?」 「どうした、筧」 「雨流…それは?」 訝しげな表情をしつつ、十兵衛が俊樹の手元を指差す。 こうしていると、十兵衛が盲目であるというのが嘘のようだ。 目に包帯を巻いていなければ、その目が見えていないなどと、誰も信じないであろう。 この状態のままでも、新聞まで読めそうである。 今更そんなことでは驚きもしないのか、俊樹も特におかしいとは指摘しない。 真の武術家ならそれくらい当たり前だと思っているのか、或いは十兵衛なら何をやらかしても不思議はないと解釈しているのか、普通に見れば非常識なはずの状況を気にもせず、会話は何の違和感もなく続けられていく。 「ああ…これか」 十兵衛の問いに、俊樹は目の前のノート型パソコンを凝視した。 「差し入れてもらった。余程暇に見えたらしい」 苦笑混じりに呟くと、十兵衛が覗き込んでくる。 「ゲームでもしているのか?」 「いや…」 「ではインターネットなるものか?」 その言い方が、あまりに十兵衛らしくて、俊樹が穏やかに笑う。 「ネットサーフィンもしていたが、それだけでは物足りなくなった。今は使えそうなソフトの物色と習得とを目的にしている。データベース用のソフトはあまり使ったことがなかったのでな」 「データベース…」 十兵衛の顔が、俄かに曇った。 聞いたことのある横文字だ。 確か、MAKUBEXや姉の朔羅がよく使っていたと記憶している。 「MAKUBEXと協力していくことになれば、こうしたことは必須だろうと思ったんだが」 そう言う俊樹の傍らで、十兵衛が苦手な横文字の前に硬直していた。 「必須…。そ、そうだな。MAKUBEXはコンピュータなるものに詳しい」 「仕事上、俺も会社でワープロ系ソフトや、表計算ソフトは扱っていたんだが、データベース系のソフトとはあまり縁がなくてな」 なにい…っ!! 十兵衛の中で嵐が吹き荒れた。 十兵衛はサムライだ。 そこからイメージされる通りに、西欧的なものやハイテクなものには、少なからず苦手意識を持っている。 身近なところに、コンピュータに精通している者がいるにも関わらず、全く進歩がない。 わざと敬遠しているのも確かだが、何度説明を受けても理解できないのだ。 専門用語が、右の耳から入って左の耳へと抜けていく。 理論を理解するのではなく『これはこういうものなのだ』と、慣れてしまうのが一番の近道と言われたが、そこらへんの感覚も分からない。 練習用にと端末を貸してもらったこともあったが、自分では教えられた通りにやっているはずなのに、何故かエラーばかりを出した。 その都度、MAKUBEXたちの作業の手を止めてしまうことになるため、彼らの苛々した顔つきを鮮明に覚えている。 人には向き不向きがあり、十兵衛は究極的にパソコンと相性が悪いのだ。 パソコン技術の習得は、もう諦めている。 自分は自分の得意分野で、精一杯努力するのが良いのだと開き直った。 そうはいっても、天才のMAKUBEXはともかく、同じく旧家出身の姉や花月がスラスラとコンピュータについて語っているのを見るにつけ、疎外感を味わっていたりする。 特に姉の朔羅は、あらゆる面で優秀さを発揮して、武術しか取りえのない十兵衛を眩しく照らすのだった。 笑師はそれほどコンピュータに長けているわけではなかったが、教えれば教えられたことをしっかりこなすだけの能力はある。 それすらついていけない十兵衛の、孤独感は増すばかりだった。 そして今、十兵衛はこれまでにないほどの衝撃を受けていた。 俊樹が鮮やかにパソコンを操作しているではないか。 彼までもが、十兵衛を孤独の奈落へ突き落とすというのだろうか。 実のところ、俊樹の腕は普通の若いサラリーマン程度のものなのだが、初心者以下のレベルでしかない十兵衛にとっては、迷うことなくキーボードを操っているというだけで、すでに神技のように見えてしまうのだった。 会社などで使う機能は、無限城で必要とされるものとは若干隔たりがあるわけで、俊樹がMAKUBEXの元に来たとしても、笑師よりは使えるが、朔羅には及ばないといったところだろうか。 しかし、十兵衛にはそんなことすらも分からない。 じわりと広がる不安が、心拍数を上げていく。 そもそも、自分の道を武術のみに見出しているなら、他を気にせずひたすら我が道を行けばいいようなものだ。 しかし、自分と同じように古武道をやっている俊樹までもが、まるで常識であるかのようにパソコンを操作しているとなると、流石に心中穏やかではいられない。 おそらく俊樹は、『あのMAKUBEXと共にいるのだから』という理由で、十兵衛もある程度こうした機器が使えるに違いないと思っているのだろう。 俊樹に内心の揺らぎを悟られぬよう、十兵衛は努めて平静を装った。 「雨流…貴様、パソコンなるものは、どの程度の腕なのだ?」 「どの程度と言われてもな…。せいぜい一番低級の資格くらいなら取れるかもしれんが」 > なにい…っ!! 資格が取れるくらいだとぉ…!! 十兵衛はますます焦った。 『くっ…!!せめて雷帝か士度でもいれば…っ!!』 とっさに脳裏に浮かんだ名前を、心の中で苦々しく吐き捨てる。 確かに2人とも、こうしたことには縁がなさそうだ。 2人が今も無限城にいたなら、十兵衛の劣等感も薄れていたことだろう。 しかし、仮にも前リーダー、前同士に向かって、非常に失礼なことを考えているのではなかろうか。 混乱している十兵衛には、そんなことに気を使っている余裕はない。 脳裏に嫌な光景が浮かび上がる。 俊樹の働きぶりを見て、和気あいあいと語り合うMAKUBEXたち。 「俊樹って、戦闘以外にも色々とできる人なんだね」 「即戦力って感じでんなぁ〜」 「理解も速いし、仕事も正確だし、安心して任せられるわ」 MAKUBEXも笑師も、感心して俊樹を眺める。 朔羅も、心強い仲間ができたことを素直に喜んでいるようだ。 3人の背中を見つつ、どことなく焦りを感じて、十兵衛は話し掛けた。 「お…俺も何か手伝おう」 MAKUBEXから淡白な声が飛んだ。 「じゃあ、見回り行ってきて」 「…分かった」 俊樹の活躍ぶりを見て、満足げに語り合うMAKUBEXたち。 「すごいよ。俊樹って何でもできる人なんだね」 「万能型って感じでんなぁ〜」 「大きな会社に就職していただけのことはあるわね。合理的で手際もいいし、地味な仕事にも文句を言わないし、人を使うのも巧くて…皆からの評価も高いわよ」 MAKUBEXも笑師も、すっかり信頼しきった趣で俊樹を眺める。 朔羅に到っては、今や俊樹と阿吽の呼吸で作業をこなしているくらいだ。 3人の背中を見つつ、どことなく仲間外れを食ったように感じて、十兵衛は話し掛けた。 「お…俺も何か手伝おう」 MAKUBEXからいつもと同じ台詞が飛ぶ。 「じゃあ、見回り行ってきて」 「……」 頭の中でそこまで想像して、十兵衛の額にじわりと汗が浮かぶ。 想像はあくまでも架空のもので、現実に俊樹がそこまで完璧な仕事をするかどうかは未知数なのだが、嫌にリアルに感じられるのが恐ろしい。 『いかん。このままでは、俺の居場所がなくなってしまう』 俊樹が居場所を確保するのと引き換えに、自分の居場所を失ってしまうのではないだろうか。 もしそうなったとして、どうする。花月の所に走るわけにもいかない。 「そ…そうだ、雨流」 「何だ?」 とりあえず話題を変えなくてはならない。 下手にこのまま話を続ければ、何かの拍子に自分の無知を路程しかねないのだ。 専門用語などを含む会話に移行したら、絶対にばれる。 あれだけ格好つけて俊樹を無限城に誘った以上、今更自分を貶めるような真似だけは避けたい。 サムライのくせに、せこいことを考える十兵衛だった。 「MAKUBEXの元、己の居場所を見つけようというのなら、貴様のやるべきことはパソコンなるものではない」 「何故だ。MAKUBEXは天才的な電脳少年なのだろう?」 俊樹の疑問はもっともだ。 戦闘以外の分野でもMAKUBEXを手助けすることができるなら、それは少なからず有益なはずである。 十兵衛は言葉に詰まった。 この疑問に対して、俊樹を納得させるだけの言葉が思いつかない。 俊樹が尚も問い掛けてくる。 「では、MAKUBEXは何を求める?」 「MAKUBEXの求めるものは……はっ!」 十兵衛は、あることを思いついた。 「まずは、これを聞け、雨流」 十兵衛が武道の構えを取り、精神を集中させる。 我ながら良いことを考えついたものだ。 これならば、俊樹と同じレベルで張り合える上に、自分を貶めることもなく、最終的にはMAKUBEXを喜ばせることにも繋がるであろう。 自分の考えが間違っているなどということは、ちっとも思わないサムライであった。 「貴様は『これ』の奥底に潜む意味を理解し、かつそれによってもたらされる『笑い』というものを体現できるようにならなければならない。そしてそれをMAKUBEXと共有できるようになってこそ、初めて貴様は居場所を確保することができるだろう」 俊樹が居住まいを正して十兵衛を見つめる。 何を言っているのかはよく分からないのだが、ともかく十兵衛が真剣なことだけは理解できた。 「いくぞっ!!」 十兵衛が大きく息を吸い込んだ。 「フトンがフッとんだ―――っ!!」 その日、病院中に響いた叫びは、聞く者全てに昭和基地の越冬隊員の気分を味わわせた。 直撃を食らった俊樹のダメージは大きかった。 放心状態の俊樹の目の前で、十兵衛は呼吸を整えると爽やかな笑顔を見せる。 「雨流。分かったか、この魂の叫びが。この叫びをMAKUBEXの心に届け、笑顔をもたらしてこそVOLTSメンバーたる資格がある。俺もまだまだ鍛錬中だ」 握り拳を俊樹の前に突き出し、十兵衛は語調を強めた。 「貴様も共に歩んでくれるな?」 真っ白になっている俊樹は、十兵衛の言葉に訳も分からず頷いた。 十兵衛の駄洒落の、あまりの寒さに一時的に脳が働きを拒否している。 一種の洗脳、いや、これは刷り込みかもしれない。 まともな思考能力を失っている相手に、強い印象を与える言葉はかなりの効力を持つものだ。 十兵衛の台詞は、内容はともかくインパクトだけは第一級である。 「よし、雨流。退院したら、一緒に修行だ!!」 憐れな男、俊樹は、こうしてまたも十兵衛によって行くべき道を変えられることとなる。 |