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悪夢を見て飛び起きた。 額に浮いた汗が気持ち悪い。 いつの間に眠り込んでしまったのだろう、執務室の明かりは晧々とともり、目の前のデスクには書類が広がって、パソコンも起動したままだ。 軽く頭を振って夢の名残を追い出し、肩の力を抜いて深く椅子に凭れる。 見た夢は、悪夢であったことは思い出せるのに、それ以上のことが思い出せない。 いつも見る悪夢だ。 これほどの恐怖を与えるというのに、その夢の中身が全然記憶に残らないのは不思議でならない。 ただ、うっすらと浮かび上がるのは、ネズミの大群と雷、そして脳髄をも溶かすような甘い香りだった。 そしてそれらのものが、逃げ出したくなるほどの嫌悪感をもたらす。 しかし、その原因が何であるのか、どれだけ過去を思い起こしてみても何も掴めない。 壁の時計を確認すると、うたた寝をしていた時間は僅かなものだ。 仕事の関係もあって、ただでさえ睡眠時間が短いのに、こんな仮眠をとっている時でさえ悪夢に邪魔をされては体が参ってしまう。 催眠療法を受けてはいるが、悪夢の根源を取り去らなければ、本当の意味で解決することはない。 それまで、毎晩この悪夢にうなされ続けることだろう。 じわりと痛む頭を押さえて、椅子から立ち上がる。 空調設備が働いているはずだが、何故か息苦しさを感じた。 気分転換に、少し外の空気を吸った方が良いかもしれない。 空気は夜の冷気を含んで、薄い靄がかかったような頭を、すっきりとさせてくれるだろう。 書類をまとめ、パソコンの電源を切ると、霧人はビルの屋上へと足を向けた。 夜風は流石に冷える。 街の明かりを眼下に見下ろす屋上で、霧人は何も考えず、ただ広がる光景を凝視していた。 先ほどの悪夢のことだけでなく、考えなければならないこと、やらなければならないことは数え切れないほどある。 それらのことで占領されている頭の中を、一度白紙に戻すために、誰の邪魔も入らないこの場所は都合が良かった。 欄干に頬杖をついて、強く吹き抜けていく風に身を任せる。 僅かに汗をかいたからだろうか、体が冷えるのが早い。 自分の温もりを逃すまいとするかのように、霧人は我が身を抱き締めた。 まだ室内に戻る気にはならない。 せめて何か羽織るものでも持ってくるべきだったろうか。 その背中に、ふわりと暖かいものが掛けられた。 安心感を与える温もりに、ふと霧人の気が緩む。 母親だろうかと思った霧人の耳に、聞き慣れた声が届いた。 「こんな所にいては風邪を引くよ、霧人」 よく母が言ってくれるような台詞だが、声が違う。 聞き覚えのある、上品で優しげな、しかし酷く気に障る声。 「毒蜂っ!」 叫びながら、肩に掛けられたコートを跳ね除ける。 気を抜いていたとはいえ、近寄ってきた気配は全く感じられなかった。 ここにやってくるのは母だけだろうと、そう思い込んでいたのも災いしたが、気配を探れなかった時点で、おかしいと思うべきだったのだ。 飛び退いて向き直った霧人の、視線の先で毒蜂のコートがはらりと翻る。 「酷いな。寒そうに見えたから、貸してあげたのに」 さして傷ついた素振りも見せず、毒蜂はコートに袖を通した。 それを見つつ、霧人が距離をとる。 毒蜂は悠然としたもので、霧人があからさまな嫌悪の表情を浮かべても別に怒るでもなく、距離を離しても追ってはこない。 霧人相手なら、間合いを計る必要もないということだろうか。或いは、本当にどうでもいいと思っているのかもしれない。 緊張しているのが自分だけだということが、霧人の癇に障った。 声に棘がこもる。 「何をしにきた」 理由がなければ、毒蜂がこのビルに足を運ぶはずもない。 「君の母上に用事だ。君には関係ない」 まるで霧人の神経を逆撫でするのが目的のような、そんな物言いだ。 世代交代はまだとはいえ、今や鬼里人の中で確固たる立場を持ちつつある霧人に、敢えて『関係ない』と言い捨てる。 霧人の存在などまだその程度だ、と暗に言っているのだろう。 思わず奥歯を噛み締めると、毒蜂が見透かすような視線を向けてくる。 「君こそ、こんな場所で何をしている?」 「それこそ、貴方に関係ないだろう」 「確かにそうだね」 霧人が剥き出しにする敵意を完全に無視して、毒蜂が笑う。 何を考えているのか掴めない。 霧人が何故こうまで極端に敵視するのか、その理由も全て知っているくせに、何も知らないような顔をして微笑むのだ。 それきり、毒蜂は興味が失せたとでもいいたげに、霧人から視線を外して欄干に寄った。 強い風が吹き付け、毒蜂の長い髪を揺らす。 いつから伸ばしているのだろうか、腰まで届く真っ直ぐな長髪は、後ろから見ているとまるで女のようだ。 体の線がはっきりとしないコートを着ているから、余計そう思えるのかもしれない。 長い髪だけでなく、身長を除けば、性別を感じさせない容姿をしている。 言葉遣いや立ち居振舞いも、男のくせに妙に優雅だといえるだろう。 それでいて、その戦闘能力は鬼里人の中でもトップクラスというのだから、つくづく掴み所のない人物だ。 尤も、霧人にとっては毒蜂への印象など『気に入らない人物』というだけで十分だった。 時代の流れに逆らうかのような蜂族の、最後の一人となってしまったくせに、繁栄する蜘蛛一族に対して、それでも強気の姿勢を崩さない。 孤高といえば聞こえは良いかもしれないが、長い視点で見れば所詮負け犬だろう。 そう思っているからこそ、霧人は毒蜂の態度の全てが気に入らなかった。 毒蜂の背を凝視し、心の中で毒づく。 本当なら実際に言葉に乗せて、相手を攻撃したいくらいだが、それはまだ抑えておかなければならない。 蜘蛛一族を束ねる母は、毒蜂と手を組む方向で動いている。それを考えれば、迂闊な行動はできない。 夜景を眺めたまま動かない毒蜂に、きつい視線を送りながら、霧人は踵を返した。 これ以上、嫌いな相手に付き合ってやることもないだろう。 「……私は戻る。貴方は好きなだけここにいればいい」 「話し相手がいなくなると、つまらないじゃないか」 つまらなくなるのは毒蜂だけだ。 霧人にしてみれば、今の状況こそが最悪につまらない状態なのである。 「付き合う義理はない」 「淋しいねぇ」 「心にもないことを言うのはやめてくれ」 「一人は淋しいだろう?」 含みのある言葉に、霧人が眉を顰める。 応えずに屋上を後にしようとすると、その背に揶揄するような言葉がぶつかった。 「一人になると、また悪夢にうなされるよ」 「……!」 見られていたのだろうか。 霧人が気付かぬうちに、執務室の中に蜂が一匹紛れ込んでいたかもしれない。 羽音を聞いた覚えはないが、考えられるのはそれだけだ。 機動性の高い蜂だからこそ、情報収集など、いくらでもそうした使役ができるに違いない。 そして、毒蜂はそんな小さな蜂からでも、様々な情報を読み取ることができるのだろう。 蜂族の長たる毒蜂の恐ろしさは、そんなところからも窺い知れる。 「縋る相手が欲しくなるんじゃないかな……霧人?」 毒蜂が薄笑いを浮かべているのが感じ取れた。 拳を硬く握り締める。 忘れたい出来事が、頭の中で渦巻いた。 毒蜂の手の感触がまざまざと甦る。 霧人の肌を撫で回し、強引に甘美な刺激を与えてきた手―――。 「大きなお世話だ……っ!!」 振り切るように発した言葉は、自分でも嫌になるくらいに上擦っていた。 羞恥と屈辱とが霧人の中で荒れ狂い、足元が崩れそうになるほどの揺らぎを感じさせる。 これ以上、毒蜂との会話は避けたい。 まだしも心構えをしていたなら、一方的にペースを取られることはなかったかもしれないが、今の流れは霧人にとってどう考えても不利だった。 毒蜂とはいつか決着をつけねばならないだろうが、それは今ではない。 振り返りもせず、霧人は足早に扉へ向かった。 「霧人」 扉の前まで来たとき、何気なく毒蜂が呼び止めた。 ちらりと窺うと、毒蜂は霧人に背を向けたまま闇夜の向こうを見つめている。 「せっかく二人きりなんだ。何か……言いたいことがあるだろう?」 「……」 「聞いてあげるよ」 「貴方から、ちゃんとした答えが返ってくるとは思えない」 「信用がないんだな」 低い笑い声が聞こえる。 人を小馬鹿にしたような、独特の笑い方だ。 意地の悪いことに、わざと霧人の怒りを煽っている。 そう理解していても声を荒げるのを押さえられなかった。 カッと頭に血が上る。 「当たり前だっ。あんな真似をしておきながら、涼しい顔をして……っ!!」 「あんな真似とは何だい?」 「く……っ」 「言ってごらん、霧人」 言葉に詰まった霧人を、毒蜂がやんわりと詰問する。 いつものやり口だ。 優雅な雰囲気と穏やかな口調で掻き乱し、相手が自分から落ちてくるのを待っている。 毒蜂は自分からは動かない。 動かないくせに、的確に場の流れを読み取り、最小の労力で自分に一番有利な方へと持っていく。 他人を掌の上で躍らせるのが巧みだといえるだろう。 このまま挑発に乗れば、毒蜂に付け入る隙を与えるだけだ。 そうなれば、霧人には勝ち目がない。 噛み付きたい衝動を抑えて、低く呟く。 「……そうしていられるのも、今のうちだ」 負け惜しみと受け取られるかと思ったが、毒蜂から返ってきたのは嘲笑でも冷笑でもなかった。 「そうだな。蜘蛛一族が君の代になる頃には、鬼里人は一族の未来を、他ならぬ君の双肩に委ねることになるだろう」 はっとして、霧人は毒蜂を凝視した。 毒蜂は背を向けているというのに、研ぎ澄まされた刃のような、厳しい空気が漏れてくる。 思わずじわりと後退した。 敵意や殺気を感じるわけではない。 だが、何か圧倒的な圧力を感じる。 普段、紳士的な所作に隠されているだけで、毒蜂の本性はそうしたものなのだろう。 敏捷性に優れ、攻撃的で賢い肉食の生き物。 「毒蜂……」 「逆に君がいなくなれば、鬼里人の流れは逆行を始めるかもしれないね」 霧人は息を飲んだ。 毒蜂の柔らかい口調に変化はないが、その奥に潜むものが、少しだけ顔を覗かせている。 怒りだろうか苛立ちだろうか、曖昧なそれは、はっきりと掴むことができない。 喉の渇きを感じて、霧人は首に片手をあてた。 緊張からくる渇きだ。 不安が暗雲のように立ち込めてくるのを感じる。 目の前の相手に対する警戒心。 毒蜂の言葉だけを捉えれば、それは別に霧人を責めるでもなく、否定するでもない。 ただ単に『もしも』という仮説を述べているにすぎないのだ。 しかし、威圧するようなこの圧迫感はそんな単純なことでは説明できないような気がする。 霧人個人だけでなく、鬼里人全てに対して、何らかの危険な思いを抱いているのではないだろうか。 いつか裏切るかもしれないなどという甘いものではなく、もっと危険な何かを感じさせる。 霧人がその時感じたものは、毒蜂が時折口にする『本能の囁き』であったのだろうか。 この男とこのまま手を組んでいるのは正しいのか、いや、この男を生かしておいて良いのだろうか、そんな考えが頭を過ぎる。 古き血と、古き理を持ち続ける者。 危険だ、と思った。 戦闘レベルがどうのという前に、この男は何か恐ろしい部分を隠している。 静謐な森がその内に闇を潜ませているように、毒蜂の奥深いところにも冷たい狂気が息づいているに違いない。 もしそれが表面に噴き出した時、今の鬼里人に止められる者がいるだろうか。 背筋を冷たいものが滑り落ちていく。 高い戦闘能力と、思慮深く大局を見据えることができる毒蜂は、大いなる野心を持つ鬼里人にとって必要な人材だ。 しかし―――。 恐るべき力を持っているからこそ、蜘蛛一族のために、何よりもこれからの鬼里人のために、消し去らなければならない存在ではないのだろうか。 毒蜂の背を見つめ、右手を左の袖口へ忍ばせる。 護身用の拳銃の、冷たい感触が当たった。 気付かれないよう細心の注意を払って、それを引き出す。 悔しいが、蜘蛛一族特有の戦い方では、俊敏さで勝る毒蜂には及ばない。 風に揺れる毒蜂の長い髪を見つめながら、銃を構えた右手をゆっくりと上げた。 毒蜂の肉体は、そのほとんどが欠損しているはずだ。 そこを数え切れぬほどの蜂が埋めているわけだが、どこまでが蜂で構成されているかは霧人にも分からない。 狙うなら、頭だ。 安全装置を外し、照準を合わせる。 毒蜂は動かない。 無防備に背を向けている。 毒蜂ほどの使い手が気付かないはずはない、そう思いながらも、あまりに警戒心のない背中は、僅かばかりの可能性を感じさせた。 霧人がトリガーに指を掛ける。 この距離ならば、的を外すことはない。銃の扱いなど、蜘蛛を操ることに比べれば児戯に等しいものだ。 毒蜂から発せられる空気に飲まれそうになりながらも、指に力を込めた。 「覚悟はあるのだろうね、霧人?」 「―――……」 「引き金を引いたら、後戻りはできないよ」 見抜かれている。 当然のことだ。 毒蜂の戦闘能力は、鬼里人の中でも十指に入る。 霧人の母である女郎蜘蛛でさえもが、毒蜂一人の力に警戒心を抱いているくらいなのだ。 その毒蜂なら、霧人の抱いた殺気など、たちどころに看破してしまえるだろう。 銃を握った手が小刻みに揺れた。 まだ思い直すことはできる。 引いてしまえば、様々な思惑が一度に崩れてしまうだろう。 外敵とそして部族間での闘争を考えれば、毒蜂という強力なカードを失うことは賢明ではない。 だが、毒蜂という脅威を生かしておくのが、得策でないという思いは確かだった。 とはいえ、銃を使ったとしても、殺れる確率は万に一つもあるだろうか。 トリガーを引いてしまったとして、もし毒蜂を仕留めることができなければ、それによってもたらされる痛手は相当なものに違いない。 事によっては、霧人一人の命では済まないだろう。 迷いが、霧人の指を躊躇わせる。 狙いはまだ外してはいない。 トリガーに掛けた指もそのままで、ほんの少し力を込めれば弾丸が毒蜂を襲うはずだ。 心臓が早鐘を打っているのが自覚できる。 それでいて、指先から全身に広がる冷たい感覚。 踏み切ることができない。 毒蜂の存在が嫌に大きく感じられた。 御世辞にも屈強とはいえない毒蜂の、背中が無言で霧人を圧倒する。 「……っ」 「時間切れだね」 その言葉と同時に、目の前にあった毒蜂の体が歪んだ―――ように見えた。 「迷いは禁物だよ」 耳元で囁かれた声は、笑いを含んでいた。 そちらに向き直る前に、手にした拳銃を叩き落とされる。 飛び退ろうとした霧人を戒めるように、毒蜂の手が肩へと伸びて、力任せに扉へと押し付けた。 背中に受けた衝撃に、霧人が息を詰める。 「……ぐっ」 「迷ったりするところがまだ甘い。まあ、そこが君の可愛いところでもあるが」 「毒蜂……っ」 憎々しげに睨み付けると、毒蜂が楽しそうに目を細める。先ほどまでの、刺すような空気は霧散して、今はもう感じられない。 「そんな目で誘わないでくれないか……霧人」 意地の悪い笑みを浮かべながら毒蜂がそう囁く。 その言葉が示唆することに気付いて、霧人の体が硬直した。 かつて強いられた行為の記憶が、吐き気をもよおすほどの嫌悪を伴って脳裏に甦る。 「触る……な」 「今更なことを言う。私の腕の中で、あんなによがっていたのにね」 「あれは……っ。あの時はっ!!」 怯える霧人を難なく封じ込めて、毒蜂が体を密着させてくる。 至近距離で見つめる毒蜂の瞳は、ぞっとするほど冷たい。 楽しげな雰囲気とは裏腹に、その瞳にはまだ暗い何かが宿っている。 「や……めろ」 「俗な言い方だが……騒ぐと人が来るよ。君が困るだろう?」 毒蜂が耳元に唇を寄せて、霧人を嗜める。 艶やかな唇は、そのまま霧人の首筋へと落ちた。 軽く吸い付き、滑らかな肌の感触を味わいながら、顎の方へと移動する。 霧人が嫌がって顔を反らすと、露わになった喉へと興味を移した。 「ん……っ」 いきなり下肢に感じた刺激に、霧人が声を漏らす。 毒蜂の腕を引き剥がそうと、掴んで力を入れてみるが、虚しい抵抗でしかない。 獲物の些細な反発を嘲笑うように、するりと布地の中へ入り込んだ毒蜂の手が、殊更ゆっくりとそれを弄び始めた。 毒蜂は強引だが、霧人に苦痛を与えはしない。 ただひたすらに甘美な刺激を送り続け、狂いそうになるまで霧人を酔わせる。 苦痛ならば耐えることもできるだろうが、頭では拒んでいても、じわりと広がる快感を締め出すことはできない。 一度快楽を知ってしまった肉体は、それを与えてくれる手を、貪欲に求めてしまう。 器用に蠢く指が、悪戯に先端を擦り上げた。 背筋を甘い痺れが駆け上がる。膝ががくがくと震えた。 「この体勢では辛そうだな」 「ひ……ぁっ」 いきなり強く握り込まれて、足の力が抜けた。 毒蜂の腕に支えられながら、背にした扉に沿って崩れ落ちる。 呼吸が乱れ、息苦しさと、急速に上がってくる熱が、霧人から思考を奪った。 「これは邪魔だね」 抗う術もなく、下肢を剥き出しにされる。 丈の長い中国服の裾も捲り上げられて、霧人の素肌は毒蜂の視線に晒された。 勃ち上がったそれを優しく扱き上げながら、毒蜂は膝を使って霧人の足を広げさせる。 「見る……な」 弱々しいその言葉になど耳を貸さず、毒蜂はより深く激しい刺激を与えてきた。 霧人の肉体など、一度の行為で知り尽くしたとでもいいたげに、迷うことなく手と指を蠢かして性急に煽ってくる。 見られているという恥辱が興奮を誘うのか、直接的な愛撫に喘ぎを抑えるのも辛い。 巧みな指の動きに、先端はじっとりと潤み、悦びを訴えるかのように毒蜂の手を濡らしていた。 「霧人」 甘い声で名を呼びながら、毒蜂が軽く耳朶を噛む。 そんな微かな刺激までもが、強烈な快感となって霧人の体を駆け巡った。 「……よせ……っ」 「強情だね。こんなに熱くなっているのに」 指で弾かれて、羞恥に体がますます熱を持った。 霧人を見下ろして笑っているであろう毒蜂の、顔が見たくなくて硬く目を閉ざす。 唇を引き結び、溢れ出してしまいそうな喘ぎを無理矢理塞いだ。 軽い溜息が聞こえる。 体は既に陥落しているのに、尚も抗う霧人の姿は、毒蜂に何を思いつかせたのか。 「……では、素直になれるよう御膳立てをしてあげようか」 毒蜂の言葉の意味を理解する前に、突然腕を引かれて転がされた。 驚いて見開いた先は、灰色で占められる。 掌に、冷たくざらついたコンクリートの質感が当たった。 うつ伏せに倒されたのだと認識した時、腰に手が掛かって膝を立てさせられた。 犬のように四つん這いにさせられて、毒蜂の目の前であられもない姿を晒すことになる。 拒絶を行動に移す前に、毒蜂の指先が奥まった部分を撫でた。 「ああ……っ!」 思わず漏れた声は、組み敷かれる女の嬌声に似通っていた。 自分のものとは思えぬほどの、甘く掠れた声。 「そう……その声だよ」 「あぅ……んんっ」 指先は何度か入口をくすぐるように揉んだ後、抉るように潜り込んできた。 霧人から漏れた液が潤滑の役目を果たすものか、毒蜂の指は難なく体内に入り込み、入口を広げようと緩慢な動きを繰り返している。 「ああっ……あっ!」 毒蜂の指が快楽の核を掠めて、高い喘ぎの声が漏れた。 そこを嬲られると、狂おしいほどの快感が伝わる。 濡れた先端からは、とめどなく液が溢れ、床にまで滴っているに違いない。 しかし、毒蜂はまだ本格的に霧人を攻め立てるつもりはないのか、入口を丹念に解きほぐすだけで、その一点に強い愛撫を与えてはくれない。 ほんの少し触れるだけでも、霧人の体は大きく震えるというのに、毒蜂の指は戯れにそこを掠めるだけだ。 「……やっ……ああ……ぁ……んんっ」 あれほど頑なに声を漏らすまいとしていた口からは、次第に嬌声が漏れ、表情にも恍惚の色が浮かび始める。 二本に増やされた指が、緩みつつある入口を押し広げた。 「うあ……っ!」 「まだそれほど経験していないのに、もう慣れたのかい?」 「ちが……」 「こんなに蕩けて。もっとして欲しい、とせがんでいるよ」 毒蜂の嘲る声も、指が蠢くたびに響く卑猥な音も、静かな屋上では嫌でも耳に届いてしまう。 湿った音の響きが大きくなればなるほど、霧人の体に走る快楽の度合いも増した。 異物感はすっかり淫らな刺激へと変わり、煽られた熱が霧人の中で暴れ回る。 更に増やされた指が、そこを広げて奥を求め始めた。 前に回った毒蜂の手は、玩具でも弄ぶように霧人のものを撫で擦り、体内に潜った指も淫蕩な動きを繰り返している。 敏感な部分を同時に嬲られて、霧人は激しく頭を振り乱した。 毒蜂は、霧人を一気に高めるだけ高めて、それでいて絶頂へと向かえば押し留める。 焦れた霧人が、甘い嬌声を放つのを楽しんでいるのだろう。 それと分かっていても、霧人にはもうどうすることもできない。 内股の筋肉が痛いくらいに張り、呼吸も上手く行えなくなってきている。 霧人の感覚は快感に占められ、それ以上何も感じられない状態にまで追い詰められていた。 自分がどんな恥ずかしい姿をしているのか、どれだけ淫らな声を上げているのかも、遠い感覚となっていく。 過ぎた快楽が、霧人から全てを奪い、いつの間にか自ら腰が揺れ始めていた。 柔らかい肉壁が、ねだるように毒蜂の指を締め付ける。 それを見咎めた毒蜂が、笑ったような気もするが、もうどうでも良かった。 霧人の肉体は、より強い愛撫を求めて毒蜂の手を待っている。 戦慄く唇が哀願の言葉を吐いた。 「毒蜂っ……あ、あぅ……もうっ……も……っ」 「やっと素直になったねぇ」 そう言いながら、毒蜂が指を引き抜いた。 「や……っ」 焦らされた体が、快楽の喪失に悲鳴を上げる。 思い切り扱き上げ、抉って欲しいとすら望んでいるのに、これ以上嬲り続けるつもりだろうか。 頭がおかしくなってしまいそうだった。 「御褒美をあげよう……」 「――え……っ?」 潤んだ柔肉に、冷たい感触が当たった。 指よりもずっと太い、金属質の硬さを持った何かだ。 思わず竦んだ霧人の緊張を、強引に解きほぐそうと、毒蜂がいきり立ったものを扱き上げる。 「力を抜くんだ、霧人」 「毒蜂っ、何を……」 霧人の入口にそれを押し付けたまま、毒蜂が激しい愛撫を加える。 「ああ……っ、はっ……は……ぁ」 快感に気が緩んだ一瞬、押し込む力が加わった。 「―――っ!!」 硬いものが、肉を割って潜り込んでくる。 「やっ、やめ……ひっ、や……だ……っ」 「そのわりには悦んで咥え込んでいる。こんなものでも感じるのかい?」 毒蜂の非情な声が浴びせ掛けられた。 霧人のそこは、ひくつきながらも貪欲にそれを飲み込んでいく。 深々と体内を犯すものが、一体何であるのか、思い当たっても考えたくなかった。 「うあっ……あっ……ああっ……」 「引き金には触れていないから、安心して乱れるといい」 「……毒……蜂……っ!!」 為す術もなく、奥深くに銃身を埋め込まれ、屈辱とそれに勝る快楽に喘ぐ霧人を、毒蜂は尚も貶めようとする。 「淫乱な子だね……」 「あああ……っ」 血の通わぬ金属の塊が、まるで意思を持った生き物のように霧人を犯す。 狭い内を広げ、特に強い快感をもたらすそこを、毒蜂は執拗に攻め始めた。 あまりにも激しい刺激に、もう喘ぎの音も漏れない。 下腹部だけでなく、全身が快楽で満たされる。 肉欲に溺れるというが、まさに今の霧人がそうなのだろう。 昂ぶりきった霧人のものは、毒蜂が扱いてやるまでもなく限界を見せ始め、後ろを刺激するだけで一気に絶頂へと駆け上りそうになる。 感度の良さに、毒蜂が皮肉めいた笑いを漏らした。 手にした銃身を操り、それだけで霧人の官能を最大限に引き出していく。 「も……うっ」 「限界かな?」 「あ……やっ、もうっ……頼む……からっ」 「いいだろう。良い声を、聞かせてくれ」 霧人の四肢が強張り、大きく震える。 背が反り返り、開かれた唇から高い叫びが上がった。 火照った体を叱られた子供のように縮め、霧人はぼんやりと虚空を見つめていた。 夜風はかなり冷たくなってきているが、体の下のコンクリートは、霧人の体温ですっかり温まり、毒蜂が掛けてくれたコートのせいで冷えることもない。 気怠げに視線を移すと、今しがたまで霧人を弄び尽くした張本人が腰を降ろしている。 視線のすぐ先で、癖のない長い髪が幻想的に揺れていた。 行為が終わってからは一言も口をきいていない。 毒蜂は霧人の傍らに腰を下ろしたまま、その目はどこか遠くを見つめている。 こんなに近くにいても、肉体の関係を持っても、毒蜂の瞳には霧人が映っていない。 別にそのこと自体はどうでもいいが、これだけ霧人の存在を無視しているのに、何故こんな行為を強いるのか。分からないことばかりだ。 暫く無言で毒蜂を眺め、霧人はゆっくり体を起こした。 体にかなりの負荷が掛かったと思っていたが、意外にそれほど辛くはない。 「起きて大丈夫かい?」 毒蜂の問いには応えず、黙ってコートを返す。 背を向けて身なりを一応整えた。 気持ちが悪い。 早くシャワーの一つも浴びたかった。 そして何より、一刻も早くこの場から立去りたかった。 疲労した心身は、毒蜂を非難する力も残っていない。 緩慢な動作で立ち上がると、毒蜂が問い掛けてくる。 「楽しめただろう?」 「その質問には……答えたくない……」 「霧人」 振り返ると、すぐ目の前に毒蜂の顔があった。 細い指が霧人から眼鏡を取り上げ、距離を狭めてくる。 「聞きたいことはたくさんあるだろうね」 「……」 「だが、私は君に何一つ答えをあげないよ」 唇が重なった。 触れるだけの軽い口付け。 冷たい言葉ばかりを吐くくせに、その唇は温かい。 口付けはほんの一瞬で、鮮やかな朱の唇はすぐに離れた。 触れるか触れないかの位置で留まり、底知れぬ瞳が霧人を覗き込んでくる。 視線を逸らしたくなるのを何とか踏み止まって、毒蜂の瞳を見つめ返した。 毒蜂が微かに笑う。 「後は、君がどういう道を選ぶかだ」 霧人が言葉を紡ぐ前に、また唇を塞ぐ。 先ほどとは違う、深く貪るような口付けだった。 霧人の口内に侵入し、舌を絡めて翻弄する。 頭の芯が痺れるような感覚に、くらりと眩暈がした。 目を閉じて、深い口付けを受け止めながら、脳裏では毒蜂の言葉が木霊する。 体に触れる感触が消えたと思って目を開くと、もうそこに毒蜂の姿はなかった。 「戯言を……」 搾り出すように吐き捨てる。 執務室のデスクに眼鏡を残して、誰の目にも触れることなく毒蜂は消えていた。 |