甘い毒香水の芳香に誘われるまま、深い眠りに落ちた霧人を見下ろして、逞しい手がその頭を撫でた。

筋肉の盛り上がった豪腕からは、およそ信じられないほどに、その手つきは優しい。

霧人を見つめる目もまた、慈しむような暖かみに満ちていた。

「霧人様……」

過酷な修練のため皮膚の硬くなった指に、霧人の色素の薄いやや長めの前髪が絡んで、さらりと流れる。

毒香水の効果は如何ほどのものか、こうして触れても霧人は微動だにしない。

その無防備な寝顔を見守りながら、背後の二人に声を掛けた。

「……奪還屋」

「あ?」

鬼蜘蛛の背後で、何やら楽しそうに小競り合いをしていた二人のうち、奪還屋を営む男が返事を返してくる。

一応返事として受け取れる反応なのだが、どうにもおかしな声だ。

どんな具合にじゃれ合っているのか、口に何か物でも詰まったような声音である。

今の今まで死闘を繰り広げていたというのに、奪還屋の男も、運び屋の女も、この緊張感のなさは何だろう。

勝敗は既に決して、万が一にも揺るがないと思っているからこその余裕だろうか。

女の方、レディ・ポイズンはともかく、奪還屋の美堂蛮はつくづく食えない男だ。

その恐るべき戦闘力も底が見えないが、人物像にも何かしら深いものを感じさせる。軽薄な態度からは決して読み取れない、昏い闇を抱えているに違いない。

それでいてこんな解決の仕方を選ぶとは、戦いの上だけではない他の部分でも、はっきりと勝敗が分かれたような気がした。

体力的な問題だけを見るならば、鬼蜘蛛にはまだ余力がある。

その気になれば、戦えるだけの力は残っていた。

死しても勝利を求めるのは戦士としてあるべき姿だろうが、引き際を弁えないのは恥ずべきことだろう。

これ以上の戦いは意味を為さず、無理に続けようとしても、美堂蛮は応じてこないに違いない。

自分は負けたのだ。

敗北という、その言葉の重みを噛み締めながら、二人に低く言い放つ。

「女郎蜘蛛様の下へゆけ」

「へ! そこに嬢ちゃんがいるってか?」

「ゆけばわかる。このチャイナストリートの最深部、『羅網楼』へ」

鬼蜘蛛の言葉を聞いた途端に、二人は勢いよく駆け出して行った。

こちらを振り向くことなど、一切なしに。

鬼里人と本気で対立するつもりならば、少なくとも目的地である『羅網楼』の詳細なデータくらい要求していけばいいだろうに、二人はそれについての情報を引き出そうともしない。

目的はあくまでも一つ、盲目の少女の奪還のみというわけか。

わき目も振らず突進していく様は、多分に危険な行動と見えたが、どこか清々しささえ感じさせる。

一途な若者らしい足音を聞きながら、鬼蜘蛛は倒れたままの霧人を凝視した。

敗北した悔しさは不思議とない。

何故なのか答えを出そうとして、途中で放棄する。理屈で言い表せるものでもなかった。

強いて言えば、長い鬼里人の歴史が、かつてない方向へと流れ出す可能性を、あの美堂蛮に感じたからだろうか。

その可能性とやらが、正しい道に向かうものかどうかも分からないが、何かが動き出したのは確かで、その中心に必ずあの奪還屋たちが関わってくる。

何の裏づけもない勘のようなものだったが、それは確信に近かった。

二人の気配が完全に遠ざかったのを確認して、霧人を丁重に抱き上げる。

本来なら、蜘蛛一族の末端の存在でしかない鬼蜘蛛が、族長の血統である霧人に直接触れることなど許されないのだが、この場合は仕方がない。

守るべき対象がこうして無事でいるのなら、最低限のラインは死守できたといえるだろう。

自分が喫した敗北など、些細なことだ。

こんな個々での戦いにおける負けなど、大局には影響せず、後でいくらでも帳尻合わせができる。しかし、霧人の身にもしものことがあれば、取り返しがつかない。

密着した霧人の、規則的な呼吸が肩口をくすぐる。

眠りを強制されたわりには、その顔に苦悶の表情は見当たらない。

レディ・ポイズンの毒香水は、かつて霧人から記憶の一部を奪い、トラウマを抱えさせる原因になったほど強力なものだ。

先ほど霧人に使われたものは、確か『催眠香』と言っていたか、おかしな作用を及ぼすものでなかったのは幸いだった。

あまりの効力の強さに、多少の不安を感じないでもなかったが、顔色や寝息から判断する限り心配することもないだろう。

安堵の溜息を漏らして、鬼蜘蛛は霧人の顔を覗き込んだ。

眠っていると、比較的若く見える。

「成長されたと思っていたが、こうして見ると……」

何も変わっていないような、そんな錯覚すら覚える。

静かに湧き上がった奇妙な懐かしさは、それほど遠くはない過去の記憶を呼び覚ました。







日々、鍛錬に励むばかりだった鬼蜘蛛が、彼女らと遭遇したのは全くの偶然だった。

偶然というのは不思議なもので、そうそう転がってはいないくせに、拾い上げることができると、拾い主の手を離れて大きく流れを変える要因となる。

偶然を活かせるかどうかは個人の力量によるだろうが、鬼蜘蛛にとっては幸運と作用したらしい。

訓練所として使っている部屋の外から、こんな場所ではまず聞くことのない女の声が聞こえたのが、きっかけだった。

不審に思って扉を開けてみると、廊下のずっと向こうに、まるで別世界を生きるかのような人物を見かけた。

それが誰なのか、鬼蜘蛛が名を連ねる一族の中で知らぬ者はいない。

鬼蜘蛛よりもかなり年上なはずだが、時の無残さなどとは無縁であるかのような若々しい女性。

艶めかしいチャイナドレスに、豊満な肉体を包んだ女性は、そのたおやかな外見とは想像もつかぬ力と肩書きとを持っていた。

鬼里人の幹部、七頭目の一角にして、蜘蛛一族を束ねる女王。

華やかな美貌とは裏腹に、怜悧で残酷な一面を持ち、絶対的な指導力でもって蜘蛛一族を率いるのが彼女の真の姿だ。

策略家というのが本来の属性だが、それは戦闘において劣るということを示唆するわけではない。

数々の武勇伝は、一族の末端にまで轟いていた。

しかし、今はその恐ろしい影も鳴りを潜めている。

その理由はすぐに理解できた。

女郎蜘蛛に手を引かれて、幼い男の子がぴったりと後についている。

やはりチャイナ服を着て、女郎蜘蛛を見上げながら歩いている様は、とても愛らしい。

二人のよく似た容姿を見ずとも、その男の子が女郎蜘蛛の一人息子、霧人であるのは明白だった。

溺愛しているとは聞いていたが、ようやく授かった息子な上に、あの可愛らしさでは、女郎蜘蛛でなくてもついつい甘やかしてしまうだろう。

鬼蜘蛛の口元にも、無意識に笑みが浮かぶ。

こんなむさ苦しい場所に、優雅な女王とその息子が用などあるはずもなく、たまたま近くを通りかかっただけに違いない。

敬愛する一族の女王を、こうして目にすることができたのは、僥倖だった。

普段は近くに寄ることはおろか、顔を直接拝する機会もない。

公園を散策する母子のように、楽しく歩いていく二人を遠目に眺め、鬼蜘蛛は軽く頭を下げて見送った。

暖かい笑い声が、こちらの気分までをも和やかにしてくれる。

しかし、鬼蜘蛛が顔を上げた時、予期せぬことに、小さな瞳と視線がぶつかった。

母親と同じ色をした瞳を大きく見開いて、霧人がこちらを見つめている。

「霧人……?」

息子の足が止まったことを訝しんで、女郎蜘蛛が息子の傍にしゃがみこんだ。

離れている鬼蜘蛛の耳にも、短い会話が微かに聞こえてくる。

「どうしたの、霧人?」

「かあさま……」

呼び掛けながら、小さな手が鬼蜘蛛を指差した。

鬼蜘蛛の身に緊張が走る。

いずれ正式な場で拝謁することが叶うまで、今はただひっそり見送るべしと判断していたのだったが、どうやら『偶然』は重ねてやってきたらしい。

女郎蜘蛛が向き直る前に、鬼蜘蛛は床に片膝をついて従僕たる姿勢を表す。

服従と尊敬を込めて低く首を垂れると、衣擦れの音と、軽やかな足音が響いて、二人がこちらに歩み寄ってきたのが分かった。

気づかれぬようちらりと窺うと、すぐ目の前に女郎蜘蛛が立ち、彼女の背後に体半分隠れるようにして霧人がいる。




「かあさま、だぁれ……?」

初対面の相手にいささか緊張しているのだろうか、幼い手が母の服を握りしめている。

その顔には、困惑と怯えの色がはっきりと浮かんでいた。

このくらいの年齢の子供であれば、鬼蜘蛛のように長身で逞しい青年に対して、無条件に親しい感情はもたないであろう。

霧人の頭を優しく撫でながら、女郎蜘蛛が鬼蜘蛛を見下ろす。

「名は鬼蜘蛛……そうだったわよね」

「はっ」

短く答えて、深々と頭を下げる。

一族においては末端の人間に過ぎない自分の名を、女郎蜘蛛が知っていたということが驚愕だった。

その事実は、驚きと同時に、主に対する確かな信頼を根付かせる。

鬼蜘蛛の心の内を知ってか、女郎蜘蛛が微笑した。

「立派な心がけね」

「恐れ入りまする」

「より鍛錬に励みなさい。いずれお前が立派な戦士となる頃には、相応しい舞台を用意してあげる。―――期待に応えてくれるわね?」

凛とした声が、鬼蜘蛛に降りかかる。

畏敬の念を込めて、鬼蜘蛛は女郎蜘蛛を仰ぎ見た。

「一命を賭して。必ずや、一族のために役立ってみせます」

飾り気のない真っ直ぐな答えに、女郎蜘蛛は気高い女王の顔で微笑んだ。

「かあさまぁ……」

二人の会話に、取り残されたと感じたのか、霧人がぐずるように掴んだ服を引っ張る。

霧人はまだ、自分の疑問の答えをもらっていない。

首を少しだけ傾けて、母からの答えを待つ霧人に、女郎蜘蛛は女王としての表情を崩し、母の顔で微笑みかけた。

「この男の名は、鬼蜘蛛よ」

「おにぐも?」

「誇り高き蜘蛛一族の戦士の一人よ」

女郎蜘蛛のその言葉は、戦いの道にこそ自分を見出した鬼蜘蛛にとって最大の賛辞だ。

恐縮するとともに、その言葉を現実のものとするよう、決意を新たにする。

二人を見比べて、霧人が二、三度瞬きを繰り返した。

もらった答えを理解しようとしているのだろう。

「ふぅん……」

曖昧な反応からは、母の言葉をちゃんと理解しているかどうかも分からない。

まだ幼いのだから当然だと思った鬼蜘蛛へ、霧人が視線を向ける。

母の傍らから離れて、迷わず鬼蜘蛛の前へ進み出た。

不信感の影はもう見当たらない。

利発そうな瞳には、既に『上に立つ者』としての自覚が見えた。

「一族のために戦うんだね」

「左様です、ジュニア」

「かあさまのためにも」

「無論です。そして、貴方様のためにもですよ、霧人様」

そう答えると、霧人が肯いた。

「うん。おぼえておくよ」

端から見れば生意気とさえ映るかもしれない言葉だが、そのくらいの方が頼もしい。

ゆくゆくは蜘蛛一族を率いることになるであろう少年に、鬼蜘蛛は恭しく頭を下げた。






その日の出会いを境に、鬼蜘蛛の周辺は確実に変化していった。

以来、女郎蜘蛛は鬼蜘蛛を目に掛けてくれるようになり、鬼蜘蛛もまたそれに応えようと努力を怠らず、その結果が良い形で循環している。

ひがみからか、鬼蜘蛛を悪くいう者もいたが、それも次第に聞こえなくなった。

寡黙で実直な人柄と、確かな戦闘能力が、口さがない者たちを黙らせたのだろう。

行動できる範囲も広がり、かつては入ることのできなかった場所へも、徐々に出入ができるようになっていた。

直接、命令を受けることも少なくない。

そしてその日も、鬼蜘蛛は女郎蜘蛛から受けた用を済ませ、幹部以外立ち入れない廊下を歩いていた。

それこそ蜘蛛の巣のように張り巡らされた廊下は、慣れた者でなければ間違いなく迷う。

使用されている敷地面積はさほどではないものの、迷路のようになっているため、実際の広さよりもかなり広大な土地だと感じさせるのだ。

外敵を惑わし疲労させる目的と、死角から敵を狙い撃ちにできるという二つの利点を持つ構造になっている。

いつでも不測の事態に対処できるよう、感覚を研ぎ澄ませながら廊下を歩く。

警備を担当する者たちは別に組織されているが、いつ何が起きるか分からない。

鬼里人は現代社会の基盤に根を張り、繁栄の道を歩んできたが、それだけに敵も多いのだ。

ただの人間どもが、鬼里人に対して何かできるわけもないが、常に危機感を持つべきだろう。

何度目かの角を曲がって、鬼蜘蛛の耳がふいに小さな物音を捉えた。

静寂に満たされた廊下は、それなりに注意して歩かなければ、足音も衣擦れの音さえも大きく響いてしまう。

蜘蛛一族でここに出入できる者ならば、この廊下の特徴を知っているはずだ。足音も高く歩き回るはずがない。

しかし、もし侵入者だとしたら、余計に物音など立てないだろう。

不審に思いつつ尚も歩いていくと、足音はどうやら鬼蜘蛛の後ろをついてきているようだった。

さりげなく角を曲がって、鬼蜘蛛はそこで足を止め、追跡者を待ち受ける。

床に小さな影が見えて、一瞬でそれが誰かを悟った。

小走りに飛び出した人影に、立ち塞がるようにして声を掛ける。

「どうかなさいましたか、ジュニア?」

「……!」

咄嗟のことに、声もなく人影は立ち止まった。

もう少し勢いがついていたなら、鬼蜘蛛の足にぶつかっていたかもしれない。

鬼蜘蛛の腰までも届かない背丈の子供が、堂々たる長身を仰ぎ見たまま立ち尽くす。

蜘蛛一族の中枢、それも一部の者しか入ることのできないこんな場所を、自由に歩き回れる子供といえば一人しかいない。

しかし、その子供がたった一人でこんな場所にいるのは、異常なことであった。

「世話係は何をやっているのやら」

周囲を見回し、他に人の気配がないことを確認して、鬼蜘蛛が溜息混じりに呟く。

蜘蛛一族の大切な跡取りを、一人きりで行動させるなど言語道断だ。

いくら外敵が易々と侵入できる場所ではないとはいえ、警戒心のなさにもほどがある。

このことが女郎蜘蛛の耳に入ったなら、世話係全員の首が飛びかねない。

鬼蜘蛛の言葉に、子供特有の甲高い声が応えた。

「あいつら邪魔だから逃げてきた」

意外な言葉に、一瞬思考が停止する。

子供としては、聞き分けが良すぎるくらいだと思っていたが、こうした後先を考えない行動はやはり普通の子供そのままだ。

まだまだ未熟な精神に対して、知識はどんどん与えられていく。

英才教育を受け、日々教えられることを着実に吸収する霧人にとっては、世話役の油断につけこんで振り切るなど、造作もないことだろう。

優秀なのは喜ばしいが、これでは世話係の者たちもさぞや手を焼いているに違いない。

見上げる霧人に、目線を合わせるようにして膝をつく。

それでも足りず、更に身を屈めて、ようやく霧人の身長に吊り合いがとれた。

「今頃大騒ぎですぞ」

やんわりと咎めると、聞きたくないとでも言いたげに、小さな頭が左右に振られた。

「いいの。鬼蜘蛛、遊んでっ」

「……は?」

「遊んでっ!」

「しかし、それなら世話係の者たちもいるでしょうし、ご学友もいるではありませんか。何も私などに……」

「だって、あいつらつまんないんだ」

理知的な瞳がまっすぐに鬼蜘蛛を見上げてくる。

霧人が『あいつら』と一括りにした者たちは、こんなふうにばっさり言い捨てられたと知ったら、相当のショックを受けることだろう。

女郎蜘蛛が愛息のために用意した連中だ、決して能力が劣っているわけではない。

しかし、蜘蛛一族の後継ぎとして、申し分のない英才教育を受けている霧人にとっては、一般レベルの中で優秀とされる連中など、取るに足らない相手として映るのかもしれなかった。

周囲の期待どおり、順調に育っていっていると喜ぶべきだろうか。

「確かに、ジュニアから見れば、格下に見えるのも無理はありませんな」

「だから鬼蜘蛛が遊んで」

学友として手配された子供たちを除けば、霧人の周りには同年代の人間が誰もいない。

大人ばかりに囲まれているという、特殊な環境ではあるが、本人は別段それをおかしいとは思ってもいないだろう。

鬼蜘蛛とて独特な世界で育ってきたが、共に修練する仲間もいたし、自由になる時間はあった。

霧人は、鬼蜘蛛と比較にならないほど特別な立場にいるのであるから、こうした環境になるのは仕方のないことなのだろうが、あまり大人の都合だけで振り回していては、どこかに歪みを生じさせるという可能性も含んでいる。

しかし、だからといって霧人のために遊び相手を探すとなると、単純なことではない。

同じレベルで遊べる者となると、かなり限られてくるだろう。

当然ながら、下々の者となど遊ばせるわけにはいかない。

ならば鬼里人の中でもそれなりに血統の良い、できれば幹部クラスの者の子弟が望ましいだろう。

相応しい者はいないものかと考えて、鬼蜘蛛の頭に一人の少年の姿が浮かんだ。

話したこともなければ、詳しいことは全く知らないのだが、考えうる条件を満たせるとなると、その少年くらいしかいないのではないだろうか。

確か、霧人よりも年上だが、年齢的にはそう違わないはずだ。

家柄的には申し分ない。

遠目で見かけただけだが、年のわりに奇妙なほど落ち着いていて、聡明さを窺わせる冴えた瞳をしていた。

「鬼蜘蛛ぉ?」

「私如き卑賎の者よりも、もっと良いお相手がいるはずです」

「でも……」

「ジュニアは蜂族の方はご存知ですか?」

「?」

「確かジュニアとそう年の違わない少年が――」

「あいつ、嫌いだっ!!」

鬼蜘蛛の言葉を遮るように、霧人が厳しい口調で言い放った。

あどけない顔には、はっきりと嫌悪の表情が浮かんでいる。

「これはお珍しい。ジュニアがはっきりそうおっしゃるとは」

他人を見下したり、見切りをつけて悪し様にいうことはあっても、『嫌い』という直情的な言葉はあまり聞いたことがない。

「何かございましたか?」

問い掛けながら顔を覗き込むと、霧人はしばし考え込み、首を横に振った。

「では……」

「でも嫌いなんだっ!!」

霧人が、焦れたように叫ぶ。

何かあったわけではないのだろうが、何となく気に入らないということだろう。

気に入らないその原因は、きっと霧人本人にもよく分かっていないに違いない。

俗にいう、相性が悪いということだろうか。

「そうですか」

鬼蜘蛛の記憶では、賢くて礼儀正しい少年という印象が強かったが、霧人は直感的に何か異質なものを感じたのかもしれなかった。

その少年が駄目だとすると、あとは名前くらいしか聞いたことのない人間になってしまう。

鬼里人の上層部、それもその家族についてまでは、鬼蜘蛛にもよく分からない。

困惑する鬼蜘蛛に、霧人がきっぱりと言い切った。

「鬼蜘蛛が遊んでよ。これは命令っ!!」

言いながら霧人が腕を組んでみせる。

小さな子供が精一杯威張ってそう言う様は、腹立ちを感じるよりも微笑ましく思えた。

おそらくは、無意識に母親の行動を真似ているのだろう。

多くの人間に傅かれている母を見て育ったからこそ、こうしたときに母そのままの行動が出るのかもしれない。

普通の人間が見れば眉を顰めるだろうが、一族に属する者にとって、族長の血を受け継ぐ者への忠誠心は絶対だ。

まっすぐこちらを見つめてくる霧人に、鬼蜘蛛は女郎蜘蛛に対するかのように臣下の体勢をとった。

母親似の霧人がこんな仕草をすると、本当に女郎蜘蛛が命令を下しているような気さえしてくる。

成長すればもっと似てくるだろう。

「承りました。不肖、この鬼蜘蛛、お相手させていただきます」

そう答えると、年相応の子供の顔をして霧人が鬼蜘蛛の腕に飛びつき、待ちきれないといった様子で引っ張った。

苦笑しつつ、霧人に腕を引かれながら廊下を歩く。

「何して遊ぶ?」

「ジュニアの御心のままに。ただし、少しだけですぞ」

しっかりと釘を刺すと、分かっているだろうに、霧人が声を上げて笑う。

相手をするのが嫌だという気持ちは、そもそも感じていない。任務が遅れることに関する心配も、霧人が笑った時点で吹き飛んだ。

そういえば、霧人のこんな笑顔を見たのは初めてのような気がする。

今日はもう離してもらえそうにない、そう覚悟を決めて、鬼蜘蛛は霧人に従った。






眠る霧人に、幼い頃の面影を見出して、鬼蜘蛛は軽く微笑した。

成長して姿形は変わっても、こうして眠っているとあの頃のままだ。

遊び疲れて鬼蜘蛛の膝で眠りこけてしまった時と、その印象は変わらない。

こんな時に、我ながら不謹慎なことを考えるものだ。

自嘲気味に笑うと、腕の中の霧人が僅かに身じろいだ。

今は熟睡しているが、目が覚めた時、霧人は鬼蜘蛛を責めるだろうか。

霧人を腕に抱きつつ、蜘蛛一族の権力の象徴『羅網楼』を振り仰ぐと、その上空には気味の悪い色をした雲が垂れ込め、その隙間からは不穏な鳴動が響いてきている。

このまますぐに戻るべきではないと、危険に対して研ぎ澄まされた感覚が警鐘を鳴らす。

鬼蜘蛛は全く方向の違う小道へと歩を進めた。

今、自分にできる最善の道は、霧人を守ることだ。

それを考えると、本陣へ戻るのは得策ではなく、できれば離れた方がいい。

奪還屋たちは羅網楼へ向かった。

美堂蛮と工藤卑弥呼、そしてもう一人、天野銀次もあの場所を目指すだろう。

間違いなくあの場所は戦場となる。

いつ目覚めるか分からない霧人を、あの場所に近づけるわけにはいかなかった。

羅網楼へ迫るかのように、どんどん高度を下げてくる不吉な雷雲が、心をざわめかせる。

何か大きなものが降臨する、それを予告するかのように、鋭い稲妻が走った。



続く(マガジン17号へ:笑)


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