窓から差し込んでくる陽光が、すっかり赤味を帯びているのに気がついて、霧人はパソコンの画面から顔を上げた。 床に落ちる影は長く伸び、執務室の絨毯の上に、まるで切り絵のような世界を描き出している。 窓の方に視線を向けると、血の滴りのような光が広がり、目の奥に突き刺さった。 単調な数字の羅列ばかりを凝視していた目には、夕焼けがいつもより眩しく感じられる。 手を翳して、光の源を直視しないよう気をつけながら、窓辺に立つ。 紅く染まった空と街並みは、どこか現実味に欠けていて、霧人の意識を暫し浮遊させた。 郷愁に囚われるわけでも、陶酔感に満たされるわけでもないが、その空の色は何かを人の心に訴えかける。 ガラスに手をついて、霧人は軽く額を触れさせた。 特有の冷たさが心地良い。 仕事の緊張感が、徐々に解れていくのを感じる。 窓に押し付けた肌が、すっかり冷たくなるのを待って、霧人はガラスから額を離し、改めて空を仰いだ。 その紅を、炎と見るか血の色と見るか、人によって感覚は違うのだろうが、霧人には後者を強く連想させる。 殺戮を好むような、異常な性癖は持ち合わせていないが、立場上、血が流される場面を目にする機会は少なくない。 母の元にいれば、嫌でも見られる。 若さを保つために、処女の生き血を必要とする母は、年若い少女たちを連れてきては毒牙にかけていた。 適量の血液を抜き取るだけという場合が大半だが、もし母の残虐性が顔を覗かせれば、少女が生きて帰れないこともあるだろう。 そんな母の行いに対して、今さら嫌悪感や罪悪感を感じたりはしないが、ふと心に複雑なものがよぎることもある。 「血のような赤……か」 誰に語りかけるでもなく呟く。 鮮やかな紅。 血の色という他にも、何かを思い起こさせる。 それが何であるかを明確にしようとして、霧人は何故か気分の悪さを覚えた。 「……っ」 思わず息が詰まる。 強烈な嫌悪感を与えるそれが、忌まわしいものとして、記憶の底に堅く仕舞い込んだものだと気付くのに、時間はかからなかった。 一瞬、脳裏に浮かびかけた顔を慌てて掻き消す。 その場しのぎのように、母の艶やかな唇を思い浮かべた。 くっきりとルージュを引いた母の唇は、この空の色によく似ていると、無理に意識をそちらへ持っていこうとする。 しかし、それは虚しい試みだった。 より酷似したものを知っている。 口紅を使っているわけでもないだろうに、思わず目に留めてしまうような紅。 その唇から綴られる言葉は、いつも優しく穏やかで、それでいて常に冷酷だった。 「ち……っ」 苦々しく舌打ちする。 結局思い出してしまった顔を、頭から追い出すのは困難だった。 その人物には、それだけ深刻な記憶がついて回る。 激しい嫌悪と怒りと――そして認めたくない甘い記憶だ。 肉体に蘇りそうになる甘美な感覚を、霧人は頭を振って否定した。 あの時、確かに悦びを見出す瞬間があったのだと、頭のどこかでは理解している。 だが、そんな事実を受け入れられるはずがない。 沈みつつある夕日から目を逸らし、霧人はデスクに戻った。 デスクの上には、書類やディスクが散らばり、霧人の手で処理されるのを待っている。 周囲の者たちが霧人の精神状態を気遣っているのか、あまり急ぎの仕事は回ってこないが、それでも量的にはかなりのものだ。 地味な仕事ほど時間がかかる。 不毛なことに思い煩っている場合ではない。 椅子に掛けた時、タイミングよく電話が鳴った。 内線を示すランプが点滅している。 受話器をとると、聞こえてきたのは電話を取り次ぐ受付嬢の声ではなく、野太い男のものだった。 『女郎蜘蛛様がお帰りになられました』 逞しい男の姿を想像させる声が、恭しく伝えてくる。 このビルの地下駐車場を守る男だ。 広いスペースを持つにも関わらず、一部の者しか入れないようになっている地下駐車場は、鬼里人の幹部専用になっている。 「分かった。今、行く」 短く答えて電話を切る。 本日、母は鬼里人の族長会議に出掛けていたはずだ。 鬼里人の指針は、この族長会議をもって決定され、蜘蛛一族の長である女郎蜘蛛も、当然の如くそこに参加している。 このところ、族長会議の回数が頻繁となってきているのは、一族共通の敵である『魔里人』の動向が明らかになってきたためだろう。 彼らを滅ぼすことを最終的な目標として、どの一族がどんな役目を担うことになるのか、そうした詰めの議論が為されているに違いない。 そして、その会議には、蜂族の長であるあの男も出席しているのだろう。 海千山千の各族長たちの間で、いつものように涼しい顔をしている姿が思い浮かぶ。 おそらく、女郎蜘蛛に対しても、その態度は変わらない。 霧人に対してあんな真似をしたくせに、その母である女郎蜘蛛に対して、まるで何もなかったかのような素振りで、いけしゃあしゃあと談笑するのだ。 女性、特に母親という人種は勘が鋭いというが、毒蜂が相手では、女郎蜘蛛でさえも何も気がつかないだろう。 苦い思いを飲み込んで、霧人は母を出迎えるために席を立った。 空はもう鮮やかな紅から、闇を薄く溶かしたような色へとその姿を変え始めている。 窓から差し込む紅い残照は、まるで体を抱くように纏わりつき、それを一瞬不快に感じた霧人は、荒い手つきで扉を開けて出て行った。 執務室を出ると、霧人は廊下の目立たぬところに、ひっそりと設けられた扉へと向かった。 扉には大きく『Keep out』の文字があり、関係者以外の立ち入りを頑なに拒んでいる。 そこから続くルートは、秘密の地下駐車場へと繋がり、そしてこのチャイナストリートの中でも一際目を引く建造物、『羅網楼』へと到っていた。 チャイナストリートに、深く根を張る蜘蛛一族の、極秘に作られた数々のルートは、まさに蜘蛛の巣の如く巧妙に入り組んでいる。 そこへの入口は、鬼里人関係者が経営するビルや飲食店など、チャイナストリートの各所に散らばっており、ここもそんな場所の一つだ。 専用エレベーターを降り、照明の抑えられた薄暗い廊下を行く。 一見ただの壁としか思えない突き当たりに霧人が立つと、俄かに裂け目が生じて、内と外とを繋いだ。 そこから黒塗りの高級車が見える。 車の周囲には、黒いスーツに身を固めた男たちが数人、周りを警戒するように立っていた。 霧人を認めて、男たちが道を空ける。 後部座席のドアが開いて、中の人物が降り立った。 「え……っ?」 長いコートが翻り、くせのない長髪がさらりと揺れる。 氷のような印象を与える右目が、一瞬霧人の姿を捉え、何の興味もないかのように逸らされた。 「毒蜂……」 誰にも聞こえないような小さい声で、負の感情を込めながら低く呟く。 霧人の心の揺らぎなど知らぬげに、毒蜂は車を振り返り、扉の傍らに立った。 僅かに屈んで、入口に右手を差し伸べる。 紳士的に差し出された手に、女の繊手が重なった。 毒蜂の手を支えに、若々しい外見を裏切るほどに妖艶な女が、車から姿を現した。 チャイナ服の、際どいスリットから、形の良い脚を惜しげもなく覗かせ、女王然としてその場に立つ。 蜂族の長がエスコートし、蜘蛛族の女王がそれを受ける、構図としてはおかしくない。 傍目には、友好関係を築いていると映るだろう。 二人で何事か小さく囁きあった後、女郎蜘蛛が霧人の方を向いた。 「変わったことはなかったわね、霧人?」 「あ……ああ、お帰りなさい」 女郎蜘蛛に生返事を返しながら、霧人の視線はその傍らに立つ毒蜂へと向けられていた。 それを無視するかのように、毒蜂は霧人の方には全く注意を払わない。 無礼な態度だが、七頭目の一人として名を連ねる毒蜂を責める者はいない。 女郎蜘蛛とて、心の底では不愉快に思っているだろうが、公には何も言わなかった。 霧人に対して宥めるような視線を送りながら、女郎蜘蛛が毒蜂と共に霧人の前を通り過ぎる。 苛立つ息子の心情を理解しつつも、長としての立場を優先させているのだ。 施設の奥へと消えた背中を、複雑な思いで眺めつつ、霧人は心を静めようと努力した。 こんな場所で出会う羽目になるとは、予想もしていなかったため、はっきりと分かるほどに脈拍が上がっている。 完全に無視されたという不快感より、突然の遭遇に対する衝撃の方が大きかった。 七頭目の一人が訪れるというのに、何の連絡も前触れもなかったということは、おそらく、族長会議が終ってから、女郎蜘蛛がそのまま毒蜂を誘ってきたのだろう。 族長会議の決定を受けて、何か個別に話し合うことが生じたに違いない。 事態が大きく動くことになるのだろうか。 話の内容には大きく興味を引かれるが、霧人はまだその中心には入っていけない。 内容が重要であればあるほど、その会談の中に霧人の席はないのだ。 ふっきるように、背筋を伸ばして姿勢を正すと、霧人は自分の執務室へ戻るために踵を返した。 同じ敷地内に毒蜂がいるというのは、非常に落ち着かなかったが、敢えて考えないことにする。 あの様子では、帰る時も霧人を無視していくだろう。 それならば、殊更に関わる必要もなかった。 執務室へ戻ってからも、仕事は手につかなかった。 思いがけず目にすることとなった、毒蜂の顔が頭にちらついて離れない。 今ごろは、母と共に羅網楼のどこかで会談中だろう。 和やかな談笑というよりは、緊迫感に満ちた腹の探り合いに違いない。 半世紀以上に渡り蜘蛛一族の女王として君臨してきた女郎蜘蛛を相手に、毒蜂はどういう方向性で渡り合うのだろうか。 女郎蜘蛛の属性は策士だが、それを専門とするわけでもない毒蜂もまた、計謀には長けているだろう。 今日の族長会議で何が討論されたのか、それについてどういう相談が行われているのか、二人の話の内容が気にかかる。 しかし、それ以上に心を揺さぶるのは、毒蜂という存在そのものだった。 デスクの上に置いた拳を、軽く握り締める。 苛立ちが募った。 毒蜂の行動は、気紛れで方向性が掴めない。 霧人にあんな行為を強要しながらも、全く執着を見せず、それでいて思わせぶりに距離を詰めてくる。 何を考えているのか分からない。 尤も、分かったところでどうなるものでもなかった。 或いは、そう思い悩むことが間違っているのかもしれない。 毒蜂のことになど構わず、霧人は霧人の都合だけを考えて、毒蜂と付き合っていけばいいのだ。 強い立場と権限を持つ毒蜂は、見方を変えれば利用しがいのある相手だろう。 そう頭では理解していても、事は上手く運ばない。 理屈だけで割り切るには、障害がありすぎた。 溜息をついて窓の外へと視線を流す。 霧人がこうして悩んでいる間、苦悩の元凶である毒蜂は、霧人のことなど思考の外に追いやっているのだろう。 それを考えると、苛立ちは馬鹿馬鹿しさへと移行した。 空はもうすっかり暗闇のヴェールに覆われ、宙空に丸い月が我が物顔で鎮座している。 外が暗いせいで、鏡のようになったガラスに、霧人の姿が映し出されていた。 苦々しい表情で、霧人は自らの姿を凝視する。 この体の何が、毒蜂にあんな行動を起こさせるに到ったのだろう。 単純に嫌がらせのためだったと解釈すればそれまでだが、それならば何もこんな方法を取らずとも良いはずだ。 毒蜂が敢えてあんな行為を選択したのは、そうさせる何かが霧人にあったということなのだろうか。 母親似とはよく言われるが、客観的に見て別段女のような容姿をしているわけでもない。 他人の欲を煽る要素など―――。 ぞくりと体が震えた。 行為の最中、毒蜂に囁かれた言葉が浮かぶ。 『淫乱な子だね』 霧人を弄びながら、毒蜂はそう言った。 甘く紡がれた言葉は、霧人を精神的に追い詰めるためのものだろう。 しかし、それらが嘘や脚色されたものではなく、間違いのない事実を語っているのも確かだった。 忘れたくとも記憶にしっかりと残っている。 言い訳しようのない現実だった。 毒蜂の手で、肉欲に溺れた自分は、さぞや淫らな醜態を晒していたのだろう。 求められるまま嬌声を上げて、足を開いたまま愛撫をねだった。 「っ……!!」 やり場のない感情を迸らせるように、両の拳をデスクに打ちつける。 派手な音が鳴るのも構わず、何度も何度も叩き付け、それでも足りず、手近にあった屑籠を力任せに蹴飛ばした。 物に当たったところで、何も変わりはしないのだが、そうでもしないと周囲の無関係な人間たちにまで八当たりしてしまいそうだ。 物言わぬ無機物に対して怒りをぶつけた方が、まだマシに違いない。 ひとしきり当たり散らすと、急速に頭が冷えてきた。 両手の痛みが知覚できるようになれば、あとはすぐに通常の状態に戻る。 霧人は、疲れたように椅子に凭れ、両手の痛みが引いていくのを感じながら、破綻した思考回路を整備した。 今日のところは、もう仕事を続ける気にもならない。 感情の昂ぶりは納めたものの、この有様では禄に仕事も進まないだろう。 手の痛みと熱が去ってから、霧人は席を立った。 激昂したのが嘘のような、冷静な手つきでパソコンの電源を落とし、デスク脇のスイッチで室内の照明を消す。 屑籠やその周囲に散らばったゴミは、明日の朝にでも清掃業者を呼べばいい。 何事もなかったかのような顔をして、出口へ近づく。 執務室から出ようとして、ドアノブに手を掛けた。 その時だった。 そのまま出て行くべきだったのだ。 何の気配を感じたわけでもないのに、何故その時振り返ってしまったのだろうか。 ゆっくりと視線を転じた霧人の目が、軽く見開かれる。 在り得ないことだと思いつつも、頭のどこかで予測していたのかもしれない。 灯りの絶えた室内に、窓から月光が差し込み、人の形を浮き上がらせていた。 流れるような長い髪、しなやかに揺れるコート、よく見知った姿が、窓辺で月光浴でもしているかのように佇んでいる。 「毒蜂……」 小さく呟く自分の声が、嫌に遠く感じられた。 霧人の困惑ぶりを楽しむかのように、毒蜂の横顔が笑いの形を浮かび上がらせる。 左側からだと、毒蜂の顔は欠損した部分が多くて、表情を完全に読み取ることができない。 だが、鮮やかな紅の唇が、嘲笑うように歪められているのだけは見て取れる。 霧人は、ドアノブから手を離し、扉を背に毒蜂を見つめた。 隙あらば逃げようという考えは、不思議と浮かんでこない。 逆に、逃げたらそれこそ毒蜂の悪戯心を刺激するのだ、という予感がある。 互いに距離を保ったまま、暫し沈黙が続き、先にそれを破ったのは毒蜂の方だった。 「何故ここにいるのか、とは聞かないのだね」 「聞いても答えないだろう?」 霧人の返答に、毒蜂が微かに笑い声を漏らす。 「冷たいな。君に……会いに来たのだよ」 「つまらない嘘だ」 恋情を告白するような、言葉だけは切ない台詞を吐く毒蜂に対して、霧人の返答は辛辣だった。 毒蜂の綴る言葉など何一つ信じない、とその瞳が語っている。 しかし、毒蜂は気にしたふうもなく、霧人が普段使っているデスクに近づくと、ゆったりと椅子に腰掛けた。 足を組み、まるで自分こそがこの部屋の主であるかのように寛いでいる。 「チャイナストリートへ来たのは、女郎蜘蛛に誘われてのことだが、この部屋に来たのは、君に会うためだよ。こう言えば納得できるだろう?」 「納得するも何も、そんなことはどうでもいいんだが」 「強気だな」 からかうように毒蜂が言う。 白い手袋に包まれた右手が上がり、戯れに指が揺れると、霧人の耳元で突如羽音が響き、小さな物体が毒蜂の元へと飛んでいった。 宙へ差し伸べられた毒蜂の指先に、スズメバチがとまる。 霧人が息を飲んだ。 首筋を掠めるように飛んでいったあの一匹の蜂が、どれだけ特殊な能力を擁しているかは周知の事実だ。 知らぬ間に、何か手を打たれたのではないだろうか。 刺される痛みは感じなかったものの、不安に体が強張る。 「こんな小さな蜂にさえ、怯えるのかい?」 「……っ」 心を見透かされているかのような台詞に、霧人は奥歯を噛み締めた。 「強気なのは結構だが、そうしたところで、現状は少しも良くならないと言っておこう。向こう見ずは愚かだよ」 淡々と語る毒蜂に、一言も言い返せない。 せめてもの反発に、視線を逸らさないでいるのがやっとだった。 しかし、そんなささやかな抵抗など、毒蜂は意に介さない。 それどころか、霧人がこうしてプライドと現実の間で揺れているのを楽しんでいる。 毒蜂にとって霧人は、指先で手慰みに弄んでいるあの一匹の蜂と大差ないのであろう。 或いはもっと希薄な存在として見ているかもしれない。 掌の上で思うままに躍らせて、それでいて最終的には何も求めず、距離を置く。 目的があっての行為でもなく、行為そのものが目的とも言い難い、空虚な関係だ。 愛し子でも見るかのような表情で、毒蜂は暫し指先の蜂と遊んでいたが、蜂を虚空に放ると、霧人に向かい直った。 「おいで、霧人」 その言葉に、全身が小刻みに震える。 逃げ出したいという本音が、頭の中で鳴り響いた。 しかし、毒蜂から発せられる無言の圧力が、霧人の足を止めさせる。 逃げてみたところで、逃げ切れる自信もない。 少しだけ深く息を吸い込み、足を踏み出す。 冷静な仮面を崩さないよう、細心の注意をしつつ、霧人は毒蜂の傍らに歩み寄った。 腰掛けたままの毒蜂を見下ろすと、秀麗な右半分の顔が、優越感さえ漂わせて見上げてくる。 霧人の行動を、圧倒的優位から観察して、楽しんでいるに他ならない。 ただ言いなりになっているのが我慢できずに、逃げないまでも、相手の意に沿わない言葉を捜す。 「毒蜂……そこは私の席なんだが」 「君は本当に面白いな。この期に及んでそんな台詞が出るとはね」 言いながら毒蜂が立ち上がる。 後退することも叶わず、その場に立ち尽くした霧人に、毒蜂の手がゆっくりと伸びた。 行動が予測できずに、石のように強張る霧人の眼前へ、手袋に包まれた毒蜂の手が迫る。 一瞬、視界を白く埋めた掌は、霧人には触れずに優しく眼鏡だけを奪い取った。 「どうせ伊達眼鏡なのだから、かけるのを止めたらどうだい?」 「……私の勝手だろう」 「せっかく綺麗な顔をしているのにねぇ」 器用に眼鏡を指に絡めたまま、毒蜂が霧人の顎に手を掛け、僅かに上向かせる。 「本当に母親似だ」 「……」 それを言われるのが嫌で、敢えて眼鏡をかけているのだ。 母親似の容貌が災いして、幼い頃に性別を間違われて以来、手放したことはない。 何に対してコンプレックスを持つかは、人それぞれだろうし、それをいうなら、毒蜂の方が余程中性的だ。 部分的に欠損しているのが残念でならないと、そう思わせるに十分なくらい整った顔をしている。 誰に似たのか知らないが、周囲に埋没するような容姿ではない。 長く伸ばした髪といい、柔らかい物腰といい、身長こそ高いもののどこかしら異性的な印象を醸し出している。 何より、その紅の唇が――。 「何を考えている、霧人?」 デスクの脇に眼鏡を置いて、からかうように毒蜂が言った。 体を密着させて瞳を覗き込んでくる。 答える気もなく顔を逸らそうとすると、毒蜂の手が顎を捕えてそれを阻んだ。 もう片方の腕が、霧人の腰に回って引き寄せる。 「毒蜂……っ」 「今更、拒絶の言葉は聞かないよ」 霧人の呼吸を奪い取るように、毒蜂が口付けた。 強張る唇をあやすように、何度か軽く触れ、軽く開きかけると深く唇を合わせてくる。 逃げようとする舌は巧みに絡め取られ、毒蜂は霧人の官能を刺激するかのように、口内を蹂躙した。 「んっ……」 息苦しさに空気を求めると、それすらも許さぬ激しさで口付けられる。 しっかりと抱き竦められて、離れることもできず、極度に密着した状態では、腕で突っぱねることもできない。 一方的に煽られて、次第に力が抜けてくる。 痺れるような熱に侵された頭が、思考を放棄し始めた。 与えられる刺激に、応えるつもりがなくとも、体は霧人の意思など無視して、快楽を求めようとする。 いつの間にか、霧人の舌先は自ら動き始めていた。 「っは……、はっ……」 ようやく解放される頃には、体の芯に熱が灯っている。 「これしきのことで感じるとは、随分お手軽な体だね」 「……あっ」 毒蜂の手が霧人の体に沿って下がり、足の間を撫で上げる。 思わず上がってしまった声が、そこがもう反応を見せ始めているという証拠だった。 「こうされることを期待していた、ということかな。下らない会話で、待たせてしまったようだね」 「違う……っ」 否定したところで、何にもならない。 中途半端な拒絶は、逆に誘惑と受け取られるだけだ。 しかし、本気で抵抗しようにも、もう気力の方が萎えていた。 毒蜂の手を待ちわびるように、どんどん熱くなっていく体が、霧人自身を打ちのめす。 敏感になったそこを何度か愛撫され、惨めなくらいあっという間に息が上がってきた。 「あっ……あ……」 「少し我慢したまえ」 「んんっ……え……っ?」 ふいに、そこをまさぐる毒蜂の手が離れた。 霧人の体を拘束したままの、毒蜂の手に力が込められたと思うと、視界が一気に切り替わる。 背中に衝撃が走った。 体が倒される鈍い音と、背に感じた僅かな痛み。 目を開くと、その先には天井が見えた。 床に倒されたにしては、絨毯の柔らかさはそこになく、腰から下は宙に浮いているかのように安定を感じない。 デスクの上に押し倒されたのだと、理解するのに時間はかからなかった。 磨かれたデスクの表面へ、霧人の体を固定するように、毒蜂の両手が肩を押し付ける。 獲物の恐怖を煽るように、ゆっくりと顔を近づけてきた。 これから強いられるであろう行為を思い浮かべて、霧人の瞳に隠しようのない怯えの色が浮かぶ。 肉体はそれを受け入れようとしていても、感情的には納得できるものではない。 霧人の恐怖を見て取ったのか、薄暗い中でも鮮やかな唇が、意地悪く歪んだ。 「く……っ」 その笑みを見ただけでも、霧人の体は小刻みに震えだす。 目を閉じることもできず硬直する霧人を、優しく包み込むように、毒蜂が目許に唇を落とした。 長い髪が、流れるように落ちかかって、霧人の頬をくすぐる。 「こんな時には、目を閉じるものだよ、霧人」 甘く囁きながら、毒蜂が伸しかかるようにして、更に体を密着させてくる。 ともすれば陶酔感さえもたらすような囁きも、優しく触れてくる唇も、霧人にとっては恐怖を煽るものでしかない。 ますます硬くなる霧人に、毒蜂は慈愛さえ感じさせる視線を向け、指でそっと瞼を閉じさせた。 視界を塞がれると、極端に他の感覚が鋭敏になる。 投げ出された足の、肌の表面を布が滑り、その感触の悪さに霧人は竦み上がった。 毒蜂の手が触れたとも思えないのに、服はするりと剥がされ、霧人の下肢はあっけないほど簡単に外気に晒される。 「……っん」 「心配せずとも、君の体に傷つけるような真似はしない。分かっているだろう?」 爪が食い込むほど強く握られた霧人の拳に、毒蜂の手が触れる。 力を抜くよう促しながら、毒蜂は霧人の手を取り、静かに引いた。 ゆっくりと霧人の上体が起こされる。 デスクの上に、行儀悪く座り込む形になる霧人を、毒蜂の腕が静かに抱き締め、耳朶を甘噛みしながら囁いた。 「大切に大切に、犯してあげるよ……気が狂うくらいにね」 白々とした月が、奇妙なまでに明るく見える。 下肢のみを晒す状態で、霧人はデスクに浅く腰掛けていた。 デスクからはみ出した足には、すぐ前に立つ毒蜂の手が掛かり、大きく広げさせている。 上衣の裾も無造作によけられて、見下ろす毒蜂にあられもない姿を曝け出していた。 毒蜂の視線から、肌を隠そうともせず、開かれた足を閉じようともせず、まるで自ら触れてくれと言わんばかりの格好だ。 無論、霧人が望んでこんな姿をしているわけではない。 そんな箇所を見られているだけでも恥ずかしいというのに、既に反応している状態を凝視されている。 羞恥と屈辱とで、どうにかなってしまいそうだった。 そんな霧人を、冷ややかな瞳で眺めやり、毒蜂が笑う。 「いい格好だね」 霧人は、下肢を惜しみなく晒す一方で、上衣はきっちりと着込んだままだ。 襟元を緩めてさえいない。 それが却ってより卑猥な印象を与えている。 揶揄する毒蜂の言葉には答えず、霧人は視線を逸らすように横を向いた。 「少し聞き分けが良くなったと思ったが……そうでもないらしいな」 「ん……っ、ああっ」 勃ち上がりかけたそれを、毒蜂の手が扱き上げた。 掌で擦り上げ、知り尽くしたかのように指を絡める。 「やぁっ……はっ、ああ……あっ!!」 ひとしきり喘がせると、毒蜂は霧人を絶頂までは責め立てず、手を引いた。 「それだけ感じているというのにねぇ」 軽く溜息をついて、毒蜂が背後の椅子を引き寄せた。 まるで行為に飽きたかのように腰を下ろし、淫らな姿のままの霧人を眺めている。 「まぁ……いい眺めだし、ずっとこのままでも、それなりに楽しめるがね」 「毒蜂……っ」 「冗談だよ」 身じろいだ霧人に、意地の悪い笑みを浴びせ、毒蜂が背凭れに預けた背を離した。 ゆっくりと伸ばされた手が霧人の内股を撫で上げ、中枢を微妙に外して刺激を与えてくる。 「……っ、ん」 「もうこんなに濡らして……」 「あ……んんっ!!」 毒蜂の指先が、溢れた液を掬い上げた。 鋭敏な先端への刺激に、一気に快感が背筋を駆け上がり、思わず高い声が漏れる。 霧人の視線の先で、毒蜂の白い指先が揺れた。 手袋を汚したそれは、布に吸収しきれず、滴りそうになっている。 指先はゆっくりと霧人から遠ざかり、紅の唇から僅かに覗いた舌が、それを舐め取った。 霧人の視線が、鮮やかな唇に吸いつく。 心臓が跳ね上がった。 「な……っ」 「悪くない」 「何をっ、毒蜂……っ!!」 後ろに下がろうとした霧人の腰を、一瞬早く毒蜂の腕が捕え、次の瞬間、霧人は下肢から生じた強烈な刺激に仰け反った。 生暖かいものが、潤んだそこをなぞっていく。 「や……やめっ、やだ……っ!!」 そこに顔を埋めた毒蜂を引き剥がそうと、霧人がその肩に手を伸ばす。 腕に力を込める前に、ねっとりと舐め上げられて悲鳴を上げた。 「ああっ……!!」 「暴れると怪我をするよ」 「あっ、ああっ……毒蜂っ、やめろ……っ、そ……んなっ!!」 制止の声など、聞き入れてくれるはずもなく、毒蜂は霧人のものを舌で嬲り始めた。 全体をくまなく舌でねぶり、特に敏感な部分を執拗に責める。 快楽を主張して、漏れ出る体液は、霧人の肌を伝いデスクにまで滴っていた。 「やだ……や…だ…ぁ」 うわ言のように、霧人は拒絶の言葉を繰り返す。 しかし、霧人のそれは毒蜂から与えられる刺激に、歓喜の声で応えるが如く熱を帯びていた。 はちきれんばかりに滾り、舌が蠢く度に震える。 やんわりと歯を立てられて、しかし、それすらも霧人の官能に火をつけた。 「あぅ…っ、んんっ!!」 「霧人」 呼ばれてそちらに視線を向ければ、紅い唇が霧人のものを含み、飴でも転がすように舌が絡みついた。 「あああっ!!」 視覚に飛び込んだ光景が、ますます興奮を誘う。 女のように紅い唇が、自分のものを含み、責め立てている。 そう知覚するだけで、羞恥と屈辱に勝る妖しい感覚が、体を焦がす火に油を注いだ。 毒蜂もそれと分かっていて、そんな行動をしているに違いない。 見せつけるように、毒蜂は霧人のものを深く咥えこんだ。 「んぁ……、は……ああっ!!」 含まれ、舌で刺激されて、時折強く吸い上げられる。 脳髄を溶かし尽くすような甘美な刺激に、拒絶の言葉は次第にただの喘ぎ声へと変わっていった。 禁欲的な外観をした執務室に、肉欲に飲み込まれた嬌声が響く。 清浄な月明かりで、床に刻みつけられた霧人の影は淫らにうねり、そこに享楽の世界を描き出していた。 「ど……毒蜂……っ、もうダメ……だ、よせっ……」 苦しい息の下から、霧人が哀願する。 限界は近い。 あとほんの少し弄られたなら、達してしまうだろう。 口内で放つのを嫌がって、霧人が頭を振りつつ訴える。 「これ以上は……もうっ」 そんなささやかな願いも聞き届けられず、毒蜂はますます激しく霧人を追い詰めた。 「や……っ!!」 息が上がる。 嬌声はますます高く響き渡った。 唇を噛み締めても、快感の喘ぎがそれをこじ開け、血が出るほどに拳を握ってみても、与えられる感覚をやり過ごすことなどできるはずもない。 霧人の体は、熱を吐き出す場所を求めて、荒れ狂っていた。 「んっ……んんっ!!」 陸上げされた魚のように、体が跳ねる。 毒蜂が喉の奥で笑う。 思わず目を向けると、氷のような瞳とぶつかった。 熱に溶けた体さえも凍らせる瞳と、その冷たさとは対極を為すような唇。 ぞくりとするような感覚が、背筋を這い登った。 そこを狙い済ましたかのように、毒蜂が霧人のものを強く吸い上げる。 「!!」 霧人の背がしなる。 襲いかかる快感の波を、耐え切ることはできず、霧人は達した。 「……ぁ、はぁ……っ、はっ……」 快感の余韻に翻弄されながら、霧人は途切れ途切れに息を吐き出し、脱力した。 熱い波はすぐには去ってくれず、全身を甘く痺れさせたまま、渦巻いている。 濁った視界に、毒蜂の顔がぼやけた。 そのくせ、鮮やかな紅だけがはっきりと脳髄に刻み込まれる。 近づいたと思った瞬間、唇に柔らかいものが触れた。 「ん……」 歯列を割って毒蜂の舌が侵入し、それと同時に、霧人は異質なものを舌先に感じた。 生理的な嫌悪感をもたらす、粘着性のある何か。 霧人の目が、大きく見開かれる。 「んん……っ、ん……む……っ!!」 それが何であるかを理解して、霧人はまだ痺れの残る体をよじって、毒蜂から逃れようとした。 しかし、霧人の抵抗を嘲笑うように、毒蜂の腕はしっかりと暴れる体を抱き締め、顔を逸らすことさえも許さない。 更に抵抗を塞ぐように、毒蜂は霧人の上体をデスクに押し倒し、貪るように口内を荒らし回った。 ねっとりとした液体が、霧人の喉の奥に流れ込んでくる。 そんなものが、こんな形で体内に入ろうとしている――そう思うだけで、嫌悪以上に恐怖が頭を占めた。 しかし、力の限り暴れてみても、毒蜂を引き剥がすことはできず、飲み込むのを拒否しようとすれば、侵入してきた舌がその邪魔をする。 「う――……っ!!」 くぐもった叫びと共に、霧人の体が強張った。 「ぐっ……、っは、げほ……っ」 「自分の味はどうだい、霧人?」 ようやく解放した毒蜂の下で、霧人は身を縮めて咳き込んだ。 気持ちが悪い。 口内に残る感触も、独特の臭気も。 嘔吐感が、胸の辺りからせり上がってくる。 「悪くないだろう?」 嚥下しきれずに、霧人の口の端を伝う体液を、指先で掬い上げて毒蜂が笑う。 耐え切れずに涙の滲んだ目で、霧人は毒蜂を睨みつけた。 吐精を強いたばかりか、それを飲み込むことまで強要して、今またそんな台詞を浴びせるのか。 「毒蜂……」 「ああ、その目がいいね」 悪気など全くないといった口調だ。 毒蜂にしてみれば,これらの行為は、気紛れから生じた戯れでしかないのだろう。 「そんな瞳で誘ってくるということは、まだまだ余裕があるというわけか」 「誘ってなんか……。毒蜂っ!!」 言い終わらぬうちに、毒蜂の手が霧人の足首に伸びて、片足を掴み上げた。 達したばかりで力の入らない足は、あっけなく毒蜂の肩に抱え上げられる。 拒む余裕さえも与えられない。 溢れた体液と唾液とで濡れた箇所も、もっと奥まったところまでも、容赦なく毒蜂の視線に晒される。 熱さえ篭らない毒蜂の目が、霧人のそこを舐めるように凝視した。 霧人の情欲を煽るだけ煽っていながら、毒蜂自身は欲の片鱗さえ見せない。 快楽に飲まれる霧人を、冷笑しながら見下している、それだけだ。 そんな瞳で見られているというのに、霧人の肉体には再び熱が灯り始める。 悪寒さえ覚えるような、そんな底知れない視線に晒されているというのに、体は何故興奮してしまうのか。 こんな時に限って、肉体という器は、どこまでも霧人を裏切り続ける。 いっそこの肉体を捨ててしまいたいと、そんな思いさえ頭をよぎった。 「く……っ」 「見られているだけで感じるのかい?」 「そんなわけ……っ」 「否定の言葉は説得力を持たないね。……ほら」 「ああっ……ん」 毒蜂の指先が入口を軽く刺激した。 肉を割って入り込んだわけでもないのに、霧人の口からは高い喘ぎ声が漏れ、一度放って萎えたそこは、もう硬さを取り戻し始めている。 与えられるであろう快感を期待するように、ひくつくそこを見下ろして、毒蜂が僅かに笑い声を響かせた。 「とても欲しがっているよ。君に見せてあげたいくらいだ」 「う……ああ、あ……あ」 ゆっくりと、抉るように指が侵入してくる。 これから、より時間をかけて、そこを嬲られるのだ。 毒蜂の気が済むまで、何度も何度も。 許しを乞うても、恥を捨ててねだっても、毒蜂は手を緩めてはくれないだろう。 穏やかな快楽と、狂いそうな悦楽と、それらが混在し霧人の体も精神も犯し尽くす。 「もう慣れたものだね」 「うあっ……やぁ……っ」 毒蜂の指を根元まで飲み込んで、霧人がよがる。 ほんの少し毒蜂の指が肉壁を擦るだけで、恐ろしいほどの刺激が体内を駆け巡った。 指はまだ深い行為に及んでおらず、そこを緩めようと蠢いているだけだ。 その中にある、最も弱い部分にはまだ触れようともしていない。 それなのに、もう気が狂いそうになる。 指先がそこを執拗に弄び始めたら、どうなってしまうか分からない。 情交を重ねる度に、異常なまでに感度が上がっていくような気がする。 刺激を快楽として受け止めるよう慣らされ、微細な感覚にも反応するよう覚えこまされ、毒蜂の望む形に導かれた。 目覚めてしまった官能は、少しのきっかけで発現するようになり、もう忘れ去ることなどできないに違いない。 霧人の不安など意にも介さず、増やされた指はゆるゆると刺激を与えながら、丁寧にそこを広げていく。 次第にそこは緩み、それと同じ流れで、霧人の思考も溶けた。 知り尽くした指先は、苦痛を最小限に、快楽を最大限に引き出し、霧人を酔わせる。 時間の感覚も既にない。 まるで永劫とも思われる時を、こうして嬲られているかのような錯覚を覚えた。 「はっ……、はぁ…っ」 「君のここは、もう指だけでは満足できないだろう?」 毒蜂の囁きが遠く聞こえる。 蕩けた脳は、その言葉を理解するのに、かなりの時間を要した。 「……っ」 ようやくその意味を解し、瞬時に霧人の体が強張る。 指先の愛撫のみで終わらせるつもりはないと、そう予告されたに等しい。 何をされるのか、かつて行われたことを思い返して、霧人が震える。 無機物でそこを限界まで広げられ、掻き回されて――またあの感覚を味わわされるのだろうか。 霧人の中の感触を楽しむように蠢いていた指が、あっさりと抜かれた。 「かといって、君の大事なここに変なものを突き入れるわけにはいかない。大切に犯すと約束したことだしね」 「な……っ、何をっ!?」 「心配することはない。性交を目的として使う物だ」 「!!」 暴れようとして、体がまったく動かないことに気がつく。 こんな時でさえも、侭ならないのか。 指先一つ動かせない。 声を上げることもできない。 何かをされたわけでもないのに、肉体が意思に従ってくれないのだ。 恐怖が体を竦ませてしまったのだろうか。 或いは、与えられる行為をどこかで期待しているのか。 ふと浮かんだ考えを、あり得ないと否定する。 そんなはずはない。 いつだって、この行為は全て嫌悪の対象であったはずだ。 「力を抜くんだ、霧人。……ああ、言うまでもなかったようだね」 己の体と心への不信に、愕然とする霧人を見下ろして、毒蜂が笑みを浮かべる。 毒蜂の目からは、霧人が完全に諦めの境地に達したと、そう見えることだろう。 事実、霧人の肉体は弛緩して、行われる全てのことを享受しようとしている。 慣らされたそこに、異物を押し付けられても、霧人は抵抗しようとはしなかった。 男性器を模したものが、肉を割ってめりこんでくる。 「あ……ぁ」 毒蜂は性急にことを運ぼうとはせず、殊更ゆっくり奥へとそれを進める。 霧人を傷つけまいとしているのか、或いは時間をかけることによって、より強い屈辱感を与えようとしているのか。 潤み解れたそこは、ひくつきながらも侵入を拒みはせず、異物を飲み込んでいく。 「あはぁ……っ」 犯されている、その思いが強烈に湧き上がってくる。 指とは比較にならない質量を持ったものが、そこを押し広げ、奥深くまで霧人を貫いた。 圧迫感に、浅い呼吸を繰り返す。 体が熱い。 溶け崩れてしまいそうだった。 汗を吸収した中国服は、霧人に重く伸しかかり、枷のように纏わりつく。 「気に入ったかい?」 「あうっ……!!」 霧人を刺し貫くそれに手を掛けて、毒蜂がゆるゆると蠢かす。 まるで自分の一部を埋め込んでいるかのように、的確に霧人の敏感なところを探し出し、そこを刺激し始めた。 霧人の体が大きく震える。 顎を仰け反らせて、白い首筋を晒し、霧人は体内を暴れまわる快楽に翻弄された。 「……ひ、あっ、あっあ……っ!!」 何度か霧人を喘がせた後、毒蜂は唐突に手の動きを止めた。 「……?」 焦らされるのかと、不安げな瞳を向ける霧人に、紅の唇が非情な言葉を吐いた。 「そういえば電動式だったね。この感覚も味わってみたいだろう、霧人?」 霧人の目が見開かれる。 今でももう達してしまうそうになっているのに、これ以上の刺激を与えられたら、本当に狂ってしまいそうだ。 震える唇が、喘ぎ声以外のものを送り出した。 「毒蜂っ、それだけ……は」 「怖がることはない。気持ちいいだけだよ」 「頼む。それは……それだけはっ……」 言いながら、聞き届けてなどくれないと、頭のどこかで分かっていた。 これまで、毒蜂が霧人の願いを聞き入れて、行為を中断してくれたことなどない。 聞き分けのない子供を諌めるように、毒蜂は小刻みに震える霧人の唇を、指先でそっと塞ぎ、その指はそのまま霧人を犯す物のスイッチへと移動した。 指先の動きが嫌に遅く見える。 心臓が煩いくらいに鳴った。 それなのに、どうしてこの体は逃げようとはせず、そそり立ったままのものは、待ちわびるように滴を溢れさせているのだろうか。 薄く笑って、毒蜂がスイッチを押した。 「―――っ!!」 未知の感覚に、頭が真っ白になる。 恥も外聞もなく、霧人は高い嬌声を上げ続けた。 反響する声は、喘ぎというより悲鳴に近い。 しかし、その中にははっきりと、悦楽の色が浮かんでいた。 頭を激しく振って、涙さえ流しながら毒蜂に懇願する。 「毒蜂……っ、毒蜂、やめ……抜い……て」 「その割りには、嬉しそうに咥え込んでいるが?」 「あああっ!!」 自分自身をどうすることもできなくて、思わず霧人の手が、勃ち上がった自分のものへと伸びる。 毒蜂の目の前で自慰を晒すことになろうが、もうそんなことはどうでも良かった。 気持ちがいいどころのレベルではない。 霧人を壊さんばかりの、恐怖さえ覚える悦楽だった。 もはや目の前にいる毒蜂の存在さえ感じない。 感覚の全ては快楽に支配され、それを限界まで貪り、消化させることしか頭になかった。 はちきれんばかりに滾ったものは、内に溜まった欲望を吐き出したいと叫んでいる。 ほんの少しの刺激を与えただけで、達してしまうだろう。 「はしたない真似は止めたまえ」 指先がそれに届くか届かないか、その瞬間に霧人の手は振り払われた。 「毒蜂っ、い……いか……せ、いきたい……っ」 尚も手を伸ばすと、毒蜂の手がその両の手首をまとめて掴み上げた。 力の入らない手は、いとも容易く毒蜂の片手に拘束される。 髪を振り乱し、腰をくねらせて霧人がねだる。 「離……せ、もう……も、あああ……ん」 「ここだけで十分なはずだよ」 振動を続ける異物を、毒蜂が軽く揺さぶった。 「やぁあ……っ!!」 「愛しいとさえ思えてくるね、可愛い霧人……」 「んっ……!!」 瞬間、霧人が息を詰める。 ひときわ仰け反った体が白濁した液を吐き出し、間を置かずして霧人は意識を失った。 「趣のない部屋だが、月を愛でるには最高の場所だ。そうは思わないかい?」 詠うように紡がれた声音が、妙に心地良い。 まるで、氷細工の笛を鳴らすように、淡雅で幻惑的な、それでいてどこか空虚な声。 うっすらと覚醒した霧人の耳に、穏やかな声が流れ込んだ。 目を開けると、窓の外にある月は大分地平の方へと位置を変え、それでもまだ晧々と光を送り続けている。 椅子に腰掛けた毒蜂は、霧人に背を向け、風流にも月見を楽しんでいるようだった。 「……」 「月を愛でる余裕もないようでは、先が思いやられるね」 「……興味ない」 短く答えて、起き上がろうとする。 気怠さが全身を侵し、体を上手く動かすことができない。 自分が今、どういう状態にあるのかを把握するのも時間が掛かる。 霧人は、怯える子供がそうするように、デスクの上で四肢を縮めて横たわっていた。 快楽は既に去り、残るのは疲労ばかりだ。 下肢に感じる、拭いきれない感触が、情事からまだそれほど時間が経過していないことを物語っている。 一度意識を失って、覚めてはまた嬲られて、何度達したのかも覚えていない。 起き上がろうとして、腕に力を込めた霧人の目の前に、鈍い音を立ててある物が転がった。 「……」 「気に入ったようだから、あげるよ」 濡れそぼったそれは、先ほどまで散々霧人の中で暴れ回っていた物体だった。 「……と言っても、私の物ではないがね。何なら君から返しておいてくれるかい?」 「何……?」 「こういう物は、仕舞い忘れないようにすることだ。そう母君に伝えてくれないか?」 「――っ!!」 頭に血が上った。 痺れる体に構わず、それを荒々しく掴み上げて、毒蜂の背中に力の限り投げつける。 しかし、毒蜂目掛けて飛んだそれは、あっけなく避けられて、窓にぶつかった。 ガラスに僅かな傷をつけたそれは、毒蜂の平静を欠片ほども崩すことができず、虚しく床に転がる。 「噛み付いてくるのなら、公の場にしたまえ」 振り向きもせず、毒蜂が言う。 死角にいる霧人に対して、髪一筋ほどの警戒もしていない。 投げつけた手を戻して霧人は俯いた。 言われるまでもなく、分かっている。 一対一で勝ち目のある相手ではない。 策士の属性を持つなら、自分にとって一番有利な場を見極めるべき、暗にそう言われているのだろう。 「霧人……」 微かな衣擦れの音が響いて、毒蜂が立ち上がった。 あまりに見事な月は禍々しい力を持つというが、振り返った毒蜂の瞳には、同質ものが感じられる。 すぐ近くまで歩み寄った毒蜂が、不可思議な表情で霧人を見下ろし、手がゆっくりと霧人に伸びた。 愛撫するかのように、指先が首筋を撫で、次いで両の手が霧人の首を包み込む。 毒蜂の唇が、何事かを呟いたように見えた。 聞き取れないそれは、睦言なのか呪詛なのかも分からない。 魅入られたかのように、体が動かない。 唇の紅が、残照で染まった空を思わせる。 血の色だと、瞬時にそう思った。 視界が紅に占められ――ふいに掻き消えた。 何も見えない。 月明かりが、遮られたのだと理解するのに、数秒を要した。 ビルの上階で、街の灯りが届かぬこの部屋は、こんな時には圧倒的な暗闇に征される。 それと同時に、首に掛かった温もりが消えた。 「飽かなくに未だきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ――といったところか。この場合は山ではなく雲だが」 静寂の闇の中、毒蜂の声だけが穏やかに響く。 いつの間にか、厚い雲が夜空を侵蝕し、その手は輝く月にまで及んでいたようだ。 見渡せない暗黒の中、微かに溜息が聞こえたかと思うと、唇に暖かいものが軽く触れ、甘い囁きが漏れた。 「では帰るとしよう。気が向いたらまた来るよ。月と君を愛でにね……」 言い返す言葉さえ思い浮かばず、霧人は遠ざかる気配をただ感じていた。 物音はしないが、毒蜂が出て行ったのが、何となく分かる。 一人取り残されて、霧人は覚束ない足で、ようやくデスクから降りた。 手探りで、デスクの脇にあるパネルを探す。 スイッチを押すと、部屋の照明が一斉に灯った。 眩しさに目を眇めながらも、人工的な光が、安心感をもたらす。 目が光に慣れたところで、今しがた毒蜂が指先でなぞった首筋に、自分で触れてみた。 同じように指先で、くすぐるようにそこに指を這わせる。 ただ触れていただけでなく、何かしら暗示めいたものを感じた。 あのまま月が隠れなかったなら、毒蜂の手に絞める力が加わるのではないかと、そうも思ったのだが、杞憂だったのだろうか。 「……?」 あることに気がついて、霧人が顔を顰めた。 「何もかも嘘ばかりだ……」 毒蜂の指先が、慈しむように触れたその場所は、寸分違わぬ急所を示していた。 |