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その日本家屋は、傍目にも裕福そうだった。

門構えといい、その狭間から覗く和風庭園といい、風流を解さぬ者でも、思わず目に留めてしまうほどの、立派な邸宅である。

その雅な外観は、そこに描き出されるであろう人間の姿をも、容易に想像させることができた。

おそらく季節によっては、着物で着飾った婦人たちが、お茶会と称して集ったりもするのだろう。

上品に笑いさざめく女性たちの光景が、すぐにも浮かんできそうだった。

庭園は、春は花の庭に、夏は深緑の庭に、秋には紅葉の見事さで人を酔わせ、冬には水墨画の世界をそこに描き出す。

四つの季節の、それぞれの麗しさを、完璧なまでに演出できる庭だ。

日々少しずつ変わっていく風景の、どれもが素晴らしいものであるに違いない。

しかし今、その典雅な邸宅を包んでいるのは、どうにも生気の欠けた辛気臭い空気であった。




重々しい表門ではなく、まさに日陰の存在といった裏口にトラックを着け、馬車は運転席から塀の向こうへちらりと視線を送った。

燦々と照る真昼の日差しに、屋敷を囲む白壁は眩しいくらいに輝き、何故かその潔癖さが、来る者を拒んでいるかのように見える。

約束の時間まで、あと数分。

すぐにも出発できるよう、エンジンを切らずに待つ。

依頼内容は既に確認済みであり、荷物さえ受け取れば、この場で依頼人と語ることはない。

指定された時刻までの短い時間、待つ以外には特にすることもなく、馬車はただ依頼人の邸宅を眺めていた。

豪奢な邸宅を守る壁は高く、車高の高いトラックの運転席からでも、屋敷の屋根がほんの少し見えるだけに留まる。

屋敷の全貌はもとより、その奥に何があるのかを、外部の者に見せようとしない。

しかし、例え要塞のように堅固な塀であっても、そこから漏れてくる空気を隠しきれるものではなかった。

ふと視線を転じてみると、裏口の両脇には、ひっそりと御札が貼ってある。

何事もなくてこんな真似はしない。

おそらく、何か異変が起こっているのだ。

詳しい事情など到底知ることはできないが、その異変こそが、今回の仕事に繋がっているのだろう。

馬車は感覚が鋭い方ではないが、こうした物を見せられると、それなりに薄気味悪くもなってくる。

基本的に、信心深いとはお世辞にも言えない性格だが、まるっきり信じていないわけでもない。

『あるかもしれないが、どうでもいい』と、いったところだろうか。

自分で見たことも感じたこともないのだ、他人の話を鵜呑みにして、幽霊やら心霊現象などを信じ込むことはできない。

だが一方では、そうした超常的な世界を垣間見る人間が、いてもおかしくないとは思っている。

心霊現象に限らず、己の目に見える世界だけが全てではない。

同じ世界を、全く違う目で見ている者もいる。

例えば、隣に座る人物のように。

「時間だな」

「そうですね」

馬車が時計を見やって呟くと、それまで身動き一つせずに助手席に収まっていた影が、ゆったりと動いた。

気怠げに右手が上がって、帽子の鍔を上げる。

白い貌が現れ、次いで現れた切れ長の目が、静かに前方を見据えた。

深淵に狂気を潜ませた瞳は、不透明なガラスのような色をして、感情を浮き上がらせようとしない。

歪んだ鏡には、歪んだ光景が映し出されるように、この瞳にも不可思議な景色が映し出されているのだろう。

死神の見つめる世界が、普通の人間と同じであろうはずがない。

「では、受け取りに行くとしますか……」

帽子を被り直して、赤屍が腰を上げる。

人形のように涼しげな顔からは、屋敷に渦巻く異様な空気を、感じ取っているかどうかも分からない。

だが、驚異的なまでに感覚の鋭い赤屍のことだ、奇妙な気配にはとっくに気づいているだろう。

それでいながら、特に何の反応もないということは、取るに足らないものでしかないと、そう判断しているに違いない。

一欠片の警戒心も見せず、赤屍はするりとトラックから出ていった。

ドアが開いて閉まるまでの短い時間、耳をつんざくような蝉の鳴き声が車内に流れ込み、外の暑さを実感させる。

天気予報では、快晴と共に気温の上昇を伝えていたが、これでは予報以上に暑くなりそうだ。

日差しが強いせいか、赤屍の姿がいつにも増して際立っているように見える。

帽子が、コートが、そして風に微かになびく黒髪が、光の中では一際濃く見えて、まるでこの世の闇を全てそこに凝結させたかのようだ。

周囲の風景に溶け込むことのない姿は、人ならざる魅惑的な雰囲気を備えて、どうしようもなく視線を引きつける。

赤屍が裏口の正面に立つと、それを待ち構えていたかのように引き戸が開いた。

女中だろうか、質素な着物に前掛けをつけた若い女性が、小柄な体には不似合いな、大きな包みを持って出てくる。

険しい表情をしているのは、裏社会の者などと顔を合わせなければならない不快感だろうか。

しかし、赤屍が軽く会釈すると、女の表情はたちまち和らいだ。

おそらく、ヤクザ一歩手前のような、強面の相手が来ると予想していたのだろう。

そこに赤屍のような、一見優男に見える人物が現われて微笑してみせれば、拍子抜けするばかりか、嫌悪とは逆の思いを抱いてもおかしくない。

案の定、女が赤屍の見てくれに対して、多少なりとも好意的な感情を抱いたのが、車の中から見ていても分かる。

だが、それも一瞬のことで、女は表情を改めると、押し付けるように赤屍に包みを手渡した。

挨拶も、荷物に対する説明もない。

何一つ言葉を交わすことなく、女は忌むようにそそくさと中へ入ると、荒々しく扉を閉めた。

「怪談ドラマのようじゃのう……」

フロントガラスの向こうで展開された光景を眺めながら、不謹慎とも取れる言葉を呟く。

馬車が実際にドラマを見ることなど滅多にないが、まあ、こんなものだろう。

これで女中が、さっきのような若い女でなく、皺の寄った老婆だったなら完璧だ。

受け取った包みを小脇に抱えて、赤屍が戻ってきた。

先ほどの女中が手にしていた時には、随分大きく奇妙な物に見えていたが、赤屍が無造作に抱えていると、何とも小さく粗末な物のように思える。

特に変わった素振りも見せず、赤屍は助手席に乗り込むと、包みを膝に置いた。

「一応、中を確認しますか?」

「ああ」

気味悪がっている様子など微塵も見えず、赤屍の手が器用に包みを解いていく。

縮緬の布を取り去ると、古めかしい木箱が姿を現した。

何の変哲もない木箱だが、強いて特徴を上げるとすれば、蓋の隅に何かを削り取った形跡がある。

どんな理由があってそんな真似をしたのか、すっかり削られてしまった表面には、辛うじて『子』という文字だけが読み取れた。

持ち主の名前か、或いはこの箱に入っているものの名前だろうか。

赤屍があっさり蓋を外し、二人の視線はその中に注がれた。

「仲介屋の話そのままですね」

「市松人形か」

艶やかな黒髪に愛らしい子供の顔。

典型的な市松人形だ。

だが、人形の命ともいうべき顔の表面には、無残にも切りつけられたかのような傷があった。

傷はかなり深く、額から顎までを一文字に、やや斜めに走っている。

「これといって特徴もない、ただの人形ですよ」

「特徴ならあるじゃろうが」

つまらなさそうに語る赤屍に、やんわりと指摘する。

仲介屋の話を、ちゃんと聞いていなかったのだろうか。

姿形はともかくとして、その人形には、非常に有難くない特徴があった。

「祟るとかいう話ですか……。あまりに俗な話なので、忘れていましたよ」

赤屍にとっては、週刊誌の芸能情報なみに、全く興味のない話らしい。

「もう少し面白い裏話が欲しいところですね。人形の体内に高級なドラッグでも隠されているとか……」

「相変わらずじゃのう」

物騒なことを言いながら溜息をつく赤屍に、馬車が憮然として答える。

なるほど、赤屍にとってはそうした展開になった方が、よほど楽しめるだろう。

こんな人形を運んだところで、襲いかかってくる者などいるはずもない。

「お前にとっては、退屈な仕事になりそうだな」

「どうでしょうか」

赤屍は木箱をきっちり元通りにすると、体を捻って、それを適当に後ろのスペースへ置いた。

荷物に対する扱いが、普段の荒っぽい事情を抱えた時とは、あからさまに違う。

今のところは平常の赤屍だが、いつ退屈に耐え兼ねて、機嫌を損ねるやら微妙なところだ。

最悪、途中で仕事を放棄することも考えられる。

「出すぜよ」

これは早々に仕事を終了させた方が良いだろう。

赤屍がゆったり座席に凭れるのと同時に、馬車はアクセルを踏み込んだ。





いたって簡単な今回の仕事は、本音を言えばあまり好ましいものではなかった。

人形を寺まで運ぶという、ただそれだけの仕事である。

その過程で、邪魔をする者がいるでもなし、横取りしようとする者がいるわけでもない。

馴染みの仲介屋から呼び出されて、その話を聞いた時、馬車はあっさりと断った。

裏社会の運び屋を、わざわざ雇うような仕事とは到底思えなかったのだ。

しかも、馬車は荒事専門で、運び屋業界の中ではトップクラスに位置している。

提示された金額はともかく、そんな内容の仕事を、馬車に持ってくるのは見当違いだろう。

簡単な仕事こそ、稼ぎの少ない格下の連中に回してやらねばなるまい。

彼らにとっては、こうした時こそ自分らの名を売る絶好のチャンスであり、既に立場を確立している馬車が手を出してしまっては、市場の独占とも取られ、諍いの元だ。

馬車の即答に、よれたスーツにボサボサ髪の仲介屋は、納得したように肯いた。

しかし、長年この職で食ってきた者が、それくらいであっさり引き下がるわけもない。

仲介屋は土下座しそうな勢いで、「そこを何とか」と食い下がってきた。

よくよく話を聞くと、他に頼める者がいないという。

仲介屋が、運び屋にその依頼を伝えるのは七回目だった。

これまで六件、いずれの運び屋も失敗しているというのだ。

迷うはずのない道で迷ったり、見通しの良い道路で事故を起こしたり、一番不可思議なパターンとしては、目的地には着いたものの肝心の人形が行方不明になっていたというものだ。

どういう作用が働いたものか、行方不明になったはずの人形は、いつの間にか依頼人の家に帰ってきていたらしい。

お祓いをしても、霊験あらたかな札を貼ってみても、特に効果は見えなかった。

そんなことがあって、誰も彼も匙を投げてしまい、結局その依頼は、馬車に回ってくることになったのである。

そして今、馬車のトラックには例の人形と、それ以上に奇妙な存在が乗っていた。

「奇妙な話ぜよ」

「ありがちな話ですよ」

「人形のことだけじゃないきに」

人形にまつわる数々の逸話もそうだが、今、赤屍が助手席に座っているということの方が、よっぽど不可解かもしれない。

馬車は仲介屋に丸めこまれてしまったわけだが、赤屍は何故ここにいるのだろうか。

誰よりも仕事内容にこだわる赤屍こそ、こんな依頼を引き受けるとは思えない。

ハンドルを握りつつ横目で隣を伺うと、赤屍は帽子の鍔を下げたまま、まるで眠っているかのようにシートへ身を預けている。

返事が返ってくるからには、一応寝てはいないようだが、いつものような緊張感は見当たらない。

「お前は断ると思ったが」

「その言葉、そのままお返ししますよ」

「泣き付かれたか?」

「泣き付かれたんですか?」

馬車の場合は、仲介屋から泣いて縋られ、依頼人からも直々に頭を下げられ、断れなくなった手合いだ。

だが、赤屍にはそんな手段が通用するはずもなく、しかし、それならば何故ここにいるのかが疑問だった。

例え報酬額を釣り上げても、赤屍は自分の条件に見合う仕事以外は引き受けないだろう。

「付き合いの関係じゃ。お前はそんなのどうでも良かろう?」

「化物の処理は、化物に任せるのが一番。……そう言われました」

穏やかな声がさらりと告げた台詞に、背筋を冷たいものが走り抜ける。

この赤屍に対してそんな口を叩くとは、命知らずな人間もいたものだ。

人を殺すことに何の躊躇いもない相手だというのに、仲介屋は身の危険も判断できないくらい、切羽詰まっていたのだろうか。

「ついでに、居心地の良い助手席を用意すると言われましてね」

薄く笑いながら、赤屍が帽子を上げて視線を流してきた。

確かに赤屍なら、幽霊だろうが心霊現象だろうが、こんな微笑を浮かべながら切って捨てそうな印象ではある。

仲介屋の目の付けどころは悪くない。

しかし、と馬車は思った。

仲介屋の手腕に感心すると同時に、憤りも覚える。

赤屍の台詞から察するに、馬車のトラックは、この黒衣の死神を引っ張り出すための餌か。

仲介屋があれほど必死に頼み込んできたのは、裏にそういう狙いがあったからだったというわけだ。

「……」

「不満ですか?」

仲介屋の目的が、赤屍一人にあったわけではないだろうが、馬車としては利用されたようで釈然としない。

頭の中で、あの仲介屋の名前を仕事相手のリストから削除しつつ、馬車は答えた。

「……ま、お前とよく組んでいると、こういうこともあるからのう」

「私の方がオマケですよ。居るだけで良いとのことですから」

「そう言われて、よく引き受けたな」

「提示された条件が、非常に魅力的でしたので……ね」

赤屍がシートに背中を委ねて、心地良さそうに目を細めた。

仕事というよりドライブを楽しみにきたのだと、その姿勢が語っている。

この有様では、仲介屋に言われた通り、赤屍は何もする気がないに違いない。

何となく嫌な予感を抱えながら、馬車はスピードを上げた。





人形を運ぶという他は、依頼人から特に何の注文もなかった。

時刻指定があるわけでも、妨害する相手がいるわけでもない。

急ぐ理由も思い当たらず、運び屋としての仕事で見せるハイスピードを控えたまま、馬車はごく普通にトラックを走らせた。

物足りないことこの上ないが、『ミスターノーブレーキ』の異名の通りに車を転がしたところで、何にもならない。

穏やかな時間の流れる午後だ。

都市の中心ならまだしも、郊外の道路は混雑どころか、車の姿も人の姿もまばらである。

目的地までの距離を考えると、ゆっくりしすぎても今日中に余裕で到着できるだろう。

柔らかい日差しが降り注ぎ、欠伸が出るほど平和な道が、ただひたすら続いている。

こんな日は、ドライブやピクニックを楽しむ者が多い。

川辺りや高原は、多くの家族連れで賑わっていることだろう。

そして、助手席に座る人物も、一応この状況を楽しんではいるようであった。

走り始めの会話以降、まったく口をきいていない。

それもそのはず、しなやかな黒い影は、規則正しい振動に身を任せたまま、夢の世界を漂っているようであった。

帽子の角度のせいで顔は見えないが、その体の弛緩した具合から、すっかり寛いでいるのが分かる。

その姿に、縁側で寝そべっている黒猫のイメージが重なった。

赤屍がここまでやる気がないという図は珍しい。

元々、荒事の絡まない仕事は引き受けないのだから、仕事中にこれほど警戒を解くことはあり得ないのだ。

おそらく赤屍の中では、今が仕事中であるという認識など、とっくの昔に消え失せてしまっているのだろう。

どんな仕事であれ、最低限の責任を果たそうとする馬車にとって、赤屍の仕事に対する姿勢は、お世辞にも誉められたものではないが、咎めたところで聞く耳持たずだ。

赤信号でトラックを停め、馬車はちらりと助手席に視線を送った。

赤屍はゆったりとシートに凭れ、ぴくりとも動かない。

ひょっとすると、仕事が完了するまでこのままかもしれなかった。

どこまでも自己中心的なパートナーに、馬車は半ば諦めの境地に達しながら、発車させると同時にクーラーを切った。

相手はあの赤屍であり、気を使うことなどないのだが、一応だ。

本格的に寝ているとすれば、車内をあまり冷やしすぎるのはよくない。

コートを着ているとはいえ、睡眠中の人間はあっという間に体を冷やす。

しかし、と馬車は道路の先に目を凝らした。

遥か先の景色が、水面に写った光景のように、ゆらゆらと揺らいでいる。

逃げ水が見えるということは、外は相当気温が上がっているはずだが、その割に車内はそれほど暑いと感じない。

それどころか、涼しいとさえ思える。

おかしな現象だった。

気のせいだと思うことにして数十分、体に感じる空気はどんどん冷たくなってくる。

クーラーを切れば、車内はすぐにも気温が上がってくるはずだが、逆に冷えてきているのは異常だった。

強い日差しの中で儚い夢のように揺らめく景色といい、タイヤの状態から読み取れる路面温度といい、寒さに繋がる要因は一つもない。

しかし、これでは冷房どころか、暖房を入れなければならないくらいだ。

不信に思いつつ窓を開けようとして、ふと仲介屋の語った内容が頭をよぎった。

これまで、この仕事を請け負った連中は、誰一人遂行できなかったのだ、と。

依頼人も仲介屋も、それが例の人形が原因だと信じていたようだったが、馬車自身は半信半疑だったその話が、今になって思い出される。

幽霊の仕業だろうが、何だろうが、その辺の審議はどうでもいい。

原因の追求はさておき、実際に起こっている不可思議な現象を、どう切り抜けるかが問題だ。

しっかりとハンドルは操作しつつ、あまり豊富とはいえない心霊に関する知識を引っ張り出そうとする。

そんな馬車の耳に、微かに奇妙な物音が聞こえた。

エンジン音に混じってよく聞き取れないが、何かが弾けるような軋むような、初めて聞く音だ。

気のせいか、音はどんどん大きくなる。

「何やら鳴っていますね」

助手席から淡々とした声が漏れた。

豪胆というか無頓着というか、その声には起こっている異変に驚くような気配などなく、宙に向けられた瞳も動揺の色など見られない。

姿勢を変えるでもなく、赤屍はシートに凭れたまま、珍しい現象を静かに観察しているようだった。

「……起きたか」

「これだけ煩くてはね。ラップ音とかいうものでしょうか?」

その単語が出るあたり、一応知識はあるらしい。

それならついでに対処法も知らないだろうかと、問い掛けようとした馬車に、赤屍はつまらなさそうに言った。

「耳障りですね。何とかなりませんか」

「できるなら、とっくにやってる」

どうやら互いの知識に、あまり差はないらしい。

そうこうしている内に、音が鳴る間隔はどんどん狭まり、更にもう一つの音が響き始めた。

シートの後ろの方から、ガタガタと音がする。

「何やらますます煩いですね」

言うだけ言って、赤屍は何もしようとはしない。

それでいて、物音のやかましさには文句を言うのだから、自分勝手なものだ。

仲介屋から『居心地の良い助手席』との約束をもらっているため、余計に動きたくないのだろうが、それにしても最低限の仕事くらいしてもらわなくては困る。

馬車は運転中で動けないのだ。

仮にも仕事のパートナーとして、ここは赤屍が働くべきだろう。

「確認せぇ」

そう言い捨てると、赤屍は暫しの沈黙の後、ようやく重い腰を上げた。

帽子の下の顔は、いつもと変わらず涼しげで、しかし少しだけ瞳に険があるように感じられる。

快適な睡眠を邪魔されたことは、少しばかり赤屍の機嫌を損ねているらしい。

赤屍なら、こうした現象を面白がるか、完全に無視するかのどちらかだと思っていたが、明らかに前者ではないようだ。

死神は生者に死を贈るのが勤めであって、死者の領域には関心がないものなのだろうか。

「箱が揺れていますね」

「そうか」

「人形が暴れているということでしょうか?」

「そこを確認せぇといっている」

どこまでもやる気のない声に、馬車は前方に気を配りながらも指示を出す。

「開けたら閉めるが大変そうですね。煩いのを我慢して早々に目的地へ……」

箱を開けるのすら面倒なのか、つくづく自分の興味を引かない仕事はしたくないらしい。

赤屍に呆れつつも、確かにその意見が一番妥当だろうとは思う。

二人とも霊能力など持ち合わせてはおらず、対応策も思いつかないとくれば、一刻も早く目的地へ到着して、縁を切ってしまうのが得策だ。

赤屍の意見を採用し、スピードを上げようとして、仲介屋が語っていたことが再び脳裏に浮かんだ。

いくら走っても目的地に着かない―――。

そういう現象さえもあったのだという。

軽く頭を振って、嫌な考えを追い出す。

馬車はアクセルを踏み込もうとした。

いつものように、ただ踏み込むだけのことだった。

何ということはない、それで済むはずのことだ。

足に力を入れようとした、その瞬間、体に奇妙な違和感を覚えた。

首に冷たいものが当たっている。

氷のようなそれは、何の前触れもなくひたりと馬車の首筋に吸いついた。

見なくても、それが手の形をしているのが分かる。

「赤屍……」

「何ですか?」

その声から察するに、赤屍は馬車の首に手が届く範囲にはいない。

第一、この手の小ささは、明らかに大人のそれではなかった。

このトラックには、馬車と赤屍の二人だけだ、子供など乗っているわけがない。

だとすれば、この手は一体誰のものなのか。

ハンドルを掴んだ両手に、嫌な汗を感じる。

その手の正体を確認しようとして、片手をハンドルから離そうとした瞬間、冷ややかな感触は、いきなり力を込めてきた。

「……ぐっ」

喉の奥から、微かに苦鳴が漏れる。

子供の、或いはそれよりも小さな手だというのに、人間離れした力だった。

出発する際に見た市松人形の姿が思い浮かぶ。

脳内に結ばれた像の中、人形は愛らしい顔に禍々しい笑みを刻んでいた。

窒息で目の前が歪む。

意識を手繰り寄せながら、ハンドルを握り締めた。

靄のかかったような頭には、手の感覚も鳴り響く物音も、全てが遠いものとなっていく。

あれだけやかましい音すらも聞こえない。

それなのに、何故か小さな声が伝わった。



『おうちに帰るの……』



幼い子供を思わせる声は、すすり泣くような響きをもっていた。

しかし、悲しげなその声が、鳥肌が立つほどの悪寒を抱かせる。

ハンドルを掴んだ手が、そこに貼り付けられたかのように動かない。

子供の冷たい手の感触は、首だけでなく、馬車の無骨な手にも足にも、全身にまで及んでいた。

いくら目を凝らしても、体の表面には手どころか何も見出せない。

見えないが、確かな感触を認識できる。

あどけない声は尚も聞こえた。

同じ言葉をただ繰り返す。

暗示を掛けるかのように、大きく小さく、遠く近く。

突然、フロントガラスの向こうが、どす黒い色に染まって見えた。

一度味わったことのある、あの邪眼のような感覚。

目を凝らすと、ありえない場所に、小柄な影が浮かんでいた。

瞳だけが赤く輝いているのが見える。

禍々しい光を放つそれは、まるで墓場に灯る人魂のようだ。

輪郭がはっきりとしない黒い影の、顔と思しき部分に、新たな色が湧いた。

視界が一瞬ぶれたと思った刹那、瞳よりも尚赤い色が、額からゆっくりと顎に向けて走り、そこから赤い何かがどろりと流れ落ちた。

血だ。

そう思った瞬間、それは一気に溢れ出した。

頭部が半分に断ち切られたその中で、夥しい血を吐き出しながら、口と思しき部分が笑いの形にぱっくりと割れる。

真紅の目玉が突然濁り、ぐちゃりと潰れて、零れ落ちた。

凄惨な姿になりながらも、着物姿の小さな影は、ケラケラと笑いながら馬車に迫ってくる。

幼い手が伸ばされて、馬車の首を狙った。

現実にそんなことがあるわけがない。

幻なのだと、自分に言い聞かせようとする。

恐ろしいほどにリアルなその姿も、何もかも現実ではないのだと―――。

「馬車っ!!」

まさにその時、鋭い声が名前を呼んだ。

体を束縛していた未知の力が霧散し、視界が一気に開ける。

無意識に、馬車はハンドルをきり、アクセルを踏み込んだ。

タイヤが鳴り、車体が大きく揺れる。

視界の隅で、道路脇の大きな岩が遠ざかっていった。

もしブレーキを踏んでいたなら、そのままあの岩に激突だったことだろう。

馬車の本能に刻み込まれているとでもいうべきか、長年の勘ととっさの判断が、事故を回避させた。

ハンドルを握り直し、道路の先へと神経を集中させる。

平坦なルートで幸運だった。

これが曲がりくねった山道や、複雑で交通量の多い街中だったらと思うと、ぞっとする。

「少々悪戯がすぎますね……」

低い呟きが耳に届いた。

穏やかなその声は、しかし全身を総毛立たせるような冷気を孕んでいる。

冴えた音が鳴り響き、次いで何かが何かに突き刺さる音が続いた。

聞き覚えのある音だ。

赤屍の血を元に作り出された刃によって、無慈悲なまでに冷たく奏でられる音。

それは圧倒的な力を持つ奏者と共に、死と血飛沫が舞い散る世界を、神聖なまでに彩るのが常だった。

どんな行為を行ったのか、その音と同時に、車内に渦巻いていた違和感が掻き消える。

ミラーで背後を確認しようとして、腕が上手く持ち上がらないことに気がついた。

「ち……っ」

腕だけではない、あの小さな手の感触を覚えた部分全てが、まるで自分の体ではないように麻痺しかけている。

殊に、首の周りが気持ち悪い。

深く息を吸い込むと、咳込みそうになる。

「大丈夫ですか?」

馬車の顔色の悪さに、赤屍が覗きこんでくる。

普段なら運転の邪魔だと一喝するところだが、喉を圧迫されていたため、すぐには声が出ない。

それを訝しんだのか、赤屍の手が、ハンドルを離さない馬車の手にそっと触れてきた。

そこに何を見出したのか、赤屍が微かに眉を顰める。

「死人のようですね」

そう呟く赤屍の手はとても暖かい。

普段なら、赤屍の手の方が死人のように冷たく感じられる。

それがどうだ、今はその手さえ暖かく感じられるではないか。

「停車してください」

「止まれだと?」

掠れた声で短く聞き返す。

あからさまに異を唱える馬車の目を凝視しながら、赤屍がいつにない威圧感で、穏やかに言った。

「止まってください」

「しかし……」

「運び屋としてのプライドを主張する場面ではないと思いますが」

承諾しないと、メスでも出しそうな勢いだった。

医者としての性が顔を覗かせたわけでもないだろうが、こんな時の赤屍は何を言っても聞き入れない。

仕方なく、馬車は適当な空き地を見つけてトラックを停めた。

エンジンを切ると同時に、体の力を抜いてシートに軽く凭れかかる。

首に残る冷たい感触はまだ消えていない。

そこから全身に、冷えた血が回っていくような感じすら覚える。

ようやく動くようになった手で首をさすりつつ、改めて周囲を伺うと、奇妙な物音も、あの薄気味の悪い空気も、今はすっかり消滅して感じ取ることもできない。

ひとまず危機は去ったと見るべきだろうか。

赤屍が何をしたのか確認しようとして、後ろの人形を振り返ると、それを阻むように黒衣が翻った。

「お貸ししましょうか?」

無造作にコートが差し出される。

「いらん。着とけ」

辞退すると、赤屍は脱いだコートを着直したりはせず、助手席にそれを放った。

続けて帽子が、手袋が、そしてネクタイがそこに重なっていく。

ベルトが放られ、次いで下肢が露わになった時点で、馬車はその手を掴んだ。

「赤屍」

「暖めてさしあげますよ」

シャツ一枚だけという扇情的な格好で、ますます煽るような台詞をあっさりと言ってのける。

「いらん」

即答すると、微かな笑い声が聞こえた。

その行為が、あくまでも仕事の遂行上必要だというなら、赤屍の申し出はありがたく受け取るべきだろう。

しかし、赤屍の瞳には、ふって湧いたこの状況を、むしろ歓迎しているかのような雰囲気がある。

白い手が、ゆっくりと伸ばされて馬車の肩に掛かった。

すらりとした長身が屈んで、流れた髪が馬車の頬に触れる。

「そのままでは運転に差し支えると思いますが……。それとも、私では不満だと?」

耳元にそう囁かれて、苦々しく赤屍を見やると、まるで馬車の心を見透かしたかのように微笑している。

馬車が誘いを断るわけがないと、そこまで見抜いた上での笑みだった。

幸い、人も獣も通らないこんな辺鄙な場所では、車中で何をしようが人目につくことはない。

「……」

黙っていると、それを承諾の意と判断したのか、赤屍は馬車の体に手を這わせてきた。

長い指が首筋をなぞり、掌が厚い胸の上で蠢く。

馬車は、白い手が自らの体の上を這い回るのを、ただ見つめていた。

こうして触れられていても、全身に及んだ悪寒のせいか、その感覚が鈍い。

「失礼しますよ」

こんな時だけ律儀に断りを入れて、赤屍が馬車の膝に乗り上げた。

剥き出しになったしなやかな脚が、馬車を跨いで、嫌でも視線を引きつける。

やや高いところから、いまだ冷徹さを崩してはいない瞳が、馬車を見下ろした。

右手が馬車の頬にかかり、左手が肩に乗せられ、赤屍が軽く目を閉じる。

こんな顔をすると、裏社会で恐れられている死神には見えないと、そんなことを考えながら、赤屍の腰に腕を回して引き寄せた。

優美な線を描く肢体は、何の抵抗もなく密着する。

冷えた唇に、暖かいものが触れた。

入り込んできた舌が、口内で妖しく蠢き、馬車の体に情欲の火をつけようとする。

その舌を捕らえようとすると、するりと逃げて主導権を握らせようとしない。

片手を癖のない黒髪に差し入れ、頭を固定して深く唇を合わせると、悪戯に焦らしていた舌が積極的に応え始めた。

舌が絡み合う濡れた音を漏らしながら、赤屍の手が馬車の服を脱がせようとジャケットにかかる。

その手を制して、馬車は赤屍の服を先に剥ごうとした。

「その気になりましたか?」

「黙っとれ」

シャツのボタンを外し始めると、赤屍は不器用に動く馬車の手をおとなしく見下ろした。

均整のとれた肢体が、馬車の目の前に晒されていく。

ボタンを外し終わると、それを待っていたとでも言いたげに、赤屍が馬車の手をとって持ち上げた。

馬車の冷えた指先に軽く口付けて、自分の胸元へと導く。

誘われるまま手を這わせると、赤屍が体を更に密着させて、馬車の首筋に顔を埋めてきた。

柔らかい唇がそこに口付けを繰り返し、時折濡れた舌が肌をなぞる。

「跡が残っていますね」

「何?」

「小さな手形のような……」

囁きながら、赤屍が唇を落とした。

赤屍から伝わる熱が、冷えた体にゆっくりと温かみを取り戻させる。

違和感は徐々に消え始めて、おそらく馬車が赤屍の肉体を貪る頃には、首や手に残る感触も、すっかり消滅してしまっているだろうと思われた。

「……っん」

赤屍の胸元を彷徨わせていた手で、軽く摘まみ上げて刺激してやると、微かに声が漏れた。

そのまま指先で引っ掻くように擦り上げると、赤屍の体がその都度小さく揺れて、首筋を辿る唇が微かに乱れた息を送り出す。

僅かな刺激にも反応する体は誘惑的で、その白い肌にくっきりと残る古傷が、息を飲むほど艶かしい。

馬車は胸元から手を滑らせ、膝のあたりからゆっくりと撫で上げた。

太股の触り心地を暫く楽しんだ後、その手を中心へと移動させる。

それに呼応するかのように、赤屍の手が降りてきて、馬車のベルトに掛かった。

ベルトを外し、ジッパーを下ろして、馬車のものを窮屈な場所から開放する。

「熱くなっていますね」

「お前ほどじゃないぜよ」

「あ……っ」

すっかり反応しているそれを、軽く扱き上げると、赤屍の背がしなった。

馬車の膝を跨いで開かれた足は、その中心で愛撫を欲しているものを、無防備に晒している。

遠慮もなくそれを嬲ると、赤屍はその手に煽られながら、自分も手を伸ばして馬車のものを握り込んできた。

馬車が最も敏感な場所を刺激する度に、赤屍の手は動きを止めたが、直接的な刺激以上に、淫靡な表情が、薄く色づいた肌が、馬車の情欲を激しく揺さぶる。

一度火がつけば、赤屍は素直に快楽に沈み、何の抵抗も見せない。

裏社会で『死神』と恐れられるこの男が、こんなに淫らな本性を潜ませていると、そう知る者は一体どれだけいるのだろう。

切なげに開かれた唇からは、甘い吐息と掠れた喘ぎの音が漏れ、潤んだ先端を指の腹で刺激してやると脚がひくりと震える。

膝の上で艶めかしく揺れる体を、思う様よがらせているうちに、馬車の体に残る違和感もなりを顰めてきた。

それを良いことに、性急に赤屍を追い上げ始める。

「んっ……あう……っ」

「赤屍」

名を呼ぶと、しっとりと濡れた瞳が向けられて馬車を映した。

何か言いたげな唇を指でなぞると、赤屍が自ら口を開いて咥え込む。

人差し指から一本ずつ、丹念に舌を這わせ、時折甘噛みしては、馬車の無骨な指を唾液で濡らしていく。

「そのくらいでいい、力を抜け」

馬車に請われるままに、赤屍は力を抜いて、目の前の逞しい体に身を預けてきた。

しがみつくように、腕を馬車の首に回し、小さく囁く。

「慣らすのは適当に……それよりも……っ」

「確かに物欲しそうにヒクついとるのう」

舐めさせた手を赤屍の後ろに回して、奥まった部分を撫でる。

入り口は熱く、軽く突いてやると誘い込むように収縮した。

「つ……っ!!」

肉を割るようにして、指を突き入れると、一瞬赤屍が辛そうに眉を寄せた。

だが、ゆるゆると動かすと、すぐにそこは解け始め、表情にも快楽の色が浮かんでくる。

内部で指をくねらせると、馬車の手に握りこまれたままのものが、歓喜に震えた。

「はっ……ああ……っ」

唇からは続けざまに喘ぎの音が漏れ出す。

女のように甲高いものではないが、掠れて濡れた声音は、十分に官能的だった。

綻んだそこから指を引き抜くと、赤屍が腰を浮かせて、先を促す。

尻を荒々しく掴み、己の猛ったものを突き入れようとして、肉欲に酔っていたはずの赤屍の瞳が、冷厳な光を宿しているのに気がついた。

その目は、馬車ではなく、座席の後方へと向けられている。

「何を見てる?」

「往生際が悪いんですよ」

何のことか一瞬判断しかねた馬車の、怪訝に細められた目線の先で、銀色の光が閃いた。

指でコインを弾くように、赤屍が手にしたメスを投げつける。

「おい?!」

その先には、おそらく依頼人からの預かりものがあったはずだ。

いくら物騒な人形とはいえ、欠損させては問題になる。

「一応、人形には傷をつけていませんよ」

悪意の欠片もない口調で言われて、馬車はそれ以上非難するのを諦めた。

「仕様のない奴じゃの……」

「怒りますか?」

まるでそれを期待しているかのように、赤屍が耳朶を軽く噛みながら囁く。

甘えるようなその声音が、とっくに火のついている馬車の体に、更に油を注いだ。

「そうじゃの……仕置きが必要か」

「貴方の好きなように……。―――っ!!」

赤屍の十分に潤ったそこへ、一気に突き立てる。

待ちかねていた肢体は、あっという間に快楽に染まった。





寺に到着する頃には、すっかり陽が傾いていた。

メスが五本突き刺さったままの箱を抱えて、夕陽を浴びながら赤屍が出ていって十数分。

寺の正面には停車せず、少しだけ離れたところにトラックを停め、馬車は運転席で一服しながら赤屍が戻ってくるのを待っていた。

ただ渡してくるだけのはずだが、それにしては遅い。

遅れているのは、やはりあのメスについて追求を受けているからだろうか。

改めて思い起こしてみると不思議なものだ。

赤屍のメスが、結局あの人形を黙らせた。

あの後、人形は石のように沈黙を守り、何の干渉もしてこない。

刃物には、邪を退ける力があるというが、赤屍のメスならばその効果は絶大だろうという気がする。

或いは、毒をもって毒を制すの言葉とおりに、より強く深い魔を秘めた赤屍の刃が、あの人形を上回ったというわけか。

窓を開けたまま、煙草を燻らせつつ、黙って待つ。

気温はまだ高く、暑さを象徴するかのように蝉が鳴き続け、不快だと思えるほどにやかましい。

黙って座っていても汗が流れてきそうな気温に、あの時感じた冷気は、やはり異常なものだったのだと認識を新たにする。

吸い終わった煙草を灰皿に突っ込んで、もう一本取り出すかどうか迷ったところに、赤屍が戻ってきた。

助手席に乗り込む赤屍には、特に変わった様子もない。

「遅かったの」

「少々説法していただきまして……」

遅くなったのはそのせいか。

とりあえず、刺さったままのメスに対して、坊主たちの追求がなかったのは結構なことだ。

それにしても、坊主が何を説いたか知らないが、よりによってこの赤屍に説法とは。

人形にとり憑いていた幽霊らしきものの正体や、それに話を絡めながら、命の重さでも説いたのか。

「死とは……何ですか?」

おもむろに、赤屍が呟いた。

数限りない『死』を他者に与え続けてきただろうに、今更それを問い掛けるとはおかしなものだ。

いや、それに対して全く感慨を抱かないからこそ、こんな生き方ができるのか。

「それが、坊主の説法か?」

「長々と聞かされたのですが、よく分からなかったのですよ」

「実際に死んでみんと分からんぜよ」

そう答えると、赤屍の瞳に何かが揺れた。

「……なるほど。実に貴方らしい」

気の利いた言葉ではなかっただろうに、赤屍はその答えが気に入ったのか、永劫の謎を抱えた哲学者のような瞳は、柔らかく伏せられた。

死とは何か―――?

無知の素振りをして、馬車にそう問い掛けつつも、赤屍は自分なりの明確な答えを持っていることだろう。

ただ、それを言葉という形にしないだけだ。

そして、赤屍の中にあるその答えは、他者には決して理解できないものであるに違いない。

「蝉の……」

赤屍が窓の外へと視線を流し、唐突に呟いた。

「蝉の鳴き声が、懐かしく感じられますね」

「……」

およそ自然などというものに興味を示すこのない赤屍が、その時何故そうした言葉を呟いたのか。

問い詰めたい気持ちはあったが、関わりのないことだと思い直す。

長い付き合いだが、赤屍の過去はよく知らない。

知りたいとも思わないし、知ったところで何が変わるわけでもないだろう。

赤屍はそれきり黙り、馬車もまた無言でエンジンをかけた。

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