都会の夜は星も見えない。 街に溢れる人工の光のせいか、上空に漂う薄汚い空気のせいか。 こんな場所から空を仰ぎ見ても、小さな星の瞬きを見出せるはずもなく、脳裏に焼き付くのは闇ばかりだ。 折しも、今夜は新月で空に月の姿はなく、夜空が余計貧相に見える。 仮に月の姿があったとしても、この汚れた空では、その輝きも色褪せて見えるに違いない。 古来よりその艶姿を褒め称えられてきた月は、本来の輝きを失わせてしまうような、こんな空を嫌悪していることだろう。 そもそも、この街では、月を見上げて風情を楽しむ者さえいないのだ。 広大な天空を削り取るように建造されたビルが、幾つもいびつに立ち並んで、夜空を俗っぽく見せている。 中でも一際高く聳える塔が、天に挑戦するかのように圧倒的な存在感を放っていた。 その塔があまりにも強く目を惹きつけるがため、誰もが空や月に関心を払わないのかもしれない。 高き塔、『無限城』。 世界でも稀な無法地帯として、外部から忌み嫌われ見捨てられた空間が、無限城とその裾野に広がる裏新宿だ。 人間が思いつく限りの犯罪が日夜繰り返され、驚くほどのスピードで幾多の命が消える街。 統制を持たない自由というものが、一体どこに辿り着くものなのか、この街はそんな疑問に一つの明確な解答を与えてくれているのかもしれない。 盗むことも、犯すことも、殺すことも、自由の名の下に全てが許される街だ。 力を持つ者は誰に憚ることなくその力を行使し、力持たざる者は知恵を巡らせて強者の足元を掬う。 魂の尊厳もなく己の本能のままに他者を食い物にすることが、ごく当然のこととして行われ、誰もそれに疑問すら持たない。 こんな街に集う者は、いずれも人間としての何かを欠いた者ばかりなのだろう。 しかし、そんな連中でさえも、深夜の外出はなるべく避けるのが常だった。 こんな月すらも見えない夜は、狩る者も狩られる者もどこかへ身を隠して息を潜めている。 目に見えない恐怖に怯えるかのように、少しでも安全な場所へ潜り込むのだ。 ある者は毛布にくるまり、ある者は怖れを忘れるために酒を呷り、女を抱いた。 無条件に闇を恐れるのは、幼い子供特有のものであったはずなのに、この街で迎える真っ暗な夜は、闇への恐怖を忘れてしまった者たちでさえ無意識に足を止めさせる。 この日も、そんな夜だった。 一見、無人の廃墟のような通りを、渇いた風が撫でていく。 この街が、風化しかけの無人街でないことを物語るのは、辛うじて取り付けられた街灯の明かりだけだ。 壊れているものも多いが、電気を供給されていることは、確かに人間の生活が営まれていることの証明だろう。 ふと道路脇から小さな影が街灯の下に飛び出した。 しなやかな黒い体が照明に照らされて艶やかに輝く。 俊敏な動きを求めて進化した体は、細長く絶妙な曲線を描き、長く伸びた尾が機嫌のよさを表すかのように優雅に振られる。 夜の空間を生活の場とする猫は、こんな時こそ晴れ晴れと動き回るのかもしれない。 用心深く周囲を見回した目が、何ものかを捉えて宝石のように煌いた。 闇の向こうに何を認めたのか、黒猫は何度かゆっくりと尾を左右に振り、突然それに背を向けると一目散に走り出した。 今まで猫が見つめていたその先には、何も存在していないように見える。 闇を見渡す猫の目だからこそ、そこに何ものかの存在を見出したのだろう。 猫はすぐ先の十字路で左に折れた。 じわりと追ってくるかのような圧迫感から逃れるために、直進より横に逸れて避けることを選んだのだ。 僅かな時を置いて、猫が見つめていたその暗闇に人影が浮いた。 猫は『それ』を怖れて、逃げ出したに違いない。 闇が人の形に凝縮されたかのようであった。 全身のほとんどは、周囲の闇よりも尚暗い黒衣に覆われ、光さえも吸い込んでしまうかのような錯覚を起こさせる。 街灯の下まで来て、ようやくその輪郭が明らかになった。 しなやかな長身を黒いコートが包み、青白い顔をこれまた黒い帽子が半ばまで隠している。 ゆっくりと歩むその姿は、夜の気怠さを感じさせながらも、鋭い剥き出しの刃の冷たさを思わせた。 猫の野生の勘が察知したのは、その人影の内に眠る底知れない狂気かもしれない。 黒衣の人影は、猫の後を追うかのように同じルートを辿り、十字路に差し掛かると、ふと足を止めた。 猫が走り去った方向を見つめて、口元に笑みを浮かべる。 低い呟きが漏れた。 「……道案内を、してくれるかのようですね」 ポケットにあった手が上げられて、赤屍が帽子の角度を変えた。 現れた白い容貌は笑いの表情を形作り、切れ長の目が通りの向こうを凝視する。 不揃いの高さで佇んでいるビル群の中に、赤屍の目的地があった。 他に比べて特に目立つわけでもないそのビルは、何の違和感もなく灰色の景色の中に埋没している。 薄笑いの表情のまま、赤屍は帽子の角度を下げ、目的のビルへと足を向けた。 一度来たことのある道だ。 あの時は、通過点でしかなかった場所が、今は目的地となっている。 以前、隻眼の男が窓から顔を出したのは、確かにそのビルだった。 入口の前に立ち、暫し眺める。 何の変哲もない扉だ。 しかしその扉は、こんな時刻だというのに無用心にも僅かな隙間を空けている。 ただでさえ物騒な街なのだ、廃ビルならともかく、人が生活しているのなら、鍵もかけずに放っておくはずはないだろう。 ちょうど、猫が通り抜けられるぐらいの隙間だが、半端に開いた扉からは闇しか見えない。 内部の照明は灯っていないようだ。 躊躇うこともなく、赤屍は扉を開いた。 罠が仕掛けられているのでは、ということを警戒する様子もない。 扉の向こうの廊下は、闇に侵蝕し尽くされたかのようだった。 深夜な上に明かりもないのだから、内部が闇に包まれているのは当然といえば当然だが、異常なまでに深い闇のように思える。 床も壁も天井も、魔物にでも喰い荒らされたかのように闇に溶け込んでいた。 所々に白い部分が見受けられるのは、辛うじて喰われなかった箇所、つまりはそれが本来の色なのであろう。 この廊下は、元々真っ白いものであったのだ。 「これはまた……派手ですねぇ」 赤屍の抑揚のない声が、廊下の向こうに吸い込まれていく。 人の気配はなく、応えてくるのは闇ばかりだ。 奇妙なことに、闇は香りを有していた。 ねっとりと絡みつくようなその臭いは、あまりに強く濃密で、一度体に染み付いたなら、拭い去るのは容易ではないだろう。 赤屍が一歩踏み出すと、足元でぴちゃりと水音がする。 どうやら、闇は臭いばかりか、液体という形で実体を伴っているらしい。 それを避けるように壁際へ寄って、電灯のスイッチを探す。 暗闇を苦にはしないが、細かい探索が必要となれば、やはり明るい方が何かと便利だろう。 探し出したスイッチを押すと、黒い光景は、一気に紅い光景へとその姿を変えた。 血だ。 白いはずの廊下は、夥しいほどの血によって、真っ赤に染まっていた。 バラバラに散っている肉片は、元はいったい何人の人間の形を為していたものか、それすらも分からない。 奇跡的に人の形を残していたものもあるが、あるものは壊れかかった壁にめり込み、あるものは首から上を天井に食い込ませたままぶら下がっている。 どれだけ強大な力を振るえばこんな光景を作り出せるのか、常人なら失神しかねないほどの無残さだった。 立ち込める血臭は、肺の中まで血で満たすかのような錯覚をもたらす。 「やれやれ」 赤屍は軽く溜息をついて、傍らの壁にめり込んだ生首に手を伸ばした。 鮮やかとはいえない断面は、おそらく切られたのではなく、引き千切られたものだろう。 胴体は床に転がっているのだろうが、どれがこの首と一対になるのか、全く分からない有様だ。 髪を掴んで引っ張り出すと、グチャリと嫌な音がして、片方の眼球が零れ落ちた。 一目で真っ当な人間でないと知れる顔は、奇妙な形に歪み、残った片目がこの世のものとも思えぬ恐怖を訴えている。 断末魔を上げる暇も与えられなかったに違いない。 その瞳を覗き込んで、赤屍は艶然と笑った。 この凄惨な光景を目にしながら、小さな笑い声さえ漏らす。 真に恐ろしいものは、この光景でも、この光景を生み出した人物でもなく、それを見て微笑する死神かもしれない。 「返り討ちにあった……といったところですか。気の毒に」 そう言って、赤屍は生首を無造作に放り投げた。 こんな死体の山には用がない。 用があるのは、これらを死体に変えた張本人だ。 死体に残る温もりや筋肉の状態から見て、それほど時間は経っていないようだが、鬼のような虐殺を行った後、隻眼の男はどこへ消えたのか。 「死人に聞ければ、楽なのですがね」 あの男の行方を尋ねようにも、おそらく生存者は皆無だ。 おそらく、あの男は自分に向かってきた者を生かして帰すようなマネはしない。 逃げ出した者すらも、追って皆殺しにするタイプだろう。 軽く溜息をついて、何か手掛かりが残っていないかと奥へ進む。 ここで足取りが完全に途絶えてしまうと、改めて所在を探し当てるのが面倒だ。 奥へ進めば進むほど、より残虐な光景が展開される。 血塗れの壁や天井も、破壊の限りを尽くされたのかボロボロだ。 ふと赤屍の足が止まった。 コンクリートの壁が、紙のように切り裂かれている。 横に真一文字に走る裂け跡は四本。 他の破壊跡は打撃によるものがほとんどだが、ここだけは刃を薙いだような跡を見せている。 どんな武器を使えばこれだけの痕跡を残せるのか、どうやら部屋の奥までその衝撃は伝わっているらしい。 壁に細長く開いた裂け目から、室内の様子が覗けたが、奥の壁にまで同様の跡が見て取れる。 驚異的な破壊力はこの一枚の壁を突き抜け、直接触れているわけでもないのに、あの場所まで及んだというわけだ。 鋭い切り口を見せる断面を眺めた後、赤屍は扉へ向かった。 ドアノブを回してみるが、破壊の衝撃で歪んでしまっているのか、力を入れてみても開かない。 離れた手が、銀色の煌きを放ちながら一閃された。 一瞬の間をおいて、ドアは音を立てて崩れ落ちる。 残骸を避けながら中に入ると、四角い部屋の隅から、消え入りそうな呻き声が漏れた。 「どうやら私は運が良いようですね」 声の主を視界に認めて、赤屍が静かに呟いた。 赤屍の視線の先で、膝を抱えて蹲った人物が、小刻みに体を震わせながら大きく見開いた目で床を凝視している。 痩せ細って衰弱した様子の壮年の男は、体力よりも頭脳や技能に長けた印象で、明らかにそこらに転がっている連中の仲間ではなかった。 既に正気ではないのだろう、赤屍がすぐ前に立っても、何の反応も返さない。 「少々聞きたいことがあるのですが」 赤屍の声にも、男は何も答えなかった。 耳に届いているはずの言葉も、破綻を来たした脳内では、まともに理解されていないのだろう。 赤屍は気にしたふうもなく続ける。 「彼はどこへ行ったんですか?」 やはり男の反応はなかった。 「ご存知だと思うのですが……。隻眼、隻腕の、名前を不動―――…」 言い終わる前に、絶叫が響き渡った。 訳の分からぬことを喚きながら、男は何かから逃げようとするかのように床の上を這いずり回る。 壁にぶつかり、床に転げ、血を流しながらも男は逃げようとするのをやめない。 「……知っていますね」 男の狂った様を眺めながら、赤屍が漏らした言葉はそれだけだった。 その口調は、手掛かりが残されていたことを喜ぶものでしかなく、男への憐憫など微塵も見当たらない。 意味不明な行動を繰り返している男を見る赤屍の目に、不穏な光が宿った。 正気を失っていようと、死んでさえいなければ聞き出すことはできる。 芋虫のように這いずっている男の背を見ながら、赤屍はゆっくりと歩み寄った。 「さあ……教えてください。彼はどこに行ったんです?」 淡々とした問い掛けに何を感じたのか、もがく男の体が一瞬硬直した。 機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく首が曲げられて背後を振り返る。 その時、精神が崩壊したはずの男の目に、僅かに理性の光が宿った。 目が焦点を結び、そこにあるものを映し出す。 何を見出したのか、男の口から一際大きな叫びが上がった。 その酒場の店長は、困惑の表情を隠すのに苦労していた。 この『無限城』の中にあって、それなりに形式の整った店を構えたのは、さして昔のことではない。 その間、めったなことではこんな思いを抱えることなどなかったのだが、最近その『めったなこと』が多発していた。 ちらりと店内の様子を窺うと、常連客も同じことを感じているのか、会話のトーンがやや小さい。 空気を異質なものにしているのは、特に女たちの視線であった。 この店に出入りする女たちは、そのほとんどが商売目的だ。 下品なピンクや紫の光の下で、女たちは男を誘惑し、男たちは女を物色する。 金銭の折り合いがつけば、後は店を出てどこかへしけこむか、店長から鍵を借りて上階の部屋へと移動するかだ。 そこで行われることは一つしかない。 この酒場の客の目的は、大概が酒ではなく女であり、女もそれを見越してここへ足を運んでくる。 毎晩、刹那的な快楽を求めて人々が群がり、そして今夜も、そんなありふれた背徳的な夜になるはずだ。 しかし、気怠げな女たちの仕草も、安っぽい香水の匂いも、普段とは何も変わらないのに、店内に満ちる空気はやはり何かが違っていた。 心の中で溜息をつきながら、店長が視線をカウンターに戻す。 強い酒を豪快に呷っている客が視界に入った。 先ほどから店内に漂っている微妙な空気は、この客が原因だ。 ほんの数十分前に、この男がやってきてから、店の空気ががらりと変わってしまったのである。 いつの頃からか、たまに立ち寄るようになったのだが、店が狭いということもあってか、体格に恵まれたその男はえらく目立っていた。 それとない振りを装って、声を掛けてみる。 「兄さん、あんたに誘いを掛けてる娘がいるぜ?」 どの女がそれなのかは、敢えて言わない。 店内にいる女たちのうち、この男を狙っている者は何人かいる。 少し注意して女たちを見ていれば、その視線の向かう先がこの男だと、容易に判別できた。 羨ましいことに、特に上玉の女に限って、熱っぽい視線を投げかけている。 確かに、この男は外見も金回りも悪くない。 女たちからすれば美味しい客に見えるのだろう。 見惚れるほどの色男ではないが、野性的な容貌と、どこか危険なものを感じさせる雰囲気は、麻薬のように女を引き寄せる。 毒だと知りつつ寄っていく女は、決して少なくないであろう。 男から答えがないのに溜息をついて、店長は尚も問い掛けてみた。 「その気にならないかい?」 「ならねぇな」 低い声が冷淡に答えた。 どんな美女であろうと、誘惑できそうにない冷めた口調だ。 この男の外見や雰囲気からすれば、遊び慣れているような印象を受けるのだが、この店で女に関心を払ったところは見たことがない。 いつも酒を呷るばかりで、女たちのことはてんで無視だ。 女を漁るための店といってもいいこの場所で、男は何を目的に足を運んでいるのだろうか。 怪訝な顔をする店長に、男は喉の奥で忍び笑いを漏らした。 「この店の難点は、美味い酒はあるが、美味そうな女がいねぇってことだな」 左眼が禍々しい光を放つ。 背後で落胆の溜息を漏らす女たちを嘲笑するように、その男―――不動琢磨はにやりと笑った。 不動の笑みに何を感じ取ったのか、店長は半歩後じさり、そそくさと離れて別の客の方へと向かう。 虫けらでも見るような目つきでそれを追い、不動はつまらなさそうに手元のグラスに視線を落とした。 店長に向かって言った言葉は真実だが、全てではない。 不動が興味を引かれるような、いい女がいないのは確かだが、今夜女に触れないのにはもう一つ理由があった。 脳裏に血の余韻が残っている。 噴き出す血、脆く千切れる肉、いとも容易く砕ける骨。 手に残る感触が、まだ足りないと、もっとそれを味わいたいと、自分の欲に訴えかけている。 店に集う連中さえも餌食にしてしまおうという、危険な欲求をどうにか押さえている状態だ。 これでは、女など抱く前に殺してしまう。 どんないい女だったとしても、血の快楽を引きずったままでは、性欲の対象というより殺戮の対象としてしか見ることができない。 女というものはただの消耗品で、気遣うつもりはさらさらないが、これ以上血の匂いに酔いすぎると歯止めがきかなくなるだろう。 もともと我慢という言葉には縁遠い。 一度押さえきれなくなったら、目の前から生き物が絶えるか、或いは不動の命が断たれるまで、殺戮は続くだろう。 魅力的な選択肢ではあるが、本能のままにその欲求へ身を委ねても仕方がない。 理由は簡単だ。 例えそれを実際に行ったとしても、欲が全て満たされることがないと理解している。 不動の欲の最も深い部分に棲み付いているのは、青い瞳の蛇だ。 かつて不動の左腕をもぎ取った男。 その手に蛇を宿し、その瞳に邪悪な力を秘めた男は、消えることのないしがらみとなって不動の中に根を張っている。 その男を、余すところなく貪り喰ったその時に、不動の欲はようやく満たされるのだろう。 いや、一気に貪り尽くすのではなく、貪り続けることこそが求める形だ。 もし手に入れたなら、そう簡単には手放さない。 『死』という存在にすら、あの蛇を渡したくはない。 じわりと鎌首をもたげる不穏な思いをあやすように、不動はグラスに残った酒を飲み干した。 硬い音を響かせて置かれたグラスの、すぐ傍らにあるボトルはその半分が既に消えている。 成分のほとんどがアルコールという、この店では極めて強い酒だが、この程度の量では酔いなど回ってこない。 一本まるごと空けても同じだろう。 流血と殺戮への酔いは、こんな安いアルコールなどでは静めることもできない。 まだ猛る体を、酔わせるほどの酒もなければ、性欲を誘うほどの女もいない。 どうせなら、もっと違うものが欲しい。 色ボケした女などではなく、見る者の心の底まで震え上がらせるような、冴えた空気を纏う極上の奴が。 一人の名が思い浮かぶ。 死神の異名をとるあの運び屋は、美味そうだ。 その時、何かが不動の感覚に触れた。 「……!」 戦いの最中、相手の死を感じ取る時と、似たような感覚だ。 血の海に倒れる敵の姿をリアルに見るのと同じで、ある一つの光景がまるで実際に目にしているかのように『見える』。 脳裏に黒い衣をまとった死神の姿が結ばれた。 二度ほど目にしただけだというのに、余りにも鮮やかな画像として甦る。 風に翻るコートも、帽子を押さえる独特の仕草も、その下に隠された白い貌でさえ、まるで目前にしているかのように描くことができた。 ガラスのように透明なくせに、濁った沼のように底を覗かせない瞳は、不気味な魔性の光を灯してこちらを見つめている。 奇妙な感覚だった。 不動が『見て』いるのは、脳内に結ばれた像でしかない。 それなのに、相手としっかり視線がかち合ったような気がする。 不動が挑発的に口端を引き上げると、赤屍も不敵な微笑を浮かべた――ように感じられた。 早く来い、と心の中で呟く。 聞こえるはずのない言葉だというのに、赤屍の微笑が一層深まった。 その微笑に、不動の中に渦巻いている欲が、強烈に刺激される。 あの蛇と、どこか似た香りがそうさせるのかもしれない。 湧き上がる欲は、やはりあの蛇に対する時とは違っているが、そんなことは些細な問題だ。 どろりと蠢き続ける飢えを満足させられるなら、対象が少々違っていても構わない。 都合の良い奴がやってきた。 奴なら、十分に楽しめるだろう。 赤屍の足が止まった。 店の入口の向こうに立っている。 白い手が扉に掛かり、何の変哲もない扉は、異空間が開かれるかのように、ゆっくりと開き始めた。 店内と外とを繋ぎ合わせる隙間が、徐々に広がっていく。 それにつれて、不動の左腕が次第に上がり始めた。 体温を持たぬ左腕は、不動の意思と寸分違わず滑らかに動いて、場にそぐわぬ来客の挨拶を待っている。 完全に開かれた扉の向こうに、昏い輪郭が浮かび上がった。 不吉な来客に、店内の客の誰も気付いてはいない。 「来やがった…」 不動のその呟きに、少し離れた場所で店長が不審そうに小首を傾げた瞬間、扉の方から目を灼くような銀色の閃光が走った。 硬い音が響き渡った。 店長だけが、起こった事象を全て見ていた。 見ていたのだが、分からない。 グラスを拭く手を止めたまま、呆然と立ち尽くす。 脳に突き刺さるような音が響いた瞬間、賑わっていた店内の物音は全て絶えた。 店員も客たちも、何が起こったのか分からないといった顔で、それぞれ見当外れな方向を向いている。 彼らが辛うじて認識できたのは、金属らしきものがぶつかる、高く澄んだ音だけだったに違いない。 店長は、広がっていくざわめきを聞きながら、少しだけ記憶を遡って、見た光景を脳内で思い起こしてみた。 例の男の前から離れて数十秒後、男が何か考え込むように黙り込んだのは気がついていた。 そして男の左腕が不自然な動きをしたのも目にした。 低い呟きが聞こえて、それ以降は何も分からない。 人間は、自らの理解の範疇を超えた光景を目にすると、混乱を通り越して思考を停止させるらしい。 呆けた表情のまま、店長は男を見た。 次いで、音がした方へ目をやると、薄汚れた床の上に、鋭い光を放つものがあった。 男のいる場所と、入口のちょうど中間で、鋭利な凶器が床に突き刺さっている。 そのどれもが綺麗に分断され、四本だったであろうメスは倍の数に形を変えていた。 思考力の低下した脳で、必死に想像を巡らせてみる。 入口側から神技的なスピードをもって放たれたメスは、それに勝るとも劣らないスピードで弾き飛ばされたのだ。 男はカウンターについたまま、微動だにしなかったはずだと思うのに、一体どうやって迎撃したのか。 「おもしれぇ……」 ふいに聞こえた呟きが、店長の思考を打ち切らせた。 不動の呟きが聞こえたのかどうか、暫し入口に佇んでいた赤屍は、口元に酷薄な笑みを刻むと店内へ入ってきた。 周囲のことなど眼中に入っていないのか、真っ直ぐ不動の元へ向かう。 その最短の道には、初めから誰も立ち塞がってはいなかったが、赤屍が歩を進めるごとに、周りの客たちは気圧されるように後退し、道は更に広いものとなった。 半ばまで来て、その足が止まる。 床を見下ろす赤屍の瞳に、突き刺さったままの凶器から放たれる光が映った。 「失礼……床に傷がついてしまいましたね」 どこか気怠げな声が、下卑た街では聞きなれない上品な言葉を綴る。 言われた店長が、慌てて首を横に振った。 気にしないでくれとの意思表示だろうが、店長としてはこの得体の知れない存在と、ほんの少しでも関わり合いを持ちたくなかったに違いない。 柔らかい物腰だが、そこに存在しているだけで、一秒ごとに店内の空気が急速に冷え、光が照度を落としていくような気さえする。 店長の意思を確認して、赤屍はそれっきりそれらには興味を失ったかのように、ゆっくりと歩を進めた。 狭い店内だ、邪魔をするものもなく、ほんの少し歩いただけで、赤屍はすぐに奥のカウンターに辿り付く。 切れ長の目が、ずばぬけた長身の背を映した。 店内にいる者全員の視線が赤屍に集中する中、不動だけが赤屍を見ていない。 無防備というより、傲慢なその態度に、赤屍は焦れたふうもなく不動の左、斜め後方に立った。 姿勢の良い体を僅かに屈めて、ゆっくりと右手を伸ばす。 薄い唇から、どことなく甘いとさえ思わせる囁きが漏れた。 「会いたかったですよ」 カウンターの上に置かれた不動の左手の甲に、赤屍の右手が優しく重ねられる。 「会いたかったのは、俺じゃなくて『それ』か?」 赤屍の瞳は真っ直ぐ不動の左腕に向けられている。 揶揄するような不動の問いに、赤屍は薄く笑ってようやく不動と視線を合わせてきた。 「会いたかったですよ。……貴方に」 「そっちを先に言うもんだろうが」 「気を悪くされましたか?」 悪びれるふうもなく、赤屍は不動の左手を撫でている。 「やはり貴方が手に入れていたんですねぇ」 赤屍の言葉が指しているのは、不動の左腕だ。 正確に言えば、そこに使われている素材ということになる。 無限城の、とある店の技術者が創り出した物質は、現在は形を変えて不動の左腕となっていた。 赤屍も欲したものだが、おそらくは赤屍が店側と交渉を始める前から、それは不動のものになると決まっていたのだろう。 かつてあの店の前で二人が出会ったのは、偶然ではなかったというわけだ。 「店の御主人は、最後まで貴方の名前を出しませんでしたが、すぐに調べはつきましたよ」 「この場所はどうやって知った?」 塒とする場所はともかく、こんな行き着けの店まで探索できるとは思えない。 「とある男性が、親切に教えてくれました」 「知らねぇな」 本当に心当たりがないといった様子に、赤屍が僅かに呆れたかのような視線を浴びせる。 不動にとって、あのビルの持ち主はすでに一人の人間としての見方さえされていなかったのだ。 金も物も捧げさせ、精神が異常を来たすほど追い込んだくせに、不動は何の罪悪感も抱いてはいない。 最低最悪と非難される男には、他者の苦しみも怨嗟の声も、他人事なのだろう。 「もう記憶の外ですか。酷い人だ」 憐れな男から、強引に情報を聞き出した赤屍に言えた義理ではない。 それは自分でも分かっているのか、赤屍の口調には相手を責める色もなく、笑いながら愛おしそうに不動の左手を撫でている。 妙に艶かしく動く手を、不動も払いのけたりはしない。 義手はその感触を不動に伝えてはこないが、もし生身であったなら、赤屍の手は背筋にざわめくような刺激をもたらしたことだろう。 白い手がくすぐるように動くたび、不動の奥底で鎌首を擡げているものが噴き出しそうになる。 「素晴らしい出来ですね」 「全くだ」 言いながら、不動の左手が動いた。 赤屍の手を取り、引き寄せる。 しなやかな肢体は抵抗することもなく、不動に引かれるまま距離を詰めた。 遠慮もなく赤屍の腰に腕を回すと、促されるかのように上体を倒してくる。 不動の左肩に右手を、カウンターに左手を乗せてバランスを保つと、赤屍は顔を近づけてきた。 やや上方から、視線を絡め取るように不動の目を覗き込んでくる。 半端に伸びた黒髪が、さらりと流れて不動の頬を掠めた。 当人は何も考えていないのだろうが、思わせぶりな仕草は娼婦のような行動だ。 女のように色香を振り撒くわけでもないのに、どこか欲を煽る雰囲気を醸し出すのは、この異形の生き物が『男』を感じさせないからか。 「生身の腕と変わりませんね。見事なものです」 「で……奪いに来たのか?」 「奪い屋から物を奪う……。中々に困難でしょうね、例え廃業していたとしても」 不動が『奪い屋』を生業としていたのは、両腕が健在だった頃だ。 腕を無くしてからは、仕事としての強奪行為はしていない。 赤屍は、それなりに不動個人のデータも調べてきたようだ。 「それはもう良いのですよ。他に条件を満たす素材を探せば済むことです。しかし、貴方という人間は他に探しようがありません」 「そういう台詞は女を口説く時にでも使うんだな」 赤屍の台詞は、聞きようによっては誘い文句だ。 しかし、赤屍の浮かべる表情には、そんな甘ったるいものは微塵も見当たらない。 何を求めてここへ来たのかなど、問わずとも分かっている。 それでいて、不動は赤屍を焦らすように、望む答えを与えない。 「両腕も揃ったことですし……と思ってここまで足を運んだのですが」 不動にはぐらかされても、特に憤るでもなく、赤屍は遠回しに挑発してくる。 あくまでも穏やかな言葉を紡ぐその唇は、いやに艶かしい。 相手を戦いの場に招こうとする赤屍は、当人の目的とは違い、不動の別の欲求を駆り立てる。 「約束をした覚えはねぇ」 「貴方も殺し合いがお好きでは?」 「そして、お前は自分の要求を叶えて、もし俺が死ねば欲しい物も手に入るってわけか」 「……ぎりぎりの命のやりとりは、貴方もお好きでしょう?」 「俺には何の徳もない。てめぇにばかり都合の良い話じゃねぇか?」 そう言うと、赤屍が口を噤んだ。 確かに不動の言う通り、赤屍の提示するものは、片方にとってのみ都合の良い話だ。 その誘い方で相手を土俵に上げようなど、余程の変人でなければ乗ってくるはずがない。 不動ならば乗ってくるだろうと見越してのことだろうが、狙いはあながち外れではないものの、読みが甘いといえるだろう。 「欲が疼かなけりゃ、俺は動かねぇ」 赤屍の腰に回した腕に、軽く力を込めると、上体が更に降りてきた。 芳しい血の香りが漂うような、その唇を奪う。 変な禁忌は持ち合わせていないのか、赤屍は抵抗するでもなく、不動に促されるままに軽く口を開き、口内を蹂躙しようとする舌を招き入れた。 邪魔な帽子を払い落とし、深く唇を合わせる。 明らかに舌を絡めていると分かる口付けに、周囲の連中がごくりと唾を飲み込んだのが分かった。 濃厚で倒錯的な光景に、早くも欲情している者もいる。 赤屍は至極義務的に舌を蠢かし、感じ入っている様子はない。 引きずり出した舌を軽く噛んで、同時に手を腰から尻へと移動させてやると、ようやく赤屍の体が僅かに揺れた。 「……っん」 貪り合う唇の間から、赤屍の小さな喘ぎが漏れる。 不動の手が、男にしては柔らかそうな肉に指先を食い込ませると、嫌がっているのか感じているのか、赤屍が体を捩じらせた。 周囲の客たちが、赤屍の体に欲望丸出しな畜生紛いの視線を注いでいるのが、気配で感じ取れる。 細腰から下肢へと続く体の線が、眩暈がするほどのいやらしさを醸し出し、客たちの視線を引き寄せているのだろう。 舌が絡み合う濡れた音も、欲情を誘ってやまない。 だが口付けから解放してやると、薄く見開いたその瞳には何の熱も篭っていなかった。 不動と赤屍が、お互いに求めるものは違う。 どちらが我を押し通すか、それ次第で結果は決まってくるだろう。 赤屍が交渉を仕掛けてくる前に、こちらの要求を突きつける。 「俺が欲の塊だってのは知ってるな?」 「伺っております」 何を求められているかは、もう分かっているだろうが、それに対して赤屍はどう出るか。 抵抗もなく口付けを受けたことといい、気が向きさえすれば誰とでも寝そうな印象ではある。 大人しく身を投げ出すか、あくまでも自分の要求にこだわるか、不動にとってはどちらに転んでもかまわない。 「戦いに関してなら、貴方の欲を満足させられると自負しておりますが」 「分かってねぇな……。つまらねぇ奴、帰れ」 突き放すように言い、密着した赤屍の体を押しのける。 その手を、赤屍が優しく捕らえた。 微かに笑って、不動の手に口元を寄せ、指先をぺろりと舐めた。 「ずるい人ですね」 赤い舌が指の間を舐め上げ、軽く指先を含んで甘噛みする。 指などではなく、男の滾るものでも突っ込んだなら、さぞかし卑猥な表情を形作るだろう。 「貴方の要求に応じるならば、貴方にばかり都合の良い話じゃありませんか?」 そう言いながらも、赤屍はそこで交渉を打ち切ろうとはしない。 むしろ興味を引かれたのか、口元に軽く笑みさえ浮かべる。 「嫌なら帰れ――…」 言いかけた不動の言葉を塞ぐように、赤屍が前触れもなく口付けてきた。 軽く唇が触れ合い、すぐに離れる。 ほんの僅かな距離で互いの視線がぶつかり合い、不動が不敵な笑みを刻むと、赤屍が囁いた。 「いいでしょう、付き合いますよ」 不動が立ち上がるその周囲で、低いざわめきが漏れた。 どの客も、視線は赤屍に集中している。 これから行われるであろう行為を、脳裏に思い描いているのだろう。 涼しい顔をした赤屍が、不動の下でどんな狂態を見せるのか、客の関心はそれ一つに絞られているに違いない。 この黒衣の男が、あのDrジャッカルだと知ったら、驚愕はより大きいものとなるだろう。 「部屋を貸せ」 不動がそう言うと、店長が慌てて鍵を放ってよこした。 促すでもなく階段の方へ向かうと、床に落ちた帽子を悠然と拾い上げて、赤屍はその後を追った。 階上へ消えていく二人の背を見送って、店長がぽつりと漏らした。 「驚いたな、あの男を席から立たせたのが、絶世の美女じゃなく男とはね……」 |