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軋んだ音を微かに響かせて扉が開くと、それを待ち構えていたかのように壁時計が時刻を告げた。

安っぽい電子音ではなく、硝子の鐘を打ち鳴らすような音が、耳に心地良い。

何度でも聞きたいと思わせるそれは、きっかり10回鳴り響いた後ぱったりと静まり返る。

部屋の電気がつけられて、時計の姿が露になった。

淡いベージュの壁に取り付けられた時計は、発する音に相応しく華麗な装飾をまとい、時を刻み続けている。

貴族趣味な部屋にでもあれば、それはますます艶やかに輝きを放つことだろう。

しかし、残念なことに時計が飾られた部屋は、味気のないほどに淡白なものだった。

個人の部屋というよりは、どちらかというとオフィスのような雰囲気が漂う。

壁も床も天井も、機能美を計算し尽くされたかのように統一された彩色がなされ、家具らしきものは最低限しか置かれていない。

家具が少ない代わりに、パソコンとその周辺機器が大きく場所を取り、そのことがますますこの部屋から生活感を取り除いている。

「もうこんな時間か……」

低く呟いて、霧人は時計を仰ぎ見た。

随分昔、母からもらった壁掛け時計だが、いつになっても見慣れない。

かつてはこの部屋もその時計に合わせるかのように、華美な中華様式で占められていたものだが、使い勝手が悪いからと、霧人はどんどん装飾的なものを排してしまった。

最後に残ったのがその時計なのだが、他を排除してしまったために、豪華な姿が余計に違和感を醸し出している。

今はもう、その時計を邪魔だと感じるようになってきているのだが、母から贈られたものと思えば無碍にはできない。

時計自体への興味は失せても、それに篭った母の愛情はかけがえのないものだと思っている。

例え場に合わなくなろうが、壊れてしまおうが、捨てるという選択肢だけは考えていない。

どうしたものかと軽く溜息をついて、扉を閉めた。

中国服の襟元を緩めながら部屋を横切り、まっすぐ寝室へ向かう。

ここ数日、残業が続いていて、流石に疲れが溜まってきている。

今日はこれでも早く帰ってこられた方だ。

会社での業務は大したことがないのだが、その代わり鬼里人に関わる業務の方に時間を取られるようになってきている。

そのため、通常業務へ皺寄せがきているのだ。

今はそれほどの負担は感じず、辛うじて両立できているが、鬼里人が本格的に動き出せば、会社の方を犠牲にせざるを得ない状況になるだろう。

会社という組織は、システムがしっかりしている限り、役員が一人変わったくらいで破綻を来たすものではないが、これまで自分が手掛けてきただけに、ここで手を引いてしまうには少々未練がある。

できるところまでは運営に携わっていきたいという、その姿勢が結果的に霧人へ負担を強いていた。

体もそうだが、時間的な余裕のなさが精神にストレスを掛ける。

暫くはこんな状態が続くだろう。

強張った肩の筋肉をほぐすように軽く腕を振りながら寝室へ入った。

電気をつけるのも面倒で、鍵やら携帯電話やらをベッドの脇に適当に投げ出すと、そのまま倒れ込む。

窓から入り込んでくるささやかな光と、柔らかく体を受け止めてくれるスプリングが心地良い。

それから暫くの間、夢と現の境を彷徨いながら疲れを癒す。

起き上がれるようになる頃には、ベッドに辿り付いてから一時間が過ぎようとしていた。

時間の感覚も忘れ、はっきりしない意識のままぼんやりと天井を眺める。

このまま本格的に寝入ってしまいたいくらいだが、流石に服を着たままでは余計に疲労を重ねてしまうだろう。

いくらオーダーメイドで、完全に霧人の体に合わせて作られているとはいえ、公式の場にも着て歩く中国服はやはり堅苦しい出来には違いがない。

せめて着替えるくらいはしようと、睡眠へと落ちかかる頭を無理やり働かせて体を起こす。

「……ん?」

サイドボードに置いてある寝間着を手に取った時、激しい音が鼓膜を叩いた。

けたたましい電子音が、靄の掛かった意識を一気に呼び覚ます。

先程、無造作に投げ捨てていた携帯電話が着信を知らせていた。

会社関係かそれとも身内からか、こんな時間に誰からだろう。

訝しみつつ、考えられる名前を数人思い浮かべながら携帯を取り上げる。

液晶画面に示される番号は、見知ったものではない。

間違い電話か、何かの勧誘の類かと、無視する方向で敢えてすぐには応じないことにする。

しかし、暫くすれば諦めるかと思われたそれは、いつまで経っても鳴りやみそうになかった。

「面倒な……」

仕方なく回線を繋ぐ。

思いきり不機嫌な声で応じた。

「もしもし」

『出るのに随分かかったね、霧人』

淡々とした声が、静かに告げてきた。

言葉だけは非難しているかのようだが、声そのものは特に責めている口調ではない。

しかし、どうにも気に障るその声に、即刻通信を切ってしまいたい気持ちを押さえ、霧人は相手の名を呼んだ。

「毒蜂……」

どうやってこの携帯の番号を調べたのだろうか。

そう思いつつも、よくよく考えてみれば、毒蜂の立場ならどこからでも入手可能だろうと考え直す。

ごく親しい者や会社の幹部しか知らない番号ではあるが、強い立場を利用できる上に、何故か情報収集を得意とする毒蜂なら、どうとでもなるだろう。

裏から手を回すこともできるだろうし、それとなく尋ねてみるだけでも、一族の者たちは何の疑問も持たずに答えてしまうに違いない。

もっともらしい理由をつけて聞き出すことなど簡単だ。

情報を漏らした者は悪意がなかったのだろうが、その誰かを恨みつつ、明日には番号を変更してしまおうと心に決めた。

「何か用でも?」

『忙しいようだね、ご苦労なことだ』

話す内容はごく自然な世間話のようなものだが、その中にどうしても嘲けるような印象を感じ取ってしまう。

そう思うのは、決して霧人の気のせいではない。

女郎蜘蛛と霧人を中心とする蜘蛛一族の方針に対して、毒蜂は快く思っていないのだ。

今、霧人がこうして忙しなく勤めていることも、おそらくは無駄なことに労力を使っているものだと、そう思っているのだろう。

「貴方の方こそ色々大変だそうじゃないか。降格の可能性もあるんだろう?」

相手が目の前にいないということが、少しばかり気持ちに余裕を持たせたようだ。

毒蜂に反発する感情を押さえられずに、言葉に毒を含ませてみる。

伝え聞いたところによると、貴重なワインを手に入れ損なったとかどうとか、あの毒蜂が失態をするとは珍しい。

ただ、それによって得られた重要な情報もあるようで、最近の鬼里人の動きが殊更慌ただしくなっているのはそのせいだ。

失態と入手した情報とを天秤に掛けて、それで毒蜂の処遇が決定されることになるのだろうが、この分では何らお咎めなしだろうか。

嫌味を交えた霧人の台詞に、応じた声はあまりに静かだった。

『格付けにはあまり興味が無い』

「……」

普通、地位が高ければ高いほど、序列が気になるものだろう。

今現在、毒蜂は七頭目筆頭という、長の兜を除けば事実上の最高位だ。

その気になりさえすれば、肉体を失っている兜を押さえて、鬼里人を裏から牛耳ることすら可能なはずの、それだけの権限を持っているのである。

その地位から落ちるかもしれないという状況で、全くの無関心でいられるわけがない。

格付けに興味がないなどと、その言葉は降格人事に晒された故の負け惜しみか。

霧人がそう口に乗せようとして、しかし毒蜂の台詞がそれを遮った。

『ついでに言わせてもらえば、私の降格はないよ』

その一言が霧人を黙らせる。

つくづく転んでもただでは起きない男だ。

ここぞとばかりに毒蜂の降格を狙った連中は、当てが外れて悔しがっていることだろう。

さし当たって、昇格を目指す賽蝶あたりは苦々しく思っているだろうか。

毒蜂がいる限り、賽蝶は今以上の昇格は望めない。

頭の中でそう計算する霧人を見透かすかのように、毒蜂が穏やかに語りかけてきた。

『下らない話は終わりにしないか、霧人?』

毒蜂は、地位争いを下らないの一言で片付ける。

世俗を感じさせない口ぶりは、他の者たちが血道を上げていることへの関心の薄さを示していた。

そうしたことに興味を持たない者は他にもいるが、ここまで容赦なく切り捨てるのは毒蜂くらいのものだろう。

そして、そんなところが不気味でならない。

毒蜂が周囲から怖れられる所以は、その驚異的な戦闘能力や洞察力の他に、他者には理解できないこうした謎の部分を抱えているからだろう。

『こんな話に時間を割くのは、もったいないと思うのだがね』

「何が言いたい……」

『分からないはずはないだろう?』

そう言われて体が竦み上がった。

毒蜂の言葉が何を意味しているのか、指摘された通り分からないはずはない。

忘れようもないほどに、何度も体と心に刻まれた行為。

無理やり体を開かされ、ただひたすら快楽を与え続けられて、毒蜂の望むままに肉欲の海へと堕ちた。

生殖に関わるものであるはずもなく、愛情を示すものでもない。

思い出すたびに、押し寄せる激情で体が壊れそうになる。

『霧人』

「……っ」

嫌な声だ。

静かなくせに、霧人を従わせる絶対的な力を持つ。

『……おいで、霧人』

囁き掛けるような甘い声音が、耳の奥へ響き渡る。

「貴様なんか……っ!!」

言い掛けた言葉をぎりぎりのところで堪え、霧人は携帯電話を耳元から離すと一方的に通信を切った。

電源を落として、不吉なものでも扱うかのように投げ捨てる。

硬い音がして、携帯は床に転がった。

礼を逸した行いだとは分かっていても、あれ以上毒蜂の声を聞いていたくはない。

あと少しでも聞いてしまったなら、もう逆らえなくなる。

いつものように自我を奪われ、また羞恥と背徳に満ちた時間を強いられることになるだろう。

部屋の隅まで滑っていった携帯から目を背け、耳を塞いでしゃがみこんだ。

喉の奥で何度も毒蜂のことを罵倒し、その存在の消滅さえ願う。

「あんな奴……っ」

ひとしきり悪態をついて、罵る言葉がそれ以上思い浮かばなくなってから、少しだけ頭が冷えてきた。

膝を抱えたまま、床の隅に転がった携帯電話を眺める。

流石にまずい行動だっただろうか。

いきなり電話を切ってしまうなど、立場を弁えない行動だと責められたなら、反論もできないだろう。

どんな事情があるにせよ、七頭目の一角である者に対して、あの態度はどう考えても許されるものではない。

後悔という二文字が浮かんだが、毒蜂がこれしきのことで気を悪くするはずもないと思い直す。

どうせ面白がっているだけだ。

毒蜂は、霧人がどんな行いをしようとも、基本的に怒ったりはしない。

思い切り拒絶しようが、無礼な言葉を吐こうが、銃口を向けてさえ平然と笑って受け流す。

今回のことも、そうやって何もなかったことにしてしまうだろう。

「他の、頭の固い頭目だったなら、礼儀がなってないと怒り狂うかもしれないな……」

そうなれば自分だけでなく、蜘蛛一族全てに迷惑を掛けることになる。

相手が毒蜂だからこそ、こうして感情に任せた行動ができるのだ。

そこまで考えて、ふとあることに気が付いた。

毒蜂だからこそ――?

霧人がここまで生意気な口を叩けるのは、毒蜂だけだ。

七頭目の、しかも筆頭に対して、霧人があれだけ礼儀を欠いた物言いをしていながら、それがまかり通っているのは、毒蜂がある程度黙認してくれているからに他ならない。

賽蝶あたりなら、霧人が口を出しただけで疎ましがる。

普通ならばそれが当たり前の反応だろう。

七頭目と霧人は対等の立場ではない。

あれだけ言いたいことを言わせてくれる毒蜂は、異例なのだ。

毒蜂はただ単に、霧人のことなど気にしていないだけかもしれないが、それにしてもここまで容認するとは違和感さえ覚える。

そして毒蜂がそうした態度を取るから、つい霧人も増長してしまうのだ。

他の頭目たちと違って、毒蜂に対する時には、変な安心感さえ覚えている。

それはある意味甘えだろうか。

毒蜂なら咎めたりしないと、そう無意識に甘えているのだろうか。

本気で怒らせたなら、どれだけの報復が返ってくるか知れないような相手だというのにだ。

「そんな……つもりは……」

体の関係、共有の秘め事、そんなものだけで大目に見てくれるような毒蜂ではないはずだ。

霧人もそんなことくらい分かっている。

分かってはいるのだが、こうして自分の行動を改めて振り返ってみれば、毒蜂の度量に甘えているかのようにしか思えない。

あれだけ毒蜂のことを嫌悪していながら、心の底では何か別の感情が根付いているのだろうか。

そんなはずはないと、その考えを打ち消そうとする。

堂堂巡りになりそうな思考を、敢えて中断させて目を閉じた。

自分の感情も、毒蜂の行動の意味も、何もかも分からなくなる。

考えたところで答えは出ない。

毒蜂に問い質したところで答えは返ってこない。

気持ちを切り替えて、毒蜂のことを頭の中から追い出そうとする。

あの姿も、あの微笑も、あの声も全て。

「……っ」

しかし、あの囁きは脳から離れそうになかった。

優しいくせに、霧人を追い詰めるような、縛りつけるようなあの呼び声。

思い出すと、その都度心臓が跳ねた。

実際に聞こえるわけもなく、その声は脳裏に刻み込まれたものだ。

それと分かっていながら、両手で耳を塞ぐ。

そんなことをしてみたところで、脳内で響くその声は消えるはずもなく、催眠術でもかけられているかのように、甘い声は頭の中で繰り返された。

霧人から情欲の熱を引きずり出そうとする時、あんな声で呼んでいたことを覚えている。

「……く」

自らの呻き声が、淫らな色を含み始めているのが認識できた。

毒蜂に植えつけられた官能が、体の中で頭を擡げる。

最後に毒蜂の手で弄ばれたのはいつのことだったろうか。

それ以降は急激に忙しくなり、毒蜂と顔を合わせることもないまま、欲を処理することもおざなりになっていた。

毒蜂の囁きが、奥底に眠らせた欲望を思い出させる。

せっかく忘れかけていた甘美な感覚が、じわりと全身に広がってきた。

溜まった欲が、自分でも制止できないほど急速に高まってくる。

もどかしさに、手が無意識に動き始めた。

「……ぁ」

首筋に這わせた手に感じる体温は、自分でも驚くほど熱い。

自分の体の変化に躊躇いつつも、邪魔だとばかりに上衣を脱ぎ捨て素肌を晒す。

直に触れると、胸元のそれは既に硬く尖り、愛撫を待ちわびているかのようだった。

胸を撫で回し、尖りに指先を絡ませる。

「ん……」

擦り上げ、時に指の腹で押し潰し、硬くなったそれを自らの手で攻め立てる。

片側だけでは足りずに、両手で両のそれに刺激を与え始めた。

「ぅあ……っ」

確かあの指はこう動いて、こうしてもらうと体が蕩けそうなくらいに気持ちが良かった。

そんな記憶を頼りに、霧人の指先はそれを再現しようと蠢き、体はその刺激に悶える。

しかし、それだけでは足りない。

乱れた息の下から苦鳴を漏らし、霧人の手は下肢へと伸びた。

服を脱ぎ捨て全裸を晒し、誰の目もないのをいいことに、恥ずかしげもなく足を開く。

どうせここは霧人の私室だ。

密室となっているこの部屋では、何をしようと誰に見られるわけでもない。

扉の電子ロックを解除できるのは霧人本人しかいないのだ。

その安心感からか、端から見れば卑猥なほどの格好で、既に勃ち上がったそれに手を伸ばした。

「ああ……っ」

高い喘ぎが四方の壁にぶつかって撥ね返る。

自慰の経験がないわけでもないのに、この快感はどうしたことだろう。

握ったそれを、僅かに力を込めて擦り上げるだけで、凄まじいまでの快楽が駆け上がる。

それだけで達してしまいそうだった。

「あ……っ、やっ」

あの手はこう触れた。

あの手はこうやって愛撫してくれた。

無意識にそれを思い起こして自らの手を蠢かす。

部屋に一人きりだというのに、まるで相手がそこにいて嬲られているような感覚だった。

その想像に身を委ねると快感の度合いが増す。

性器への愛撫だけでは物足りなさを感じて、霧人は片手でそれを握ったまま、もう片手を後ろへと伸ばした。

駄目だと思いつつも指先は止まらず、体は理性の束縛から離れて与えられる刺激に歓喜し、拒絶的な反応など見せようともしない。

本来受け入れる器官ではないそこへ、指先を忍ばせた。

先走りで濡れた指先を、入口で何度も彷徨わせ、そこを湿らせていく。

腰を浮かせて指を潜り込ませた。

「んく……っ」

自分の指をそんなところに含ませるのは初めてだ。

指先に肉の柔らかさ感じて思わず赤面する。

そんな霧人の意思など関係なしに、そこは指の侵入を認めて包み込むように締め付けた。

淫らに絡んでくる己の肉体を知って、霧人の顔が羞恥にますます赤くなる。

ここに毒蜂の指先が与えられるたび、自分の体はこうやって悦びも露に、その刺激を受け入れていたのだろう。

屈辱を噛み締めつつも、快楽を求める体は留まるところを知らない。

二本、三本と指を増やし、入口を広げると更に奥を目指す。

「ふ……っ、ああっ」

毒蜂に教え込まれた箇所を、自分の指で探り出し、そこをゆるゆると刺激する。

開いた足がひくりと痙攣し、霧人は熱い吐息を漏らした。

だが足りない。

この体勢では、指は奥まで届かず、むず痒い感覚を煽るばかりだ。

こんなたどたどしい愛撫ではなく、もっと容赦なく責め抜くような手が欲しい。

何もかも分からなくなるような、体が蕩けてしまいそうな、それだけ激しい快楽が欲しくてたまらなかった。

それさえ与えてくれるなら、その相手が毒蜂でなくとも、或いは無機質な道具であっても構わないとさえ思ってしまう。

「く……っ」

自分一人だけでは得ることのできない快感を求めて、体内を犯す自分の指を、他人のものだと思い込もうとする。

かつて毒蜂にそうされたように内部を時折きつく抉り、もう片方の手で勃ち上がったものを強く擦り上げた。

誰もいないと分かっているのだが、目を閉じれば架空の光景に、自分を組み敷く相手の姿を思い浮かべてしまう。

「あっ……ああっ、い……や」

脳裏に刻まれた相手に対して、拒絶の言葉を口にする。

誰かに強要されているわけではないのだ、嫌なら手を止めればそれで済む。

だが、霧人にとってもうそれは単なる虚像ではなくなっていた。

自らを苛む相手が実際にそこにいて、自分はそれに従わせられているのだと、そう思い込むことで、霧人の体に現実味を帯びた刺激が加わる。

「はっ……はぁ……あ、あっ」

いきり立った自分のものを扱き上げ、潜り込ませた指を激しく出し入れする。

快楽に染まった体をのたうちらせ、霧人は自らを追い上げた。

いやらしい音が響き、何もかも分からなくなる。

膨れ上がった欲望に身を任せた。

「あああっ、――っ!!」






それからどれくらい経ったのだろうか。

冷えてきた体を意識して、霧人は目を開いた。

ぼんやりと見上げるその先には、見慣れた天井がある。

身動ぎすると、体に違和感が走った。

素肌に直に触れるシーツと、下腹部に散る濡れた感触が気持ち悪い。

ゆっくりと半身を起こすと、ぬるりとした感触に肌が粟立ち、体の奥深いところが微かに疼いた。

「……あ」

今しがたまで耽っていた行為への羞恥が改めて湧き上がってくる。

気持ちが悪い。

シャワーで手っ取り早く流してしまいたかった。

体の汚れも、恥ずべき行為の最中に思い浮かべてしまったものも、全てまとめて水で洗い流してしまいたい。

どうにかできるのは体の汚れのみだと分かっていても、清浄な水に触れることで、少しは精神の汚れも薄まってくれるような気がした。

床に足を下ろして、今更ながら自分が全裸だということに気がつく。

寝間着を着るのも鬱陶しくて、ガウンを手に取って立ち上がった。

「あ……くっ」

体内に残る甘い感覚に膝が折れた。

自己嫌悪に陥るほどの、艶を滲ませた声が漏れ出でて、バランスを崩した体はその場に力なく蹲る。

まだ足りないとでも言いたげに、奥深いところが熱く脈打っていた。

押し寄せる感覚を、頭を振って追いやり、身を縮めて欲求の波が引くのを待つ。

しかし、少し待てばすぐにも消えるだろうと思っていた疼きは、中々納まらなかった。

心身ともに落ち着けようと、深く息を吸い込み、吐き出す。

それを何度か繰り返すと、ようやく体の方は静まり、霧人は一つ溜息をつくと顔を上げた。

窓の外から、数多くの星の光を圧して、月が微笑みかけている。

その光の中を、小さな物体が横切ったように見えた。

こんな夜中に、その虫が活発に飛び回るようなことはない。

見事な月夜。

その妖艶な月の姿に、霧人の頭に常ならば存在するはずのない考えが過ぎる。

かつて会社の執務室で、そこから眺める月を気に入ったと語る者がいた。

先刻の電話の相手、彼はどこから電話をかけてきたのだろうか。

あれからどれだけ時間が経っているのか、仮にあの部屋から誘いをかけてきたのだとしても、もうその場にはいない可能性の方が高い。

こんな長い時間、霧人を待ち続けたりはしないだろう。

そんな関係でもなければ、そこまでの執着など持っていないはずだ。

「……」

期待しているのだろうか。

自らの内に湧いた思いに、答えを見出そうとはせず、霧人はガウンを羽織って歩き出す。

シャワーの水音が響くことはなく、素足で歩く乾いた足音は、そのまま部屋を出て行った。






静まり返った廊下を、人目を憚ることもなく進む。

こんな時間だ、警備の者以外は誰もいない。

『羅網楼』の内部も、入り組んだ地下通路も慣れたもので、迷うことも誰かに遭遇することもなく、霧人は自社ビルの上階へと上がってきた。

監視カメラの位置もその死角も心得ている。

霧人の姿を捉えるのは、窓に嵌め込まれたガラスしかありえなかった。

ガラスに映った自分は、いつもの中国服ではなく、素肌にガウンという姿で、会社の廊下には相応しくない。

情けない自分の姿を見ていたくなくて、視界に入らないよう気をつけながら先を急いだ。

毎日のように長い時間を過ごす執務室の前まで来て、ドアノブに手を掛ける。

その先にある光景は、終業時刻の清廉さを残したまま空気が眠りについている、そんなものであるはずだった。

だが、その光景に一つの要素が加わるだけで、一気に様相を変えてしまうことを知っている。

あの男が存在するだけで、慣れ親しんだ部屋は、全く見知らぬ空間と化してしまうのだ。

期待しているのか、嫌悪しているのか、もう分からない。

わざわざここまで来てしまったからには、期待しているのだろう。

だが、そんな自分を激しく嫌悪する自分自身がいる。

意を決して、ゆっくりと扉を開く。

執務室の中に入ると、薄闇と静寂が霧人を迎えた。

大きな窓から月が顔を覗かせている。

デスクの向こうにある椅子に、優雅に座る人影へ視線が吸い付いた。

月の光を浴びて、雪のように薄い色合いの髪が仄かに輝きを発している。

この世のものではないかのような霊妙な空気、日常の世界では決して感じることのないそれが、静かに部屋を満たしていた。

体に緊張が走ったのと同時に、甘い疼きも駆け上る。

膨れ上がってくる欲求に、膝から力が抜けそうになった。

人影は、気付いているのかいないのか、こちらには背を向けている。

足音を立てないように近づくと、人影が微かに笑い声を漏らしたように思った。

「こんな時間にどうしたんだい、霧人?」

そういう毒蜂こそ、こんな深夜に他人の所有する執務室で何をやっているのか。

反射的にそんな思いが浮かんだが、口には出さない。

聞いたところで、月を愛でに来たとかどうとか、答えをはぐらかされるだけだろう。

無言で近寄り、椅子の傍らに立つ。

絶対的な支配者のように、鷹揚に椅子にかける毒蜂は、霧人のことなどどうでもいいと言いたげに、視線を合わせない。

その態度に、今ではもう怒りすら感じない。

こちらの感情をいくらぶつけてみたところで、無意味なことがよく分かっている。

体内を苛み続ける熱をどうにか宥めながら、毒蜂が視線を向けている方を見つめた。

満月ではないものの、それでも十分鑑賞に耐える月が浮かんでいる。

「何をしにきたのだね?」

「それは……」

「冗談だよ。ようやく来たね」

毒蜂が椅子から腰を上げた。

霧人の視界から月を塞ぐように立ち、その冴えた右の瞳が、ようやく月ではなく霧人の姿を映し出す。

「抱かれに来たのだろう?」

「……っ」

「そのためにここへ来た……違うかい?」

「わざわざ待っていた……というのか?」

「さあ、どうだろうね」

曖昧な返答に、そんなはずはないと思いつつも、都合の良い解釈へと思いが揺れる。

覗き込んでくる毒蜂の瞳を見つめ返すと、そんな複雑な感情までも見透かされるような気がした。

それを悟られたくなくて、拒むように視線を逸らす。

ふと、デスクの上に置かれたままのノートパソコンが目についた。

この角度からでは画面が見えないが、僅かに光が漏れている。

起動しているのだ。

一気に背筋が凍りついた。

パスワードがない限りネットワークに侵入することはできないはずだが、不安に心拍数が上がる。

毒蜂に気付かれないよう、注意深くパソコンの周囲を観察した。

パソコンの傍らに何枚かのディスクが重ねられている。

あの中身を呼び出しただけだろうか。

ディスクの内容をただ読み出しただけならともかく、あれがもしパスワード解析プログラムや、ウィルスを内蔵したものだったなら大事になる。

「霧人」

動揺する霧人の思考を邪魔するように、毒蜂が名を呼んだ。

遠慮もなく体を抱き寄せ、その瞳を覗き込んでくる。

「せっかくの逢瀬なのに、何を考えている?」

「何でも……ない」

「一つ教えておこう。君の危惧しているようなことはないよ。ただデータを確認しただけだ……この近くで他に都合の良い端末が見当たらなかったのでね」

安堵すると同時に、やはりそうした理由でここにいたのかと、思いを改める。

何のデータか知らないが、毒蜂がここに来た目的は、やはり霧人ではなく別のところにあったというわけだ。

霧人に誘いをかけたのは、データの確認に飽きたか、たまたま思いついたかの、その程度の理由でしかなかったのだろう。

黙って俯いた霧人に、毒蜂の手が伸びた。

顎を捕らえて上向かせ、露わになった首筋に唇を落とす。

「ん……」

首を愛撫されるのは好きではない。

肌をくすぐる毒蜂の指に、舐め上げる唇に、いつ殺意が含まれるか、そんな恐怖が常について回る。

そして何より嫌悪すべきは、拭いきれない恐怖を抱えていながも、そんなことがどうでもよくなるくらい激しい快感を覚えてしまう自分の体だった。

毒蜂の紅い唇が、耳の後ろの柔らかい部分に軽く吸いつく。

耳朶を甘噛みされて、軽く舐め上げられると、背筋に痺れるような感覚が走った。

首筋への愛撫はそのままに、毒蜂の手が霧人のガウンに掛かる。

霧人に抗う気配がないのを見て取ると、貴重品を覆った布を取り去るような優しさで、しかし遠慮もなく素肌を晒し始めた。

ガウンが足元に落ちて、薄闇に霧人の裸体が浮かび上がる。

「いけない子だね……こんな格好で出歩くなんて」

口元に薄笑いを刻みながら、毒蜂が霧人の体を見下ろした。

自慰の痕跡もしっかり見咎められているに違いない。

今の霧人の体がどんな状態に陥っているのか、何もかも知り尽くしているのだろう。

指先が喉元に突き付けられて、ほんの僅かに触れたままゆっくりと肌を辿っていく。

鎖骨を滑って胸へと移動し、人差し指と親指とで突起を摘ままれた。

「あ……っ、んっ……ぁ」

優しく擦り上げられて、たまらず声が漏れる。

毒蜂はこうして霧人の体の一部を翻弄するだけで、抱き合って全身に愛撫を加えるわけではない。

今もこうして胸を嬲られているだけだというのに、全身をくまなく撫でくり回されているような、そんな錯覚さえ覚える。

霧人を少しだけ喘がせた後、淡白なことに指はそこから離れ、再び微細な刺激を与えながら下降していった。

脇腹に沿って下がった指は、腰骨を辿り体の中央へと戻ってくる。

微かな笑い声が漏れた。

「ここは触れるまでもないかな?」

「……っ」

小刻みに肩を震わせながら、霧人が俯く。

まだ直接触れられてもいないというのに、霧人のそこは毒蜂の手を求めて勃ち上がっていた。

ほんの少し前に処理したはずなのに、今もまたこうして欲望を訴えている。

もう否定のしようがない。

霧人は、毒蜂に抱かれたくてここに来たのだ。

「触ってほしいかい?」

「う……っ」

「自分でやる、という選択肢もあるがね」

そう言われて心臓が大きく鳴った。

先程まで、自室のベッドの上で耽っていた行為を、あろうことか毒蜂の目の前でやってみせろというのだろうか。

毒蜂の視線に晒されながら、あんな淫靡で背徳的な姿を見せるなどと、そんな愚かしい真似をできるはずもない。

まさかそれを強要されるのではないかと、その予感に体が強張る。

その不安を察知されたのだろう、毒蜂はゆるく笑うと霧人から手を離した。

何を要求されるのかと、霧人の表情に困惑の色が増す。

素知らぬ振りで、毒蜂は半歩下がると椅子の背凭れに手を掛けた。

「君の席だ。座りたまえ」

その言葉に、息を飲む。

脳裏に、その椅子に掛けたまま淫らに乱れる自分の姿が浮かんだ。

自ら予想したことへの怖れに、体は金縛りにあったかのように動かない。

快楽を求めてこの部屋へ来たはずなのに、こうして直面するとやはり躊躇いが先に立つ。

その場に硬直したままの霧人を、嘲るかのように毒蜂が笑った。

毒蜂からすれば、今の霧人の姿など滑稽なものでしかないのだろう。

ここに自分からやってきた時点で、霧人はその行為を求めているということの証明だ。

それなのに、往生際の悪いことにこうしてまだ思い悩む。

「欲しいのだろう?」

「私は……っ」

「無駄な言葉を吐くなら、私はここで失礼させてもらうが」

これ以上渋れば、毒蜂は言葉通りこの場から去るだろう。

毒蜂から視線を逸らし、椅子に掛ける。

張られた皮の感触が、直接肌に当たって気持ちが悪い。

少し前まで毒蜂が座っていただろうに、椅子の表面は少しも熱を残しておらず、その冷たさに竦み上がった。

普段、霧人はここに座し、ここから多くの人間を動かしている。

まさにその場所で今、霧人は全裸で毒蜂の手を待っているのだ。

怯える体に毒蜂の手が伸びる。

両の膝に触れた手は、裏へ回り霧人の足を持ち上げた。

「な……っ」

左右の肘掛に、それぞれ足を引っ掛けられる。

自然、その中心を晒す格好になり、羞恥に耐えられず霧人は固く目を閉じた。

快楽を求めて勃ち上がっているそれを、触れてくれと言わんばかりに見せつける形になる。

だが、毒蜂の手はそこには触れず、更に奥を求めてきた。

「あっ!! そこ……は」

「君はここの方が好きだろう?」

狭い入口に指先が押し当てられる。

遠慮もなく肉を掻き分けて、一気に三本の指が侵入してきた。

「あああ……っ!!」

体を仰け反らせて全身を駆け巡る刺激に耐える。

「随分緩んでいるね。ここも弄ったのかい?」

揶揄する声に、言い返す言葉も思いつかない。

ようやく得られた快感に、意識が蕩けて真っ白になる。

夢中で毒蜂に縋りついた。

これまで幾度も繰り返されてきた行為は、その都度霧人から抵抗する意思を奪い取り、今はこうして嬲られるとすぐに快楽を受け入れてしまう。

もう抗う気持ちも、逃げようとする考えも浮かんでこない。

毒蜂のいいように仕込まれてしまったのだと、気付いていてもどうすることもできなかった。

嫌悪という感情も消え失せ、淫らに行為の先を求める。

「欲しい。欲し……い、ん……だ」

「好きなだけあげるよ。……いい子にしていたらね」






ぐったりと椅子に沈んだ体に、羽のような優しさでガウンが掛けられた。

いつものように毒蜂は霧人を悦楽の渦に突き落とし、喘がせるだけ喘がせて自分は涼しい顔をしている。

何の未練もなく霧人から離れると、毒蜂はデスクのパソコンに手を掛けた。

ハイテクを嫌うわりには、意外にも慣れた手つきでディスクを取り出しシャットダウンする。

霧人の靄の掛かった視界には、辛うじて見えたパソコンの画面に、何が映し出されていたのかよく分からない。

ただ、人間の写真らしき小さな画像と、その横にびっしり並んだ文字という組合せだけは理解できた。

何かの人物リストとその詳細データといったところだろうか。

毒蜂が警戒心なく画面を見せたのは、そこから読み取れる情報など大したことではないということだろう。

数枚のディスクをポケットに収めると、毒蜂は霧人に視線を流してきた。

「さて……私は当分来ないから、君はその間、適当な相手を見つけておきたまえ。その淫らな体を慰めてくれる都合の良い相手をね」

「――……っ」

去ろうとする背中に、何かを考える前に声が漏れていた。

「他の、誰か……なんて……。そんなことを言わないでくれっ!!」

頭の中の冷めた部分が、拙い言葉と悲愴な声を、愚かだと笑う。

間違いなく憎んでいる相手だというのに、何故そんな必死な様相で縋りつくのか。

「霧人……?」

その時、自分はどんな表情をしていたことだろう。

霧人に何を見出したのか、毒蜂の顔から一瞬表情が消えた。

氷のような毒蜂の瞳が、静かに見下ろしている。

いつものように、笑って一蹴されると思っていた。

数秒の沈黙が重い。

「私に、下手な期待を抱いているわけではないだろうね?」

「……」

容赦なく突き放すような言葉に、唇を噛み締める。

「あんたなんか……」

「言ってごらん」

「死んでしまえばいい」

「それから?」

「殺してやりたい。でも……、それなのに……っ」

「何を言うつもりか知らないが、その先の言葉は無意味だね」

いつも何でも言わせてくれるくせに、その先の言葉は言わせてもくれないのか。

威圧するような瞳が、無言で霧人の口を塞ぐ。

虚脱感と共に、霧人の体は椅子へ沈み込み、のろのろと上げられた手が両目を覆った。

「今度会うとしたら公式の場だ。『羅網楼』に七頭目全員が集まる。君も呼ばれるだろう」

閉じられた視界の中、暗闇の中で聞こえる声は次第に遠ざかる。

「いつものように噛み付いておいで。私はそれを楽しみにしているので……ね」






「この二人をなめない方がいいよ、女郎蜘蛛。同じ七頭目の一人として、忠告しておくけどね……」

羅網楼の地下、大きなモニターの設置された部屋で、霧人は毒蜂と顔を合わせていた。

あの夜、毒蜂が霧人に告げたことは、ものの数日としないうちに現実のものとなったわけだ。

賽蝶を除く七頭目が羅網楼に集い、霧人もこうしてここに居合わせている。

「毒蜂……」

「どうだい霧人、気分の方は? まだ悪夢を見るのかな?」

「あ……ああ、催眠療法のおかげでもう大分いい」

「だったらいっそ忘れてしまった方がいいよ」

いけしゃあしゃあと、よくそんなことが言えるものだ。

悪夢と共に、あの夜のことも全て忘れてしまえと、そう言われているような気がする。

実際、毒蜂はそうしてしまうつもりなのだろう。

霧人のことなどお構いなしに、何もなかったことにするのだ。

「人間は思い出さない方が幸せな記憶というものを、誰しも抱えて生きている。忘却こそが人間という『退化』した生物に残された最後の防衛本能だからね」

淡々と綴られる言葉に、苛々が募る。

あの時の、去り際の毒蜂の台詞がちらついた。

『いつものように噛み付いておいで――』

「……」

それなら、望む通りにしてやろう。

意識し始めた感情も何もかも、すっぱりと切り捨てて、ひたすら対立してやる。

横目で毒蜂を睨み付けた。

「あんたの戯れ言はもう聞き飽きたよ」

霧人の言葉に、毒蜂が楽しげに微笑した。

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