「遊ぼう!! MAKUBEX!!」

そう言って笑い掛けながら、銀次がMAKUBEXの肩に手をやった。

その裏のない笑顔に、つられてMAKUBEXも表情を崩す。

銀次が他の皆にも呼び掛けるかのように、少しだけ声を張り上げて、楽しそうな提案をした。

「よ〜し、今度はMAKUBEXが逃げる役!!」

「チ! しゃーねーな。手加減しねーぞパソコンオタク!」

蛮の口の悪さは変わらないが、その口調には言葉と裏腹の暖かみが見え隠れしていた。

新旧VOLTSの幹部を始め、卑弥呼も集まってくる。

さっきまで逃げる役は笑師だった。

その役を今度はMAKUBEXに割り振って、武器使用可の殺伐としたものではなく、本当に子供が遊ぶような普通の鬼ゴッコをしようというのだ。

鬼ゴッコは誰もが一度は楽しんだ遊びである。

月日が経って子供ではなくなっても、シンプルで懐かしい遊びはいくつになっても楽しめるだろう。

ほのぼのとした雰囲気の中、皆が穏やかな微笑みを浮かべていた。

「よーい、ドン!!」

銀次の合図と共にMAKUBEXは駆け出し、少々遅れて鬼の役となった皆がそれを追う。

いつもは退廃的な空気が漂うばかりの無限城に、暖かい笑い声が響き渡った。

「――ちょっと待って」

このまま鬼ゴッコに突入すると思われた場の流れは、ふと足を止めたMAKUBEXによって遮られた。

「どしたの、MAKUBEX?」

水を差される形となって、銀次が首を傾げる。

「うん……。あのね」

怪訝な顔をして立ち止まった皆の前に、MAKUBEXはつかつかと歩み寄り、いきなり一つの提案を始めた。

「僕は笑師ほどの体力がないから、普通に鬼ゴッコしてもすぐに捕まってしまうと思うんだ」

「ふむふむ」

さもありなんといった表情で、皆が頷く。

武闘派の笑師と違って、MAKUBEXは完璧な頭脳派だ。

おまけに年齢も若いときて、どうしても体格的に劣ってしまう。

とてもじゃないが、笑師の時のような鬼ゴッコは無理だった。

先の鬼ゴッコは、逃げる相手が笑師だったからこそ、銀次は遠慮なく電撃を、蛮は手加減もなく蛇咬を、十兵衛は究極の駄洒落を、花月や俊樹もそれぞれ持てる力をいかんなく発揮したわけだが、MAKUBEXを相手にそんな真似をするわけにはいかない。

なんと言っても、現在のVOLTSのリーダーに、万が一にも怪我をさせてしまったら一大事になるだろう。

「だからね、お互いのためにも条件を付けたら、面白くなるかなって思ったんだ」

「なるほどね〜」

「いいぜ、その方がこっちもやりやすいしな」

MAKUBEXの提案に、銀次が納得したように頷き、蛮もそれに同意する。

周りの皆も特に異存はないようだった。

「じゃあ、その条件についてだけど」

そう前置きして、MAKUBEXは一つずつ項目を挙げ始めた。

まず鬼ゴッコの範囲は、半径300m以内に限ること。

そして鬼同士の足の引っ張り合いはもちろんOK。

「必殺技も出していいことにするよ」

「ええ? それじゃMAKUBEXが大変だよ」

「その代わり、僕はノートパソコン所持で、監視システムの利用可。尚且つ、ヴァーチャルシステムをある程度使用可ってことでどうかな?」

それには蛮が異論を唱えた。

「そこまで許可したら、オメーに有利じゃねぇか」

ここ無限城ロウアータウンはMAKUBEXの庭といってもいい。

地理を全て知り尽くしている上に、監視システムだけでなくヴァーチャルシステムまで併用されては、本当に捕まえるのが困難になってしまう。

かつて『IL』を奪還しにきた時と、同じくらいの苦労を味わうことになるのではないだろうか。

「探すのは大変でも、捕まえるのが簡単なんだからいいじゃない。僕は見つけられたら特に抵抗しないから」

「でもよー」

「いいじゃん、遊びなんだよ。蛮ちゃん」

ごねる蛮に銀次が言う。

そこにMAKUBEXがトドメとばかりにこう言った。

「それから、賞金に100万円をつけようかと思うんだけど?」

蛮の目が輝いた。

「いよっしゃ。いっちょやってやんぜ!!」

非常に単純な男である。

生暖かい視線になる銀次と他一同を背に、蛮はハチマキを締め直していた。





ルールも確定して、詳しい説明も終わったところで、いよいよ本格的に鬼ゴッコ開始とあいなった。

逃げるのはMAKUBEX、それを追うのは奪還屋や元風雅、士度や卑弥呼など、どうやら計8名となりそうだ。

先ほど亜紋に捕まった笑師はというと、二人で時間を惜しむように話しこんでいる。

この分では彼等は参加しないだろう。

「じゃあ、僕のスタートから10分後が皆のスタートだよ。僕はその間に色々と仕掛けるから」

無邪気に笑うMAKUBEXだが、その台詞が意味するところを考えるとちょっと怖い。

子供の無垢さと大人の狡猾さ、それに加えて天才であることを思うと、一体何をしでかしてくれるやら予想がつかないものがある。

広間から出る入り口のところでMAKUBEXが手を振り、了承したとばかりに朔羅が手を振り返した。

「朔羅。10分後に、鬼の皆にスタートの合図をよろしくね」

「ええ、分かっているわMAKUBEX」

巨大スクリーンに映し出された時計はゼロにリセットされ、MAKUBEXが駆け出すと同時に時を刻み始めた。

それから規定の10分が過ぎるまで、鬼役の一同は時計を眺めつつじりじりと待つ。

ズルして時間前に行動を起こそうとすれば、朔羅のキツいお仕置きが待っている。

典雅な技だが、小姫筧流布衣術は侮れない。

攻撃力には劣るらしいが、あの布でぐるぐる巻きにされて容赦なく絞められたら、視界にお花畑が見えることだろう。

特に現VOLTSのメンバーは、朔羅に逆らうと生活環境に関わるとあって、ズルをするどころか非常に神妙な面持ちでスタートの合図を待っていた。

朔羅をスターターに指名するとは、流石はMAKUBEX、抜け目がない。

待ち時間を黙って過ごしている皆の後ろで、蛮が銀次に気合を入れた。

「いいか、銀次。今度こそ絶対に100万円をゲットするぞ!!」

「楽しむのが基本だってば、蛮ちゃん〜」

「楽しんだ挙句、100万円もゲットできりゃ、もっと楽しいだろうが!!」

どこまでも金にこだわる蛮の、卑しい台詞が聞こえたのだろう、元風雅三人衆が振り返って溜息をついた。

「あまりにもお金のことばかり考えていると、また機会を逃しますよ?」

「仕事でなく娯楽で金を稼ごうとは、浅ましいことだな」

「悪銭身につかず、という言葉を知っているか?」

花月の台詞に、十兵衛も俊樹も次々とそれを擁護する発言をする。

それに蛮が食って掛かった。

「うるせえ。聖人みたいなこと言って、お前等だって目の前に大金を積まれりゃ、目の色変わるだろうが!!」

「蛮ちゃん、くっだらないことで喧嘩は止めようよー」

一触即発状態の蛮に、もうすでに止める気もない銀次が適当に声をかける。

例によって銀次の声など聞こえない蛮だったが、火に油を注ぐかのように士度が言った台詞は聞こえるらしい。

「自分の物差で他人を図るんじゃねぇよ。世の中の皆が守銭奴だと思ってんのか?」

「金持ちのヒモは黙ってな!!」

「蛮ちゃん、ひがむのは止めようよー」

もはや棒読みとなっている銀次の声に構わず、蛮は今度は士度とやりあっている。

もともと相性の悪い二人だが、どうしてこうも簡単にヒートアップするのだろう。

呆れ顔で卑弥呼が呟いた。

「誰彼構わずつっかかって、バッカみたい」

「てめぇだって貧乏だろうが?」

「はぁ? 何でそうなるのよ」

「金なくて栄養取れなくて、だからこんなに貧乳なんだろうがよ!!」

「蛮ちゃん、小学生レベルの悪口は止めようよー」

いつの間にか、蛮からかなり距離を取った場所で、銀次がひっそりとたしなめる。

しかし、逆上した卑弥呼が火炎香を使ったことで、銀次の声はあっさりと掻き消されてしまっていた。

服に引火しそうになって転げ回る蛮を、声を立てて笑った者がいる。

「あはははは。貧乏な上に、自滅型の人間を観察するのって楽しいよねぇ」

「ロリコンのホスト野郎に言われたくねぇ。覗き趣味の変態野郎が!!」

「ねぇ、蛮ちゃん」

「何だ!! さっきから色々うるせぇなっ!!」

怒鳴る蛮に、銀次は黙ってモニターを指差した。

10分後のスタートというルールだったが、モニターに映し出された時計は既に12分を回っている。

「もう皆して先に行っちゃったよ、蛮ちゃん」





先んじたのは、元風雅を結成していた三人だった。

狭い廊下に忙しない足音が響く。

「どの辺にいるんだろう、見当つくかい、十兵衛?」

「さぁ……。MAKUBEXの考えなど俺ごときには分からん」

「俊樹はどう思う?」

花月に意見を求められて俊樹が足を止めた。

それを見て、他の二人も立ち止まる。

「そうだな……」

腕を組んで俊樹が考える素振りを見せた。

俊樹は無限城に戻ってきたばかりで、MAKUBEXという人間について深い部分までは見ていない。

だが、それだけに先入観もなく、違った視点でMAKUBEXの考えを読めるかもしれない。

これまでの短い期間の中、辛うじて垣間見えた一面だけを元にして、その行動を予想してみる。

MAKUBEXは、ゲームの場所を半径300mという範囲内に限定した。

そうすると、まずはその範囲の中で隠れることのできる場所で、尚且つパソコン作業のできる所ということになる。

範囲300mと考えれば広く感じられるが、その条件を満たしている場所となれば、ある程度は絞られてくるのではないだろうか。

俊樹はそれらの考えを告げると、十兵衛にそうした場所はないかと問い掛けた。

何せ俊樹は戻ってきて日も浅く、花月は根城を無限城の外に移している。

このメンバーの中で、一番無限城の地理に詳しいのは十兵衛だろう。

「よし、俺に任せろ!!」

「頼むぞ、筧」

「君が頼りだ、十兵衛」

ポイントの絞り込みと、そこまでの道案内を十兵衛に託すことにして、元風雅の三人は再び走り出した。

どれだけ走っただろうか。

それほど距離は離れていないが、入り組んでいる構造のため、かなり走ったように思える。

曲がりくねった細い道を暫く進み、十兵衛はとある扉の前で足を止めた。

「とりあえず、候補の一つがここだ」

確かに、こんな複雑な道の奥の奥にある部屋ならば、隠れるのに最適かもしれない。

電気も通っているようだし、ノートパソコンを使用することも可能だろう。

だが、強いて言えば、この短時間にMAKUBEXの足でこんな場所まで走ってこれただろうかという疑問が残る。

自信満々な十兵衛の後ろで、花月と俊樹が微妙な表情を浮かべていた。

「いいか二人とも。開けるぞ」

二人の心境に気づいているのかいないのか、十兵衛がドアノブに手を掛ける。

鍵もかかっていないのか、汚れた扉が錆びた音を立ててあっさりと開いた。

不気味な響きと共に、どんどん黒い空間を広げていく。

「よし、行くぞ」

「僕は嫌な予感がするよ、十兵衛」

「俺もここじゃないような気がしてならないんだが、筧」

渋る二人に構わず十兵衛は進んでいく。

全くもって、思い込んだら極端に視野の狭くなるサムライだ。

十兵衛に続いて一人ずつ入ってみると、入り口の狭さに比べて、中は驚くほど広かった。

無限城では、空間を細かく仕切って、幾つもの小部屋にしている場合が多いが、こんな所にこんなに広い部屋があるとは意外だ。

照明もなく薄暗い室内を、三人で周囲に気を配りながら歩く。

花月が微かな違和感に目を細めた。

足元の感覚が遠い。

この感じには覚えがあった。

どうやらヴァーチャルの世界に足を踏み入れてしまったらしい。

そうすると、本当にこの部屋にMAKUBEXは潜んでいたのだろうか。

その予感を肯定するかのように、中に入ってから大分歩いたはずだが、壁にもどこにも突き当たらず、絃を軽く飛ばしてみても手応えがない。

「二人とも、ちょっと待って。……ここはおかしい」

花月が十兵衛と俊樹を呼び止め、二人が振り返る。

そのタイミングで部屋には突然光が満ちた。

「こ……これはっ」

愕然として三人が辺りを見回す。

そこは無限城には縁もゆかりもない、輝かしい場所と化していた。

ライトが眩しくてよく見えないが、どこかで見覚えのある光景だ。

それもテレビの、しかも国営放送の夜の番組だったような。

全国のお笑い芸人を目指す若者たちが、自慢の芸を披露してそれを観客が採点、上位の組だけがオンエアを許されるとかいう、過酷な番組。

三人が立っているのは、それほど大きくはないステージの上で、目の前には観客席と思われる椅子ががらりと並んでいる。

観客席に備え付けられた独特なセットも、そのままだ。

テレビでは、観客がそのシステムを利用して芸人たちを採点するのである。

こんな舞台設定をしたということは、MAKUBEXの狙いは――。

「なかなかの舞台だろう?」

声のする方向に視線を向けると、観客席の一番後ろでMAKUBEXがステージを見つめている。

天使のような笑顔でこう言った。

「僕を爆笑させることができたら、おとなしく捕まってあげるよ」

そういえば、鬼ゴッコの最中だったのだと思い出した三人だが、この状況はそんなゲームの次元から激しく逸れている。

今更ながら、ヴァーチャルシステムの使用を渋った美堂蛮に、同意すべきだったと思う花月と俊樹だった。

しかし、この世界を喜んだ者が約一名。

十兵衛がステージの中央に立って、気合を入れ始める。

「よし、ギャグなら任せておけ、MAKUBEX!!」

待ってましたとばかりに意気込んで、十兵衛が拳を振り上げた。

どこからか振ってきたマイクを手に、勢い良く息を吸い込む。

「布団がふっ飛んだっ!! 屋根も吹き飛んだ、やーねーっ!!」

MAKUBEXが、笑うどころか溜息をついて頭を抱えている。

そして、肝心のMAKUBEXではなく、花月と俊樹のダメージは壊滅的なものだった。





花月たちとは別のルートをとった卑弥呼は、慌てて走ろうとはせず、左右を見回しながらゆっくりと歩いていた。

地の利がない分、闇雲に走り回っても体力の無駄である。

捕まえる相手は体力バカではないのだし、それほど遠くへは行っていないはずだ。

自力で見つけるよりも、誰かが見つければ騒ぎになるだろうから、それを待って横取りした方がいい。

そう判断した卑弥呼は、敢えてあちこちをうろついたりせず、どこで騒ぎが起こってもすぐに駆けつけられるような、通路の分岐の集まる場所で待機した。

後は運次第である。

別に金に困っているわけでもないし、無限城の連中にそれほどの義理があるわけでもない。

蛮や銀次ほど一生懸命になる必要もないのだから、このくらいの労力を掛ける程度で十分だ。

「ま、お金はあって困るものじゃないけど」

壁に凭れてそう呟きながら、ふと視線を転じた先に、人影が見えた。

「あっ!!」

遠くの角を曲がったその人物は、よくは見えなかったが白っぽい髪をしていたように思う。

MAKUBEXは綺麗な銀髪だ。

人の幸運を横から掻っ攫うつもりでいたが、どうやらそれを待つまでもないらしい。

「あたしにツキが回ってきたようね」

挑戦的に笑って、卑弥呼は人影が消えた角へと走り出した。

あの人影が本当にMAKUBEXだったとして、移動中ならお得意のパソコンは使えない。

追いつくのはあっという間だし、さしたる抵抗もしてこないだろう。

仮に逃げられたとしても、その前に追尾香を使って追跡できるようにしておけば、後は香りを辿って捕まえるだけである。

この追尾香を振りかけることさえできれば、ヴァーチャルシステムを使われても、追い詰める自信があった。

自分の勝利を確信しながら、例の角を曲がる。

人影は、淡い色彩の髪で蛍光灯の光を弾きながら、廊下の突き当たりにある扉に走りこんでいた。

卑弥呼から逃げたということは、MAKUBEXである可能性が高い。

別人なら逃げる理由も必要もないはずだ。

「逃がさないわよ」

見失うまいと、卑弥呼もその部屋へと走り込む。

まさに獲物を追い詰めようとする、敏捷な動物のような身のこなしだった。

しかし、そうした瞬間に限って、生き物は大きな隙を作りやすいものだったりする。

「観念しなさい、MAKUBEX!! ……あら?」

何もない部屋の中には、誰の姿も見えなかった。

「おかしいわね」

「おかしくなんかないさ」

突如聞こえた声に、扉が閉まる音が重なった。

嫌な予感に卑弥呼がゆっくりと振り返る。

聞き覚えのある軽薄な声、見覚えのある気障な白スーツに、色素の足りていない髪。

「俺を追ってきてくれたんだね、嬉しいよハニーv」

「何でアンタがここにいるのよーっ!!」

どこで入れ替わって、どこからこの男を追いかける形になっていたのだろう。

ひょっとしてヴァーチャルシステムを利用して、MAKUBEXを追うつもりが、鏡を追うように仕向けられていたのか。

紛らわしいことに、この鏡形而も、MAKUBEXに似た白っぽい頭をしている。

「何を言ってるんだい、ハニー。君は俺の姿を見かけて、必死で追ってきてくれたんじゃないか。しかもこんな場所で二人っきりになるよう仕向けるなんて……。そんなことをしなくても、俺はいつだって君の誘いなら喜んで受けるのにさ」

「いや〜っ。近づいてこないで〜っ!!」

「照れなくてもいいんだよ、ハニー。なんたってここには俺たち以外『誰もいない』んだからね」

怪しい男と二人っきりという状況に、パニックを起こした卑弥呼が、鏡の言葉に耳も貸さずに逃げ道を探す。

扉は鏡が塞いでいるので、後は窓しかない。

蹴破って脱出しようと、一目散に窓へと走った卑弥呼へ、鏡が追いついた。

「チャイナストリートでホスト連中と呑んだんだってね。そんなつまんない奴等より、俺の方がずっといいよ。顔も体も服のセンスも、君への愛だって俺の方が断然上だろう?」

「知らないわよ、そんなことっ!!」

「それに俺は、あんな奴等より絶対に×××も上手いしさ。あ、せっかくだからここで実践してみない?」

「ぎゃあああぁぁぁああぁぁぁぁぁあぁああぁぁっ!!」

絶叫と共に、卑弥呼が取り出したのは火炎香だった。





頭上で女の叫びが聞こえて、不審に思った士度が見上げると、窓ガラスを突き破って激しい炎が飛び出した。

ついでに小さなガラスの瓶が降ってきて、中に詰まっていた香りを辺り構わず撒き散らす。

これで士度の動物並の鼻は、使い物にならなくなったのだった。





しばらく歩いて、蛮は一つ重大なミスに気がついた。

前を行く銀次は、自信ありげにどんどん先へと進んでいくのだが、その背中を見ていると強烈な不安が湧き上がってくる。

「あれぇ? ここさっきも通ったかな?」

「もう3回目だぞ、ここ通るの」

呆れた顔をしながら、蛮が溜息をついた。

方向オンチな奴は、それを自覚していて注意をしながらも迷う者と、自覚していながら何故か自信満々で間違った方向にどんどん歩いていく者とがいる。

銀次は多分、後者だ。

それから数分。

「お……おかしいな。こっちかな?」

「そっちは、さっき行き止まりだったろ?」

こんな感じでもうどれくらい経っただろう。

自信ありげだった銀次の顔は、今はもう不安と焦りで埋め尽くされていた。

銀次が方向オンチなのは随分前から知っているが、こう何度も同じことを繰り返されると、怒る気も失せてくる。

こんな頼りない方向感覚でも、昔はちゃんと無限城で生活できていたというから驚きだ。

親代わりだった奴や、かつてのVOLTSの仲間たちは、さぞや苦労したことだろう。

それとも、無限城を出てから銀次の方向オンチに拍車が掛かったのだろうか。

奪還屋として組んでから、蛮が調子よく銀次の頭を殴ったりするもので、脳の働きが低下したのかもしれない。

蛮は、煙草を取り出して口に咥えると、愛用のライターで火を点けた。

「確か、こっちは通ったよね、蛮ちゃん?」

「そうだったな」

蛮にしては珍しく、まごつく銀次を怒鳴りもせずに、煙草を吸いつつ散歩でも楽しむかのように後ろをゆっくりとついていく。

「じゃあ、今度はあっち」

流石に恥ずかしそうに、銀次が笑いながら新しい道に進み出す。

この調子で探していたら、永遠に見つけ出せないだろう。

普通の子供が相手でも無理だろうし、今回の相手はあの電脳世界の覇者だ。

この非効率な探し方では、ターゲットに近付くどころか、むしろ遠ざかっているに違いない。

おそらく、MAKUBEXがヴァーチャルシステムを使うまでもないだろう。

蛮が懐中時計で時間を確認すると、ゲームを開始してからそろそろ30分が経とうとしている。

「そろそろ頃合だな」

「何、蛮ちゃん?」

「銀次。そこら辺を適当に探し回ったら戻るぞ」

「ええ? 何で?」

これだけ探し回ってもまだ飽きないのか、銀次が文句を言い始める。

「いいんだよ、俺たちは適当で。MAKUBEXを探し出す役ってのは決まってるもんだ」





ノートパソコンの画面に映し出される光景を見て、MAKUBEXは小さな笑い声を漏らしていた。

画面は四つに仕切られ、それぞれ別の場所を映している。

無限城ロウアータウンの、あちこちに設置されている監視システムから送られてくる映像だ。

右上の画面では、駄洒落を言い続ける十兵衛と、そのつまらなさに固まっている花月と俊樹がいる。

寒いギャグを聞かされる負担は、筆舌に尽くし難いものがあるだろう。

仕掛けたヴァーチャルシステムは、かなり有効だったらしい。

右下の画面には、追いかけっこをしている卑弥呼と鏡だ。

必死の形相で火炎香を使う卑弥呼に対して、鏡は満面の笑みを浮かべてそれを掻い潜っている。

ヴァーチャルシステムを使って、卑弥呼に鏡を追わせることに成功したはいいが、鳥肌を立てながら涙目で逃げ回っている様を見ると、気の毒なことをしてしまったという思いが胸を占めた。

何とか無事に乗り切ってほしいものである。

左上の画面には士度が、左下には銀次と蛮が映っているが、こちらの二組はヴァーチャルシステムを使うまでもなかった。

どちらも見当違いの場所を彷徨っている。

特に銀次と蛮は、方向オンチが先導しているせいか、MAKUBEXのいる場所から離れていく一方だった。

適当なところで迎えを出してやらないと、とんでもない場所まで行ってしまいそうである。

「鬼ゴッコって、結構楽しいものだったんだね」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

自分を探して、皆が右往左往しているのを眺めるのは、中々面白い。

IL事件の時もこんなふうに、皆がMAKUBEXを探し回っていたものだが、あの時と違って今は純粋に楽しめる。

逃げたり隠れたりする方も、それを探す方も、何の悪意もない。

「それにしても、気付かないものなんだなぁ……」

MAKUBEXがいるのは、スタート地点の広間から、目と鼻の先にある小さな部屋だ。

スタートしてから、走り去るように見せかけてすぐこの部屋に潜り込んだのである。

電源を探し出し、パソコンを起動させた時点で、経過した時間はまだ4分。

マザーコンピュータと連動してヴァーチャルシステムを動かした後は、ただ黙って待っているだけで良かった。

殺風景な部屋の床に座り込み、パソコンを膝に抱いて時折キーボードを操作する以外は、画面に映っている皆を観察する。

普段、『観察者』を名乗る鏡を悪趣味だと思っていたものの、こうしていると結構楽しい。

観察の対象となる人物が、癖のある者ばかりなため、見ていて飽きないのだ。

暫く時間が経過しても、皆それぞれ見当外れの場所にいて、MAKUBEXのいる所にはさっぱり近づいてこない。

「うーん……」

優越感を覚えると共に、だんだんと淋しくなってきた。

鬼ゴッコなどというものは、適当なところで鬼に捕まるから面白いのかもしれない。

あまりにも長い時間、探し出してもらえないと、まるで自分が隔絶された世界に取り残されているような気分になってくる。

捕まりたくない反面、早く見つけ出してほしいという、二つの感情が静かにせめぎ合っていた。

「皆して、真面目に探してくれてないのかな。こんなに近くにいるのに」

どの画面を見ても、もうすでにMAKUBEXを探すという目的を忘れたかのような行動が見える。

元風雅三人衆は、お笑いのステージで一生懸命になっているし、卑弥呼と鏡は追いかけっこが忙しくて他のことなど目に入っていない。

この二つのグループは、そもそもMAKUBEXが画策したからこそ、そうした状態になっているわけだが、銀次と蛮、そして士度にはヴァーチャルシステムも何も使っていないというのに。

それなのに見つけてくれないばかりか、遠ざかっていく。

まるでMAKUBEXのことなど忘れてしまったとでも言っているかのようだった。

鬼ゴッコであれ、かくれんぼであれ、こんなに淋しい思いを抱かせる遊びなのだろうか。

子供の世界では、あまりに見つけてもらえなくて自分で出て行ったところ、皆はもう家に帰っていたなどという、そんな話はよくあることなのだろうが。

ノートパソコンを膝から降ろして、軽く溜息をつきながら宙を仰ぐ。

静かだ。

画面の向こうの楽しげな空間と、すっかり切り離されてしまったかのような感覚。

「……もう少し経ったら、ヒントでも出そうかな」

相手を騙すため、また自分の身を隠すために使っているヴァーチャルシステムだが、上手く利用すれば逆の働きもできる。

それとなくMAKUBEXのいる方へ誘導したり、何か暗示めいたものを与えて示唆することもできるだろう。

「こっちから動かないと、見つけてもらえないってのは、淋しいな」

こんな時だけは、自分の天才的と言われる頭脳が少しだけ疎ましく感じられた。

パソコンに向かい直して、キーボードに手を伸ばす。

その時だった。

「捕まえた」

「え……っ」

背後から暖かい腕に優しく抱き締められて、突然のことにMAKUBEXが慌てる。

「えっ、えっ……あれ? 何で?」

腕の中で体を捩って振り返ると、包み込むような笑顔がMAKUBEXを見つめていた。

「朔羅……」

「私も参加して構わないでしょう、MAKUBEX?」

てっきり広間で待っているとばかり思っていた朔羅がそこにいる。

「駄目かしら」

「そんなことないよ、でも……」

どうやって見つけたのだろう。

どこに隠れるかは、もちろん朔羅にも教えていなかったはずだ。

朔羅ならネットワークを通じてトレースをかけることもできるだろうが、MAKUBEXは自分の痕跡を残すようなヘマはしない。

例え朔羅であっても、ネットからMAKUBEXに辿り着くことはできないはずだった。

では、どんな手段でここに到ったのだろう。

首を傾げているMAKUBEXに、朔羅も少しだけ困った顔をする。

「見つけられたのは偶然なのよ、MAKUBEX」

「本当に偶然?」

尚も不審がるMAKUBEXに、朔羅は微かに苦笑しつつも頷いた。

「何となくここにいるかも、って思ったのよ。そうしたらMAKUBEXが居たの」

「そっか……。ビックリしたよ」



何かの手段を使うでもなく、自分自身の感覚だけで朔羅はここまで来てくれた。

いつも一緒にいるからだろうか。

それとも何か、言葉にできない特別な繋がりでもあるのだろうか。

誰も見つけられなかったのに、朔羅だけ――。

驚くと同時に何だか、嬉しく思える。

鬼ゴッコだというのに、見つかってしまった残念さよりも、見つけてくれた嬉しさの方が、ずっと勝っていた。

朔羅が先に立ち上がって、MAKUBEXに手を差し伸べる。

「ちゃんと見つけたわ、MAKUBEX」

差し出された手に、しっかりと自分の手を重ねて、MAKUBEXも立ち上がった。

「うん……、朔羅」





〜おまけ〜



「おっし。じゃあ、次は銀次が逃げる役をしろよ」

「任せてよ。俺は昔、一週間見つからなかったことだってあるんだからね」

それは忘れられてしまっただけだろう、とは誰も突っ込まなかった。

「昔とったカネヅカってやつ? 俺、鬼ゴッコで逃げたり隠れたりするのは得意なんだ」

それを言うなら、『昔取った杵柄』だ。

とりあえず諺の間違いを突っ込みたい。

得意げに仁王立ちして銀次がスタート地点についた。

「皆、遠慮はいらないからね」

「それは楽しみですね」

「へ?」

「お言葉に甘えて、遠慮なく楽しませていただきましょう」

これまでの勢いはどこへやら、銀次の体が彫像のように硬直した。

だらだらと汗が流れて、顔の筋肉が引きつる。

壊れた人形のように、ぎこちない動きで背後を振り返った。

さっきまで一緒に遊んでいたメンバーの中に、いつの間に混じったのか、さり気なく黒い人影が佇んでいる。

周囲からも不審な視線を浴びせられているその人は、銀次と目が合うと柔らかく微笑した。

「楽しませてください……ね」

「かかか……帰ったんじゃなかったんですか、赤屍さん」

銀次の目は確かに見た。

微笑みを浮かべた赤屍の手に、無数の鋭いメスが光っているのを。

「さぁ、うさぎ狩りの始まりだ……」

「いやぁぁぁあああぁぁああぁぁぁぁぁ〜っ!!」


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