空にかかる月が、微かに赤味を帯びているように思う。 本来、青白いはずの月が赤く見えてしまうのは、多分錯覚にすぎないのだろうが、今の状況を考えれば何かを暗示しているようにも思えた。 この夜の間に、一体どれだけの血が流されているのだろう。 不吉な予感を抱かせる月の輝きは、まるで失われた生命を吸い取ったかのように禍々しい。 そして、この月明かりの下、今も戦いは繰り広げられている。 おそらく、これから巡る一日の中で、勝敗は決してしまうのだろう。 血の海に没することになるのは敵か味方か。 「気味の悪い月だ……」 満ちた月を窓際から眺め、霧人は不安に胸を震わせた。 もし、明日もこの場所に立つことができたなら、こんな逼迫した思いを抱えたまま空を仰ぐなどということはないだろう。 月の顔も、全く違ったものに見えるはずだ。 だが、そんな希望的な思いを打ち砕くかのように、月はただ冷たく見下ろしている。 気弱なことではいけないと思いつつも、こうして隔離された部屋に一人きりでは、気持ちを切り替えるのがなかなか難しい。 焦りのみが募り、つい最悪の事態ばかりを予想してしまう。 この場所も精神的に良くない作用をもたらしているのかもしれない。 楼閣の最上階、部屋は広く窓も大きくて閉塞感はないが、明かりはランプが灯るだけだ。 こんな時でさえなければ、風情があると楽しめたかもしれないが、ランプの光も朧気に照らし出される光景にも、少しも心が躍らない。 古めかしい調度や建物が放つ独特の香りも、気持ちを沈ませる原因となっている。 それに加えて、この月だ。 月が赤く濁って見えるのは、どこかで同族の血が流された予兆のように思えてならない。 四木族と奪還屋たちは、どの辺まで侵入してきているのだろうか。 それを阻むためにどれだけの戦力が動き、どれだけの命が消えていっているのか、それを思うと胸が痛む。 地獄谷のどこからか、今も絶え間なく激しい物音が響いてきているのだが、味方にとって戦況は思わしくないのだろうか。 霧人がこうしている間にも、状況はどんどん変化していっているだろう。 「まさか、こんなことになるとは思わなかったな……」 自分の落ち込んだ感情に、押し潰されてしまわないよう、敢えて思ったことを口に出す。 頭の中でぐるぐると考えているだけでは、自分で自分を追い詰めてしまうようなもので、声に出した方が少しなりとも落ち着ける。 ほんの僅かな日数の間に、これほど状況が動くとは思わなかった。 魔里人との確執については昔から叩き込まれてきたし、いざその時になった場合も冷静に対処できるよう覚悟は決めてあったはずなのに、現在のこの余裕のなさはどうしたことだ。 魔里人が見つかる前の、会社で忙しい日々を送っていた時が、とても懐かしいものに思われる。 あの頃に戻りたいと、そう思う気持ちがないとは言えないが、きっかけを作ってしまったのは他ならぬ霧人だった。 霧人が見つけてしまったのだ、あの冬木士度を。 それから歯車は急速に回り始めた。 だが、敵が冬樹士度と他の四木族だけだったなら、こんな事態に発展することはなかったように思う。 四木族が恐ろしい敵なのは確かだが、鍵を握っているのは、魔里人とも鬼里人とも関係がないはずの奪還屋たちの存在だった。 GetBackersを名乗る二人組を始め、運び屋のレディ・ポイズンと赤屍蔵人、そして無限城の関係者たち。 霧人に限らず誰も予想しなかったであろう。 彼らがこれほどの実力を持ち、尚且つここまで深く関わってくることなど。 唯一人、毒蜂を除いては――。 この戦いが本格的に始まる前から、毒蜂だけが慎重論を唱えていた。 四木族よりも、むしろあの奪還屋たちの方を警戒していた素振りもある。 毒蜂の目には、一体どこまで先が見えているのだろうか。 そして今、毒蜂が忠告した通り、四木族以外の者たちが主に戦況を掻き回していた。 もしかすると、毒蜂の頭の中では、もう戦いの行方までが明確に弾き出されているのかもしれない。 そして、例えその答えが最悪のものだったとしても、あの男はそれを態度には露ほどにも表さないのだろう。 月を凝視しつつそんなことを考えて、ふと手元に視線を落とした。 左手の肌の上に、うっすらと刺青が刻まれている。 忌まわしいこの刺青は、鬼里人の抱える『業』の証だ。 日頃はこの存在など忘れているが、時折目にするにつけ、それが持つ重さを感じ取ってきた。 特に、鬼蜘蛛が業を解放しかけた場面に立ち会ってからは、余計に辛く伸し掛かってくる。 母である女郎蜘蛛や鬼蜘蛛の刺青と違って、霧人のものはそれほど大きくはなく、色も薄い。 外の世界で生きていく際にも、この程度の目立たないものだからこそ、どうにでもごまかせた。 母の体には痛々しいくらいに大きく残る刺青だが、それに比べて霧人のものが小さくなっているということは、世代が移るに従って血が薄まってきているということだろうか。 血の濃度に比例して、業の深さも薄まってきていたなら、どれだけ嬉しいことだろう。 だが、それがどれだけ虚しい望みなのかは、良く分かっている。 刺青の形がどうあれ、死ぬまで解放されることはない。 脳裏に毒蜂の言葉が浮かんだ。 「もし新しい道が開けたなら――か」 毒蜂はかつてそんなことを漏らしていたが、あの男にしてはあまりに現実味のない話だ。 それでも、もしかしたらと思ってしまう。 あの言葉は、本当に業から解放される可能性を示唆していたのではないかと。 他の者に言われたならば軽く一蹴して終わりだが、何故か毒蜂の言葉だと聞き流すことができない。 「いや、在り得ないことだな」 溜息をついて左手から視線を外した。 今はそんなことを考えている場合ではないだろう。 この戦いに勝たなければ何も始まらないのだ。 雑念を振り払い、決意を固めるように拳を強く握りしめた。 蜘蛛一族の長の家系に生を受けたからには、力及ばずとも果たさなければならない責任がある。 まさに今夜、その時は巡ってくるだろう。 「ん……?」 突然、霧人の思いを見透かしたかのように、机の上の携帯電話が鳴った。 地獄谷においては、こうした機器の使用が嫌われる傾向にあるが、緊急事態ではそうも言っていられない。 伝令に人間や虫を使っていては、大幅に手間と時間を食ってしまう。 携帯電話ならそれらを軽減できるわけで、いかに時代錯誤的な場であろうが、便利なものを使わない手はなかった。 充電器や大型バッテリーも含めて、ここに持ち込んでおいて正解だったと思いつつ、携帯電話を取り上げる。 このタイミングで電話をかけてくるのは母以外にないだろう。 液晶画面を窺うと、案の定、電話の相手は母だった。 「もしもし」 『霧人様ですね』 意外にも、電話に出たのは母の声ではなく、影蜘蛛のものだった。 母の指示のもと、携帯電話を預かってかけてきたのだろう。 『蟲宮城においでください。女郎蜘蛛様がお待ちです』 「……分かった」 用件を伝える側も、それを受ける霧人も言葉は簡潔だ。 影蜘蛛の口調の厳しさだけで、だらだらと話す時間などないことが分かる。 早々に通話を切ると、霧人はそれをポケットに収めて窓際を離れた。 謹慎まがいの状態にあるといっても、母の意向で自主的に閉じこもっていただけで、扉には押し込めるための鍵などはついていない。 出口を抜けると、霧人はそのまま足早に蟲宮城へと向かった。 地中にできた巨大な空洞をそのまま利用して造られた蟲宮城は、それ自体が一つの街と言ってもいいほどの規模があり、そこへ向かうには幾つかルートがある。 外から回った方が道は単純だが、敵がどこまで侵入してきているかが分からない。 少々入り組んではいるものの、楼閣からそのまま地下へ入り、そこから続いている道を辿っていく。 時折、足元が小刻みに揺れ、天井や壁が軋みを上げるのは、どこか近くで戦闘が行われている証拠だ。 この感覚だと、激しい戦いの場は獣宮城の方だろうか。 敵がもうそんな所まで侵入しているとは。 こんな場所で、敵に遭遇するという危険を冒す気にはなれず、肌に感じる緊迫感に押されながら、蟲宮城へと急ぐ。 『蟲宮』という大きな文字を掲げた門まできて、霧人は足を止めた。 緻密な装飾を施された門を見上げて、暫し佇む。 早く行かねばならないのだが、ここから先は鬼里人の中枢とあって、その門から放たれる威圧感は他とは比べ物にならなかった。 空気が張り詰め、何者をも拒絶しているかのような、見えない壁が感じられる。 深く息を吸い込んで、霧人は進んだ。 重々しい扉へ手を掛ける。 しかし、押す力をこめる寸前、鉄扉はすうっと引き、霧人の手から離れた。 「……っ!!」 思わず身構えると、そんな霧人に構わず扉はゆっくりと開いてゆき、その中に人間の姿を浮かび上がらせた。 月の光を紡いだような髪が優美に揺れる。 氷のような静けさを湛えた右目が、鏡面のように霧人を映した。 「毒蜂……」 「蟲宮城へようこそ、霧人」 七頭目筆頭たる身が、わざわざ迎えにきたわけでもないだろう。 警戒して立ち竦む霧人を、毒蜂が手招く。 他に道があるわけでもない、一瞬の躊躇いの後、霧人は門をくぐった。 そこから先は数多くの建物が建ち並び、その奥に一際目を引く高い建造物がある。 霧人の目の前で、毒蜂の指先が真っ直ぐに、その建物を指し示した。 「女郎蜘蛛に呼ばれたのだろう? 早く行ってあげるといい」 言われるままに歩きかけて、ふと霧人は足を止めた。 霧人を促しながらも、毒蜂自身は動こうとしない。 毒蜂がここにきた理由も、ここに留まろうとする理由も思いつかず、不信感に眉を顰める。 そもそも、七頭目筆頭ともあろう者が、こんな非常事態にこんな場所で何をやっているのか。 早く母と合流したいのはやまやまだが、敢えて背後を振り返った。 「貴方はどうするつもりなんだ?」 「気になるかい?」 また曖昧な言葉で流そうとする。 何か画策しているのだろうか。 「責任ある立場の貴方が、こんな時に勝手な行動を取るなど……」 「戦いに行くのだよ」 毒蜂が簡潔に答える。 納得よりも驚愕が霧人の胸を占めた。 思わず声が荒くなる。 「貴方が直々に……っ?」 鬼里人最強の一人として数えられる毒蜂が、自ら戦いに赴くなど、本来あってはならないことだ。 敵は数えるほどの人数でしかなく、組織として統制されているような連中でもない。 数で圧倒している上に、地の利もあるというのに、毒蜂が出なくてはならないほど劣勢なのはどういうことだ。 「鎌多、深山の両名は死亡、水爬も蝉丸も破れた。これで予想がつくだろう?」 「……」 「私が行かねばなるまい」 淡々と語られる事実に言葉を無くす。 雑兵だけではなく、それを率いる頭目たちまでもが、もう既に半数以上撃破されているとは。 俄かに現実味を帯びてきた不安に、体温が冷えていくのを感じる。 鬼里人がこれほど追い詰められた状況など、かつて経験したことがない。 味わったことのない不気味な恐怖が、じわりと忍び寄ってくる。 このまま敵の勢いが勝ったなら、あり得ないと思っていた最悪の予想が真実になってしまうのではないだろうか。 青褪めた顔で俯いた霧人に、こちらは何の不安も感じていないのか、毒蜂が薄く笑う。 「奪還屋の片割れが、すぐそこの獣宮城まで来ているよ。君を負かした相手がね」 「美堂蛮が……?」 それでは先程から聞こえる騒音はそのせいか。 獣宮城に配備されている者たちも、選り抜きの屈強な男ばかりのはずだが、戦いの響きは途切れることがない。 この雰囲気では、相手方はまだまだ疲労の色も見せていないだろう。 チャイナストリートで実力のほどは見せてもらったが、ここまで侵入してくるとは、美堂蛮という男はどれだけの力を隠しているのか。 あの時、業を解放しかけた鬼蜘蛛を倒しながらも、それが全力ではなかったとすれば、いくら兵力を注ぎ込もうとも無駄かもしれない。 頭目レベルの者でなければ、その進撃を阻むことなど不可能だろう。 「……だから、貴方が行くのか」 「彼が来るなら私が行かねばなるまい。些か縁もあることだしね」 毒蜂の言葉に、マリンレッドの一件のことが頭に浮かんだ。 因縁があるといえばそれくらいだろうが、過ぎたことにはあまりこだわらない毒蜂が、そんなことを持ち出すのは珍しい。 そう考えて、あることに気がついた。 何故だろう、これから敵を迎え撃とうとする毒蜂からは、それを楽しんでいるかのような気配が感じられる。 戦いの前の高揚感というものとも違う。 ずっとその時を待っていたかのような、そんな空気だった。 何事にも冷静で、感情を表に出すことのない毒蜂が、今は明らかにこの状況を楽しんでいる。 獣宮城へ向けられた瞳には、霧人が目にしたこともない色が浮かんでいた。 燻り続けて持て余した青白い炎が、爆発的な解放を求めている、そんなふうに思える。 その炎が迸る先にいるのが、あの美堂蛮だ。 毒蜂の瞳の奥には、はっきりと美堂蛮の存在が映し出されている。 紅の唇が、うっすらと笑みを刻んだ。 「むしろ待っていたのだよ」 「……」 その時、心が大きく揺れたのは何故だったのだろうか。 毒蜂の目は、今、美堂蛮に向けられている。 霧人のことはもちろん、同僚である頭目たちのことも、鬼里人の長である兜のことすら、流れに任せるだけでまともに向き合おうとしなかった毒蜂が。 美堂蛮の何が毒蜂の関心を引いたのだろう。 たった一度出会っただけで、大きな関わりがあるわけでもないだろうに、どうして執着を見せるのか。 幾度となく肉体的な関係を持とうとも、毒蜂は一度として霧人を見つめてくれたことなど、なかったというのに。 自分でも理解し難い感情が膨れ上がる。 あらぬことを口走ってしまいそうで、口元を抑えた。 喉の奥から出掛かった言葉を飲み込み、行き場のない感情を無理やり押し込む。 そんな霧人に気付いているのかいないのか、毒蜂は獣宮城の方に視線を向けたまま、冷たく言い放った。 「君は母君の後ろでただ見ていればいい。それ以上のことは誰も要求しないだろう」 言葉の裏で、戦力外だということを突き付けられる。 七頭目が戦わなければならない相手となれば、確かに霧人の力など役には立たないだろう。 これから展開される戦いを考えれば、その指示は当然だ。 蚊帳の外に出されることへの反発を感じても、嫌というほど実力差を思い知らされていては、反論する気にもならない。 何も言及しない霧人の前で、毒蜂はいつものように涼しい顔をして、その場を後にしようとする。 見慣れた背中だ。 無情なほどあっさりと向けられる背中を、いつもこうやって見送ってきたように思う。 始めのうちは心の中で罵倒しながら。 いつの頃からか、呼び止める言葉を心の奥で探しながら――。 「毒蜂……っ」 戦いに赴こうとする毒蜂は、いつにないほど研ぎ澄まされた空気を放ち、万に一つも敗北するような予感はない。 それなのに、今日に限っていつもとは違う感覚を覚えた。 そのまま消え去って、戻ってこないのではないか。 いつのことだったか、森の風景に溶け込みそうだと感じた背中と、今の毒蜂の印象が重なった。 振り返った毒蜂の前まで歩み寄り、視線を合わせる。 「油を売っている暇はないんだがね?」 「勝つんだろうな……?」 不躾な言葉に、毒蜂の目が細まる。 当然の反応だろう。 鬼里人最強の肩書きを背負っている毒蜂に対して、霧人の台詞はあまりに考えなしだ。 「随分、信用されていないのだな」 「勝って戻ってくるのだろうな?」 毒蜂に戻る場所があるとしても、それは霧人の元ではない、そんなことは分かっている。 だが、勝敗はともかく、ちゃんと戻ってくるのだろうか。 言いようのない胸騒ぎが、霧人にそんな台詞を言わせた。 「……霧人」 毒蜂の手が霧人の眼鏡をゆっくりと取り上げた。 眼鏡のガラスを通さず、直接目にする毒蜂の瞳は、炎さえも凍らせるほど冷たい。 戦いを控えているからなのか、霧人の言葉が気に障ったのか、いつにない圧力を秘めた瞳が見下ろしてくる。 心を掻き乱す不安も忘れて、背筋が凍りついた。 体が硬直して、血の暖かみが失われていくのが分かる。 激しい風に何時間も晒されたかのように、指先から体の芯までが凍りついた。 毒蜂を怖いと思ったことはこれまで何度もあったが、今はもう全身の震えを止めることもできない。 四肢を縛られ首筋に刃を突き付けられようが、これほどの恐怖を味わうことはないだろう。 殺気に当てられただけで、意識どころか魂まで持っていかれそうな、そんな感覚だった。 これでもまだ、毒蜂は本気の一部分しか見せていない。 それが七頭目筆頭の力なのだ。 こんな時になって、初めて本当の恐ろしさを理解し得たかもしれない。 鋭い視線に射竦められて、声すらも出せなかった。 かつて一度でも真っ向から対立しようとしたことが、如何に危険なことであったかを改めて思い知る。 自分は、こんな恐ろしい男に牙を剥こうとしていたのかと、心の底から後悔したくなった。 「霧人」 低い囁きが、全身から力を奪っていくようにさえ思える。 毒蜂の指が顎を捕らえ、僅かに上向かせると、視線が更に近付いた。 「誰にものを言っていると思っているんだい……?」 問い掛けられる言葉が、死の宣告のようだと思った。 毒蜂に葬られた者たちは、皆こんな瞬間を味わったのだろうか。 声が出ない。 まだ言いたいことがあるというのに。 漠然と感じる不吉な予感から、今言わなければと思うのに、喉から搾り出そうとしても、唇は虚しく震えるのみで役に立ってくれない。 まるで自分の体が、自分のものではないかのようだった。 だが、追い詰められる一方で、奇妙な感情が揺れる。 目が惹き付けられて離せないのは、怖れのせいだけではない。 硬直しきった霧人を見下ろし、毒蜂が冷笑した。 一度として真実を語ってくれない唇だ。 恐怖より湧き上がる感情が勝った。 後のことなど考えず、力を振り絞る。 「……っ!!」 顎に掛かる毒蜂の手を、乱暴に振り解いた。 突然のことにも毒蜂は慌てるでもなく、僅かに目を細めた程度だ。 殺気の呪縛から逃れて、その勢いのままに毒蜂へ手を伸ばすと、真面目に取り合っていないのか阻もうともしない。 どうせ何もできないと見透かされているのだろうが、今はそれが却って好都合だった。 毒蜂の首に腕を絡めて、ほんの少しだけ背伸びをしてみせる。 互いの唇が触れた。 ほんの数秒が永劫の長さに感じられた。 霧人が、行為を強要されてもいないのに、自分から毒蜂に触れたことはない。 まして口付けることなど、あるはずもなかった。 軽く触れ合うだけの口付けだ。 体が萎縮してしまって、それ以上は動けない。 緊張が緩んで体が崩れるに従って、唇は離れた。 膝に力が入らず、体を庇うこともできずに霧人の身が沈む。 しかし、その一歩手前で毒蜂の腕が霧人を支えた。 「……ぁ」 「大胆な真似をするね」 自分の力で立てない体を、半歩ほど後ろに突き飛ばされる。 背中に強い衝撃が伝わった。 先ほどくぐった鉄扉だと理解する前に、毒蜂の手が霧人を押し付ける。 まともに見ることができなくて顔を背けると、顎を捕えられて正面を向けさせられた。 「こんな時でまで欲しがるとは、いけない子だね、霧人」 「……ちがっ……ん」 言う暇も与えられず、唇を塞がれた。 顎を捕えられていて逃げることもできず、いや、それ以前に体は硬直して身動きすることもできない。 歯列をこじ開けられ、舌が絡まる。 「う……んっ、んぅ」 深く貪られて、口内を蹂躙される。 捕えられた舌が引きずり出されて、甘く噛まれた。 「あ……ふ……っ」 口内だけでなく、頭の中も掻き乱される。 背中の痛みも忘れ、促されるままに体が応え始めた。 思考が溶け、背筋が甘く痺れて何も分からなくなる。 縋り付くものを求めて、毒蜂の首に腕を回した。 しがみ付いたまま、激しい口付けに全てを委ねる。 足の力が抜けかけたが、腰を抱かれて更に乱暴に口付けられた。 背中に爪を立てて苦しいと訴えても、許してくれない。 意識が飛びそうになる寸前に、ようやく唇が離れた。 「っは、……あ」 荒い呼吸を繰り返しながら、無くしかけた言葉を探す。 「毒蜂……私、は」 言いかけるとまた唇を塞がれる。 「ん……んっ」 うって変わった優しい扱いに、気持ちが萎えそうになる。 こんなに優しく包み込んだくせに、毒蜂はやはり言いたいことを言わせてくれない。 冷たく拒絶されれば口を噤むのに、中途半端に近付いて、思わせ振りに触れてきて、そして優しく霧人の口を塞いでしまう。 疎んじられていればそれと分かるが、好意と取れるような態度を時折見せたりするから、切り捨てられずに追いかけてしまうのだ。 焦らされ続ける感情が辛い。 毒蜂が霧人から離れ、腰を抱いた腕も引く。 時間にしてそれほどは経っていないだろうに、長い責め苦に耐えているような錯覚すら覚えた。 支えを失った人形のように、霧人の体がずるずると崩れ落ちる。 体の力を根こそぎ奪われたような気がした。 甘い痺れが体中を巡り、指先すら動かせない。 視線の先には毒蜂の足元のみが見え、霧人をいつものように見下ろしているのだろうことが予想できた。 ほんの数秒、沈黙と共に凍った空気が辺りを包み、次の刹那、霧人の視界の中で毒蜂の足はあっさりと踵を返した。 何の感慨も見せずに。 眼鏡が霧人の膝の上に放られ、それで最後だとばかりに離れようとする。 「……っ」 まだ行かせるわけにはいかない。 夢中で腕を動かす。 毒蜂の足が止まった。 「しつこいね」 「何とでも言え」 霧人の手が毒蜂のコートの裾を掴んでいた。 「離してくれないか?」 「振り払えばいいだろう。どうでもいい相手だと思っているなら、私の意思など考えず、行ってしまえばいい」 そこで振り払われてしまえば終わりだが、幸いなことに毒蜂は軽く溜息をついただけだった。 「ここまで私に食って掛かるのは君ぐらいだな。大概の者は途中で諦めるよ。……そうまでして何を求める?」 分かっているくせに、と叫びたい気持ちを抑えて、毒蜂を見上げた。 「一つだけ聞きたい」 「以前にも言ったはずだ。何一つ答えをあげない……とね」 「答えてくれ」 「嘘を言うかもしれないが?」 霧人の肩がぴくりと震えた。 揺れる感情そのままに、瞳が曇る。 「それでもいい」 コートを離す手が小刻みに震えていたことに、毒蜂は気付いただろうか。 嘘でも構わないなどと、霧人の言葉こそが嘘だ。 本当なら真実の答えが欲しい。 だが、そこまで踏み込めば、おそらく毒蜂は応じてくれないだろう。 「どんな答えであれ、聞かせてくれればもう貴方を追わない。だから答えてくれ。貴方にとって私は……」 ふいに霧人の声が止まる。 もう少しで本題に切り込むというのに、それを引き止めるかのように邪魔をしたものがあった。 こんな場所には似つかわしくない人工の音。 自分のポケットからその音が漏れているのだと気づいて、霧人の方が慌てた。 携帯電話だ。 霧人の到着が遅いので、心配した女郎蜘蛛が掛けてきたのだろう。 無視することもできるが、そうすると後で追究を食らうことになる。 何故電話に出なかったのかと問い詰められれば、上手く言い逃れする自信がなかった。 もどかしい思いを抱きつつも、携帯電話を取り出す。 適当に受け答えをして、さっさと切ってしまうつもりだった。 今は、それよりも大事なことがある。 この時を逃しては、もう二度と同じ機会はないのだという確信があった。 鳴り続ける携帯電話を煩いと思いつつ、通話ボタンを押そうとする。 そんな霧人を嘲笑するかのように、素早く伸びた毒蜂の手がそれを取り上げた。 「こんな所にまで持ってきているのかい?」 からかうように毒蜂が言う。 そんなつもりはなかったのだが、影蜘蛛と連絡を取り合った後、つい習慣的にポケットに入れてしまったのだ。 しつこく鳴り響く電子音に、毒蜂が冷笑を浴びせる。 「目の届く所に君がいないと、不安で仕方がないらしい。愛されているね、霧人」 「話をはぐらかすのは止めてくれ」 霧人の目の前で、毒蜂が通話ボタンを押した。 「毒蜂、何を……っ?」 慌てる霧人に構わず、毒蜂が話し始めた。 「女郎蜘蛛かい? 御子息が体調を崩したようだ。迎えにきたまえ」 たったそれだけを言って、毒蜂は通話を切った。 それを言うために取り上げたのか。 女郎蜘蛛が今ごろ不審に思うのは間違いないだろう。 話の内容もさることながら、電話に出たのが毒蜂だったという時点で、慌てふためいて探そうとするに違いない。 ここへやってくるのも時間の問題だろう。 このまま二人で会話を続けられそうにはなかった。 「下らない話は後にして、早々に彼女の元へ行きたまえ」 突き放すようにそう言いながら、毒蜂が携帯電話を差し出す。 霧人はそれを苦々しく見つめた。 これまでになく毒蜂に近づけたと思ったのに、それが邪魔をしたせいで、またいつもの距離に戻ってしまう。 手にしかけたものが、指の間から擦り抜けていくのを感じた。 「……戻ってきてから返してくれ」 差し出されたそれを、霧人は受け取ろうとはしなかった。 「有りがちな手段だと、自分で思わないかい?」 確かに、駆け引きも何もない稚拙なやり口だ。 だが、こうなってしまった今、そうする他にどんな手段があるというのだろうか。 「幼い子供のようだよ、霧人」 笑い声が聞こえて、携帯電話を差し出した手が引いた。 「いいだろう、これは預かる。君の執念に免じて、要求を呑んであげるよ」 弾かれるように視線を上げた先では、毒蜂はもう霧人に背を向けていて、その表情を窺い知ることができない。 応じてくれるとの、その言葉は嬉しいと思う。 しかし、霧人の胸を占めたのは、喜びでも安堵でもなかった。 清流に泥水が入り込むかのように、心の中が曇っていく。 何故そんなことを言ったのか。 何故ここで折れる気になったのか。 「毒蜂……っ」 「帰ってきたら何でも答えてあげよう。君が満足するまでね」 そう言って一度だけ振り返った毒蜂は、あまりに穏やかな微笑を浮かべていて、目を見張ると同時に何も言えなくなった。 「質問を用意しておくといい……霧人」 どこまで意地悪な男なのだろう。 母の後ろに立って、霧人はただ黙ってモニターを見つめていた。 帰ってきたら何でも答えると言ってくれた。 そう約束しておきながら、こうして帰ってこない。 自分でも不思議なくらい冷静に、霧人は毒蜂の最期を見つめていた。 |