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『弥勒兄弟』


その日、夏彦は初めて歯医者の門をくぐった。

その目的は、当然のことながら歯の治療のためである。

歯医者の受付へ向かう夏彦は、いつものように冷静沈着だった。

大概の人間は、歯の治療を控えているともなれば憂鬱な思いを抱えるものだが、どうやら夏彦は例外であるらしい。

やはり『護り屋』などという危険な橋を渡っていると、一般人とは度胸のレベルが違うのだろうか。

受付を済ませ中へ案内された時も、治療用のユニットに座った時も、夏彦はまったく取り乱す気配がなかった。

あまりに泰然としているので、歯科医が不審に思ったくらいである。

歯科医が疑問を抱えるのも無理はなかった。

電話で予約を受けた際に聞いた話では、患者の虫歯はあまりに酷い状態となっており、容赦なく削りまくるくらいの治療を必要としているはずだったのだ。

患者には、あらかじめ『かなり痛いので覚悟してください』と説明してある。

しかも今、すぐ隣では歯を削るあの独特の機械音と、患者の悲痛な呻き声が、さきほどからずっと響いてきているのだ。

歯科医の経験によれば、この状況でびびらなかった者は一人としていない。

しかし、歯医者はこの日、初めて例外というものに出会った。



それもそのはず。

治療を受けるのは、実は夏彦ではなかったのだ。

カルテに記された名は、『弥勒右狂』。

虫歯が発見されたものの、歯医者に行こうとしない右狂に業を煮やした夏彦が、一計を案じたのである。

電話で予約を入れたのも夏彦なら、今ここで治療用のユニットに座るのも夏彦。

口を開けるその瞬間までが夏彦だ。



そして弥勒の体は強制的に右狂へと変貌した。



「☆%&#!! ◆×*@〜っ!! 夏彦のヤロ〜っ!!」

虚しい悲鳴が木霊する。

心の中で夏彦に悪態をついても、ことここに至っては如何ともしがたい。

いつもの威勢のよさはどこへやら、どうすることもできず痛みに耐える右狂であった。





保険きかなくて高額とられそうだなぁ…

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