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『毒蜂さん&霧人(10年くらい前?)』


世間の子供は夏休みに突入した頃である。

霧人は学校には行かず講師を招いての英才教育体制だが、それでも少しは子供らしく夏休みを取らせようという母の方針のもと、一家で地獄谷に戻ってきていた。

周囲に広がる大自然。

のびのびと子供を育てるには絶好の場所かもしれない。

しかし、いきなり都会から田舎にやってきた霧人にとっては、環境が変わっても特別生活に変化はなかった。

蜘蛛一族の御曹司という立場上、そこらの子供たちと一緒になって遊ぶわけにはいかず、しかも夏休みの宿題まで抱えている。

都会にいようが田舎にいようが、呑気に遊んでいる暇などない。

勉強部屋がいつもの場所から、鬼里人の数々の資料が眠る書庫へと変わっただけだった。



エアコンのない地獄谷はどこへ行っても暑いが、書庫だけは驚くほど涼しい。

その日も、霧人は朝早くから蜘蛛一族の敷地を離れ、古書の香りに包まれたその部屋へと足を運んでいた。

天井も高く非常に広い部屋だが、ほとんどのスペースは本棚が占め、古書がみっしりと詰まっている。

本を閲覧できる場所など、大きめの木製テーブルが一つと椅子が二つ、そこだけだ。

閲覧場所が整備されていないということは、余程人が来ないのだろう。

実際、この場所を見つけてから数日、誰にも会ったことがない。

しかし、霧人は今日初めて自分以外の人間を目にすることになった。

「あれ…っ?」

どこからか吹き込んだ風によって、傍らに置いていた本のページが、パラパラとめくれていく。

いつもひんやりとしているこの部屋は、夏であっても窓を開ける必要がない。

風が入ってきたということは、誰かが扉を開けたのだ。

「誰?」

「珍しいね。ここに人がいるとは」

男とも女ともつかない、中性的で穏やかな声。

霧人の振り向いた先で、戸口から差し込む光に白銀の長い髪が煌めいていた。

髪と包帯のせいで顔の半分はよく見えないが、面差しは蜘蛛一族のものではない。

「随分難しいものを読んでいるね」

霧人の国際経済学の本を目に留めて、彼は微かに笑い、書庫の奥へと消えていった。



その時、つい追いかけてしまったのは単なる好奇心だったのだろう。



窓からの光が届かないほど奥まった場所には、他の書棚とは赴きを異にした一角があった。

何が収められているのか、そこだけは頑丈な鉄扉が設えてあり、大きな錠もついている。

霧人が追いついた時には、鉄扉は既に開けられ、彼はその中の一冊を手にしていた。

中身を軽く確認している彼の足元に寄って、書物を見上げる。

表紙には墨と筆で流麗に書かれた文字が連なっていて、霧人には読むことすらできない。

国際経済学などより、余程難解な気がする。

「これに興味があるのかな?」

書物に向けられる視線に気が付いたのか、彼はそれを霧人の目の前に差し出した。

「全然読めない…」

「仮に読めても面白い内容ではないよ。読書感想文にも向かない」

曖昧な返事に小首を傾げると、偶然にも判読できる文字が目に入った。

そこだけは他の文字と違って、読みやすい楷書で書いてある。

「持ち出し厳禁、って書いてあるよ?」

そう言って見上げると、相手は薄く笑った。

「必要のない物だから処分するのだよ」



すっかり忘れていた子供の頃のことが、ここ地獄谷で生活するようになってからは、ふとした瞬間に思い出される。

懐かしいあの書庫で、開け放たれた鉄扉の前に立ち、霧人は記憶を探っていた。

「今にして思えば、あれは毒蜂だったんだな」

そこに収められていたのは、鬼里人の七つの貴族の長い長い歴史を記したもので――しかし、蜂族のものだけがすっぽりと消えていた。

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