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電脳空間には基本的に香りなどというものは存在しない。

いや、香りのみならず音・色・形にいたるまでも、意図的に構築しなければ存在することはない。

理由はごく簡単、必要がないからだ。人間の入ることの叶わぬ世界に、人の有する知覚を持ち込んで何になろう。

だがその見解は、ある一部の者達の存在によって少しずつではあるが、変化の兆しを見せ始めている。

人によって造り出されたヒトではない者達。

まだまだ数は少なく、行動に制限もあるが、電脳の海を自由に翔ける彼らの存在は、それまで人間が持っていた電脳の世界に対する認識を、確実に変えていくだろう。

限りない未知を秘めた電脳空間は、電子と人間の狭間に位置する彼らよって、やがて想像もつかない世界へと進化していくのかもしれない。




青灰色に沈む電脳空間に、突如眩い光が現れた。雷光のように鋭い煌きを放つそれは、他には目もくれず一直線にとある場所を目指す。

だが、これ程までに圧倒的な存在感を見せておきながら、光が疾走するその様を認識できるものはいない。

見えているはずなのに、見えない。

感じられるのは、息を呑む程の威圧感だけだ。

確かにそこに在ると感じるのに、いくら感覚を総動員しても認めることはできず、その存在が過ぎ去ったと思しき場には、何の痕跡も残りはしない。

矮小な輩ではそれこそ感じ取ることすらできないであろうが、もし光の飛翔に気が付く者が居合わせたとしても、悪い夢を見たかのように呆然とするしか術がない。

力の程を見せつける光の飛翔は、長くはなかった。一瞬周囲の様子を窺うように速度を緩めたが、後は迷いのない軌跡を描く。

やがて紫の雷は仄かな白い輝きの中へ吸い込まれた。

放つ光はあくまでも柔らかいくせに、他を睥睨するかのように聳え立つ白亜の図書館。

正規ユーザーには限りない親愛を、不法アクセスには冷酷なまでの鉄槌を下す孤高の図書館は、鳥が翼を広げるが如く強い輝きを閃かせ、ヴァイオレットの稲妻が白く溶け込むと同時に、その光の翼を収めた。

畏怖すら与える建物が、その威圧感を増す。

沈思の図書館に、最高・最強の名を誇る守護者が帰還したのである。

壮麗を極める図書館の内部、シャンデリアが煌く玄関ホールの中央で、電子の雷は人間の姿を模った。

形を持たない光が人型に凝縮され、光度が引いてくるのと呼応するように、それぞれの色とその境界線がはっきりしてくる。右手を軽く振り上げると、身を包む大振りなコートが雄々しく翻った。彼の顕現により、沈黙していた空間が大きく揺らぐ。

室内の風景が、命を吹き込まれたが如く、見る見るうちに現実感を増した。

「ふう…。特に異常はなしっと」

靴底が毛足の長い絨毯を踏みしめると同時に、典雅な甘い香りが広がった。

アイボリーのコートに、目にも鮮やかな真紅が映える。

オラトリオは奥の方から伝わってくる波動に、にやりと笑った。

はっきりと分かる程に不信をはらんだ感情は、管理人のものだ。いつもなら直行するはずのオラトリオがわざわざ玄関を通ってきたのを不思議がっているのだろう。

特に深い理由があるわけではなく、ただの気紛れなのだが、管理人の反応が面白くてわざと説明してやらない。

焦らすように時間をかけて歩を進め、見慣れた図書館の中を行く。オラトリオが通った後には、豪奢な花の香りが暫しの間漂っていた。

長い廊下を渡り終えて、繊細なレリーフの施された扉の前に立つ。

扉の向こうには、おそらく図書館を統御する賢者が、いつものように扉の正面に立ち、オラトリオを出迎えようとしているのだろう。腕に抱いた花束を見て、彼はどういう反応を示すだろうか。

私的な理由で新しいデータを持ち込む度、それが楽しくて仕方がない。

「さぁて、じゃ行くか」

殊のほかゆっくりと扉を開けると、予想通り古風なローブに身を包んだ主が暖かく迎えてくれた。

「お帰り、オラトリオ。…?」

「ただいま、オラクル」

真っ先に視界に入ったであろう真紅の光彩に、オラクルの穏やかな笑顔が、軽い驚きの表情に変わっていく。

見開いた雑音の瞳に、激しく光が交差した。雑音の瞳や髪、足元まで覆うローブは、表情以上にオラクルの内面の動きを如実に表す。人工の産物とは思えない色彩の変化の妙が、いかに神秘的で秀麗なものか、残念なことに本人だけが分かっていない。

オラトリオが悠然と歩み寄ると、後ろの扉が音もなく自動的に閉まり、待ちかねたかのようにオラクルの方から駆け寄ってきた。

「どうしたんだ、これ?」

紳士が淑女に花を捧げるような、上品なポーズで差し出された薔薇の花束に、文字どおり目の色を白黒させながらオラクルが尋ねてくる。

恭しく渡された花束はオラクルのブローチよりも尚赤い薔薇だ。

「欲しいって言ってただろ」

「確かに言ったが、昨日の今日だぞ」

昨日、たわいもないお喋りの間に交わされた約束がある。

そもそもはシグナルとオラトリオの会話の中に、花屋という単語が出てきたのが発端だ。

『何か欲しいのあったら持ってくるぜ?』との言葉に、オラクルは少し悩んで逆にこう問い掛けた。

『オラトリオ。自分に似合う花は何だと思う?』と。

その答えが、この赤薔薇だ。

オラトリオの真紅のトルコ帽を思わせる薔薇は、しっとりと濡れたビロードのような花弁を優雅に開き、己の美に対する自信を漲らせるかのように咲き誇る。

「見事な薔薇だな…」

「だろ?もっとも、コードに言わせると、“鬱陶しい花”らしいけどな」

コードの言いそうな台詞だ。

ふんぞり返ってそう酷評するコードの姿が容易に想像できて、オラクルが可笑しそうに笑った。質素で清楚な和風好みのコードからすれば、この赤薔薇は趣味の対極に位置するのだろう。

むろん、コードの採点が厳しいのには他の要因もある。この花をコードの愛してやまない妹達が携えていたならば、こんな冷たい反応を返したりはしない。他ならぬオラトリオだからこそ、その毒舌に磨きがかかるのだ。

「コードは、音井教授のロボットにはいつも採点が辛いからな」

「まぁな」

確かにその通りなのだが、それだけではないことを、この箱入りは分かっていないのだろう、とオラトリオは心の中で溜息をつく。

音井ブランドの中でも、ラヴェンダーやパルスはコードの仕打ちを受けることはあまりない。いつも標的にされるシグナルと、いくら優秀でも素気無く扱われるオラトリオと、その二人の共通点が何なのか少し考えればすぐ察しがつくことだ。

いまいち鈍感、という点についてはエララとオラクルは似ていると言えなくもない、かもしれない。

オラトリオのささやかな苦労など全く知らず、オラクルは腕に抱いた薔薇に見入っている。

「オラトリオに似合う花って、なんとなく分かるよ」

コードが時折持ってくる日本の花々も趣があるが、このORACLEにはやはり西洋の香りが似合う。

「俺ってば、ノーブルな男だからな」

それには答えず、オラクルは花束に顔を寄せた。

「綺麗だな…」

そう呟く唇は微かに濡れている。人に非ざる白い肌と、鮮やかな紅との対比が艶めかしくさえ感じられた。

魅入られるかのように薔薇の花束に見惚れるオラクルは、言葉を失ったオラトリオに気付かない。

華やかな姿を視覚で楽しみ、花弁に触れてその滑らかな感触を楽しむ。

放たれる芳香は、体の芯まで溶け込んでいきそうだ。

豪快で気高く、魅惑的なまでに人を引き寄せるくせにその身には鋭い棘を持つ。確かに、オラトリオにこれ程相応しい花もあるまい。

「店員のおねーさんに、『恋人へのプレゼントですか』って言われたぜ」

あまりに真摯な瞳で薔薇を見つめるオラクルに僅かに苦笑しつつ、花束を押し潰さないよう気を遣いながらオラクルの肩を抱く。

「へえ。それで何て答えたんだ、お前は」

「もっと大切なヒトに…ってな」

その一言であの女性を口説くことは出来なくなった。

惜しむ気持ちがないと言えば嘘になるが、こういうのは気持ちの問題だ。浮ついた下心で女性に嘘をついた後、その舌の根も乾かないうちに本命に真剣な言葉を吐くのは気が引ける。

顔を近づけて尚も囁こうとすると、花束の位置がせりあがってそれ以上の言葉を封じられた。

「おだてても何も出ないぞ」

大輪の薔薇の向こうから、さらりと返される。特に感情の篭らないオラクルの口調からは、オラトリオの告白を冗談として受け取ったのか、知っていながら敢えて躱したのか判別がつかない。

「赤い薔薇を贈る男の心理が分からないとは、泣けてくるぜ」

オラトリオの遠回しな言い方に、掲げた花束を降ろしてオラクルが怪訝な顔をした。

花を贈ることにも、花自体にも、様々な意味合いを持たせることがあるのだということは知っている。つい最近も、Dr.クエーサーの葬儀に際して、オラトリオを仲介はしたものの、ORACLEから百合を手向けたばかりだ。

その時に検索したデータをもう一度引っ張り出して、赤薔薇に関する情報を掻き集める。最も人気の高い花の一つだ。深く検索するまでもなく、求める答えは弾き出された。

「…」

無言のままに、オラクルの表情が変わる。

「その様子だと、理解できたようだな」

精悍な顔が楽しげに笑った。

力強い手がオラクルの繊手から花束を取り上げ、カウンターの方へ放る。

一見乱暴な行為だが、ここは現実空間とは違う。花束はゆるい放物線を描いて何の衝撃も感じさせずに着地した。

「薔薇を愛でるのは、後で…な」

二人の間を隔てるものがなくなり、オラトリオの腕が強くオラクルを引き寄せた。見下ろした雑音の瞳は、潤んだような鈍い緋が滲んでいる。

「オラトリオ…」

「野暮なことは言うなよ」

オラトリオの行動を僅かに咎めるような気配を見せるオラクルに先んじて、抵抗を言葉と口付けで塞いでしまう。

「…っん」

軽く触れるだけの口付けを繰り返し、薄く開き始めた唇に深く口付ける。舌を絡めとって温かい口腔を荒らしてやると、オラクルの体から徐々に力が抜けてきた。

黒い布地に隠されたしなやかな腕が、首に回ってくるのを確認して、オラクルの体を抱き上げる。長身の体を持ち上げても、さして重く感じられないのは、ここが電脳空間だからだろう。

激しく舌を絡めあいながら、そのまま私室へ転移する。

腕の中の愛しい存在を優しく寝台に横たえた。

覆い被さると、艶を含んだ雑音の瞳が見上げてきた。頬に落ちかかる髪が、僅かに乱れた吐息までもが、甘くオラトリオを煽り、欲という名の熱を高めていく。

「少しだけ…だ…ぞ」

こんな媚態を見せておきながら、よく理性的な台詞が言えるものだ。

オラクルの服を剥ぐ手を暫し止めて、耳元に唇を寄せる。

「そんな言葉が何か意味を持つと思うか?…今日は逃がさねえ」

低く囁くと、快楽を受け入れた時のようにオラクルの体が一瞬震え、少しだけ困った表情で笑いかけてくる。

「仕方が…ないな」

「ん?『仕方ない』じゃねーだろ」

揶揄するように問い掛けてやると、挑発するような笑みが返ってきた。

「すっかり見通されているようだな」

「長い付き合いだしな。お前のことは何でも分かってるぜ」

オラクルの手が伸びて、襟元からオラトリオのコートの内側に滑り込む。オラトリオが雑音のローブをゆっくりと脱がせていくのに合わせて、オラクルの手もアイボリーのコートを外していく。

コートの下から現れた真紅の上着に、オラクルが微かに目を細め、顔を埋めてきた。滑らかな肌触りを楽しむように頬擦りし、薔薇の残り香に心地よさげに口許を緩める。

「薔薇を愛でるのは後だ、って言っただろ?」

オラクルの顔を両手で挟み込み上向かせる。薔薇の花に向けていた陶然とした表情そのままに、オラクルはオラトリオの手に自分の手を重ねて艶やかに笑った。

「お前を連想させる花だから、愛しいんだよ」




薔薇はオラクルが用意した瀟洒な花瓶にバランス良く活けられ、カウンターの中央に飾られている。

『今度はお前に似合う花、持ってきてやるよ』

そう言い残して、守護者は現実空間へと戻って行った。

気障な真似を…と思いつつも、次にオラトリオが戻ってくるまでの時間がいつもより長く感じられそうだ。

贈り物も無論嬉しいが、オラトリオがオラクルのためだけに何かをしてくれるというのが、何より嬉しい。

現実空間というものは、オラクルにとって決して見ることの叶わない遠すぎる世界だが、その遠い世界で活動している時でさえ、オラトリオは何かにつけてオラクルの喜びそうな事に頭を悩ませてくれている。

離れている時こそ、相手を独占しているという感覚を強く感じるのは不思議なものだ。


「赤薔薇の花言葉は『愛』か…」

ストレートすぎる言葉に、口の端に軽く笑みが刻まれる。



呟いた言葉を肯定するかのように、微かに薔薇の花弁が揺れた。

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