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静養中とは暇なはずだ。

暇であって良いはずだ。

先日、ハッカーとの攻防で傷ついたプログラムを抱え、オラトリオは現在、<ORACLE>内で静養の日々を送っている。

ハッカーに対抗する最良の手段として、オラトリオは<ORACLE>に強制介入し無理矢理全権をその身に移した。本来、長い時間と手順を踏まえて行われるべきその行為を、何の準備もなく、何のサポートもなく行ったせいで、オラトリオは音井教授でさえ頭を抱えてしまうような状態に陥っている。悪くすれば、パーソナルプログラム自体が崩壊していたかもしれないことを考えると、これぐらいで済んだのは奇跡的だっただろう。

そんな訳で、オラトリオは現在大人しくしているのだが、静養とはいっても、仕事がなくなるわけではなく、ハッカーの来襲は後を絶たない。幸い卑小な手合いばかりで、質の悪い輩が来ないのがせめてもの救いといったところか。

監察官としての仕事は流石にストップしているが、守護者としての仕事はきちんとこなし、ついでにこれ幸いと仕事を押し付けてくる管理人にこき使われ、静養中だというのに意外と忙しい。

現実空間にある彼の機体は、未だに起き上がることさえできず、活動できないどころか機体に自身のプログラムを預けることさえ負担を伴う。電脳空間においても、現実空間においても、今オラトリオが置かれている事態は深刻なのだ。

だが、生来の性格と物腰のせいか、周りの者達から労りのお言葉はあまりかけてもらえない。

こんな状況であっても、基本的にオラトリオは静養中の身の上になるそうだ。

この何やら悲しい心境を、誰も分かってくれない。オラトリオに一番近しい存在であるオラクルからして、やれ門の暗証番号を変えろだの、データの分類を手伝えだの、はっきり言って普段異常に人遣いが荒いのだ。

“静養中は暇”という概念は、オラトリオには無縁であるらしかった。

今日も<ORACLE>は騒々しい。

いつも厳かな静寂を称えているはずの図書館は、最近訪ねてくる客人の数とその回数が極端に増えたため、色々な意味で落ち着かない。

シグナルにエモーションにコード。この三人が揃っては、静かにしろという方が無理だ。

シグナルは昔から何かとトラブルに縁があるし、エモーションは退屈のあまりトラブルを期待してしまう傾向がある。コードに到っては、トラブルの火種を大きくするのが得意技だ。

彼らに関してのことは、オラトリオもすっかり諦めている。

騒ぎを収めようとしても、巻き添えをくうだけに違いない。何も好き好んでヤブをつついて蛇を出すことはないのだ。

シグナル達のことに関しては、すっかり第三者の立場を決め込んだオラトリオであったが、懸念すべきことがもう一つあった。

例の三人がいない時はいない時で、誰の影響かこの図書館の主が、客人のためといってはあれこれと品物を集めるようになった。

前々からそういう行動は見せていたが、最近は余計それが顕著だ。

その関連で、結局いつも<ORACLE>の中はどこかしらどたばたしている。

それが嫌だというわけではない。

オラクルにとっても<ORACLE>にとっても良い傾向であるのは分かっている。だが、たまにはオラクルと二人だけのゆっくりした静かな時間を過ごしたいとも思う。

贅沢な悩みであるのは承知の上であったのだが。




そんな物思いに沈んでいるオラトリオの耳に、いつもの喧騒が突き刺さる。

「まあ、<A―S>はエララさんに好意を持ってるんですの?」

「いやっ、そのっ!エ…エモーションさんっ!!そういうことは…っっ!!」

「ほほう…」

もう幾度となく目にしている光景だが、当事者達は飽きもせずに同じようなやりとりを繰り返している。

オラトリオの目の前では、はしゃぐエモーションと、細雪を構えてシグナルを追い回すコードと、冷や汗を垂らしながらかなり本気で逃げているシグナルとがいる。

傍らの、オラクルは淡い苦笑を浮かべながら見守るばかりだ。逆上しているコードに食って掛かる愚か者はここにはいない。

「やれやれ…」

不甲斐ない弟を見やり深く溜息をつく。

今の所、シグナルは常に良い玩具にされている。最新型のロボットといえば聞こえがいいが、曲者揃いのA−ナンバーズの中にあっては、栄光の最新型という肩書きは、経験値が浅いと鼻先であしらわれるのみだ。決まりきっているこの立場が変化の兆しを見せるのは果たしていつの日になることだろう。

「この分じゃ、エララとの仲も当分進展しねぇだろうな」

「進展って…?」

楽しそうにオラクルが聞いてくる。

「まだ、“手を握る”レベルにも到達してない。ま、シグナルじゃ無理もないよな」

シグナルがオクテすぎるというのなら、オラトリオの場合は手が速すぎだ。

向こうでは、止めに入ってくれたエモーションがシグナルから根掘り葉掘り話を聞き出している。そして、しどろもどろに答えるシグナルの拙い言葉に、またコードが逆上する、その繰返しだ。

「勘弁してください〜っ、エモーションさんっ」

「育ての母としては、気になるんですわ」

エモーションの追及は止まる所を知らないらしい。そもそも恋愛絡みの話は女性の好む話題だ。そこにシグナルが絡んでいるとなれば、エモーションが夢中になるのも無理からぬことであろう。

ずっと黙って騒ぎを眺めていたオラクルが、エモーションの台詞の中に、ある言葉を見出しておもむろに口を開いた。

「人間の男の子は“母親に似たヒトを好きになる”んだったよね」

「余計なこと言うなよ、オラクル」

オラトリオの制止の言葉は遅かった。

どこかで何かがプチッと切れた音がしような気がする。コードの手の細雪は、研ぎ澄まされた白光を放っていた。

「大人しく、この細雪の錆となれっ!!」

「ひえええええええぇぇぇぇ〜っ」

僅かに収まりを見せていたコードの怒りの業火に、また油を注いでしまったようだが、その張本人のオラクルは全く悪気はなかったらしくきょとんとしている。オラクルとしては、先日オラトリオが言っていた台詞を反芻しただけなのだ。

「何か変なことを言っただろうか?」

オラトリオに確認する口調にも、自分の仕出かした事を理解しているふうはない。

「いんや。ただタイミングが悪かっただけさ」

そう答えてひらひらと手を振る。

自分に関係のない状況だからだろうか、オラトリオの反応はあっさりとしたものだ。

気にするな、とでも言うかのようにオラトリオはオラクルに紅茶のお代わりを求め、オラクルもまたそれに応える。差し出された紅茶には、スコーンとマフィンの乗った小皿が従者のようについてきた。

おまけまでつけてくれたことに礼を言うと、柔らかい微笑を浮かべる。

二人の周囲だけは、すっかり和みのムードが広がっていた。殺伐とした風景は間違いなく視界に入っているはずなのだが、すっかりシャットアウトして感知しない。

「良い香りだな、新しく入れたのか?」

「分かるか?先日取り寄せたんだ」

「このマフィンも美味いぜ」

まるでテラスでアフタヌーンティーを楽しんでいるかのような風情だが、その傍らでは壁際に追いつめられたシグナルが、迫る細雪に絶体絶命の危機を迎えていた。

「無視しないで、助けろ〜〜〜っ!!馬鹿兄貴っ!!」

オラトリオは努めて知らないふりを決め込み、オラクルのことも巧みに自分のペースに引き込む。

「お前の淹れてくれる紅茶は最高だな。もうお前の紅茶以外は飲めなくなるぜ」

「誉めすぎだよ」

「俺は事実を語ってるだけさ。お前の紅茶には愛情が篭ってるからな。もちろん俺への」

「オラトリオ…」

「だからっ!!二人で世界作ってないで、助けろってーーーっ!!」

兄が頼りにならない上、オラクルのことも向こうサイドに取り込まれてしまっては、シグナルの味方はエモーション以外にいなかった。

案の定エモーションに庇ってもらって命拾いしたシグナルを、なるべく関心がないように横目で眺めやり、オラトリオはオラクルが言ったこと、引いては以前自分が言ったことを少し考える。

『母親に似たヒトを…か』 シグナルを笑ってはいるが、自分にとっても無縁のことではないように思われた。

一人だけ、頭の中に鮮明に浮かんでくる名前がある。




気晴らしと、機体の整備状況確認の意味もあって、オラトリオは現実空間に戻ってきた。

本音を言うと、オラクルから面倒な仕事の処理を押し付けられそうな気配を感じ取ったため、先んじて逃げをうったのだ。にこやかな笑顔のくせに、仕事を言い付けるオラクルには、オラトリオでさえ圧倒する迫力がある。紳士的で親切で心の篭った暖かみの感じられる人格プログラム、ユーザーには大好評だが、実は押しが強い一面を持っていることを、オラトリオ以外に知る者は少ない。

「仕事に関しては頑固だからなぁ」

溜息交じりに呟くオラトリオとて、人の事が言えたものではない。一見サボリ魔と見せかけて、オラトリオの本質とてオラクルと同じワーカーホリックだ。

機体に意識が戻って、一番初めに感じるのは奇妙な違和感。

目を開けると視界は歪んだままで、正常な像を結ぶのに通常より大分時間がかかる。

今はまだ苦痛は感じないが、暫くすれば身を焼くような忌まわしい感覚が襲ってくるのだろう。機体に長く止まれば、その分だけ、機体がオラトリオのプログラムを少しずつ蝕んでいく。

何度か目を瞬いて周囲を見回すと、静まり返った研究室内に人影はなく、規則正しい機械音だけが、催眠術でもかけているかのように気怠い振動を響かせている。

「んだよ。誰もいねーのか…」

居れば居たで煩いと感じるものだが、置きっぱなしにされているのも何だか蔑ろにされているようで、お世辞にも良い気はしない。

プログラムを電脳空間に降ろしている間は、ロボットはまるきり意思を持たぬ人形と同じ状態だが、部屋の片隅で埃を被っている人形の姿を連想すると暗い気持ちになってくる。誰かに付き添っていて欲しいわけではないが、せめて室内の照明くらいつけたままにしておいてもらえないものか。

経費削減、節約に励むのは結構なことだが、オラトリオがいつ現実空間に意識を浮上させるか分からないではないか。

舌打ちをして深々と背もたれに背を預ける。

音井教授の姿が見えないことには本気で落胆を覚えた。

音井教授の不在は、オラトリオの修理が進まないことに繋がるのだ。

一刻でも早く直してほしいものだが、音井教授の多忙さを考えると、オラトリオのことだけにかかりっきりになれないのも肯ける。

軽い溜息をついた所で、扉が開いた。廊下の照明で切り取られた人影は小さく、期待していた白衣の老博士ではなかったが、それでも僅かにオラトリオの表情が緩む。

「あっ。オラトリオ、起きてるー♪」

「よっ、信彦」

幼い顔が一瞬で満面の笑顔に変わる様が何とも微笑ましい。

末弟の『弟』だ。

可愛げのない弟達と、恐ろしい姉に挟まれた身には、この少年がえらく可愛いと思える。

信彦に対して好感が持てるのは、容姿性格共に母親似のせいだろう。これで父親似であったなら、オラトリオが正信と相性が悪い関係上、仲良くなれたとは思えない。

「オラトリオ。今、暇?」

部屋の明かりをつけ、何かを期待するような何かを企んでいるような、そんな表情で信彦がトコトコと近づいてくる。手にしたノートや教科書類が、次に来る言葉を予想させた。

「忙しそうに見えるかー?」

「じゃあさ、じゃあさ。協力してよ」

言い終わるのと同時に、信彦が手にしたものを差し出した。冊子の表には、小学生の敵「算数ドリル」の文字が大きく書かれている。

算数が得意な子にとってはどうということのない単語なのだろうだが、算数を苦手とする子から見ると、その言葉はまるでゴキブリにでも対する時のように、嫌悪感を伴うものと成り果てるのだった。

「何だ、算数の宿題か?」

「うん」

頭を掻きながら、信彦が苦笑いをする。今の所、信彦の学校の成績は、可もなく不可もなくの状態だが、その中でも算数はどうにも好きになれないらしい。単純な計算問題なら何とかなるものの、少し複雑になると追いつかないようなのだ。

「よっし、おにいさんに任せなさい♪」

胸を叩いて言いきると、信彦が小躍りする。

「やったあ♪皆して『自分でやらなきゃ意味がない』って全然手伝ってくれないもん」

シグナルやカルマにそう言われている場面を見たことがある。

「頭の固い連中だよな、あいつら」

まるっきり突き放すのではなく、少しくらいとっかかりを教えてやれば良いものを、といつも思っていた。手取り足取り、1から10まで懇切丁寧に導いてやれと言っているのではない。進むべき方向に気付かせてやれば良いのだ。そこから先は本人の努力次第ということで、繋いだ手を離してしまっても構わないだろう。こちらから無理に手を離さずとも、成長するに従って自分の頭で考え、自分の力で行動するようになる。自然と導く手を必要とはしなくなるものだ。

「どれ、見せてみい」

「うんっ」

手渡されたドリルのページを捲ってみると、意外にも解答欄は9割方埋まっている。

「お、やってあるじゃねーか」

「難しいとこは真っ白なんだけどね」

大概、問題集というものは、問1が一番簡単で、徐々に難しくなっていく構成だ。

成る程。設問の番号が最後の方になると、空欄が目立つようになってくる。

だが、算数が得意ならともかく、苦手としていながらここまでやってあれば快挙だろう。

「頑張ったな。算数、苦手だろ?」

感心して誉めると照れくさそうに笑う。恥かしくとも、嬉しいらしい。

「よし、じゃ始めるか。体勢苦しいからここ座れ。信彦」

ちゃんとテーブルと椅子がある部屋に移動したい所だが、オラトリオは調整中で起き上がることができない。かといって、このまま信彦を立ちっぱなしにさせるのは可哀想だ。

妥協策として、信彦を膝の上に座らせる。

俄か家庭教師と、俄か生徒の勉強時間が始まった。




算数が苦手とは言っても、ほんの少しヒントを与えてやると、後は自分で解けるものだ。

これならコツさえ掴めば、苦手も克服できるだろう。

信彦の飲み込みが早いのか、オラトリオの教え方が上手いのか、解答欄はどんどん埋まっていった。

「すげー。オラトリオって教え方うまい」

「ははは、転職した方が良いか?」

無邪気に感嘆の声を上げる信彦に、オラトリオは笑いながら答えた。教えたり、説明したりするのが巧みになったのは、おそらく相棒の世間知らずのせいだろう。一度も現実空間を目にしたことのないオラクルに、世界のことや世間の仕組み、常識などを説くのは骨が折れた。その時の苦労が、こんな形で表れている。

「あ、そうだ。聞いて聞いて、オラトリオ」

何を思い出したのか、信彦が大きな目を輝かせながら話し始めた。

「この前の作文の宿題さぁ」

「あー?あの『私の家族』ってやつか」

他愛もない作文の宿題で、一騒動あったことを思い出す。

『ロボットを家族と見なすか否か』

あの時、信彦の疑問に答えたのはシグナルだった。

算数の問題の答えは一つしかない。そういう類の疑問になら、オラトリオは幾らでも答えてやることができる。しかし、10人いれば10人分の答えが存在するような問題は、安易に答えることはできない。

そこがロボットたる所以なのだろう。その枠を超えることはなかなか出来ない。だが従来の常識を突き破る、無限の可能性を秘めた者はすでにこの世に誕生している。新たなる一歩を踏み出すのは、常に若者の特権だ。栄えあるその役目を担うのは、残念ながらオラトリオではない。

だが、表舞台は弟に譲って、オラトリオは裏の顔で嘲笑する。

誰も気がつかない。

目に見える単純な形でその特殊性を発揮しているシグナルに目を奪われて、誰も気づいていない。

ロボットの進化は、もうすでにオラトリオの中で起こってしまっていることに。

シグナルとオラトリオの進化は、それぞれ別な方向へ向かうだろう。

そのことに最初に気がつく人間は、ひょっとすると妙に聡い目の前の少年かもしれなかった。

「あれ先生にすっごく誉められたんだ。枚数もだけど、おもしろいって」

「徹夜して書いてたもんな。気合入れた甲斐あったじゃないか」

頭をくしゃくしゃと撫でてやると、心底嬉しそうに笑う。言いたくて仕方なかったのだろう。しかも、できれば人間ではなくロボットの誰かに。その第一報を受けたのはもちろんシグナルだったのだろうが。

ロボットが家族であるということ、それをロボット達も自然に受け入れているということ、きっと晴れ晴れとした気分で作文を提出したのだろう。それを第三者に誉めてもらえたなら、喜びはひとしおのはずだ。

「信彦―、いるのー?」

扉が開いて、僅かに語尾の伸びる女性の声が入り込んできた。反射的に信彦が顔をそちらに向ける。

「あ、母さん」

「ここにいたのね。お風呂入りなさい、信彦」

「あっ、はーい」

特殊加工してあるオラトリオのコートの表面を滑るようにして信彦が膝から降りる。宿題に協力してくれたお礼も忘れない。

並んだ二人を見て、オラトリオはしみじみと呟いた。

「そうしてると本当に母子なんだって、つくづく思いますね」

「年とったなあって思うわぁ。信彦が大きくなるはずよね」

わざとらしく腰を叩きながらみのるが言う。その行為があまりにも似つかわしくなくて、オラトリオは慌てて否定した。

「何言ってんですかい。俺なんか、あんまりみのるさんが若々しいから、信彦の母親だっていう事実、たまにすぽっと忘れますぜ」

「お世辞でもそう言われると嬉しいわね♪」

「マジですよ」

実際みのるはとても30代半ばとは思えない外見をしている。独特の柔らかい印象は、幼いようでいて熟成した大人のようでもあり、容姿だけでなく、持っている雰囲気が年齢を感じさせない。

夫の正信もそうだが、海外では20代前半で十分通るだろう。信彦と並んでいても、母子というより年の離れた姉弟のようだ。

初めて出会った時から、変わらない。

「みのるさんの若々しさを保つためにも、苦労かけちゃダメだぞ、信彦」

「分かってらい」

信彦が拳を握って断言する。この分なら、これから反抗期を迎えたとしても、それ程心配はいらないだろう。

「じゃ、オラトリオまたねー」

「おう、いつでも来いや」

元気良く小走りで出ていった後ろ姿を目で見送り、オラトリオはみのるに向き直った。

「みのるさん似ですよね信彦って」

「皆そう言うのよね」

「いやぁ、良かったですよねぇ」

「何故かしら、皆そう言うのよねぇ」

かつて旧友のコンスタンス女史にも同じことを言われた。

みのるとしては、子供が愛する夫に似ていたとしても何ら問題はないと思うのだが、周囲の人達は一様に、信彦がみのるに似たことに祝福の言葉を贈る。

オラトリオは正信と何となく相性が悪いので無理もないかもしれないが、他の人達の反応まで同じというのは少々気がかりだ。

「もし正信さんに似て、しかも女の子だったりしたら、すっごい美人になるわよ」

そう言っても、女好きで通っているオラトリオですらあまり良い顔はしない。

「それより、みのるさんに似た女の子の方が絶対いいっす」

かなり本気で断言する。首を傾げるみのるに苦笑しながら、オラトリオは話題の方向を変えた。

「何て言うか、繋がりがあるとやはり似てくるものなんでしょうかね。カシオペア家のヒト達はどこか共通点がありますよ。優しくて暖かくて、それでいて気丈な所が。カシオペア博士とみのるさんはもちろん、三姉妹も、信彦も。持っている雰囲気が似通っているように思います。」

もう一人、名前が思い浮かんでいた。

誰からも好感を持たれる穏やかな微笑み、それでいて非常時には毅然として的確な判断を下す『彼』。ユーザーが絶対の信頼を寄せる、優しくて暖かくて、そして非情な賢者。

「不思議なもんっすよね」

「あのね、オラトリオ。コードは?」

「あえてそこには触れなかったんすけど…」

正直に答えると、おかしそうにみのるが笑う。控えめに笑うその表情が、『彼』に似ているのだと前々から思っていた。

二人きりで向き合うと、起動してまもなくの頃を思い出させる。

「変わりませんね、10年前と」

その台詞をどう受取ったか、みのるは僅かに科学者としての瞳を覗かせてオラトリオに問い掛けた。

「オラトリオは…自分で自分が変わったと思う?」

「変わったかどうかは分かりません。ただ、色々と増えました」

変わってはいるのかもしれない。こうしてみのると向かい合っても、昔のような痛みはもう感じない。かつて密かに抱いた想いはすっかり薄らいで、少しだけ切ない色を滲ませるのみだ。

「増えたものは、嫌なもの?」

「嫌なものもあります。そうでないものも」

穏やかに問い掛けるみのるに、一つ一つ言葉を選んで答える。声に出して確認すると、自分に突きつけられている責務を改めて実感させられるが、それと同時に大切な存在と、譲れない決意とを思い出す。

「良い笑顔をするようになったわね、オラトリオ」

無意識のうちに、口元には笑みが刻まれていたようだ。

「みのるさんに伝授していただきましたから。本当に色々と教えてもらった。感謝してます」

様々な人達から様々なことを学んだ。だがその中で最も大切なことを学んだのは、みのると過ごした時間だったと思っている。他愛のないお喋りからどれだけのものを与えてもらったことだろう。

「育った子供を見るって、こんな心境かしらねー」

身の丈2mを超す男を前にして、そんなことを言うみのるの口調はごく自然だ。子供扱いされていることに多少の抵抗は感じるが、オラトリオは苦笑するしかない。

「母親…か」

低く呟いた声に、突如苦痛の気配が滲んだ。

長く機体に居すぎたらしい。全身が軋むような感覚が襲ってくる。

みのるとこうして語り合う機会など、今は滅多にないというのに、オラトリオの意思など関係なく、プログラムに直接走る激痛がオラトリオを侵食していく。現実空間の風景を捕らえていたはずの視覚センサーが異常を訴え、暗転した。いくら目を見開いても、見えるのは電脳空間の永劫の闇と縦横に走る基盤だけだ。

防衛システムが半ば強制的に電脳空間への潜入を行おうとしている。知覚センサーの類が電脳空間モードに切り替わっているのがその兆候だ。 闇の向こうに一筋の光が見える。

白亜の図書館は、その主そのままに包み込むような光彩を発して守護者の帰還を待ちわびている。虚空へ向かって両腕を広げ、微笑むオラクルの姿が見えた。

呼んでいるーーー。

「オラトリオ?」

急にオラトリオが無口になったことに気が付いて、みのるが小刻みに震える肩に手を置いた。廃熱が上がってきている。自分の身に起こった異変をすぐには明かさない所は相変わらずだ。

「そろそろお帰りなさい。待っている人がいるでしょう?」

紫の人工宝石が瞼の奥に閉ざされる。

オラトリオの意識は完全に電脳空間に沈んだ。




肩に触れた柔らかい感触がまだ残っている。

みのるの声が遠ざかったと思った時には、オラトリオは電脳空間の闇の中にいた。

闇に対してヒトは原始的な恐怖を感じるという。だが、ヒトに造られしロボットにはそんな感覚はない。電脳の世界から生み出された存在にとっては、この電子の闇は故郷と等しいのだ。

オラクルが自動誘導してくれているらしい。黙っていてもオラトリオは<ORACLE>に吸い寄せられた。

見えざる手が導いてくれているかのような感覚を覚える。

付きまとう奇妙な安心感。

導いてくれる手というのは、いつでも優しくて心地良い。十数年前、みのるのラボでカリキュラムをこなしていた時と同じような感覚だ。

自分の負わされた義務を認識するための教育は、決して楽しいものばかりではなかった。

みのるのやり方は、シグナルの手を引いて行くべき所へ導いたエモーション程優しくはない。指針を示すというよりは、自分で自分の行くべき道に気づかせる、そういうやり方だった。

だが、今思い起こしてみても、辛い記憶は浮かんでこない。

苦しいことがあっても、あの時の自分はあの空間が何より好きだったのだろう。

しかし、もうみのるの手は必要ない。

生まれながらに持っている過剰な力を扱いきる強さも手に入れた。自分の存在意義を受け止める強さもまた、この手にした。

眼下に壮麗な白亜の図書館を見下ろし、オラトリオのセンサーは既にその内部を捕らえている。

オラトリオの帰還を待ってホールの中央に佇む管理人のローブは、鮮やかな紫へとその色を変化させていた。

暁の紫と謳われる、オラトリオの瞳の色へと。

「お帰り、オラトリオ」

笑顔と共に差し出された手に、オラトリオは自身の手を重ね合わせた。

守るべき者、守りたいと心の底から願う者が、電脳という絆を介して常に傍らにいる。

導きの手が離れたその先に、共に同じ道を歩むための手を見出した。

「ただいま、オラクル」


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