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暗がりの中に蝋燭の炎だけがゆらゆらと揺れていた。

幽かな空気の流れにも過敏に反応する光は、不規則な光を周囲に撒き散らし、鈍いオレンジの色で染め上げる。常に形を変えて定まることのないその姿は、まるで生き物のようだ。こんなにも神秘的な様を見せる炎を動物が本能的に恐れるのも無理はない。人間が炎を使うことを覚えたのは果たしていつのことだったのだろうか。

そして今、炎への恐怖を克服し火を利用することを知った人間達が、蝋燭の周囲には集っていた。闇に紛れた人の顔は、蝋燭の幽玄たる炎にうっすらと照らし出され、独特な雰囲気を醸し出している。

一切の物音は絶え、人々が呼吸を繰り返す乾いた響きだけが、辛うじて聞き取れないこともない。永遠とも思われる沈黙に耐えられなくなったのか、蝋燭がジジジ…と苦し紛れのような音を立てた。

蝋燭はこれから我が身に起こる不運を予感して悲嘆の声を上げたのかもしれない。人間達から注がれる視線は、どこか欲を感じさせ、一言の会話もないことが不気味さを増していた。

灯りに一番近い場所を占める人物の、ライトブラウンの瞳に揺らめく炎が映し出される。

「せーの…」

誰かが小さく呟いた。

その声に促されるかのように、小さな哀しみの悲鳴を残して蝋燭の炎は吹き消された。

「誕生日おめでとおーーーっ!!」

歓声とともに部屋の電気がつき、色とりどりの紙吹雪が舞う。年少組は踊り回り、年長組は暖かな拍手で、本日誕生日を迎えた青年を祝った。

「あ…ありがとう」

「はっぴーばーすでぃつーゆー♪」

お決まりの歌で合唱し、歌い終わるとまたもや紙吹雪が乱れ散る。赤や黄色や金銀の紙吹雪の浸食は、料理の並ぶテーブルのみを除いて部屋のすべての場所に及んだ。

いつもだと掃除が大変になるからと、主夫に怒られるのだが、こんな日は無礼講だ。お祭り好きなシグナルとちびは、ここぞとばかりに騒ぎまくる。

本当は、オラクルの誕生日を祝うのが本来の目的なのだが、何かにつけて大騒ぎしたい年頃だ。

テーブルの上にはケーキといつにも増して豪華な料理。そして何よりこんな日はいくら騒いでも怒られない、若者達にとっては願ったり叶ったりであろう。

一頻り騒いだ後、思い出したかのように年少組は隣室へ駆け込んだ。すぐに戻ってきたシグナルの手には、大きな包みが抱えられている。

オラクルの前まで来て、シグナルはちびに包みを手渡し、大役を譲った。

「はい、オラクルくん。ぷれぜんとですう」

皆の共同出資で購入したプレゼントを、小さな体で精一杯持ち上げてちびがオラクルに差し出す。ちびもなけなしの小遣いから少しだけ提供しているのだ。

「ありがとう。…本当に、ありがとう」

プレゼントを受け取ったオラクルから、僅かに照れたような柔らかい笑顔が返ってくる。一人暮らし生活が長かったオラクルはこういう場面に慣れていないのか、少し戸惑っているのが見て取れた。そんなオラクルを見つめる皆の目は、家族に向ける視線と同じに温かい。

「よっしゃ、ケーキ切るぞ。シグナル、蝋燭抜いてくれ」

パーティーを仕切る家政夫の言葉に、シグナルとちびが目を輝かせる。

「待ってましたぁ!」

早速蝋燭を抜き取り、いそいそとケーキにナイフを入れたシグナルに、長姉から鋭い声が飛んだ。

「バカもの!自分の分だけでかくするな」

後頭部に張り手を食らったシグナルの傍らで、我関せずとばかりにパルスが黙々と食物を自分の取り皿に移し変えていく。ケーキだけは出来合いのものだが、他の料理はすべてオラトリオが腕を振るったものだ。主夫の腕がハイパーなため、普段から普通の家庭よりも大分恵まれた食生活をしているが、今日のは格別だ。

「こんなんだったら、毎日誰かの誕生日だと良いのになあ」

そんな無茶なことを呟きながらシグナルがオラクルにケーキを渡す。

「あはは、シグナルらしいね」

「阿呆。こういうのは、特別だからありがたみがあるんだぜ」

用意する方の身にもなってみろ、と言わないあたりは、主賓への心遣いに違いない。

「そうだよ。シグナルの時が、今から楽しみじゃないか」

賑やかなパーティーは、夜遅くまで続けられた。




祭りの後には片づけという難行がつきものだ。

洗い物、ちび達が撒き散らした紙吹雪の掃除、各所に転がる酒瓶の始末。オラトリオは静かになった家の中で一人黙々と地道な作業に励んでいた。

主賓であるオラクルやデストロイヤーのラヴェンダーに手伝わせるわけにはいかず、年少組はパーティーの終盤頃にはもう睡魔に襲われていて、パルスはアルコールの摂取により使い物にならない。顔に落書きしたろか、とまで思ってしまう程に極楽状態の弟達をそれぞれのベッドに連れて行くのは中々の重労働だ。

こういう時、結局後片付けは全部自分に降りかかってくる。家政夫を自任した時から覚悟しているとはいえ、少々理不尽なものを感じないでもない。一度、後の始末を全く心配しなくて良い宴会というのを経験したいものである。

空になったウイスキーのボトルを専用のゴミ箱に押し込み、軽く溜息をつく。

まさか3本まるごと空けるとは思っていなかった。ラヴェンダーの酒豪ぶりは計算にいれていたものの、これは予想以上だ。

頭の中に入っている家計簿で細かな計算を行いながら、もっと安い酒を揃えるべきだったと、今更ながら後悔する。

一通りの片づけを済ませる頃には、時計はもう11時を回りそうだった。

オラクルももう夢の世界だろうか。

「そういや、プレゼント、何が良いか聞かせてくれなかったな…」

一家共同出費のプレゼントとは別に、オラトリオは毎年オラクルに個人的にプレゼントを渡している。

いつもはそれとなく聞き出して用意していたものだったが、今年に限ってオラクルは何度尋ねても教えてくれない。

「うーん…?」

このままでは日付が変わってしまう。オラクルの態度からすると、欲しいものが何もないというわけではなさそうなのだが、どういうことだろう。

乱れ始めた髪を手で撫で付けながら、オラクルとの共同部屋に戻る。

寝ているのかもしれないと、静かに扉を開けると、明かりはついておらず部屋は妙に静まり返っていて人の気配さえも伺えなかった。

手探りでスイッチを見つけ照明をつける。弱々しいデスクのライトの中、誰もいないことを確認してオラトリオは改めて室内ライトをつけた。浩々と照らされた室内にはやはり誰もいなかった。

「…オラクル?」

名前を呼んでみるが、むろん応えはない。

トイレかとも思ったが、よく見ると上着がなくなっている。

「外に出たのか…?」

一体何のために、と不信に思いつつオラクルの行きそうな場所を考えてみる。こんな時刻だ。大概の店は閉まっているし、せいぜいコンビニやゲーセンくらいしか開いていない。

どこに行ったか確証もないままに下手に動き回るより、連絡を待った方が賢明だろうか。

そんな時に机の上に投げ出してあった携帯電話が着信を告げた。こんな状況でタイミングよくかかってくるからには、相手は多分一人しかいない。声に感情がこもらないよう努めながら携帯電話を手にする。

「…オラクルか?」

『うん』

案の定聞き覚えのある声がそれに応えた。心配させるなと訴えたい気持ちを押さえて、オラクルの突然の行動を問いただす。

「どうしたんだ?」

『…ん、すまない。オラトリオ。心配しただろう?』

微妙に上ずる声は、オラトリオの怒りを恐れてのことだろう。いきなりこんな行動を取ればオラトリオでなくとも不快になるのは当然だ。オラクルとてそんなことは十分承知の上に違いない。しかし、それと分かっていて起こした行動なら、何か理由があるはずだ。

オラトリオは怒鳴るような短慮な真似はせず、あくまでも冷静に睦言を囁くような声でオラクルに語りかけた。

「どこにいるんだ…?」

『北側の、公園』

「で?」

『来てくれる?』

語尾に不安げな影がよぎるのが聞き取れる。理由が何であれ、そんな声で誘われて断れるわけがない。

「すぐ行く。待ってろ」

携帯電話を切ると、オラトリオはすでに寝静まっている家族を起こさないよう細心の注意を払って外へ出た。オラクルが指定した公園まで徒歩で僅か10分。信号を無視して行けば半分の時間で到着できるだろう。

途中すれ違ったのは、車が数台。そのほとんどはタクシーと運転代行の車だ。

すぐ後ろの方で車が停止し、ドアの開閉の音がした。酔っ払いがタクシーから降りたのだろうと予想して、オラトリオはタクシーの運転手にささやかな同情をする。

「何か暗いと思ったら、新月か…」

走りながらふと空を振り仰ぎ、誰に語りかけるでもなく呟く。視界がやけに暗く感じられたのは、月の光が地表に届かないためだろう。密やかな星の煌きが天空を宝石のように飾っているが、あまりに遠いその光は夜道を照らし出す程の威力はない。

公園は小高い丘の上にあり、恐らくそこからも星の悠久の輝きはいっそう神秘的に見えているはずだ。

オラトリオは公園に到る坂と階段を息も乱さず一気に登り、市民の憩いの場として開放されている広場へと出た。周囲をぐるりと見回し、人影を探す。この辺りは治安がすこぶる良いのだが、真夜中に一人きりで公園に立ち尽くしているというのはやはり無用心だ。一体何時からこの公園にいたのだろうか。

「…オラクル」

欄干に凭れてオラクルは空を見上げていた。街を見下ろすのではなく、高い場所から尚も上空を見上げるあたりがオラクルらしい。

虚空を見つめる瞳と、凛とした横顔は、この世の理を全て見通す賢者のようだ。

オラクルは幼い頃から利発な子供だったが、時折どこか遠くを見つめる癖があり、そんな表情を目にする都度、オラトリオは訳の分からぬ不安が湧きあがってくるのを感じたものだった。

喪失感とも似た、あの漠然とした恐怖は一体何だったのだろう。

年を重ねるごとにそんな光景を見ることも少なくなったが、今、オラトリオにはオラクルが遠くに感じられてやまなかった。

現実離れした雰囲気に、かける言葉を失っていると、人の気配に気付いたのか、オラクルの方がこちらを向いた。

「オラトリオ」

名を呼びかけると共に、透明な瞳に暖かい感情が満ちてくるのが見て取れる。立ち尽くすオラトリオに僅かに訝しげな表情を浮かべてオラクルが駆け寄ってきた。

「どうしたんだ?呆けてしまって」

「ばぁか、見惚れてたんだよ、お前に」

一瞬胸を占めていた感情をオラクルに気付かれぬよう押し込め、意図的に軽口を叩くと、薄茶の瞳が嬉しげに細められた。こんな表情を引き出せるのが自分だけなのだという甘美な優越感が、ますますオラクルへの思いを深くさせていく。

数分前まで突然の失踪を咎めようと考えていたのだが、こんな顔をされてはオラトリオが怒れるはずもない。無言でオラクルの体を抱き締める。応えるようにオラクルの腕がオラトリオの背に回され、互いの腕に力が篭った。密着した体から伝わってくるぬくもりが愛しく感じられる。

「オラトリオ…」

「…ん?」

「プレゼント、くれる?」

「何がいいんだ?『俺』にリボンでもかけて、くれてやろうか?」

「それでも良いけど…。その…笑うなよ?」

言い淀むオラクルに促すように軽く口付ける。何をねだるつもりだろうか。

「言ってみ?」

「…歌が聞きたい」

「歌?」

一瞬耳を疑ったが、オラクルの目も声も真剣そのものだ。

歌なんて、一家でカラオケに行った時などにいくらでも聞いているはずだが。

頭の中の疑問符がそのまま表情に出てしまっていたらしい。オラクルがオラトリオの悩みに答えるように説明し始めた。

「カラオケとかのじゃなくて、私のためだけに、最高の歌を最高の声で特別に歌ってほしいんだ。昔、音楽部に在籍していた時に歌ってたみたいなのを」

「ああ、成る程…って、俺暫くそういう歌なんて歌ってねぇんだけど?」

「だから聞きたいんじゃないか」

カラオケもいいが、オラトリオの美声を余すところなく最大限に発揮できるのは、やはり芸術性の高い曲だろうとオラクルは思っている。かつてオラトリオは高校時代に音楽部に所属していた。尤も、ほとんど幽霊部員と化していたのが実際で、クラスメートの中でもオラトリオが音楽部員だということを知る者は少数だった。

体格に恵まれ、人並み以上の運動神経を持ち合わせているオラトリオが、敢えて音楽部に入部したのは、あからさまに『部活を真面目にやらない』ためだった。弟の面倒を見なければならない彼にとって、部活に割く時間は非常にもったいないということらしい。

だが、それが建前であることをオラクルは知っている。

オラトリオは各種体育系の部に、試合がある度『にわか部員』として仮入部し、部の勝率を上げてやるという、少々卑怯な行いを請け負っていた。その代償として、ちゃっかり良い思いをしていたらしい。

どこか一つの体育系の部に本入部してしまうと、他の部員の手前やスケジュール的な問題もあって、他の部の試合には出られない。

その点、文科系の部は、基本的に自分以外の誰がどこで何をしていようと詮索する者もなく、オラトリオが助っ人稼業をしていても、文句を言う者はないに等しかった。

今、昔の級友達にオラトリオの所属部が何であったかを尋ねてみれば、それぞれ違う答えが返ってくることであろう。

当の音楽部での活動はさっぱりだったオラトリオだが、顧問の先生の顔を立てて、一度だけ本気を出したことがある。

先生に無理矢理頼み込まれて何かのコンクールの舞台に立った時だ。満員の観衆にも全く臆することのない堂々とした姿と、その外見を裏切らない浪々と響き渡る声。高く低く妙なる美声で紡がれた曲は全ての人を一瞬で魅了した。

コンクール関係者を始め、各方面から色々な誘いがあったらしいが、あの時以来オラトリオはろくに歌おうとはしない。理由を問いただす先生に対しても、得意の軽口ではぐらかすばかりで、先生は深い理由でもあるのかと真剣に頭を悩ませていた。

オラクルだけは真実を知っている。

オラトリオはただ単に面倒くさがっていただけだ。「歌うのが嫌なわけじゃないんだろ?」

そういう経緯があるため、こんなにも傍で生活してきたオラクルでさえ、オラトリオの天上の歌声はあまり耳にしたことがない。

「んー…まぁな」

窺うように上目遣いで問い掛けると、曖昧な返事が返ってくる。この分ならもう一押しで落ちそうだ。オラトリオの両手に自信の手を重ね、指を絡め合せる。触れ合いそうな程に唇を近づけて、オラクルはねだった。

「聞きたい。ものすごく聞きたい」

「本当にそんなんで良いのかよ」

どうも釈然としないといった表情でオラトリオが確認してくる。

「すごい我侭を言っていると自分では思うんだが?」

音大の教授までもが歯噛みして惜しがったあの声を独占できるのだ。これを贅沢と言わずして何と言おう。

「んじゃ、久々に本気出してみっかぁ」

返ってきた言葉に、オラクルは心底嬉しそうな笑顔を見せた。この広場は公園につきもののオブジェの類もなく、だだっ広いだけの味気ない場所だ。ただ一つ、広場の中央にある噴水だけが、妙に立派で人々の目を釘付けにする。

噴水はすり鉢上に大きく窪んだ底辺にあり、その噴水を円く囲む形となる階段には、通常ならいつもカップルや親子連れの姿が見えているものだ。

「わざとこの場所選んだのか?」

何度か発声して喉の調子を整え、オラトリオは僅かに視線を上げオラクルに問い掛けた。声が周りの階段にぶつかって反響する。階段の中ほどに腰掛けたオラクルが満足げに笑った。

“プレゼントは歌”というのを思いついてから、オラクルは密かに最適の場所を探していた。どこかのスタジオでも借りられれば一番良いのだろうが、生憎そういうことに関する知識もなければ知人もいない。どうしたものかと悩んでいた所に、この場所を見つけた。

ここなら時間帯さえ選べば、他の誰かに聞かれる心配もない。しかも噴水のある底面から、広場との高低差は意外と大きく、噴水を囲む階段が不思議な音響効果をもたらす。

先週の日曜日、下手な歌とギターでストリートライブの真似事をしていた若者達に感謝だ。彼らのおかげで、オラトリオの声を素晴らしい環境で聞くことができる。

噴水の前に立って、こちらをやや見上げる形になるオラトリオに、期待と陶然の眼差しを送りながら、オラクルはその唇から妙なる調べが紡ぎ出されるのを待った。

互いの視線が、一瞬ぶつかり合い、オラトリオが口を開く。

やがて響き始めた歌声に、空気までもが震撼した。

聞き終えても暫くオラクルは動けなかった。

高く低く、甘く切ない歌声はオラクルの四肢を激しく、それでいて優しく絡め取る。快感さえ覚える浮遊感の中、溢れ出しそうな熱い思いが全身を駆け巡った。高らかに歌うオラトリオの姿は神々しくさえ感じられ、ここがありふれた公園の一角であることを完全に忘れさせた。

全身に鳥肌が立ち、手も小刻みに震えている。耳の奥では聞き終えたオラトリオの歌声が、残響となって繰り返されていた。

拍手くらいしなければ、とは思うのだが硬直した体が動いてくれない。

「オラクル…?」

名を呼ばれて、体中の血液が沸騰するかのような感覚に苛まれる。

自分はいつも『この声』で名を呼ばれていたのか―――――。

やっとの思いでオラトリオに視線を向けると、急に視界がぼやけた。膝の上に温かい滴が落ちる。

「おいおい…っ」

慌てて駆け寄るオラトリオの姿が涙で滲んでいる。

「感動の涙、と解釈して良いのか?」

言葉で答えることが出来ずに何度も頷く。

俯いた顔に暖かい手が掛かり上向けられた。普段は怜悧な印象を与える顔が間近に迫り、暖かい唇が溢れる涙を拭っていく。

「オ…ラト…」

「黙ってろ」

言いかけた言葉を飲み込むように深く口付けられる。

「ふ…ん…んんっ」

オラクルの口腔を蹂躙するかのように激しい口付けは、やがて官能を呼び覚ますかのような甘いものに変わっていく。舌が絡まり合う濡れた音が響く度に、体の内に潜む淫らな感覚が引きずり出されるようで、無意識のうちにオラクルは自分を抱くオラトリオの腕に爪を立てた。

「…っ、おい」

「だ…めだ…っ」

いくら人がいないとは言え、こんな所で行為に及んでは流石にまずいだろう。心地よい腕の中から離れるのは辛いが、流されそうになる自分を叱咤してオラトリオの抱擁から抜け出そうとする。

オラクルは長身の割に華奢だ。圧倒的に優位な力を誇るオラトリオの腕からはそう簡単には逃れられない。悪戦苦闘している様を面白そうに見下ろし、オラトリオは緩く笑ってその耳元に唇を寄せた。

「オラクル…」

「…っ」

女殺しと自覚している最上の声で、低く呼び掛けてやると、途端に腕の中の肢体が竦み上がった。困惑したように見上げてくるオラクルの瞳には、情欲の艶が見え隠れしている。残った理性が抵抗を試みているのだろうが、それも脆いものでしかない。

しっとりと艶を含んだ唇は、微かに乱れた吐息を送り出してオラトリオの肌をくすぐり、振りほどこうと半端な動きを見せるしなやかな腕までもが誘惑しているように見える。この状況で、我慢しろというのは男にとって酷なことこの上ない。

ここでコトを起こしてしまうのが、人間として非常に常識に欠けた行いであるのはオラトリオとて理解している。本気で最後までしてしまう気はなかったが、どうせ誰もいないことだしほんの少しじゃれつく程度なら構わないだろう。

腰に回した腕に力を込めると、非難の声が飛んでくる。

「オラトリオ…っ」

「もう少しだけ、このまま…な」

せっかく良い雰囲気になったのだ。姉弟のせいで、中々こういう機会には恵まれないのだから、すぐに手放してしまうのは惜しい。

「暖かいな、お前…」

「だめ…だ…ってば」

抗議は言葉だけだ。僅かに朱に染まった顔が、それを裏切っている。

二人を包むのは薄い闇のベールのみで、瞬く星だけが優しく見守っていた―――と思うのは甘かった。

災いは思わぬ所で顔を出す。

「ふう、やれやれ。困ったものですね」

「どわっ!!」


第三者の突然の声に、慌てて飛び起きる。

「ク…、クオータ!?」

階上から笑顔でこちらを見下ろしているのは、見誤るはずもない担当編集者だった。

「こんな所で盛っているとは、呆れてものも言えませんね、オラトリオ」

「何でお前がこんなとこに居るんだよっ!」

「私は仕事帰りですよ。雑誌の編集者に、定時退社という文字は存在しないのです」

クオータが言っていることは嘘ではない。しかし、真実を全て語っているわけでもない。車の中からオラトリオの姿を発見したのだと、クオータが正直に言うはずもなかった。

結構すぐ後ろで車を停めたのだが、気がつかないとはオラトリオの不覚であろう。

公園へ急ぐオラトリオの後方数十メートルの所で、クオータがほくそ笑んでいたことは、お星様だけが知っている。

「そいつぁ、ご苦労なこって」

「下の道路を通りかかったら、偶然歌声が聞こえましてね。貴方、こんな夜更けに迷惑じゃありませんか。近所から苦情がきたら、オラクルにまで迷惑がかかるでしょう」

嫌味ったらしく眼鏡を掛け直しながらクオータが言う。

つまりオラトリオのことはこれっぽっちも心配してないということだ。

万民の感涙を呼びそうなオラトリオの美声も、クオータの曲がった根性には何の影響も与えないのかもしれない。

「嘘つけ、下まで聞こえるかよ」

「私の耳は、100キロ先で『落ちた』原稿の音すら聞き分けられるのです」

「何か意味が違うぞ」

しかもオラトリオはこれまで原稿を落としたことはない。

「細かいことをいちいちと…」

どこが細かいというのだろう。

「害虫みたいにわいて出やがって」

思い切り不機嫌なオラトリオの言葉には容赦の欠片もない。

「貴方の方こそ、甘い蜜にたかる虫みたいなものじゃありませんか」

応戦するクオータもまた手加減をする気配もなかった。

二人の毒舌の応酬に、深い溜息をつきながらオラクルは腕時計を眺めた。

オラトリオとクオータが言い争っているうちに、日付は変わってしまっている。

きっとまた1年間、こんな状況が続くのだろう。

呆れたオラクルが立ち去っていたことに、二人が気づくのはもう少し後のことである。

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