たぶんそこは、もうどうしようもない場所(仮)
針の一刺し一刺しは、決して耐えられないほどの痛みではない。だが、それが半日以上も続けば、どうなるかはわからなかった。
痛みによるショック死も視野に入れているが、そうならないことを、ドクは心から願っていた。
ドクは、ゾーリンを気に入っている。それは、興味深い研究対象という範囲を超える好意だった。
少年のような飾らない態度が好きだった。気を使わなくていい、あけすけな物言いが好きだった。
ゾーリンがしなやかな筋肉を伸ばして研究室のソファーに寝そべり、肉食の獣のような強い光を放つ目を細めて、机に向かう自分の背中を見つめているのを感じるのが、ドクは好きだった。虎か豹を飼い慣らして、手元に置いているような優越感がそこにはあった。
だが、この施術が成功しなければ、ゾーリンは彼の手の中から消える。
刺青を施して、なお彼女が一定以上の戦果を期待できる能力を発揮しなければ、ゾーリンに対する研究は打ち切られることになっていた。5年の時間を費やして何の成果も上げられなかった研究を、更に続けることが許されるほど、ドクは平凡な研究者ではない。彼のもうひとつの研究を、上部はとても重視しているし、期待もしている。天才的な頭脳を、その研究一つに傾けて欲しいと言う上部をなんとか説き伏せて、平行して研究を進めるのがやっと、許されていただけだった。
だが、それももう限界だった。これ以上、命令に逆らうことは出来なかった。
逆らうことは出来なかったが、ひとつだけ、条件をつけることは出来た。それがこの、刺青だった。
施術に耐えられなければ、ゾーリンは死ぬ。
施術に耐えられても、それが効果を出さなければ?
やはり、彼女は死ぬだろう。この5年で色々と知りすぎてしまった彼女を、ただ解放するというわけにはいかない。殺されるだろう。それこそモルモットのように、簡単に。
死なせたくはなかった。
手放したくはなかった。このしなやかな獣を、ずっと手元に置きたかった。
浅い呼吸。その合間の小さな喘ぎ。身体は時折、ひくりひくりと痙攣し、眉はきつく寄せられ、唇は噛み締められている。
女が痛みを堪える顔は、快楽を押し殺している表情に良く似ている。それを見ているうちに、ドクは自分のしていることが何だかわからなくなった気がして、一瞬目を瞑った。
ゾーリンの上に覆いかぶさるようにして、針を持った手が少しずつ、肌の上をなぞり進んで行く。それは確かに、残酷な愛撫に見えたかもしれない。
その錯覚を振り払おうと、ドクは口を開く。
「研究者とは、これはもう、本当にいかれた人種でね」
「5年もあんたを見てれば、そんなことは馬鹿でもわかるさ」
喘ぎの合間に、ゾーリンは掠れた声で答えた。
針はちょうど、乳房をなぞり始めていた。胸は特別痛いとされる場所のひとつだ。男でもひどく痛むというのに、女の柔肌ならどれほど痛むだろう。
「そうか、それは良かった」
柔らかなふくらみの裾野から、螺旋を描いて刺青が登っていく。その先端の、敏感な突起に針をさしたら、どんな痛みが彼女を襲うだろう。
「自分の死さえ、研究の対象だ。ラヴォアジエという学者は、自身がギロチンに掛けられた時、「刃が落ちた後、可能な限りまばたきをするからその数と時間を計ってくれ」と言い残し、実際に20回以上まばたきをしたという――この話の信憑性は低いとされているがね」
ましてや、他人の死や苦痛など。
「この針が、君にどれほどの苦痛を与えているのか。それがわからない訳ではない。だが、その一方で、私は――」
「愉しんでいる?」
「――ああ、そうだ。愉しんでいるんだよ、私は」
その言葉に、ゾーリンの押し殺した悲鳴が被さった。乳首に針が刺さった瞬間だった。さしものゾーリンも、声を殺しきれなかった。
その悲鳴すら、ドクの中では愉悦に変わる。
初めて聞いた悲鳴だった。
同じユーゲントの少年たちに犯されていた時も、実験の為に毒を飲んだ時も、苦痛を与えた時も、ゾーリンは悲鳴など上げなかった。それが初めて、自分の手によって悲鳴を上げた。
その暗い歓びに、ドクの心は震える。
「そう、その痛みが、君を化物に変える。君を化物に変えることを、私は愉しんでいる」
絶え間ない痛みで、君を責め抜いて。
決して消えない自分の印を、針先で君の肌に刻み込んで。
「化物。そう、化物だよ」
他の誰にも聞かせたことのない悲鳴を上げさせて。
「戦場の魔女。幻覚の使い手。素晴らしい化物だ」
そして、引き返そうにもどうしようもならない場所に、君を連れて行く。
「たぶん、それだけでは私は満足しないがね。次の研究を進めて、次の施術を行って、更にその次の研究と次の施術を行って」
君の手を引いて、永遠の闇の中に連れて行く。
「……それで、終わりかい?」
ゾーリンの、痛みに掠れた小さな問いが、ドクの歓喜を押しのけた。
「これ以上ないってぐらいに弄り倒したら、それで私はおしまいかい? いや、それであんたは本当に満足するのかい?」
ドクは再び目を瞑った。
「いいや、満足はしないだろうね」
研究者と言うのは、これはもう、本当にいかれた人種だからね。ドクは再び繰り返す。
「私の出来うる限りの全てを君に注ぎ込んでしまったら、きっと私は、その次の化物を作ろうとするだろう。君を超える、次の化物を。それを更に超える、次の次の化物を」
完璧の先の究極。究極の先の極限。更にその向こう側へ。それこそが、研究者の望むものだ。
「満足してしまったら、そこで研究者は終わりだ。だから私は、永遠に繰り返すだろうよ。君に対しても、君に続く者たちに対しても」
「永遠に、あんたの狂気に付き合え、と」
ゾーリンは低く笑う。痛みを堪えて、唇の端を吊り上げて。
「ああ、付き合うさ。付き合ってやるよ――でも、誰もあたしを超えさせやしない。あんたがどんな化物を作ろうと、あたしはそれ以上の化物になって見せる。私が、あんたの最高の化物になってやる」
そう言うと、ゾーリンの瞳が光った、そんな気がした。
「言っただろう、モルモットにはモルモットの誇りがある、と。だからそこへ連れて行ってくれ、ドク」
そして彼女は、その言葉を裏切らず、長い施術に耐え抜いた。
ゾーリンは、寝台の上で気絶に近い眠りに落ちている。
もう少し寝かせておいてやりたいが、そろそろシャワーを浴びさせなければな、とドクは時計を見ながら考える。皮膚を清潔にして、化膿を防ぐのも、刺青を完成させる大切なプロセスだ。
だが、あと10分。10分だけ寝かせておこう。ゾーリンの寝顔を見ながら、ドクはそう考える。
「全ての研究対象に対して、研究者は公正でなければならない」
手袋を外し、短い髪をそっと撫ぜてみる。余程深く眠っているのだろう。ゾーリンが目を覚ます気配はない。
「1匹のモルモットだけにに執着して、結果、観察の目が濁るようなことがあってはならないからだ。だから、研究者はモルモットを愛玩しない。たとえそれが、特別な1匹であったとしても」
では、これは何なのだ、とドクは1人苦笑する。髪を撫ぜて、寝顔を見守って、それは愛玩そのものではないか。
「ああ、確かに君は、私の特別だよ」
自嘲への答えを、ドクは敢えて口にする。
「貴重な研究対象、大切な作品。君の存在は、それを確かに越えつつある」
針の一刺しごとに湧き上がった、あの暗い歓び。あれは、研究に対する歓びだけではなかった。だから、ドクは彼女に対する想いをひそやかに認めた。
しかし、それでも。
「それでも私は、君の言う『モルモットの誇り』を尊重しよう。それが、君の誇りであると言うなら。そして、私も研究者の誇りに殉じよう。だが――」
ゾーリンは起きる気配を見せない。静かに、ただ静かに眠っている。その寝顔にドクは請うた。
「今だけは、許してくれないか」
あと5分。5分したら、彼女を起こそう。そう思いながら、ドクは静かに、ゾーリンの髪を撫ぜ続けた。
そして、更に5年が過ぎた。
刺青の施術の後、ゾーリンの幻覚能力は、順調に効果を上げていた。だが、敗色が濃くなりつつある国家の救済に、それが使われることはほとんどなかった。申し訳程度の参戦が、数回あっただけだ。
すでにドクの本当の主は、髭の伍長を見限って南米に去る準備を進めていた、というのが理由のひとつである。これ以上、この国に恩を売る必要はない。
それに、ゾーリンを戦場に出すには、色々と問題が多すぎた。
幻覚を使えるのは、ゾーリンだけなのである。その能力を引き出す方法はほとんど確立されたとは言え、彼女のスペアはない。彼女を失ってしまえば、ドクの貴重な時間を割いた5年が無駄になる。
スペアがないなら、オリジナルを安心して、長期間利用できるようにするべきだ。
ゾーリンに「ヴェアヴォルフ」への転化が望まれたのは、当然の成り行きであった。
部屋は薄暗かった。
「今、ここでカーテンを開けよう、と私が言ったら?」
「御免蒙る」
夕刻、もうすぐ太陽が沈みきる、その弱弱しい光をカーテンで遮って、それすら眩しそうにゾーリンは目を細めていた。
ふむ、と小さく頷いて、ドクは彼の頭の中の問診表に印を書き込む。
「良い傾向だ。他に、どんな気分がする?」
「腹が減ったよ。でも、パンもスープも欲しくない。あたしの食べたいものはそれじゃあない、と感じる」
そう言って、ゾーリンは自分の胃袋辺りを擦った。
「もうすいぶん長い間、何も食べていない。お陰で痩せたよ。でも、体調が悪くなったり、体力が落ちたりはしていない」
「そうか、それは良かった」
ドクは、彼にしか見えない問診表の、最後の空欄に印をつけた。
これで全ての印が付いた。順調だ。これ以上なく順調な経過だ。
「おめでとう。君は間違いなく、転化の最終段階に入っている。さあ、仕上げをしよう」
ドクは白衣のポケットから取り出した小瓶から、用意されていたグラスにとろりと赤い液体を注ぐ。先ほど採取したばかりの、新鮮な血液だ。
すでに転化済みの者の血液に含まれる、ある物質を体内に取り入れることで、転化は完成する。
輸血でもいい、飲み干しても良い。だが、やはり飲むべきだ、とドクは考えている。それはまるで、基督の聖杯のパロディのようで愉快だし、なによりこれから続く闇の生の、最初の晩餐なのだから。
「これが、君が望んでいた唯一の食物だ。これが、これから君が口にする、ただひとつの食物だ」
血の臭いが、ゾーリンの飢えを誘うのが、ドクにはわかった。グラスを凝視するゾーリンの目が、獣性の光を放ち、ぺろりと舌なめずりする。
「それは、誰の血だい?」
「私のだ。不服かね? 薬品に汚染されていたりはしないから安心したまえ」
「不服だ」
ゾーリンは血を満たしたグラスから目を離し――血の飢えを凌駕するその精神力に、ドクは正直舌を巻いた。これまでの被験者は、ほとんどなりふり構わずグラスに飛びつき、あさましくも床にこぼれた血を啜った者までいたのだ――立ち上がってドクの前に立った。
ゾーリンの背は高い。ドクと並んで、視線の高さがほとんど変わりない。そうして視線を絡み合わせて、ゾーリンは言い放つ。
「グラスからじゃ味気ない。あんたから直接吸わせろ。それぐらいの祝福はあってもいいんじゃないか?」
それに頷いて、ドクは白衣の袖を捲り、青白い腕をゾーリンに差し出した。
「確かに、祝福が必要だ。君が歩く闇の暗さに相応しい祝福が――さあ、好きにしたまえ」
ゾーリンは、捧げ持つようにその腕を取る。鍛え上げられたゾーリンの腕は、ドクよりも太い。食という欲求を失ったことで、余計な肉が削げ落ちたその腕は筋肉が際立って濃い影を落とし、深く掘り込まれた彫刻のようだ。
片腕は白く、片腕にはドクの手による刺青がびっしりと描かれている。その対比の鮮烈さに、ドクは瞬間、気を取られる。
その時だった。ぐい、と腕が強く引かれ、お世辞にも体格が良いとはいえないドクの体は、簡単に姿勢を崩してしまう。それを立て直す間も無く、肩を掴まれ、無防備な唇が柔らかいもので塞がれる感触があった。
「――ッ!!」
まだ微かに人の体温を残す、その唇の柔らかさがドクを混乱させる。ゾーリンの舌が、唇を押し割って歯列の上をなぞっている。求められるままに口を薄く開くと、舌を吸われた。口腔をたっぷりと愛撫され、舌を絡められて誘われ、我知らず舌を突き出した。
その時、舌先に痛みが走った。
口の中に、鉄錆の味が広がる。ゾーリンの生え始めたばかりの牙が、ドクの舌を噛んだのだ。
溢れる血と、交じり合う唾液を、ゾーリンの喉が動いて嚥下していく。それを触れ合う肌で感じながら、ドクはぼんやりと、これで彼女は本当に、どうしようもなく戻れない場所に来てしまったのだと考えていた。
「こんな冗談も悪くないだろう?」
唇を、血と唾液で濡れ光らせたゾーリンが笑う。
「これから長い長い付き合いになるんだ。一度ぐらい、いいだろう?」
「冗談で、これか」
「いいじゃないか。それに、昔から祝福は口付けって決まってる」
ゾーリンはドクから体を離すと、ソファーにぐったりと座り込んだ。今飲んだばかりのドクの血が、もう彼女の体を作り変えはじめたのだ。その負荷で、立っていることもできないのだろう。
「愛玩動物ではなくても、祝福ぐらいしてくれてもいいだろう?」
ああ、そういうことか。
その言葉で、やっとドクは気が付いた。
たまたま利益が合致した、モルモットと研究者。その契約を、越えることなどないと思っていた。事実、最初はそのつもりだった。出来の良い刃物を手元に置いて、それを愛でては研ぎ、研いでは愛でるような、そんなつもりでいた。
だが、その想いは、時と共にドクの中で変化した。それは、ドクだけではなかったのだ。
それでも、2人は契約を優先した。それが互いの望みだと思っていたから。
最高の化物を作ること。それがドクの望みであるなら、それを叶えるのがゾーリンの望みになった。最強の化物になること。それがゾーリンの望みなら、それを叶えるのがドクの望みだった。
そのためには、ただひたすらに研究者とモルモットの関係を優先するべきだ、と二人共に思っていたのだ。
その誤解を今更訂正して、やり直しができるほど、器用な2人ではなかった。やり直すには、どうしようもない場所にまで、2人は来てしまったのだ。
お互いに気付かないふりを続けよう。それが望みなら。
互いの望みを叶えることでしか、形にすることが出来ない想いなら。
このまま、どうしようもないままの二人でいよう。
「少し、眠りたまえ。目が覚めたら、君は私の同属だ――永遠に、同じ闇を歩こう」
ゾーリンの頬に触れ、銀の髪に指を差し込みながら、ドクは精一杯の告白をする。
「永遠に?」
「ああ、永遠に」
「悪くないね」
ドクの手に自分の手を重ねて、ゾーリンも精一杯の答えを返す。
「ベッドに行けるかね?」
「いや、このまま寝る」
「わかった」
ドクはベッドから毛布を引き剥がすと、ゾーリンにかけてやる。ヴェアヴォルフへの転化が済んでしまえば、風邪などひきようもないのだが、それぐらいはしてやりたかった。
「おやすみ、ゾーリン」
「おやすみ、ドク」
おとなしく、されるがままに毛布を掛けられて、ゾーリンは目を閉じた。そして、ドクは部屋を出る。
「たった一度ぐらい、いいじゃないか」
ドアを閉じる寸前、繰り返し自分に言い聞かせるような、そんな声が聞こえた気がした。
舌の傷は、早くも塞がりつつあったが、口の中にはまだ血の味が残っている。それと共に、まだゾーリンの舌と吐息と唾液の気配が感じられるような気がして、ドクは無意識に口元を押さえた。
口を開けば、瞬時に消えてしまいそうなその気配が、名残惜しかった。
惜しかったが、彼は研究者だ。この扉に背を向けたら、彼は1人の研究者に戻らねばならない。ゾーリンはただのモルモットに戻らねばならない。
ドクは、口元を押さえた手をそろそろと降ろし、意を決したように口を開く。
口内に入り込む冷えた空気が、彼女の残滓をあっさり拭い去る。
「不器用なものだ。研究者も、モルモットも」
低い呟きはドアにぶつかって跳ね返り、歩き出した彼の白衣の背に当たって消えた。
現在、前半の書き直しも含め、
サイト収録のための作業を行っています。
ていうか最後の大隊、
恋愛下手純情集団ですか?
では、またしばらくROMに戻ります。
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