「もうそろそろの筈なんだよな」

 敬語ではないあたり、独り言のつもりなのだろう。前を歩くムスタディオが、細く丸めた手元の地図を手持ち無沙汰に揺らしながら言った。その足もとに無数に転がる木の枝が、一歩進むごとに湿った音と共に折れる。振り向こうともしないその背中から目を逸らし、アグリアスは溜息とともに鼻白んだ。
 先日、イヴァリースは雨期に入った。例年まれに見る寒気。暦の上ではもう既に夏のはずの空気に、彼らの息は白く霞んで霧になる。アグリアスは出かけた舌打ちを引っ込め、鬱屈とした色で染め上げられた空を見上げた。湿った空気が鼻腔を掠め、ぬるい水滴が頬に当たる。

「…降ってきた」

 ムスタディオがうんざりしたように声をあげた。そんなことは、言わなくてもわかる―――衝いて出そうになる言葉の代わりに、アグリアスは重い溜息を吐く。
 どうします、とやっとこちらを向いたムスタディオの表情は、予想していたよりももっと疲れて映る。泥に汚れたのか疲労からなのか、その下瞼には薄い影がある。それでも完全に気力を失っているようには見えない、陽気そうな風貌。

「どうしますかってば、アグリアスさん」
「雨宿りできるような場所を探すしかあるまい」

 その声は、自分が思うよりも低く吐いて出た。

「…怒ってます?」
「気のせいだ」
「そうですか。ぜってえ嘘だ」

 ムスタディオは唇を曲げて少しアグリアスから目線をずらす。

「確かに腹には据えかねてはいる。知った道だから任せておけと豪語しておいて、迷ったあげくに雨雲の下だ。…しかしここでお前を叱ったとして空が晴れるわけでもあるまい」
「叱ってるじゃないですか。口に出してる時点で、完全に」
「そうむくれた面をするんじゃない。子供かお前は」
「ガキはアグリアスさんですよ」
「何を言うか。最初に追及しだしたのはお前だろうが」
「だからってそんな言い方は」

 両者が腹から怒鳴り、覆いかぶせるように真っ正面から相対しそうになったときだ。
 木々を揺らすほどの大きい雷鳴が耳をつんざいた。目を見開いて身をすくませた次の瞬間には、ムスタディオは走り出していた。

「アグリアスさん、急いで!」

 しばし固まっていたアグリアスも、名を呼ばれ慌てて彼に続く。

「おい、当てはあるのか!?」
「ねえよ! けど、隠れる場所を探さないと! 俺らには避ける手段がねえんだから!」
「…それもそうだが」

 しかし、見る間にぬかるみに変わる足元と、頭に打ち付ける雨。アグリアスはムスタディオの纏う白いローブの端を、視線で焼き切るように睨みつけた。

「くそ、無駄足にならんといいがな」

 雨脚は進むほどに強くなっていくようだった。纏わりつく衣類がこのうえなく気持ち悪い。モンスターすら巣に引っ込む豪雨だ。前髪をとめどなく伝い落ちる雨垂れを鬱陶しそうに払いのけアグリアスが大きく息をつくと、不意にムスタディオが立ち止まった。

「早くしろ、なにをやっている?」

 ムスタディオは器用な手つきで胸元で結んだ紐をほどいている。むきになり、もういちど同じ質問をしようとアグリアスが口を開きかけてやっと、手早い一瞬の動作で身に纏っていた白いローブを脱ぎ、ムスタディオはそれをそのまま、困惑顔のアグリアスへと差し出した。

「……何のつもりだ」
「いや…髪が邪魔そうだったからさ」

 一瞬受け取りかけて、一瞬考える。
 自分はいつもの騎士服で身を固めているからいいものの、ムスタディオはいつもとは違う白い魔導士服で。

(普通、逆ではないのか?)

 そう思い当たったとき、アグリアスはそれ以上考えるよりも先に口を開いて彼を叱咤していた。

「いらん世話を焼くな。平気だ」
「頭濡らすと風邪引きますよ」
「何を…、お前はどうなんだ。お前のほうが軽装だろう」
「いいんですよ、俺、男だし」

 そういった理由づけが彼女の神経を逆撫でさせることに、ムスタディオは全く気付いていない。

「こういうことに男も女も関係あるか、返させてもらう」

 アグリアスはムスタディオの胸にそれを乱暴に押し返した。

  (……あ)

   そうして近寄って初めて、見降ろされていることに気が付く―――

(…役に立たぬ意地のぶん、背も伸びたか。ふん)

 アグリアスは自分の唇が不機嫌に折れ曲がったのを自棄気味に自覚しながらも、改めてムスタディオの胸を強く押し返した。恰好がつくと思ってやっているのだろうが、私に対しては全くの逆効果だ。そんな気持ちを込めた。
 雨垂れの糸を引く首筋の鳥肌を指さし、

「見たことか、素直に寒がってみろ。男のやせ我慢は見苦しいぞ」
「お、男も女も関係ねーよ」

 ムスタディオは慌てたように首元を押さえた。それを見るやいなや、アグリアスは布越しの体温を伝える手のひらを引き、一瞬のうちに、手元のローブを一気にムスタディオの頭に覆いかぶせた。

「うわ、え、…何だよ!」
「こんな布きれを渡されるよりも、顔を見せないでいてくれた方がいい」
「何だよそれ、失礼にもほどがあるじゃねえか…、うぉ、痛っ!」
「年上には敬語を使わんか!」

 やけくそになって身体ごとぶつかってムスタディオを黙らせ、アグリアスは、大きく撥ねる泥水をまき散らすようにして走った。

(何なんだ。気に食わん男だ。…いや、男と分類するなこんな奴を、くそ)

 それは怒りに似ていた。苛立ちにも似ていた。
 しかしどれとも違う。胸のあたりに去来する、静かに燻る熱。
 後を追ってくるムスタディオの不平を叫ぶ声は、雨に消されて霧になった。






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