さほど離れてもいない場所から名前を呼ばれた。芯まで落ち着き払った冷静な声。低くて、よく響く、透き通った声で。彼は目線だけでそれに応え、軽やかに笑った。見ずともわかる。
目的が何であれ、名を呼ばれ話をするという行為は彼にとっての人生の娯楽だった。相手が誰であれそれは変わらないかと言えば嘘になるし、時には口を開くのも億劫なことだってあるが、しかし、今彼を呼んだ人物が対象になった場合はそんな怠慢も消え失せ、彼の娯楽は至福に格上され、現金なほどその心中は浮き足立つのだった。
「なんですか、アグリアスさん」
アグリアスと呼ばれた騎士は、二馬身先ほどの木製椅子に腰を降ろし、小さなグラス一杯だけの晩酌を煽っていた。間接照明だけが映し出すある種現実感のない店内に、彼女の静謐な佇まいはいやに調和している。
彼女はよく見てみないとわからないくらいの笑いを浮かべていた。前と比べると頻度は増えた気のする、しかし貴重な笑顔に、ムスタディオの目は丸く見開かれた。
「どうしてそういつも楽しげなんだか」
アグリアスは手に持っていた杯を置き、ムスタディオの目の前、床に広げた機械の部品が無造作に散らばる布を踏むか踏まないかのところまで来て、足を止める。
鉄の塊を見下ろす瞳に、ムスタディオは自然釘付けになる。
「…ええと、楽しげ?」
「そう、それに…器用だな」
そう言ってひょいとしゃがみ、散らばる部品のひとつを手に取りながらアグリアスが言う。
「要するに集中力があるのだな。お前は銃を使うし、当たり前のことなのかも知れないが。
職人というのは概してそういう気質の者が多いのかも知れんな」
普段と比べて饒舌な彼女に親しみを覚えながらも、ムスタディオは彼女の言うことに首をかしげた。
「そんな風に言われたの、初めてだな」
「そうか」
「親父には、よく言われたもんだけど。集中力のないガキだって。今だってたまに言われる」
それを聞いたアグリアスは、肩をすくめた。
「親というのは大概何でも大袈裟に言うからな」
(いやたぶん、そういう意味じゃない、本気で言ってるんだと思うんだけど)
そう反論しそうになるのをムスタディオは自制し、代わりに何故かふいと目をそらす。アグリアスは会話をする時、必ず相手の目を見てしゃべるのだ。位置的には横にいるものの、まっすぐに見つめられているのがとてもよくわかるので、ムスタディオは嬉しいのと緊張とで歪みそうになる自分の顔を気にした。こんなとき、自分のひっつめ髪を恨みたくなる。紅潮した顔が隠せない。
アグリアスはそんなムスタディオの挙動を気にするふうでもなく、手の中の部品のほうに目をやった。ほっとなって、ムスタディオは内心で胸を撫で下ろす。そこでやっとこちらから会話を切り出す余裕が生まれた。
「…アグリアスさんが俺を誉めるなんて」
「おかしいか?」
「ああ、なんかむず痒い。ここらへんが」
そう言いながら、鎖骨のあたりを掻く。
「正直な感想を述べているのだぞ?」
「あんまり言われると調子に乗っちゃいますよ、俺」
「しかし、その証拠にお前、見ていてもさっぱり気がつかないじゃないか」
「は?」
「ずっと見ていたのだ。だがお前、全く気が付いていなかっただろう?」
予期しない言葉に、ムスタディオの心臓がはねた。
「どうなのだ、ムスタディオ」
「…え、あ、」
既に締め切ったネジをなぜか再び緩めながら、ムスタディオは、照れのために不自然に俯きそうになる顔をなんとかアグリアスに向ける。
「き…気がついてませんでした。すみません」
「別に謝ることではない。だが、やはりそうだったな。お前らしいよ」
この人がこんなに屈託なく笑うところを見たのは初めてかもしれないと、ムスタディオは思う。それだけ距離が今までになく近いのだということは、出来るだけ意識の外へ追い遣っていた。
「…えーと、も、もともと裏方に向いてるんだ俺は。ほら、ラムザとかあんたみたいに剣の技とか魔法とか覚える頭がないし」
「人には向き不向きというものがあるからな」
(…あー、いま、俺、どんな顔してんだろ)
アグリアスは微笑したまま話を続けている。話すことは、ムスタディオについてのことばかりだ。居心地がいいようで悪く、逃げたいのにいつまでもここにいたい。そんな二律背反に陥りながら、ムスタディオはただぼうっと彼女の横顔を見つめているしかなかった。
「ムスタディオー? いるかー?」
と、上から聞き慣れた声を投げかけられる。
思考を中断されたムスタディオが慌てて見上げると、宿になっている二階へ続く階段の上方に、明日の作戦を練っていたはずのラムザがいた。
彼はたった一瞬、しまった、という顔をしたが、
「今いい?」
とそれでも申し訳なさそうに言う辺りがラムザらしいといえばらしい。
笑いとともに噴き出す息に、ムスタディオは先を行く彼を見やる。
「…何笑ってんだよ」
「いやさ、邪魔して悪かったなと思って」
幾分小声になって、ラムザは呟いた。彼らしい気遣いに逆に気恥ずかしくなったが、それ以上追究しようとしてこないことには、心の中で感謝した。
(ラムザ、俺さ、自惚れていいのかな)
だがそれは聞けない、誠実な質問だった。
仲間たちのわいわいと騒ぐ部屋の扉のノブに手をかける。
それを完全に閉める前にちらりと見下ろした先には、先ほど同じ姿勢で、部品に見とれたままのアグリアスがいる。
ムスタディオは、抑えきれずに破顔した。
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