すべてに置き去りにされてゆく感じよ、と彼女は、湯気の向こうで言う。わかるかしら、と彼に言う。わかるわけないでしょうねと、その少し垂れた目の端に含ませながら。
 琥珀色した蜂蜜の匂いが揺れている。陶器のスプーンで掬いあげると、それはどろどろと流れていくのだ、下へ下へ。この重力という、世界が世界である秩序。変えがたい理。それはいつでも目の前にある。自分という小さなただの個体がどう病んでみようが、世界という巨大な土台は変わらない。

「嘲笑われてるみたいだな」

 いつからなのか、すぐ息のかかるような隣に彼女の頬があった。もう慣れた、花のようなにおい。

「…だれに?」
「世界に」

 せかい、と白痴のように呟いて、それから彼女は何も言わない。ただ彼のなんとなく羽織る上着ごと彼を抱きすくめて、強く抱きすくめて、何も言わなくなる。音もなく滑る、伸ばした深い青の髪の毛。

「どこかで誰かが俺を」

 実験台にしているような気にさえなってくる、と彼は、彼女の高い体温を奪いながら言う。それを妄想と言う。途方もない事実とも言う。彼女はそれらの言葉を喉の奥にしまいこんで、彼の瞳を上から見詰めた。

「わかるか、ルルー」

 わかるだろう、と、その空色の目は言っている。さっきおまえの言っていたことと、今俺の言ったこととはたぶん同じようなものなのだと。

「あのねえシェゾ」

 わたくしはねえ、と彼女は囁きながら、彼の白い頬を撫でるともなく触れる。

「あんたの気持がわかるほど、落ちぶれちゃいないはずなの」
「他人を理解するのに落ちぶれたもくそも関係ない」
「はず、って言ってるじゃない」
「女がそう言う時は、大抵がそれに違いないのさ」

 彼は終始、無表情だった。そんな彼を彼女は笑う。

「どうして男の人って、ことごとく形式に当てはめたがるのかしら」
「女は見ないふりが上手いからな」
「お互い様ってわけ?」

 ふ、と色のない息を吐いて彼は彼女を押し退けるように立ち上がる。頬に触れていた手はゆらりと一瞬惑って、空に落ちた。

「もう行くの」
「そういう声を出すな。べつに置き去りにしていくわけじゃない」
「あんたらしいわ。弁解なんか。置き去り以外の何だって言うのよ」

 暫く見つめあったあとで、せめてもの置き土産だとでもいうように、彼は彼女を抱きよせた。それを受け止めて、彼女は暫く目を閉じる。与えられるものに溺れてしまわない程度に。
 嘲笑われている気がするのは、あんたがその張本人だからなんじゃないの、と。言いたくても、黒い渦の中の姿をもう彼女は追えない。帰ることがあれば、次からはもう帰らないつもりで来てと言うつもりでいたのにと、彼女は彼が消えた虚空をぼんやりと眺める。









 その夜彼女は、夢を見た。
 頭の奥の、手を伸ばしても届かない場所で、ちかちかと明滅する影を見た。
 名前を呼べば彼らはきちんと振り向いてくれた。

 張り付いたような笑顔。
 パパ、ママ、おばあちゃま、わたし。
 何も知らなかったころ。

 わたしを置いてゆかないでと彼女が請う前に、それらは黒い渦と消える。
 そうして弾けたあとに、ゆらりと揺れる銀髪がある。
 彼は言う。ずっとここにいると。匂い立つ紅茶の湯気。
 それは、あまりにも優しい光景だった。
 いまの彼女には、あまりにも。





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