開け放した窓から申し訳程度に流れる風は、ただ澱んだ空気を攪拌するだけで、部屋の気温を下げる、ということはいっこうにない。うなじのあたりからじとりと這うように流れる汗を顔を顰めて拭いながら、それでも気合一発、弛緩した身体に逆らう、ということもせず、気だるさに身をまかせる。腰のあたりに鈍い痛みがあって、身体の奥を少しづつ燻されているような熱の籠りは、どんよりとしたリナの思考を、さらに重いものにさせていた。
(あたしらしくもないわね、)
背中に滞る熱を逃がすために、ごろん、と寝返りをうつ。いつでも潔く前向き、それが取り柄な彼女でも、毎回この時期だけは、どうやっても思考が陰に沈んでしまう。路銀を稼ぐために外に出るという仲間たちに着いて行かなかったのも、そのためだ。
ゼルは始めこそ意外そうな顔をしていたが、やがて頷いて了承し、同性であるアメリアは血の気のないリナの表情からさすがに察して、御大事に、と一言告げていった。釈然としないような面持でいる相棒には、独りで大丈夫だから、と無理やりにその背を押して送り出した。この月に一度の憂鬱のバイオリズムの、あるかないかの痛みのメカニズムを説明するのも、面倒だったのだ。それに、いまの自分が着いていったって、役に立ちはしないのだろうから。
(退屈だわ……)
その心のなかの呟きに呼応したように、窓際の、風のない夜のゆらぎもしなかったカーテンが唐突にふわり、と揺れた。氷でも放り込んだような、それは、ひどく冷たい風の一薙ぎだった。その冷風にあてられて全身の汗がわずかに引くのを感じつつ、リナはそのことを奇妙に思う。あんたたちにも温度というものがあるものなのか。
窓を振り向かずとも、もうそこに『それ』がいるのは、わかっている。夜の隙間を、縫って。
あえて、リナは何も声をかけないままで寝ころんでいた。最初の一言がいったいどういうものであるのか。それが少し見ものだ、と思う。
あたしの退屈を紛らわせに来てくれたってわけ?
「熱帯夜ですねえ」
独り言にしてはその声は大き過ぎた。もう一度、あんたたちに暑さを感じる器官なんてあるのかと疑問を持ったけれど、リナは大の字で寝台に寝そべったままそちらに向こうともしない。 しばらくの沈黙のあとで、こつこつと、ブーツが床を蹴る足音が近づいてくる。近付いてきているということを教えるため、わざわざ鳴らしてくれているのだろう。ありがたいことで。
こつ、と、寝台のごくごくそばで足音は止み、リナの頭上に暗い影が落ちた。視界の隅ににこやかな笑みの青年がいて、こちらをじっと見下ろしている。また、沈黙。ほうほう、と梟の鳴く声がする以外にはなにもない。
かつてなく無遠慮、それでいてひどく静かな視線にあてられているうち、ついに根負けして、
「なんか、用なの?」
反応を返してしまった。頭上から、くすり、と笑いがもれた。
「いえ、ただ、リナさんは何やってらっしゃるかと思って」
「…見てわかるでしょ? 読書よ、読書」
言いながら見上げる。思った通りの顔がそこにあった。それが浮かべるのはいつもの人懐っこそうな満面の笑みだが、それは単に人間の仕草の表面をなぞっただけの空虚な笑顔であることを、そしてこの男が人間でも何でもないものであることをリナはもうとっくの前から知っている。
「一人になるの久しぶりですよね。暇だったでしょう」
「悪趣味ね。デバガメは関心しないわよ、ゼロス」
「放っておいてください。趣味なんです」
あ、そう。リナはその言葉に根こそぎやる気を殺がれたようで、盛大な溜息のあとで手持ち無沙汰を解消するためだけにめくっていた魔導書を、ばさりと放り投げた。
「感情を食いに来たってんなら、容赦しないからね」
「そんなつもりじゃないですってば。本当にただ遊びに来ただけです。それに暇だったんで」
「魔族の暇つぶしに付き合わされる人間の身にもなってよね、こんなクソ暑い日に、もう」
「ああ、それそれ。暑いですよねえ、本当に、今日は」
リナはじっとりとした眼付きでゼロスを眺めた。いつもの黒が基調の神官服、マント―――どこをどういう風に見たら暑がっているように見えると言うのか。
「あんたに暑いとか寒いとかがわかるの?」
「はあ。行きかう人々の服装を見てればわかります」
「冬をも半袖で過ごす暑がりの住まう街だったらどうするわけ」
「……そんな街があるんですか?」
「あるわけないでしょバカじゃないの」
バカと言われて、ゼロスは素直に傷付いた表情を見せた。短い付き合いではない。本気で嫌がっているときの表情とそうでない見かけの変化の違いは、少しはわかる。
もし自分も魔族なら、こいつの負の感情を真っ先に食らってやるのに、という考えがリナの胸をよぎった。
「…魔族ってさ、空気中の水分だけ選び取って除去する魔法とか使えないの?」
「ひとのことを除湿機みたいに言わないでください」
「でも、できるんでしょ?」
「まあ、できますけど。でもやりません。リナさん喜ばせちゃうし」
「…やっぱり、食事に来たんじゃない、あんた」
「そういうわけじゃないって言ってるじゃないですか。
単純に、人間を喜ばせるようなことは魔族にとって無為に等しい行為だというだけですよ」
言いながら、ゼロスはリナの寝転ぶ寝台へ腰かける。古い寝台がまったく鳴りもしないのは、まあ、必然といえば必然だろう。
「食べられるとはいえ、味気ないんですけどね」
なにが、とリナは足元のゼロスを視線で促した。
「暑いとか寒いとかって。ただの感覚であって、感情じゃありませんから」
「ふうん、そういうもんなの」
「そういうもんなんです…、おっと」
ゼロスは空を眺めて独り言のように呟いた。
「お仲間が戻ってきましたよ」
「え? もう?」
「リナさんがいないとどうも調子が出ないようです、あのひとたちは」
頼られてますねえ、と嫌味であるふうもなくゼロスは言う。
帰るんでしょう? という無言の圧力をもってじっと彼を見つめると、やがてゼロスは今日はじめて、リナに向かって紫紺の瞳を開いた。
「リナさん」
この熱気に関わらず彼の周囲の空気だけが一気に冷え込んだような感じがして、リナは思わず後ずさりしそうになった。
「なに、よ」
あれだけ一緒にいたとき散々見せられた瞳なのに、いまだに慣れないのだ。およそ幾年以上の時間を経ているとはいえ、今こうして会ってみてその仕草も表情もあのころとは対して変わってもいないような気がしていた、だからどこかで安心してもいた。それなのに。
「僕、帰りますけどね」
「………」
「次に会えたときは、きっと…」
「…きっと、なに?」
沈黙が、落ちる。
梟の声がいつのまにか聞こえなくなっていることにもリナは気付かない。
どれだけ、見つめ合ったのか、リナがもう無理やりにでも視線を外そうとしたとき、ゼロスはひどく優しい声音で、それこそ聞こえるか聞こえないかくらいの声量で言った。
「いいえ。やめましょう。リナさんを怖がらせてしまうから」
リナの目が見開かれきるのを最後まで見届けて、ゼロスの笑顔が更に深くなる。
「じゃあ、いずれまたお会いしましょうね。リナさん」
その笑顔を崩さないまま、唖然としたリナを残してゼロスは黒い風とともに虚空に消えていった。それと共に、びゅう、と、匂いも色もない、ただつめたい一陣の風が、リナの全身に吹きつけた。
(怖がるって)
どのくらいそこから思考が動かなかったのか。部屋にはふたたび熱気が戻る。
もう、いない。
それを確認した瞬間、背中からどっと、汗が噴き出る。
それが単なる暑さのせいなのか、冷や汗なのか、リナはわからないふりをした。
(あたしが怖がるって、つまり)
遠くに賑やかしい幾人の足音が聞こえてくる。
それは、つまり。
次に会う時は、きっと。
熱帯夜
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