福音という名の魔薬
第拾弐話「様々な始まり、様々な不本意」 ネルフ本部・司令公務室。 天井と床にセフィロトの樹と呼ばれる魔術的な紋様が描かれた暗く大きな部屋で、二人の男が密談を行なっていた。 「上手くいったようだな。」 「ああ、シナリオ通りだ。」 使徒を強羅方面以外から侵攻させ、全方向からの攻撃に備えた兵装ビルや各種設備の配置を承認させる計画。 その計画は、第七使徒イスラフェルを対象に発動された。 従来の戦力整備計画通りに攻撃設備の配置が強羅方面からの侵攻への対応に偏重した状態だと、いざという時の隙が大き過ぎる。 それ故、委員会に真意を悟られずに兵装ビルの建設予定の配置替えを行なう為の言い訳を欲していたのだ。それも、できるだけ早期に。 「今回、予算は55%ほどで済んだそうだな。」 予算が節約できた理由は、使徒が強羅方面から来なかったので使徒の足止めに使う弾薬が結果的に節約できた事、市民への適切な情報提供で疎開する人間の数が劇的に減り補償金を出さずに済んだ事、シンジが使徒を被害が出難い場所に誘導した事が挙げられる。 「ああ。残りは繰り越し金に回してある。金は幾らあっても足りないからな。」 ゲンドウの問いに冬月が律儀に収支報告を行なう。 だが、報告を聞いて若干の間黙考したゲンドウの返事は冬月の意表を突いた。 「……冬月先生。次回の使徒戦の予算請求、2割カットして出せませんか?」 「本気か?」 「無論。ここは今回は遠慮した事にしておく方が良い。」 「なるほど。各国の心証を良くしておく腹か。」 ネルフは金食い虫である。 だが、国連軍ですら歯が立たない使徒と戦うには必要な組織である事も今や周知の事実である。 よって、世界各国は渋々ながら貴重な金を出している訳であるが……。 たまには『我々は必要以上の金を分捕ろうとしている訳じゃない。』とアピールしておくのも有効な交渉戦術である。 「分かった。具体的な数字を出しておく。」 「では、後はシナリオ通りに。」 冬月が退室すると、お馴染みのポーズでゲンドウはポツリと呟いた。 「エヴァ初号機。……ユイは何故、あれを封印したのだろうか。」 答えの返ってくる筈の無い問いを。 惣流・アスカ・ラングレーは不機嫌の絶頂にいた。 先程行なわれた学力テストの結果、自分が日本の中学校卒業相当に当たる学力を有していないと判定されてしまったのだ。 ドイツでは飛び級で大学を卒業しているのにも関わらずだ。 「み、認めないわ。……こ、こんな……こんな…こと……」 その原因の最たるものは、彼女が漢字を読むのも書くのも苦手という点である。 出題の意図が半分も掴めない状態で当てずっぽうに回答せざるを得なかったアスカの点が満足のいくような水準をクリアできる訳は無かった。 しかも、一週間ちょっと前に終わった第七使徒戦を契機にミサトの家に正式に引っ越して来たのも状況を不利にする要因となった。 それがナニかというと…… ユニゾン特訓ですっかりと目覚めさせられてしまった身体を(シンジがアスカに手出しをしてこないせいで仕方なく)自分で慰めているのだが、一度味わってしまった凄まじい快感のせいで半端な事では満足できなくなってしまったのだ。 しかも、壁一枚隔てた向うの部屋では、自分も垣間見ためくるめく爛れた愛欲の日々が綴られていると知っているのである。 多感なお年頃の少女としては、とても勉強をしているどころの話ではない。 更に、その部屋へと3食毎度食べに行くなんて事態だったり、其処であられもない痴態を晒しているはずのお嬢さん方が掃除や洗濯をやりに来てくれるのである。 まさに生殺し状態であった。 しかし、だからと言って、もうあの空虚な一人暮らしの日々に戻るのは、根は寂しがりなアスカには耐えられそうにない。美味しい食事と話し相手に困らない環境を一時的にでも捨てる決心がつかないのだ。 そのような葛藤が続いた結果、アスカは苦手な漢字の勉強を放り出して一人遊びに興じ過ぎてしまったのである。 まさに、自業自得と言えよう。 「認めないって言われても……。この問題用意したの僕じゃないし……。」 そのアスカにやぶ睨みされてたじたじになっているのは、碇シンジ。 選択問題がほとんど無く筆記回答を求める問題ばかりだったり、意地悪な引っ掛け問題が多かったり、国語で漢字の読み方や四字熟語の問題が出たり、社会科で日本の歴史に関する問題が出たとしても、日本の中学校卒業程度の学力があるかどうか確認する意味では間違った問題傾向では無い。 「それに、全教科50点以上取れば良かったんだし……。」 「んなこと分かってるわよっ!」 困り顔で曖昧に微苦笑するシンジの胸倉を引っ掴んだその瞬間、電気のようなものがアスカの脳天を直撃した。 『な…なに……今の…………』 脱力して突っ伏すアスカ。 「ね、ねぇ、大丈夫?」 そんなアスカの肩にシンジの手が載せられたのを知覚した時、アスカは全身を痙攣させて恍惚境へと旅立った。 しかし、アスカが顔を伏せているのでシンジはアスカの状態に気付いていない。 鈍感もここまで来れば犯罪的である。 「そ、惣流さん?」 耳元で呼びかけ、肩を揺するシンジの一挙一動がアスカを更なる高みに導いていく。 プシャァァァァ アスカの意識が戻って来たのは、下腹部を濡らす熱く冷たい感触によってであった。 排便行為と似て非なる液体の噴出は、いつしかそれそのものまでもを誘発しアスカを蒼ざめさせる。 「出てって!」 あまりの羞恥に顔を上げられなくなり、そのままの姿勢で拒絶の言葉を力一杯叫ぶ。 「で、でも……具合悪そうだし……」 天然か? と小一時間膝詰めで問い質したいぐらい察しの悪い事をぬかすシンジを 「いいから、出てって!!」 アスカは涙すら目尻に滲ませて、その場から追い出した。 蹴り出したい気分もあるが、立ち上がると色々とピンチなので座ったままで。 「怒らせちゃったかな……」 アスカが住むミサトの部屋の前で、シンジはしょんぼりと呟いた。 彼を追い出したのがアスカの照れ隠しであったのに気付けず、自虐的な考えに陥るシンジ14歳の午後の一時であった。 その頃、ミサトの部屋のリビングでは…… 「うっ。……凄い事になっちゃってる。早く拭いておかないと。」 自分の今の状態を把握して青い顔をしたアスカが腰砕けで立ち上がれずにいた。 室内着にしてるジョギングパンツを下着ごとぐっしょりと恥ずかしい汁で濡らしているだけでは足らず、水溜りは床にまでじんわりと広がりつつあった。 『カーペットが駄目になってて良かったわ。じゃなかったら言い訳が大変だもの。』 幸い、シンジが人並み外れた鈍感だから助かったが、もし気付かれていたら自殺モンの恥ずかしさである。 『それとも、連中の仲間入りかしら……』 あのユニゾン特訓とイスラフェル戦のせいで、アスカは自分の手で達する事ができなくなってしまっていた。 だからと言って、道具に頼るというのも何か怖いし恥ずかしいし…で手を出してない。 その為、絶頂感を味わうのは久しぶりだった。 もし、今の自分の状態に気付かれて押し倒されたとしたら…… アスカは、その時、抵抗できるかどうか自信が持てなかった。 否、どこかでそれを期待している自分が居る事を否定できなかった。 思わず“その時”の事を妄想してしまい、また軽い波が押し寄せてきたのを薄々自覚していたのだから……。 2015年8月20日。 始業式の為に第3新東京市立第壱中学校へと向かう人波の中に碇シンジの姿もあった。 「おにいちゃん。なんでハルナといっしょのクラスじゃないの?」 シンジの左腕に抱き付いて不満のオーラを立ち上らせているのは、鈴原ハルナである。 この度、ようやく念願の学業復帰……いや、おにいちゃんといっしょに学校へ行くのが実現できたにも関らず、その機嫌はすこぶる悪い。 「仕方ないよ。2年生の編入試験の方には合格できなかったんだから……。」 ハルナの転入考査は、特別に2回に分けて行われた。 一つ目は中学1年、二つ目は中学2年への編入試験である。 このうち、中学1年生の編入試験は辛うじてギリギリ受かったのだが、2年生への編入試験は赤点を取ってしまったのだ。 「う〜。」 一ヶ月近くで小学2年生が中学1年生並みの学識を身につけたのだから、その努力と能力は見上げたものであるのだが、ハルナ的には今一歩が凄く大きいのだろう。 端から見てると学校に行くのが物凄く嫌そうだ。……その実、おにいちゃんにくっついていられる時間が終わるのが惜しいだけなのだが。 が、 「そんなに学校に行くのが嫌なら、今からでも家に帰る?」 できるだけ親身になろうとしたシンジに、凄く心配そうな声で、でもピントのズレた事を言い出されてハルナは思い切り慌てた。 「そ、そ、そうじゃない。そうじゃないけど……」 どうして分かってくれないのとばかりに膨れるハルナを、 「僕は、前は学校に行きたくなかったから。」 苦笑しながら見やり、自分の昔のことを持ち出すシンジ。 「こうしてみんなと行けるから、僕はもうそんな事無いけど。」 苦笑が透明感を感じさせる微笑みに変わり、ハルナとは反対側の腕をしっかと抱いているレイや周囲で様子をうかがっている女子生徒達の頬も赤くなる。 「それに、クラスは一緒じゃないけど、遊びたいんなら昼休みとかに遊びに来れば良いんじゃないかな。」 ついで示された妥協案、いやこの場合打開策というべきか……を聞き、ハルナの機嫌は一挙に回復した。 「それもそうだねっ♪」 どうせ授業中にべたべたくっつくのは望み薄なのだ。なら、大手を振って遊びに行ける言質を取っただけでも……と言う計算高さは彼女には無く、ハルナはひたすらストレートに喜んでいた。 そんな三人の後ろに静かに忍び寄る影があった。 「シンジくんっ!」 ガバッと擬音が鳴りそうな勢いで、少女のものらしい両腕が後ろからシンジの首に回された。 おんぶみたいな感じで背中に密着すると、マナの幾分控えめながらも弾力豊かな膨らみが押しつけられて激しく自己主張する。 「マ、マナ……ちょっと、離れて……」 真っ赤に照れて口篭もりつつ哀願するシンジに、 「ハルナちゃんや綾波さんは良くて、私じゃ駄目なの?」 幾分おどけた調子を装いながらも言い切られ、シンジは即座に白旗を揚げた。 「……好きにしてよ。」 投げ遣りな諦めの台詞。でも、それは全てを受け入れる優しさ故の台詞。 「はい、好きにします。」 だから、マナは満面の笑みを浮かべて腕の力を心持ち強めたのだった。 しかし、シンジは二の腕に当たるレイとハルナの二つずつ……計4つのプニプニとした膨らみと、背中に当たるマナの二つの膨らみを意識させられたせいで、いっそ前かがみになって歩きたいほどの気分に襲われていたのだった……。 そんな女性陣の秋波と男性陣の殺意が注がれている対象から遅れる事数歩ほど、アスカは前の連中のじゃれあいを半分苦々しく見詰めていた。 周囲の男どもの視線は柳に風と受け流し、まずは学校までの道を覚えるのを優先しようと考えていたアスカであったが、前の連中の遣り取りに気を取られてハッキリと把握するのには失敗してしまった。 『……ったく、毎朝こんなの見せられたんじゃたまったもんじゃないわよ。』 何がたまらなくなるのかは置いといて、アスカは一人で登校できるよう通学路のチェックを続けようと努力するのであった。 ……数日後、自らの寝起きの悪さと朝の準備にかかる時間、そして朝食やお弁当を隣人に頼ってる現状から考えて一人で登校するのは困難だとの正しい結論に至るまでは。 朝のホームルームの時間、 「え〜、転校生を紹介します。」 担任の老教師に招じ入れられ、2年A組の教壇に立った少女は、 流麗な英字の筆記体で黒板にデカデカと自分の名を書いた。 「惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく。」 澄ました顔で巨大な猫を被りつつ。 面識が一応あったトウジとケンスケに息の合った驚きの声を上げさせつつ。 それから2時間ほどが経ち、始業式は終わった。 その後、ロングホームルームの為に戻った教室の片隅で、 「そういえばさぁ、今日、転校生がたくさん来たらしいな。」 「そうなんか? 幾らセンセがこの街を守ってくれてるんでも物好きなやっちゃ。」 ケンスケがトウジとだべりながら、何処からか…恐らくは学校のパソコンをハッキングして…入手した情報を得意そうにひけらかしていた。 ちなみに、この日に転入してきた生徒が学校全体で15人だと知っているのは、現在の時点では転入書類を用意したシンジと学校の先生方、そしてネルフの一部関係者だけである。……既に転入した後だから、調べればすぐ分かる事だが。 「そこで、ここからが本題なんだが……」 「なんや?」 声をひそめて囁くケンスケの顔は、酷く真剣で、 「どうやら、そいつらの中にネルフ関係者がいるみたいなんだよ。」 なおかつとても滑稽だった。 「そんなん、この時期にここに来るゆう事は、親がネルフ関係者に決まっとるやろ。」 「いや、そうじゃなくて、本人がネルフに所属してるみたいなんだ。」 「ほんまか?」 「人知れず戦う少年兵。う〜、格好良いなぁ。俺もできないかなぁ。」 身悶えんばかりにうっとりとするケンスケに、トウジは一応忠告をしておく。 「止めとき。危険やし、格好良いことばっかじゃないと思うで。」 「で、トウジ。トウジはシンジと親しいだろ。頼むの手伝ってくれないか?」 しかし、そんな忠言を聞く耳は持たず、ケンスケはまずはトウジとばかりに拝む。 ……ケンスケは、前の空母行きの時もトウジ経由で頼み込んで成功したので、二匹目のドジョウを狙ってトウジを味方に引き込んでおこうというのだ。 「せやけどなぁ……。そういう事は自分で言った方がええと思うで。」 気乗りしないトウジを、 「な、頼むよ。口添えしてくれるだけで良いからさ。」 ケンスケは、そりゃもうひたすら拝み倒す。 こうなれば元来人の良いトウジである。 「まあ、しゃ〜ないな。話するだけやで。」 遂には折れて、承諾してしまうのだった。 そんな説得工作が行なわれている間、シンジの席の周囲にはクラスメイトの女子が大挙して取り囲み、質問攻めを行なっていた。 「霧島さんと付き合ってるのですか?」 「綾波さんとの関係は?」 「『おにいちゃん』って言ってた子との関係は?」 「もしかして、ふたまた…いえ、みつまたなんですか?」 “あの”登校風景をバッチリと見られていたらしく、姦しく激しい追及にシンジはたじたじとなって縮こまる。 「え、えと……あの……」 いつもは女子にちやほやされていて腹立たしいシンジが心底困ってる様子に、朝から今にもぶち殺しそうな目で睨んでいた級友男子達は内心快哉を叫ぶが、迂闊な事を言って批判の矛先が自分達に向くのが怖いのか傍観に徹していた。 ズズイと包囲を狭め詰め寄る女性陣の鬼気迫る姿に、シンジは内心一つ溜息を吐いてから面を上げる。 「実は、綾波やマナの他にも何人かいるんだ。」 吹っ切れた、いや吹っ切った笑顔で。 何と言われようと仕方ない。非難も批判も罵詈雑言も、暴力や虐待でさえも全部受け止める。……と潔く覚悟を決めたのだ。 しかし、 その時、 通常なら有り得ざる反応が返ってきた。 「「「「「「「「それなら、私とも付き合ってください!!」」」」」」」」 取り囲んだ女性陣全員の綺麗なユニゾンで。 「え?」 そう。無意識にシンジのATフィールドが発動してしまっていたのだ。 事態の意外な推移に戸惑うシンジを、恋愛感情と焦燥感と悲壮感の入り混じった視線が隙間無く包囲する。 逃げ道は、もう無い。 YESかNO。そのどちらかを答えるまで、包囲の鉄環は揺らぐ気配すらない。 その緊張感に…… その視線の圧力に…… シンジは耐える事ができなかった……。 「う、……うん。」 おずおずと、だがハッキリと首を縦に振り、すまなそうに…でも、どこか嬉しそうな笑みを周囲の女の子たちに向ける。 「ありがとう。僕で、良ければ。」 感極まって泣き出す者、床にヘタりこむ者、どさくさ紛れにシンジに抱きつく者、手を取り合って悦ぶ者……と、種々様々な方法で喜びをアピールする女子達に圧倒されながらも、シンジは受け入れて貰えた事に安堵し、喜んでいたのだった。 『この後、かなり大変だろうけどね……。』 憂鬱な心配事、特に体力面での苦労と、 『それと、綾波とマナとヒカリのフォローもしとかないと……。』 恨みがましい視線を向けてきている三人のことに思いを馳せながら……。 この瞬間から、このクラスの男性陣でシンジの味方はトウジ一人になった。 そして、その遣り取りを下着を濡らしながら輪の中に入ってイく誘惑に下唇を噛み締めながら耐えている転校生の金髪娘がいたのだった……。 その頃のネルフ本部・司令公務室。 「碇、上手くいったようだぞ。」 学校を監視していた結果を報告しにここを訪れたのは、副司令の冬月コウゾウだった。 「そうか。」 その報告を受けるのは総司令の碇ゲンドウただ一人。 ネルフのトップ二人が雁首並べるほどの、それは重要な要素だった。 「しかし、ここまでしなきゃいけないとはな……。」 作戦とはいえ、学校の空調に微量のLCLをガス状にして混入している事に、冬月は苦い表情を隠せない。それによって、普通ならばシンジとくっつくところまでは行かないだろう人間の後押しをしていると知っているだけに少々後ろめたいのだ。 「仕方が無い。人間が生き残る為だ。」 手段を選ぶ余裕なぞ我々には無いと、冬月の逡巡を一刀両断するゲンドウ。 その意志は金剛石よりも硬く、息子をある意味犠牲にする事に全く躊躇いは無い。 ……そのような感情は、全てが決着する時までは棚上げする決意を貫いているのだ。 「しかし、このままではシンジ君の体力が心配だぞ。」 ゲンドウの表面的な冷たさと言葉の端々から深刻な葛藤の傷跡を感じて、倫理的な面を同じく再び棚上げした冬月は、実務的な心配の方を口にする。 「問題無い。」 こんな展開も男と生まれたからには満更ではあるまい。と、当人の意見も聞かず結論づけたゲンドウが机の上で組んだ両手の影でニヤリと笑う。 そこには、先程の苦衷の色は欠片ほども無かったのだった……。 「それでなんですけど、今日の放課後……みんなでカラオケに行きませんか?」 シンジが集団交際をおっけーした後も包囲は解かれる事無く、事態は新たな展開を見せ始めていた。 女の子達というかシンジのファンの纏め役ぽい娘の申し出に、 「うん、良いよ(今日はネルフでの訓練の予定が無いから……)。」 シンジは即答で承諾した。 以前にマナのお誘いをオーケーした事がある手前、適当な口実が無ければ断ると色々と角が立ちそうだからと言うのが理由としては大きい。 だが、シンジは自分がどんな事態に陥ってしまっているかを未だ良く把握していないのだと、後でこっぴどく思い知らされる事になる。 その日の放課後、シンジに真っ先に声をかけたのはトウジだった。 「すまん、センセ。ちょっといいか?」 「ゴメン。これから用事あるんだけど……」 すまなそうに断りを入れようとするシンジに、 「ちょいと話があるだけや。たいした時間はかからへん。」 トウジは、ここまで言っても駄目なら引き下がろうと内心思いながら頼み込む。 「そういう事なら……」 友達にそこまで言われればシンジとしても断り難い。 「ごめん、すぐ戻って来るから。」 そう言い残して、シンジはトウジと連れ立って教室を後にしたのだった。 ……後をつけているケンスケには気付かずに。 トウジとシンジの二人……いや、ケンスケを入れると三人……が着いたのは、校舎の屋上だった。 「で、用なんだけどな。」 「うん。」 「ケンスケの奴がネルフで働きたいゆうててな。そん事でセンセと話がしたい言うてるのや。」 屋上に着いてからほどなく、トウジはさっそく本題を切り出した。 「そ、そんな事言われても……」 僕は人事担当じゃないから困ると言わんばかりに困惑の色を浮かべるシンジ。 「ともかく、ケンスケの話だけでも聞いてやってくれへんか?」 しかし、そう言って頭を下げられては断るのも気が咎める。 「話を聞くだけなら……」 と、結局譲歩してしまうシンジであった……。 「じゃ、僕は戻るから。」 そう言って教室に戻ろうとしたシンジではあったが、扉口に慌てて飛び出してきた人物にあわや鉢合わせしそうになってしまう。 「相田……君。」 その人物とは、盗み聞きをしていたケンスケであった。 「碇、ちょっといいか?」 ケンスケの常に無い真剣な目に押され、シンジは二歩三歩と後退る。 「う……うん。」 辛うじて体勢を立て直したシンジに向けて、ケンスケは深々と頭を下げる。 「この通りだ。俺を…俺をネルフで働かせてくれっ!」 ほっとくと土下座までしかねない勢いにたじろぐシンジに、ケンスケは更に胸中に用意しておいた言葉で畳みかける。 「俺は、碇だけを戦わせてるのが我慢ならないんだ! お願いだ、俺にも、俺にもこの街を守らせてくれっ!」 筋の通った反論を聞かされる前に情に訴える。それがケンスケの作戦であった。 勿論、これが全くの嘘と言う程にはケンスケの根性は腐っていない。 多分に英雄願望やモテるシンジへの嫉視が原動力となってるといえども、いやだからこそ、自分もシンジと同様の立場になる事でチヤホヤされたいという欲望の火は強かった。 そんな叫びにうたれ、シンジの心は揺らぎ…… 「うん。ミサトさんに話しとく。……期待はしないでくれると有難いんだけど。」 「本当かっ!」 シャツに縋りついて首を絞める勢いのケンスケに閉口させられながらも、シンジは約束してしまう。 「う……うん。だか…ら…離…し…て……。」 本当に絞められて段々青くなるシンジの顔色を見て流石にマズイと思ったのか、それまで横で話を傍観してたトウジが止めに入る。 「もうよせやケンスケ。センセが青うなっとるで。」 が、口で言っても喜び絶頂のケンスケの耳には入らない。 そこで、トウジは仕方なく腕力でケンスケを無理矢理引き剥がした。 ゴホゴホと咽るシンジをトウジが介抱する。 「大丈夫か、センセ。」 「う、うん。何とか……。」 今にも倒れそうなシンジと心配そうなトウジに向けて、 「いやぁ、持つべきものは友達だなぁ♪」 ケンスケは、トウジに引き剥がされたせいで屋上の床に座り込んだ格好のまま、お気楽ご機嫌な台詞を吐き出し続けていたのだった……。 『なんでこんな事になっているんだろう……』 カラオケBOXの一室にクラスの女子一同に囲まれて連れて来られたシンジは、内心でこっそり溜息をついた。 本来は8人ぐらいまでを想定されているのだろう室内には、追加の椅子が運び込まれて10人が詰め込まれている。 いや、本来は充分許容範囲内の人数である筈なのだが、シンジは息苦しいほどの圧迫感を覚えていた。 ……何時の間にかちゃっかり参加していたハルナとレイに両側を挟まれて、身体を擦りつけるように密着されてしまっていたのだ。その為、女の子たちの嫉妬と羨望の視線がシンジ(正確には両側の二人)に思い切り集中していたのが、息苦しさを感じている主な理由である。 そんな気詰まりな状況を動かすべく動き出したのは、今回のカラオケに誘った張本人の田中コナミと言う人物である。ちなみに、この娘は以前にトウジの吊るし上げを主導した人物でもあった。 「碇君、歌いましょう? せっかくカラオケに来たんだし。」 「う…うん。」 首尾良くデュエット曲に誘い出して一緒に歌うのに成功したのはともかく、その次の行動はシンジの意表というか度肝を抜いた。 「碇君……もし、良ければ、次の子が歌い終わるまでこうしててくれる?」 胸に飛び込んで目を閉じ、顔を心持ち上向きにして、僅かに唇を開く。 それは明らかに誘っていた。 例え、身体を震わせ、身を固くしていたとしても……。 『えと……これって……もしかして……』 もしかしなくても、言葉には出さず、誘っていた。 ……が、シンジはそのままの姿勢で凍りついたように動けない。 次の曲のイントロが、気まずい空気を無闇とかき乱す。 何本もの…いや、シンジ達以外にその場にいる8対の眼が放つ視線が痛いほどに集中して、シンジの脆弱なATフィールドをいともたやすく貫通する。 そんな刹那の後、 次の順番の女の子がシンジ達をちらちらと気にしながらも歌い始めたのに引きずられてか、それともようやく腹を決めたのか、 シンジは、ゆっくりと唇を重ね、両手でふんわりと抱き締めた。 だが、それだけでは終わらなかった。 背中から下の方へと何度も撫でる掌、 後頭部に手を添え、唇を割り開き、口中を蹂躙する舌、 そして、暖かく包み込むATフィールドが、 接吻により言葉を封じられた女体をガクガクと痙攣させる。 脳に直接送り込まれ呼び起こされた快感と、 心を優しく抱き締められる感覚に、 田中コナミは、ファーストキスだったにも関らず、堕ちた。 そう。彼女は下の口から垂れ流したよだれで下着をしとどに湿らせつつ、意識の手綱を手放したのだった。 圧倒的な量の脳内麻薬で自らの脳を汚染しながら……。 ……そのやらしくも優しい抱擁は、コナミの次に歌い終えた女の子がキスをせがむまで続いた。 そして、その一部始終を見ていた他の人達の反応はというと…… 先を争ってカラオケ機械のリモコンを取り合っていたり、 見とれて惚けていたり、 「歌い終われば碇君とキスできるのね。……問題無いわ。」 一見無表情ながらも、よくよく見れば頬を薄く染めていたり、 「はやくハルナのばんにならないかな〜♪」 期待にわくわくしてたり、 曲選びに夢中になったりという、パッと見には普通のカラオケに近い状態となっていたのである。 このカラオケルームに入ってから一時間後、 シンジ達が歌っている“ハズ”の部屋へとやってきたマナは、 死屍累々のある意味凄惨な現場を目の当たりにした。 ……いや、本当に死んでいる訳では無いが。 9人の少女達が放つむせかえりそうな芳香の中、唯一起きているのはマナにとって一番愛しい人のみであった。 「……シンジくん。どういう……事なの?」 どうやら、ここ一時間弱のうちにレイやハルナですらもシンジの腕を枕に舟を漕ぐ羽目に陥るほどの激戦が繰り広げられたらしい。 と、そこまではおぼろげに理解したものの、流石に訊いてみずにはいられない。比較的こういう異常な状況に慣れているマナでさえも思わず目を疑うほどの光景なのだ。 目立つ着衣の乱れが見当たらないから尚更に。 「う、うん。実は……何時の間にか歌い終わったら僕とキスするって事になって……」 「そ、そうなんだ……(キスだけでこれだけ?)」 改めて思い人の底知れなさを思い知ると共に、自分の身体の奥にも何かが点火されたのを自覚したマナであった。 「ところで、そろそろ時間かな?」 人数が多くて一部屋に収まり切らなかった為、シンジは1時間経ったらもう片方の部屋に移動する事になっていたのだ。 「ええ。だからシンジくんを呼びに来たんだけど……」 この状態のまま放置するのも問題かなぁ…と、思案に暮れるマナ。 「そうだね……マナ。」 「なに、シンジくん?」 「ここにいる人達の介抱、お願いしていいかな?」 自分じゃ逆効果になりそうだと苦笑いするシンジに 「ええ、任せて。」 安請け合いをするマナ。 ただ、シンジは知らなかった。 幸福なまどろみにたゆたう彼女達が、彼が頼んだばかりにマナの手で一人残らず叩き起こされる事になるのだと……。 その頃、コンフォート17にあるミサトの部屋では、 アスカがコンビニ弁当をテーブルいっぱいに並べてヤケ食いに走っていた。 「……ったく、あんの馬鹿っ! デレデレしてる暇があったら、ちょっとはアタシの事を考えなさいよね〜。」 かなり甘えた台詞を口走りつつ。 ちなみに、アスカはシンジとほぼ同額の給料…月額50万円(しかも、危険手当は別途支給)以上…が支給されているにも関らず“家賃や食費を請求されていない”という凄く恵まれた環境にあるのだ。 本来は感謝されこそすれ、たまに手が回らなくなった時に怒りをぶつけられるのは少々お門違いなのであるが……。 「クワッ」 他の人がいないガランとしたテーブルで、ぶつくさ文句を言いながらジャンクフードを腹に詰め込むという、体調管理にも精神衛生にもプロポーション維持にもすこぶる悪そうな行為に走っているアスカを心配してか、葛城家で飼われている温泉ペンギンのペンペンが横合いから声をかけてきた。 「あら、あんたいたの?」 「クェェ〜」 この部屋の先住者であるペンペンとアスカは既に顔馴染である。 いや、居候であり、共に隣人に御飯をたかりに行く仲である事も手伝ってか、この一人と一羽の間には奇妙な連帯感が芽生え始めていたのかもしない。 「そう、あんたも放っておかれてるんだ……。飼い主なのに酷いわね、アイツ。」 「クェェ〜」 実際にはペンペンの飼い主はミサトであるのだが、どうやらシンジに濡れ衣が着せられる事にアスカの脳内法廷で判決が下ってしまったらしい。……まあ、アスカがここに来てからペンペンの面倒を見てるのは主に隣室の連中で、こっちの部屋ではお風呂と自室(専用冷蔵庫)にしか用が無いんじゃないだろうかって按配だったのだから、そう誤解するのも無理も無い話なのだが。 「そうね……。これ、食べる?」 それでも、ちょっとは気が紛れたお礼って事で、アスカは未だ手をつけてないお弁当を一つペンペンの前の床に置く。 「クワッ」 種族的に絶食に強く、しかも、いざとなれば2軒隣の元戦自組の部屋に行けば餌が貰えると知っているペンペンではあったが、せっかくの好意を無にするのも悪いと思ってコンビニ弁当に嘴を突っ込む。 「おいしい?」 「クワッ」 そんな感じでペンペンに相手してもらえたアスカの機嫌は幾分かは良好にはなったのだが、それでも胸に溜まったモヤモヤは着実に勢力を拡大していった。 そのモヤモヤが、本当は何に起因しているのか深く考えぬままで……。 碇シンジは困っていた。 明々白々に困っていた。 ここにいないアスカを除くクラスの女子全員+ハルナに連れられ、公園まで半ば強制的に連行され、ほぼ完璧に取り囲まれていたのだ。 ただでさえ衆目を集めるには充分以上な状況なのに、全員が第3新東京立第壱中学校の制服を着ているので更に目立つ事もシンジを困らせる一因となっていた。 空を飛ぶか地に潜るかできれば逃れ得るのだろうが、あいにくとシンジの運動能力は十人並みの域を出ない。……もっとも、もし仮にオリンピック選手並みの運動能力があっても、この囲みを破るのは不可能と言うよりないが。 「みんな、聞いて!」 このまま“ここで”2回戦が始まるんじゃないかと戦々恐々とするシンジを他所に発言をしたのは、何時の間にか纏め役ぽい立ち位置になっていた田中コナミではなく、以前からのクラスの纏め役であった洞木ヒカリであった。 「明日以降のことだけど、このままいつも皆で行動ってのはまずいんじゃないかな。」 かなり常識的な発言であったが、その常識も想い人が複数の女性と付き合っている現状を容認している時点で結構壊れてきているものと思われる。 「ここにいる全員が一緒だと行ける場所も限られてくるし……。」 が、言っていること自体には一理あった。 「問題無いわ。減らせば良いのよ。」 硬質な声音で聞きようによってはかなり物騒な発言をした人物に、その場の全員の視線が集中する。が、その視線を表情少な、いや無表情と言っても良い顔でレイは跳ね返す。 視線の圧力が敵意のレベルにまで高まりかねないのを察してか、 「そうだね。出かける時は小人数の方が良いかもね。」 野次馬と化した周囲の皆様の視線に胃がシクシク痛み始めてる気がしているシンジが一刻も早く事態を収拾するべく助け舟を出すと、レイは小さく肯いた。 それを見て危うく殺し合いに突入しかけていた場の緊張は一気に和らいだ。 しかし、 「……え、ええと……シンジ様、その人選ってどうなさるのでしょうか……。」 女子の一人がポツリと疑問を投げかけたことで、またまた風向きが変わった。 素朴な疑問ではあろうが、言ったタイミングがあまりよろしく無かった。 今度はレイに一極集中するのではなく、シンジ以外の周り全部が敵だとばかりに敵意の嵐が吹き荒れる。 集まっている女の子達の容姿が一人残らず標準以上なだけに、その凄みはいっそう激しく周囲を睥睨し、席捲する。 興味を引かれて注視していた見物人達が剣呑な気配に脅えて避難を開始した頃、この場にて唯一敵意を向けられていない存在が考え事から帰還した。 「やっぱり、誰かにスケジュール調整をお願いするしかないかなぁ……。」 そういう仕事であれば、ここに適任は二人しかいなかった。 「そ、そういう仕事なら私が…」 「私にやらせてくれる?」 委員長気質の洞木ヒカリと、シンジファンの纏め役である田中コナミである。 真っ向から火花散らす展開となり始めた雰囲気を嫌って、シンジが早めに仲裁に入る。 「え……ええと……僕は洞木さんの方が良いと思うんだけど。」 ぴしっと音がしたような気がした。 コナミが白い灰になって燃え尽きてしまっている光景に、シンジは慌ててフォローを入れようと言葉を続ける。 「洞木さんはネルフの関係者で、僕のネルフ関係のスケジュール管理をしてる人と多少面識あるから……だから、洞木さんの方がって思ったんだけど……」 明かされた真実(の欠片)の説得力は抜群で、コナミを含む大方の人間が『そういう事なら仕方が無い』と納得した。 この街を……人類を守る為のネルフの……いや、シンジの仕事を邪魔する事は、ここにいる誰もが望んではいないのだから……。 ただ一つ問題があるとすれば、シンジ付き秘書の白石ミズホの業務に妖しげな仕事が本人も承知しないうちに追加されることが決まった事ぐらいだろう。 「で、どういう基準にするかは皆で相談してくれるかな?」 この瞬間、家族連れも訪れる郊外の閑静な公園は喧々諤々の論議の花咲く決戦場と化してしまったのだった。 約1名の少年の軽い後悔と頭痛と共に……。 「おっそ〜いっ! 何してたのよ、アンタ達はぁっ!」 自宅にやっとのことで帰還できたシンジとその連れを待っていたのは、待ちくたびれて般若と化したアスカであった。 「ご…ごめん。用事がなかなか終わらなくって……。」 「言い訳は良いから、さっさと食事を作りなさいっ!」 「う…うん。」 御飯をたかりに来ている身分の癖にヤケに偉そうな命令口調のアスカに、唯々諾々と夕食の支度を始めるシンジであったが、 「む〜。」 「何もそこまで言わなくても……。」 「セカンド、うるさい。」 「シンジくん……。」 彼と同時に帰宅した四人の少女は、抗議の視線をアスカにこれでもかと浴びせる。 「なによ、文句あるわけ!」 「あるわ。」 即答だった。 口答えしたレイに、怒気……いや、殺意までこめて睨みつけるアスカ。 それに応え、どんどん視線が冷たくなるレイ。もはや、焦点が凍り付いても誰も不思議には思わないだろう。 「な、なによ。やる気?」 レイだけではなく、マナやハルナからも敵意混じりの視線を浴びて、アスカは拳を握りつつも思わず後退る。 いや、それは単なる視線ではない。 敵意という名の“拒絶”が形作るATフィールドが、心を侵蝕し、傷つけているのだ。 「ちょっと、みんな、止めて!」 ヒカリの制止も虚しく、どんどん場の闘気は高まってゆく。 『くっ、勝ち目は……そうだ! 念の為に用意しといたコレを……』 アスカがポケットの中に忍ばせてあるLCL錠剤に手を伸ばす。 『エヴァ弐号機さえ発動できれば、ここにいる有象無象などエースの自分の敵では……』 実情を知る者にとっては砂糖菓子より甘い見通しで、アスカが戦闘の口火を切ろうと身構える。もう、何時殺し合いに発展してもおかしくは無い。 「止めてよっ!! みんなっ!!」 吹き荒れる敵意の嵐を一瞬でベタ凪にまで抑えつけたのは、シンジの一喝だった。 「ハルナも、レイも、マナも…気持ちは嬉しいけど、喧嘩はしないで貰えるかな。」 諭すシンジに向かってうなだれる三人。 「惣流さんも、良ければ許してあげてもらえると嬉しいんだけど。ほら、みんな惣流さんに謝って。」 「……ごめんね。」 「悪かったわ。」 「ごめんなさい。」 自分には今にも牙を剥きそうだった三人が叱られた子犬のように唯々諾々と矛を納める姿に、アスカの反発心がいや増しに増す。 「できれば、惣流さんからも謝って貰えるかな。それでこの話は終わりって事で。」 だから、アスカは選択を間違ってしまった。 「いやよ! 何でアタシが謝らなきゃいけないのよっ!」 シンジの真の怖さを知らないが故に。 「そうなんだ。」 「そうよっ!」 息詰まる睨み合いの末、 「惣流さん、夕食抜き。」 抜き放たれた伝家の宝刀は、アスカの空きっ腹に酷く堪えた。 「うっ……」 あまつさえ、厨房から食欲を刺激するチャーハンの良い香りが漂ってきてアスカの心に激しいタックルをかましてくれる。 「横暴よっ! アタシにも食べさせなさいよ!」 アスカは喧嘩腰で譲歩させようとするが、シンジはいつもと違って堅牢無比な態度を崩さない。 そんな対峙の最中にも、アスカの腹の虫は極々小さな音で小刻みに自己主張して、やせ我慢して出て行こうとするアスカの足を縫い止め、栄養補給の重要性をアピールする。このままでは誰彼と無く聞こえるぐらい声高な主張を始めてしまいそうなほどに。 「さ、いこ。」 踵を返すシンジ達の背に、無念そうな……本当に無念そうな声で、アスカが言う。 「わ、悪かったわよ。……これで良いでしょ!」 不貞腐れた言い方であったが確かな謝罪の言葉に、シンジは満面の笑みを返した。 「先に簡単なものを作っておいたから、それ食べて待っててくれるかな。」 アスカの、いや、全員の心臓に早鐘を打たせるほどに、ざらついた神経がしっとりと落ち着いて行くほどに素敵な微笑みを。 ……なお、その晩、ヒカリは腰が立たないほど気持ち良くなるごほうびをシンジから戴いたおかげで帰宅できなくなった。 「なあ、碇。あの話どうなってる?」 翌朝、席に着いたシンジを待っていたのは右隣の席に座るケンスケの質問だった。 「それなんだけど、今日の放課後にネルフに行く事になってるから、その時に話すって事で良いかな。」 「勿論っ! 頼りにしてますっ!」 この日のケンスケの質問はこれだけで終了した。 シンジは気付いていなかった。 具合が悪くなったと言って突如早退したケンスケが、いったい何処で何をやっているかということを……。 それを知っていたならば、果たしてケンスケの為に便宜を計る気になっただろうかどうかは神のみぞ知る事であろう。 何しろ、それは……盗撮行為だったのだから。 「こちらJ−9。“学校”近くの林に潜伏している不審者発見、駆除の許可を乞う。」 ケンスケは、カモフラージュネットを被り、茂みに身を潜ませ、望遠レンズを装着した一眼レフをグラウンドに向けてピクリとも動かない。 息を殺している様子は素人ではまず見つけられないだろうほどに堂に入っているが、注意が完全に被写体にしか向いてない現状のままでは、狙撃兵として大成するのはまず無理だろう。 「……待て。対象は2−Aの生徒だ。状況が第弐種以上に該当しなければ、我々が直接排除する事は認められていない。」 直接どころか『2−A生徒の行動にはエヴァ・チルドレンに明確な危害が加えられない限り手出しを禁じる。』という保安諜報部の内規があり、現場の独断では教師への匿名通報ですらも後で処分の対象とされる恐れがある。 つまり、今回のような場合では、見逃す以外の選択肢を許されていないのだ。 「分かった、護衛任務を続行する。」 小型の通信機を片手に本部と連絡を取り合っている保安諜報部の猛者が物騒な会話をしていると知らぬまま、ケンスケは3年に転入してきた二人の美少女達の体操着姿を激写するのに夢中になっていた。 ちなみに、現在ケンスケが勝手に被写体にしているのは、南サオリと清田ヤヨイ……つまりは、既にシンジにたっぷりと可愛がって貰っている娘たちであった……。 その翌日も、 「で、碇。あの話どうなった?」 ケンスケの質問は朝一番で浴びせ掛けられた。 「う……うん。入隊試験はしてくれるけど、詳しい期日は今忙しいから後でって言われたんだけど、それで良い?」 シンジの色好い返事に、ケンスケは舞い上がらんばかりに喜び、シャチホコばった敬礼をする。 「はっ! 相田二等兵、承知したでありますっ!」 さっそく妄想に浸り込んだケンスケが、前日に引き続いて2時限目が始まる前に早退した事をシンジがいぶかしむ事は無かった……。 ちなみに、この日の2年生の3〜4時間目は、体育であった。 前日に引き続いて例の茂みに潜伏したケンスケを、これまた前日に引き続いて発見したJ−9という識別番号を持つ保安諜報部員は、コイツはとっとと殲滅しといた方が良いかもと歯噛みしながらも静観する。 チルドレン暗殺や誘拐を防ぐのが彼等ガードメンバーの役目であって、盗撮魔の暗躍を防ぐのが役割では無いのだから……。 「おっ、そろそろ終わる頃だな。」 授業終了10分前、ケンスケは手早くカモフラージュネットを隠して移動を開始した。 目的地は学校からほど近い林の中にある一本の木。 其処は、2年A組の教室を外から覗き見る事ができる秘密の穴場なのだ。 おまけに、上手いこと枝葉の陰に隠れられるので中の人間から見つかる恐れもほとんど無いというベストスポットである。 ここから盗み撮りした半裸や下着姿が乱舞している着替え写真は、他の比較的良心的な価格で販売している隠し撮り写真とは別に、結構な高値で裏ルートに流していた。 そうでもしなければ、多額の金銭を必要とする趣味を複数持つケンスケは、その趣味的活動をかなり我慢しなくてはならなくなるのだ。 この隠し撮り機材だけでも十数万円は注ぎ込んでるケンスケである。 自分の趣味の為なら、クラスメイトの肖像権やプライバシーなぞ眼中に無かった。 勿論、こんな事をしてるのは友人のトウジを含めて学校の誰にもバラしてはいない。 トウジはあれで真面目な所もあるし、そもそも隠し事が下手なので、思わぬところで足がつく恐れがあったからだ。 「どれどれ……」 ここの最大の難点は、枝葉の陰から照準を合わせなければならないので自動でピント合わせができないという事と、枝の上から被写体を狙う体勢なので二脚や三脚が使えないという点である。 しかし、ケンスケは熟練の手捌きでサッとピントを合わせて、手ブレを起こす事も無く次々とフィルムにクラスメート達の艶姿を収めてゆく。 「ちっ、惣流も霧島もこっちからは良く見えないな。……今回は諦めた方が良いかな。」 しかし、今回の撮影会の最大の目的だった転校生の美少女二人の生着替えを撮り逃したのは残念だと思った時、異変は起こった。 その時の2年A組の教室内。 長らく続いた軍人生活のおかげか手早く着替え終えていたマナは、窓の外から邪な視線が注がれているのをようやく感知した。 『しまった!』 すぐさま気配が察知ができなかったのは、その視線の主の気配の消し方がプロ級……それも一流以上の技量だという事を意味している。内心かなりマズイと思いながらも、マナは自分のスポーツバッグの隠しポケットから黒光りする金属塊を急いで取り出した。 それを手に姿勢を低くして窓際に走り、いつでもATフィールドで教室全体を保護できるよう心構えをする。 もう、防備は万全だ。例え新型のN2爆雷を投下されたって大丈夫だ。 後は…… ガララララッ カギが掛けられていなかった窓を全開にして、感知した視線の源へと向けて右手のSIG/SAUER P220…自衛隊の正式拳銃…のトリガーを引く! パンッ! パンッ! パンッ! 9oパラベラム弾の小気味良い音が茂みの中に吸い込まれてゆき、 「うわっ!!」 無様な悲鳴を上げて男が一人、数百m先の木の上から落下した。 加粒子砲の能力の応用でATフィールドを用いて銃弾を視線の出所へと誘導した結果、並みの拳銃では到底不可能な長距離狙撃を達成した成果であろう。 マナは、手早く携帯電話を取り出し短縮ダイヤルの*9番を押すと、前置き無しで命令を下す。 「D2地点に急行、不審者を制圧して。」 それから、いきなり発生した銃撃戦に数歩も引いている級友達を振り返り、マナはただ一言だけを言い残して窓からヒラリと飛び降りる。 「覗きよ。来たい人は着替えてから来て。」 その2分後、2−Aの教室から人は一人もいなくなった……。 相田ケンスケは、現在ただいま人生最大のピンチの真っ只中にいた。 周囲は蟻の這い出る隙も無いほどしっかりと殺気立ったクラスメートの女子生徒たちに包囲され、その後ろには急いで駆け付けて来たと思しき迷彩服に身を固めた数人の兵士が侮蔑と哀れみの混じった視線を注いでくれている。 その包囲の先頭、彼の目の前にいる霧島マナの冷たい怒りに満ちた視線、硝煙たなびく黒光りする銃口が彼の額をピタリと狙っている現実に、ケンスケは言い知れぬ恐怖を感じていた。 既に彼の愛用のカメラの望遠レンズは見事にヒットした銃弾によって無惨な残骸と化して地面に転がってしまっていたが、“それが彼自身の未来の姿”になるのではないかとの恐るべき想像がヒシヒシと押し寄せて来るのだ。 しかも、この異常な状況にも関らず、誰一人としてマナを止めようとする者はいない。 いや、怒りに満ちた視線を注ぎ、今にも我先に飛びかかって来そうな雰囲気だ。 この場に彼の味方になってくれる人は誰一人いない。 罵声を浴びせてくる敵は売るほどいるが。 リアルでシビアな現実だけが横たわっていた。 「メガネ、渡してもらえる? 大丈夫。渡せば壊さないであげるから。」 拳銃を握っていない左手を差し出すマナの姿に、ケンスケは必死に打開策を巡らせる。 メガネを渡すフリをして拳銃を奪い、強硬突破。 そんなスパイムービーでありそうな見せ場がケンスケの頭の中を交錯する。 流石に級友の女の子を人質に取るのはどうかと思ったが、追っ手と化した連中の出足を挫く為に突き飛ばすのは構うまい。 そんな身勝手で場当たり的な計算がグルグルと頭をよぎるのは、目の前の相手がプロではないと思い込んでいるからであろう。 いや、いきなり撃たれた恐怖でいつもの計算高さがお休みしているのだろうか。 歯の根をガチガチ鳴らしながら、ケンスケはゆっくりとメガネを差し出した……。 メガネを取ろうとしたマナの左手の手首をグイッと渾身の力で引っ張り、右手の拳銃に踊りかかろうとする。 『確か、手の甲側に捻れば良いはずっ!』 が、必死で伸ばしたケンスケの手は何か透明な壁のようなものに弾かれ、たまらず体勢を崩したケンスケの額に熱い何かがゴリッと押しつけられた。 「ひいっ。」 銃弾を撃ってからさして経ってない銃口が、ジュッと肌を火傷させる。 「相田君。脳漿ぶちまけて死にたくなかったら、おとなしくしててくれる?」 平板な口調での最後通牒に、ケンスケはとうとう白旗を揚げた。 目の前の人間が、単なるチンピラヤクザよりも遥かに危険なプロの軍人級の相手なのだとやっと認識できたのだ。……本当は核兵器よりも危険な存在なのだが、少しばかり恵まれた立場のミリタリーヲタクに過ぎないケンスケにそこまで分かるはずもない。 聞きかじりの軍事知識なぞ、本当の戦場では何の役にも立たないのだ。 ケンスケは、天国にいる母親に会いにいく事を、この時本気で覚悟したのだった……。 相田ケンスケの公式な処分は、停学3日だった。 それは、ネルフの……いや、赤木リツコが嬉々として施した少々どころでなく怪しげな治療でケンスケが辛うじて動けるようになるまでに要した日数であった。 そして、当然の如く行われた尋問の結果発見された、彼の自宅や秘密の隠し場所に保管されていた全てのネガと全てのデジタルメモリーは情け容赦の欠片も無く完全かつ完璧に滅殺された。 ネガもメモリーディスクもパソコンのハードディスクもMAGIまで動員して洗いざらい調べ尽くされ、分子一つ残らず消し炭にされてしまったのだ。 未使用のフィルムやカメラなどが見逃されたのは、せめてもの情けと言えるかもしれないが、それでもケンスケが受けた精神的打撃は計り知れないほど大きかった……。 全ては自業自得だが……。 ケンスケが停学の憂き目(生死の境目)を見ていた3日間、 碇シンジは、級友女子のほとんどから 「自分(の裸)を見て下さい。」 だの、 「抱いて下さい。」 だの、色々と懇願され、授業そっちのけで例の連れ込み部屋に入り浸る羽目になった。 それが如何なる意図の元に行なわれたのだとしても、結果的には愛欲という名の鎖に囚われた愛玩奴隷に自ら望んで堕する事だと事前に気付いていた娘はいなかった。 だが、極上の麻薬でトリップするよりも気持ち良い快楽の絶頂でさんざんに翻弄されて胎内に熱い白濁をぶちまけられると、一人残らず本能で理解した。 もう、自分はシンジから離れる事はできなくなってしまったのだと……。 それを後悔した者は、ただの一人もいなかったのだが……。 愛欲の鎖に囚われるより先に、愛情の紐で一人残らず結ばれていたのだから……。 そぉんな爛れた日々と、バカップルと言っても良いほどの熱々っぷりを多人数相手にイチャイチャ送っているのを間近に見せられていれば、血迷ってとち狂う人間などという者も出て来ようってもんである。 今現在、校舎裏のあまり目立たない場所にシンジを首尾良く連れ出して取り囲んでいる男子生徒三人も、古今繰り返されてきた幾多の事例に違わず馬鹿な行動をしでかそうとしていた。 何故シンジ一人だけを連れ出せたかと言うと、ここ第壱中学校でも男女別の授業は行なわれており、少年達はその隙を突いてかなり強引に引っ張って来たのだ。 決して、シンジがのこのこついて来た訳ではない。 「は…話って、何?」 あまり芳しくない場の雰囲気を読み取って、さっさと話とやらを聞くだけ聞いて逃げようと内心決意しているシンジの胸中を知ってか知らずか、クラスメートたちは嫌な笑いを口元に張りつけた。 「お前、幾らエヴァのパイロットだからって生意気なんだよっ。」 「毎日女の子とイチャイチャイチャイチャ……見せつけられる俺達の身にもなれ。」 「やってられっかよ。」 言ってる事は勝手千万だが、まんざら理が無いとも言い切れないので…… 「ご…ごめん……」 反射的に謝るシンジ。もはや、謝り癖は習性と化しており、強圧的に出て来る相手に強気で反発するのはシンジにはかなり困難である。 「口だけで謝られてもなぁ……」 「やっぱり出すもん出してもらわんと。」 具体的に“何”とは言わないが、この学校に来るまでさんざん虐められてきた前歴が何を要求しているかを分かり過ぎるほど分からせる。 だからこそ、 「やだよ、そんなの……」 ちゃんと主張すべき事は主張しておくのだ。 例え、最後には暴力で剥ぎ取られるのだとしても、完全無抵抗でいては相手は段々図に乗ってきて要求をエスカレートしてくるに決まっている。 それならカタチだけでも抵抗しておいて搾り取られる額を減らす。 シンジがここ10年の間に身に着けた処世術の一つだ。 ……あんまし覚えて気分の良い技ではないが。 「やだじゃねえよ! 気持ち悪い!」 集団心理か、それとも鬱屈していた不満が暴発しているのか、少年の一人がシンジを突き飛ばすと、もう一人が馬乗りになって抑えつける。 そうして抵抗を封じると、最後の一人がシンジのポケットの中から財布を抜き取った。 「おっ、万札じゃねえか。結構入ってるな。」 一家の主夫であるシンジの財布には、非常時に備えて一万円札が2枚常備されている。 その軍資金を、一家の生活費を、少年達は容赦無く奪い取った。 が、タガが外れて暴走し始めた馬鹿の愚行は、留まるところを知らない。 「これだけじゃ足りないよなぁ。」 「ああ、全然足りねぇなぁ。」 ケタケタと野卑な笑いを唱和させている彼等は、己が危険水域にのこのこと踏み込んだ事に気付かない。そして、気付かぬからこそ更なる愚劣な要求を出してしまうのだ。 「金が足りないなら女を寄越せ。なに、いっぱいいるんだから一人や二人ぐらいこっちに寄越したっていいだろ。」 「そりゃいいや。俺は綾波が良いな。」 ゲラゲラ笑いながら馬乗りになっている少年が言う。 「お、お前は綾波か。じゃあ、俺は霧島な。」 シンジの財布を片手で弄んでいる少年が、つくづく命知らずな要求を吐く。 「それなら俺は委員長だ。一回、あの澄ました顔にかけてみたいんだよなぁ。」 残る一人が、これまた命知らずな要求を出す。……無知とは恐ろしいものだ。 「駄目だよ、そんなの!」 ここまで無法な要求には、自分にとって大事な人達の心を踏み躙る要求には、幾ら温厚で争い事を好まないシンジといえども流石に唯々諾々と従う事はできず、暴れて抵抗しようとするが、既に馬乗りになって両手ごと抑えつけられていては如何ともし難い。 しかも、 「おとなしくしろっ!」 馬乗りになっていた少年が、ポケットから折り畳み式のナイフを取り出してシンジの目の前に突きつける。 「おとなしくしないとズブリといくぞ!」 両手を封じられたままのシンジは、憎々しげな目付きで少年達を睨むが、暴れるのはひとまず止める。 今暴れたところで、はずみで自分が殺される危険性が増すだけだと。 それでも意地でも屈してやるもんか。その意志を込めてシンジは少年達を睨む。 が、事態はあっけなく終結した。 パスッ パスッ パスッ パスッ 何かが少年の手の甲に当たってナイフを落とさせ、 同様に側面から撃ち込まれた何かが、少年達を一人残らず地べたで苦悶にうめかせる。 敢えて急所を外した銃弾が。 5人の黒服が消音器付きの拳銃を手に隠れ場所から現れて少年達を取り囲む。 その目に一切の容赦の色は無かった。 「お怪我はありませんか?」 少年達から目も銃口も逸らさないままで、黒服の護衛官達が気遣いの言葉を口にする。 「う、うん。……ありがとう。」 「いえ、救出が遅れて申し訳ありませんでした。」 2年A組に集められた人間に対しては、シンジ達チルドレンのガードが目的といえども一定の要件を満たす場合でなければ手出しができないという内規がある。 それは、このクラスの生徒が一人残らずエヴァに適合する可能性が高いせい……裏を返せばそういう資質のある人間を集めたせいであるが、そこまで詳しい事情は下っ端の保安諜報部員には分からない。 ただ、そういう規定がある為に少年の一人がナイフをシンジに向けるまで助けに入れなかったのは事実である。……これが自殺主義の狂信者やどこぞの勘違いしたテロリストやなんちゃって軍隊の手先などであれば、もっと早期に排除が実行できたのだが。 下手をすれば最悪の事態も起こり得た事実に、彼等は慄然とした。 使徒戦における最強の切り札とも言えるシンジは、ネルフの……いや、人類存続の鍵と言うべきほど重要な存在である。 シンジがいなければ今までの使徒戦の犠牲者は軽く数万人増え、数百兆円以上もの更なる追加予算が必要となっただろう……。 もし、ここまでの重要人物が死傷させられたならば、護衛していた彼等が当然ただで済む筈は無い。よくて免職、普通で死刑、悪くて一族郎党皆殺しというところか。 彼等は、少年達を必要以上に手酷く拘束しながら、可能な限り早期に内規の改訂をしてもらうべく上訴しようと決意したのであった……。 その後、ネルフに連行された彼等は第3新東京市立第弐中学校に転校する事となった。 転校したのが同じ市内の学校である上に転居した訳でもない彼等がお礼参りに来ない事から、シンジはよほど上手く説得してくれたのだなぁと思い彼等の事を意識しなくなっていった。 シンジは知らなかった。 ネルフで彼等が受けた“処置”を。 それが、人体制御装置の実験の賜物である事を。 シンジに危害を加えようとすると自動的に被験者の行動を矯正する機能を備えた装置を埋め込む手術を実施した結果、彼等がシンジに関らなくなったということを、 シンジは知らなかったのだった……。 退院してから2日後、相田ケンスケはようやく学校に姿を見せた。 「おっ、もうええんか?」 「ああ。何とかね……。」 トウジに声をかけられて、入院……いや、いっそどこぞの秘密結社で改造手術を受けているんじゃないかと錯覚するほど怪しい雰囲気の治療を思い出してケンスケは総身の毛をよだたせた。 「そういえば、随分人が減ったみたいだけど……」 正確には、トウジやシンジの他にいた男子の級友が見当たらない。 いったいどうしたのかと思っていたら…… 「ああ、あいつらか。あいつらなら転校したわ。」 「ふーん、そうなんだ。」 元々他人に関心が薄い質であるので、ケンスケはそれだけの説明で納得した。 使徒がこの第3新東京市に襲来してから、疎開の為に転校する生徒が珍しくなくなった事もあって、別段理由を詮索せずとも分かった気になったのだ。 「あいつら……こともあろうにワイがションベンしに行っとる時を狙ってセンセをカツアゲしようとしたんや。」 しかし、憎々しげにトウジが話を続けると、どうやら“特別な理由”があるらしいと踏んで俄然興味が湧いて来た。 「おい、それでどうなったんだ?」 「ネルフのガードにコテンパンにのされて捕まったそうや。で、こってり絞られてから弐中の方に転校したらしいわ。」 こんな話がトウジの耳にも入っているというのは、抑止力という意味合いから噂話として事の顛末が流布されたことによる。 ケンスケは我が身にも降りかかったその“説教”の恐ろしさを省みて、シンジに喧嘩を売るのは現時点では得策ではないと改めて思い知った。 それに、今はネルフへの就職を仲介して貰っている事情などもあって、対立しても色々と損になるだけだ。 『今に見てろよ。俺もネルフで活躍すればモテるように……。』 その嫉妬に染まった視線の先では、シンジが女の子達にチヤホヤされ、困り顔ながらも柔らかく微笑んでいたのだった……。 「あれ、相田君。もう動いて大丈夫なの?」 授業の始まるちょっと前、女子の壁がシンジから離れるのを見て、ようやくケンスケは自分の席に戻ってきた。 流石のケンスケでも先日の事件のせいでかなり気まずいからだ。 「あ…ああ。ネルフの科学力のおかげだよ。」 おぞましさに身震いするケンスケの仕草に、シンジは何かを読み取った。 「それって、もしかして……その治療、リツコさんが担当したんじゃ……。」 「リツコさん?」 まあ、人名、しかも姓名の名の方を言われても、今のところ部外者であるケンスケには分からないだろう。 「髪が金髪で白衣を着た美人のお…お姉さんの事だけど。」 そこで、シンジは割りと分かり易い外見的特徴で表現した。 「ああ、あの怪しいおばさん!」 その努力は見事に実を結んだが、代償としてケンスケの身の安全を要求したかのようにシンジには思われた。 「そ、そういう風に言わない方が良いと思うよ。ところで……」 しかし、敢えて触れない様に簡単に忠告しただけで話題を変える。 シンジとて我が身は可愛いのだ。 「入隊試験だけど、今度の日曜で良い?」 「勿論でありますっ!」 話を途中でぶち切られて不満が噴出しそうだったケンスケが、ピシッとした敬礼をシンジに向ける。 「じゃ、詳しい話は……放課後に。」 其処まで話したところで先生が入って来たので、話は一端中断となった。 『昼休みじゃ駄目なのか?』 というケンスケの内心の疑問を他所に。 しかし、その疑問はほどなくあっさりと氷解する事になる。 あたかも毒気のように甘ったるい雰囲気を撒き散らす隣席のおかげで……。 「あの……シンジ様……お弁当、作って来たんですけど……。」 シンジが可愛くナプキンに包まれた弁当箱がおずおずと差し出されたのを受け取ろうとすると、 「あ〜! ショウコ、ずるいっ!」 他のシンジの周りにいる級友の女の子達から抗議の声が上がる。 「碇君、私のも食べてっ!」 そんなどさくさに紛れて、これまた自作のお弁当を出そうとする子にも、 「アヤメもずるいってば! 抜け駆け無しじゃなかったっけ?」 当然ながら抗議が降りかかる。 そう。 大人数の女性が可能な限り喧嘩をせずに一人の男性と交際する為に考えられたシステムとは、各々に割り当てられた時間と取り決めを守ることであった。 勿論、シンジの方から誰それをと指定して誘う事もできる。 その場合、予定が潰れた子にはシンジが相応の埋め合せをする事になっていた。 ……実はこのシステムの作成には、シンジの意志は0.01%も反映されていない。ただ、決定事項を追認するよう求められただけである。 それに文句を言う気も特に無いようだが。 「え……えと、とにかく食べようよ。」 「「「「はい。」」」」 食事時の昼休み限定で合体させた机で、シンジを入れて5人が席に着く。 「能代さんのと山城さんの作ったお弁当、本当にいただいて良いの?」 シンジの前には2つの弁当が並べられており、 「はい、お口に合えば良いのですけど……」 「勿論っ!」 その製作者達は当然ながら快諾した。 しかし、そうすると困るのが、鞄に入っている自分用の弁当である。幾ら色々と運動するようになったといえども、2個も食べればお腹一杯になるに違いない。 「ありがとう。代わりに僕のお弁当、食べる?」 そこで、お礼も兼ねて差し出す事にした。 バチッと火花が散った。今にも奪い合いがスタートしそうだ。 が、 「でも、お弁当は一つしか無いから……もう一人は“僕が食べる”ってのはどうかな?」 意味深な台詞を聞いた能代ショウコと山城アヤメの二人は、 「あ…あの私、小食だから……」 「先に食べてって言ったのは能代さんの方だから、そっちが食べて良いわよ。」 壮絶な譲り合いを開始した。 その争いを指を咥えて見る破目になった他の女の子達は、自分達も料理の特訓をしようと決心したのであった。 ……結局、話し合いではケリがつかず、じゃんけんで能代さんが弁当を貰う事になったことを記しておこう。 それと、色々と憤懣を溜め込みつつ遣り取りの一部始終を見詰める一人の少女がいた事も記しておかねばなるまい。 いよいよだ。 いよいよ、このケンスケ様の英雄伝説が始まるんだ。 親父を拝み倒して必要だって言われた書類の保護者承諾欄にはサインさせたし、ハンカチもチリ紙も準備万端だ。 眼鏡もプラスティックレンズのスポーツタイプを用意した。 当然、デジタル式ビデオカメラも一眼レフのカメラもバッチリ整備は終わってる。 後は、シンジを待つばかり……。 「おはよう、相田君。」 「遅いっ!」 待ち合せ場所である校門の支柱に寄りかかっていた俺が見た者は、何というか……綺麗な人だった……。 「おはよう。」 機械のように冷たく、しかし硬質であるが故に人間味のある美声が、俺のハートを思い切りくすぐる。見るからに女性士官って分かる服装も、俺的にはポイントが高かった。 ……でも、あれ? 何か見覚えがあるような……。 「ごめん、30分も前から待ってるなんて思わなくて……。」 「え?」 言われて気が付いた。俺って、待ち合せ時間の一時間前から待っていたんだっけ。 一気に恥ずかしさで顔が熱くなってしまった。 「じゃあ、カティーさん。後はお願いします。」 「分かった。楽しんで来い。」 シンジがカティーさんとか言われた人に頭を下げて去って行こうとする。 「あれ、碇は来ないのか?」 「ごめん、今日は用事があって同行できないんだ。……でも、ちゃんと入隊試験の事は頼んでおいたから。」 「そうか。用事があるんじゃしょうがないな。」 本当にすまなそうにしている碇を見ていると文句を言う気も失せて来る。 別にこいつに同行して欲しいって思ってる訳じゃないしな。 「ホントにごめん。じゃ、頑張って。」 とにかく、俺の為に便宜を計ってくれたのは事実なので、 「いや、いいよ。ありがと。」 何かといけ好かないヤツではあるが、感謝の言葉ってもんで表面を取り繕っておく。 今後も良い関係でいられるようにね。 「相田ケンスケだったな。乗れ。」 カティーさんが指で指し示したのはネルフの保安諜報部の黒塗りセダンだ。 「は、はいっ。了解であります。」 嫌な思い出がある車ではあったけど、指示通り乗る事にする。 何、今回は別に連行される訳じゃないんだから問題無いさ。 なんて思ってると、軍服を着た金髪美女のカティーさんが隣に……うわ、嬉しくて困り過ぎるるるるる。 「指定された書類は?」 「は、はい。こちらであります。」 この人の声で言われると、特に命令口調じゃないはずなのに拒否できない。いや、何故か嬉々として指示が聞きたくなる。こういう人が士官様って言うんだろうか。 さすがは大尉様だ。……襟章がそうだから、多分間違い無いだろう。 「今回の試験会場はジオフロントになる。よって、もし撮影機材を持って来ているならこちらで預かる。」 「え、あ、は、はいっ!」 いきなりビデオカメラも普通のカメラも取り上げられた。 これで、撮影機材はカメラ付き携帯電話だけ……これは問題無いよな。うん、問題無いという事にしておこう。 無言で取り上げたカメラを丈夫そうなトランクに詰めるカティー大尉……。 まてよ。確かに彼女には見覚えがある……。 「あ!? もしかしてオーヴァー・ザ・レインボウにいた人ですかっ!?」 ようやく思い出した俺を、 「そうだ。」 カティーさんは何の感慨も驚愕も無く見返してくれたのだった。 うう、何か虚しい……。 そんな事で落ち込んでいると、車は何時の間にか下に降り始めた。 下? 前じゃないのか? と思って周囲を見ると、どうやら車がカートレインの荷台に固定されて地下へと運ばれているようだ。 地下ねぇ……と思っていると、俺の眼前に“それ”が現れた。 「うわぁ! 凄い凄い凄い凄いっ! 凄過ぎるっ!」 地下に広がる大地。 地下に広がる湖。 そして、その中心にそびえる黒いピラミッド。 恐らくは、あれがネルフ本部なんだろう。 カートレインから降りたら、そのまま本部に行かずにコンクリで出来た何かの建物に連れ込まれた。いったい何だろう。 「さて、これより入隊試験を開始する訳だが……これにサインをして貰う。」 それは、ネルフへの仮入隊申請書であった。 勿論、躊躇わずサインする。 訓練中に不慮の事故があったとしても……なんて、軍隊なんかじゃ珍しくも無いし。 「さて、試験内容に入る前に……喜べ、相田訓練生。お前は贅沢にも3つの道を選ぶことができる。」 淡々と続く言葉に、フツフツと嬉しさが込み上げる。 俺は、俺はとうとうここまで来たんだ。 「まずはチルドレン護衛官。エヴァ・チルドレン達と普段の生活を共にし、有事の際には盾となり守る役割だ。」 これは駄目だ。これじゃ英雄にはなりようがない。俺は英雄になりたいんであって、英雄を支えたいんじゃない。 「次にエヴァ・チルドレン候補生。エヴァ・パイロットとして生身で前線に出て、使徒を撹乱・誘導する役割だ。」 思わずやらせて下さいと叫びそうになったが、続きが俺の口をつぐませた。 「ただし、参号機以降の製造が遅れている為、実戦に出られるのは早くても三ヶ月後になるだろう。」 三ヶ月後……それしか選択肢が無いんならともかく、そんなに待つのは御免被る。 やっぱり直ぐに大活躍っていかないと英雄って感じしないし。 かなりド甘い考えに浸るケンスケの耳に、そんな夢想に繋がる答えが聞こえてきた。 「最後にパペット・ドライバー。我々ネルフが誇る対使徒兵器エヴァ・パペットを駆り、使徒と戦う役割だ。これは、訓練成績さえ良ければ次の使徒戦から出撃メンバーになる事も有り得る。」 え? あ、あのネルフの決戦兵器の操縦手ですか? 俺が? 「は、はい! パペット、パペット・ドライバーをやらせて下さいっ!」 「本当に良いのだな? これが駄目だったからと言って、別ので試験してくれと言っても聞かないぞ。」 「は、はい。勿論であります!」 「よかろう。で、訓練期間は一ヶ月、一年、五年の3コースあるが、どうする?」 「一ヶ月でお願いします!」 「これも変更はきかんぞ、良いのか?」 「勿論でありますっ!」 念押しにも、俺は毅然として対応する。ここで退いたら男じゃない。 「よかろう。では、これが相田訓練生、お前に貸与される装備だ。」 戦略自衛隊の迷彩服にヘルメット、背嚢、糧食、水筒、応急手当用の救急セット、ナイフに磁石、さらには最新式のボディアーマーまで……さすがにテントや寝袋までは入ってないみたいだけど。って、なんで毛布まであるんだろう。 じっくり見てたら怒られた。 「早く着替えろ。」 あ、あの……見られてると着替え難いんですけど……。 怖くて口答えできずにいたら、 「聞こえないのか? 着替えろ。」 それはもう剣呑な目で睨まれたので、泣く泣く着替える事にした。 うう……もうお婿に行けない……。 冗談はさておき、軍服のサイズが合わない。 「あの……サイズが合わないんですけど……」 「身体の方を合わせろ。」 無茶な言い方だけどなんとなく分かる。いちいち訓練生に合わせて軍服を用意するなんて無駄だって言いたいんだろうと。 でも、すそを適当に畳んでベルトで調整したら案外着られたので、そう問題無いサイズのを見繕ってくれていたみたいだ。……文句言わなきゃ良かった。 とにかく、貸し出された装備を全部身に着けたら俺のテンションは入隊試験に向けて大いに高まった。 その直後の恐怖を知らぬままに。 「で、これが、試験で使う銃だ。どっちを使っても良い。」 机の上に無造作に置かれた黒光りする2個の鉄塊は、一見同じ物に見えるが、その実全然違うものだった。 右の銃は本物のベレッタM92FS…言い換えれば米軍のM9拳銃…だが、左の銃は注意して良く見ると精巧なエアガンでしかない。こんなおもちゃで俺を騙そうなんて10年早い。 迷わず、右の銃を取る。 滅多に無い機会だから、やっぱり本物の銃の方が良いってのもあるしね。 ……ちなみに、後で聞いたら左の銃はペイント弾が装填されたエアガンだったらしい。 「そうか、では試験は実弾演習とする。」 お、やっぱり。やったぁ! 内心小躍りした俺は、未だその言葉が持つ恐るべき意味に気付いちゃいなかった。 気付いた時には、手遅れだったんだ……。 「試験開始前に50発まで練習させてやる。来い。」 大尉殿に案内されたのはレンガ作りのシューティングレンジ。 まあ、本格的な射的場と思ってくれれば当たらずとも遠からずだろう。 ええと、構えはこうで、足はこうで……あれ? 弾が出ない…… 「セイフティ(安全装置)を解除しろ。」 おっと、そうだった。 やっぱり初めての実弾射撃で緊張してるな、俺。 10m先の人型ターゲットに向かって、改めて撃つ! 撃つ! 撃つ! 銃弾を撃った反動が俺の両腕を痺れさせる。う〜ん。やっぱりモデルガンなんかとは比べ物にならないなぁ。これぞ兵器って感じでほれぼれする。 そう経たないうちに、与えられた50発を使い果たしてしまった。 的に命中したのは32発。初めてにしては上出来とか言われてしまった。何か俺って幸先良い? ここまで命中率が良いのは、多分米軍御用達の弾じゃなくて、市販の拳銃弾が装填されてるせいなんだろう。米軍用の9mmパラベラム弾は拳銃用というより本来短機関銃用の強装弾だって話だし。 「来い。」 悦に入ってると、突然お声をかけられた。 へ? 大尉殿がさっさとシューティングレンジから立ち去るので、慌てて後に続く。 ぼさっとしてたら心証悪くなるしね。 何処に行くのかと思えば、さっきの部屋に戻って来た訳なのだが、其処にはさっきはいなかったヤツがいた。 「霧島……どうしてここに……。」 「相田訓練生! 口から汚物を垂れ流す時は、語尾にサーか三曹殿と付けなさい!」 「は、はいっ! 了解でありますっ、三曹殿!」 恐るべき眼力と語調に、俺はあっさりと白旗を揚げた。 やっぱり霧島は怖いし……。 へ? 三曹? 霧島ってホントの軍人? しかも伍長殿? 平の兵士じゃなくて? 「霧島マナ三曹、これより入隊希望者の試験官の任に就きます!」 本格的な敬礼をする霧島の格好は、いつもの第壱中学校の制服じゃなくて今の俺と同じく戦略自衛隊の迷彩服だった。 これがまぁ、しっくり着こなしてる。 三曹ってのは、もしかしたら伊達じゃないのかもしれない。 「ご苦労。」 その声で、ようやく、俺は、霧島の役目ってヤツを悟った。 いや、まだ信じたくは無い。 まだ、そう言われた訳じゃない。 でも、あの時銃口を押し当てられた額が妙に熱くて背筋が寒かった。 何か冷房効き過ぎじゃない、ここ? 「試験だが、相田訓練生の希望で実弾を使用する。」 へ? ま、待って? 必死で制止しようとするが、何故か声が出ない。 「はい。」 「使用できる弾薬は予備を含めてマガジン3本まで。試験終了は午後6時とする。各自時計合わせを忘れるな。」 淡々と続けられる説明が頭の中を通り過ぎて行く。 が、 「相田訓練生は、霧島三曹の身体に一発でも攻撃を命中させられたら合格とする。」 看過し得ない御言葉もある訳で…… 「え? ええ〜っ!? 本当でありますか?」 「私は嘘は嫌いだ。」 淡々と吐き捨てるように肯定したカティーは、更なる試験条件を通達する。 「相田訓練生が降伏するか意識を失うかしたら失格だ。何か質問はあるか?」 「は、はい……あ、あの……」 頭の中がグルグルとして上手く言葉が出て来ない俺。 「無いようだな、では、試験開始は1時間後からだ。各自休息を取っておけ。」 そんな俺を、大尉殿は外見通りに冷たく突き放した。 「はっ!」 「は、はいっ!」 それでも、何とか敬礼だけは出来た。 蹴り飛ばされてしまう前に。 一方その頃、シンジ達は…… 箱根園にあるピクニックガーデン、要するにだだっ広い芝生の広場へとピクニックに来ていた。 この惣流・アスカ・ラングレー様まで引っ張り出して。 「ねえ、アスカ。誘って悪い事しちゃった?」 一応友人って言って良いかなって思う真面目で心配性な娘、洞木ヒカリが芝生に敷いたビニールシートに座ってるアタシの顔を覗き込んでくる。 ……そんなに浮かない顔してたかな、アタシ。 「それより、何でアイツまでここに来てるわけ?」 朝早く出かけた時は、てっきりこっちに来ないもんだと思ってたのに。 「ハルナちゃんと秋月さんが引っ張って来たからじゃないかな? 碇君は掃除とお買い物がしたいとか言ってたんだけど……。」 「はん、それじゃアイツだけ置いてくれば良かったじゃない。」 あんな鈍チンの馬鹿なんて。 「そ、そういう訳にも……。」 うう。アイツならともかくヒカリをこれ以上困らせても仕方ないわね。 「アスカおねえちゃ〜〜ん!!」 って、え゛? ドッシーンと擬音が鳴りそうな勢いで、女の子が一人飛びついて来た。 フライングボディアタックとでも言おうか、見事に折り重なって倒れたアタシたちを、あの小憎らしい顔が覗き込んで来る。 「大丈夫? 惣流さん、ハルナ。」 慌てて走ってきたんだろう。ちょっと息が切れてるのが体力不足? って思うけど、毎晩あんな重労働してたら疲れが溜まった顔してないだけ凄いんだろうか? 「大丈夫じゃないわよ! 早く助けなさいよっ!」 頭に浮かんだ妖しい想像と微妙な熱を振り払おうと、思い切り叫ぶ。 「ご、ごめん。」 と、案の定謝っていそいそと上に重なってる子……ハルナを抱き起こす。 「ごめんなさぁい。」 でも、ハルナちゃんにまでしょんぼりとして謝られたら、何かアタシが悪者みたいじゃないの。 「全部コイツが悪いんだから、気にしなくて良いわよ。」 ……何か自分でも支離滅裂だと思うけど、コイツの顔見てると何かムシャクシャしてくるのが悪いのよ。そうよ、やっぱりコイツが悪いの。 「ううん。おにいちゃんはわるくないよ。」 夏の暑い日差し、明るい昼間にも関らず、コイツの顔を見てると妙な気分になりそうなのはあっちの棚の上に葬り去っておいて、 「で、何か用?」 雰囲気が暗くなる前に話題を変えた。 アタシは湿っぽいのは苦手だし、嫌だから。 「ハルナが鬼ごっこしたいって言い出したんだけど、やる?」 鬼ごっこね、くっだんない……。あんたら幼稚な連中に付き合ってるヒマは…… と、断りの返事をしようとしたら、ハルナちゃんの目と目が合ってしまった。 ……マズイ。これは、今にも泣きそうな目だ。 「あ〜。わ〜かったわよ。やるわ。やれば良いんでしょう!」 半分投げ遣りに承知したアタシは、筋肉痛になるまで走り回る未来が自分を待っていると知らなかったのだった……。 追記:久しぶりに思い切り走り回るとスカッとするわね。 試験開始から、はや2時間。 俺はもうベレッタM92FSのマガジン2本を使い果たしていた。 「うう、聞いてねぇよぉ……。あんなバリア発生装置なんて……。」 ハンデあげるから好きに撃ってみて……なんて言うから御言葉に甘えて弾倉に入ってた 15発と最初に薬室に入ってた1発、計16発を立て続けに撃ち込んでみた。 幾ら何でも俺の射撃の腕を嘗め切ってるとしか思えない発言にカッときた俺は、全弾撃ち込んでから、 『せっかく霧島が手加減してくれたのに急所外すの忘れてた。どうしよう。殺してないだろうなぁ。ああまで言ったんだから、せめてボディアーマーぐらいは着けててくれよ。』 なんて、今考えると砂糖と蜂蜜とガムシロップを混ぜたぐらい甘い事を考えていたんだが、現実はそうじゃなかった。 いや、より正確に表現すると、そこには“俺の知っていた軍事的な常識”が現実じゃないって事を嫌と言うほど教えてくれる存在がいたんだ。 「これがバリア発生装置の力よ。」 5mも無い距離から撃ち込まれた銃弾を弾き返す六角形の光の壁。 そんなものが実用化されてたなんて……。 ネルフの科学力恐るべし……。 「じゃあ、次は私の番ね。逃げないと撃つわよ。」 背筋をゾクリとさせる声で宣言した霧島……いや、霧島三曹は、腰のホルスターから自分用の拳銃をゆっくりと引き抜いた。 霧島三曹の持つ拳銃は、あの時と同じSIG P220。戦自の9o拳銃だ。装弾数はマガジンに9発+薬室に1発だけど、元がスイス製だから精度の良さには定評がある。 いや、この銃が霧島の手にある時には、悪魔のような恐ろしさを発揮する。 拳銃で360mの狙撃なんて有り得ないよ! でも、霧島三曹なら楽々とできるような気がする。あの時のように……。いや、そう考えて行動しないと……。 こうして全力で走ってる今でも、霧島三曹は俺を殺せる……。 ゾッとした。 そうだ。今なら霧島は俺を合法的に殺害できる。 どこか致命的なところにでも銃弾をぶち込めば……。 今更ながらに、仮入隊申請書類にサインしたのを後悔した。 もっとごねれば良かった……。 ごねた時点でこの話は御破算になるだろう事は、割れ鐘の如く鳴り響く心臓が思考の鋭さを欠けさせているので思い当たらない。 必死になって茂みに飛び込み、刺が引っ掛かるのも無視して森の奥へ奥へと逃げ込む。 幸い攻撃は来ない。 何を考えてるのか知らないが好都合だ。 思い切り走って後ろを振り向くと誰も追って来てないようだ。 助かった。 と、そこである重要な事に気が付いた。 「迷った。」 そう。ここの地理に不案内な俺が必死に色々走ったせいで、今どこにいるか分からなくなってしまったのだ。 まあ、いざとなれば開けた所に出てみれば分かるだろ……あ゛……迂闊に開けた場所なんかに出てったら殺される。お、俺、殺されるよ。殺されるよ、どうしよう。 落ちつけ、落ちつけ、俺。 とにかく傷の手当して、それからだ。 急に痛み出した擦り傷や引っ掻き傷を、背嚢から取り出した救急セットの消毒液をかけて絆創膏を片っ端から貼る。 50枚入りの絆創膏の箱は、直ぐに空になった。 ん? ガササッと茂みを分ける物音がした気がする方へ銃を3発撃ってまた逃げる。 今度は茂みで怪我しないように通り易い場所を選んで走る。 こんな事を何度か繰り返していたら、もう一本のマガジンの弾も撃ち尽し、とうとう今装填してる分しかなくなった。 「は、反則だよ。あんなの……あんなの敵いっこ無いじゃないか!」 逆ギレして怒ってみても仕方が無い。 この状況から逃れる手段はただ3つ。 1:ギブアップすること。 2:霧島三曹の身体に銃弾を叩き込むこと。 3:時間いっぱいまで逃げ延びること。 ……タイムアップまで何とか逃げ延びれば次の審査に行けるに違いない。そうだ、そうに違いない。 お気楽主義に傾いたケンスケは、残され横たわる8時間もの時間を如何に相手に見つからずに過ごすかを考え始めたのだった。 気配も足跡も消し忘れていた上に色々と騒いでいるので、完璧に追跡されてるとは気が付かずに……。 とにかく、精神的な再建を果たしたケンスケは、エマージェンシーコールをさっきから発信し続けている自分の胃袋を救援すべく、背嚢から缶詰を取り出した。 「……ポーク&ビーンズかぁ。こういうのだと火が使いたいんだけどなぁ。」 と、正直な感想を漏らしつつ持ち上げた缶詰が、いきなりひしゃげて中身を辺りにぶちまけた。 「え!?」 ナニかに潰されたらしい缶に目をやると、もはや残骸と化した“それ”には疑いようも無いほどハッキリとした弾痕が……。 「う……うえっ……と、とにかく逃げないと……。」 何とか背嚢だけは引っ掴んで逃げたのだが、食事をしようとして出していた缶詰は全部パアだ。今更戻って取りに行く気にはとてもなれない。 しかも、この一件はケンスケの精神に致命的なマイナス要因を植え付けた。 『いつ何時襲われてもおかしくないんだ。』 という認識を……。 次の一発はボディアーマーの上から命中して、呼吸を一瞬止めてくれた。 その次は、水筒の水を飲んでたら水筒を狙撃された。 更に次は、背嚢を撃ち抜いて背中に命中した。……ボディアーマーが弾を止めてくれなかったら、俺は多分死んでただろう。 俺は、その度に悲鳴を上げて逃げた。 逃げないと死ぬ。 その確信だけが、俺の足を動かした。 体力なんて、とっくの昔に尽きていた……。 が、気力だけで動ける時間なんてたかが知れている。 追い立てられるように走っていた俺は、遂に泥濘に足を取られて転んでしまった。 「うわっぷ!」 顔から地面にダイビング。 幸い、地面は柔らかめで、あんまり痛くは無かった。 「相田君、そろそろ終わり?」 うわ、こんな時に霧島だよ。 ダラダラと流れる冷や汗で全身を気分が悪くなるほど濡らしながら、身体ごとおずおずと振り返る。 座り込む格好になった俺の視界内、距離にして10mぐらいのところに霧島はいた。 「あ、あう……。」 俺は呻き声を上げつつ、右手に後生大事に持っていた黒光りするモノを霧島に向けた。 そして、撃つ! 撃つ! 撃つ! 撃つ! 力の限り、撃つ! 撃つ! 撃つ! 恐怖に任せて、撃つ! 撃つ! 撃つ! 急所を外す余裕なんて無く、撃つ! 撃つ! 撃つ! バリアに『お願いだから消えてくれ!』と念じながら、撃つ! 撃つ! 撃…… カチン、カチン…カチン…カチン…… 「あ、あわ…あわわわわわ……」 こ、これで終わりだ。 もう弾が無い。 お、俺、殺されちゃうよ。殺されちゃうよう。 霧島は、ゆっくりと距離を詰めて来る。 無表情で、拳銃片手に、 凄まじいまでの殺気を迸らせて。 ……それは、戦場に出たことも無く、殺し合いをしたことも無いただのミリタリーヲタクには余りにも荷が重かった。 泥溜まりの前で止まった。 だいたい3mぐらい。 霧島の銃が、その銃口が俺に向けられる。 何か、何処に向けられてるのか分かるよ。 俺の額。 ヘルメットで守られてない場所。 あの時、銃口を突き付けられた場所。 「お祈りはもう終わらせた? あと、辞世の句ぐらいは聞いてあげるわよ。」 怒ってはいないみたいだけど、代わりに全然感情のこもってない声だった。 今にも何の感慨も躊躇いも無く引金を引くんじゃないかと心配になるほど…… いや、多分引く。 この目は、この殺気は、絶対撃ってくる。 俺の生存本能が悲鳴を上げてる。 もう駄目だ、もう駄目だよ。 もう終わりなんだってば。 いや、終わりじゃない。 まだ助かる手段は残ってる! そうだ、もうそれしか無いっ!! 「まいったぁ!!」 大声で恥も外聞も無く叫んだ。 カティーさん……いや、大尉殿。聞いてたら助けて下さい。俺って今とってもピンチで危険で大変です。 「それって、ギブアップするって意味?」 霧島が銃口を微動だにさせず、平板な口調で問うてくる。 「は、はいっ! そうであります三曹殿っ!」 そこでやっと、霧島は俺に向けた銃を下ろしてくれた。 「残念だったわね。もう少しだったのに。」 デコッキングレバーでハンマーを撃発位置から落とし、拳銃をホルスターに仕舞う霧島に、俺はキレて思い切り怒りをぶつけた。 「何がもう少しなんだよ! 悔しいけど、俺、全然歯が立たなかっただろ! 嬲るのもいい加減にしろよっ!!」 悔しさと情け無さに怒鳴り散らす俺に、霧島はたった一言だけ言った。 「この試験の本当の合格ラインに…よ。」 「へ?」 意味が解らず呆然とする俺の前で、霧島が懐から携帯電話を取り出した。 「試験終了14:28。相田訓練生は試験続行を放棄しました。」 ……へ? …………本当の合格ラインって、何? 「なあ、おい。説明してくれよう。その“本当の合格ライン”って何なんだ?」 「その前に、相田君、立てる?」 「あ、ああ、大丈夫……みたいだ。」 もう霧島からは欠片も殺気を感じない。 今にも殺されるって恐怖が無くなったせいか、俺の頭はようやくいつもの回転を取り戻した。 「なあ、もしかして……今までの、全部脅しだったのか?」 「ええ、そうよ。その証拠に酷い怪我するような攻撃してないでしょ?」 そこで、ようやくこの試験の意図が解った。 ……遅過ぎるけど。 「く、くぅぅぅぅ。もう少し我慢してれば良かったぁぁぁぁ!」 あんまりな落胆で力が抜けた俺は、今度こそ一歩も動けなくなった。 そんな俺を霧島は…… 「あ、F3地区まで担架一つお願い。」 レスキューを呼んで運んで貰ったんだ……。 こうして俺の英雄伝説はひとまず挫折した。 だが、次こそは、そう次こそは成功してみせる! そう、俺はお星様に誓った。 誓ったんだ、独りで……。 「これで、今夜はシンジくんを二人占めね。」 マナが、思い切り伸びをしてカティーに笑いかける。 「ああ。ピクニックをキャンセルして“お願い”を聞いた甲斐があるってものだな。」 ケンスケはもう既に別便で家に送り届けられている頃だろう。 返送は保安諜報部に任せているので、もう全く関心が無かった。 「明日以降の予定はキャンセルだな。」 ちなみに、翌日の試験の予定はパペットの操縦シミュレーターであった。 しかし、もう、よほどの状況でなければケンスケがそれに乗る事は無いだろう。 二人は、さっきまで担当していたヤツのこどなど綺麗さっぱり忘れて、今夜の為に玉の肌を磨くべくネルフ本部大浴場へと向かうのであった。 今夜のお楽しみの為に……。 福音という名の魔薬 第拾弐話 終幕 今回はインターミッションになりました。常夏化してるとはいえ、夏休みが無いってのもアレだとか思って実施したらアスカの転入とかを扱う回が必要になったもので。 ケンスケの試験は、初日は覚悟と胆力と機転を見るものでした。二日目が操縦適性の試験の予定だったんですが、初日でギブアップしたので二日目以降は無しです。……ちなみに最初に言い渡した合格条件も一応本物です。マナに攻撃を当てる手段を編み出せるような人間なら、それだけでも合格に値しますから。 なお、今回は、きのとはじめさん、峯田太郎さん、【ラグナロック】さん、闇乃棄黒夜さんに見直しへの協力や助言をいただいております。どうもありがとうございました。 |
読んだ後は是非感想を!! 貴方の一言が作者を育て、また奮起させます