Etudiant
火傷でひりひりとする口内を無視して、ゾロはとりあえずどうしてこんなことになっているのかをよく考えた。
たしか事のはじめは二、三週間前・・・・・
「ねぇ、ルフィ。さっきあんたの担任にあったんだけどね」
出会い頭にナミがそう切り出した。
にっこりと笑っている。
とてもとてもにこやかに。
うわ・・・と、部活前にたまたま一緒にいたゾロは半歩引いた。
恐ろしい魔女の笑顔だ・・・・とこっそり思ったことは口には出さずに。
当のルフィはいつもどおりの様子でナミに応じる。
「なんだ、ナミ。なんかいいことあったのか?」
彼女の笑顔をいいほうに解釈したルフィは、逆鱗に触れるどころか、深い深い泥沼に足を踏み込んだ。
おもむろに、しかし剣道部主将であるゾロがやっとのことで残像を目におさめるほどの脅威のスピードで、どこからともなく分厚い参考書を取り出して、ナミはルフィを廊下の床に沈めた。
相変わらずいいスイングだ・・・・
と密かにゾロは恐れおののく。
ナミは張り付いた笑顔はそのままで、たまらずダウンしているルフィの胸倉を無造作に掴み上げた。
目線の高さを合わされて、いまだ軽くふらふらしているルフィに、今度は背筋の凍りつくような微笑を投げかける。
『いってぇな!ナミ!!なにすんだ?!』
喉元からでかかったそんな言葉をあわててのみこんだルフィがいっそ哀れ。
しかし無情にも、氷の女王は言葉を紡ぐ。
「『この前の中間赤点だったのは、たまたま生徒会の忙しい時期と重なって勉強できなかったんだ!』」
ルフィがすかさずナミから視線をそらした。
「『勉強しようと思ったんだけど、ナミにいわれた仕事をちゃんと終わらせないとやべェからさ!ナミはこえェんだ!』」
ごまかしのつもりか、ルフィはさらに口笛なんて吹いてみる。
ゾロはどうすることもできず、己の幼なじみが己の恋人に詰め寄るさまをただただみているだけだった。
「・・・・なんてことを言ったらしいじゃない・・・・ねぇ、ルフィ?」
目線をそらし、ごまかし体勢にはいったルフィだったが、冷や汗とも脂汗ともつかないものがちらちらと浮かんでいた。
そしてついに容赦なくツララのようなナミの言葉が降り注ぐ。
「いーい度胸じゃない。
じゃあ今度の期末テスト前は生徒会休みにしてあげるわよ。
さぞ、いい点が取れるんでしょうねぇ〜・・・期待してるわよ?」
まるで吹雪がふきあれたかのように、場の気温がぐっと下がる。
ゾロは寒気を感じずにはいられなかった。
「いや、ナミ・・・あの・・・・」
「問答無用」
なんとかプレッシャーをこらえてルフィは弁解しようとしたのだが、有無を言わせぬ裁きをくだし、ナミはその場をあとにした。
「・・・・・・」
目の前で繰り広げられた壮絶な光景にしばし呆然としてしまうゾロ。
ちなみにルフィは、石になっていた。
・・・おれもお人好しだよな・・・
文武両方の奨学生であるゾロなら当然ルフィの家庭教師を十分に務めることができる。
そんなわけで部活が休みになるテスト一週間前からずっとルフィはゾロの家に来て勉強を教えてもらっている。
今日ももちろん、テーブルの上に分厚い参考書・・・あのときナミがルフィの後頭部を殴打したものだ・・・を広げて悪戦苦闘していたのだった。
・・・さっきまで。
「・・・おい、こらルフィ・・・」
コーヒーを淹れなおしてきたゾロの視線の先では、コタツに広げられた教科書ノートにつっぷして規則正しく寝息を立てるルフィがいた。
ゾロはしずかにトレイを置いて、苦笑しながらコタツにはいった。
まあ見事に熟睡している。
おそらく(ナミが怖いので)自宅でも遅くまで勉強しているのだろうから、当然寝不足なのはわかる。
さらりと前髪をかきわけてみる。
あどけない寝顔があらわになる。
「・・・ったく、襲うぞ」
額に乗せた手を戻しながら、不覚にも恋人の寝顔に鼓動を速くした自分を抑えるための照れ隠しにそんなことを呟いた。
当の本人は起きる気配はない。
カチコチカチコチ・・・・・
壁にかけた時計の音がやけに響いて耳につく。
居慣れた自分の部屋だというのにひどくおちつかない。
しかしなんとかゾロは斜め前の寝息を無視しようと努める。
と、そのとき不意にその寝息が小さく乱れ・・・
「・・・・んぅ・・・」
不規則に速いリズムを刻んでいたゾロの心臓が、すぐさま反応してびくりとはねた。
その原因はすでに再び規則正しい寝息を刻みなおしているのだが。
ゾロは持ち前の自制心で平常心を保とうとするのだが。
いちど狂ったリズムはなかなか戻らない。
子供の頃から剣道の練習の前に行ってきた精神統一。
心を湖面のように静める精神鍛錬修行。
そんなものの経験を総動員する。
が。
・・・・・・・・・・・・
無防備というものはある意味最大の誘惑である。
どれほど視界からはずそうとしても、呼吸のたびにかすかに震えるまつ毛や薄く開かれた唇に目をひかれてしまう。
どれほど聞かないようにしても、ゆったりとくりかえされる寝息や衣擦れの音が耳にはいってきてしまう。
いや、まったくどうしたものやら。
・・・・・・あー・・・・・・・・・・・
なんとなく、ゾロは自分のいれてきた熱いコーヒーをいっきに飲みほした。
ヤケドした舌の痛みが皮肉にも、5分ほどあとにルフィが目覚めるまで、ゾロの正気を保つ手助けをした。
テストまであと3日。
ゾロはもうしばらく火傷したままでいないといけないな、と半ば放心しながら予想する。
しかし、まぁいいか、と思ってしまえる自分に苦笑してしまう。
そうしてゾロはルフィに次の方程式を説明する。
当然火傷しているそぶりなど微塵も見られなかった。