ガシャン、と玄関の扉が派手な音を立てた。間もなくして乱暴に閉めたと分かる騒音に、いつの間にかソファで熟睡していた僕は文字通り飛び上がるほど驚いて目を覚ました。
 夕食後の酢昆布を僕から取り上げられて仕方なく歯磨きをした神楽ちゃんは、「マダオなんて待ってても意味ないヨ。お前もさっさと帰るヨロシ」と、一応万事屋の経営者たる人物をマダオ呼ばわりでばっさりと切り捨て、押し入れに入っていった。
 僕も本当は部屋の片付けと明日の朝食の下ごしらえを済ませたら帰るつもりだったけど、どうせお風呂なんて入らずにすぐ寝ちゃうんだから布団ぐらいは敷いておかないと…とか、神楽ちゃんしか入ってないお風呂がもったいないから僕も入ろう…とか、グダグダとやっている間に何かと時間が経ってしまっていた。
 思いつく限りをやりつくしても、あともう半時ほどしたら帰るかも…なんて考えながらソファでぼんやりしてたらこのザマだ。時計を見るともう夜中の3時近い。そんなに長く呑むお金は持ってないはずだから、もしかしたらまた誰かにたかったのかもしれない。
 玄関はそれきりしんと静まりかえって、家の中に上がってくる様子はない。三和土にでも転がってるんだとしたら、朝までそのまま寝込んでしまうかもしれない。
「いい歳して子供に心配されるってどうなんだよ、こんな大人にはなりたくないもんだ」
 そうぼやきながらも放ってはおけず、ため息をつきながら玄関へと向かった。

 玄関では、ほぼ想像通り、ブーツも脱がずにのたれている「いい大人」がいた。それは三和土じゃなく廊下だったんだけど、そんなことはたいした差じゃない。むしろ同レベルだ。
 文句の一つも、と口を開きかけて、だらりと寝そべる銀さんに僕は一瞬そのまま固まってしまう。
 いつもなら蹴り起こして自力で歩かせるところなんだけど、今日は様子が違っていた。全身がびっしょりと濡れ、顔色も青白い。もともと全体的に色素の薄い人だけど、そういうのじゃなくもっと病的な白さだった。
「ぎ、銀さん! ちょっと、大丈夫ですか?!」
 まさかまた何かに巻き込まれたのかと、力の抜けたびしょ濡れの体をなんとか抱き起こそうと試みる。見たところ、着物やシャツに破れたところもなく、怪我をしているという感じではなかった。
「起きてくださいよ!! ちょっと銀さん!! 着物もこんなに濡れて…こんなとこで寝てたら風邪引いちゃいますよ!!」
 意識のない顔をちょっときつめにべしべしと叩くと、銀さんはすぐに意識を取り戻した。
「……ってーなオイィー。せっかく『30分でバケツパフェ完食できたらタダキャンペーン!!』に今まさに挑戦するとこだったのによー。すっげうまそーだったんだぞぉー。これから天にも昇る気持ちで口に入れようかってとこでよー、何起こしてくれてんだてめー」
「こんなとこで寝てたらアンタホントに天に昇っちゃいますよ!! 昇天しちゃいますよ?!」
「あのバケツパフェ食えんならいっそ天に昇りてー…」
「バカかアンタァァァ!!!! 起きろよォォォォ!! オイ、何また寝ようとしてんだよォォ!!」
 ぼんやりと開いていた目を再び閉じて二度寝に入ろうとしていた銀さんを、慌ててガクガク揺さぶった。
「し、新ちゃん……ヤメテェェェ! 出るー、オエェェ!! 何かいろいろ出るー!」
 そのままの勢いで床へと放り投げると、銀さんは床板で後頭部を強打して何かつぶれたようなうめき声を上げた。
「…ったく、人が本気で心配したらこれですか。そのびしょ濡れの着物、さっさと着替えてくださいよ! 床が水浸しじゃないですか! この部屋ただでさえガタ来てんですから、あっという間にカビちゃいますよ、全く」
 銀さんはしかめっ面で頭をさすりながら、のっそりと起きあがった。穿いたままだったブーツをボコンボコンと三和土に脱ぎ捨て、まだパフェのことをぶつぶつ言いながら背中を丸めて風呂のほうへと向かった。

 僕はいつもの銀さんに戻ったことにホッとしながら、着替えを取りに和室へと向かった。箪笥から寝間着にしている甚平と下着を出して、タオルと一緒に風呂の入り口に置く。脱いだ着物は見あたらなかったので、中で脱いで放置してるのかもしれない。
 さすがにこの時間じゃ電車もないから泊まりになるので、自分の布団も出さなければならず、和室に取って返した。熟睡してる神楽ちゃんの邪魔にならないように、電気を消したままそっと押し入れを開けて、自分のための布団を取り出す。
 起きるまで数時間の間だけど、とりあえず睡眠時間は多いほどいい。ようやくまともに横になれると早速布団を被った。
 しかし、眠ろうと目をつぶっても、何か言いしれぬ胸のざわめきで眠気が襲ってこない。
 銀さんも無事に帰ってきたし、不安材料は特にないはずだけど……と考えて、一つだけ残っている些細な事柄が気になり、僕は再び起きあがる羽目に陥った。
 寝る前に脱いだ着物を出しておくように銀さんに言っておくだけだけど、そんなことは本当にたいしたことじゃなくて、それなのに何故かどうしてもそれを伝えておかないといけないような気になっていた。
 まるで何かに呼ばれるように再び風呂の前へ戻ったところで、ふと違和感を覚えた。
 銀さんが入ったはずの風呂からは、何の音も聞こえてこない。確かに電気もついていて、中にいるなずなのに。
 胸のざわつきが大きくなる。さっき玄関先で見た銀さんの青白い……まるで死人のような顔色が脳裏をちらついた。
「銀さん…? 入ってますよね?」
 返事もなく静まりかえった風呂に、僕は不安をかき立てられ、そっと扉を開けた。
「……銀さん? 大丈夫ですか?」
 中を覗くと、銀さんは洗い場で服もそのままに、ぼんやりと俯いて立っていた。僕が見に来たのすら分かっているのかいないのか、こちらに顔を向けることもなく、ただじっと俯いて突っ立っているだけだった。
「……ぎ、銀、さん? あの…どうかしたん…」
 声をかけて、僕はこの濡れ鼠のままの銀さんにとって致命的なものの存在にようやく気がついた。
 外から聞こえる音に注意を向けると、ほんの僅かだけど、屋根を叩く細かい音が聞こえる。決定的だ。
 今までその答えに行き着かなかった自分を悔いて、でも銀さんをこのままにするわけにもいかなくて、仕方なく自分も服を脱いだ。
 風呂の中に入って湯の温度を確かめると、もうかなりぬるくなっていた。暖め直しながら、棒立ちの銀さんを覗き込んでそっと様子を伺う。
「……銀さん。このままじゃ寒いよ? お風呂、入らないと」
 近づくと少し酒の匂いはしたけど、冷え切ったままにはできない。僕は銀さんの着物の帯に手をかけた。一瞬、ぴくりと頭が動いたけど、自分でやろうという気はないらしい。
 僕より背の高い銀さんの服を脱がせるのは難儀した。ただでさえ濡れた服は脱がせにくく、辛うじて声をかけたら協力してくれるものの、基本的に棒立ちだ。僕は何で大の大人にこんなことまでやってあげなきゃいけないんだと内心腹を立てながら、それでもせっせと手は動かした。
 そのころにはもう湯はすっかり熱いくらいになっていて、終始無言の銀さんを風呂椅子に座らせて全身を洗ってやった。さらに、一人で湯船に浸けておくのは危険なので、一緒に入りもした。自分が先に風呂に入っておいて本当によかった。こんな状態で自分を洗うとか絶対無理だから。
 いつも何を考えているのか分からないぼんやりとした表情の銀さんだけど、それは無表情とは少し違う。長く見ていれば、顔のパーツそれぞれが微妙にちゃんと表情を作り出すことが分かってくる。
 それが、今は全然違う。僕らの前ではほとんど見せることがない、何かほんの少しのきっかけでそのまま消えてなくなってしまいそうな、生きる気力そのものが失われたような、そんな危険な無表情。だから僕は、そんな銀さんを放っておくなんてとてもできない。それは助けたいとかそんな大層なことじゃなくて、触れていないといなくなってしまいそうで怖いんだ。目を離すと、今にもどこかへ行ってしまって、そのまま帰ってこないんじゃないか……そんな恐怖と不安が襲ってきて、関わらずにはいられなくなる。
 そんな銀さんも、湯に浸かると気分も少しずつほぐれてきたのか、時々オッサンのようにアー、とかウー、とか、気持ちよさげな声を洩らしだした。
 なんか、でっかい動物と一緒に風呂に入ってるみたいだ。不意にそんなことを思う。
 未だ読み取れない表情で、銀さんは僕をぼんやりと見つめる。でもそれは、見られてるのか、何か別のことを考えてるだけなのかは分からない。
 その意味をいろいろ考えるのは無意味で、僕自身、考えたくなかった。
 いっそ本当にただのでかい動物だったらいい。そしたらこれほど思い悩むことも、それを心の奥底にしまい込む努力を必死にすることもない。
「あー……新八ィー…」
「……進化したよ」
 動物が喋ったよ。進化の現場に居合わせちゃったよ。
「何言ってんのオマエ」
「…あー、いや、何でもないです。独り言です、独り言」
「……ふーん」
 会話するくらいには回復してきたみたいだ。よかった。
 玄関先では元気そうにしてたのに、僕に気を遣わせまいと無理でもしてたんだろうか。そんなことをしても結局はムダだってことに、この人は気がついていないのかな。
 こんな状態の銀さんに関わるのは初めてじゃないし、今回は確かに気づくのが遅れたけど、外の状況さえ分かってれば予想はできたんだ。

 銀さんは、雨が嫌いのようだ。
 面と向かって訊いたわけじゃない。そういう、人の根っこの部分に立ち入ることはデリカシーに欠けた行為だと思うし、それが抱えているものが多いこの万事屋の人間になら尚のことだった。銀さん然り、神楽ちゃん然り。
 だからこれは僕の憶測でしかないけど、銀さんは昔、攘夷戦争に関わっていたと聞いているし、その辺りで何か雨の日に辛いことが起こったんじゃないだろうか。心の傷は、大丈夫だと思っていても案外引きずりそうだしね。僕らが産まれた今に比べれば、銀さんが育った時代は過酷だったんじゃないかとも思う。
 普段、そんなことはおくびにも出さない銀さんが、こんなしとしとと降る雨の日には、少し様子がおかしくなる。普段以上にぼんやりとして、物思いに耽ったように黙り込む。
 そんな様子を神楽ちゃんは猫みたいだと言っていたけど、確かにでっかい猫そのものだ。ぼんやりと座って、時々何かを思い出すみたいに窓の外を眺めている。
 僕も神楽ちゃんも、早く銀さんにいつもの調子に戻ってほしくて、初めのころは何かとあれこれちょっかいをかけてたんだけど、そのどれもがムダだった。こういう気持ちの問題は、本人が切り替えようと思わない限りは多分ずっと変わらないんだ。
 それにしても、今晩はまた状況が酷い。いくら何でも神楽ちゃんには見せられない。こんな全身が絶望の塊みたいな銀さんは、彼女にとってけっこうなショックになると思う。かく言う僕も、これを初めて見たときにはパニックを起こしてお登勢さんを呼びに行ったくらい衝撃を受けたのだから。
 お登勢さんは銀さんが雨の日に「こう」なることを知っていた。何度か店に転がり込んで世話になったこともあるようなこともぼやいていた。対処の仕方を教えてもらい、去り際に「まぁ、アンタも面倒だろうが一応コレも上司だ。仕事だと思って気ィつけてやんな」なんて、遠回しにまるで母親みたいなことを告げられてしまった以上、何か責任感みたいなものも感じてしまっている。

「僕、のぼせそうだから先に出ますね。お酒呑んでるんだから長湯しちゃだめですよ」
 意識がしっかりしてきた以上、僕がここにいるのは逆に銀さんにはよくないだろうと湯船から立ち上がると、次いで銀さんも洗い場へと上がってきた。
「……あ、あれ? 出るんですか? あんなに冷えてたし、もう少し暖まってからでも…」
 この場から立ち去りたい一心だった僕は少し動揺して、背後に立つ銀さんを振り返った。
「…………新八ぃー…」
「な、何ですか?」
「…………」
 銀さんは僕の名前だけを呼んで、じっと見下ろしていた。いつもの表情の中に、危なげな色が見え隠れしている。そんなことまで分かるようになってしまったことに軽く絶望を覚えて、知らずと深いため息をもらしていた。
「…ちょっと待っててくださいね」
 僕は風呂の扉を開けて、銀さんのために置いておいたタオルを取った。それを頭にかけようとするとゆっくりと天パーを差し出してきた。優しく拭いてあげるなんてことはせず、力任せに頭を揺さぶる。次いで、ご丁寧にも体全体もざっと拭いてあげた。
 繰り返すようだけど、何で僕がこの30前にもなろうかってオッサンの世話を、まるで幼児にするみたいにやんなきゃいけないんだろうって、本当に思う。切実だ。
 だけど多分、それは今の銀さんにはすごく必要なことで、こうしないときっと、この人の心は荒んでいく一方なんだろう。そして今、それをしてあげられるのは僕しかいない。
 同じタオルで自分も拭いて、脱ぎ捨てた服の処理も終えると、洗面所では銀さんの着替えを手伝い、和室へと連れて行った。
 銀さんを布団へ寝かせ、自分も隣の布団へ入ろうと掛け布団を直していると、不意に腰をがっしりと掴まれて引き寄せられた。
「わ!! うわっ!! わっ、な、なんっ!!」
 ようやく終わったと気が緩んでいたところだったんで、僕は大いに慌てた。今まで緩慢な動きしかしていなかった銀さんが、僕を力任せに引き寄せるなんてことをするとは思ってもみなかったし、僕自身の勝手な動揺も相まって、自分でもびっくりするくらいの声を張り上げてしまっていた。
 背後から僕の腰を抱き込んでしまった銀さんは、その腕にぐっと力を込めたまま離そうとはしなかった。腕が緩んでくるのを期待していくらか待ってみたけど、その力は変わることなく、僕はまたため息をつかざるをえなくなった。
「……新八ぃー…」
 そうやってまた名前だけを呼んで、それきり黙ってしまう。
 いつものことだけど、何かちょっと胸がちくちくする。
 いつまで経っても続く沈黙に耐えかねて、僕はそのちくちく任せに、今日の行動パターンを訊いてみることにした。
「………屯所には、行ったんですか?」
 問いかけに、銀さんの肩がぴくりと動いた。
「いなかったんですか…?」
 誰、って、そんなことは言わなくても分かってる。
「……いなかった。昼間、抗争があったって……けっこうな怪我して、病院にいるって言われた」
 なるほど、原因はそれだったのだ。僕はその後の銀さんの行動が手に取るように分かった。
「病院行ったら面会謝絶で…」
「……ん」
「粘ったけど結局会えず終いで、外に出たら雨が降り出して…」
「…ウン」
「いつものおでん屋でちょっと呑んで……それから雨の中ふらついてたわけですね」
「………すげーなおまえ」
 こんなことで感心されてもちっとも嬉しくない。むしろ全然分からないほうがどれほどいいか…。何か、本当にもう、辛い。
 多分銀さん自身も、こんな日にそんな気分でいつまでもふらついてたらダメなんだってことは分かってるんだと思う。だけど、そうせずにはいられなかったんだ。
 分かってしまうことに、幸せどころか、絶望しか感じない。
「……目も覚めてねぇって言うし…もう、あの人が……戻ってこないんじゃないかって、そんなヤワな人じゃねぇことくらい、分かって…んだけどなァ……」
 絞り出すような声が胸に響いて、鷲づかみにされたみたいにぎゅっと痛む。
 僕は少し体の向きを変えて、銀さんのふんわりした髪にそっと手を置いた。まだしっとりと湿り気を帯びているそれを、ゆっくりと撫でた。
「そうですよ。きっと明日には目が覚めて退院するとか言って大騒ぎしてますよ。あの人が打たれ強いのくらい、銀さんだって知ってるじゃないですか。姉上にあれだけの仕打ちを受けてもまだ五体満足でピンピンしてるんですから」
「……おまえそれ…なんかヒデェよ」
 でも本当に、姉上の仕打ちは目を覆いたくなるほどに酷いんだから、あの人の生命力はハンパない。だから本当に大丈夫だ。
 そうでないと、こっちが困る。
「だから、大丈夫ですよ。今日はもう休みましょう」
 髪を指で梳くようにして何度も撫でつけていると、銀さんの腕の力が少し緩んだような気がした。
「……新八ぃー…」
 気怠げに呼ばれる。だけどそれは返事や会話を求めたものではないことも知っていて、僕はただ、銀さんの髪を飽きることなく梳き続けた。
 回された腕がすっかり緩み、息づかいが穏やかな呼吸になっても、僕はそれをやめることはできなかった。

 いつの間にか頬を伝っていた涙を、決して知られたくはなかったけれど。


-END-


 

 

 

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